文化祭ライブから少し時間が経つ頃、保健室のベッドでひとりは眠っていた。
俺はその傍に椅子を用意して座っている。
キスというショッキングな出来事に脳がオーバーヒートしてしまった結果の失神なので、やはり責任の所在は俺にある。
申し訳ない事をした……。
アレがひとりの初キスでなければ良いけど。
それにしても、柔らかかったな。
リョウとは違う感触だった。
……何か女子の唇を比較している自分が気持ち悪くなってきたな。
取り敢えず、起きたら謝ろう。
俺なんかとのキスなんて、流石に優しいひとりとはいえ許し難い事態だ。
起きた時の罵倒も覚悟しよう。
あ、ひとりに否定されたら生きていけない気がする。
「前田先輩?」
保健室に喜多さんが入ってきた。
メンバーTシャツのまま、ギターケースを背負った姿からどうやらクラス内での片付けや概ねの事が終了したのだと察せられる。
そうだ、この文化祭は喜多さんの文化祭でもある。
彼女もまた労われるべき存在だ。
「お疲れ様、喜多さん」
「ありがとうございます」
「ライブ、かつてないくらいに俺も盛り上がったよ」
「本当ですかっ!」
嬉しそうに頬を染めて喜ぶ喜多さん。
だが、すぐにはっと口を手で覆ってからちらりとひとりを見遣る。
眠る怪我人への配慮か、保健室は静かにというルールの為か、或いはその両方か。ライブ後の興奮も冷めていないだろうに、ここでも周囲への気配りを欠かさないのは彼女らしい。
「ひとりはまだ起きてないよ」
「そうですか」
「喜多さんは何でここに?」
「あ、後藤さんを迎えに。大丈夫そうなら、これから打ち上げにしようって……前田先輩は?」
「俺も?」
「はい。伊地知先輩が」
虹夏からのお誘いか。
物凄く嬉しいのだが………。
「いや、お断りするよ」
「え……」
「情けない事にはしゃぎ過ぎて疲れた。 申し訳ないけど、俺の事は気にせず皆で楽しんでくれ」
やはり、未だに大人数では難しい。
本当に今日は疲れたのだ。
この状態で、皆のテンションに付いていける気がしない。
それに、ライブ中には『結束バンド』のパフォーマンスに色々と迷惑をかけたような気がしたので、取り敢えず団扇を燃やして眠りたい。
ノンストレス。
今日はリョウの顔を見ただけでも胃に穴が空きそうだ。
叶うなら、一週間は休みたい。
「
しょんぼりとした顔で、喜多さんが俺の膝の上に腰を下ろす。
……………。
膝の上に深く腰を下ろしながら、俺の方へと振り向く。
……うあっ、妖しいキターン光線ッ!!
悄然としている言動から放たれているとは思えない輝きだった。
至近距離で受けると動悸がする。
ライブ中はかっこよかったのに。
今では完全に俺を包囲する三凶の一角に逆戻りしている。あと、断ったのに膝の上に座る辺り逃すつもりがないと行動で示しているのか。
それを抜きにしてもこの体勢はまずい。
女子を膝上に座らせているなんて目撃されたら物議を醸す事案だ。
秀華高校では一部で俺が喜多さんのカレシだと認定されているので無問題にも思えるが、ライブのひとりとのキスを見た観客の誰かに見つかれば爛れた関係と誤解を招く。……既に誤解盛り沢山な身辺なのだが。
「あの、喜多さん?」
「私、後藤さんを支えられる人になりたいんです」
「うん」
「私は、人を魅せられるような演奏は出来ないので。でも、人に合わせるのは得意みたいだから」
…………。
俺の膝上で語ることでは無い。
だが、彼女を膝上から退かすには内容から察するに深刻な話題のようなのでそうもいかない。
しっかりと耳を傾けつつ、タイミングを待とう。
「良いと思うよ」
「え?」
「喜多さんが出来ると思った事を全力でやれば。バンドなんだから、支え合って、個々で足りない部分を補い合えば良いし」
「………」
正面から見つめ合っていた喜多さんの瞳が潤む。
それは、感極まって涙を催す前の兆し……とは違う。
「先輩って優しいですね」
「これが優しさにカウントされるなら、喜多さんも自分を大切にした方が良いぞ」
「……そういう所ですよ。本当に優しい、無自覚に………そして」
「ん?」
喜多さんの顔が近くなる。
あまりの急接近、俺は反射的に後ろへ背中を反らし、顎を引いて距離を取ろうとした。
こつり、と額同士が軽く触れる。
ち、近い。
「そうやって、無自覚に突き放すんですね♡」
甘ったるい響きで囁かれる。
声が吐息と共に耳に纏わりつくように感じた。
逃げるにしても喜多さんが乗っていて足が動かせないし、座っているのがパイプ椅子で背もたれもあるので逃げ場が完全に無かった。
どうやら、俺の苦手な喜多さんの状態が始まったようだ。
「頑張ってる私の前で、後藤さんとキスまでして」
「あれは、不可抗力というか」
「はい」
「ひ、ひとりは悪くないぞ?俺の受け止め方が悪かっただけで」
「はい、後藤さんは悪くないです。私、ライブで頑張ったのに先輩があんな仕打ち……私にもご褒美があっても良いですよねっ?」
にこりと明るい笑顔で褒美とやらを強請る喜多さん。
経済的な要求か、肉体労働的な要求か。
いずれにしても、傷付けた事には変わりないようなので許して貰うためには傷も覚悟しなくてはならない。
俺は死刑宣告を受ける心積もりで、彼女の結論を待つ。
腹を括った俺の心中を察してか、喜多さんも肝心の褒美の内容について口にする。
「前田先輩、目を瞑っててくださいね?」
死刑執行。
刑罰の内容は、言うまでもない。
俺はよたよたと秀華高校の廊下を歩く。
このまま昇降口に出て、真っ直ぐ帰ってやろう。
虹夏に誘われた打ち上げを断ったが、喜多さん伝で断っただけで本人相手に同じ事を言える度胸は無い。
虹夏たちに会わないよう帰ろう……。
さっきスマホに入ったメールには、郁人さんから宿泊やライブに誘ってくれた事、それと自分を拒絶しなかった事など諸々の礼と一度実家へ帰る旨の物だった。
彼の存在は、俺にとっても救いの一つだ。
親戚を封じてくれる、親切な大人の一人。
これで嫌がらせの手紙が無くなる事も期待していいのかもしれない。
喜多さんの刑で受けた後の心労も緩和される。
ふと、行く手からこちらへ歩んでくる人影を認める。
俺はそれを見て、思わず足が固まった。
ニコニコと、溌溂とした笑顔でこちらを目指す虹夏の姿だった。
今日は避けようと思っていただけに、出会すと動揺を禁じ得ない。
いや、悟らせてはならない。
虹夏は最近の俺に対して疑心暗鬼になっているから、余計な誤解を招かないよう努めて平静を装うべきだ。
怒ってませんように。
怒ってませんように。
怒ってませんように。
「あ、一郎くん」
「ど、どうも」
「喜多ちゃんから聞いた?――打ち上げの件」
もしかして、詰んでるのか。
実は、喜多さん相手に断るのは想定済みで、自分相手ではそうもいかない俺の弱さもまた把握した上で自ら赴いたワケではないよな?
いかん。
俺も疑心暗鬼になっている。
でも、これが偶然だとしたら運命の女神すら俺を逃すつもりは無いのか。
「き、今日は遠慮するよ」
「え……」
「ホラ、郁人さんを泊めた後で色々と片付けたい事もあるし」
「……そっか」
じぃ、とさっきから瞬きもしない虹夏の瞳が俺を見詰める。
そんな表情も出来たんだね。
新発見。
「だから、俺は気にせず皆で楽しんできてくれ」
「……そっか、残念」
「じ、じゃあ、俺はこれで」
虹夏が本当に残念そうに肩を落とす。
話の区切りも良いので、俺は空かさず暇乞いを告げて去ろうとした。
隣を過ぎて、先に見える昇降口にも早足になりそうな歩調を一定に保つ。
……が、やはり運命の女神は許してくれない。
「じゃあ、もう一つ」
……止まらざるを得なかった。
俺は虹夏の背後で立ち止まり、そっと振り返る。
うわっ。
虹夏は至近距離に立っていた。
後ろを向いた時、危うく肩がぶつかるというほど間近だ。
「も、もう一つ?」
「うん。首のソレ」
虹夏が俺の首を指差す。
そこには、絆創膏が貼ってある。ついさっき、やむを得ず貼る事になったヤツだ。
「これ?」
「うん。ライブの時はそんなのしてなかったよね」
「保健室で、こ、転んだ時にペンで首掻いちゃってさ。その時に出来た傷を」
「そうなの?もう痛くない?」
「大丈夫」
我ながら恐ろしい。
こうもスラスラと嘘が付けるとは。
怪我でもないし、原因はペンでなく喜多さんなのだが。
俺が笑って平気だと示すと、虹夏が胸を撫で下ろした。
う。
嘘で心配させてしまったのが申し訳ない。
「―――で、本当は?」
だめだった。
「一郎くん、嘘つきだから。それもきっと、喜多ちゃんでしょ?ぼっちちゃんとのキス、羨ましそうに見てたから」
だめだった。
もう確信を持っているような虹夏の強い語調に、俺は否定すら出来ず固まった。
「でも凄いな、喜多ちゃんは」
「え……?」
「だって、口じゃなくて首にしたんでしょ?私だったら我慢できないもん」
「我慢?」
虹夏の両手が俺の襟を掴む。
絶対に放すまいと、小さな手が力んでいた。
「私もしたいけど、一郎くんキツそうだし。今日はやめておくね」
…………良かった。
今日では無いらしい。
まあ今日でなくとも刑罰は執行されるそうかので何も変わらない。ストレスが凄すぎて脳がぐちゃぐちゃになりそうだ。
俺が頷くと、虹夏が満足げな表情をする。
「でも、楽しみだな」
死にそう。
♪ ♪ ♪ ♪
夜になって、俺はソファーの上に倒れていた。
どうやって帰って来たのかも分からない。
部屋を見渡せば、朧気に自分が無心で家事を行っていた事が分かる。それらが終わって落ち着いて、今こうして休憩した事でようやく意識がハッキリしたようだ。
体は怠く無いけど、やる気も起きない。
これは、重症だな。
俺は壁の時計を見る……七時半、か。
そろそろ飯を作るべきか。
今日はリョウも来ないだろうし、自分のペースで作るとしよう。
ライブの余韻も消し飛ぶどころか色々と疲れる連続の出来事で何をするにも億劫なのだが、生きたいのならば動くしかない。
そうだ、映画を観よう。
良い気分転換になるじゃないか。
こういう時は、ホラーやパニック系を見てスカッと嫌な事を恐怖で塗り替えてしまえばいい。
落ち込んだ時に自身でストレスを解消できる。
何て素晴らしいツールなんだ。
「ただいま」
居間の扉が開く。
俺は握り締めていたリモコンを床に叩きつけたい衝動を、ぐっと強く飲み込んだ。
取り乱したって嗤われるだけだ。
そう、今しがた我が家に堂々と無連絡無許可で現れた図々しさの権化こと山田リョウに。
俺は机の上にリモコンを置いて振り返った。
「打ち上げは、どうした?」
「終わった」
「それにしては早くないか?」
「ぼっちの怪我もあるからって店長が早く切り上げた」
「なるほど。――で、何故ここに?」
俺の問に答えず、リョウは隣に腰を下ろす。
「飯は食って来たんだろ」
「店長の奢りでたらふく食べてきた」
「なら家に帰れよ」
「虹夏と郁代から一郎について訊かれてたから、何も考えずに帰ってたらここに来てた」
いつも何も考えてない故に影響されやすいんだな。
それにしても、喜多さんと虹夏……。
俺について質問攻めするとは、いよいよ距離を置こうか悩むな。
だが、どちらも軽率に行動すると危うい。
最悪の場合、被害は俺一人ではなく『結束バンド』に影響するので、ひとりの夢に嫌な影が差すかもしれないし、俺もリョウの音楽が聴けなくなれば本末転倒だ。
今日のライブを見て、より惜しく思える。
それにしても、どうしてみんなは俺という人間の灰汁みたいなヤツにそこまでするんだ。
「悪いけど、俺はこれから飯だから」
「私も食べる」
「たらふく食ったのでは……?」
「吐かなければ幾ら腹に入れても人間は問題無い」
「そんな気持ちで食われても困る」
苦しそうに食われる身にもなれ。
だが、そこまでして食いたいと言われる価値があるとなれば悪い気はしないでもない。
俺はソファーを立って、キッチンに向かう。
その間に、リョウは恒例のように暇潰しの映画を探り始めた。
俺はその後ろ姿に嘆息した。
リョウは、主にサスペンス系が好きだ。
つまるところ、心霊現象とは無縁に人間の怖さなどが際立つ傾向のジャンルを好むとなれば、選ぶ作品が偏るので今日の俺のメンタル回復も諦めるしかない。
ああ、嫌な思い出も恐怖で塗り替えたい。
「一郎、コレ観てるね」
「題名は?」
「『ライトハウス』」
「………さいですか」
リョウが映画を再生し始める。
うん、ホラーはホラーなのだが随分と複雑な物をチョイスしたようだ。
灯台に派遣された老人と若者の織り成す物語。
黙って見詰める彼女がいつ恐怖するのか観察しつつ、鶏もも肉を揚げる。リョウは満腹だし、俺も食欲が弱いので少なくても良いだろう。この前、近所の人がくれた宮崎産の醤油と甘酢を用いて作ったタレに揚げた物を浸す。
「一郎」
「ん?」
「今日は何かあった?」
「……別に。ライブ楽しかったくらいしか無いな」
「虹夏と郁代と何かあったでしょ。二人とも凄く満足そうだったから」
「特別な事は何もしてない」
俺は完成したチキン南蛮と味噌汁を卓上に運ぶ。
この一年ですっかり我が家に溶け込んだリョウ専用の器と箸を用意し、俺も自分用を持って席に着いた。
リョウもそれを見て隣に腰を下ろした。
液晶画面には、恍惚とした男の顔が映っている。
「何か一郎、この二人みたいに疲れた顔してるけど」
「そこまでか?」
登場人物の二人と比較されるのは心外だ。
ここまで追い詰められてはいない。
……チキン南蛮の味がしない。味見の時はしっかり味覚も機能してた筈なんだけどな。
「ごちそうさま」
「お粗末様」
リョウが先に料理を平らげる。
「一郎、今日はスターだったね」
「俺が?」
「飛んだぼっちを受け止めたので盛り上がってたから」
「俺としては、結束バンドのライブで余計な事したって思った。まあ、受け止めなきゃひとりも怪我してたから仕方ないんだろうが」
今からでもやり直せないだろうか。
でも、やり直したい過去なんて数えきれないほどあるのだから、今さらそんな事を考えても時間が足りない。
「何かごめんな」
率直な感想を述べる。
すると。
「ライブ楽しかった?」
楽しかった。
「うん、なら良い」
「…………?」
意外だ。
てっきり団扇の事だったり、ひとりとのキスの件で何か厄介な追及を受けるかと思ったが、どうやら杞憂だったらしい。
ライブの完成度――それが気になるところは、バンドマンらしい。
ほんのちょっぴりだけ、尊敬の念を抱く。
本来なら喜多さんも虹夏もそうなんだろうけど、俺の行動が余計だったが為にあんな歪んだ行動に及ばせてしまった。
やっぱり、少し距離が近すぎたのだろう。
彼女らと、『結束バンド』と距離を置くべきだな。
俺ごときに意識を割いて貰うのは烏滸がましく思えてしまう。俺がいない方が専念できるだろう。
「今後はもっと楽しめるように遠くから応援させて貰うわ」
そう告げると、リョウがこちらへと手を伸ばす。
「遠くは駄目だよ」
「……?」
俺の顎を、くいと細い指が持ち上げて自分の方へと向けさせる。
リョウはにやりと笑った。
「言ったでしょ。――私には一郎がいないと生きていけない『価値』があるんだから」
その後の、記憶はない。
どうなったんでしょうね。