次の日、マグナの部屋に集まった全員で今後の方針について話をすることになった。
デグレアという国家の在り方に軽く触れたところで早くも本題に入ったのは、敵の正体が判明した今、一刻の猶予もない事態と見てのことだろう。敵はまさかの国家単位であり、相手取るのは旧王国デグレアそのもの。逆に言ってしまえば、このまま聖王国ゼラムにいる分には国家同士の全面的な衝突を避けるために敵もそうそう無茶は出来ないはずだが。だが、しかし、これから先は?
フォルテの言葉に端を発したその疑問はネスティの同意の下に補強され、吹き上がるような不安と懸念が皆の胸に広がった。あれだけ大勢の人々でひしめくレルム村に容赦なく火を放ち、女子供や病人の区別すらなく無慈悲に、一方的な虐殺を繰り広げた敵の姿を、この場にいる面々は目の当たりにしているのだ。必要となれば決して手段を選ばない敵がこれから取り得るだろう行動を想像してしまった皆の顔色が、一気に暗く重々しいものへと変わっていく。頭上に立ち込める暗雲の禍々しさに続く言葉も途切れがちになったそこで、目に見えない流れに待ったを掛けるように遮る声があった。
「だが、今は敵の動向より先に考えるべきことがあるんじゃないかい? これから先、君たちがどうしたいのかと言うことだよ」
政治的判断からすればアメルを引き渡してでも戦争を回避するのが望ましいだろうが、とギブソンが続けようとした言葉の途中で反対の声を上げたマグナはきっと、頭に血が上っていたのだろう。自分たちの敬愛する先輩がそんな選択を良しとするはずがないと、普段であればすぐ気が付いただろうに反射的に噛みついてしまうほど、今のアメルのことが心配で大切でたまらないのだ。それでも本来のマグナの気質としては決して血の気が多いわけじゃない。ネスティやケイナの窘める声にすぐに冷静を取り戻すと、最後まで聞かずに突っぱねたことを恥じ入るように短く謝罪を告げて押し黙った。ギブソンの方は動じた様子もなく、そんなマグナに向けて微笑みを絶やさないまま静かに問いかける。
「よく、考えてみるんだ。君たち一人一人が本当に望んでいることを。結論を出すのはそれからだよ」
静かに諭すような声色で、ひどく重々しい決断を迫る瞳は終始、穏やかな笑みを湛えていた。
そんな遣り取りがあったおかげで、私はまたもや広間のソファに腰かけて借り物の召喚術の教本を読み耽っていた。
仲間たちの意見を聞きに街へと出かけたマグナもいずれ戻ってくるだろうし、それまでにギブソンに借りた初級教本の類だけでも読み切れたなら御の字とばかり黙々とページを捲っていく。ギブソンとミモザの蔵書数の多さから書庫さえあるくらいの屋敷だ。初心者向けに分かりやすく噛み砕いた解説を載せた教本も複数見つけられたことは幸いだった。こうまで事態が差し迫っている中でいちいち疑問を解消するためにギブソンの手を借りるのは気が引けるし、たった数日とはいえ直々に解説を受けたおかげだろう、一人でも読み解ける記述が格段に増えたこともあって読みやすい本を優先して片付けていく。霊界サプレス、幻獣界メイトルパ、そして無機物の召喚に特化した名もなき世界。脇目も振らず読書に没頭していた私の意識を不意に引き戻したのは、紅茶のカップに角砂糖が落とされる、小さな水音だった。
「君はもう決めているようだね」
いつの間にか定位置らしい向かいのソファに座っていたギブソンが、白い陶器のカップを持ち上げながら柔らかく目を細める。微笑ましいものでも眺めるような眼差しを向けられると、どうしたって気恥ずかしさが込み上げてしまうのは変わらない。けれど一宿一飯以上の恩がある身としては素直に答える以外の選択などあるはずもなく、開いた本から顔を上げた私は困ったような笑みを浮かべて、それはまあ、と軽く肩を竦めてみせた。
「これでもマグナの護衛獣ですので」
マグナが選ぶだろう結論なんて分かり切っているし、例えそれが私の想像から外れていたとして何も迷うことはない。マグナの護衛獣である限り、私はマグナと共にあるのだから。
そう決めているのだと、言外に告げた私にギブソンはどこか嬉しそうに頬を綻ばせると、熱い湯気を立てる紅茶をゆっくりと味わうように飲み下した。
その数時間後、皆の考えや意見を聞くためにゼラム中を訪ね歩いてきたらしいマグナが結論として語ったのは、やはり私とギブソンが思い描いたとおりのものだった。途中迷ったり躊躇ったりもしたのだろうけど、おそらくはネスティから後押しを貰えたことが何より大きかったに違いない。アメルを守ると決めた気持ちを、思いの丈を、真っ直ぐにギブソンを見つめて語るマグナの横顔は凛々しく、かすかに口元を綻ばせたギブソンの胸の内が私からは手に取るように分かった。
自分自身が正しいと思うことをやること。理屈には合わなくても、その気持ちに迷いがないなら正しく真実になること。
ギブソンの告げたそれは私も心底同意しかない言葉だけれど、震えるほどの感銘を受けたのだろうマグナが勢いよく振り返って、何か期待のこもった眼差しを投げかけてきたことに堪らず苦笑をこぼしてしまう。きらきらと眩しい瞳が何を期待しているかは聞かなくたって分かる。ネスティがしたように背中を押して欲しい、マグナが考え抜いた結論を認めて欲しいといったあたりだろう。
でもそれは私のやることじゃないし、と片手を払うように振ってテラスを指し示すと、わざとらしく呆れた口調で告げた。
「ほら、せっかく先輩に太鼓判を押して貰えたんだ。次に向かうべき相手は分かるだろう?」
「え……あっ、アメルがそこにいるのか!」
それだけで思い浮かんだ人物の元へと慌てて駆け出すマグナを見送って、私はこっそりと頬を緩ませた。
悔いの残らない答えがその人にとっての真実。ギブソンの語ったそれはマグナの胸に深く刻み込まれたことだろう。絶対に悔いの残らない答えなんて存在しないけれど、少なくとも今のマグナにとっては何よりも背中を押される言葉だったはずだ。他人に嫌われたり迷惑をかけるのを怖がって自分に嘘をつくことはそう難しいことじゃない。けれど、心を開いて向かい合うことを避けていればいつまでたっても一人でいるのと変わらない。勇気を出して踏み出さなければ、確かなものなんて何ひとつ手に入らないのだ。
腹を括ったマグナの言葉がどう響いたかは、庭先に集められた皆の顔を見るまでもなく分かった。アメルを渡したりなんかしない、何があっても守るのだと、真剣な顔をして言い切ったくせに皆も同じ気持ちとは想像していなかったらしいマグナへと、呆れた顔つきのネスティやケイナ、ミニスが思い思いに非難の言葉をぶつけていく。何を薄情なことを言っているのだと、妙なところで他人行儀な弟弟子に業を煮やしたネスティが最初に強烈な一撃を食らわせたのもあってマグナは殆ど涙目だったけれど、向けられる声のどれもが温かく優しいものだと気が付くのは早かった。その顔が喜びに綻んでいくと同時、緊張のあまり強張っていたアメルの表情も泣き笑いに崩れていく。
「アメルを守るのは僕にとって当然のことです」
「みんな……ありがとう……」
迷わず断言したロッカの言葉を受けてついに目尻に涙を浮かべたアメルを眺めていれば、何かを期待するようなマグナの視線が向けられた。さっきはっきり答えてやらなかったから、今度こそ、ということだろうか。確かにはっきり言葉にして伝えたのはギブソンにだけだけど、ネスティですら私の結論は知っているとばかりの態度なのに、マグナはどうにも拘るらしい。どうせ答えは分かっているくせに、と苦笑に口端を歪めつつ、私はかすかに眉を下げて変わらない答えを口にした。
「もちろん付き合うよ。主の選んだ道なんだから」
さて、これで結論は出た。具体的にはどうするかという話に移ってすぐ、アメルが祖母の話を思い出したこともあり、追手を交わしながらひとまずアメルの祖母が住むという村を目指してみることに方針が決まるのも早かった。かつてアグラに聞いたという祖母の住まう村はレルム村から見て西方にあるらしく、徒歩で移動することを考えても早め早めの出発が望ましいだろう。いつまでもギブソンやミモザに迷惑を掛けるわけにもいかないからと、あえて何も告げずに明日深夜に屋敷を発とうと決めたマグナに異論の声は出なかった。そうして各々がこっそりと急ぎ足で旅支度を整えていく間、私はといえばやっぱり、ギブソンに借りた本をひたすら熱心に読み耽っていた。荷物はいつだって最小限にまとめてあるし、先の戦いではコガラスマルという刀も拾えているし、準備としてはこれで十分。そうなると、心残りは出来る限りの教本を読み切るということだけだった。
「相変わらず熱心だね。この調子だと、ひょっとするとマグナよりタキツの方が詳しくなるかもだよ」
「う……かもしれない」
「知識はあるだけで武器になる。主も少しは意識した方がいいよ」
穏やかなばかりの談笑を交わしているギブソンたちの前でようやく最後の一冊に手を掛けた私はゆっくりと表紙を開いた。身体を縮こまらせて情けない声で頷いているマグナの姿を横目に見るうち、奇しくも今夜は満月だと思い出す。月が中天に差し掛かる頃には夜道を駆けているだろうことを思えば、それが例え付け焼刃だとしてもひとつでも多くの武器を得たくてたまらない気持ちは嘘じゃなかった。
まだ、マグナには召喚術を使えることを明かしていない。出来たら最後まで明かすつもりはないけれど、場合によってはそれも諦めるしかないな、とポーチの奥に隠し持ったサモナイト石を撫でながら、私はカップの底に僅かに残った冷えた紅茶を流し込んだ。
ゼラムの街が寝静まった夜深く、街道を進むこと暫くして進路を草原へと切った私たちは、月明かりを頼りに道を急いでいた。まず間違いなく街道は見張られている中、デグレアの目から逃れるために山越えを試みるか、街道を迂回するか、草原を突っ切るか。いくつかあった選択肢からマグナが選んだのは平坦な草原を早足で突っ切ることだった。どれを選ぼうと三者三様の激戦が待っていると知っているのは私だけだが、追撃に備えて少しでも立ち回りやすいところを選ぶのも戦略のひとつであることは確かだ。そう語っていたのはネスティだったけれど、どれも一長一短ある選択なのだから大して悩まず決めた時点で大正解だろう。野山を遊び場に育ったアメルやロッカ、リューグが先陣を切る形で進み始めた道中は、今のところ順調だった。
「主、そこ、木の根が突き出てる」
「あ、ありがとう。それにしても冒険者のフォルテやケイナはともかく、タキツもなんでそんなに夜目が利くんだ?」
草陰に隠れた根っこを覚束ない足取りで避けたマグナが不思議そうな声をこぼし、私は墨を塗りこめたような地べたの暗がりに目を凝らしながら答えた。
「少しコツを知ってるだけだよ。マスターも敵が多かったから特訓したんだ」
さすがにアメルたちみたいには行かないけど、と闇に隠れた木の根や小石に目もくれず軽々と越えていくアメルやロッカを感嘆交じりに見ながら続ける。特訓したと言っても所詮は付け焼刃、幼い頃から野山に慣れ親しんでいる彼らのようにはとても行かない。そっか、と声を落として相槌を打ったマグナも同じことを考えたのだろう。先ほど、出来るなら村の様子を確かめておきたいと口にしていたロッカの心中を窺うようにマグナがその視線を持ち上げたところだった。
「……どうやら無茶以前に無理みたいですね、これは」
緩やかな丘陵を描く草原の中ほど、やっと開けた場所に出たところだった。そこで私たちが目にしたのは、大岩にどっかと腰を下ろし雲ひとつない夜空に輝く月を優雅に眺めるルヴァイドの姿。
待ち伏せされていた、と認識が及ぶと同時に、逃げろ、と即座の号令を放ったマグナはさすがに場数を踏んできただけあったけれど、すかさず草影に潜んでいた兵を放たれ乱戦に持ち込まれてしまえば味方同士もあっという間に遠くなる。
「タキツさん!」
最前列にいたロッカの鋭い呼び掛けに振り向きざま刀を一閃すれば、接近していた兵士の振り下ろす大剣とぶつかりあう鈍い金属音と衝撃が響いた。思いがけない反撃に軸足が揺らいだ兵士へとロッカの繰り出した槍が隙を逃さず追撃する。ど、と鈍い音を立てて緩やかな斜面を転がっていく兵士の影から月明かりの戦場へと意識を引き戻し、比較的近くに見えたネスティの元へと私は駆け足で距離を詰めた。
「ネスティ、マグナは!?」
「あっちだ! ロッカ、君は僕と一緒にそっちへ! 彼女はリューグと一緒にいる!」
はっとした顔のロッカがネスティの声に踵を返し、草原の闇へと躊躇いもせずに走り出す。礼を言う間もなく背中を返した私もまた飛ぶように草原を駆け、すれ違いざまに敵を突き飛ばし、複数の敵に追われながらもミニスを庇って術を練り上げている最中のマグナを見つけたところで飛び込むように割り込んだ。
数こそ少ないが練度の高い召喚師にまで狙いを定められていたようで、マグナを突き飛ばすと同時に眩しい閃光と衝撃、そして熱が身を焼く。小柄なミニスを聖女であるアメルと見間違えてのことだろうが、これでも召喚術、それも霊界サプレスへの耐性は限界まで高められている身だ。沈黙効果も狙ってのことだろうボワの術を耐えきった私は間髪入れずに次の詠唱を練り始めていた召喚師へと距離を詰め、問答無用で殴り飛ばす形で地に沈めた。ただ、こんな乱戦では一人を相手取っている間に他の敵から隙を突かれてしまう。背後の気配へと振り向きざまに刀を浴びせようとした私だったけれど、間近に迫っていた大剣兵へとタイミングよく撃ち込まれた召喚術の余波に一歩後ずさりつつ、やっと詰めていた息を吐いた。立て続けに鬼妖界の術を使ったマグナも息をこぼしたらしい気配に振り返ろうとして、そこで短く息を呑むような音を拾う。
「あ、あんなに、たくさん……」
それは、どうしようもない絶望に呑まれる声だった。ミニスの声に釣られるまま視線をやった草原の奥、遠く揺らぐ星のような光が見える。それに目を向けてしまったものから順次、その場に足を止め立ち尽くしていくのが分かった。空の星よりもなお赤く明るく不吉な光は明らかな別動隊の印、舐めるように丘陵の裾野を緩々と上ってくる大量の松明の灯りは、あまりにも心を折るものだった。
あと少し、もう少しで、どうにかこの場からの逃走が叶ったはずなのに。
あんなに大勢の敵を相手にしては勝つ負ける以前に逃げることすら叶わない。読み負けたんだ、と深く項垂れたネスティの声はその場の絶望を端的に表していて、誰もそれに反論しないことが皆の心情を何より雄弁に物語っていた。
「まだ捕まってない!」
なのに、マグナはまだ折れない。ネスティの声をかき消すように語気強く主張する瞳は鮮やかに輝いて、切羽詰まった焦燥と混乱に彩られてなお希望を宿している。絶体絶命の状況でも失われない、その眩しいほどの輝きに私は知らず目を細めている。
こんな窮地に陥っても、足掻いてもがいて、最後の最後まで活路を見出そうとしている。どこまでも食い下がって粘って、一縷の希望を掴み取るべく前を向いている。だから手を差し伸べたくなってしまうのだろう。それが、どれだけの茨の道であろうとも。
「喜べ、主」
抵抗の気力を失ったように立ち尽くしたネスティと皆を叱咤するマグナの周囲、じりじりと包囲を狭めていく敵の兵士に気を配りながら牽制の攻撃を仕掛けていた私は動きを止めて、視線の先を持ち上げた。自然と緩みを帯びる口元にひやりと冷たく湿った風が触れ、どこからともなく立ち込めてきた深く真っ白な霧が、音もなく急激に辺り一面を覆っていく。困惑や警戒に浮かべる表情を変えた皆と私とを慌てたように見比べているマグナに向けて、掠れる視界の中、私は宥めるように微笑んだ。
「味方のようだ」
「さあ、今のうちに!」
意表を突かれた顔をしたマグナが、更に大口を開けて目を見開くのはすぐだった。ここにいるはずのないギブソンとミモザが当然のように現れ、さっさと逃げるように促してきたのだからそれもそうだろう。呆気に取られたように目を丸くするネスティなんていう珍しい光景を前にギブソンが苦笑ではない柔らかい笑みを浮かべるのが見える。この霧も知り合いに頼んだものだから、と続ける声にやっと我に返ったマグナたちが動き出せば、それを待っていたかのように霧はいよいよ深く濃いものへと変わっていく。混乱する敵は霧の中へと縫い留めながら、脱兎の如く駆け出したマグナたちの視界はより開けたものへと変えながら、徐々にルヴァイドたちとの距離が開いていく。けれど、そんな奇妙で心強い霧ですらもルヴァイドの目を曇らせるには至らなかった。
「逃がすかっ!」
立ち込める霧に惑わされることなく烈火の気迫で距離を詰め、リューグに覆い隠される形で走っていたアメルの腕を強引に掴み取る。邪魔だとばかり薙ぎ倒されたリューグが地面の暗がりに倒れ込み、宙に吊り上げるように引き立てられたアメルが悲鳴を上げて身を捩った。
「っお前なんかに、僕の妹を渡すものか!」
「邪魔だ……どけっ!」
咄嗟に飛びかかったロッカも片腕でいなされてしまうが、僅かな隙でも稼いだ意味は確かにあった。即座に召喚術を練り上げたギブソンの詠唱が完成したのはルヴァイドの注意が向き直ったのと同時、虚空から降り注ぐ強烈な雷撃が無防備な甲冑越しに勢いよく突き刺さる。
「ぐ、ぬ……っ」
斬撃とも殴打とも次元の異なる一撃にルヴァイドが体勢を大きく崩す。仮面すらもが割れて弾け飛ぶ威力を受けて、血に濡れたような深紅の髪を垂らした凄まじい気迫の騎士が素顔を露わにした。ようやく目の当たりにした敵の素顔に息を呑むマグナだったけれど、それに目を奪われている余裕はない。痺れが走ったのだろう手がアメルから離れたと同時、口の端から血を流しつつも果敢に飛び込んだリューグが身体ごと引き寄せるようにしてアメルを奪い返したことで、再びルヴァイドの視線がこちらを射抜いたのだ。
「ここは私たちに任せて君たちは逃げるんだ!」
「心配しなくたって引き際は心得てるわよ、時間を稼ぐだけ!」
こんな時でも頼りになる先輩らしく笑みを浮かべて言ってのけるギブソンとミモザに後を任せて、マグナたちは駆ける。追手の足音ははるか遠くに僅かばかり、それでも足を止めるような暇はない。年も身体も小さいミニスが息を切らし始めた様子に気が付いた私は、ちらりと周囲の様子に目をやってポーチの底を探ると、覚悟を決めた。
「ミニス、誓約済みのメイトルパの召喚獣なら呼べるな?」
「っ、え、えぇっ……」
「よかった。ならコレで召喚出来る子を私に憑依させてくれ、出来るだけ早く」
言いながら隣を走るミニスに取り出したサモナイト石を握らせるなり、小さな身体をぐっと掬い上げるように担ぎ上げる。いくら何でも少女一人を担いで走れるほどの体力はないが、そんな言い訳が出来る状況じゃない。本来ミニスを手助け出来そうな顔ぶれはどれも手傷を負っていたり近くにいなかったりで、諦めに腹を括った私はすぐさま隠し持っていたメイトルパの獣、エールキティを使うことに踏み切った。憑依召喚の練習でたまたま身に着けたままだった秘蔵の石だけれど、今こそが使い時だろう。
きつく奥歯を噛み締めて腹筋に無理やり力を込めてもミニスを抱える両腕は次第に下がっていき、速度も加速度的に落ちていく。もつれそうになる足を半ば意地で交互に前に出しているけれど、痺れるような痛みを訴える腕はそろそろ力が入らなくなりそうだ。詠唱を唱えるミニスの声を霞みそうな頭の端で聞きつつ、限界の二文字をどうにか追い払っていた私だったけれど、ついに腕からも足からも力が抜けきってしまう寸前。ふっと重力の一切から解放されたように軽くなった身体に深々と息を吸い込み、思いきり地面を踏みしめた。
「っは……あ、りがと、助かったっ!」
額から噴き出る汗を軽く頭を振って払いつつ、抱えるミニスの背中と膝裏に改めて手を回し直した私は二度、三度と勢いをつけて地面を蹴りつける。憑依召喚を受ける前とは身体の動きも感覚の冴え具合もまるで違う。野山を駆けるウサギのように足取りは軽く、澄んだ夜風が肺の深くまで染みとおるのが心地いい。酸素を求めて大きく口を開けた私の耳元、怒ったような申し訳なさそうな声でミニスが小さく叫んでいる。
「私の台詞よ! もう……いきなりレディを抱え上げるなんて」
場違いながらに微笑ましい言葉に表情を崩せば、ミニスはぷうと頬を膨らませたらしい。年相応な仕草に笑みが誘われるもさすがに声を出す余裕はなく、ようやく追手を振り切った確信に足を止めたのはそれから数十分も後のこと。無我夢中で夜道を走るうちに本来の目的地とは反対側、交易都市ファナンに辿り着いたのだと気が付いたのは揺り籠のような潮騒の響きに包まれた後だったけれど、今更何がどうなるわけでもない。月明かりに照らされて穏やかな銀の光を返す砂浜の外れ、鉛のような手足を引きずるように横たえた私たちは、ただひたすらの深い眠りに落ちるのだった。
リューグの底力を買っています。