無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい 作:エテンジオール
「いらっしゃい、あなたが瑠璃華ちゃんね」
茉莉ちゃんの家におじゃまして、まず迎えてくれたのは茉莉ちゃんのお母さん。のんびりとしていて、優しそうなお母さんだ。
リビングに案内されて、苦手な食べ物なんかがないかの確認をされて、茉莉ちゃんの部屋に案内される。茉莉ちゃんの大好きなお兄ちゃんとは一緒の部屋らしくて、そこにあったのは真新しい学習机とやけにものの少ない学習机。
その二つの真新しい方に近付いて、茉莉ちゃんが取りだしたものは折り紙だった。
一緒に折り紙をしたいのだと、少しだけ心配そうにしながら話す茉莉ちゃんの提案に、“お友達”との遊び方を知らなかった私はすぐさま乗った。これを否定した時に、代替案として挙げられるものがひとつもないのだから当然だ。
茉莉ちゃんと一緒に折り紙をして、途中茉莉ちゃんのお母さんが持ってきてくれたお菓子とジュースを楽しみながら時間は過ぎた。私の知らないことを教えてくれて、どうやら人よりも器用らしい私の指先を褒めてくれる茉莉ちゃんに、私もすっかり絆された頃。
玄関が開く音がして、声変わりを迎える前のまだ高い少年の声が聞こえた。
ただいまという言葉と、一気に浮かれた様子になって、私を置いて走り出してしまった茉莉ちゃん。これまでの話の流れからして、きっと大好きな“お兄ちゃん”が帰ってきたのだろうが、この場に一人放置された私としては、どうすればいいのかわからないというのが本音だ。
まだアウェーな状況で、唯一の知り合いが飛び出して行ってしまったら、そこは私にとって安心できる場所ではない。わりとすぐに茉莉ちゃんが帰ってきてくれたからよかったが、そうでなければ私は人の家に遊びに行くことにすらトラウマを覚えていたかもしれない。
「……ぁっ……」
その感覚は、不思議なものだ。初めて会ったはずなのに、安心してしまった。初対面のはずなのに、相手のことをよく知っているかのような錯覚を、不思議な親近感を抱いた。
ああ。それは確かに、自慢したくなるくらい優しいお兄ちゃんだろう。ああ。それは確かに、自慢したくなるくらいかっこいいお兄ちゃんだろう。
お花畑のお兄ちゃんなんて、同等かそれ以上のお花畑だろうと思っていた。
優しいとは言っても、甘いだけだろうと思っていた。甘やかしに甘やかして、わがままを聞いてくれるだけだろうと思っていた。
違った。
「こんにちは、瑠璃華ちゃん。それじゃあ僕はリビングにいるから、何かあったら呼んでね」
初めましてで距離を詰めようとするのではなく、私が慣れるまでそっとしてくれた。結局この日は、まともに話をすることなく、帰る時に一言二言挨拶しただけだった。
「これ、お菓子とジュースね。それじゃあ僕はリビングにいるから」
何度か茉莉ちゃんの家に遊びに来て、その全てで茉莉ちゃんのお兄ちゃん、燐さんは、優しくて思いやりがあった。
「おにいさん、おにいさんもいっしょにあそびませんか?」
興味を持ってしまったのだ。もっと知りたいと思ってしまったのだ。何度目かの茉莉ちゃんの家で、お菓子とジュースを持ってきてくれたお兄さんに対して、私はそんなお誘いをしていた。
なぜかわからないけど心惹かれて、気がついたら目で追ってしまう、優しいお兄さん。そんなものに対して、無関心であれという方が難しいだろう。
そんなお誘いに対する燐さんの返事は、僕でよければ是非、なんて大人なものだった。燐さんが良いと言っているのだから、私は思うように燐さんに構ってもらっていい。
わからないのに、近くにいたいと思った。この人のことを知りたいと思った。
きっと、これは恋なのだろう。私の貧困な語彙力では、この感情をそれ以外の言葉で形容することが出来なかった。
近くにいれるだけで嬉しくて、茉莉ちゃんに接するように近い距離感で頭を撫でてもらえるとふわふわして、いつでも優しくしてもらえる茉莉ちゃんにちょっと嫉妬してしまったりしていた。
きっとこれは、甘酸っぱい初恋だった。私もそう思っていたし、お母さんに相談してもそうだと言っていた。
だから、私は燐さんのことが好きなのだと思っていた。恥ずかしがってちゃんと話しかけられなかっただけで、きっと初恋だった。なんなら、話で聞いていただけでも好意を持っていた。
そう思っていたのは、最初の一年もしないうちだけだった。
すっかり仲良しになって、茉莉ちゃんの家にはお泊まりできるくらいには関係を深めた。茉莉ちゃんが別の用事があるときでも、燐さんと遊ぶために遊びに行けるくらいには気心がしれた。
虫で遊ぶよりも、燐さんのことを考えていることの方が楽しかった。まともに動けない捨て犬に小石を投げて、怯える様を見るよりもずっと、燐さんに優しくしてもらえることの方が幸せだった。
この頃になると、私も自分の《癖》を把握していた。私は何かが苦しんでいるのが、目的を持ってもがいている姿を見るのが好きだった。
そのはずだったのに、燐さんに執着してしまっているからこそ、私はその感情を恋なのだと思ったのだ。他の好きなものとは違うのに、どうしようもなく求めてしまうからこそ、私にとってそれは恋だった。
ただ優しいのお兄さんだったからこそ、私は恋だと思えていたのだ。ゆくゆくは茉莉ちゃんにも協力してもらって、自分だけで独占してしまいたいと思えたのだ。
それなのに、燐さんはただ優しいだけの人ではなかった。辛いことを、苦しいことを知っていて、それを自分の周囲に隠しているような、自己犠牲精神の強い人だった。
あぁ、それは良くないものだ。素晴らしいものだけれども、私にとっては悪いものだ。
だって、やっと普通の人でも好きになれるのだと、好きになれたのだと思っていたのに、その相手は本当は普通の人ではなかったのだ。私が気に病んでいた、可能ならば治すべき“癖”のど真ん中を貫いている人だった。
要は、私の初恋の相手は、私の好みから外れていない人だったのだ。冷静に考えれば、好きになる人が好みの人だなんて当たり前のことだが、自分の基質を好ましく思っていないものにとっては、悪夢にほかならないだろう。
なのに、お兄さんは最初から私の好みのまんまの人だったのだ。
そのことに最初に気がついたのは、子供特有の無邪気さを利用して、お兄さんにアタックした時のこと。
アタックと言っても何かしらの駆け引きではなく、物理的なものだ。くっつきたくって、ちょっと体当たりをした。
きっと優しく受け止めてくれるだろうという確信があって、優しく受け止めてもらった上で危ないからダメだよと窘めてくれるだろうという予感があって、その上で受け入れてくれるだろうと期待したから。
体当たりなんて呼ぶのも大袈裟な、抱きつきのようなもの。当然勢いなんてほとんどないし、痛みを感じるようなこともないだろう。
そのはずだったのに、お兄さんは僅かに顔を顰めた。
私のことを嫌っているわけではないはずだ。自分で言うのもなんだが、私は燐さんにとてもかわいがられている。茉莉ちゃんへのそれと比べるとお互いに遠慮が残るが、本当のお兄ちゃんみたいに仲良くしてくれていた。
なら、顔を顰めた理由は体当たりにある。
痛かったのだろうか?いや、痛くないようにした。嫌だったのだろうか?いや、それならちゃんとやめなさいと言ってくれるだろう。
その理由がわからなかった。わからなかったから、気が付かないふりをした。喉につっかえるような違和感だけを覚えながら、その場ではそれを見落としたように振舞った。
でも、その場をごまかせたとしても、家に帰ってちゃんと考える時間があれば、そのおかしさには当然検討がつく。普通にしていて、そんな軽い衝撃が苦しいわけが無い。それこそ、最初から痛かったか、偶然何かの間違いでそのタイミングだけそこが弱かったかの二択だ。
その二択ならば、間違いなく前者だろう。あまり詳しい訳では無いけれど、燐さんの言動や服装を少々穿った視線で見れば、それは暴行を隠そうとしているものにしか見えない。
燐さんは、肌を見せないのだ。茉莉ちゃんですら一緒にお風呂に入った記憶が無いと言っているくらいには、誰にも肌を見せない。夏でも長袖長ズボンだし、不意に体に触れようものなら嫌そうな、痛そうな顔する。
そんなもの、体に痣などがあって、触れられると痛むと考えれば、至極当然のことなのだ。どのような事情があるにせよ、お兄さんは肉体的に虐待されていて、それを隠そうとしているというのは、間違いないだろう。
お兄さんの優しさが好きだった。燐さんの努力が好きだった。
優しく頭を撫でてくれるお兄さんが好きだった。苦しんでいるはずなのに、それをひた隠しにして優しくしてくれる燐さんが好きだった。
お兄さんの笑顔に、ドキドキした。苦痛に歪んだ燐さんの表情に、興奮した。
あぁ。私は、苦しいはずなのにそれを我慢して、そんな状態でも周りに優しくできるお兄さんが好きだったのだ。そして、そんな燐さんが苦しんで、壊れるところを誰よりも近くで見ていたいのだ。
その自覚を持った時に、私の初恋は終わったのだ。