無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい   作:エテンジオール

88 / 126
久しぶりの“お買い物”(裏1)

 頑張って病院に行くことを伝えると、お兄さんは優しい、穏やかな表情になりました。すぐにお出かけの準備をします。お兄さんが他の服よりもたくさん可愛いと言ってくれた、お気に入りの服はほとんどがなくなってしまいましたが、残っているものも全部お兄さんが買ってくれたものです。

 

 着替えて、ハンカチなどの小物も持って、右側のポケットが軽いことに気がつきます。いつもそこにあった、携帯電話が無くなっているからです。お兄さんから貰った大切なもので、最終的にはわたしが壊してしまったもの。ないと不便だから、もう一度欲しいと思いますが、また失うのが怖いです。

 

 お兄さんのことを待たせてしまっているので、喪失感と罪悪感を感じながら車に向かいます。家の中から出ることが、1人だけの安心出来る場所から出ることが、とてもこわくて、わたしに気を使って先に車に向かってくれたお兄さんに、申し訳なく思います。

 

 わたしは、人がこわいです。自分の近くに誰かがいるのが怖くて、一番安心できるお兄さんが相手でもこわいです。車の助手席に乗り込むと、その事がよくわかります。

 

 ふとした拍子に、お兄さんの小さな動きに、過敏に反応してしまう体。反射的につぶってしまう目と、頭を庇うために小さくなろうとする全身に、動く右腕と反応のない左腕。

 

「あまり辛い様なら、後ろの席に移動する?多分そっちの方が多少マシだと思うよ」

 

 こわいんでしょと気を使ってくれるお兄さん。お兄さんの言う通り、後ろの席に行った方がきっとわたしは落ち着けるのだと落ち着けるのでましょう。それは、他でもないわたしがいちばんわかっています。けれど、それをしてしまえば、わたしはいつまでたってもお兄さんを怖がるままです。

 

 もしかしたら、半年も経てば自然と受け入れられるようになるのかもしれません。時間が全部を癒してくれて、すっかり平気になる。そんな未来も、あるのかもしれません。

 

 

 けれども、わたしは自分の中にある恐怖は、そのくらいのものだとは思えませんでした。この恐怖は、早いうちにどうにかしないといつまでたってもしつこく居座り続けるものだと思いました。

 

 

 

 お兄さんが外国でどんな生活をしていたのか、わたしがいない場所で、きっと身の回りのもの全てがなれないものの中でどのように過ごしていたのかを聞きます。わたしが要らなかった時間のことを聞くのは心苦しいものですが、わたしがこれからもっともっと必要としてもらうためには、知っておかなければならないことです。

 

 その話を聞いていたら、お兄さんはわたしがいないことが大変だったのだと、わたしがいることでどれだけ救われるのかと、詳しく話してくれます。

 

 半分くらいは、いえ、半分以上は、きっとお世辞でしょう。それでも、お世辞だとわかっていたとしても、お兄さんがわたしを必要としてくれているという言葉が、そのエピソードが、心の弱い部分を、甘く溶かします。

 

 お兄さんにとって役に立てたということは、わたしがそこにあった意味があったということです。今はもうできることは少ないかもしれないけれども、頑張って元に戻れれば、また必要として貰えます。

 

 

 そのための一歩目が、今から向かう病院です。早く健康になって、可能であれば左腕も治して。そうすればわたしはまた、必要としてもらえるのですから。

 

 

 頑張らないとと思いながら病院の自動ドアを通ると、待合室の中にはたくさんの人がいました。

 

 息が、詰まります。人が、人が、たくさんの人がいることが、怖くて怖くて仕方がなくなります。この中の誰もわたしに悪意を向けたりしないと、なんなら興味すら向けたりしないのだと理性では理解出来ているのに、体が震えてしまいます。

 

 でも、それを表面に出してしまうと、あまりにも不審です。病院に入って、そんなふうになってしまったら、逆に人の興味を引いてしまうでしょう。そんなことになったら困ってしまいますから、わたしの前に病院に入ったお兄さんにそのままついて行って、受付に向かいます。

 

 受診歴や保険証の有無などを聞かれて、問診票を渡されます。慣れているお兄さんが代わりに書いてくれるので、わたしはお兄さんからの質問に答えるだけです。

 

 生年月日は、お母さんがお誕生日を祝ってくれた頃の言葉と、祝ってくれなくなってからどれくらい季節が変わったかで推測して、苗字はお兄さんのものを借りることになりました。

 

 身体の異状箇所は、痛みが残っているところや、痣が残っている場所、火傷の位置などを書けば、顔以外は全身どこもかしこも丸だらけです。

 

 もう一度受付に行って、紙を受け取ったお姉さんが少し引き攣った笑顔になるのを見てから、端っこの方の、人の少ないソファに座ります。

 

 人が、怖いです。わたしに対して何かをする訳では無いと頭ではわかっているのに、頭以外のところが怖がってしまいます。ぼんやりとした表情の老人が、どこかの痛みに耐えているように見える青年が、みんな揃ってわたしのことを“おもちゃ”にしようとしているように思ってしまいます。被害妄想も甚だしいことはわかっていても、そのように思ってしまうのです。

 

 そんな被害妄想から、瑠璃華さんにされたことがフラッシュバックして、今この場にいること自体が怖くなります。だって、わたしにとって今ここにいる人達は、お兄さんを除けばみんながみんな知らない人です。

 

 

 知っている人で、かなり信頼していた瑠璃華さんがあんなことをした以上、わたしにとって頭だけでも信頼できるのはお兄さんだけです。いつもおまけしてくれた八百屋のおばちゃんも、お肉屋のおじさんも、瑠璃華さんより信頼できる相手ではありませんでした。

 

 

 それはつまり、瑠璃華さんを信じられなくなってしまえば、その人たちも信じられなくなってしまうということです。顔見知りで、仲良くしていた人ですら信じられなくなってしまったわたしにとって、お兄さん以外の人はみんな信じてはいけない存在になってしまいました。

 

 だって、他の誰よりもわたしに誠実で、わたしに真剣に向き合ってくれた人は、おにいさんです。わたしが唯一信じれる、お兄さんです。

 

 お兄さん以外は、信用できません。お兄さん以外のものは、本当に信用していいのか分からない相手です。

 

 

 放送がかかって、名前が呼ばれます。わたしの名前と、お兄さんの苗字。間違いなくそんなつもりは無いと思いますが、わたしがお兄さんのものだと言われているような気がして、少しドキドキしました。

 

 白衣を着たおじいさんの前に座ると、いくつか質問をされたり、手足の触診をされたりして、別室に連れていかれます。背中やお腹などの傷を確認されて、左手を調べられます。

 

 その最中にやんわりと、傷がお兄さんに付けられたものじゃないかと聞かれましたが、お兄さんはむしろ助けてくれた側だと伝えると理解してくれました。

 

 そのまま少し話して、戸籍取得の支援をしてくれるNPO団体のことや、必要なもののことを教えてもらいます。職業柄似たような人と関わることがあったのだと、少し辛そうにこぼすおじいさんの姿には、人を信じることが怖くなったわたしでも、思わず信じてしまうような、重くてくらい影がありました。

 

 

 お兄さんの待っている診察室に戻り、おじいさんの先生がお兄さんに見立てを話しているのを聞きます。ところどころ見られる打撲については特に問題がなくて、少し見られる感電火傷の痕に関しても、後遺症が残るようなことは無いと言ってくれました。

 

 全く動かない左手に関しても、解決してくれるかもしれない病院を紹介してくれるのだから、ありがたいことこの上ないでしょう。お兄さんの前以外で話した無戸籍者支援のこともありますし、お兄さんの次くらいには信じていい人かもしれません。とはいえ、瑠璃華さんの壁があるのでほとんど信じていないと言っても過言では無いレベルですが。

 

 

 

 教えてもらった結果と、お兄さんに借りたスマートフォンで調べた結果からして、わたしが戸籍を得るために、一番簡単なのは、お母さんに頼んでお母さんの子供として戸籍を取らせてもらうことらしいです。その方法ですら、確実に取り切れると言いきれないのはこの国の不具合な気もしますが、 機関側がそうだと言うのであれば、わたしの扱いはその程度なのでしょう。

 

 自称無職で、自称無戸籍で、自称何も出来ない存在。公共機関に姿を見せた以上存在こそはっきりしているのかもしれませんが、公式には存在すらしないのがわたしです。

 

 

 普通に病院で生まれていれば、もう少し話は簡単だったようですが、その場合は行政に捕捉されて、戸籍の有無に関わらず学校に通えるらしいので、わたしは病院で生まれたのではないのでしょう。どのような環境でお母さんがわたしを産んだのかはわかりませんが、よく無事に産まれたものです。

 

 

 そんなふうに調べ物をしているうちに、ホームセンターに着きました。片手しか使えず、カートを押すことも出来ないので、大人しくお兄さんの後ろを着いていきます。寝具コーナーに着くと、値段じゃなくてそれを使いたいかで選ぶようにと言って、お兄さんは少し離れたところで止まってしまいました。

 

 

 変にいいものを買うべきではないことは、わかります。最初に買ってもらったものをダメにしてしまったわたしが、お兄さんの言葉に甘えていい布団を買ってもらうなんて、あまりにも申し訳ないです。

 

 触ったり、手で押してみたりして一通り選んでいるアピールをしてから、二番目に安い、そこまで寝心地が良くなさそうなものを選びます。一番安いものだとお兄さんにバレてしまうでしょうから、わたしには十分すぎるものを買ってもらいます。

 

 

「ちなみにすみれ、僕は性格が悪いから今使っているものをすみれに譲って新しい方を使おうと思っているんだ。すみれが選んだものならきっと、いいものだろうからね」

 

 

 選び終わったと言ったわたしに対して、お兄さんが言ったのはそんな言葉でした。お兄さんの布団の寝心地の良さは、わたしもよく知っています。そんな布団から乗り換える先が、わたしが選んだ布団だったら。

 

 睡眠の質が下がる、なんて言葉ではフォローしきれないでしょう。お兄さんは体の節々が痛む状態で出勤することになりかねません。床が畳で、多少でも柔らかいのならばともかく、わたしたちの家の床はフローリングです。薄い布団で寝ようものなら、その硬さと冷たさがダイレクトに体に来るでしょう。

 

 お兄さんを、そんな目に合わせるわけにはいきません。何もできないわたしがそうなるのであればともかく、お兄さんをそんな目に合わせるわけにはいきません。

 

 

 お兄さんに、もう一度選び直したいと伝えます。布団の厚さを確認し忘れたと、自分で言っていて無茶だとわかる言い訳をして、もう一度選び直させてもらいます。理由がむちゃでも、いいんです。お兄さんにバレていても、いいんです。だって、どうせわたしの考えはお兄さんに筒抜けなのですから。ただ、“言葉にしてはいけない本音”を隠すためだけの共通認識なのですから。

 

 布団を選ぶ振りをしながら、お兄さんのことを覗きみます。目が合って、いたずらっぽく笑われました。きっと、わたしが変なものを選んだら自分が使って、まともなものを選んだらわたしに使わせるつもりなのでしょう。そうでもされないと真剣に考えて選ばないわたしの思考が、読まれています。

 

 お兄さんはとっても、ずるい人です。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。