前に書いた虹夏バッドエンドが続いてしまった……。
一郎くんとの秘密の同棲生活が始まって二年以上が経っている。
それなのに、私は駄目だ。
未だに彼を心配するみんなに報告出来ていない。
二人での生活を心地好く思っていて、手放すのを惜しくなっている気持ちが私を躊躇わせる。
「我ながら駄目人間だなー」
洗濯物を畳みながら、私はため息をついた。
結局、自責の念に駆られるのはこの時だけで少し経てば二人でいる時間の幸福を噛み締めて、これからも続けばなんて夢想する。
リョウには酷い事をしている自覚はある。
ぼっちちゃんの涙を止めるなら話すべきだ。
喜多ちゃんに気遣わせる必要も無くなる。
そんな諸々の悩みの解消を一挙に行える手段が手元にあるのに、私は甘美な優越感から幾度となく事情を打ち明けるタイミングを見送ってきた。
「……虹夏」
「あ、一郎くん。その格好は……!」
「何だよ、その反応」
洗面台の扉が開いて、一郎くんが現れる。
久し振りに髭も剃って、身形を整えていた。
叔父さんの郁人さんに似てきた彼だが、何と見慣れないスーツに身を包んでいる。
うわあ、物珍しさと着込んだ彼が思いの外似合っていて興奮に思わず拍手してしまった。
訝しむその顔だけは、二年間と変わらなくて可笑しいけど。
「スーツ着て何処行くの?もしかして就活?」
「……いや、謝ってくるというか」
「謝る?」
一郎くんが気まずげに視線を逸らして頭を掻く。
「……これから山田家に行ってくる」
…………え?
聞き間違い、だろうか。
私の困惑顔に言葉が届いていないと思った一郎くんが、再度「山田家に謝罪してくる」と告げた。
さあっ、と私の全身から血の気が引く。
たしかに、いつかはやるべきだと考えていたけれど。
どうして、『今』なの?
「ど、どうして急に」
「……虹夏に十分助けてもらったからな。『結束バンド』が軌道に乗ってきてるのも知ってるし、流石に立ち直って虹夏の夢に集中させてやろうって……ようやく思い直した感じだ」
語られているのは嬉しい内容なのに、胸は張り裂けそうなくらいの悲しさに痛む。
自分でもかなり呼吸が浅くなっている事に気付いた。
駄目だ、こんな動揺見せたらいけない。一郎くんに余計な心配をさせてしまう。
彼がようやく前向きに生きようとしてくれてるんだ。
その為に、まず一歩目である山田家への挨拶に行くだけ。だから、邪魔なんてしちゃいけないんだから何とかして止めないと。
どうしよう、どうしよう。
でも、混乱した頭では何も思いつかない。
玄関へと向かう一郎くんへと伸ばした手を彷徨わせて、気づいたら彼が飲み干した酒瓶を手に取っていた。
そのまま無防備な彼の背中へ飛びつくように近付き、気付いたら片手のそれを振り上げて――。
『ピンポーン』
「ん、誰だ?」
「え?」
鳴り響いたインターホンに振りかぶった酒瓶を止める。
私はさっとそれを近くに置き、彼より先に玄関へと向かった。
誰だろう、近所の回覧板かな。
でも、このタイミングは助かる。応対している間は一郎くんも家を出ないだろうし、少し考える猶予が増える。
混乱に騒いでいた心臓を落ち着かせるように胸を撫で下ろし、私は玄関扉を開けた。
「あっ、伊地知先輩!一郎先輩も、おはようございますっ♪」
私を迎えた眩しい笑顔に思わず顔が引き攣る。
この家を知らない筈の後輩にしてバンド仲間の喜多ちゃんが目の前でにこやかに私とそのウシロにいる一郎へと挨拶した。
私はあまりの衝撃と動揺のあまり、無意識に声にならない声で「どうして」と尋ねていた。
その反応を見た喜多ちゃんは恍惚とした表情に変わる。
「だって、一郎先輩の話題が上がるとみんな内心穏やかじゃいられないのに、伊地知先輩だけ妙にその時は落ち着いてるんですよね。リーダーとしてみんなを余計に混乱させない為になのかな、とも思ったんですけど『女が見せる変化』って、いつもその裏には『男』がありますよねっ!」
「っ、ぁ……」
「何で伊地知先輩が隠してたかは、凡そ見当がついてます。きっと、一郎先輩とみんながちゃんと会えるまでの心の準備が整う時間を作るためですよね」
「ぁ、そ、そう――」
「だから」
感動したような喜多ちゃんに抱き締められる。
熱い吐息が耳朶を擽った。
「もう大丈夫。みんなで、仲良くしましょ」
喜多ちゃんの台詞に、私は何も言えなかった。
ただ、抱きしめられた状態でふと玄関扉の影からこちらを覗いている眼差しに気付く。――ふたりちゃんだ。
「ふたり、ちゃん?」
「喜多ちゃんに教えたんだよ?」
「え……」
「ここ二年間、友だちのお姉ちゃんといっくんが一緒にお酒を飲んでたら、いっつも可愛くて明るくて面倒見の良さそうな金髪の女の人が迎えに来るって聞いたの」
えへへ、とふたりちゃんが無邪気に笑う。
この日、私と一郎くんの生活は唐突に終わりを迎えた。
それから二年、あっという間に時間は過ぎていった。
心配をかけた山田家や後藤家等の方方に報告と謝罪をした一郎くんは、今までの時間を取り返そうとする勢いで自分の生活環境を整えていく。
最初は山田家に部屋を借りてリョウの両親のところで働き始め、ある程度の資金が手に入ると一人で部屋を契約して。
すっかり私の助けなんて要らない人になっていた。
そう、私なんて。
「一郎。いつ山田になるの?」
「ならないと駄目なのかよ。結婚しなくてもオマエずっと粘着してきそうだろ」
「連絡も無く置き去りにされた最愛の女が影でやけ酒していたとも知らず」
「…………」
「泣いた事はないけど。お酒美味しくて」
「飲みたかっただけじゃん」
隣にはリョウがいる。
私の入る隙間なんて、一切ない。
ああ、いつか来るこの瞬間に怯えていたのに、今は悲しくも何とも無い。
ただ、胸の中で一つの感情だけが育っていた。
みんな、どうかな?
今の一郎くん、私がいたから立ち直れたんだよ。私がいたから、今みんなと笑い合えているんだよ?
ねえ、一郎くん。
だからさ、私も欲しいな。
謝罪じゃなくて、もう一つの方を……ね。
ある程度生活が落ち着いてきたところで、一郎くんは私のところにも戻って来た。
あの部屋は名残惜しくて解約しておらず、二人きりで落ち着いて話せるし、懐かしいからとそこに彼を招いた。
一郎くんはこれまで私が費やした生活費分を入れた封筒と一緒に訪れた。
「本当に世話になった。人生やり直せたのも虹夏のお蔭だ」
「それは何度も聞いたから、良いんだって。一郎くんが一番頑張ったんだよ。立ち直れて偉い!」
「……その言葉だけで胸がすくよ」
苦笑する一郎くんに私も笑って、机の上に酒瓶を出す。
「よし、今日はもう飲んじゃお?」
「え、今から?」
「今日はオフでしょ」
「まあ、そうだけどさ」
「じゃあ、乾杯!」
「えぇ……?」
強引に一郎くん用のコップにお酒を注ぐ。
私の勢いに気圧された彼が、渋々といった感じでコップに口をつけて、ん?と小首を傾げる。
「何か妙に……」
「ん?どうしたの?」
「……いや、まさかな」
何か違和感があったのか、でも気の所為だという事にした一郎くんが一杯を飲み干す。
私は間髪入れずに彼のコップを再び満たしながら、昔話に花を咲かせた。ここでぐーたら過ごしていた彼の恥ずかしいエピソードといい、高校の時に積み重ねた二人の友情の始まりについても語り、二人だけだというのにとても盛り上がった。
そんな楽しい酒宴は、一郎くんが机の上に突っ伏して眠りについた事で幕を下ろす。
そう、彼の宴は。
「うん。準備万端だね」
私はようやくだ、と内心でほくそ笑んで一郎くんの襟に手をかけた。
翌朝、お互い生まれたままの姿で起床する。
狭いベッドを二人で共有していた事と、この状況に顔色を青くした一郎くんと目が合った。
ようやく、胸の中で育ち膨らんでいた感情が花開く時が来た。
私は一郎くんの素肌に自分の素肌をすり合わせながら、彼の胸にとんと頭を置く。
「どうしよう。一郎くん、やっちゃったね」
今度は、一郎くんが私の面倒を見てね?
誰が悪魔だった?
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前田一郎
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山田リョウ
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伊地知虹夏
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後藤ひとり
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喜多郁代
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後藤ふたり