無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい 作:エテンジオール
朝起きて、ご飯とお弁当を用意しようとしましたが、ご飯をよそうだけでも一苦労でした。まず、片手にしゃもじを持つと茶碗が持てません。そうすると炊飯器と茶碗の距離が長くなり、零してしまいます。綺麗に盛りつけるのも一手間です。
お兄さんが昨日作った煮物をお皿にのせて、お味噌汁をお椀に入れます、ご飯の用意なんて立派そうなことを言っても、わたしがしたことなんて、ただそこにあったものをよそって温めただけです。お兄さんの朝の支度の時間を3分ほど縮めることにはなったかもしれませんが、その程度です。
わたしが動いている音で目を覚ましたらしいお兄さんにテーブルを出してもらえるように頼んで、温めていたご飯たちを一つずつ運びます。その間にお兄さんが顔を洗って、口を漱いでくるので、戻ってくるのに合わせて冷蔵庫で冷やしていた水をコップに入れて用意しておきます。
お兄さんの寝起きのルーティーンは、当然把握しています。一連のいつもの流れの中でお水を渡すと、半分一気に飲んで、まだちょっと眠そうにしながら、優しく頭をなでて、ありがとうって言ってくれるんです。寝起きの、いつもよりも緩んだ雰囲気のお兄さんは、いつもよりも少し声が低くて、でも優しい気持ちが伝わってきて、わたしの好きな日常風景です。
「……ん。ありがと」
その時の眠さに対応してお礼のテンションが変わるお兄さんですが、まだ半分寝ているような状態だとたまにこうして最低限の言葉で済ませます。ちょっぴり雑に扱われている気もしますが、テンションが低くてわたしに気をつかっていないお兄さんの言動は、それすなわち普段のお兄さんがどれだけわたしを慈しんで、大事にしてくれているかの表れです。
そう考えるとむしろこれは普段とのギャップがある分ラッキーで、わたしはお兄さんのこの姿も大好きでした。寝不足なのは心配になりますが、わたしにとってはちょっとうれしいものでした。ちいさく、ちいさく胸がとくんと鳴ります。わたしの大好きな手が近寄ってきます。
ゆっくりと近付いてくる手。30センチ、20センチ、10センチ、5センチ。大きな手が、だんだん大きくなっていって、すぐそこに迫ってきているのを感じて。
わたしは、わたしの体は、恐怖を思い出してしまいました。
近付いてくる優しい手が、あの手と同じに見えてしまいました。反射的に体がすくんで、足が一歩後ろに下がります。からだが勝手に、逃げてしまいます。
そんなつもりはなかった、思わずの行動、ちゃんと考えていれば変な反応はしなかったはずなのに、半ば日課のようになっていたばかりに何も考えずに行って、引き起こしてしまった反応。
あっ、と思ったときには、もうだめでした。わたしは疑いようがないくらいお兄さんを拒絶してしまっていましたし、そんなわたしの反応を見たお兄さんも、眠気が一気に覚めたようで、ひどく申し訳なさそうにしています。
「ちがうんです。ちょっとよろけちゃっただけなんです!!だから、だから、いつもみたいにしてください……」
自分で言い訳を始めてしながらあまりにも無理があると諦めてしました。今のはさすがに、ダメです。どうしようもないタイプの失敗で、リカバリーは効きません。
案の定というかお兄さんはわたしに、無理はしちゃだめだと優しい言葉をかけてはくれましたが、頭をなでてはくれませんでした。一番油断しているであろう状態でダメだった以上、お兄さんは今後、わたしがトラウマを克服するまではもう撫でてくれないでしょう。
たとえトラウマであったとしても、からだが怖がったとしても、わたしがそうしてもらったらうれしいことに変わりはないんです。だって、わたしは以前までと同じように、お兄さんのことが大好きなままなのですから。瑠璃華さんがいなくなった分、むしろあの頃よりも今の方がもっとお兄さんに依存しています。
その重たい感情を、暗い感情を受け取ってほしいのに、お兄さんは受け取ってくれません。だからわたしはまた漏れそうになっていたその感情を心のずっと奥の方にしまい込んで、わたしが振舞うべきわたしとしてお兄さんに向きなおります。
お兄さんが朝ごはんを食べ始めるのを確認して、今日のお昼はどうするかを尋ねます。わたしがちゃんとお弁当の用意をするのであれば、昨日の内には確認していたはずのことですが、昨日の晩御飯をお兄さんに作ってもらったことや、これまでは多少常備していた冷凍の副菜が使えないこと、朝から突貫で準備しようにも、調理できるだけの体がないことから、お兄さんに三食連続で同じものを食べる弁当か、出社してから何を食べたいか考えるかの選択を迫ります。
「さすがに三食連続で自分の作った煮物だと飽きるし、同僚と会話するためにも今日は外食しようかな。わざわざ気にしてくれてありがとう」
また明日、美味しいお弁当を期待しているねとお兄さんは微笑みます。それは、受け止め方によっては明日までに少なくとも一食分のお弁当を、片手しか使えない状態で用意しなくてはならないという重圧だったかもしれませんが、わたしにとってはそれは救いでした。頑張って、それだけに時間をかければ、お弁当は用意できるだけの自信が、わたしにはあります。
一つ一つの動きは大変でしょうけど、時間が十分にあるのであれば何も怖いものはありません。ただでさえ、お兄さんが仕事をしている最低八時間、休憩を入れれば九時間の間、わたしは家事くらいしかする事がないのです。その家事すら一部やりやすいようにサポートされているのですから、やらない理由がありません。
そうと決まればお弁当用の買い出しからです。昨日お兄さんが買ったものは昨日の晩御飯につかう材料だけだったので、他のものを作ろうとしたら追加で買わなくてはいけないものがたくさんあります。
定番の玉子焼きを作るための卵、緑を添えるためのほうれん草、それとプチトマトがあれば、メインのおかずが何であっても、お弁当はそれっぽく見えます。
明日のお弁当のメイン、今日の晩御飯は、工程がだいぶ簡単な炒め物にしましょうか。カゴの中に小間肉と葉物野菜をいくつか追加して、帰ります。携帯電話はなくなってしまったけれども、食費用のお財布は瑠璃華さんの家に持って行っていなかったので無事です。これがなければわたしは買い出しにすらいけなかったので、助かりました。
片手しか使えないせいでレジで手間取って、後ろのおじさんに舌打ちされます。次からは、もっと手際よくお会計を済ませなくてはいけませんね。
キャッシュレスに変えたら少しはましになるかと考えながら、帰り道を歩きます。変えるも何も、わたしは自分で使えるカードも持っていませんし、アプリを入れることができた携帯もなくなってしまいましたから、完全に無駄でしかない考え事です。歩いている間、他にできることが何もないからただただ時間を潰すためだけの無意味な行為。
そんな風にぼんやりしていたのが悪かったのでしょうか。突然勢いよく右の肩に衝撃があって、買い物袋が前に押されます。ちょうど右足が浮いている状態で、不意打ち気味にそんなことがあったら、当然ですがわたしは体勢を崩します。
出来も悪い独楽みたいに不格好によろめいて、左側からアスファルトに転びます。とっさに両手で顔をかばいはしましたが、袋は飛んでしまいました。上の方に置いておいた卵は無事であってほしいですけれでも、少し厳しいかもしれませんね。
すぐ横を誰かが足早に通り過ぎるのを感じて、ようやく自分が人にぶつかられたのだと理解しました。このとくに狭いわけではない道で、ぶつかった相手を心配するそぶりもなく、鼻で嗤いながら去っていく人に、ぶっつかられました。手に持っていたのはわたしのものと同じ買い物袋。さっきのスーパーで買えるレジ袋です。
わたしの記憶が間違っていなければ、その服の様子は、さっきわたしの後ろのレジで舌打ちをしていたおじさんのものと同じに見えます。いえ、タイミングから考えても、あの人は後ろのおじさんで間違いないでしょう。
お母さんから向けられた怒りと、瑠璃華さんから向けられた悪意以外では、初めて向けられた怖い感情です。そのことを理解して、怖いという思いが沸き上がってきて、わたしは呆けてしまいます。
こんな、ほとんどかかわりがないと言っていい人にすら、こんなことをされることがあるんです。なら、もしわたしが知らず知らずのうちに誰かの恨みを買ってしまっていたら、それは、一体どれだけの害意になって返ってくるのでしょうか。
頭をかばった腕の痛みが気にならないくらい、その“もしも”がこわくなります。気になるどころか一番ダメージを負っているはずで、見た目的にも血が出ている左手が痛くもなんともないことはそれはそれで不安になりますが、今わたしにとって大切なのは、“もしも”の方です。
全く知らない人が“ああ”ならば、恨みを買ってしまった誰かがもし“そう”ならば。
それなら、もしも、もしもお兄さんがわたしに愛想を尽かして、わたしのことを邪魔に思うことがあれば、それはいったいどんなものになってしまうのでしょうか。
その可能性を考えると、わたしは立ち上がることすらできなくなってしまいました。ここでこんな風に座り込んでいるのはおかしいと、よくないとわかっているのに、二メートルくらい先に、投げ出された買い物袋があるのに、その一番上に置いた卵から、内容物が漏れているのに。
わたしは、動くことすらできませんでした。立ち上がることすら、できませんでした。