年が明けて、早三日が経つ。
舌打ちでもしたい気分で電車に乗っていた。
後藤家での幸せな時間は終わった。
最後にひとりと交わした抱擁の余韻は、金沢八景を経って一分で消えてしまった。後は途轍もない喪失感でしばらく足が震えたのは自分でも驚いたな。
幸いにもバイトは明日からだ。
今日でメンタルを持ち直さないといけない。
「もうすぐ下北沢か」
見慣れた景色が車窓に流れ始める。
いよいよ戻って来たのだと体が理解した。
充分後藤家で癒やされはしたが、帰ってもやる事が沢山あるので憂鬱だった。
それが家の掃除。
俺が不在の間、山田が自主的に掃除をしているとは到底思えない。約一週間だけとはいえ放置した家、加えて持ち帰る荷物の洗濯や諸々の片付け。
疲れはするだろうが、まあ良いか。
ひとりにも会えた事だし。
最寄り駅に到着し、俺は颯爽とホームを降りて改札を出ていく。
家に着いて、何から片付けるか。
帰り道で今日一日のプランを組み立てる。
金沢八景の後藤家までの道は少しだけ迷っていたのに、自分の家はやはり目を瞑っても行けるくらいには体が覚えている。
そして、考えが纏った時には玄関扉前だった。
ここから、また一年かぁ。
いや、ひとりが合格すれば四ヶ月で済む。
「ただいま」
鍵を開けて、中に入る。
いつも通りだ。
誰もいない家に帰宅の挨拶をする。
「おかえりなさいっ」
有り得ない筈の返答の声があった。
俺は玄関扉を閉める。
部屋番号を確認するが、やはり俺の家に間違いは無かった。今日は山田も所用で来ないと先んじて連絡を受けている。
だから、俺しかいない筈なのだ。
いつものように静寂が待っているだけ。
ならば、今の声は一体……?
もしかして、後藤家でまだ過ごしたい俺の耳が誤作動を起こして有りもしない同居人を仕立て上げて幻聴を作り出しているのか。
そんなに心身追い詰められていたなんて……。
我ながら無自覚なのだな。
俺は深呼吸し、心を落ち着かせる。
確かに、これから四ヶ月も苦痛の日々は続くだろう。
だが、耐え抜かなければ望んだ未来はやって来ない。
幻覚なんかで現実を誤魔化している場合じゃないんだ。
意を決して、俺は再び扉を開ける。
「おかえりなさい。……何で閉めたの」
「うああああ!まだ聞こえるッ!?」
「え、びっくりした」
家からする声に俺は耳を塞ぐ。
助けて、助けてひとり。
この際もう山田でも良いから助けて。
未知の恐怖から身を固めて防御姿勢に入っている俺の肩を、小さな手がとんとんと叩く。
顔を上げると、心配そうに覗き込む虹夏がいた。
「どしたの、一郎くん」
「……おかえりなさいって」
「私が言ったんだよ?」
「…………心臓止まるかと思った……」
「普段リョウがいるのに私がいると何でそんなリアクションなのかな」
ジト目で見てくる虹夏に苦笑を返す。
当たり前だろう。
何があったらエプロン姿の虹夏が「おかえりなさい」なんて迎えてくれるなんて奇跡が起こるんだ。絶対に幻覚だと思うのが当たり前だし。
やれやれ、新年早々から心臓に悪い人だ。
あ、そういえば……。
俺は虹夏さんへと軽くお辞儀する。
何事かと彼女が目を見開いた。
「なに?」
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します」
「あ、うん!明けましておめでとう!」
「うわ、初めて同い年の子とこんな挨拶したわ」
「え゛っ……そ、そっか」
何だか憐憫の眼差しを向けられている気がする。
クラスメイトとも滅多に挨拶しないんだぞ。
やろうと思ってはいるが、何故か避けられてしまう。
「ところで、虹夏は何を?」
「お掃除」
「お、掃除……?」
「リョウはしないから荒れてると思ったし、今日帰るって聞いてたから」
「………」
天使だ。
目の前に天使がいる。
掃除を手伝いもせず出ていった山田については日頃から色々あるから何も言わないが、宿として利用すらしていない虹夏さんがボランティアで掃除までしてくれているという事実に言葉が出なかった。
俺は最近、彼女に失礼な事しかしていない。
クリスマスに泣かせ、挙げ句の果てに山田の管理まで言い付ける始末だ。
頼ってばかりで恩返しは一つもしていなかった。
「掃除って」
「もう終わったよ」
「……」
「一郎くん?」
「虹夏には体売ってもいいレベルで恩がある」
「えっ!!!?」
「え、そんなに驚く?」
何故か虹夏が顔を真っ赤にした。
予想していたリアクションと違いすぎる。
彼女の為なら臓器を売り払ったり腹切りショーをやっても良い覚悟が出来ると言ったのに、何故まるで破廉恥な物でも見たように赤面されたのだろうか。
意外と虹夏も……変人なのか?
「何か失礼な事言った?」
「べ、別に言ってないよ!」
「あ、そう……?」
「でも、そういう事をホイホイ他の人に言ったら駄目だからね!」
そんなホイホイ臓器売りたい気分にはならない。
「掃除してくれてありがとう」
「この前の事もあるし、これくらいしないと」
「俺が詫びる方なのに?」
「だって、一郎くんは謝った上でさん付け無しの名前呼びに変えてくれたけど……私は何もお返ししてないし」
「クリスマスケーキ」
「あれは私のワガママだから」
まるで天文学の話でもされている気持ちだ。
さっきから虹夏が何を言っているか分からない。
俺が全面的に悪いのに、彼女が負い目を感じてしまっているのが少しだけ不満だ。
「一郎くんはこれから何するの?」
「取り敢えず、荷物を片す」
「手伝おうか?」
「いや。もう充分お世話になったし虹夏は寛いでいてくれ」
これ以上何かされたら体じゃ足りなくなる。
「何か映画でも観ててくれ」
「うーん、私あんまり普段から映画観ないからなぁ」
「じゃあ、コレは?」
俺が取り出したのはアニメ映画『もの○け姫』。
この作品は色々と学ばされるのだ。
特に主人公の『良い村は女が元気だ』という台詞は、小中高の授業で社会について学び、バイトで働き始めたりして大変さの一端を体験した後に改めて鑑賞したら大きな驚愕を覚えた。
俺はコレで情操教育をされたと言っても過言ではない。
「ちょっと時間は長いけど」
「聞いた事あるけど私観たこと無い」
「面白いよ。観終わった頃には、掃除のお礼に昼飯をご馳走するから」
「ほんと!?じゃあ、お言葉に甘えちゃおうっ」
嬉々として虹夏がテレビの前へ移動する。
さて、荷物を早めに片付けて食事を作らねば……今はまだ午前九時半、充分に時間はあるな。
山田なら絶対にこういう気は起きない。
アイツも少しくらい、何か恩返しとかしようって気にならないのか………ん。
キッチンで、洗い終わったタッパーを発見した。
冷蔵庫を開ければ、山田が全て完食した事が分かる。
味の感想は無かったが、どれも残さず食べたようなら別に良いか。
その事実に妙な達成感を覚えていると視線を感じて振り返る。――虹夏がこちらをじっと見ていた。
「どうかした?」
「……ううん、別に」
「え、本当に何?」
「一郎くんの考えてる事って分かりやすいなーって」
え、そんなに?
俺は自分の顔に触れてみた。
表情はたしかに無愛想だが、山田ほど表情筋が死んでいるワケではない。
もしかすると、読まれやすいくらい無自覚に顔で表れるタイプだろうか。
いや、誂いたくて嘘ついたのかも。
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、何考えてたと思う?」
「リョウのことでしょ」
バレてた。
「……顔で分かったもん」
虹夏が寂しげに笑う。
もしかして、親友を取られて悔しいのかもしれない。
山田を取られて寂しい……?意味が分からない。
でも、顔でバレてしまうのか。
コレは山田にも普段見られているときに考えてる事が見透かされていたりして。
そう思っていると、山田からロインがきた。
『いま私のこと考えてた?』
何で見てないのに分かるんだよ。
♪ ♪ ♪ ♪
映画が終わった頃にオムライスを提供した。
嬉しそうに頬張る虹夏の横で俺も食事を取る。今日はこの後に出来上がる洗濯物を干して十六時まで乾かすとまた暇になると気付いた。
掃除は虹夏がやってくれたしなぁ。
他に何かする事あったっけ。
ぼーっと考えていると、また虹夏に見られていたようだ。
「……何考えてるか分かった?」
「うん。暇だなぁ、でしょ」
「虹夏ってエスパーなの?」
「ううん。でも、注意して見ると何となく人の考えてる事が分かるかも!」
「素直に恐い」
「凄いって言ってよ」
本当にエスパーなのかもしれない。
そういえば、『キ○リー』って映画もそんな感じ……いや、あれくらいになったら虹夏と一緒にいるのは難しいよな、うん。
それにしても、何て安らぐ空間だろう。
穏やかな時間が流れている。
窓から差す光に虹夏が照らされて、何だかほっこりする。
「虹夏はこれからどうするんだ?」
「んー……戻ってバイトかな」
「偉いな」
「えへへ。でも一郎くんもかなり働いてるじゃん」
「そうかな。でも確かに、ヘルプとかお盆とか働き過ぎたせいで、店長から『ゆっくりお休み、友達と遊んでおいで』とか言われて冬休みの殆どは休める事になった」
「あ、あはは……」
完食した虹夏が合掌する。
礼儀正しい子だ。
何より、笑顔で美味しそうに食べてくれるところが作り甲斐も感じられて俺としても大満足だ。
やれやれ、つくづく何処かの誰かさんと違う。
……スマホが鳴ったが見ない。
アイツも今エスパーなのか、俺が自分の事を考えた瞬間を百発百中のレベルの精度で勘付いては俺にロインを入れてくる。
もう山田がホラーだよ。
俺も完食し、二人分の皿を下げる。
「虹夏のバイト先はライブハウスだっけ」
「そう!」
「どんな仕事内容?」
「基本は飲食店扱いだからさ。ドリンク渡したりとか、受付とか掃除……特に一郎くんと変わらないと思うよ」
「へー。給料とかは?」
「……もしかしてウチでバイトしたい?」
「いや、単純な興味」
ライブハウスのバイトってどんなだろう。
そういえば、バイト先を探す時にアプリやチラシを使って探したけど、ライブハウス関連の物って無かったんだよな。
やっぱり、応募はしてなくて直談判なのかな。
単に自分が探し足りてなかったり見落としたりしているのもあるだろうけど。
「ぶー、ウチでもバイトしようよ」
「今の職場に不満は無いし」
「でも、一郎くんとバイトって楽しそうだなー」
「俺も虹夏と働けたら良いなって思うけど……山田もいるんだろ?」
「そこがネックなんだ……」
たはは、と虹夏が笑う。
当たり前だ。
バイト中は山田も真面目に働いている……という想像がつかない。同じ空間にいたら、すぐ何かしてきそうな気がするし、アイツの後輩という立場が何故か小さな自尊心みたいなのを刺激してくる。
やれやれ、気難しい人間だな俺って。
「バイトじゃなくても来てみてよ」
「今度、お邪魔しようかな」
「次は人気のバンドもやるみたいだし」
「へー」
「あ、そうそう!実はね、私とリョウでバンド組んだんだ!」
「…………え?」
初耳だ。
アイツからは何も聞いていない。
いや、別に俺に対して報告する義務も何も無いけど、バンドが嫌になったと言っていた山田にしては意外だと思った。
という事は……山田のベースがライブで聴ける?
そう思うと、少しだけ行きたくもなるな。
「もしかして、ライブする?」
「今は他のメンバーも募集してて」
「へー。後は誰が足りてないの?」
「ギターとか、ボーカルかな」
「そりゃ重要なポジションだな……ああ、虹夏はドラムだもんな」
確かに、残る席は一つだ。
でも、たしかバンドってリードギターなるポジションもあって四人組だったりする時もあるよな。
きくりさんの所は三人だった気がするけど。
そう言えば、また一月の定期ライブでチケット貰える話だったけど、そもそもあの人は今生きてるのかな。
「じゃあ、ライブの時は呼んでくれ」
「やった!もう早速チケットノルマ一枚分クリア!」
「その言い方は何か複雑だな」
金ヅルみたいな。
チケットノルマって、確か店側から課せられる集客ノルマみたいな物だよな。バンドという物は案外世知辛いのだと山田が暗い目で語っていた。
ただでさえ金のないアイツがそんな物にのめり込んで大丈夫だろうか。
でも、女子からも人気だと聞くし……山田はチケットノルマも楽勝なのだろう。
俺は虹夏から買えば良いかな。
「楽しみにしてるよ」
「あはは、私もまだまだだから温かく見守ってね」
「それにしても、ボーカルか……」
「一郎くん、歌声の凄い子とか知らない?」
「虹夏以外に友だちいないしな……」
「…………えへへ」
「え、俺の不幸で喜んだ」
虹夏って、もしかして悪い子だったり……?
でも、取り敢えずまた少しだけ楽しみが増えたな。
今年は悪い事ばかりではなさそうだ。
『一郎に対するキャラクターの好感度』
例『人名
人間的な認識・恋愛的な認識・独占欲』
後藤ひとり
家族70%不安30%・69%⇄96%・21%
伊地知虹夏
心配75%可愛い25%・102%・86%
山田リョウ
飯50%安心40%ロック10%・24%・???%
この作品のメインヒロインは君だ!
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山田リョウ
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後藤ひとり
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伊地知虹夏
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喜多郁代
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ジミヘン