一月中旬のバイト帰りだった。
マンションの入口前に嫌な物を発見する。
「うわ……」
酒瓶を片手に項垂れる女性が一人。
残念な事に知り合いである。
ここで放置しても、同じマンションに住む人たちにも迷惑をかけて、その末に俺の知り合いだなんて噂が立てば甚大な風評被害だ。
見捨てようにも厄介なリスクが付いて回る。
俺は長嘆を禁じ得なかった。
「きくりさん」
「ん、ぁー……おはえり〜」
「う、臭……」
半睡状態で女性――きくりさんが返事をする。
この人、また何日も風呂に入ってないな。
しかも、かなり飲んでいるのか臭いがキツい。家に上げるのを躊躇われるが、きっとここで俺を待っていたのだろう。
そうでなければ、このマンションに来ない。
あ、下駄の鼻緒が切れてる。
今日はスカジャンも無く、ワンピースのみ……この一月で?
このままでは風邪も引くだろう。
ええい、仕方ない。
「運びます。ほら、捕まって」
「んふふ、少年の背中おっきー」
きくりさんを背負い、一息で立ち上がる。
至近距離だと尚更悪臭がする。
吐き出したい色々な感情と言葉をぐっと押し殺し、彼女を背負ったまま四階まで上がるが、その間もあぐあぐと首筋を噛まれた。
以前もそうだが、きくりさんは噛み癖が凄いので懐を許すとすぐ歯型を体に付けられる。
やめて欲しい。
でも、泥酔した人間に注意しても効き目は皆無だ。
玄関扉を開けて、部屋に入る。
玄関の框の上にきくりさんを下ろし、履いている下駄を脱がせてリビングまで運んだ。
全部人任せで、本人は全身の力を抜いている。
ソファーに寝せてから、コップ一杯の水を用意した。
「きくりさん、水飲んで」
「お酒じゃないの〜?」
「風呂沸かすんで、これ飲んだら入って下さい。着替えなら俺の貸すんで」
「えー!お風呂ー!」
きくりさんがぐいっと水一杯を飲み干す。
俺は風呂を早速沸かす。
十五分で溜まるので、それまでの辛抱だぞきくりさん。――と思ってたら、後ろから抱き着かれた。
「うへへ」
「うわ、何?」
ずっと背中にぐりぐりと顔を擦りつけてくるので、再びソファーに戻しておいた。
風呂が沸くまでの間もやる事はある。
コートを脱いで、俺は早速キッチンに移動した。
どうせ、居酒屋のつまみしか食べていないのだろうから腹も空いているに違いない。
とりあえず、飯を作ろう。
ソファーで眠らないよう定期的に声をかけながら料理をしていると、風呂が沸いた。
「きくりさん、お風呂」
「お姉さんが臭いって言いたいのかー!」
「臭いから入ってきて」
「うへぇ……しくしく」
キツく言い過ぎたか。
めそめそ泣きながら千鳥足で風呂場へと向かっていった。
大丈夫かな……足を滑らせたりして死なないか不安だが、さっきよりはきちんと返答が出来ていたし、たぶん呂律も戻ってる気がするので体を洗ってる間にも正気に戻るだろう。
ベーシストって一癖も二癖もあるヤツらだ。
俺の知り合いが運悪くそういう傾向なだけかもしれないけど。
いや、放って置けない俺も悪い。
だから、こうやって都合の良い飯処にされる。
その証拠に、俺の部屋にちらほら山田の私物が増えていた。
早く撤去して欲しい。
四十分して、きくりさんが風呂から出た。
俺の黒いトレーナーを着ており、暖かそうだった。
彼女が椅子に座ったのを見計らって、丁度良く出来た炊いた白飯、鯖の味噌煮、野菜スープを卓上に並べる。
うはー!ときくりさんが歓喜の声を上げた。
「少年のご飯だ!」
「それ食ったら歯磨きして下さいね」
「鯖が柔らけ〜、ホカホカする……いやぁ、寒くて参ってたんだよね。あれ、お酒は?」
「没収です」
「いーやーだー!おねーさんのなけなしの金で買ったヤツなんだぞー!」
不満を垂れながらも食事の手は止めない。
こういうところが山田に似ている。
「今日は何の用でここに?」
「あっ、ライブチケット渡しに来たよ〜」
「……チケットは何処に?」
「……あ、ポケットの中だ」
「洗濯する前に気付いて良かった……」
「ご飯食べさせてくれてるお礼だからお金は要らないよ〜」
チケット代と飯は釣り合ってない気がする。
若干の不満を覚えつつ、俺は脱衣所に捨てられたきくりさんのワンピースのポケットを探る。
あった……くしゃくしゃのチケット。
ワンピースは洗濯機に叩き込み、後で俺の服と一緒に洗濯しておこう。
再びリビングへ戻ると――あ、酒飲んでる。
傾けられて逆転した酒瓶の底に、こぽりと空気が溜まる。
凄い飲みっぷりだな……。
「泥酔してないライブ観たいです」
「うはは!いつかあるって!」
「……」
「ねーねー、野菜スープおかわりー」
「はあ」
よく飲んでよく食べる人だな、ホント。
俺も彼女の隣で飯を食う。
風呂はこの人が寝付いてからでいいな。……酒臭いってまた山田に言われるのも癪だし、今日は客用の布団で寝て貰う事にする。
箸を置く音がして横を見る。
完食したきくりさんが空の酒瓶を寂しそうに見ていた。
悪いが、酒のおかわりは無い。
我が家にもそんな物は置いてないからな。
「うー」
「歯磨いたら寝てくださいね」
「布団……?」
「布団です」
「そっかー。むふふふ〜」
「うわ、ちょっ」
横から首筋に抱き着かれた。
何で一々この人はくっついてくるんだよ。
「離れてくれません?」
「えぇー?少年がいい匂いしてるのが悪いんだぞぅ」
「匂い?」
「んー、何かね……ダメ人間を寄せ集めそうなタイプの匂い!」
「そうですか……(洗剤変えよう)」
ダメ人間を集める匂いって何だ。
俺の周囲はダメ人間しかいないって言いたいのか?
……あながち間違いではないけど。
この後、纏わりつくきくりさんを振り払って食器を食洗機にかけ、風呂に入った。
風呂を出た後、俺は玄関で下駄の鼻緒を修理していた。
後ろでその作業をきくりさんが見ている。
動画でやり方を見ただけだが、意外と簡単だ。
「少年、いつそんなスキルを」
「動画で見たんで」
「直してくれるとかやっさしー!ますます好きになっちゃうぞー!」
上機嫌に俺の頭を撫で始めた。
別にきくりさんの為じゃない。
下駄がダメになったからと俺の靴を貸したとしよう。いつ返って来るかも分からないどころかボロボロにされてそうだし、後は返す為にという口実でまた家に来られても困る。
下駄よ、俺の為に蘇れ。
「できた」
「……ねーねー、少年」
「何です?」
「前より顔が明るいけど、何か良いことでもあった?」
……また顔か。
虹夏といい山田といい、俺の表情で全てを悟り過ぎである。
今度から仮面でもしようか。
「実は知り合いにベーシストがいて」
「ふんふん」
「バンド辞めたソイツが、また別の人と組んだらしいので近々ライブが聴けるかもしれないんです」
「えへへ、そっかそっか」
うりうり、と俺の頬を指で詰ってくる。
痛い。
「楽しいなら何よりだよ」
「はあ」
「でも、妬けちゃうな〜。私もベーシストなんだよ?」
「今のところ、『SICKHACK』のライブが日常生活で一番声出すくらい盛り上がりますけどね」
「好きな物増やしてくんだぞ。多けりゃ良いって話じゃないけどさ、そんだけ自分が何かに熱くなれるって証拠になんだからさ」
「…………」
「前よりいい顔してるぜ」
前回もそうだが、この人には何が見えているんだろうか。
それが知りたいと思う反面で、やはり深く考えると迷走しそうな予感がある。
「ところで、きくりさん」
「んー?」
「今日も居酒屋にベース忘れました?」
「…………んぁ」
「何処の居酒屋か憶えてますか?」
「えーと……なははは……」
「手伝いませんからね」
「ありがとー!」
「手伝いませんからね!!」
無事にベースは見つかった。
♪ ♪ ♪ ♪
今日は山田が不機嫌だ。
勘弁して欲しい。
昨晩はきくりさんの世話までして大変だったんだ。
次は山田の機嫌取りなんて、連日で請け負うには苦労が許容量を超える。彼女にしては、珍しくベースも弾かず、映画も観ず、ただソファーに寝そべって天井を睨んでいる。
お腹が空いている……なら言葉で要求するだろうし。
何が嫌なんだろうか。
「人の家で不機嫌になるのやめてくれ」
「前田の所為だから仕方がない」
「えー……」
今日一日の行動を振り返る。
俺は何かしたっけ。
そもそも、学校でも虹夏たちとはあまり交流しない。廊下ですれ違ったら挨拶するくらいだし、昼食を共にしたのもまだ数える程度だ。
山田の気を損ねる言動自体に思い当たる節もないので完全にお手上げだ。
「全然分からない」
「本当に?」
「え、そんな気付きやすい事か……?」
「………やっぱり鈍いね」
山田が黙って首の辺りを指し示す。
首……に何?
「かなり歯型が付いてる」
「……ああ、これか」
俺は首の辺りに触れた。
きくりさん、かなり酔ってたからな。
結局歯磨きをさせるのは成功したが、寝るまでずっとガジガジと噛まれたり、頬を抓られたりして鬱陶しかった。
これは、その爪跡である……いや噛み跡か。
そういえば、前もこんな事があったな。
きくりさんの噛み跡を見た山田が、しばらくマジで噛み跡のある部分に爪を突き立ててきて痛かった思い出がある。
………あっ。
悪い予感がして、俺は腕で首を防御する。
山田がソファーから立ち上がった。
「べ、別に悪い事はしてないぞ」
「うん」
「だから、オマエに責められる謂れは……その、本当にやる気?」
「うん」
ソファーの上で縮こまる俺の隣に山田が座る。
「前田……何してるの?」
「え、引っ掻かかれるんじゃ……?」
「私ネコじゃないけど」
「……」
「……」
山田の事が全く分からない。
「じゃあ、何するつもりなんだよ」
「……?何もしないけど」
「……?……??」
「隣に来ただけ」
山田にあっけらかんと口にされた言葉を聞いて、無駄に警戒していた自分が恥ずかしく思えた。
く、くそぅ!
羞恥で熱くなった顔を手で覆っていたら、手首からするりと赤いスカーフを解いて取り上げられた。山田がそれを自分のポケットに入れる。
……何で?
「あのさ」
「ん?」
「噛み跡があると何で怒るんだ?」
「噛み跡だけじゃないよ」
「えっ」
「今日は前田の家から前田の匂いがしないから」
俺の家から俺の匂い……。
なるほど、確かにきくりさんが撒いた臭跡が未だしぶとく残ってはいる。いくら消臭しようとしても、一日では簡単に取れない。
コイツも匂いとか言うのか……。
「ベーシストって匂いに敏感なのか?」
「私は鼻が利く。美味いものセンサーも抜群」
「おお、全然すごくない」
急に変な自慢をされても羨ましく思えない。
それより、スカーフを返して欲しい。
山田に掌を差し出して返却を要求するが、山田は見向きもしなかった。
「私がいる時はスカーフ禁止で」
「何でだよ」
「似合ってなくて違和感が凄いから、一々気を取られる」
「ぉぅ………」
悲しくて変な声が出た。
そんなに似合ってないのかよ、俺。
折角初めての友だちから初めてのプレゼントだっていうのに、あんまりな言い方じゃないか。
内心で泣き叫びながら、俺はスカーフ奪還を諦める。
今度から目立たない所に付けよう。
「そんな似合ってない?」
「うん」
「逆に、俺は何が似合うと思う?」
「……ピアスとか」
山田が自分の耳を少し引っ張って見せる。
ぴ、ピアスか……ちょっと恐いな。
「耳に穴空けたりするんだろ?」
「……アクセサリー……これとかは?」
山田が銀色の腕輪を出す。
うーん、こういうヤツかぁ……。
確かに、これならヘタレな俺でも簡単にできるお洒落な装身具なのかもしれない。
スカーフで似合わないと厳しく言われた以上、何が自分に適しているのか逆に気になるので、こういうのにトライしてみるのも悪くないな。
「あれ、でも小さい」
「…………」
「今度、そういう店とか行ってみるか」
「学校帰り、一緒に行く?」
「んー……まあ、確かに俺一人だと何から手を付けて良いか分からないし」
「私、審美眼には自信ある」
「じゃあ、頼むか……でも一応言っとくと、奢ったりとかしないからな」
「う」
「オマエも大概分かりやすいよな」
見え透いた物欲に釘を差しておくと、案の定山田が固まった。
どうやら本当に奢って貰うつもりだったようだ。
つくづく強かというか、その割に杜撰なので不器用なんだか器用なんだか分からない生き物だ。
まあ、アクセサリー分があるので何か一つだけなら吝かでもない。
「あ、そうだ」
「……?」
「虹夏とバンド組んだんだって?」
「うん」
「いつか聴けるのか、オマエのライブ」
「………ん」
俺が尋ねると、山田は少しだけ顔を逸らして小さく頷いた。
少し恥ずかしいのか、薄く頬が赤くなった。
本人が確約してくれたので、いつも家で聴いていた山田リョウの本気の音色がライブにていよいよ体感できるようだ。
それなら、まあ……奢ってやろう。
この作品のメインヒロインは君だ!
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山田リョウ
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後藤ひとり
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伊地知虹夏
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喜多郁代
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ジミヘン