無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい 作:エテンジオール
お兄さんに魚の捌き方を教えてもらう約束をしていた今日ですが、朝の早いうちから準備するように言われていました。
魚の処理に時間をかける必要があって早くから取り組むのかと思って内心怖くなっていると、早く行くのはついでに水族館を見るためで、わたしが見たくなければその分の時間は大幅カット、お昼出発でも間に合うとのことです。
当然、わたしはお兄さんが連れていってくれるのであればどこにでもついて行きますし、水族館ともなればお願いしてでも着いていきたいくらいです。
是非にと朝早い時間からの水族館をお願いして、それに合わせて当日のお昼ご飯が要らなくなるとのことなので、それまでのメニューを考えます。とはいえ、減らすだけだからそれほどむずかいしところではありません。当日のお昼の栄養バランスを考えた上で、その日の夜や翌日の朝昼で釣り合いを取らせればいいだけの話です。
水族館で生きている魚たちの姿を楽しんだ直後に、少し前まで生きていた魚たちを捌いて食べるという流れは少し気が引けますが、これまでわたしが食べていた食べ物たちも、元々は生きていたもの。その末路を食べていたのだと考えれば、今更そこに躊躇していいはずもありません。そこに躊躇いを覚えてしまったら、わたしはこれまで無知をいいことに非道を働いていたことになります。
それは、いやです。間違ったことをしていたと認めるのは辛いですし、それを認めてしまえば、わたしは今後、動物を食べる度に、お兄さんに動物を食べてもらう度に後悔することになるでしょう。
それは、良くないです。お兄さんに食べてもらうご飯を作る、幸せな時間にそんなものはふさわしくないです。楽しんで欲しい時に、辛いことを考えるのは良くないです。だから、わたしはどんな状況であっても、魚を美味しく食べれなくてはなりません。そうでなくてはいけません。
そう、覚悟を決めて、お兄さんに連れて行ってもらって、初めての水族館です。わたしの一番好きだった図鑑が“美しい海の生き物図鑑”であったことから自明なように、わたしは色々な生き物の中でも海の生き物が特に大好きです。その展示場という前提から、わたしの興奮は約束されたようなもので、展示されている一番最初の魚を見た時点で、わたしのテンションは振り切ります。
そのまま展示されている魚たちを眺めます。どの魚もこの魚も、わたしにとっては魅力的で、素晴らしい環境の元で育っています。
当然、自然のままであればもっと普通に育っていて、ここでのものとはまた異なる生育を遂げたであろうとこは理解していますが、偉い学者の先生たちの意見を聞きながら育てての結論が、現状これである以上、今想定しうるものの中ではこれがスタンダードでしょう。
思わず声を漏らしたりしながら、時が過ぎます。青くて、紫色なのはこの水族館の、あるいは他のものも含めた水族館全体としてのスタンダードなのでしょうか。そうであったにせよ、そうでなかったにせよ、これは綺麗なもので、そうあるのが当然と思わせてくれます。
知っている魚に、知らない魚。かわいいものに少し怖い顔のもの。どれも面白くて、楽しいです。どれもこれももっとじっくり、それこそ日が暮れるまで眺めたいものですが、そんなことをしてしまえば他のものが見れなくなってしまいますし、元々の目的の魚だって買えません。程々で切り上げて、次へ次へと進みます。
そうして着いたのは、触れ合いコーナー。危険がなくて、比較的ストレスに強い魚たちが集められた水槽で、実際に手で触ることができるらしいです。
注意書きに従ってまず手を洗い、どの子から触っていこうか考えます。亀さんは噛み付くことがあるから、頭の近くは触っちゃいけないらしいです。
最初は大人しそうな子と決めて、見て回るとヒトデがいました。ナマコとも迷いましたが、まずはこの子にしましょう。
掴んだり、摘んだりしてしまったらこの子が可哀想ですから、ひとまずは指先で触れるだけ。そのまますっと滑らせて、表皮の質感を確かめます。もっとツルツルというか、ヌルヌルしてそうなイメージがありましたが、思いのほかザラザラです。
つっついて反発力なんかを確かめますが、思ったより硬いですね。軟体動物というのだからもっと柔らかいものばかりだと思っていましたが、そうとも限らないみたいです。不思議な気持ちになりながら触って、満足したら次の子を触ります。
そうしているうちに、みんな触り終わってしまいました。残っているのは、小さな魚が沢山入った水槽、ドクターフィッシュの水槽です。なんでも、手の角質を食べてくれるのだとか。テレビで顔の角質を食べてもらっているのは見たことがありますが、実際に見るのは当然初めてです。
前の人が楽しそうに手を入れているのを見て、不意にお兄さんが今日、ずっと着いてきてくれたことを思い出します。わたしにとってはとても新鮮だった水族館ですが、お兄さんはちゃんと楽しめたのでしょうか。私だけが楽しんでいたのであれば、それは申し訳ないです。
そして、わたしに手を引かれて着いてきてくれるだけだったお兄さんが、ちゃんと楽しめたかと言うと、少し微妙でしょう。なら最後にせめて、一度くらいは楽しいを共有したいです。同じものを感じて、楽しんで、同じ思い出を作りたいです。
「お兄さん……その、良ければ一緒に手を入れませんか?」
だから、ひとつおねだりをしてみます。お兄さんが魚に触るのが嫌いだったり、トラウマがあるなんてことがなければ、きっと一緒にしてくれるでしょう。前の人たちもキャーキャーと楽しそうだったので、これならお兄さんも楽しんでくれるかもしれません。
もちろんと軽く返事をして、お兄さんは手を洗ってきてくれます。せーので手を入れると、小さな魚が一気に集まってきました。痛くはありませんが、ずっと手を入れておきたくない、変な感じがします。
変な感じが背筋から昇ってきて、一気に我慢できなくなってしまったわたしは、水槽から手を出しました。なんだかとってもむじゅむじゅします。
「ムズムズじゃなくて?」
わたしの表現が気になったらしいお兄さんが、水槽から出した手の水を切りながら聞いてきます。ムズムズではなく、むじゅむじゅです。不思議そうに首を傾げるお兄さんと手を洗って、次のものを見に行こうとしたら、出口でした。
「こんな感じの場所だけど、まだ見足りないものとかはあるかな?時間も少し早いし、あるならそれを見に行こう」
なかったらちょっと早めのお昼ご飯にしようとお兄さんは言いましたが、まだまだ軽く見ただけですので、見ていいのならもっとみたいです。とはいえ、お昼の時間までには終わりにしなくてはならないので、見たいものの中でも特に見たいものを選びます。
やはり一番は、クラゲでしょう。他のものも、どれも素敵でしたが、これはもうわたしの趣味です。お兄さんに力説して、お兄さんの手を引いて向かいます。
「すみれちゃんがこんなに張り切るなんて、よっぽど気に入ったんだね」
面白そうに微笑むお兄さんの左手を握ります。光を受けたクラゲが、ぷかぷかきらきらしていて、とっても綺麗です。
こんなふうにライトアップされていないクラゲの写真しか見た事がありませんでしたが、ライトアップされてるのも素敵です。のんびり泳ぐ姿はまるで宝石みたいで、目が離せなくなってしまいます。
なびく触手が綺麗です。毒があるから触ってはいけないとわかっていますが、指でクルクル巻取りたくなります。
「お兄さん、お願いがあるんです」
神秘的で、幻想的な空間です。だからでしょうか、本当は言うつもりのなかった言葉が、溢れ出てしまいました。
「わたし、お兄さんの事が大好きです。お兄さんのことを誰よりも大切に思っていますし、お兄さんのためならなんだって出来ると思っています」
一度出てしまえば、もう引っ込みはつきません。恥ずかしいことや、言わなくてもいいことまで口から出てきてしまいます。自分でも意識していなかった願望が、口から溢れます。
「それなのに、わたしはこんなに大切に思っているのに、お兄さんがわたしのことを、すみれちゃんって呼ぶのが、悲しいんです。切ないんです。わたしの、いちばん大切な人には、わたしのことを呼び捨てで呼んで欲しいんです」
わたしにとってかつて、いちばん大切だったのはお母さんでした。けれど、今のわたしにとってそれはお兄さんです。
もっと普通に、呼び捨てで呼んで欲しいと言えば、お兄さんもそれほど気にする事なく呼んでくれたでしょう。完全に言う必要の無い気持ちで、けれども言いたかった言葉です。
「すみれ」
たった一言で、心が軽くなりました。ちょっと恥ずかしかったのが、認められたようで温かくなりました。お兄さんが、本当はこれまでにも呼ぼうと思ったことがあったと聞いて、嬉しくなります。それと同時に、もっと早くお願いすればよかったと、小さく後悔します。
「すみれ、僕がすみれのことをすみれと呼ぶのなら、すみれが僕のことをお兄さんって呼び続けるのもどうかとおもうんだ」
たった三文字の言葉。わたしの名前です。わたしの名前を、お兄さんが何度も何度も繰り返し口にします。耳が幸せになって、頭がふわふわです。
ふわふわのままお兄さんの言葉の続きを聞いて、そのまま口にします。
「えっと、……その……り、りん、さん……?」
そう呼んだ途端、体の内側から、心の内側から、すっごく熱いものが込み上げてきました。心臓がバクバク鳴って、顔が真っ赤になるのを感じます。胸がキュンとして、わけがわからなくなります。
「…………っ!はずかしいです!なんか、すっごく恥ずかしいです!」
お兄さんの、燐さんの顔を見るのが、恥ずかしいです。つないだ手が、離せなくなります。こんなわたしを見られたくなくて、でもずっとわたしだけを見ていてほしくて、頭の中がぐちゃぐちゃです。
ただ名前を呼んだだけなのに、だめです。燐さんの名前を呼んでしまうと、意識してしまうと、だめです。お兄さんをお兄さんとして、家族として見れなくなってしまいます。
そんなのはいけません。だから、お兄さんをお兄さんと呼んで、意識をそちらに戻します。芽生えかけたよくわからない気持ちは、お兄さんの名前と一緒にしまいこんでしまいます。
お兄さんから顔を背けて、一歩前に出て見られないようにして、クラゲの水槽を見ます。さっきまでとは違って、全然集中できません。お兄さんの手の温かさと、たぶんわたしの汗のせいで湿っている感覚がまた恥ずかしくて、でも離したくはありません。
一度、自分の中でしっかりと意識の確認をしてみます。お兄さんは、大切な人です。わたしの家族で、大好きな人で、全部です。生き甲斐です。
そのことをしっかり自分に言い聞かせて、先程みたいに取り乱すことがないように、いつもの
だいぶ長いこと時間をかけてしまったので、もう十分見たとお兄さんに伝えて、水族館を出ます。本当はもっと見ていたかったのですが、あまり時間をかけすぎて晩御飯が遅れても大変です。また機会があれば連れてきてもらおうと決めて、網焼きのお店に入ります。
メニューはよくわからないので、お兄さんにおまかせです。お兄さんが美味しいと思うものを、美味しいと思う食べ方を教えてもらえれば、わたしはよりお兄さんに喜んでもらえるようになります。
わたしが調理できないのは悔しいところですが、ここで覚えておけば次に生かせるのでしかたなしです。焼き色や焼き時間、火の強さなんかを可能な限り覚えるため、お兄さんが焼いていく姿をじっくり観察して、ところどころで質問なんかも挟んでみます。
網焼きのためのトングの使い方までしっかり覚えたので、これでもう次からは完璧でしょう。お兄さんが焼いてくれた海老の殻を剥きながら、次回への抱負を固めて、プリップリの身にかぶりつきます。とっても美味しいです。
満腹になるまで味わったら、一階のお買い物コーナーでこれから捌く魚を選びます。2階で見た魚はさすがに売られておらず、一安心です。お兄さんにちょっと意地悪なクイズを出されたりしましたが、わたしがお勉強したことはちゃんとアピールできたので、良しとしましょう。
「今日はおまけの水族館だったから小さかったけど、すみれが気に入ったようなら次はちゃんとした水族館に行ってみようか」
帰りの車の中で、お兄さんはそんなことを言ってくれました。ここでもまだ見足りないのに、もっと大きいとこなんて、一日かかってしまいます。
「うん。その上で、一日お出かけしないかってお誘いなんだけど、嫌だったかな?」
予定とかもあるだろうからすぐにじゃないし、時間も空いちゃうと思うけどと言うお兄さんに、是非連れて行ってもらいたいと伝えます。
お兄さんは、わたしの大好きな人は、いつもわたしの期待の一歩先を行きます。
余談
没展開として、初めて会った翌日に、勇気をだして距離を詰めようとして、燐さんって呼んでみたすみれちゃんと、まだそんなに仲良くないよね?って返して心ポキポキする燐くんがありましたが、すみれちゃんが押し入れルートに入りそうだったのでなくなりました(╹◡╹)