パッフェルに紹介されたバイトを手伝って、洗濯や料理といった日々の家事を担って、本調子に戻れていない仲間たちを気遣って、そうやって目まぐるしく動き回っているうちに数日が経った。
無心で働いている間は余計なことを考えずに済むし、極限まで疲れ切ってしまえば夢も見ない深い眠りに落ちる。下手に時間や余裕を持て余した人間ほどつまらないことを考えるものだと知っているから、それを目的にして動き回っている自覚は確かにあった。
目を逸らしていてもちくちく胸をつつき出す罪悪感や泣き出したくなるような焦燥感、ふとした瞬間に蘇ってしまう真っ赤な光景や人間の身体を切断する生々しい感触。
そうした色々を持て余して、後回しにして、皆のためにと奔走する日々は楽だったけれど、さすがにそろそろ身体の方が限界だ。明日には旅を再会する予定だとネスティに告げられたことを思い返しながら生欠伸をひとつ、私はアメルに返してもらったばかりのローブを胸に抱えて道場前の小路を下りていた。
紫熟を足元に引き連れて向かった先は銀砂の浜の手前に位置する木立、道場前の小路からも街へと伸びる路地からもちょうど死角になるその場所で腰を下ろした私は、遠く打ち寄せては返す白波と青々とした海に横たわる水平線へと目を細める。木々の枝葉が重なり合った隙間から差し込む日差しは宝石のようで、きらきらと波間のように足元の砂地を照らしている。砂の上を泳ぐように身体を細く伸ばしている紫熟を撫でようと伸ばしかけた手を止めて、私はぼんやりとゲームの知識を呼び起こした。
もうじきケルマとミニスの決闘があって、それが済んだら禁忌の森へと出発するはずだ。ネスティから聞いた予定どおりに進むのならケルマの件は多分今夜、ちゃんとバイトは終わらせてあるから急に引っ張り出されたとしても付いていくのに支障はない。皆やっと落ち着いてきたようだし、ネスティやミニスの顔色も見るからに良くなった。アメルにはどこか落ち着いた様子のリューグが付き添っているし、ロッカは鍛錬とかで留守にしていることが多いけれど皆との食事の席にはちゃんと着いている。顔を合わせて話が出来るうちはまあ大丈夫だろうし、レナードさんもこの世界の常識に馴染んできているし、今なら例え禁忌の森での戦闘があったとしても何とか乗り越えられるだろう。
「私も……あと、ちょっと、頑張ればいいんだし」
呼び起こしたゲームの流れに合わせてひとつひとつ懸念事項を確認していくにつれ、緩やかな安堵と疲労がじわじわ広がってきたことは分かっていた。だけど、誘惑に負けて少し横になったところで手足の力が抜け落ちるような脱力感まで襲ってくればもうダメだった。ほのかに温かい砂粒が肌に擦れるのが心地いい。目蓋の上下が磁石のように引き寄せられて、抗いがたい眠気がさざ波のように押し寄せてくる。
急ぎの用事はないけれど、こんな場所で寝ようとすること自体が論外だ。誰が通りかかるとも知れない外なのに、危機管理どころの話じゃない。マグナの昼寝をこれから一体、どの口で注意するつもりなのか。
何とか睡魔に負けないように自分を叱りつけていた声が次第に小さく途切れ途切れになっていく。鼓膜を震わせるにも足りない、蚊の鳴くような声がやがて途切れ、意識は深く静かに沈んでいく。そして、いつの間にか眠りに落ちていたのだろう。
深い深い意識の水底、今では意識して呼び起こすことも難しい始まりの記憶を、夢に見た。そこには懐かしい顔がいた。もうずっと前に別れたきりのビーニャによく似た女の子。私のいつかの友達、大好きな女の子、もう会うことの出来ないひと。その子のためなら何でも出来るし、何でもすると決めていた。一緒にいられるなら、いるためになら、縋り付くように手を伸ばして私は必死に何かを繰り返している。
もう置いて行かないで。もう一人にしないで。今度は私も、絶対、一緒に。
「……おい、おい!」
喉を枯らして何か叫んだ気がしたけれど、どうやら気のせいだったらしい。意識を揺さぶる声にぼんやり目蓋を押し上げると、輪郭さえ覚束ない視界に飛び込んできたのは茜色の夕焼けと、それを背中に浴びていよいよ髪を真っ赤に染めたリューグの仏頂面だった。
「こんなところで呑気に寝転がってんじゃねえよ。いくらソイツを連れてるからって女一人、外で眠りこけるとか何考えてんだ」
呆れを隠しもしない言葉は刺々しいものだったけれど、うっかり寝ていたことを自覚した時点で文句や反論の選択肢は消え去っている。起き抜けのぼやけた頭で苦笑いをこぼしながら身体を起こすと、抱き枕のように抱え込んでいたローブとは別に何か滑り落ちたことに気が付いた。肩から腰元へと覆うように掛けてあったらしいそれは、まだ真新しい外套だ。当然自分の物ではないそれを手にまじまじと見つめていると、リューグが呆れたように鼻を鳴らす音が聞こえた。
「これだけ近づいても起きない時点で相当マズイだろ。それだけ疲れてんなら大人しく部屋で休んどけ、俺たちにあんな啖呵切っといて自分は棚上げしてんじゃねえぞ」
「はは、返す言葉もない……これはリューグの? ありがとう、ちっとも気が付かなかった」
見た目で誰の物だか分かるほど敏くはないが、この状況での持ち主なんて火を見るより明らかだ。手を貸してくれたリューグに甘える形で立ち上がった私はローブを軽く振るって肩に羽織ると、外套に付いた砂を叩き落としながら差し出そうとして、そこで首を傾げた。何だかんだで身内には世話焼きの面があるリューグが掛けてくれたのだとばかり思っていたけれど、渋い果実でも口にしたような顔をして黙り込んだリューグは何とも言えない目をして外套を見つめている。言おうか言うまいか、気まずそうに視線を左右に揺らしていたリューグが腹を括ったように深呼吸をひとつ、深々とした溜め息を吐いた。
「違ぇよ。それは多分……兄貴のだ」
顔を逸らして独り言ちるように紡がれた言葉の意味を上手く飲み込めずに固まっていれば、それをどう受け取ったか。バツの悪そうな顔をしたリューグはまるで言い訳でもするようにこの場所に来た理由を語り始めた。
先に鍛錬を終えたはずなのにロッカの姿が見えないから、何となく探していれば路地から木立までの砂地に足跡があった。そっと気配を殺して距離を詰めてみれば、死んだように眠り込む私の傍ら、たまたま休憩を取っているだけというような様子でロッカが座り込んでいたらしい。視線もくれず、言葉も掛けず、けれど傍を離れもせずにただ海を見つめるばかりのロッカに声を掛ける気にはなれず、近づいた時よりも慎重に来た道を戻ったはいいものの、それから暫くしてロッカばかりが戻ってくるのが見えたから様子を見に来たのだという。
「ただ、機嫌がいいようには到底見えなかったけどな。馬鹿みてぇに人の好さそうな面してる兄貴にしては寒気がするような真顔だったから、余計によ」
「それは、なんで……」
思わずこぼれ出た困惑に、俺だって知らねえよ、と居心地悪そうにリューグが吐き捨てる。手にしたままの外套と、羽織り直したローブ。意味もなくその二つを見比べながら、私は何も言えずに立ち尽くした。
思いのほか寝過ごしてしまったし、ケルマとミニスの決闘は見逃したかもしれない。
ロッカの件は考えても仕方ないことと割り切って、それならそれでとケーキ屋の店仕舞いを手伝いに行った私はパッフェルとの雑談を楽しんでいる最中、呆気なく決闘行きとなった。
突風のように襲来したミニスに腕を引かれてマグナとカザミネ、それにケルマが待ち受けるクローネ洞窟の前まで連れて行かれた私は目を白黒させていたはずだけど、そこから先はある意味、ゲームどおりを越えた怒涛の展開でまともに呼吸出来ていたかも怪しい。とにかくこれは保護者公認の正式な決闘、かつ、マグナの迂闊な一言が原因で引き起こされた事態だからちゃんとした見届け人が欲しいのだと早口に説明するミニスは威風堂々としていて、審判役を任されたカザミネも感心するほどだった。けれど、ケルマとミニスの二人が喧嘩腰で向き合えばまずは口喧嘩、最後は子供じみた悪口の応酬にならないはずがない。純粋な召喚術での勝負のはずがミニスの放った「行き遅れ」の一言で完全に崩れ去ったことも、暴走したケルマの放った術で鍾乳洞の石塊や石柱が降り注いだことも、そんなケルマを咄嗟にカザミネが抱えて脱出したことで惚れられてしまうことも、どれもが知識としては知っていたけれど、そうした一連の出来事に黒の旅団との戦闘時を上回るような判断力や瞬発力が求められるとはまさか想像していなかったのだ。
「けど、恋かぁ。少し憧れちゃうわ、何だか楽しそうだもの」
ミニスを抱えて降りしきる石柱から間一髪で逃げ延びたマグナは疲れきった顔をしていたけれど、橙色の街灯に照らされ始めたファナンの路地をスキップでもするように歩くミニスに思うところがあったのか。少しだけ意地悪そうな顔をすると、そうかな、と肯定も否定も返さずに自身の顎を撫でさすりながらそれらしく唸った。
「辛いだけかもしれないぞ。相手が自分と同じ気持ちを返してくれる保証もないし、好きになったことを後悔するかも」
「それは分かるけど、でもそういう擦れ違いや葛藤が恋の甘酸っぱさを引き立てるんじゃない? まあ、ケルマのあれはのめり込みすぎだと思うけど」
ちっちっ、と勿体ぶった仕草で指を振るミニスは恋の酸いも甘いも知らないとは思えないほどの貫禄があって、マグナの隣を歩いていた私は笑いの波を堪えきれずに手を口元に押し当てて肩を震わせた。あんまり微笑ましい遣り取りについ笑ってしまったけれど、決して馬鹿にしているつもりはない。実質はともかく命の危険がない決闘を終えて、女子供で夜道を歩いても安全な街にいて、肩に入っていた力が抜けてしまったら自然と笑いの閾値が低くなってしまったらしい。
「そうだな。恋は盲目とも言うし、端から見れば行き過ぎた行動をするかもしれないけど……それだけの恋に落ちることが出来るのは、とても素敵だと思うよ」
「えっ、タキツって……恋愛に、興味あるんだ?」
折角だからと思ったままを口にしたけれど、わいわい盛り上がっていたマグナとミニスがぴたりと足を止めて勢いよく振り返ったことに私は数度瞬いた。驚きと興味の視線が遠慮なしに突き刺さるが、そこまで驚かれるのが逆に解せない。私だって他人の恋話に一喜一憂するくらいの情緒はあるのにと首をかしげてしまえば、ミニスが弾むような声色を向けてきた。
「ひょっとして、タキツも誰か気になるひとがいちゃったりするの?」
「えっ、そんな、一体誰だよ!?」
ミニスの楽しげな声を受けて泡を食ったように狼狽しているマグナには悪いが、期待に応えられるような浮いた話の持ち合わせなんてない。ただ、と苦笑に肩をすぼめながら私は答えた。
「恋はしてないけど、私にはマスターがいるから。一緒にいるためなら何でも出来るし、どんなに辛いことでも乗り越えられる。そういった意味では似たようなものかもしれないね」
「はぁ、なーんだ……本当に大好きなのね、そのマスターってひとのこと」
肩透かしを食らったように溜め息を吐くミニスだけど、言葉ではなく頬を染めた笑みで返した私にどこか満足げな息をもらす。マグナの方は相槌もなく、何だか奥歯に物が挟まったような顔をして黙り込んでしまったけれど、ひょっとして今の話で罪悪感でも覚えてしまったのだろうか。二重召喚したことへの当て擦りや皮肉だと思われていたらどうしようかと迷い始めたところで、そういえばさ、とふと思いついたようにマグナが呟いた。
「なんでバイトなんかしてたんだ? ミニスは知ってたみたいだけど」
「え。マグナったら本当に聞いてなかったの?」
目を丸くするミニスには申し訳ないけれど、ますます不満そうに口をへの字にするマグナの前でそれは言わないで欲しかった。ああ、うん、と曖昧な声をこぼしていれば、タキツ、と念押しするような低い声が降ってきて、私は観念するような気持ちで顔を上げる。そろそろと持ち上げた視線の先には、引き下がる気なんてないとでも言いたげな面持ちでじっと見下ろしているマグナがいて、私は早々に誤魔化すのを諦めた。
「必要なものがあったら言ってくれって俺、言ったよな?」
「ごめん、うん、確かにそう言ってくれたけど……」
「けど?」
歯切れ悪い私に苛立ちを煽られたのか、普段あれだけ呑気なマグナには珍しく声色に険が滲んでいる。ミニスが戸惑っているような気配に申し訳なさと焦りが募るまま、私は素直な理由を口にした。
「私はいずれ、出ていくし。これから何が起きるかも分からないんだから、余計なお金なんて使わないで欲しかったんだ」
言いながらマグナの様子を窺うけれど、見事なほどに反応がない。表情が抜け落ちたような真顔になっているけれど、更に怒ってしまったのか呆れてしまったのかさえも判断がつかない。そこまで懐事情を心配されていることにショックを受けているのかもしれないと気が付いて、タオルとか刀みたいに絶対必要な物でもなかったし、と早口に付け加えた私へと助け舟を出してくれたのはミニスだった。
「じゃあ、何のため? 自由に使えるお金が欲しかったのは知ってるけど、何が欲しかったの?」
「茶葉とか蜂蜜とか、ちょっとした甘い物があったらいいなって。ほら、疲れてる時にそういう物があると気持ちも和らぐし、寝付きも良くなるだろ?」
「それって……私たちの……」
寝る前のホットミルクが習慣になっていた分、ミニスは早々に勘づいたらしい。ぽかんと呆気に取られた顔をするから、別にそれだけじゃないけどね、と続けてみたけれど、マグナまで目を見張っていることに気が付いた私は目尻を下げて笑いかけた。
「大丈夫。ちゃんと主の分もあるよ」
宥めるように声を掛ければいつもの子供扱いと受け取ったのか、何か言いたげに口を開けたり閉めたりを繰り返してからマグナは大きく肩を落として息を吐いた。本当、と夜風にかき消されそうなほど小さい、気の抜けた声が呟く。
「そういうところ、ズルイよなぁ、タキツは」
困りきったような笑い顔で目を細めるマグナへと、ミニスが声もなく首をぶんぶん縦に振って同意を示す。急に結束を強める二人に戸惑っている間にも顔を見合わせてやれやれとばかりに息を吐いて肩を竦めているのだから、何だか蚊帳の外の気分だ。潮の匂いを纏った夜風になびく髪を押さえつつ、私はすっきりしない気持ちを殊更に込めてマグナを半眼で睨み付けることにした。
その晩遅く、空になったマグカップを両手に揺らして台所を訪れた私は予想外の先客に足を止めた。こんばんは、と疲れた様子ながらも穏やかに声を掛けてきたのはロッカで、ここ数日は食事の席でしか見かけていない相手だった。
「こんな遅くまでお疲れ様です。また誰かのお手伝いですか?」
「ロッカこそ。もしもの時はレナードさんを村で受け入れるって、助かったって言ってたよ」
接点こそなくても互いの近況は人伝に聞き知っている。談笑しながら流しの前まで足を進めると、ホットミルクの白い膜が残るばかりのマグカップを水に浸けて戸棚から小鍋を取り出した。蜂蜜を垂らしたホットミルクはマグナやミニスに好評で、中々寝付けずにいたアメルにも差し入れてみたらすっかり長話に捕まってしまったから洗い物だけで済ませるつもりだったけど、気が変わった。新しくミルクを注ぎ入れていると、木製のテーブルに頬杖をついたロッカが僅かに口端を持ち上げるのが視界に入った。珍しく皮肉気な笑みだ、と思う間もなく自嘲と謙遜の入り混じった呟きが落ちる。
「まぁ、今のレルム村はあんな有り様ですけどね」
「……でも、帰る場所がないのはそれだけで心に来るから」
鬱屈した内心を隠しもしない言葉はロッカにしては珍しい。その胸の内では不安や焦燥、憤りが渦巻いているだろうことは知っていたけれど、表情や態度に出る前に上手く取り繕ってしまうのがロッカだったから、新鮮な驚きを覚えながら私は火にかけた鍋の中身をゆっくりと木べらで返した。膜が張らないようにかき混ぜる手は止めないまま、眠気と疲れで普段より散漫な思考をかき集めてロッカへと掛けるべき言葉を探し出す。
「アメルのことを気にしてる? なら大丈夫、今夜はよく寝てるよ」
スルゼン砦から逃げてからというもの、アメルは殆どベッドの住人だった。目を覚ましてからはむしろ自由に動き回れないことを不満にするほど元気な様子だったけれど、心配性の兄分であるロッカとしては気が気でなかったのかもしれない。甘くしたホットミルクを持って行ったら喜んでいたことや、お喋りに付き合っていたらすっかり時間が過ぎていたこと、話し疲れて満足そうにベッドに横になったことまで話してあげれば少しは落ち着くかと思ったのに、ロッカは相変わらずテーブルの木目に目を落としたままだ。どうしたものかな、と僅かに頭を傾けて様子を窺ってた私は、ロッカの唇が重たげに押し上げられる瞬間を見た。
「皆さん、そう言いますが……大丈夫かなんて分からないじゃないですか。あの子の力は日に日に増していて、初めの頃と比べれば空恐ろしいほどに成長している。僕たちの可愛い妹だったアメルは本当に人間なのか、なんて、僕ですら不意に頭をよぎるほどだ。今はまだアメルだと言い切れるけれど、もしこのままあの力が抑えきれないほど強くなっていけば、その時どうなるかなんて……」
頬杖を突いたまま黙りこくっていたロッカがふと外した手を握り込み、震える拳をテーブルへと力なく下ろす。緩く頭を振ることで最後の言葉が形になるのを誤魔化してしまったロッカの声は苦悩に満ちていて、口を挟むことなく耳を傾けていた私は何だか、ほっとしてしまった。物腰穏やかで誰に対しても卒なく礼儀正しく振る舞っていたロッカがやっと、気を張っていただけの年下の、まだ成人もしていない男の子に思えたからだ。
「心配事ばかりでお兄ちゃんは大変だね。そういえば、砂浜の木立で私に外套を掛けてくれたのって?」
小瓶から蜂蜜を垂らし、火を止めて鍋を下ろしながら尋ねた私に、ああ、と気の抜けた声でロッカは肯定した。
「僕にはそれくらいしか出来ませんから」
白い湯気を立てるホットミルクをマグカップに注いで苦笑交じりに振り返ってもまだ、ロッカは手元深くに視線を俯かせたままだった。くたびれきった背中には何の虚勢も意地も残っておらず、アメルが目を覚ましてからもよく眠れていなかったことが見て取れる。
「なんだ、落ち込んでたんだ」
やっぱり作ってよかった、と完成したホットミルクをその前に滑らせながら言えば、無言で顔を上げたロッカは刺すような視線を寄越した。けれど、ちっとも怖いとは思わなかった。椅子を引いてロッカの斜め向かいに腰を下ろした私は頬杖をつくと、優しい声色を投げ掛ける。
「なら、優しく励ましてあげる。約束したからね」
何を、と言いたげな顔をしたロッカに言葉を返す代わり、覗き込むように笑い掛けた私は一度目蓋を下ろして意識を整える。再びロッカを見つめる時には、ビーニャを前にするような穏やかな微笑みが浮かんでいる。
「そういえば、年はいくつでしたっけ? まだ十七? ふふ、私より二つも下だ」
ビーニャにするように、と意識しただけで声色は柔らかいものへと変わる。浮かべる微笑みも普段よりずっと穏やかで労りに満ちたものだろう自覚があった。零れ落ちそうなほど目を見張っているロッカから制止の声が掛からないことをいいことに、私は言葉を紡いでいく。
「なのに、いつもお兄ちゃんを頑張ってるんだから凄いですよ。君からしたら当然でも、今までずっとアメルやリューグのために頑張ってきたことは本当じゃないですか。自分のことは後回しでいつだって彼らことばかり優先して、大事にして、守ろうとして、だから心配事や不安事にも誰より先に目が行ってしまう。そして、それに気が付いてしまう自分自身が嫌になる。アメルの力が普通じゃないことは否定出来ないし、この先を思えば誤魔化すことも出来ないけれど、でもそれは大したことじゃありませんよ。本当は、分かってるんでしょう?」
「な、にを」
虚言と奸計の悪魔を名乗るメルギトスは、けれど嘘を吐かないというルールを頑なに守っている。それは誠意ではなく少しでもゲームを楽しむためのものだと思うけれど、その姿勢だけは私も見習いたい。正真正銘の本音を軸にして言葉を彩りながら、息を呑むロッカに向けて心からの励ましを口にした。
「これまでの十七年間、過ごしてきた時間は決して裏切らない。君の知っているアメルはアメルのまま、どんな力を持っていてもどんな秘密を秘めていようと、君の可愛い妹であることと何ひとつ、矛盾なんかしませんよ……ね、大丈夫」
唖然と見開かれたままの瞳に苦笑をこぼして、無防備な頭をそっと撫でる。優しく髪をかき撫でて、これで十分かなと指を下ろそうとした私はそこで眉尻を下げた。私の手の甲を覆い隠すように重なったもうひとつの手、引き留めるように掴まれた手に向けていた視線を持ち上げれば、悔しそうに唇を噛んで瞳を歪めるロッカがいた。
「……酷いひとですよね、貴方は」
優しく励ますと言う約束だったけれど、意趣返しを込めて少し甘やかしすぎたのがバレただろうか。
そんな呑気な焦りを覚えていられたのも束の間だった。苛立ちに歯噛みするような声が落ちると同時、急に身体が前へと傾いた。引き寄せられた、いや、抱きすくめられているのだと理解が及んだところで、耳元に寄せられた冷たい鼻先が肌に擦れる。
「いつか近いうち、貴方はマスターと呼ぶひとの元へと帰る。僕たちを置いていく。離れると決めている。そのくせ、そうやって掻き乱して翻弄して……僕だってこれ以上を望む気なんてなかったのに……」
ふうふうと、食い縛った歯の隙間から肌を焼くような熱さの息が漏れ掛かる。獣のような呼吸音はひどく荒々しいのに、その声色は泣きそうなくらい震えている。耳のすぐ下から首筋へとなぞるように項垂れていく鼻先ばかりがいやに冷たい。ナイフの切っ先でも突きつけられたかのように凍り付いてしまった身体は指先ひとつ動かせず、私は息を殺してロッカの言葉に聞き入っている。
どんな言葉も行動もロッカを刺激することに繋がってしまいそうで、嵐が過ぎ去るのを待つようにじっと耐える。けれど、それも悪手でしかなかったのか。許さない、と低く掠れた声が不意に響いた。
「貴方を、連れて行かせてたまるか……!」
喉が焼き切れるような切羽詰まった呻きを聞いた途端、首筋に焼けるような熱が走った。瞬間、短い悲鳴が喉からこぼれ出て無我夢中で身を捻じれば、腕のぶつかったテーブルからマグカップが滑り落ち、派手な音を立てて床に飛び散る。温かなミルクも鋭い破片も、気にする余裕は一切なかった。跳ねた滴が掛かったのか、僅かに拘束の緩んだ腕から逃げるべく全力でロッカを突き飛ばした私は脇目も振らずに踵を返す。人気のない廊下に飛び出て、後ろを振り向きもせず駆けて、人気のない空き部屋へと滑り込んだ私は小さく蹲り、忙しなく跳ね続ける心臓を必死に宥めようと目をつぶった。
そうして、飛び出しそうな胸の鼓動が収まり、震えの止まらない身体が静かになっても、私は立ち上がれないままだった。じんじんと痛みを訴える首筋から意識を逸らすことも、掴まれた手にかすかに残る湿り気を忘れることも出来ずに、ただじっと、暗がりに座り込んでいた。
無自覚とはいえ多感な青少年を煽ったらこうなる。