朝からネスティとマグナは書庫にこもりきりだった。
先の一戦では少しも情報の入らなかった正体不明の敵について誰も楽観はしていなかったが、特にネスティは人一倍気を揉んでいたらしい。敵の正体が分からないうちはこちらの出方も決められない、見聞の旅の再開の目処も立ちようがない、だからと言っていつまでも先輩たちの厄介になるわけにはいかない。じりじりと精神を擦り減らしていたネスティは過去の資料の中に起死回生の一手がないか探していたようだけど、その手伝いにマグナなんかを駆り出したあたり、相当追い詰められているようだ。案の定というべきか、屋敷の裏庭で自主鍛錬のついで紫熟の練度上げをしていた私はふらふらと覚束ない足取りで裏口から出てきたマグナを半眼で見た。
「主もタイミングが悪いな。それに、信頼を深めるというなら訪ねる相手が違うだろう。相談相手にしたってもっと適当な相手がいただろうに」
終わりの見えない文献調べの最中、見事な失言によりネスの怒りを買ってしまったマグナはとりあえずの話し相手を求めて屋敷をぶらついたものの、運悪く誰も捕まえられずにここまで来てしまったようだ。フォルテたちは買い物に、ロッカたちは鍛錬に、殆どが出払っていることに気が付いた後で消去法で私を訪ねてきたのだろうマグナへと仕方なしに助言する。
「言いたいことがあるなら本人に言えばいい。他の誰かと話をしてたって何も進展しないぞ。……心配なんだろう?」
「……俺、ネスと話してくる!」
返事だけは文句なしに元気よく駆け去っていくマグナを見送ったのも束の間、今度はついに逆鱗でも触れてしまったのか。見るからにしょげきった顔つきですごすごと戻ってきたマグナへとどうにか絞り出せたのは、気分転換にひとまず街でもぶらついてきたら、という無難でありきたりな提案だった。
「なんで付き添う羽目になっちゃったかな……」
そんな何気なしの言葉が思いがけない方向に発展してしまった一日を振り返りながら、夜、私はよろよろと力の入らない足を動かして一階に続く薄暗い階段を一段ずつ下りていた。たった一言を切っ掛けにゼラムの街を一日練り歩く羽目になった身体には途方もない気疲れと単純な疲労が泥のように詰まっている。ミニスのペンダント探しと自分の知らないネスティの話を聞くために知り合い全員を尋ね歩くことにしたマグナに付き添い、行動を共にすることになったのは、けれど墓穴だったとも言えた。
「だってほら、タキツと俺じゃ目の付け所も全然違うしさ?」
いかにもそれらしいことを付け足しながら半ば強引に私を連れ出したマグナは宣言どおり、一日中街を歩き回って知り合いという知り合いを訪ね歩いた。
王城前では派閥の総帥と知らないまま親交を深めているらしいエクスと、劇場通りではケーキ配達のバイト中だったパッフェルと、一般住宅街の路地裏では仕込み中の屋台を出していたシオンと、鍛錬中の面々が集う再開発地区ではロッカとリューグ、そこから少し離れたところではどこか挙動不審な素振りの獣人の少女ユエルと。それから心の底まで見透かされそうな深遠な目をした酔っぱらい、メイメイとも話を交わした後は屋敷に戻ってミモザたちを訪ね、今まで知らずにいた兄弟子としてではないネスティの側面をいくつも知って教えられて、マグナは分かりやすく落ち込んだのだった。
実のところ結構な人見知りだったネスティが、この共同生活で受けているストレスはマグナが想像する以上に大きい。知らなかったとはいえ当然のように無理を強いていた自分自身に大いに呆れて凹んだマグナだったけれど、その事実を知っただけでも今日一日、私も足が棒になるまで歩き回った甲斐があったと言える。収穫は大いにあったはずだよと慰めてやれば慰めたで、眉根をぐっと寄せて何かを堪えるような情けない顔をするものだから、結局こんな時間になるまで相手をする羽目になってしまった。ネスティとの昔話やら愚痴やら弱音やら、どうにかマグナが眠気と疲労に負けてくれるまで鬱憤のように吐き出されるそれに耳を傾けて相槌を打つのは疲労困憊の身には大変な重労働だったものの、それでもマグナが得たものは大きかったはずだ。今後のことを考えても、それに私個人としても、今日の収穫は決して少なくないものだった。
「は? あのクソ兄貴がアンタにちょっかい掛けてるって?」
無心になって斧を振るっているリューグの傍に誰もいなくなったのをいいことに、最近疑問に思っていたロッカの言動を相談してみたのだ。初め鍛錬の片手間に聞いていたリューグだけど、小鳥の話を出したあたりで耳が動いて、最後の方は完全に手を止めて身体ごと向き直ってくれていた。双子が合流した最初の晩にあれだけの暴言を吐いた手前、引け目があったことは否定しない。リューグから私への心象も決して良くなかっただろうし、そこに身内を疑うような不躾過ぎる質問まで向けられては気分を害すること間違いなしと覚悟していた分、一通り話し終えた後にも嫌そうに顔を顰めたまま立っているリューグに私は肩透かしでも食らったような気分だった。
「ッチ、面倒なことになってんな」
「……その、私が何かやったんじゃとは思わないのか? 正直、私自身、それを疑っていたんだが……」
「だったらもっと分かりやすくやり返すぜ、兄貴は。アンタのことを気に入ったか、あるいは」
転がる瓦礫に斧を立てかけ、盛大な舌打ちと共に苦々しく吐き捨てたリューグは何かを思い出したようにふと言葉を切った。気に入ったか、気に食わなかったか。どちらにしたところでロッカはああいった行動に出るということだろうか。思わず暗鬱な気分になってしまうが、話を早々に切り上げたかったのか、リューグは締め括るように告げた。
「まあ、何でか知らねえがアンタに興味が湧いたんだろ。何考えてるかなんて俺にも分からねえが、ああ見えて兄貴は一度決めると譲らねえからな」
それに逃げる獲物は追いたくなるもんだろ、と渋い顔で続けられて、だけど私の方はまるで目から鱗が落ちる思いだった。
なるほど、言われてみればそのとおりだ。気にしようが気にしまいがロッカの言動は変わらないというなら、こちらばかりが気にするなんて不公平もいいところだ。何を探られようが見張られようが、それで痛む腹などないとばかりに平気な顔をしておけばいい。下手に避ければ避けるほど相手を煽ることになるのだから、それなら、という単純明快な答えを手に入れて視界が明るくなった気さえした。言ってみれば、リューグ自身は助言とも思っていないだろう言葉ひとつで俄然、気が楽になったのだ。
だからこそ凹むマグナに付き合う気にもなったし、こんな時間まで起きていられたんだな、と自らを労わるようにしみじみと噛み締めながら階段を下り切った私は、疲労が一定値を越えたせいか逆に軽く思える足を進めて明かりの付いている台所を覗き込んだ。
「こんばんは、アメル。朝食の仕込みにしては量が多いようだけど……?」
「あっ、え、えへへ……そうですかね?」
もうじき日を跨ぐ時間だというのにせっせと芋の皮剥きに、ジャガイモやサツマイモの下処理にひとり手を動かしていたのはアメルだった。水を飲みに来たのを思い出してコップを手に取るも、うず高く積まれた芋の山をしげしげと眺めてしまえば挙動不審な笑みが返ってきて、その拍子にふとミモザの企み顔を思い出す。ああ、フロト湿原への突発ピクニックか。冷たい水を飲み終えてコップを洗って戻したついで、他の包丁を手に取ってみれば慌てたような声を上げるアメルだったけれど、気にせず手近な芋を持って剝き始めてしまえば諦めたように肩を落として力の抜けた笑みを覗かせた。
「あの、ありがとうございます。……お芋のことだけじゃなくて、タキツさんにはロッカとリューグのことでもお礼を言いたくって」
慣れた手付きで刃先を芋に滑らせながらの眼差しは柔らかく、まさしく聖女に相応しい横顔だ。けれど今のアメルは仲間のためにミモザに頼まれた大役をこなそうとしてるだけの女の子。水を差すようなことは言わずに、私は肩を竦めて頬を軽く持ち上げた。
「気にしないで。成り行きだけど今は仲間同士、変に遠慮することはないよ。それに私はただ、美味しいお弁当目当てで手伝うだけだからね」
冗談めかして言えばアメルがくすくす笑いに小さく肩を揺らす。ピクニックが終わればまた満足に笑えない日々がやってくると知っていれば、それを止める気になんてならなかった。
ミモザ発案の突発フロト湿原ピクニックに盛大なクレームの声を上げたのは案の定、ネスティだった。
正体不明の敵に狙われているのに信じられないと先輩相手にも関わらず猛然と食って掛かっていったネスティの言い分は全く持って正しいが、フィールドワークや理論の実践において他の追随を許さないミモザを相手取るにはあまりに練度不足だったと言うべきか。晴れやかな笑みと巧みな弁舌の合わせ技で矢のような指摘を軽くいなして躱し切り、気が付いた時にはミモザの側に完璧に主導権が移っている。軽やかに手を鳴らして出かける準備を急かすミモザに、半ば強引に押し切られたネスティたち男性陣が不平不満をこぼしつつも仕方なしに身支度を整えて街道を進んでいく光景は圧巻の一言で、悪びれた様子もなく笑っているミモザの笑顔は太陽のように眩しかった。
「マグナ……裏切り者め……」
ただし、ネスティの方は暗雲雷鳴もかくやとばかりの不機嫌な顰め面だ。ミモザとセットですっかり主犯扱いのマグナに眼光鋭く吐き捨てるネスティの怒りは暫く尾を引きそうな具合で、今回はただ巻き込まれただけのマグナが情けない声をこぼしている様子には少しばかり憐憫の情を抱いてしまう。とはいえ巻き込まれては堪らないので、静かに距離を取りつつ紫熟を詰めたバックパックを背負い直した私は街道を行く皆の様子に目を配った。なんだかんだで皆、いい気分転換になっているようだ。ケイナやミニスは楽しくお喋りに花を咲かせているし、仏頂面のネスティもフォルテに話しかけられてからは穏やかに声を返している。マグナも誰かと話すつもりなのか、きょろきょろと辺りを見渡している。と、眺めていたそこでぱちりと音が鳴るような勢いで目が合った。途端に相好を崩して小走りで近寄ってくるマグナに知らず苦笑をこぼして、こちらからも距離を詰めようと踏み出した私は、誰かに腕を掴まれたことで引き戻される。
「タキツさん、よければ僕とお話しませんか?」
「タキツ! 暇なら話でもしよう、ってロッカ? 珍しいな、タキツが誰かと話してるのなんて」
「仲間になった以上、少しでも仲良くできればと思いまして。マグナさんも一緒にどうでしょうか?」
マグナの疑問に答える間もなく笑顔のロッカに退路を塞がれて閉口してしまうが、だけど、今日は負ける気なんてない。
深呼吸をひとつして顔を上げ、マグナとロッカ、それぞれの顔を順繰りに見てから仕方ないとばかりの苦笑を浮かべてみせる。ロッカの腕を軽く叩いて離してくれるよう柔らかく促しながら、いつもどおりの表情を意識して私は穏やかな声を返した。
「いいよ、せっかくだし三人で話そうか」
軽く目を見張ったマグナとロッカが年相応の男の子らしい顔をしていることに、私は息を吐くように笑っている。
実際、無理に距離を取ろうとせず聞き役に徹してみれば、何てことはなかった。なぜかマグナとロッカの真ん中を歩くことになってしまったけれど、湿原へと向かう道を歩いているのは私たちくらいで他に通行人の姿もないし、違和感だってわざわざ指摘するまでもない些細なものだ。ミニスと一緒にはしゃいだ様子のアメルを微笑ましく眺めたり、村でおてんばだった頃の話を聞いては聖女になる前のアメルに思いを馳せたり、長閑な景色を見ながら足を進めていく間にも緩やかに話は深まっていく。
「村があんなことになって、あの子は解放された気がするんです。あの子には幸せであって欲しいんです、誰よりも……」
ふとこぼれ落ちたようなロッカの言葉に、瞬時に諫めるような厳しい目をしたマグナが珍しく眉根を寄せて難しい顔をした。ロッカを見つめて何か言おうと口を開けては思い直したように動きを止めているけれど、あと十数秒も放っておけば何らかの言葉を放っていたことだろう。そこまで理解していた上で、私はあえて緩い口調でロッカに同意を返すように頷いた。
「なるほどね。君が大事にしているものが何なのか、改めて分かった気がするよ。言いにくい話を打ち明けてくれてありがとう」
「……そういえば、タキツさんはマグナさんの護衛獣、というものなんでしたっけ? お二人も互いに互いを気に掛けている様子が伝わってきて、何だか羨ましくなりますね」
滅多になく好意的な反応を見せた私に調子を崩しでもしたのか、急に話題を変えて誉め言葉を投げかけてくるロッカに動揺したのは私ではなくマグナの方だった。ただし、喜色に表情を明るくしたわけでもない。どこかバツの悪そうな顔をしてぽりぽりと頭をかきながら視線を虚空に迷わせる。
「あー……色々と事情があって、本当のことを言うとタキツは俺の正式な護衛獣ってわけじゃないんだ」
「本来の召喚主、私がマスターと呼ぶ相手は別にいるんだよ。召喚時の事故みたいなもので今はここにいるけど、それもマスターと再会するまでの時間制限付きというわけさ。それまではきっちり今の主、マグナを守るつもりだけどね」
「……なんか、珍しいな? タキツがそこまで自分のことを話すなんて」
マグナの方が背が高いこともあり垣間見えてしまった横顔が思いのほか萎れていて、今まで黙っていたことをわざと口に出してしまったけれど、それでついに違和感を見過ごせなくなったのか。躊躇いがちに疑問符を浮かべたマグナへと安心させるような笑みを投げ掛けて、努めて何でもないことのように続けた。
「この際だからね。主はもちろん、ロッカも最近、私のことを気に掛けてくれていただろ? 仲間として親交を深めるのは確かに大事なことだしさ」
そう、変に構えるのを止めたのはロッカ相手だけでなく、マグナに対してもだ。
ビーニャの護衛獣である以上、いずれ戦場で相対することが約束されているのに親交を深めたところで何になる。気を許せば許すだけ、親しみを抱けば抱くだけ、後々互いに苦しむだろうことは目に見えている。それなら無理にでも距離を置くべきだ。
そう、これまで考えていたけれど、それが上手くいっていないからこその現状なのだ。それならいっそ開き直ってしまえばいい。どんなことになろうとも私がビーニャを優先することは決まっているのだから、後々どれだけ困ったことになろうとも、今は気にせず仲良くすればいいだけのこと。ひとまずは今を乗り越えないことには先に繋がらないのだから、と結論付けながら私は端然と微笑む。
「主たちとどれだけ親しもうと、私の中でマスターが一番なのは変わらないことだしね」
「へぇ。タキツさんは随分、そのマスターという方を慕っているんですね」
これを胸襟を開くと言っていいかは怪しいところだけど、心境の変化をあっさりと肯定してみせればロッカは僅かに眉を上げた。
「そうなんだよ。俺のことを主って呼ぶのもそのマスターって人と重ねたくないからだって言うし、俺の扱いなんてそんなもんなんだよな……」
何とも言えない顔をしたマグナがしみじみとロッカに同調するように首を縦に振って、哀愁たっぷりに頷く。
「そもそも比較対象にないからね。マスターはマスター、主は主だよ」
ビーニャとマグナを比べることなんて出来ないのにマグナは妙なところを気にする。眉を下げて困った声色を返すと、それなら、とマグナはどこか不貞腐れたような声で言った。
「そのマスターの好きなところを教えてくれよ。俺、タキツのマスターについてちっとも知らないんだからさ」
「それは僕も聞いてみたいですね」
左右からそれぞれ興味と嫉妬めいた視線を注がれて、私は困惑しつつも急いで思考を巡らせた。嫉妬めいたそれは私がマスターを贔屓することへの反感だろうけど、マグナみたいな大らかな性格の持ち主でも自分の召喚獣に対する所有欲めいたものがあるらしい。ちょっと意外な気もするけれど、一族固有の秘伝召喚術や先祖代々伝わる召喚媒介なんてものがある世界だ。召喚師の間ではそれも常識なのかもしれないと、すぐには理解の難しい世界に思い馳せながら、差し支えない範囲でのビーニャの好きなところを頭の中で並べた私は指折り数え上げていくことにした。
「好きなところも何も全部でしかないけれど……小さくて愛らしいところ、ちょっと我儘ですぐ癇癪を起こすところ、泣いて喚いて尋常じゃない被害を出してもすっかり忘れてしまうところ、自分が一番に優先されないとすぐ機嫌を損ねるところ、暴虐非道を尽くしても笑うと天使みたいなところ、私のことを側に置いてくれているところ」
「ちょ、ちょっと待った!? なんかおかしくないか、それ」
ひとつひとつ振り返っていくと無性に懐かしくなってしまって気分が高揚するまま声を弾ませていた私は、突然声を遮ったマグナに不満げな眼差しを送った。それでもマグナは怯まず、矛盾を追及するとばかりに声高な指摘を口にする。
「だって、タキツが言ってたことって大部分が欠点じゃないか? それもかなり致命的な」
「おや、着眼点が鋭いな。主も成長しているんだね」
「……常識的に考えれば欠点に過ぎなくとも、貴方からすれば美点に映る、ということですか?」
言い訳めいた口振りながらに正しく違和感の正体を見抜いたことへと感心半ばの声を返せば、そうじゃなくて、と照れたような怒ったような顔をするマグナはやっぱり可愛げがある。笑みを誘われて目元を和らげた私に、それでも顔を顰めながら問いを重ねてきたのは場の空気に流されなかったロッカだ。そこまで嫌そうな顔をしなくてもと内心思いつつ、待ち望んでいた確認に私はにっこり満面の笑みを浮かべてみせた。
「正解。あばたもえくぼ、ということだよ。マスターの美点も汚点も私は等しく知っているけれど、全部ひっくるめてマスターのことが好きなんだ。だからそう心配せずとも大丈夫だよ」
晴れやかな気持ちで微笑みかければ、ロッカもマグナも揃って口を閉じてしまう。すっかり納得してくれたらしい二人の様子に溜飲を下げながら少しばかり胸を張って、前方に漂い始めた白い霧の向こうへと目を細めた。柔らかな白のベールを越えればもうじき、どこまでも鮮やかな緑と青に彩られたフロト湿原が、そして数日ぶりの黒鎧の兵士たちが待っている。
どでかい墓穴を掘る回。仲良くしてもしなくても詰み。