ぼっち・と・ぼっち! 作:承認欲求モンスター
比企谷家の朝は緩やかな空気が流れている。両親ともに朝早くから出掛けてしまうため、登校する頃に残っているのは俺と妹の小町だけ。
「小町、おい起きろ。ソファーで寝るな。遅刻するぞ」
「んあ……? あれお兄ちゃん? ラスボスを前に決死の特攻を決めて、親指立てながら溶鉱炉に沈んでいったはずじゃ……」
どんな夢見てんだよ。
寝ぼけ眼で俺を見上げていた小町は、やがて立ち上がると朝食の準備を始めた。俺もそれに倣う。
そして、質素な朝食が出来上がった。食パン一枚と牛乳。お互いにめんどくさい調理工程を嫌った結果だ。
パンをカリカリと食べながら、小町は俺に話しかけてきた。
「いやあ、でもお兄ちゃんが遠くの高校なんて選ばなければもっとゆっくりできたのにねえ」
「別に小町も一緒に出る必要ないぞ」
東京に位置する秀華高校までは、千葉から電車で一時間半かかる。そのため俺の朝はいつも早い。
絶対に誰も中学までの俺を知らない場所に行ってやる、と考えた結果少々遠くまで行きすぎたかもしれない。もっとも、俺の努力虚しく高校でもボッチなのだが。
「ええー、送ってよ。可愛い妹をチャリの後ろに乗せられることに感謝とかないの?」
「乗せてもらってるのに図々しいなお前……」
最寄り駅までは自転車で向かっているので、そんな俺を小町はよく足代わりに使っている。
「でも、高校入ってからお兄ちゃん意外と楽しそうで安心した」
意外な言葉に、俺は思わず顔を上げた。その先には、ニマニマという笑顔を浮かべた妹の姿。
「……そうか?」
「そうだよ! 前はいっつも学校だりい、なんでこんな遠いんだーって愚痴吐いてたのに、最近あんまり聞かないし。あんまり気持ち悪い笑い方しなくなったし。独りの時に急に笑いだすの、小町正直怖かったんだからね!」
妹に怖がられていたという新事実を知ってしまった俺は、結構なショックを受けた。マジか……自分では全然気づかなかった……。
それについては反面教師というか、あいつに感謝するべきかもしれない。後藤ひとり。よく気持ち悪い笑いを漏らしているボッチだ。
「まああれだな。少しのことにも、先達はあらまほしきことなり、という言葉の通り、ボッチはボッチであるがゆえに己の客観視が難しい。完璧にして唯一無二の存在であるボッチにも欠点はあったということだな。玉に瑕とはまさにこのことだ」
「お兄ちゃん何言ってんの? 気持ち悪」
俺が古文の教養を交えたトークを展開したというのに、小町は気持ち悪、の一言だけで受け流してしまった。
「まあでもあれだね。お兄ちゃんにボッチ仲間ができたっていうなら小町は安心です。なんていうの、同じ穴のムスカ?」
「ムジナ、な。ムしかあってねえじゃねえか」
常に「見ろ、人がゴミのようだ!」のテンションで人を見下して生きているので、あながち間違いないのかもしれない。
「ボッチが全部同じ穴のムジナかと言われると難しいところだけどな。特に俺とあいつはだいぶ違う」
「へえ、何が違うって?」
俺が他の特定個人のことを話題にあげるのが珍しかったのか、小町が顔を上げる。
しかし俺は、言葉に出そうとしたところで存外彼女についてよく知らないことに気づいた。
「……まあ、いろいろだ」
「ええー、何それ」
正直、俺にもよくわからない。
◇
下北沢の街中の雰囲気は、いつ来ても慣れない。
駅を降りた直後からの人混み。その質は、大都会東京の中でも少し異質だ。
洒落ている、とでもいえばいいのか。纏う服装や、髪の形、色などからそんな雰囲気を感じ取ると、ついつい委縮して、まるで異物である自分が見られているような錯覚に陥ってしまう。
……もっとも。
「おい後藤。いい加減離れろ。視線が痛い」
「むっ、むむ無理です! 怖いです! みんなの目が痛いです!」
「お前がくっついてるから見られてるんだろうが!」
今の俺は、間違いなく異物だった。
俺と一緒にいる後藤が肩を掴み、まるで背後霊のように俺の後ろにピタリとくっついてきている。二人密着して歩く姿は、ひどく目立っていた。
「こっ、こんなおしゃれな街歩いてるだけで恥ずかしくってとても……」
「どう考えても今の格好の方が恥ずかしいだろ! めちゃくちゃ見られてるって!」
何を街のど真ん中でふざけているのだろうか、という目。奇行を眺める目。それから、カップルのじゃれあいを生暖かい目で見守る目。……おい、最後のはひどい勘違いだぞ。
しかし、この状況にこんなでも女の子なんだなとついつい意識してしまう。
後藤の方からふんわりと良い匂いがする。肩に当たっている手は柔らかくて、自分の固い体との差を実感して緊張してしまう。
人の目を感じながら、STARRYへ。正直この店の独特の雰囲気は少し怖く、ドアを開けるのも躊躇ったほどだが、後ろで小動物のようにぶるぶると震えている後藤を見ていると、怖がっていることも馬鹿馬鹿しく思えてきた。
ドアを開けると、先輩二人は既に中で待っていた。
「遅いよ二人とも」
「すいません。後藤を引きずるのが思ったより大変で」
「君たちどうやってきたの!?」
気分的には砂袋をいっぱいに詰めたキャリーケースを引きずっているような思いだった。
「何はともあれ、さっそく結束バンドで交流を深めていこう! イエイ!」
「いえー」
「あっ、はい」
「……」
うら若い少女たちの声がライブハウスに響く。
今さらだが俺はここにいていいのだろうか。そう思っていると、伊地知先輩にじとっとした目を向けられた。
「比企谷君、ちょっとノリ悪くない? あのぼっちちゃんですら頑張ってノリについていこうとしてたのに」
ちょっと聞くと俺が責められているようだったが、よく考えれば後藤がけなされている気がする言葉だった。
「いや、あまりに場違いっていうか、楽器の一つも引けない俺がここにいていいのかと今更思いまして」
「別にそんな細かいことどうでもいいと思うけど……じゃあボーカルやる? 歌っちゃう?」
歌、と言われると俺は急に過去のことを思い出した。
「俺が歌う……? フッ、絶対に無理ですね」
そこで言葉を切った俺は、遠くに視線を漂わせた。
「――あれは小学生の頃、合唱練習でのことです」
「なんか急に始まったんだけど……」
「比企谷、目がいつもの三割増しで腐り出した」
ほっといてください。
「クラスで課題曲を発表するために、五年一組は毎日放課後に練習していました」
「ああー、あったね合唱祭みたいなの」
「合唱祭……うっ……」
後藤がうめいているのは、たぶん俺と似たような経験があるからだろう。
「練習は連日白熱していました。クラス委員長の女の子が張り切って指揮を執っていたからです。前に立ってみんなを指揮する姿は、まさしく委員長でした――しかし、事件は起きたのです」
俺が声をひそめて言うと、後藤と伊地知先輩はごくりと息をのんだ。山田先輩は……興味なさそうだ。視線がどこかをふよふよとさまよっている。
「委員長の女の子はある日言ったのです。『もういや、男子がちゃんとやってくれない! 私帰る!』」
やたらと力のこもった俺の言葉に、一瞬ライブハウスに沈黙が下りた。
ややして。
「……きゃ、きゃあああああああ!」
「どうしたぼっちちゃん!?」
がたがた、と震えた後藤が突然椅子から崩れ落ちた。よく見れば、その口端からはブクブクと泡が噴き出ている。
「ぼっちちゃん、ぼっちちゃん!」
地べたに倒れ込んだ彼女に伊地知先輩が呼びかけるが、返事はない。びくびくと体を痙攣させる後藤は、ともすれば死にかけているようですらあった。
「そうして、クラスの中では犯人探しが始まりました」
「まだ続けるの!?」
「お前声小さかったから謝りに行けよ。いや、お前が。などと醜い戦いが繰り広げられたのち、多数決社会は生贄を見つけ出しました。――そう、ボッチです」
後藤の体が、ぶるぶるとひときわ大きく震え出した。まるで極寒の雪山に軽装で放り投げられたような有様だ。
「比企谷の声が小さかった。比企谷は歌ってない。ていうか下手。歌わない方がいい。放課後長時間合唱練習をさせられているストレスまで一緒にぶつけられた彼は、その後委員長ちゃんに一人で謝りにいったとさ」
「ごぼぼぼぼ……」
後藤の口から出る泡の量が増えた。……あいつの体どうなってんだ。
伊地知先輩は、いたわるように後藤の背中を擦っていた。
「ぼっちちゃん……ぼっちちゃんもあんな風に嫌な思い出があるの?」
「いや、さすがにあそこまでの鬱エピソードはないんですが……ただ嫌な空気になったのは一緒で、全然声を出してなかったので気まずくて……」
その時を思い出したのか、後藤の視線はどこか遠くを彷徨っていた。
STARRYに微妙な沈黙が下りる。伊地知先輩は気まずそうに眼を逸らすと、どこからともなくサイコロを取り出した。平日お昼にやっているテレビ番組を彷彿とさせるそれには、トークテーマが書かれていて、中にはなぜか『バンジージャンプ』が紛れ込んでいた。
ああ、先輩たちなりにどうやって仲良くなるか考えてたんだな。なんか俺のボッチトークで色々ぶち壊してしまった気がする。少し申し訳ない。