無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい   作:エテンジオール

71 / 126
TRUEEND 掴まれなかった左手(裏)

 手が、動きませんでした。

 

 頭から冷水をかけられた時のように、熱が引きます。お兄さんの言葉に浮かされて、冷静さを失っていた思考がそれを取り戻します。

 

 何も考えずに手を取ってしまえば、残っているのはお兄さんを不幸にする未来だけです。

 

 

 それに、少しずつできることを増やせばいいと言ってくれたお母さんは、結局わたしのことを捨てました。ずっとわたしに優しかったお兄さんも、大切にしてくれたお兄さんも、わたしが何も出来なくなってしまったら、同じようにするかもしれません。

 

 もしお兄さんがわたしのことを捨ててしまったら、見限ってしまったら。それを考えるのが、いちばん辛いです。だってわたしにとって、唯一信じられるものがお兄さんです。一番お母さんを信じていた時よりも、瑠璃華さんを信じていた時よりも、ずっとずっと強い信頼です。

 

 

 それがなくなってしまったら、その信頼に泥を塗られてしまったらと考えると、信じることが怖くなりました。だってわたしは、お兄さんへの信頼だけを頼りに今生きています。それを失うかもしれない恐怖は、ほかの全ての物に勝ります。

 

 お兄さんと一緒にいれないことよりも、お兄さんに嫌われることの方が怖いです。一人になることよりも、縋り所を失う方が怖いです。

 

 体が、震えます。お兄さんのためにも、わたしのためにも、この手を掴んではいけません。わたしはわたしからお兄さんを解放して、自由になってもらうべきなんです。

 

「こんなふうに手を差し出してくれるお兄さんだから、わたしは救われたんです。お兄さんが助けてくれたから、わたしは普通の子みたいな幸せを知れたんです」

 

 離れるのが、辛いです。近くにいるのは、こわいです。あれも嫌で、これも嫌で、でもどれもしたいです。ひどいくらい、自分勝手でわがままです。わたしを離したら、お兄さんがどれだけ心配するのかをわかっていて、それでも自分のわがままを通そうとしているのですから。

 

 

 これ以上信じることが怖くって、お兄さんから離れようと思いました。お兄さんから離れるのが耐えられなくって、消えてしまいたくなりました。でもお兄さんが、そんな終わり方を許してくれるはずがありません。全く知らないわたしを見過ごせなかったお兄さんが、家族であるわたしを諦められるわけがありません。

 

「わたし、行政の厄介になろうと思います。今更ですけど、最初からそうするべきだったんです。こわいことも不安なこともいっぱいあるけど、お兄さんが幸せを教えてくれたから、頑張れます」

 

 だから、離れてくれるために何を言ったらいいのか考えて、それっぽいことを言います。お母さんの元に帰ると伝えるのとも悩みましたが、それでお兄さんが諦めてくれるとも思えないので、これから頑張るためにと理由を作ります。

 

 優しいお兄さんは、わたしに対してとっても甘いお兄さんは、わたしのことをいつだって尊重してくれるお兄さんは、口先だけとはいえ前向きな理由を述べたわたしのことを、止めません。

 

 後ろ向きな理由なら、きっと止められていました。無理やり引き摺ってでも、わたしたちの家に連れていかれていました。でも、一度離れてしまえば、もうお兄さんにはわたしを止めることができません。わたしがどうなろうが、お兄さんにはどうしようもありません。

 

「だからもし、わたしが普通の子になれたら、お兄さんに会いに行ってもいいですか?それで、お兄さんがよければそのときは、わたしと一緒に暮らしてくれませんか?」

 

 

 そうして、自由になって、勝手に消えようと思っていたのに、気がついたら、お兄さんと約束をしていました。また会いたいと、一緒にいたいという気持ちが抑えられなくて、わたしが普通になれたらの約束をしてしまっていました。

 

「すみれのことを、ずっと待ってる。すみれが帰ってきてくれるまで、僕と暮らしてくれるようになるまで、いつまででも待ってる。……でも、すみれを縛りたいわけじゃないんだ。もし君がこの先どこかで、僕よりも一緒にいたいと思える人に出会えたなら、その時は教えてほしい。きっと他の誰よりも、すみれのことを祝福するから」

 

 

 いなくなるつもりだったのに、こんなにもストレートな気持ちを伝えられてしまったら、そうするわけにもいきません。やっぱり、お兄さんはずるい人です。こうなったら、本当に警察とかのお世話になって生きるしかないじゃないですか。そこで生きて、お兄さんよりも大切な人に出会えるわけがないじゃないですか。

 

「お兄さんのことも、お家も、電話番号も、ちゃんと覚えてます。絶対、絶対にまた会いに来ます。だからそれまでの間、ちょっとだけお別れです」

 

 希望が、生まれてしまいました。いつかまた、お兄さんの元に帰ってきて、お兄さんのためにたくさん家事をして、お兄さんに頼られたいです。わたしの唯一の生きる意味を、満たしたいです。

 

 

 そのためにはまず、普通の人になるために、戸籍が必要になります。普通に生きている人であれば、誰でも持っている戸籍。存在していないはずのわたしには無いそれは、わたしが普通の子になるために必要不可欠なものです。

 

 

 どれだけ手続きをしても手に入れられない可能性があることは、調べたので知っています。でも、身元不明が理由で得られた事例があることも、知っています。そして、お母さんが協力してくれれば、手に入れられる可能性が高くなることも、知っています。

 

 

 

 わたしの身を案じて、着いてきてくれると言ってくれたお兄さんに、半分くらい本当に思っていたことを伝えて、一人で帰ってもらいます。お母さんに、戸籍が欲しいとお願いしに行くのに、お兄さんには着いてきてほしくありません。頼めば着いてきてくれるでしょうが、わたしのことを大切にしてくれているお兄さんはきっと、わたしを捨てたお母さんのことをよく思っていないでしょう。

 

 

「すみれの防寒着を持って行けるに越したことはないんだろうけど、そこまで言うならしょうがないか。今渡してる上着は、寒いだろうから持って行っていいよ。また会えた時に返してくれてもいいし、邪魔になるようだったら処分してくれてもいい」

 

 

 それと、もしかしたら必要になるかもしれないからと、お兄さんはお財布から全部のお札を取り出してわたしに渡しました。いつでもわたしのことを考えて、心配してくれたお兄さんです。自分のことよりも、わたしのことを優先してくれる、大好きなお兄さんです。

 

 

 去りゆくお兄さんの背中を追いかけて、やっぱりずっと一緒にいて欲しいと言いたくなる気持ちを抑えて、お兄さんを見送ります。だって、今のわたしにはお兄さんの隣にいる資格がないのですから。

 

 

 ずっと一緒にいて欲しかったのは、隠さなくては行けないことです。知られてしまったらその通りにされてしまうから、誰にもバレては行けないことです。

 

 

 お兄さんが完全に見えなくなってから、お兄さんが知らないところで、これから先を考えます。まずは、お母さんへ決意表明をしましょう。これまではずっと、お母さんに迷惑をかけないことを気にかけていたわたしが、それを気にせず行動に移るのですから、お母さんにとって迷惑にせよ許せることにせよ、報告しておくに超したことはありません。

 

 

 

 そうなると、わたしは一度育った家に、お母さんの家に帰らなくては行けません。お母さんには嫌われていて、避けられているとずっと思っていましたが、この前会った時の言葉を信じるのであれば、そうでもないのかもしれません。

 

 どちらにせよ、どのような理由にせよ、お母さんの協力の有無で大きく変わるのですから、まずはそこの確認をするべきでしょう。そこまで考えて、お母さんの家に向かおうと歩き始めたところで、目の前に一人の人が立ち塞がります。

 

「お嬢ちゃん、さっきはお腹がすいてないなんて言ってたけど、こんなにずっと何も食べないでいるなんて、お腹がすいてないわけがないじゃないか」

 

 お兄さんと離れてから少しして、一度わたしのことを心配してくれて、声をかけてくれたおじさんが、心配してくれます。お母さんの元に行くから大丈夫だと、お母さんにすがればどうにかなると伝えても、執拗に話しかけてくるおじさんが、わたしの口を塞ぎます。

 

 

「そんなに、頼れるところがないならボクが好きにしていいじゃないか。いいから黙って、抵抗しないで、都合がいいようにしてればいいんだよ」

 

 

 

 本当なら、叫べていたはずでした。怖くって、トラウマで、何も声を出すことができませんでした。口の中に布をねじ込まれて、声を出すことができませんでした。

 

 

 知らないおじさんの、好きなように扱おうとするそれに逆らうことが出来ずに、わたし自身が遠くにやったお兄さんが助けてくれることもあらずに、体の動きを制限されて、周りにバレないように声を制限された状態で、おもちゃにされます。

 

 

 服が、剥かれます。わたしの身に纏っていたものが、ボロボロになって、その価値を失います。残ったものは、お兄さんの上着だけ。

 

 身体が、弄ばれます。本当ならお兄さん以外に触れられたくなかった身体が、瑠璃華さんのお遊びで散らされてしまった身体が、汚されます。

 

 

 そこで、諦めてしまいました。痛いのを、苦しいのを、受け入れてしまいました。そうすることでしか、わたしは自分を守れませんでした。

 

 

 

 

 全部終わって、体が冷たくなっていくのがわかります。自分の意思で動かせなくなっているのがわかります。

 

 きっとあの日、お兄さんに拾われていなかったら、もっと早くこうなっていたのでしょう。おもちゃにされて、使い終わったら捨てられて。何も残せずにいなくなってしまったのでしょう。

 

 

 そう考えて、すごく悲しくなって。不意に、あの頃のわたしならこんなに悲しくならなかったのかなと思ってしまいました。

 

 お兄さんが優しかったから、お兄さんが幸せにしてくれたから、こんな終わり方が辛いのかなと思ってしまいました。幸せを知らなかったら、こんなに辛くなかったのにと思ってしまいました。

 

 

 思考が鈍っていきます。こんなことを思ってしまうなんて、きっとわたしは恩知らずです。

 

 ただ、もし伝えられるなら。

 

 

 

 おにいさんに、ごめんなさいといわなきゃいけません。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。