無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい 作:エテンジオール
わたしが自分の意を伝えて、わがままを言ってから少し経ちましたが、その間お兄さんは本当にわがままを受け入れてくれていました。守らないといけない理由なんてない約束を、真面目に守ってくれています。
そんなお兄さんだから一緒にいたくて、わたしが迷惑をかけている分少しでも幸せになってほしいです。こんなにも優しくていい人だから、その優しさに見合うだけの幸せを手に入れてほしいです。
そのためには本当ならわたしはお兄さんの前から姿を消すべきなのはわかっています。わたしが優しい子なら、いい子ならそうしていたかもしれません。お兄さんの幸せの邪魔になることはせずに、おとなしく身を引いていたのかもしれません。
でも、わたしは悪い子ですし、お兄さんに一緒にいていいと言われているのです。もう離れることなんて、できるはずがありません。
うまく動いてくれない左手のせいで上手に洗うことができない右手に苦労しながらようやく洗い終わって、湯船に浸かります。最初は片手だけでお風呂にはいるのは大変だと思っていましたが慣れてくると右手を洗うこと以外ではそれほど困ることもなくなりました。
このまま、お風呂以外のことも片手でそこまで困らなくなるのでしょうか。それなら、わたしは何も気にしなくていいです。ちゃんとお兄さんのために働けるのなら、わたしの不具くらい些細な問題です。
一つ息をつくと、お湯の温かさが体に沁みわたって頭の中のあかるくない考えが溶けてなくなってしまいました。考えなくてはいけないことなのに、目を逸らしちゃいけない事実なのに、今は、今だけはどうでもいいです。そんなことじゃなくて、どうすればわたしはもっとお兄さんと幸せになれるのかを考えます。
温かい湯船の中で、頭を茹らせながら考えます。まず大前提として、お兄さんはわたしのことを大切にしてくれています。きっとわたしがどうしてもと言ったら、自分が周囲から変な目で見られるリスクを負ってでも、わたしのことを助けてくれるでしょう。
ただでさえ、知らなかったわたしを連れて帰ってしまうお兄さんが、もっともっとわたしに甘くなったのなら、もしかすると職場の人に紹介くらいはしてくれるかもしれません。それは言い訳が大変そうですし、そこまでしてもらおうとは思いませんが。
思考が妄想に変わっているのを自覚して、頬をペチッとして頭をはっきりさせます。お風呂は気持ちいいですしいくらでも入っていたくなりますが、こうやって頭がダメになるのはよくありません。
それた思考を元に戻します。お兄さんはわたしを大切にしてくれていて、常識的な範囲内であればきっと大抵のことはしてくれます。それならば、わたしは現状に甘えるのではなくて、少しでもできることを増やさなくてはいけません。巡り巡ってお兄さんの役に立てるように、今はお兄さんに助けてもらわなくてはいけません。
それなのに、今のわたしの現状はどうでしょうか。何もかにもが怖くなって、唯一信じられるお兄さんのことすらも十分に頼れていません。お兄さんとだらだらする、一番幸せだった時間すら、十分に楽しむことができていません。
こんなの、あんまりです。お兄さんと一緒に過ごすために、幸せな時間を取り戻すためにあんなにたくさん我慢したのに、頑張ったのに、やっと手に入れたものを楽しめないのでは、何の意味もありません。あんなに頑張ったのだから、わたしはもっとお兄さんに甘えていいはずです。
そうすると、目下最大の問題は、わたしが人を怖がってしまうことです。正確には、他人を怖がってしまうことは比較的どうでもよくて、お兄さんを怖がってしまうことが問題です。実際問題、外に出かけるにしても、お兄さんに頼ることができるのであれば、ほとんどのお買い物は怖くありません。もとより知らない人が怖いのは同じなのですから、そんなものはいくらでも我慢して見せましょう。
さて、そうすると、わたしはお兄さんが怖くなくなればいいということにすべての問題が行き着きます。勝手にお兄さんのことを怖がる体に、心に、お兄さんのことを慣れさせればいいわけです。だめだめなわたしに、お兄さんがどれだけ優しいのかを分からせればいいのです。
そこまで考えて、わたしはとある実験の話を思い出しました。条件付けに関する実験、無垢なわんちゃんに、音とご飯を刷り込む素敵な実験です。パブロフさんが行ったその実験は、本能に、特定の条件を覚えさせるというものでした。
それを思い出して、茹ったわたしの脳みそはひらめきます。
犬が音でよだれを出すように、わたしもお兄さんの姿で、感触で、匂いで安心するようになってしまえばいいんです。お兄さんがひどい人だったら、その後何をされても離れられなくなってしまう恐ろしい方法ですが、お兄さんがそんなことするはずがないので、心配は無用です。
そうと決まれば、早速お兄さんの事を全身で感じられる環境を用意しなくてはいけません。そしてその条件であれば、お兄さんに抱きしめてもらうことが一番でしょう。文字通り全身でお兄さんの事を感じることができて、もし私が怖くなってしまったとしても逃げることはできません。
茹だる頭でひらめきます。わたしに、お兄さんに対してそんなお願いをできる勇気がないことを除けば完璧なアイディアです。ひょっとしなくてもおばかさんですね。
しかしその事実にわたしが気付くはずもなく、るんるんとしながらどんな風にお願いすればいいのかを考えます。ちょっとはしたないことを思いついて、恥ずかしくなってぶくぶくしたりします。
ひとまず三つくらいお願いの仕方を考えて、湯船から上がります。ちょっとフラフラするので、シャワーで頭に水をかけて、シャキッとしてからあがります。体を拭くのは、片手だけでもほとんど問題ないからよかったです。
着替えに手間取ることにも慣れて、ほかほかの状態で部屋に戻ると、お兄さんはベッドの上で転がっていました。ちょうどいいくらいに暇そうな顔をしているので、今がチャンスです。今であれば、考えていた方法の一つ、近寄って上目遣いでのお願いができます。
できるから、やろうと思っていたのに、気が付くとわたしは布団の上で転がっていました。冷静になって考えれば、できるはずがありません。上目遣いでおねだりなんて、恥ずかしすぎます。
本当に冷静になれていれば、わたしがこれからしようとしているおねがいの方が数倍恥ずかしいのですが今のわたしにはそんなことすらわかりませんでした。いえ、考え直してみたら、わたしは普段から冷静になると恥ずかしいことばかりお願いしているかもしれません。でもそうしてほしいのですから、仕方がありません。
してほしいから仕方がないという気持ちと、でもそんな風にお願いするのは恥ずかしいという気持ちが混ざって、どうにもできなくなってしまいます。結局わたしがしたのは、自分の布団に帰ってぬくもりを広げることだけでした。
つまり、何もしないことを選んだのです。わたしにはどうせ何もできないし、できたとしてもなにも役に立たないことだけでしょう。
お兄さんの方が気になって、ちらちら見てしまいます。よくないとわかっていても、気になってしまいます。
お兄さんの事を見ていると、自身が逃してしまったタイミングを探っているとちょくちょくとお兄さんと視線が合います。お兄さんが、わたしのことを見てくれるタイミングがあります。
そのタイミングで、言い出すべきです。そのはずなのに、そのことはよくわかっているのにわたしには勇気が足りませんでした。当然です、だってわたしは、怖い気持ちになることがわかっていることを、自主的にできるほど、強い子じゃないのです。
結局、何もできないまま時間が過ぎて、もうあきらめそうになったあたりで、突然勢いをつけて起き上がったお兄さんが、わたしに対して声をかけてくれました。
気付いてくれたことに対するうれしさと、気付くくらいわかりやすくお兄さんの事を見ていたことに対する恥ずかしさの中で、お兄さんにわたしの考えたお願いをします。
お兄さんに合わせてお布団の上で正座をして姿勢を正します。今のわたしに対する簡単な説明から入って、それの解決のために考えたこと、そしてお兄さんにしてほしいことを伝えます。
たぶん断られることはないと思っていましたが、もしかするとそうなることもあるかもしれません。少しどきどきしながら、お兄さんがわたしのお願いについて考えているのを待ちます。
「うん。それくらいなら全然かまわないよ。いつでもしてあげる」
さすがにいないときとかやらなきゃいけないことがあるときなんかは無理だけどねと言って、ベッドに座り直してポンポンと自身の隣をたたいたのを見て、お兄さんの膝の間に座ります。
わたしが逃げられないようにするためには仕方ない位置ではあるのですが、横に座るように促されたのにここに座るのは少しはしたなすぎる気がしますね。顔が赤くなっているのを感じながら、同時に体から血の気が引くような恐ろしさを感じます。
背中から感じる、とくとくとした鼓動。人肌の温かさ、そして人間というもの全般に対する恐怖。
「本当に大丈夫?一回しかできないわけじゃないんだから、無理そうなら今日はやめたほうがいいんじゃないかな」
お兄さんの優しい言葉に、大丈夫だと返します。実際に、少しずつ怖くなくなっていますし、きっと今日中にはなれることができるでしょう。
その予想は当たって、十分もしないうちに怖さはなくなりました。考えてみれば、当然の話です。だってもともと、わたしはお兄さんを感じるだけで幸せな気持ちになれるほどお兄さんのことが大好きなんです。一時的に怖く感じるようになっていただけで、お兄さんが好きなことに変わりはなかったのです。
それならこの結果は、当たり前のことです。わたしが今、お兄さんから離れたくなくなってしまっているのも、当たり前のことです。お兄さんがわたしを心配して、わたしのためにわたしを抱きしめてくれている現状。それから離れられないのは、仕方のないことです。
お兄さんに無駄な心配をかけていることに少しの罪悪感と、わずかな高揚感を抱きましたが、後者はその辺に捨てておきましょう。心配してくれているお兄さんとそれを楽しんでいるわたしの密着状態はそのまま続き、もっとくっ付こうとしたことで終わりました。
怖がっている人の様子が安定してきていて、それどころか体重を預けながら接触面積を増やしているのです。きっと誰でも気付くことでしょう。
顔の見えていないお兄さんが心配をやめて、わたしを抱きしめる力が上がります。ここからは、ただただわたしがお兄さんに甘やかしてもらう番です。
抱きしめてもらって、優しく頭をなでてもらって。最高のご褒美ですね。あまりにもお兄さんが甘やかしなれているので、それを鍛えたであろう茉莉さんに少し嫉妬しましたが、今はそんなことはいいでしょう。
ぬくもりと、鼓動と、それに合わせて髪をなでる手。すごい安心感と温かくなる気持ち。あまりにも幸せで、落ち着いて、わたしは気が付くと、眠ってしまっていました。