「一郎くん」
机の上に参考書を広げ、それを茫洋と眺めていると虹夏から声をかけられた。
振り返ると、彼女に怪訝な顔をされる。
俺の様子が何か可怪しいのだろうか。
「何か、いつもより調子良さそうだね」
「そうか?」
「何か、妙にスッキリしてる?」
「………」
鋭い。
たしかに生まれ変わった気分だった。
久し振りに学校の授業を真面目に受けられた。
普段も授業姿勢が悪いことは無いが、ここ最近で比較すれば欠けていたメンタル面が回復し、平穏な気持ちで授業に臨めた。
理由は単純。
要因の一つとして、ひとりに誘われた文化祭ライブは最高だった。
応援していた『結束バンド』がアクシデントすら乗り越えて、寧ろそれを盛り上がりに変換して力にしていく熱い展開に胸が踊った。
立ち会えた者としての体験が活力の一つになったのは間違いない。
ただ、ライブ後がまた複雑な出来事があって一時は危険な状態に陥った。余韻までもが虚しく消えるくらいの極大ストレスである。
でも、それすらも解消できた。
具体的には、考え方を変えただけ。
発想の転換とは、まさにこれだ。
今までストレスに耐えていた――自身が正常だと考える状態を維持する為に、たとえ過負荷を受けようと立ち直るべく努めた。
ところが、それでは駄目だと痛感させられた。
俺の所為で歪んでいく人間関係、正常であろうとするが故に拗れていく。
周囲に阿り、深く影響を残すまいと距離を置こうとする程に誤解を招き、優しすぎる彼女らに痛ましい傷だけを刻んでしまう。
受け身では駄目だ。
彼女らが変わる事を期待するだけでは何も改善しない。
ならば、俺が変わればいい。
環境に適応する、彼女らに対する相応しい姿勢が必要だ。
端的に言えば――――俺も壊れてしまえばいい。
「ライブの後、色々あったしな」
「……そうだね」
「心の整理もついて、今ようやく穏やかな感じなんだよ」
「そっか」
虹夏は俺の言葉に相槌を打つと、前の席に座って椅子の背凭れを抱くように座る。
「ねえ、一郎くん。――空いてる日、家に行っていい?」
「別に良いけど、何するんだ?」
「二人きりでしたい事があって」
虹夏と二人きり、か。
この前の発言といい、その状況は危険に思える。
でも断れる資格が俺には無いからな。
「それって何?」
「まだ秘密」
念の為に尋ねたが、教えてはくれない。
こうして変に情報を伏せるから不穏な予想が絶えず、待たされる身はストレスしかないのだ。虹夏がそこまで意図しているワケではないにしても中々に堪える。
仕方無い。
俺は周囲に聞こえないよう小声で。
「悪いけど、この前みたいなのはやめてくれ」
「この前、みたいなの?」
「その、キスとか」
「……何で?」
虹夏から表情が消えた。
もしかして、図星だったのか。
てっきり諦めてくれたのではないかと小さな希望を抱いてはいたが、やはり儚かったな。
だが、それでもやめて欲しい。
俺は変わったんだ。
もう、曖昧な態度や受け身で相手に誤解させることはしない。自分の気持ちはハッキリ言い、ハッキリと態度に示す。
ひとりが変わったように、俺も変わるんだ。
「まだ秘密」
簡潔に伝えると、虹夏の目が細められた。
ちょっとした意趣返しである。
「誰も呼んじゃ駄目だよ」
「分かった」
俺の返答に満足して、虹夏が自分の席へと去っていく。
楽しそうな後ろ姿だ。
きっと、かなり期待しているのだろう。
それを見ると、罪悪感がかなり増す。
「一郎」
急に背後から名前を呼ばれて体が跳ねる。
「最近流行ってるのか、音もなく人の後ろに立つの」
「一郎の耳が悪いだけじゃない?」
「そうなのかもな」
「弾き語りしながら来てたのに気付かないのは驚いた」
「俺の耳よりオマエの頭が心配だ」
後ろを見ると、リョウが立っていた。
弾いてないじゃん。
本当に教室内でギターでも弾語りしながら背後に接近していたら本気で正気を疑ったところだ。俺もそれくらい壊れていた方が日々のストレス的には良いのだろうか。
ため息をつくと、リョウが俺の頭頂に顎を乗せてくる。
……割と痛い。
「何の用?」
「何だっけ……一郎と話す前までは憶えてたんだけど」
「忘れるくらい緊急性が無いなら別に良いだろ」
「最近多いんだよね、こういうの」
「本当に頭大丈夫か??」
特殊な脳をしてるのは前から知ってるけど。
「一郎こそ大丈夫なの?」
「虹夏と二人きりになっても変な事はしないし、ちゃんと言えば大事にならないだろ」
「私とはあんな事したのに?」
「……………………………………」
山田のくせに痛いところを突く。
たしかに、俺は優柔不断だ。
押し切られたら流されてしまう危機感がある事を否めない。虹夏みたいに意思の強い子には特に、自身の思考を放棄して身を委ねるかもしれない。
しかし、今日の俺は違う。
この前までがレベル1だとするならば、今はレベル2に進歩している。
逆境だろうとギリギリなんとか跳ね返せる。…………と思う。
流されてリョウとあんな事になってしまった過去の経験を糧に、次こそは自由意志で選び取る。
「良いか、リョウ」
「ん?」
「俺はこの前とは違う。どんな事だろうと乗り越えてみせる」
「…………」
「何だよ、その疑うような目は?」
「ぷふ、卒業したばかりで気が大きくなってる」
「……ほう」
コイツ、調子に乗っているな。
リョウが後ろから前に回り込んで、笑いを堪えた顔を向けてくる。
たしかにリョウのペースに乗せられて俺は箍が外れてしまったが、弄んだ気になっているようなのでしっぺ返しくらいはしてやろう。
たしかに、俺もオマエに恥を晒した。
だが。
「オマエもデカい態度なのは最初だけだったな」
ぼそっと呟く。
それを聞いた途端、リョウが完全停止した。
暫く見開いた瞳で俺を見詰めるだけの時間が過ぎ、やがて無言のままぱっと背中を向けて、自分の席へと戻って行った。
その耳が真っ赤になっているのを見て、俺は清々しい気分になる。
よし、山田リョウに勝った。
やはり、レベル2の俺は一味も二味も違うのだ!
………………恥っっず。
俺も熱くなった顔を机に伏せると、スマホからロインの通知が鳴る。
開いて見れば。
『忘れてたやつ、ジュース代貸してって言うのだった』
貸しません。
♪ ♪ ♪ ♪
バイトが休みとあり、家に直帰していた。
最近はいつも以上に諸用で外出する事が多く、家の中でまったり映画鑑賞や読書の機会が減りつつある。
今日は趣味に時間を費やせる貴重な一日だ。
正直、もう受験戦争が始まっているので怠惰に過ごす事は危険なのだが、約二時間の休憩くらいは許して欲しい。
まあ、今日も用事があるんだけども。
予定がオフという事で、家に虹夏が来る。
何やらひとりのギター購入に同伴するらしく、その後になるようだ。
文化祭で壊れたから、確かにそうか。
なので、俺は彼女が来るまで陽キャ男子から借りた本を読む。
実は二週間前にお薦めだと渡されたが、一向に手が付けられずにいた物だ。
本人には忙しくて読めていないと謝罪のメッセージを送ると、『女性問題があれば仕方ないさ、頑張って』と名誉毀損で訴えたい返信があった。
しかし、私物をいつまでも借りるのはいけない事だ。
早く読まなければ。
小説名は高田○介先生の『ま○り』。
民俗学的な側面が強い一作である。
理系の進路を選ぼうとしている俺からすれば、忘れかけた日本史の内容を再復習しなければ途中で躓きそうな内容……でもなく、きちんと解説もしてくれるので伏線回収で浮き彫りになる事実から受ける衝撃も決して弱くない。
それにしても、またエグい……。
陽キャ男子、と勝手に心の中で呼称している友人の内面を改めて疑いたくなる。
終盤に差し掛かって佳境に入った瞬間である。
スマホが着信で震えた。
俺は軽く舌打ちでもしたい気分になりつつ、画面に目を遣ると――『ひとり』と表示されていた。
一秒前の俺、天誅。
即座にスマホを手に取って応答する。
「もしもし」
『あっ、い、いっくん』
「どうした?」
『あっ、あのね、これから家に……行ってもいい?』
最愛の妹も同然のひとりの来訪を知った途端、陽キャ男子への罪悪感と内容への期待で読み進めんとしていた手がぱんっと本を閉じる。
体は正直である。
趣味は映画と読書だが、ひとりを甘やかす事が俺にとって最も至福の時間である。
この前のキスの件以来、ひとりと全く会話が出来ていなかったので、これは僥倖である。
だが――。
「ぐっ……ごめん……今日は用事があって……!」
『う、ううん!気にしないで!き、急に言ってごめんなさい!』
「ひとりは全然悪くないぞ。……それで、ギターは買えた?」
『あっ、うん……虹夏ちゃん達が手伝ってくれて』
「そっか。また今度見せてくれ」
『うん!』
ふんふんと荒い鼻息が聞こえる。
新しいギターの入手で興奮しているのだろう。……見たい。
「あ、家に来て何するつもりだったんだ?」
『………さ、最近いっくんと会えてないなって……』
………………。
深呼吸して、天を衝くような感動を飲み込む。
落ち着け、俺が鼻息を荒くしてもひとりに心配されるだけだ。
「たしかに文化祭から会えてないな」
『そそそそそその節につきましては大変申し訳――!!』
「あれは事故だから。気にしなくて良いぞ」
『…………』
「ん?どうした?」
『いっくんは……き、気にしてないの?』
「ん?ああ、気にしてないよ。だからひとりもそんなに気に病まないでくれ」
ひゅっ、と首を絞められたような声が聞こえた。
そのリアクションは、一体……?
ひとりの感情が読み取れず、俺もまた当惑で言葉が出てこない。
『そ、そう……ですよね……』
「あの、ひとり?」
ひとりが深呼吸している。
段々と掃除機レベルの音がしているが、ひとりの有する奇跡の体質ならば不可能ではないので、さして驚く事でも無い。
何か決意しようとしているようだ。
ならば、俺はいくらでも待とう。
スマホの傍で掃除機のノズルが暴れているかのような騒音がすること一分が経過……。
ようやく音が止まり、ひとりのか細い声が聞こえた。
『わ、わわ私は……嬉しかった……』
直後、ぷつりと電話が切れた。
俺はスマホを見詰める。
どうして急に切られたのだろうか。折角ライブ以来の話せた機会だというのに、唐突な終わりに胸中は寂寥感でいっぱいだ。
「まあ、嬉しかったのなら良い…のか?」
気懸かりではあるが、ひとりが購入し終えたとなると、そろそろ虹夏がこちらに来るだろう。
俺は閉じた本を机の上に置いて凝り固まった体を伸ばす。
すると、インターホンが鳴り響いた。
どうやら、来たらしい。
リョウもそうだが、虹夏もいつの間にかマンションのオートロックの暗証番号を知って普通に通過してくるようになった。俺は言った憶えが無いんだけどな……。
玄関まで行って、俺は扉を開く。
「やっほー、一郎くん」
「いらっしゃい。お菓子とジュースぐらいしか用意してないけど」
「大丈夫!私の方も色々買って来たよ!」
元気よく虹夏が片手に提げたビニール袋を掲げる。
手渡されたそれにはお菓子やペットボトルなどが見える。袋の底にはまだ色々とありそうなのが膨らみの大きさで予想できる。
俺に断って虹夏は家に上がり、颯爽と居間へと向かう。
あの様子は、いつもの明るくて優しい虹夏だ。
俺が危険視していた事態もなさそうだな。
少しだけ安堵し、袋の中身はどうかと更に探るべく視線を中へと移して――――絶句した。
「………これ、え?」
俺は袋から『箱』を取り出す。
ソレが何であるかは知っているし、最近使う機会があったので用途も理解している。生活品として普通にコンビニでも販売されているが、慣れていないのもあってまだ目には刺激の強い物だ。
なぜ、これを虹夏が……?
俺は、虹夏が待っているであろう居間へと振り返る。
こ、コレ……まずいのではないだろうか。
わざわざ差し入れとして買ってきた物に紛れている時点で、明らかに作為的な意思を感じる。
普段リョウに鈍いと謗られる俺でも、この状況が察せた。
「ま、まさかな」
「一郎くん?」
「ん?」
虹夏の声に俺はそちらへと振り返りつつ背中に『箱』を隠した。
居間の扉から黄色いサイドポニーを揺らし、眩しい笑顔でこちらを見詰めている。
駄目だ。
これは『箱』、の中身を虹夏に使わせてはならない。
このまま隠して、彼女が買い忘れた事にしてしまえば一件落着になるかもしれない。
「どうかした?」
「何でも無いぞ。貰ったお菓子とかを確認してただけだ」
「……そっか。袋の中身、全部机に出しといてね」
まずい。
明らかに『箱』の存在を俺に見せようとしている。買い忘れたのではないか、などという勘違いを誘う作戦は無意味かもしれない。
前までの俺とは違う。
レベル2になった俺は、今までのような逆境なら跳ね返せる。
だが……今回のは明らかに困難さの桁が違う!
レベル2の案件ではない。
虹夏が嬉しそうに手招きしている。
「ほら、早くっ」
これは―――レベル3の試練だ。
一郎はどうすれば生き残れる?
-
今すぐ家を出る。
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トイレに閉じ籠もる。
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誰かを呼ぶ。
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虹夏を失神させる。
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諦めて楽になろうぜ。