無戸籍ネグレクト少女を拾ってしまったから(幸せを)わからせたい 作:エテンジオール
お兄さんに沢山甘えてからは、わたしが考えていたように全部大丈夫になりました。近くにいても大丈夫ですし、隣に座っても大丈夫です。ふとした拍子に触れてしまった時も、ふわふわするだけでした。
ずっと我慢していたことが、できなかったことが、今ならいくらでもできます。足が、頬がくっつくほど近い距離に座れます。そんなふうにしていても、身体は震えなくなりましたし、お兄さんも逃げたりしません。そばにいられるだけで幸せというのは、こういうことを言うのでしょうか。
昼間に家事を頑張って、夜はお兄さんにくっつきながら本を読みます。前に教えてもらったゲームはこの左手だとできませんが、こうして横にいながらお兄さんがゲームしているのを見ている、というのもなかなかにいいものです。この距離にいると、ゲームをしながらピクりと反応するのまで感じられます。
もっとくっついてみたい気持ちと、あまりはしたないと思われたくない理性がせめぎ合いつつ均衡を保って、直接手でお兄さんに触ったりすることはありませんでしたが、それも時間の問題のような気がしますね。正直、わたしの理性が崩れるのが早いか、お兄さんに拒否されるのが早いかの、最終的にはアウト確定のチキンレースです。どれだけギリギリで止まれても、勝手に進んでしまうのですから当然ではありますね。
平日はそんなふうに過ごして、休日には戸籍取得のために色々なところにお出かけします。役所とか、お医者さんに教えてもらったNPO法人のところとか。念の為の経過観察のためとかで、あの病院にもまた行きました。人がたくさんいて怖かったけれども、お兄さんが一緒にいて、手をつないでいてくれたおかげで何とかなりました。手汗がすごいことになっていたので、嫌な思いをさせてしまっていないかだけが心配です。
たまにはどこかに遊びに行かないかと言ってくれるお兄さんに、家にいるのが一番落ち着くから一緒にいてほしいとわがままを言って、そばにいてもらいます。何も特別なことのない、この時間が、わたしにとっては何よりも幸せでした。
そして今日も、相談から帰ってきて、幸せを満喫します。ピッタリくっついて、わたしの手の甲がお兄さんの太ももに触れます。ふわふわして、ドキドキして、なんだかとても悪いことをしている気分です。
顔が赤くなっていないか気になりながらお兄さんの方を覗き見ます。何か少しでも、変わった反応を見せてくれないかと、ささやかな期待を胸に覗います。
そこにあったのは、わたしの方なんてまるで見ていない、なにか別のことを考えこんでいる険しい顔でした。
少し、もやっとします。わたしがこんなに近くにいるのに、幸せな気持ちになっていたのに、お兄さんはこんなにも心ここにあらずです。何を、考えているのでしょうか。何が、お兄さんの気をここまで引いているのでしょうか。
少し考えてみると、先ほど帰ってきた相談のことが頭に浮かびました。そして、お母さんの協力がないと難しいかもしれないと言われたことも思い出します。もしこのことをお兄さんが考えていたのなら、少しうれしいですね。わたしがそばにいても、気が付かないくらいわたしのことを考えてくれていることになるのですから。
お兄さんに、わたしの戸籍のことを考えていたのかを聞いてみます。
「ああ。ここまで厄介だと思っていなくてね」
戸籍を取る、ということを甘く見ていたみたいだとぼやくお兄さんに、今悩んでいることはお母さんの居場所も何もわからないことじゃないかと、もしそうなら連絡先を以前教えてもらったと伝えます。わたしが、捨ててしまいたく思ったりしながらも、捨てることができずにしまい込んでいた、ノートの切れ端のことを伝えます。
「それならぜひ連絡を取りたいけど、大丈夫?お母さんと関わるのは、まだ抵抗があるんじゃない?」
抵抗があるかないかで言ったら、もちろんあります。あの日家を追い出されてから今日まで、お母さん関わったのは、偶然会ったあの時だけです。お母さんがわたしのことどう思っているのかもわかりませんし、お願いしたところで助けてくれるとも思えません。でも、嫌いなんかじゃないという言葉が、あの首についていたマフラーが、信じたいって、もしダメだったとしても、もう一度会って今度こそちゃんと話をしたいって思わせてくれました。
「すみれがそう言うなら、僕は応援するよ。でも、一人だけで会いに行くっていうのは、心配になるからやめてほしいな」
お兄さんがそう言ってくれるならお母さんに会う日は休みの日にしなくてはいけませんね。ゆっくり話すのならどちらにせよそうなりそうな気はしていたので、何も問題ありません。
そうと決まれば、善は急げで早速電話をかけてみます。わたしのスマホはまだ買ってもらっていないので、お兄さんのものを借りて。
殴り書きで書かれた、お母さんの字。そこに書かれている通りに番号を入力して、電話を掛けます。
1コール。元気でしょうか。
2コール。出てくれるでしょうか。
3コール。体を壊したり、していないでしょうか。
4コール。もしかしたら、忙しかったのでしょうか。
5コール。また後で、掛け直した方がいいでしょうか。
「はい、莢蒾です」
6コール。懐かしい声、懐かしいフレーズ。何度も、何度も何度も何度も聞いてきた、お母さんの声です。
出てくれました。いえ、わたしからの電話だとはわかっていないのですから、出るのは自然のことです。問題は、このまま普通に話しだしても、ちゃんと話を聞いてくれるかどうか。
「……もしもし?もーしもーし!」
直前になったら、怖くなってしまいました。ついさっきお兄さんの前で立派そうなことを言ったばかりなのに、怖くなってしまいました。
お母さんが、不審そうにしているのがわかります。いたずら電話だと思って、切ってしまうかもしれません。そうわかっていても、最初の一言が言えなくて。
お兄さんが背中をさすってくれました。左の耳元で、小さく頑張れとささやいてくれました。
「もしもし、わたし、すみれ、です」
お兄さんに助けてもらって、力をもらって、声を出します。とぎれとぎれで、単語ずつになってしまっていましたが、ちゃんと声を出せました。
それだけ言葉にして、お母さんの返事を待ちます。もしかしたら今度こそこのまま切られてしまうんじゃないかって怖くなりますが、お兄さんが頭をなでて褒めてくれたので、まだ大丈夫です。
「……すみ、れ?……本当にすみれなの?」
少ししてから返ってきたのは、とても小さくて、かすれてしまっている、そんな言葉。お母さんに本当だと返して、今日はお願いしたいことがあるのだと伝えます。
『おねがい?私にできることなら何でも言って』
お母さんが協力してくれるみたいなので、戸籍を取ろうとしていることと、そのためにお母さんの助けが必要なこと、そしてそれとは別に、一度機会を作ってお母さんと話したいことを伝えます。
それに対してのお母さんの返答は、全部イエスでした。断られることも覚悟していたので、素直にうれしいです。早速お母さんの空いている日にちと、お兄さんが空いている日にちを教えてもらって日程を決めます。
一週間後の正午、場所は、あまり人目に付かないところがいいからと、お母さんがどこかのお店を予約してくれるらしいです。ここからそこまで離れていない所で、心当たりがあるから予約出来次第折り返してくれるとのこと。
「それじゃあお母さん、また来週会いましょう」
電話口でしないといけない話が片付いたので、話を切りあげます。聞きたいことや話したいことはまだあるけれど、今それを話してしまうと来週にできる話がなくなってしまいますし、お兄さんの電話の電話料金もかかってしまいます。
『うん。すみれ、他に方法がなかったからだとしても、頼ってくれてありがとう』
お母さんはそう言って、わたしが何かを言うよりも先に電話を切りました。そうしてくれて、良かったと思います。だって、そうじゃないとわたしは何も返せないまま電話を切ることになっていたでしょうから。