無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい 作:エテンジオール
そこに座っているのがすみれだと気がついて、最初に抱いたのは安堵だった。無事でいるのかすら、今どこにいるのかすらわからなかったその姿を捉えることができて、僕と縁のある場所にいてくれたことに、ちゃんと帰ってきてくれたことに対する安堵。
次に抱いたのは、怒り。そこには確かにいるし、その姿はすみれのものだけど、全体的に汚れているように見えた。少なくとも、僕の元にいた日々と比べると見窄らしく見えたし、あんな伝言をしたのであれば、すみれが人並み程度に扱われなかったのは想像にかたくない。
僕の一番大切な人に、そんな扱いをしたことに、僕はここにはいない溝櫛に怒りを覚えた。
そして、心配。すみれは、無事ではなかった。少しづつ近付くに連れて顕になる、その姿。ただ着ているものが汚れているとか、ほつれているとかでは済まないほどの異質さ。
姿を見た時、声をかけた時、既に僕は手遅れだったのだ。
「お兄さん……えっと、その、お久しぶりです。ごめんなさい、わたしには、お兄さんを迎える資格なんてありませんでした」
だらんと吊り下げられた左腕と、その手の甲から滲んで見えて、薬指の先からぽたぽたと垂れている血の跡。僕の知っているすみれなら直ぐに応急処置をしているはずなのに、そのままになっているその腕の違和感。
全体的に汚れきったガーゼと、それを当然のように身につけているすみれ。本来なら、ありえないはずだ。すみれならもっとちゃんと、手当をしているはずだ。
それが出来ないような状態なんて、それが出来ないのが当然な状態なんて、まともなものでは無いことはすぐにわかった。すみれが普通の治療を諦めて、粗悪なそれを普通と受け入れる環境なんて、日常的に非道な行いがまかり通っていたからだろう。すみれの身の保全が十全に保たれていなかったからだろう。
溝櫛を信じてしまった自分に、信じてしまったその過去に反吐が出るほどの気持ち悪さと後悔を感じて、その結果を思い知る。もっと別の道を選んでいれば、こうはなっていなかったのだ。
「すみれっ!!」
すみれに声をかける。逡巡とか、躊躇なんて言うものは、既に考え終えた。すみれの姿を捉えて数秒もしないうちにどこかへ行ってしまった。
だって、すみれは僕の前で、傷跡を残したまま座っているのだ。僕が失敗しなければ負うことのなかった傷を負って、目の前にいるのだ。大切で、大好きな家族のそんな姿を前にして、大人しく黙っていられるほど図太い神経は、僕は持っていなかった。
近寄って、まずは手当をしないとと触れようとして、すみれの体が震えたことに気が付く。寒さによる細かなものではなく、僕が近付いたことによる大きな震え。
おそらく意図的では無い反射的なそれ、頭では大丈夫だとわかっていても、つい出てしまうその反応には、思い当たる節が、身に覚えがあった。昔、不意に父親が近付いて来た時の僕のそれと同じだ。
「……ちがっ、ごめんなさいっ、違うんですっ!」
何もされないと頭でわかっていても、もしかしたら突然何かをされるかもしれない。なにかしてくるかもしれない人が近くにいるストレス。身体的な暴力への恐怖。
「大丈夫、僕は何もしないから。痛いことも、苦しいこともしない。安心してほしい」
一歩距離をとって、しゃがんで目線を合わせる。すみれが落ち着いたのを見計らってゆっくり近付き、少し隙間を空けてベンチに座る。
すみれが生きていてよかった。体も、心も、無事ではないようだけど、生きていてくれれば助けられるし、守ることができる。今日は難しいかもしれないけど温かいお風呂に入って、ご飯を食べて、たくさん眠れば少しは元気も出るだろう。心の方はすぐに良くなりはしないだろうけれど、時間をかければ少しずつ元の明るさを取り戻せるはずだ。
だから、一緒に帰ろうと、そう言って、
「ごめん、なさい」
すみれは、小さく首を横に振った。
「わたしは、お兄さんと一緒に帰れません」
返されたのは、そんな言葉だった。
「この腕、左腕、肘から先が全く動かないんです痛いのもわからなくて、すぐぶつけちゃうんです。ぶつけて、擦って、切っちゃうのに全く気付けないんです」
今も血を流している左腕を、見せつけるようにプラプラ揺らしながら、すみれは続ける。
「こんな手じゃ、何もできません。ご飯も作れませんし、お片付けもできません。お兄さんのために、なにも出来ないんです。なんにも役に立てないのに、一緒にいていいわけがありません」
「そんなことは、どうだっていいんだよ」
すみれの言葉を聞いて、どうしても受け入れることが出来なかった。それを受容することが出来なかった。
「料理ができるとか、家事ができるとか、そんなことはどうだっていいんだ。僕にとって大切なのは、すみれと一緒に歩めることで、すみれが隣で笑っていてくれる事なんだ。すみれが作ってくれるご飯は好きだけど、それがなかったとしても君と一緒にいたいんだ」
だってそれは、そもそも僕が求めていなかったものだ。今はもう捨てた約束ではあったが、その頃から僕はすみれに役に立つことを求めていなかった。この守られるべきはずの子供に、あって当然の幸せが訪れて欲しかっただけなのだ。
「すみれが何かをしてくれるのは当然うれしいけど、それよりも何かしようと思ってくれることが嬉しいんだよ。もしそれでもなにかしたいなら、できるところから少しづつ頑張ればいいんだ」
僕の食事を全部作りたいと、身の回りの事を全てしたいのだと言っていたすみれにとっては不満の残る生活にはなるだろうが、それでもこの子が心配だった。もう手元から離したくなかった。
隣に座っていたベンチから立ち上がる。右手のザリっとした感触は、腐食している部分でも擦ってしまったのだろう。今はあまり気にしないようにして、すみれの前に立つ。
「だからすみれ、一緒に帰ろう。僕らの家に」
また脅えてしまうかもしれないから、軽く腰を下ろして視線を合わせる。すみれがしっかりこっちを見返しているのを確認して、ちゃんと言葉が届いていることを確認して。この手を掴んでくれと、僕はすみれに汚れていない