無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい 作:エテンジオール
出張先のベッドよりも寝心地の良かったソファから起きて、それでもあまり良くなかった睡眠の質を振り返る。早め、と言うよりも今日中にはすみれの分の布団を用意しなくてはいけない。
まさかすみれが溝櫛の家に持って行って、それが向こうで処分されてしまうなんて思ってもいなかったため、少し痛い出費ではあったが、出張分の手当があるのでそこまで大きな問題は無い。
どちらかと言えば、問題になるのは病院代の方だ。動かなくなっている腕に、痛々しい感電の痕。痣が残っているところもあるし、目に見えないだけで内側にも問題があるだろう。
その分の検査と治療、保険証なんて当然ないので完全に自己負担。いくらかかるのか、検討もつかない。
穏やかなすみれの寝顔を眺めながらそんなことを考えて、とりあえずATMまで現金を確保しに行く。ついでにある程度の食材を買って帰ると、すみれはもう目を覚ましていた。
僕の帰宅と同時に、どこか影が残っていたすみれの表情が、少しだけとはいえ明るくなった。
すみれからすると、久しぶりに帰った家で、唯一外との繋がりを確保している相手がいなかったわけだ。当然、緊張もするだろうし驚きもするだろう。
そのことをそんなふうに素直に受け止めて、直後に起き上がろうとして、バランスが取れずに倒れ込む姿を目の当たりにする。起き上がろうとして支えにしようとしたのであろう左手が、何も支えることなく潰れた。
僕が思っていた以上に、片手が使えないということは重いことだった。慣れれば多少はマシになるのかもしれないが、それにしてもベッドから起き上がろうとするだけで問題があるなんてことは、想定すらしていなかった。
認識が足りていなかった。気遣い語りていなかった。咄嗟に駆け寄って、起こそうと伸ばした手が、小さな声とともにはたかれる。
サッと青ざめる顔と、違うんです、ごめんなさいと繰り返される言葉。
ただならぬ様子に驚きながら、近寄ろうとするとビクリと震えるので一度距離を置いて落ち着くのを待つ。
落ち着くまでにかかった時間は、5分程度だろうか。落ち着くように伝えながらしばらく待って、ようやく話せるようになったすみれに、事情を聞く。
怖かったのだと、言われた。僕が、ではなく、人自体が怖いのだと。頭では大丈夫だとわかっているのに、体が勝手に拒んでしまうのだと言われた。
その理由は、聞くまでもないだろう。信頼していた人に裏切られて、全部聞けたわけではないけれど、酷い目に遭わされているのだ。多少の人間不信ならなって当然だし、反射的に拒んでしまうような状態で頭だけでも信用してくれているのであれば、むしろ幸いと言っても過言ではない。
落ち着いたから今はもう大丈夫だと言うすみれが体を起こすのを手伝って、座って待ってもらっている間に朝食を用意する。片手しか使えないことを考慮して、メニューは簡単なサンドイッチ。
お腹を空かせていたらしいすみれががっつくのを見ながら、僕自身は普段通りのスピードで食べる。いつも僕が食べ終わってもまだ食べていたすみれは、僕よりも先に食べ終えていた。
少しだけ待たせながら食べきって、今日の予定を話す。必要なことは、病院に行くことと布団を買うこと。ついでに食品の買い出し。本当なら戸籍の確保のために動き出したいが、今日はあいにく休日だ。役所は開いていない。
「がんばります。少しでも早く、普通に戻りたいから」
外に出るのが怖ければ後ろの二つは僕がやっておくのだが、病院だけは本人がいないとどうもできない。そう伝えると、すみれからはポジティブな回答が返ってきた。
幸い半分くらいは残っていた服を着てもらい、助手席に乗ってもらって向かう先は一先ずは病院。怖いのなら、気になるようなら後部座席に乗ってもいいのだと伝えても助手席に座ったすみれは、たまにビクビクしながらも、僕に気を使わせないようにしてくれていた。
きっとわざわざ話したい内容が無い中で続く会話を、少しでもそれを続けたいのだという意思。
大した話はできないけれど、出張先で大変だったことを話す。すみれがいないことで、どれだけ大変だったのか。すみれに任せていたことで、自分がいかに堕落していたのか。
離れたからこそ、痛感できた事実。
家に帰ったら食事があるのなんて、普通じゃないのだ。予め作り貯めしていたとしても、主食におかずだけでも温めるのには数分かかる。液体なんかは保存に向かないし、教科書に載っていてもおかしくない献立なんて、普通の生活で作れるはずがないのだ。
家に着いてから、最低限の食事を用意するのに一時間かけた。もっと、栄養価を考えていないものなら早くできたのかもしれないが、健康のことを考えると、どうしても選ぶものは少し高めになってしまっていた。
そして何より、誰もいない部屋はひどく寂しかった。
病院について、問診票に必要なことを書き込む。住所は一先ず僕の家。生年月日は、正しいかはわからないがすみれの記憶を頼りに大体のものを。異常のある箇所は、ぱっと覚えている部分だけでも20以上。服を着れば隠れるものだけだったことと、長袖でも暑くない時期であることが不幸中の幸いだろうか。
待合室の人々に怯えるように小さくなるすみれ。すぐ近くにくっついていて、その不安を誤魔化してあげられれば、まだ良かったのだろう。
けれど生憎なことに、すみれは僕のことすら警戒するようになってしまった。だから、不安にさせないために近くにいることも、できないのだ。僕は、すぐ横で怖がっているすみれの支えにも、なれないのだ。
呼吸が安定していないまま、目を閉じた状態で少しでも落ち着こうとしているすみれに歯がゆい思いをしながら呼ばれるのを待つ。
「灰岡さーん、灰岡すみれさーん」
診察室にお越しください、と続けられた言葉。
少し顔を赤くしたすみれと一緒に、診察室に入る。中にいたのは、医者らしいおじいさんと、看護師らしいおばさん。促されるままにすみれを座らせて、僕は一歩後ろの保護者用の席に座る。
問診票の内容を確認して、少し険しい表情になるおじいさん。今のすみれの様子を見て、ただ転んだとかの怪我だと思うようなら節穴もいいところだ。どう考えても虐待と思って然るべきで、彼からした場合での1番疑いの高い人物は、その目の前にいる。
「細かく確認したいことがあるので、少々別室で検査します。こちらへどうぞ」
簡単な診察の後、医師はそう言ってすみれを奥の部屋に連れていった。ぺこりとお辞儀をして看護師さんもそれについて行く。一人で数分待たされて、戻ってきた医師が指圧やすみれに手足を動かさせたり、なにかの画像を確認したりする。
「まず左手ですが、神経が切れているわけではないので、ストレスなどの心因性のものだと思います。その他の外傷については、痛みや発熱はあると思いますが、後遺症が残るようなものはありません。相当上手に虐待されていますね」
リハビリは別の病院を紹介しますと言って、医師は診察を終えた。待合室に戻り、少し待った後に診察料と湿布代を払う。車のシートに座って、少し息を整えたところで、すみれはやっと緊張の糸を緩めた。