無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい 作:エテンジオール
身体が、支えを失ってベンチに倒れます。本当なら立ち上がるために使われたはずの腕が、役目を果たせずにへにゃりと折れます。
知っていたはずなのにびっくりして、自分の手が自分の意思に従わなかったことが受け入れられなくて、1度しっかりと見てみると、そこにあったのは擦り傷だらけで、汚れていて、ところどころに血の跡がある腕です。感覚もなくなってしまっていて、何をするにもまともに動かすことのできない、重りくらいにしか役に立たない腕です。
それを見て、上手に立ち上がることすら出来なかった自分を顧みて、不意に、自分がお兄さんの近くにいていいのかという思いが込み上げてきます。
わたしがお兄さんのところに帰りたいのは、お兄さんなら優しく受け入れてくれるとわかっているからです。わたしの居場所はお兄さんのところにしかなくて、なによりわたしがお兄さんのことを大好きだからです。
でも、それはわたしがそうしたい理由です。お兄さんの優しさに甘えて、これまで以上にお世話になろうとしています。これまで以上に、お兄さんに迷惑をかけようとしています。
腕がこんなふうになってしまったわたしが、お兄さんの隣にふさわしいとは思えません。わたしが帰ってしまったらお兄さんはきっと、この先ずっとわたしを背負ってくれるのにわたしではお兄さんを不幸にしかできません。
そんなわたしなんて、きっといたって迷惑なだけでしょう。第一、わたしはお兄さんに貰ったものをたくさん、自分の意思で壊してしまったのです。今更どこに合わせる顔があるのでしょうか。
……この公園で、ずっと座っていましょう。きっとまだまだ寒いから、明日のお昼には全部終わっているでしょう。帰ったらお兄さんに助けられてしまうのですから、帰ることもできません。
寒いなぁと考えながら、両腕を擦ろうとして、片腕が動かなくて、そもそも感覚がないことを思い出しました。とっても寂しくなって、でもこのまま我慢しなきゃいけなくて、嫌になっちゃって空を見上げます。
あの日は、何も分からなかった星空。今は、全部が全部ではありませんがいくつかは知っているものがあります。そのうちの少しは自分で調べて覚えたもので、ほとんどはお兄さんに教えて貰って、忘れたくなかったものです。
無くしたくないと、思ってしまいました。なくなりたくないと思ってしまいました。あの日は何も怖くなかったのに、ケセラセラなんて言って考えていなかったのに、一度考えてしまうともうダメです。あれも、これも、全部がこわくって仕方がありません。
そんなことを考えていると、誰かの走っている音が聞こえました。ちょくちょく途切れて、だんだん近付いてきて、公演のすぐ手前で止まったその音の正体は、お兄さんの足音でした。お兄さんが何か、いえ、状況的に考えるとわたしを探したものだったのでしょう。
「すみれ!?……よかった、ここにいたんだね」
わたしを捉えてすぐのお兄さんの発言。わたしのことを心配してくれたことが、大切に思ってくれていたことがよくわかる素敵な言葉でしたが、どうして探してしまったのかと思ってしまいました。
「お兄さん……えっと、その、お久しぶりです。ごめんなさい、わたしには、お兄さんを迎える資格なんてありませんでした」
逆の立場ならわたしも探すのに、探さないでほしかったと思ってしまいました。お兄さんに会いたかったのに、それだけを心の支えにして頑張っていたのに、会いたくなかったとさえ思ってしまいました。
わたしを見るお兄さんの表情が、安堵のそれから心配に変わります。わたしの姿を見て、左腕を見て大きな声を出して近付いてきて、わたしの方に手を伸ばします。
それが、一瞬瑠璃華さんの手に重なって見えました。全く似ていないはずの手なのに、その心配の手に叩かれるんじゃないかと怖くなって、身体が勝手に怯えてしまいます。
それは、お兄さんにも伝わってしまったようです。お兄さんが、悲しそうな、辛そうな表情になります。わたしの反応は、はたから見たら心配してくれたお兄さんを拒絶するような反応です。お兄さんのことを嫌がっている訳では無いのに、むしろ近くにいたいと、いて欲しいと思っているのに、怖がってしまいます。
お兄さんのことが嫌いなのではないのだと、心配してくれたのに変な反応をしてしまってごめんなさいと、そう伝えたかったはずなのに、焦って言葉が上手に出てきませんでした。
「大丈夫、僕は何もしないから。痛いことも、苦しいこともしない。安心してほしい」
わたしを怖がらせないためでしょうか、一度距離をとって目線を合わせて、言い聞かせるようにゆっくりと言ってくれます。勝手に震えようとしていた身体が、ちょっとだけ落ち着きました。まだ意識していないと震え出しそうなことに変わりはありませんが、ちゃんと会話できるくらいには落ち着いています。
隣に座ってもいいかというお兄さんの問いに首肯で答えて、寒いだろうからとお兄さんの着ていた上着をかけられます。
ふわっと香る、お兄さんの匂い。たくさん走って探してくれたのでしょうか、汗のにおいも混じっているそれは、いい匂いではないはずなのに好きなそれです。わたしのことを安心させて、落ち着かせてくれる匂いです。
怖さがちょっと紛らわされて、肩と背中から伝わる温もりに、諦めたはずの心が傾きかけます。お兄さんのために身を引くべきだとわかっているのに、依存したくなります。
時間がかかっても、わたしが前みたいに笑えるようになるまでずっと守ってくれると、普通に暮らせるようになるまで今まで以上に助けてくれると言うお兄さん。だから一緒に帰ろうと言われましたが、わたしはそれに応えてはいけません。
左手はまともに動かなくって、お兄さんのために何も出来なくって、そして何より、お兄さんに貰ったものを自分の意思で壊したわたしです。お兄さんの優しさに縋っていいはずがありません。その先に、わたしが楽な未来はあっても、お兄さんが幸せになれる未来はないのです。
だから、断ります。一緒にいてはダメなのだと伝えて、離れようとします。
「料理ができるとか、家事ができるとか、そんなことはどうだっていいんだ。僕にとって大切なのは、すみれと一緒に歩めることで、すみれが隣で笑っていてくれる事なんだ。すみれが作ってくれるご飯は好きだけど、それがなかったとしても君と一緒にいたいんだ」
それなのに、お兄さんはこんなにもわたしに優しい言葉をかけてくれました。わたしが何もできなくても、居ていいのだと言ってくれました。
「すみれが何かをしてくれるのは当然うれしいけど、それよりも何かしようと思ってくれることが嬉しいんだよ。もしそれでもなにかしたいなら、できるところから少しづつ頑張ればいいんだ」
『最初から上手にできる方が珍しいの。ちょっとずつできることを増やしていこう?』
初めて家事をして、失敗した時にお母さんが言ってくれた言葉を思い出しました。少しずつできることを増やして、少しずつお手伝いをしてくれるとうれしいと言われて、頑張りました。
また、頑張れるでしょうか。頑張ったら、できるようになるでしょうか。
「だからすみれ、一緒に帰ろう。僕らの家に」
わたしたちの家。わたしとお兄さんの家。差し出された手をとって、お兄さんと一緒に帰れば、あの場所に、あの日々に帰れます。
それはとっても魅力的で、抗えなくて、浮かされたように手を伸ばそうとして、