無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい 作:エテンジオール
瑠璃華さんのすることに逆らわずに、日々を過ごします。縛られるままに縛られ、お兄さんがわたしに買ってくれた携帯が目の前で壊されるのを見て、わたしは自分が普通に助かるのを諦めました。少なくとも、これまでのようにお兄さんの元で幸せに過ごすことはできないでしょう。
「酷いって、これからもっと酷いことをするのにこんなものでそんなに言われたら困っちゃいますよ」
連絡を取られると面倒だからと言われて壊された携帯を見て、悲鳴をあげると瑠璃華さんはにっこり笑います。連絡を取れなくするだけなら電源を抜いたりすれば良かったはずなのに、わざわざ壊すのは酷いと文句を言ったら、ほっぺたをギュッとつねり上げられながら言われます。
「ああ、すみれちゃんにとってこの携帯はただの携帯じゃなくて、先輩がすみれちゃんのために買ってくれた大切な携帯でしたね。すみれちゃんの幸せのために、安全のために、便利のために買ってくれた携帯。あははっ、壊れちゃいましたねぇ」
ただ壊すだけに留まらず、瑠璃華さんは念入りに壊します。わたしの見ている目の前でデータを削除し、バックアップを消します。
お兄さんに買ってもらってからの、全部の思い出が消されました。壊されてしまいました。毎日撮っていた晩御飯の写真も、水族館で撮った写真も、こっそり撮り溜めていたお兄さんの寝顔も、全部、消えてしまいました。奪われてしまいました。
そのうえで、わたしの目の前に一つのメモリーカードが見せられます。瑠璃華さんが言うには、わたしの携帯に入っていたメモリです。データを消されても、バックアップを消されても、先に抜かれていたのならこのメモリにも残っているはず。つまり、わたしの思い出が唯一残っている媒体です。
「ねぇ、すみれちゃん。今からすみれちゃんに、いーっぱい痛いことをします。もしすみれちゃんが、私が飽きるまで我慢できたら、これは壊さないで渡してあげます」
スタンガンを、バチバチされます。体に電流が、痛みが叩き込まれます。
我慢して、我慢しようとして、できませんでした。これまで痛みから遠ざけられてきたわたしには、瑠璃華さんから与えられるそれを我慢することができませんでした。
「すみれちゃん、それを壊せば、すぐに楽になれるんですよ。たかだか電子データに過ぎないそれを壊すだけで、すみれちゃんは痛い思いから開放されるんです」
メモリとペンチを渡されて、すぐそこにある救いをだしに、幸せな思い出を壊すことを求められました。少しでも失いたくない、大好きなお兄さんとの思い出を守ろうと思っていたのに、気がつくとわたしは自分の意思でメモリを壊していました。
「すみれちゃん、すみれちゃんが先輩から貰ってきたものと、すみれちゃん自身、どちらの方が大切ですか?」
そう聞かれて突如始まったのは、一日の間痛いのが続くか、残りの一日痛いのがない代わりにお兄さんからの贈り物を自分で壊すかを選ぶ日々です。
お兄さんから貰ったものはどれもわたしにとって宝物なのに、かけがえのないもののはずなのに、わたしはほとんどを壊してしまいました。わたしの心が、意思が強ければ我慢できたはずなのに、お兄さんから貰ったほとんどを、わたしが自分で壊しました。
「すみれちゃぁん、ダメじゃないですかぁ、逃げようとしちゃぁ」
瑠璃華さんが目を離している隙に、外に逃げようとしました。つけられていた手錠を外して、隠されていたわたしの服を回収して、お兄さんの家の鍵を見つけて、残っている大切なもの、お兄さんから貰ったものの残りを探している間に、帰ってこないはずの瑠璃華さんが帰ってきました。お兄さんから貰ったものを諦めていれば十分に逃げきれたはずなのに、一部でも壊してしまったから、残りは全部取り戻したくて、失敗してしまいました。
逃げようとしたわたしに怒った瑠璃華さんが、これまでになかったほど直接的な、肉体的な暴力を振るいます。動きがまともにとれないわたしに対して、過剰すぎるほどの攻撃。もう逆らえなくするためだろうそれは、わたしの左手、その肘より先から、一切の感覚を奪いました。
「ねぇすみれちゃん、私もこんなことしたくなかったんですよ。ちゃんと、無事に帰してあげるつもりだったんですよ。逃げようとしなければ、こんなことにはならなかったんです」
だから、これはすみれちゃんが悪いんですよと、躾なんですよと瑠璃華さんは言いました。わたしの頭を、やさしくやさしく撫でながら、わたしの心を折りました。
それから先のことは、ほとんど覚えていません。ただひたすら従順に、瑠璃華さんに求められるままにふるまっていました。抵抗しなければ、ぜんぶ受け入れれば、お兄さんのもとに帰れるんです。それだけを支えにしながら、もうきっと帰れないのだと諦めながら、日々を過ごします。
だから、それは突然でした。
瑠璃華さんが私物をダンボールに仕舞い始めて、数日経つと手錠が外されました。
「すみれちゃん、これまで楽しませてくれてありがとうございました。ちょうど今日先輩が帰ってくるので、私はここらで蒸発させてもらいます」
あんなに素敵だった部屋は飾り気がなくなって、ダンボールと大きい家具しかありません。この家から引っ越すのでしょう。そうなると、次はどこに連れていかれるのでしょうか。
「あれ、喜ばないんですか?……ああ。頭が悪くなっちゃったんですね。すみれちゃん、私はいなくなるから、おうちに帰っていいよと言っているんですよ」
少し間を置いて、瑠璃華さんの言葉の意味を理解します。何も考えないようにしていた頭を動かして、ようやく解放されることを、お兄さんに会えることを理解します。
つらい時間は、終わったのです。もう痛い思いも、苦しい思いもしなくていいんです。その安堵で、力が抜けて、立ち上がれなくなってしまいます。
「なーんて言われたらうれしいですよね。安心してください、嘘ですから。すみれちゃんはちゃんと連れてってあげま……あははっ、なんて顔してるんですか、ちょっとした冗談だったのに、そんなにかわいい顔されたら本当に連れていきたくなるじゃないですか」
本当に帰してあげますから安心してくださいよと、わたしを弄ぶ瑠璃華さん。瑠璃華さんが笑うだけのことはあって、わたしもだいぶひどい顔をしていた自覚はあります。だけど、それ以上に瑠璃華さんの言葉が嘘でよかったという安心がありました。
理解したなら、早く身の回りの支度を済ませて帰る準備をしてくださいという瑠璃華さんと、支度できるほどの荷物がないので、なくなってしまったので、準備できるものがないわたし。残っているものは瑠璃華さんが買ってくれたものが多少と、お兄さんが買ってくれた布団くらいです。
お兄さんに貰ったものも、お兄さんに借りたものも、全部わたしが壊してしまいました。壊してしまったものは、瑠璃華さんが捨ててしまいました。だから、わたしの元にはもう何も残っていないのです。わたしが自分で選んで、自分で壊したから、何も残らなかったのです。
日々の日課でところどころほつれてしまった服を着て、洗って使ってを繰り返している間に汚れが落ちきらなくなったガーゼをつけて、何も持たずに瑠璃華さんの家から出ます。体が、両腕が軽くて、開放された気分です。
このままお兄さんの家に帰って待っているといいと言われて、電車に乗らないでもお兄さんの家に帰れる道を歩いて、途中体力が切れて休憩を挟んだりしながらお兄さんの家の前に着きます。
着いた時間は、まだ太陽が高いところにある時間。お兄さんが空港に戻ってくるのが、夕方くらいだったはずなので、家に帰ってくるのは早かったとしても夜になるでしょう。まだまだ、お兄さんが帰ってくるには早い時間ですね。
携帯がないのは、お兄さんに連絡が取れなくて、時間の確認もできないのは、やっぱり不便だなと思います。とっても、とっても不便です。お兄さんの家の前でずっと待っているのも、ご近所さんからの視線などが痛いでしょうから、初めてお兄さんに会った公園に移動して、ベンチに腰かけます。まだ寒さの残る季節なので、時間が経つにつれて身体は震え、耐えられなくなっていきます。
寒いのに、耐えられなくなりました。防寒具を手に入れようにも、暖かいものを食べようにも、わたしの手元には先立つものが何もありません。
お腹が、空きました。口の中に入れられるものなんて、蛇口から出てくる水くらいしかありません。一度知らないおじさんが心配してくれて、暖かいものをご馳走してくれると言ってくれましたが、怖くて、信じられなくてついていけませんでした。瑠璃華さんすら信じてはいけなかったのに、わたしがお兄さん以外を信じれるわけがありません。何もかもが怖いです。
寒さの震えと、飢餓感に苛まれながら、空を見上げます。今が何時なのかは全くわからなくて、いつになったらお兄さんが帰ってきてくれるのかもわかりません。そもそもここで待っていて、お兄さんが見つけてくれるはずもありません。
だって、お兄さんはまだ帰ってきているのかも怪しくて、帰ってきていたとしても真っ先に家に帰るはずで、わたしを心配してくれていたとしても瑠璃華さんの家まで向かうのが精々のはずです。わたしのことを探して、こんなところまで見てくれるはずがありません。お兄さんとの思い出を台無しにしたわたしには、そこまでして探してもらう資格はありません。
なら、お兄さんが帰ってきたらすぐに見つけてくれるように、お兄さんの家の前までいかなくてはいけません。そこで待っていれば、お兄さんは帰ってきてくれるはずです。わたしのことを、また助けてくれるはずなんです。
それなら、帰らないといけません。わたしたちの家に、お兄さんが帰ってくる場所に。
この公園に来るまでに使い果たした体力も、だいぶ回復しています。お腹が減ったまま動くことも、久しぶりではありますが慣れたものです。それじゃあこのベンチから立ち上がろうと
ベンチにつこうとした腕は感覚がなくて、何も支えてくれませんでした。