無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい   作:エテンジオール

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変わってしまった日常1

 かなしくて、くるしくて、もうこれ以上食べたくないと思ってしまいました。食べることがつらくて、胃の中がむかむかして、そんな風に思ってしまった自分が、何よりも気持ち悪くて吐き気が止まらなくなります。

 

 心配してくれるお兄さんに謝って、食べ途中で残させてもらいます。残したくはなかったけれども、無理をしてお兄さんの前で粗相をしてしまうことの方がいやでした。

 

 わたしの布団は、テーブルがあると敷けないので、お兄さんのベッドを借りて少しだけ横にならせてもらいます。きっとひどい顔になっているでしょうから、心配してくれるお兄さんに背中を向けて、心配をかけているという罪悪感に苛まれながら時間が経つのを待ちます。

 

 お兄さんが目の前にいる間は、我慢していないといけません。お腹の中の熱いものを、留めておかなくてはなりません。

 

 食べ終わって、片付けて、シャワーに入ります。お兄さんの姿が、見えなくなります。そこでようやく、わたしはトイレに向かうことができます。込み上げてくるものを、出せるようになります。

 

 吐き出せれば、きっと楽になれます。我慢しなくても良くなります。そうわかっているのに、お兄さんがわたしのために作ってくれたものを、出したくありません。気持ち悪いまま、苦しいまま我慢します。

 

 20分くらいそのまま耐えていると、次第にきついのは収まって来ました。お兄さんがまだお風呂にいるのは、ついでに掃除でもしているのでしょうか。わたしがこうしていることを見られなかったので、幸運と思っておきましょう。

 

 心配をかけてしまうのはもちろんですし、自分が作ったものを吐かれているのを見たら、お兄さんはきっと嫌な気持ちになってしまいます。逆の立場だったらと考えると、わたしには耐えられません。だから、わたしも隠さなければいけません。

 

 お兄さんが上がる前にトイレから出て、何事もなかったかのようにお兄さんの布団に戻ります。本当は自分の布団の方がいいのかもしれませんが、今のわたしには安全にテーブルを移動させて、布団を敷くというのは少し難しいことです。ですから仕方なく、仕方なくお兄さんの布団に入ります。

 

 長いことつかわれていなくて昨日久しぶりに使われたのに、それがわたしだった布団には、もうほとんど匂いは残っていません。それでも少しでも残っている気がして、深呼吸をします。昔お母さんの家にいた時のように、鼻がムズムズします。

 

 お兄さんがお風呂から上がる音が聞こえたので、目の下くらいまで上げていた掛布団を首のところまで下げます。お兄さんに変なところを見られて、変な子だと思われるのは嫌です。お兄さんの前では、なるべく普通のいい子でいたいですから。……まあ、普通のいい子なんて、今のわたしとは似ても似つかない存在でしょうが。

 

「すみれ、体調が大丈夫そうなら、シャワー入っちゃった方がいいんじゃないかな。厳しいようなら無理はしないほうがいいと思うけど」

 

 シャワーから帰ってきて、少しホカホカしているお兄さんが、わたしの方を見ながら、心配してくれます。ひどい理由でご飯を残して、食欲がないのだと嘘までついて、お兄さんの見えていないところでおかしなことを楽しんでいたわたしのことを、お兄さんは心配してくれました。

 

 少しだけいたたまれなくなって、その心配そうなまなざしから逃げたくて、もう大丈夫だからとお風呂に逃げます。心配そうに、一人で大丈夫かと声をかけてくれますが、片手が使えなかったとしてもシャワーを浴びるくらいなら問題ありません。それとも、わたしが大丈夫じゃないといったらお風呂のお手伝いもしてくれるのでしょうか。

 

 わたしとしては、今からだがお兄さんのことを怖がってしまっていることを除けば、もとよりお兄さんくらいしか頼れる人も、信頼できる人もいません。お兄さんにそのつもりがあるのであれば、その責任を取ってくれるのであれば、たとえ今すぐであったとしても、怖いのは我慢しましょう。

 

 そんな道もありなのかなと少し考えつつ、どうせお兄さんは変な意味を込めて聞いてきたわけではないとわかっているので、大丈夫だと返します。

 

 実際、自分の体を洗うのなんて片腕だけでもほとんど問題なくできました。体を洗うために使っている右腕を洗うのには少しだけ苦労もしましたが、膝と左前腕の動かせる範囲を使えば、問題なく洗いきることができました。

 

 もしああ答えたら、もしそれを選んだら。意味の無い仮定だけが頭の中を駆け巡って、結局何にもならないだろうと帰結します。わたしが多少、なにかを頑張ったところで、なにかを能動的に変えようとしたところで、きっと大した意味はないんです。

 

 

 だって、わたしの行動に、細かな、客観的に見てめんどくさいとしか形容できないような感情の行く末なんて、お兄さんは考えていないのですから。お兄さんが考えているのは、もっと根本的でわたしのためになることです。

 

 

 わたしが、どうすれば周囲の理解と協力を得られるのかを考えてくれました。わたしが、この国に生きる人として当然の、人権を得るために、戸籍を得るために何が必要なのかを調べて、教えてくれました。

 

 

 これまでもずっと戸籍がなくて、それでもなんだかんだでいきてこれたから、そこまでそのことを重要視していなかったわたしに対してそのの重要性と、それがなかったせいでわたしがどれだけどれだけ無駄な苦労をしてきたのかを教えてくれました。

 

 そんなことを教えてもらって、教えてもらったおかげでわたしは今こうしていられます。今わたしにあるわずかな幸せはどれもこれもお兄さんのおかげです。もし拾ってくれた人がお兄さんでなければ、あるいは、お兄さんみたいに優しくて思いやりのある人でなければ、わたしは自分でこんな風に考えることもなかったでしょう。

 

 

 その結果としての今がどうであったにせよ、お兄さんがわたしのために考えてくれることも、動いてくれていることも間違いありません。今こんな風になってしまっているのは、お兄さんが悪いからではなく、ただ不幸な事故に遭っただけです。

 

 体を流して、お風呂場から出ます。洗う時はあまり気になりませんでしたが、体を拭くのは比較的大変です。タオルの端っこが床につかないように気を付けながら拭き終わったら、パジャマを着て部屋に戻ります。

 

 

 戻ると、テーブルは片付けられていて、わたしの布団も敷かれていました。お兄さんも自分の布団にいるので、おとなしくわたしも自分の布団に向かいます。新品の布団のまだ家のにおいに染まっていない違和感。少し気になりますが、使っていくうちに気にならなくなるでしょう。

 

 まだそれほど遅い時間ではありませんが、お兄さんは明日からの出勤の準備をしていて、わたしに構っている暇はなさそうです。話しかければ普通に話してくれるでしょうが、お兄さんが何かをやっているときにその邪魔をするのは本意ではありません。

 

 

 何も出来ないまま、ふかふかの布団の中で目を閉じます。明日はちゃんと、役に立てるでしょうか。

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