朝のHRが終わった教室で俺は一枚の紙を睨んでいた。
模試の結果が返ってきた。
内容を検めれば、成績はかなり上々である。
第一希望は、少し危うい。第二以降は安全圏なので学力を落とさなければ無問題だな。
一応、書いておいた看護系も評価は良い。
将来的な自立のためにも、努力は続けよう。
「……ふーん」
肩越しに声がする。
見なくても分かるが、一応確認した。
「人の物を盗み見するな。――山田」
「前田は頭良いね」
「日頃から努力しているからな」
それだけに、憎い。
山田が本気を出せば校内トップも容易だ。
特殊な脳の構造でもしているのか、一夜漬けで山田はどんな分野でもかなりの好成績を叩き出す。両親が病院務めなので、受け継いだ物もあるのかもしれないが、それにしたって奇矯だ。
でも、今回の山田は恐るるに足らず。
ノー勉で挑んだ彼女の成績は惨たらしい結果になっていた。
「人の見てる余裕なんてあるのか?」
「痒いところをつく」
「痛くないのかよ」
「大学とかそんな真剣に考えてないから」
「もう少し深刻に捉えろよ……。この前のテストだって赤点揃えてたんだから、そもそも進級も危ういんだぞ」
山田が額に滲んだ冷や汗を袖で拭う。
自覚があるなら何故改善しないんだか。
「下手したら将来もアウトだな」
「たしかに」
「まあ、俺には関係無いけど」
将来的には決別するつもりだからな。
いつまでも寄生されていては人生が危険だと感じたので、高校を卒業したら一切何も告げずに目の前から消える所存だ。
いずれ、この忌まわしき現状を脱却してやる。
脱炭素ならぬ脱山田の未来設計図に想いを馳せていると、するりと山田の手が俺の肩を這う。
その感触が妙に擽ったくて、振り払うように体ごと彼女に振り返ってしまった。
「関係ある」
そして、山田の微笑を目にする。
「私は、前田がいないと生きていけないから」
…………。
そ、れは……無関係、では、ないのか……?
ぼーっと白んだように思考が鈍くなる。
その一言について考えている内に、何も分からなくなった。
そう言えば……あれ。
この第一から第三希望の大学、下北沢から通える距離になってないか?
何ヶ月か前までは、全然違ったような……。
「前田」
「え、あっ、何?」
「ぼーっとしてるけど」
「……いや、別に」
何考えてたんだっけ。
まあ、良いか。
俺は模試の結果を鞄にしまう。
早速、最初の授業の準備を始めた。……が、それを見ても何もせず後ろにいる山田は何なのだろう。
暫く無視していると、耳に何かが付けられた。
……イヤフォン?
勝手に装着したのは、勿論山田だ。
それでも意地で無反応を示していると、やがてイヤフォンから音楽が流れ始めた。
……楽器の音だけで、歌はない。
何だろう、俺の知ってるバンドの物じゃない。
いや、このベースの感じはどこかで……。
「どう?」
「………」
「いま作曲してるやつ」
「……へ!?」
あ、リアクションしてしまった。
してやったりと含み顔の山田に悔しくて拳を握る。
「これ結束バンドの」
「オリジナル」
「……俺が聴いて良かったのか?」
「前田は聴きたいと思って」
私の音だから、と山田が言葉を紡ぐ。
ぐぅの音も出ない。
これに無反応でいるのは流石に無理だった。新曲……作成段階と本人が言ってはいるが、今の物だけでも胸が踊ってしまった。
俺はイヤフォンを外して頷く。
「楽しみだと思った、不覚にも」
「――何の話してるの?」
虹夏が手を挙げて近づいてきた。
「ああ。結そ――」
「模試結果の話」
山田が俺の声を遮って答えた。
いや、山田の成績で俺と話すような事は無いと思うんだけど。若干イラッとしながらも、取り敢えず黙っておいた。
新曲はバンドメンバーにはまだ秘密なのだろう。
部外者の俺がそもそも作成段階から聴いているのは不平等な気もするが。
「一郎くん、勉強頑張ってるもんね」
「第一以外はかなり余裕」
「羨ましぃ」
「そっちは?」
「私はちょっと頑張らないとなー……」
「虹夏なら大丈夫だろ。むしろ、俺も余裕とはいえ気を抜いたらダメだし」
何かの不幸で試験すら受けられない、とかもあるかもしれないしな。
そんな不幸を想定していると、虹夏が深刻な面持ちで頷く。
え、なに?
「有り得そう……」
「え゛ッ」
「一郎くん、何か大事な事の前で躓きそうって私の直感が言ってる!」
「不吉な事言うなよ」
「あはは……うーん、でももしそうなっても大丈夫!」
「え?」
虹夏がぽんと自身の胸を叩く。
「もしもの時は、私が養ってあげるからね!」
虹夏の宣言に、教室から音が消えた。
思ったより声が大きかったな。
そこかしこで落ち込む男子の声と、女子の好奇の眼差しが生じる。
ようやく自身の行いを客観的に見た虹夏が肩を縮こまらせる。
虹夏が、養う……?
俺はその将来を想像する。
何もかも失敗してドン底に陥った俺を、優しく包容力のある虹夏が甲斐甲斐しく世話をしてくれる。
何故かもはや確定した未来とでも言うかのように鮮明な映像が浮かんできた。
「……じゃあ、頑張らなくて良いか……」
体から力が抜けて、そんな言葉が出る。
すると、虹夏がぱっと輝く笑顔になった。何で?
でも、将来は虹夏に面倒を見て貰うなら下手な人生よりも幸せな気がする。
ストレスが無くて、きっと…………?
ふと、思い描いていた映像が急に暗くなった。
全て失敗してダメ人間になった俺。
そんな俺は、きっと……。
『おい、酒はどうした』
『あ、ごめんね。今買ってくるから』
『遅い』
『ホントにごめんね……』
暗く、酷く、醜い未来だった。
背筋が凍りつく。
だ、駄目だ!
この未来、絶対にイケナイやつだ――――!
「絶対に虹夏の世話になっちゃ駄目だ!」
「えぇっ!?な、何で?」
「ごめんな、虹夏……酒は程々にするから。俺もちゃんと働くから……!」
「ええ?いや、良いよ。健康でさえいれば……」
頭を抱えて床に突っ伏す俺の背中を、優しい虹夏の手が撫でる。
コレ絶対に虹夏に養われるのは駄目だ。
沼のように、一回体験したら二度と戻れない。
絶ッッッ対に虹夏に養われてはならない!
俺どころか、彼女まで不幸にしてしまう。
その前に星歌さんが止めてくれるかもしれないが、大事な妹を毒牙にかける悪役なんて俺の心が持たない。想像しただけで罪悪感が無限のように湧いてくる!
星歌さんに殺される前に自分の手で始末をつけなくては。
でも、きっと虹夏に甘やかされてそれすら躊躇うのだろう。
ああ、何て酷い。
鮮やかに想像できてしまう今の自分すら気色が悪い。
頭の中で虹夏をこれでもかと汚してしまった。
「俺は……罪深い……」
「お、おーい。一郎くんまでぼっちタイム始めないで〜?」
「あ、やるなら星の見える所にしよう……」
「戻ってきてよー!」
虹夏の悲鳴が聞こえる。
ああ、本当にごめんなさい。
俺一人がどうしようもない人間になって死ぬなら兎も角、虹夏まで巻き沿いにするなんて耐えられない。
ああ、俺の『価値』って本当に……。
「おい。そこ、いつまで話してるんだ?」
教室に入ってきた教師の言葉ではっとする。
しまった、もう授業開始の時間か。
危うくこのまま想像の世界から戻れず、延々と暗い未来の映像に溺れてしまうところだった。
俺たちは解散し、山田と虹夏も席に着く。
訝しむ教師の視線から顔を隠すように手元に視線を落とし、開いたノートの上で溜め息をついた。
虹夏と暮らすなら、共働きだな。
それか、彼女を養う方面だ。
甘えたら終わる。
山田はそうだな、養うしか未来が見えない。
……あれ。
何で山田も鮮明に想像できてしまうんだ……?
「俺って本当に気持ち悪い……」
取り敢えず、俺は考えることをやめた。
「荒れた一郎くん……ちょっとイイ、かも……」
♪ ♪ ♪ ♪
バイトから帰った夜も休まらない。
何故なら寄生虫がいるから。
今日も今日とてリョウは飯を貪る。
千切りにしたネギを撒いた薯蕷汁を白米にかけ、一気に口へと掻き込む。
豪快な食べっぷりに思わず俺の手が止まった。
コイツ、また金欠で食べてないな。
「……誰も盗らないから、ゆっくり食え」
呆れつつも、リョウの口端に付いた汁をティッシュで拭う。
落ち着いて食えよ。
何に追われてたらそんな急ぐんだ。
サバイバル中の人間じゃあるまいし。
注意したがリョウの箸は止まらず、豚の角煮と山菜盛り合わせに伸びて、素早く口へ運ぶ。驚く事に、これだけハイペースなのに咽る事が無い。
速いだけで意外と本人には適した速度なのか……?
「何か急いでる?」
「うん。作曲が捗ってるから」
「へえ。今回は何にインスピレーション受けたんだ?」
「ぼっちの描いた歌詞」
ぼっち……?
ああ、ひとりの事か。
結束バンドでは、まさかひとりが作詞を担当しているのだろうか。ギターの腕が上手いのは知っているが、そちらの方面にも芸があるとは。
さぞや素晴らしい歌詞なのだろう。
無表情ではあるが、リョウが活き活きしている。
「オリジナル曲、か」
「出来たら聴かせる」
「それは良いんだが………」
俺はちらりと居間の床に視線を落とす。
足場に困るほどスコアが散らばっているのだが、流石に片付けてと言うべきかな。
できる限り本人の創作意欲を削ぎたくはないが。
注意するか否かを悩んでいると、完食したリョウが合掌して「ごちそうさま」を済ませていた。
ホントに早ェな……。
床に腰を下ろすやベースを弾きながら山田はスコアとにらめっこ。
時折、同時に開いたPCにも何やら打ち込んでいる。
駄目だ、素人の俺には何をしているか分からない。
せめて創作の一助になれとコーヒーをそっと傍に置いておく。
「根を詰め過ぎるなよ」
「うん」
一応、無理はしないよう言っておく。
遅れて完食した俺は食器を片付けた後、映画でも観ようかとテレビの前に移動する。
今晩は何を観て寝ようかと、棚の中に並んだ物を眺める。スプラッター系はリョウも嫌がるだろうし邪魔になるから却下、サスペンス……は最近かなり観てるし、ヒューマンドラマ系にしようかな。
俺は棚から一作手に取る。
ソファーに腰を下ろして、それを再生した。
映画『MOTH○RS』。
この作品は、両親が買ってはいるが全く観ていない物らしく、気になっていた。
「…………あ、そうだ。リョウ」
「ん?」
「デザートに、バイト先からケーキ貰ってるけど食べるか?」
「頂こう」
さっと俊敏な動きでリョウが冷蔵庫へ向かう。
欲求に忠実なヤツだな。……少し羨ましい。
そのままケーキを持って、リョウが俺の隣へと腰を下ろす。
この映画の内容は、かなり考えさせられる物だ。
なるほど、両親が手を付けなかったワケが分かる。
見ていく内に、こちらも登場人物の感情に引っ張られて思わず前傾姿勢になってしまう。
映画が終わる頃には、リョウは再び床で作業に取り組んでいた。
……面白かったな。
観終わった後の余韻に浸りながら、ソファーで横になる。
「よし」
「完成したのか?」
「概ね整った。後は家に帰って、仕上げるだけ」
「じゃあ、帰れ」
「うん」
えっ。
リョウがスマホを取り出して、両親と連絡する。
それが終わると、早々に荷物をまとめ始めた。
あ、え、本当に帰るのか?
呆気ないほど帰宅準備を始める彼女に驚いて、思わず見詰めてしまった。視線に気付いたリョウがこちらへと振り向いて小首を傾げる。
まあ、帰ってくれるなら万々歳だ。
「一郎。もしかして寂しいの?」
「鳥肌立たせる天才か」
「心配しなくても、また明日来る」
いや、明日も来なくていいから。
暫くすると、マンションの前に山田夫妻が車で迎えに来たと連絡が来たので、俺はリョウと一緒に下へ下りていく。
本当にマンションの前に車を停めて待っていた彼らは少し会話をして、颯爽と車に乗り込んだ彼女と一緒に帰って行った。
今日は随分と潔い。
それだけ作曲に打ち込んでいるからだろう。
俺は部屋へと戻り、色々と片付けて自室に入る。
うん…………何か静かだな。
どうしようか悩んでいると、リョウからロインでメッセージが届く。
何だろうか。
薯蕷汁が美味しかったとか、有り得ないがお世話になりましたとか?
『明日は冷しゃぶが良い』
リクエストかい。
予想を斜め下で裏切ってきたリョウのロインに、取り敢えず『知らん』とだけ返しておく。
明日の俺はきっと冷しゃぶを作っているかもしれないけどな。
生活リズムがリョウと一緒にいて当たり前だという風に回り始めているのは、俺にも自覚がある。一年前よりも確実に、アイツからの悪影響が強くなっている気がしていた。
このままズルズルと、将来もリョウに侵食されていくのだろうか。
出来れば、そうならないで欲しい。
今朝想像させられた虹夏との未来を一瞬だけ思い出して身震いする。
あ、あそこまで退廃的になりはしない。
俺が想像したリョウとの未来は、今とそう変わらなかった。
ただ一点、違うところがあるとすれば。
『一郎、幸せでしょ?』
魔性と思わせるほど、山田リョウが可愛かった事だけ。
この中で一番終わってるキャラは?
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山田リョウ
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伊地知虹夏
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後藤ひとり
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喜多郁代
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廣井きくり
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伊地知星歌
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ショウ・タッカー