無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい 作:エテンジオール
「……ぇ?」
つい数秒前まで、僕が自身を恥じるくらいに強い意志を見せていたすみれの口から、そんな素っ頓狂な声が漏れる。
「うそ、ですよね。ちょっとわらえないだけの、じょうだん、ですよね?」
信じられない、信じたくないといったように、すみれは首を左右に振る。僕の服を掴んで、イヤイヤと示すその姿に、先程までの強さはない。
ごめんねともう一度言って、嘘でも冗談でもないことを伝える。
出張に行くこと。以前の短いものとは違って、2ヶ月という長さであること。外国であるため、パスポートのないすみれを連れていくことは出来ないこと。これまでどこにも存在していないことになっているすみれでは、場合によっては無戸籍でも取れるパスポートを取れないこと。
そこまで伝えた頃には、既にすみれの目には涙があった。声を上げて泣き叫ぶのではなく、ただただ零れるその涙。すぐに拭ってあげたいが、今の僕にはその資格すらない。
この家の契約者が会社になっていること。そのため、会社の対応次第では今月いっぱいでこの家から立ち退かなければならないこと。仮にそこまでいかなかったとしても、おそらく電気ガス水道は止められること。
ここまで伝えると、すみれは力無く崩れ落ちた。僕らの生活が崩れることに、その基点がなくなってしまうことに、耐えきれなかったのだろう。
いや、僕はまだいいのだ。二ヶ月間外国に行くことになったとはいえ、その間の生活は保証されているし、どうなったにしろ職と生活拠点を失うことはない。問題は、すみれだ。
生活拠点がなくなって、保護者がいなくなって、この先頼ることが出来そうなのは溝櫛だけ。何かあったら連絡するようにとお母さんからメモを渡されてはいるらしいが、これまでの経緯を考えれば、僕としては信用出来ない。
「とりあえず、僕が戻ってくるまでは溝櫛の家にいられるように相談してみる。もしそれで難しそうなら、その時は上司に全部事情を話して、何とか生活を確保できるようにしてみるよ」
一度は本気で引き取ろうとしていた溝櫛のことだからきっと大丈夫だろうし、ダメだったとしても上司の青柳であれば預かってくれるだろう。あの人は去年子供が自立して、奥さんと2人だけの生活が寂しいと漏らしていた。人柄的にも情の厚さも、信頼出来る。
そしてもし、どちらもダメであれば、僕が自分で部屋を借りて、その分の生活費を全て負担すればいいだけの話だ。あまり貯蓄が潤沢ではないとはいえ、それができる程度には溜まっている。
最初からこの選択を選べないのは、今後のことを考えてのこととはいえすみれの家族としては情けない限りだが、大事な家族を一人で二ヶ月も放っておくのが心配だという側面もある。
そのことをすみれに話して、信じてもらえないのは不本意だけど心配してくれるのは嬉しいですと納得をしてもらって、まずは溝櫛に頼ってみると決めたら、ひとまずはご飯だ。
せっかくすみれが作ってくれたものが冷めてしまうのも良くないし、溝櫛から返信が来るまでは次の方向性も決められない。あまり味に集中できないまま、ちょっと居心地の悪い空気のままご飯の時間が進んで、終わる。
いつもなら食休みを挟むはずなのに、すみれは洗い物のために席を立ってしまった。きっと考えたいことや、僕と顔を合わせたくない理由があるのだろう。辛く思いもするが、その気持ちもわかるため、大人しくシャワーを浴びてきて、あがって確認すると溝櫛からの返信が届いていた。
『要約すると、先輩が2ヶ月海外に行っている間、すみれちゃんがうちの子になるってことですよね?』
『安心してください、私が責任をもって、しっかりとお世話させてもらいますから♪』
『ただ、しっかりお世話しすぎちゃって、元のまま先輩のところに返せなかったらごめんなさいっ♪』
おそらくおふざけ半分の文面だが、答えの内容としてはYESだ。以前一度断られているはずなのに、まだ僕の家族を狙っていることに関しては若干の危機感と、こいつじゃなくて上司に頼んだ方が良くないか?という思いが湧いてしまうが、僕のすみれが誑かされて戻ってこなくなるなんてことはないだろう。
すみれに一度文面を見せることでOKをもらったと教えてから、溝櫛に返信する。内容は突然なのにありがとうと、一度振られたくせに見苦しいぞというもの。プクーッと脹れたお餅が怒っているスタンプが返ってくる。
やり取りはそこで終わって、わざわざおしゃべりをする気分にもなれず、この日は就寝。
翌日は上司に、僕がいない間の家の扱いなんかを確認する。わざわざ一度解約して契約し直す手間と敷金礼金、荷物の移動などのことを考えて、契約は残しておくとのこと。これですみれに忘れ物があった時には取りに戻ることも出来る。
ついでにその流れで行きと帰りの飛行機チケットを渡され、軽い説明を受ける。帰国日時は、飛行機の問題以外で遅れることは無いから安心してくれと笑われた。なんでも、僕が定日までに帰って来れないようなトラブルがあったら、向こうの会社が最悪畳むことになるくらいには厳しい状況らしい。
プレッシャーになるから聞きたくなかったなあと思いながら戻って溝櫛に捕まり、昨日メッセージでは話しきれなかったちゃんとした説明をする。
昨日の意趣返しか、すみれちゃんのことは私に任せてくださいねっ、なんて満面の笑みで言われて、この日は他に何事もなく帰宅。
「二ヶ月もお兄さんと離れることになるので、その分しばらくはお兄さん成分を貯めておきます!」
そんなことを言いながら布団に潜り込んでするすみれを抑えることが出来ずに同衾して、自分を紳士だと証明する。
帰宅後のそんなやり取りと、会社での引き継ぎ作業を繰り返す数日。
「お兄さん、ぜったい、ぜったい帰ってきてくださいね。わたし、まってますから。ちゃんと電話もしますから、無視しちゃやですよ」
玄関の前で、僕にお弁当を渡すことを渋って抱きついたすみれが、そんなことを言う。ちゃんと帰ってくるし、なんならいつも通り仕事が終わったら連絡することも約束して、すみれが満足して、離れてくれるのを待つ。
「約束、ですよ。もうお兄さんは一回破ったんだから、次破ったら許しませんからね」
約束だと、指を絡める。こんなことがもうないように、僕が戻ってきたら、すみれの戸籍を取る準備をしよう。
約束をして、最後にちゃんと帰れるおまじないをしてもらって、寂しそうにしながらも照れるすみれに見送られて僕は出発した。
その後会社の人にも空港で見送られ、到着後にも問題なく過ごし、働くことが出来た。毎日すみれとメッセージや通話をして、お互いの近況報告もできていた。
すみれと連絡がつかなくなる、半月後までは。