エルゴの守護者とは何か。
カイナの説明がひと段落すると、どこからともなく感嘆と驚嘆の入り混じった溜め息がこぼれ出た。けれど、それもそのはずだ。
少し前からあちこちの町で悪魔の関わった事件が起きていて、ここ、アルミネスの森に辿り着いたのもその気配を追った結果だったこと。理由として考えられるのはひとつ前の季節の巡りにあった無色の派閥の乱で、その際に召喚された大悪魔とはギブソンやミモザ、カザミネも一緒になって戦った仲だったこと。
カイナが語った事の顛末、明かされた事情のどれもこれもが事前の想像を遥かに上回る、まさしく度肝を抜くものばかりだったのだから大袈裟どころか当然の反応でしかない。懐疑的な眼差しや驚嘆の瞳、半信半疑ながらに恐れるような表情など、十人十色の反応を見せるマグナたちだったけれど、カイナにしてみればどれも慣れたものなのか。ところで、と動じた様子もなく小首を傾げてマグナに話を振ってきた。
「皆さんは、これからどうなさるおつもりですか?」
「俺たちはトライドラに行くつもりだよ」
少し前からフォルテやネスティが相談していたのは、アメルの祖母が暮らす村が見つからなかった時のための次善策だったらしい。トライドラにはフォルテの知り合いがいるらしく、スルゼン砦で起きた事件の報告がてら黒の旅団の動向を確認させてもらうつもりだと説明を引き継いだネスティが付け加えるのを横目に見つつ、私は隣り合って壁に寄り掛かっていたルウへと尋ねた。
「ルウはどうする? もし森の外を見たいなら、マグナやネスティに相談してみるのもいいと思うけど」
「うーん、そうね。結界も張り直してもらったし、カイナたちのいう悪魔の噂も気になるし……うん、許してもらえるようだったら、一緒に行こうかしら」
ひとまずの手当てを終えてカイナによる説明を聞いた後、女性陣の殆どは改めて身支度を整えたり埃を払ったりするために別室に入ってしまった。あちこちに手傷を負った割にシャツの穴もパンツの裂け目も大したことがなかった私はといえば、ファナンに戻るまではローブを羽織ればいいかと自己解決してしまって、ルウはルウで衣服に付いた草切れや返り血を落とすくらいで済んでしまったため、手持無沙汰にそれぞれの召喚獣を構いながら暇を潰しているわけだった。
ルウの家に大勢いるペコたちは性格もそれぞれ違うようで、紫熟がいるのとは反対側からすり寄ってきた人懐っこい子の頭あたりを撫でてやれば、嬉しそうに身をよじる様子がどうにも可愛らしい。足元の紫熟が怒ったように身を揺らしてスライム状の身体を伸ばしているけれど、鞭のようにしなるそれを避けてふわふわと宙を飛ぶペコは見るからにご機嫌だ。ルウが楽しそうに笑う様子に釣られて口端を緩めた私は、打算込みでもルウを誘ってよかったと内心独り言ちた。
ルウは霊界サプレスに通じた優秀な召喚師であると同時、悪魔の封印された森を代々見張ってきたからか、悪魔という存在の脅威や対象の能力を引き下げる憑依召喚術についても造詣が深い。ゲーム中でもお祓いというカウンター技能を身に着けていたし、そうした戦力的な意味合いでもマグナたちに合流して欲しくはあったけれど、それとは関係なしにただ、曇りのないルウの瞳で今のリィンバウムを見て欲しい気持ちも本当だったのだ。
だけど、そんな感傷に浸っていれたのも、先に出発するカイナたちを見送るためにケイナが声を掛けるまでだった。
「ね……姉さまっ! 妹のカイナです、ケイナ姉さまっ!」
感謝と励ましの言葉を穏やかに告げたケイナの顔をぽかんとした表情で見つめていたカイナが、その声を喜びに震わせて真正面からケイナに抱き着いていく。そんな思いがけない展開に場が騒然としたのは言うまでもない。
またもや度肝を抜かれて立ち尽くしたり狼狽しきっていたのはフォルテやエルジンたち、それぞれの旅の同行者だったけれど、二人の名前や身に着ける着物の特徴がよく似通っていることに今更思い至ってしまえば納得しない方が難しい。問題だったのはケイナが鬼妖界シルターンにいた頃の記憶を失っていることだったものの、それなら余計にこのままお別れするのはダメだよ、と力強く主張したエルジンやエスガルド、それにケイナを案じたフォルテの後押しもあって、カイナも旅に同行することがとんとん拍子で決まったのだった。これも何かの縁だし、とネスティへの相談後、満面の笑みで追加の同行宣言をしたルウの分もあれこれ揃えるものが出てきたし、ひとまず一旦ファナンに戻るべきだろう。そんな提案が出てくるのは自然の流れで、ここまでの遣り取りで相当時間を食ってしまったこともありルウの家にもう一泊することにした私たちは、大人数での賑やかな夕食を終えた後、それぞれ明日の準備に勤しんでいた。
「ねえ、タキツは休んでなくって大丈夫? 痛くはないの?」
「おかげさまで。気になるほどじゃないよ」
椅子に腰掛けてルウから借りた憑依召喚術に関する本を開いていた私は、向かいの席からちらちらと心配そうに私の手元を見ているミニスに笑って返した。さすがは霊界サプレスの召喚術を専門に極めた一族だけあって今の私には理解の難しい文言が並んでいるけれど、時折出てくる悪魔の憑依を無効にする儀式やどんな強力な術でも一度は打ち消す効果のある憑依召喚術など、途方もない価値のある文献であることは確からしい。どうにかスペルバリアは使えるようになりたいんだけど、と熱心に目を通していた私を見ていたのか。タキツって、と頬杖を付きながらミニスは言った。
「そんなに勉強してるし、サプレスの耐性だけじゃなくって適性もあるのに、どうして召喚術は使わないの?」
「えっ、そうだったのか?」
何気ない呟きといったその言葉に反応したのは私ではなく、マグナだった。同じテーブルの反対側で明日からの計画を立て直していたネスティに小言を食らっていた最中なのに両手を付いて立ち上がった拍子、近くに置かれたマグカップや中身の残ったポットが大きく揺れる。慌てて押さえながらもマグナの視線はしっかりこちらを向いていて、声こそ出さなかったもののミニスの発言にしっかり動揺していた私と不思議そうに瞬くミニスを驚きも露わに見つめていた。
「だってタキツ、森であの音を聞いてたじゃない。召喚師の素質がないと聞こえないんでしょう?」
部屋の壁際に並んだ本棚の間、僅かな隙間を見つけて潜り込んでいく紫熟の後ろ姿がミニスの向こうに見える。狭いところを見つけてご機嫌なのはいいけれど、身体中にくっついた綿埃は後で忘れず取ってやらないと。最近は肩にまでよじ登って来るんだから、と現実逃避の思考を展開している間にも、マグナとミニスのテンポのいい遣り取りは進んでいく。こうなると本に集中している振りも難しくなってきて、私が本の陰でひそかに口をへの字に曲げたところで、口元を押さえて黙り込んでいたネスティまでもが何かを思い出したような顔をした。
「確かに……あの時の君は膝を突いて、何かに堪えるような素振りだった」
「そういえば、送還だって出来たよな? フリップ様の誓約済みのサモナイト石だったからかもしれないけど、マスターが召喚師だって言っても見様見真似で出来る時点でやっぱり」
ついに多方向から疑問の視線が突き刺さった私は本から両手を離して肩の上で掲げ、降参の意を込めて頭を緩く左右に振った。
「知らなかったんだよ。知識はいくらあっても困らないし、勉強というより暇つぶしを兼ねた習慣だったけど、まさか適性があるとは思わないだろ?」
それに師範もなしに挑むほど怖いもの知らずじゃないよ、と付け加えれば、最もだとネスティが頷いてマグナたちもひとまず納得したような顔をした。
「けど、師範がいたら覚える気はあるってこと?」
それで話が終わってくれればよかったのだけど、今日のミニスは引く気がないらしい。仮に教えてくれてもマグナの護衛獣であるうちは積極的に使う気はないけれど、とりあえず頷き返してみれば、ぱっと顔を明るくしたミニスは頬杖を勢いよく外して声を弾ませた。
「なら約束どおり、私が教えてあげる! 興味はあるんだって前に言ってたものね」
「約束って……そういうのは召喚主である俺の役目じゃないのか?」
なぜか私が反応するより早くマグナが不満そうな声を上げるけど、そんなマグナにミニスが強めの口調で言い放つ。
「ダメ! 私が教えるの! タキツにはいつも助けてもらってばかりだし、何かお礼がしたいってずっと思ってたもの」
きらきら輝く瞳を向けるミニスになんて返せばいいものか。悩む私の前で、異議ありとマグナが声高く主張した。
「それなら俺だって助けてもらってばかりだよ。今日もそうだし、困った時にはいつもタキツに何とかしてもらってるんだぞ!」
「情けないことを大きい声で言わないでくれ、主」
毎度毎度困った事態に陥ることは決して褒められたことではないのだが、マグナがそれを理解しているのか甚だ疑問になってくる。刀が折れるのも手首を痛めるのも好きでそうしてるわけじゃないんだが、と半眼で見つめていれば、頭が痛そうに手を当てて呻くネスティの姿が目に入った。それを見たらもう、庇いたくて庇ってるわけじゃないことを主張する気力もなく、どちらか選べと今にも詰め寄ってきそうな雰囲気を醸し出し始めたマグナとミニスを前に私は深々と項垂れ、嘆息した。
「気持ちは有難いけれど、今はどちらにも教わる気はないよ。耐性を上げたのはその必要があったからだけで、召喚術の方は今すぐ使えなきゃいけない理由もないし。刀だけで十分」
強制的に話を打ち切った私に物言いたげな目を向けるマグナたちだけど、耐性を上げたの一言でミニスが顔を曇らせたことに私は眉尻を下げた。ミニスの想像している訓練はファミィの雷ドカーン辺りだろうけど、実際、その考えで当たっている。あともう少しだけ、加減を厳しくした訓練だったことはあえて言わず、私は困ったような笑みを浮かべてミニスに小首を傾げてみせた。
「本当に気にしないで。そもそも、友達を助けるのは当然のことだろう?」
「……う〜っ! そうだけど、そうじゃなくてぇ……」
不貞腐れた様子でテーブルに突っ伏してしまったミニスの頭に手を伸ばして撫でていると、隣の方から重く湿った視線が突き刺さってくる。視線の主は言わずもがな、マグナだ。まだ何かあるのかと横目で見れば、ぶすっとした顔をして唇を尖らせる。こうまで分かりやすく不機嫌だと態度に出されてしまえば見なかった振りをするのも困難で、いっそ笑いそうになる頬を堪えて私はあえて冷たい視線を投げ返した。今度は何だ、と眼差しばかりで尋ねた割に、マグナはその意図をしっかり汲み取ってくれたらしい。
「やっぱり、ミニスには優しいよな」
想像どおりと言えば想像どおり、まったく子供のようなヤキモチを焼いてくれたものだ。頭ごなしに突っぱねる代わり、私はそれらしい理由を見繕って口にする。
「主は特別扱いなんだ」
「それって大体、悪い意味でじゃないか……」
せめて今日のお礼くらいはさせてくれよ、と誤魔化されずに声を尖らせ始めるあたり、最近はマグナも中々手強くなってきた。とりあえず新しい刀は欲しいかな、と素知らぬ顔で返しながら、旅に出てからの遣り取りを振り返って私はこっそり口端を緩めている。
明くる日の朝早く、森を後にした私たちは流れの早い雲に急かされるように街道を進んでいた。
通り雨のひとつも来そうな空模様を警戒して皆、どことなく足早になっているけれど、久々に道らしい道を歩くこともあって浮かべる表情はどれも気楽なものだ。気負った様子もなく足を進めているけれど、森では絶えず周囲四方に警戒を張り巡らさなければいけなかったから、遠くまで見渡せる上に足元に注意を払う必要もない街道の有難さに感じ入っているらしい。レナードやフォルテがそんな話題で砕けた笑みを見せている一方、初めて森から出るルウははしゃいだ様子で目にするもの全てに歓声を上げている。街道沿いの景色や草花、山間部とはまるで違う雲の流れや整備された地面の感触にまで感激したように瞳を輝かせていたけれど、やっと少し興奮が落ち着いてきたのか。ファナンってどんなところなの、と今度は興味津々で尋ね始めたルウに、待ってましたと弾んだ声のモーリンやミニスが語り始める様子を微笑ましく眺めながら、私は緊張に強張る背中に冷えた汗を伝わせた。
かなりの大所帯になったおかげで、移動中や休憩中の雑談相手も必ず同じ相手になるわけではない。ひとしきり話したところで輪から外れて悠々と足を動かしているひともいれば、気になった相手の隣に移動して話しかけ始めるひともいる。さっきまでミニスと話していた私は、今はひとりだった。旅に同行したばかりのカイナやルウが上手く馴染めているか、それとなく気を払って様子を見ていた時にはそんな余裕もなかったけれど、少し余裕が出来て自分に向けて注がれている視線に気が付いてしまった途端、全身がぎくしゃくと嫌な緊張を帯びてしまう。あからさまな視線の主はまだ近くにはいない。けれど、あちらでの話が一区切りすれば自然な素振りを装って隣にやってくる気かもしれない。
じわじわと恐怖と焦燥の入り混じった感情が喉元まで込み上がり、心臓を圧迫するような緊張に私の視線は自然、足元深くに俯いた。誰かに頼ることも思いつかず、じっと身体を固くして唇も固く引き結ぶ。そんな私の肩を軽やかに叩いたのは、マグナだった。
「タキツ、俺の隣に来なよ。護衛獣なんだしさ」
何てことのないように言いながら私の手を引いて自身の隣へと誘導するマグナはいつもと変わらない笑みのようで、けれど私を気遣っての誘いだとすぐに分かった。労るような瞳の色合いに縋り付くように足を動かしてその隣へと収まってしまえば、私の背中を追いかけるように向けられていた視線が動く。怖い、と瞬間、思ってしまう。あの時みたいに手を握られることはないだろうけれど、募る緊張にぎゅっと身を縮めた私を覆い隠すように、マグナが立ち位置をそれとなく変えるのが見えた。
「大丈夫、こうしてれば見えないだろ?」
マグナは、どこまで分かっているんだろう。耳元で囁かれた声に、ありがとう、と小さく呟けば、屈託のない笑みを浮かべて口角を柔らかく持ち上げる。仮にも護衛獣なのにそんな優しさに甘えてしまう自身の不甲斐なさに項垂れながら、私の視線はずっと、街道のよく均された地面の凹凸をなぞり続けていた。
ファナンに到着したのは昼を少し回ったところで、太陽もまだ空高くに輝いている時間帯だった。大体のところは和気藹々とした道中だったおかげか、予定より早めの到着となったのは喜ばしい限りだったけれど、トライドラへと向かうのは日を改めて明朝ということになった。少し無理をすれば今からでも向かえなくはないが、懸念すべきは野盗のみならずルヴァイドたち黒の旅団やデグレアの尖兵とも遭遇しかねないこの情勢下だ。到着が夕方を過ぎるかもしれない行程は避けて、今日のところはそれぞれ必要な物の買い足しに街へ出たり、知人への挨拶に向かったりと、思い思いの行動をとることになっていた。
さて、せっかくの自由時間だ。ローブを羽織って誤魔化してきたものの、脇腹や肩にはっきりと分かる穴の開いたシャツを脱ぎ捨てて予備のシャツへと着替えた私は、早速とばかりパッフェルのバイトを手伝いに向かった。本当は部屋で待っているようにマグナには言われたけれど、下手に自室なんかに籠もっていたら誰かの襲来を受けた時に逃げ場がない。シャツだけでなくパンツにも大きな裂け目がいくつか入っていたから、それで街中に出るのは、と心配してくれたのは分かっているが、どうせバイト中は制服だ。それに丈の長いローブを羽織っていれば上手く隠れる位置になるし、しっかり着込んで寄り道せずに行けばまあ大丈夫だろう。そんな願望の入り混じった考えだったけれど、実際、日常生活で早々ハプニングなんて起きるわけもなし。時計の針が直角を過ぎて少しした辺りで商品の品切れによるバイト上がりを迎えた私は、パッフェルと和やかな挨拶を交わして店を後にしていた。
最初に決めていたとおり、下町飲食店街や商店街には立ち寄ることなく潮風の吹き抜ける路地を真っ直ぐに下っていく。マグナはネスティとミニス、ルウを連れて金の派閥まで出かけたし、秘伝召喚師であるアフラーンの一族の扱いについての相談も兼ねていれば私より早く帰ってくることはないだろう。部屋に戻ったら留守番を任せていた紫熟と散歩にでも行こうか、その前に裁縫道具を借りて裂け目を繕ってしまおうか、つらつらと今後の予定を考えながら道場前の小路まで来たところで私はふと足を止めた。銀砂の浜の手前に広がる木立のところに、誰か人影が見えたのだ。それだけだったら遠目に眺めるだけで終わっていただろうけど、その人物の足元近くに伸びている小さな影に気が付いてしまえば声を掛けない選択肢はなかった。
「……あ? なんだ、テメエかよ」
邪魔してすまない、と苦笑交じりに言えば、斧を振るう手を止めたリューグは顎先を拭いながら眉根を寄せた。ああ、と納得したように視線を動かした先はその足元、まるで体操でもしているかのように伸び縮みを繰り返している紫熟へと向かう。大人しいようで気分屋なところのある紫熟は大方部屋で待ってるのに飽きて、前にも連れて来たことのある銀砂の浜まで勝手に抜け出してしまったのだろう。そこでリューグが鍛錬に励んでいたのはまったくの偶然だったけど、見覚えのある人間に気を引かれてか、その場に留まってしまった紫熟を邪険にせず面倒を見てくれたことに心のままの感謝を告げれば、ますます仏頂面を深くしたリューグは短く息を吐くついでのように言った。
「別に面倒なんざ見てねえよ、コイツは勝手に俺の近くで転がってただけだ。それよりテメエ、俺のベッドに兄貴の外套を引っ掛けてっただろ」
「はは、それもバレてたか……すまない。直接返すにはタイミングを見失ってしまって」
熱心に斧を振るっていたところを邪魔してしまった申し訳なさに重ねて、気まずいことを指摘されてしまった私は明後日の方向に目を逸らしながら言葉尻を濁した。
そろそろ、と思うようになってから意識して身の回りを整理し始めていた。ガレアノとの接触、レナードの同行、禁忌の森での戦闘、ルウとカイナの加入、そして明日には向かうトライドラ。
少しずつ段階を踏むにつれ私物はより少なく、資金はより多く残せるように、借り物があれば極力その場で返すように動いてきた。それが物であれ言動であれ、今この時を逃したら返せる時などなくなってしまうからだ。常々、念頭に置いて動いてきたそれもいよいよ大詰めを迎えている。貯めたバイト代はパッフェル経由でレナードに渡して貰えるよう手配済みだし、私が抜けた後の穴埋めには期待の新星となり得るルウを推薦しておいた。それらしい理由を堂々と口にすればまず疑われることはないし、一番の気掛かりだったロッカの外套もリューグに押し付ける形で片づけることが出来た。これで思い残すことが消えたと思えば、多少の非難を受けても十分にお釣りが来る。しおらしく振舞いながらも内心では清々しい達成感を覚えていれば、何か考え込んでいた様子だったリューグが口を開いた。
「……森で、なんかあったのか?」
「森で、と言うより……うん、あれからずっとかな」
こちらの出方を窺っているような沈黙を挟んで、躊躇いを含んだ眼差しと噛み合ったそこで向けられた言葉に、自然と苦い笑みがこぼれ出た。リューグにはこれまで散々相談に乗ってもらったし、隠そうだとか誤魔化そうだとかの発想も浮かばずにあっさり肯定を返せば、何故だかますます渋い顔をして黙り込む。ロッカと私の間の不和、と呼んでいいかも分からない一方的な緊張は、リューグもよく知るところだ。それなのに今更気にするようなことがあるのだろうかと疑問を抱いていれば、そんな私の思考を読んだようなタイミングで呟きが落ちた。
「兄貴が飼ってた鳥の話」
「え?」
「イタチにやられたってところまでは聞いてたな。その後の話は知ってるか?」
むっつりと引き結ばれていた口が開いたかと思えば随分と唐突な話を振られて戸惑っていると、大して反応を期待していたわけではなかったのか。リューグは気にした素振りもなく話を続けていく。
「あの後、兄貴はイタチを捕まえた。まだ小さかったからな、槍だの斧だのは持たせてもらえなかったが、子供の手でも罠を仕掛けるくらいは出来る。つってもジジイの手伝いやら何やらでそれほど暇だったわけじゃねえから、空いた時間を使ってちまちま罠になる材料を集めては作って森に仕掛けて……一週間近くは掛かったな。それだけの手間暇をかけて兄貴はイタチを捕まえた」
「それは、すごいじゃないか。悪戯をしていたイタチならアグラさんも褒めてくれたんじゃ?」
素直な称賛を口にしながら想像してしまうのは、幼い子供にとっての一週間の長さだ。可愛がっていた小鳥の命を奪われた悲しみと怒りを思えば胸が痛くなるが、いずれ風化するそれに向き合い続けるのは大人でさえ難しい。どんなに許せないと思ったところで日常を繰り返すうちに痛みは薄れていくし、子供であればなおさら仕方のないこと、過ぎたこととして飲み込まざるを得ないのが現実だ。それだけの労力を掛けてイタチを捕まえるに至ったロッカに舌を巻くような思いになっていると、本当にそう思うか、とリューグが意味深な眼差しを投げ掛けた。
「確かに、子供が面倒見てる鳥まで食っちまうようなヤツだ。遅かれ早かれ家畜にだって被害が出るのは分かってたし、それを見越して動こうとしてた大人たちはこぞって喜んださ。ジジイだけは、難しい顔をしてたがな」
「村にとって、いいことをしたのに?」
どうして、と反射的に返そうとした言葉を飲み込んだのはその先に思い至ったからじゃない。複雑な感傷の念に揺れるリューグの瞳に気が付いてしまったからだ。
「知ってるか? イタチの毛皮はいい値がつく。売りもんにならないのでも子供の耳当てや襟巻くらいには加工も出来る。でもアレじゃ無理だったろうな、あんなに傷んだ毛皮じゃ使い物になりやしねえ」
イタチの首を握りしめて持ち帰ってきたロッカは、すまなそうな顔をしていたらしい。逃がさないように押さえているうちに手が滑って、これじゃ毛皮を売ることも難しくなってしまったと、子供らしくない配慮と後悔を見せるその様子に大人たちはこぞって労りと褒め言葉を投げ掛けたらしい。レルム村でガキ大将を張っていた当時にしては殊勝な態度を見せたそうだが、その腹に秘めた本音が見えてしまったリューグはただ、沈黙を選んだのだと言う。
「あのクソ真面目さで何かを恨んだら執念深くもなるだろうが、別に何でもかんでも引きずるってわけじゃねえ。大事なものを理不尽に奪われる、それに一番抵抗があるのは俺なんかより兄貴の方で……多分、アンタを重ねちまってるんだろうよ」
はた迷惑なことにな、と言葉を結んだリューグはそれでお仕舞いとばかりに背中を向けた。おら、お前も戻れ、と靴先で砂地を軽く叩いて紫熟の行き先を誘導してやると、肩に斧を担ぎ直して道場への小路を上っていく。告げるべきことは告げた。そう物語っているかのような背中をぼんやり見つめていた私は、足元にまとわり付き始めた紫熟へと手を伸ばしながら目を伏せた。
兄貴は一度決めると譲らねえからな。
「譲れないのは私も同じなんだけどね……」
いつかリューグに聞いた言葉が脳裏に蘇り、紫熟を抱き上げる手にも力が入る。波打ち際で遊んで行こっか、と声を掛ければ乗ったと言わんばかりに身体を嬉しげに震わせる紫熟は本当にいい子だ。頭を空っぽにしたかっただけの私に付き合って、濡れた砂を身体に纏わりつかせてみたり、波間から頭の部分だけ出してみたり、水を掛け合うような真似もしてくれた。いつの間にか笑顔をこぼしていた私だったけれど、そろそろ戻ろうかと潮の匂いを染み込ませた紫熟を抱き上げて木立へと視線を投げたところで真顔になる。
「……いつから?」
「あー。リューグが鍛錬を終えた少し後……かな」
いくつかの包みを腕に抱えて気まずそうな笑みを浮かべているマグナを、私は無言で見つめてから大きな溜め息を落とした。紫熟しかいないと思って惜しみなく笑顔を振りまいたことが今更になってこの上なく悔やまれる。迂闊な自分が悪いのだけど、恥ずかしいやら悔しいやらで火照り始めた頬を意識から追い出してそっぽを向けば、楽しげな苦笑に肩を揺らしながらマグナが砂を踏みしめ近づいてきた。
「あ、あとさ、替えの服も見てきたんだ。アレを繕うのは結構厳しいだろうし、ミニスにも相談して選んだから大丈夫だとは思うけど」
「ああ……別に気にしなくてよかったのに」
またお金を使って、と思わなくもないけれど、善意の行動にそこまで目くじらを立てる気はない。無駄遣いしがちなマグナを嗜めるための呟きで、実際、マグナとミニスが選んでくれた服を私は一目で気に入ってしまった。両サイドに深めのスリットが入ったロングスカートは手持ちのブーツとも合いそうな落ち着いた色合いで、何より走ったり跳んだりといった動きにも支障なさそうな具合がいい。細長い包みを開いてみれば新しい刀で、ネスティから借りた着火装置で誓約の儀式を試したら出てきたものらしい。嬉しそうに語るマグナに相槌を打ちながら試しに軽く振るってみれば、重量感も握り心地も前の物よりずっとしっくり来たことに私は満足を込めて頷いた。文句の付けようもない完璧な買い物だ。
「そういえば髪も大分伸びたよな? 髪留めか何か、見繕っておけばよかったかな」
「だから無駄遣いをするのは止めろと。ネスティにまた叱られても知らないぞ」
初めの頃は旅の道具や食料の買い出しひとつで法外な値段を吹っ掛けられていたマグナをしみじみ懐かしく振り返っていたのに、気を抜けばすぐこれだ。感心半ばに頷いていた顔に呆れを浮かべて分かりやすく声を尖らせれば、マグナは指先を伸ばして私の目元にほつれ掛かった髪をよけながら朗らかな笑い声をこぼした。襟足を覆う程度だった後ろ髪も左肩にまとめて流せる程度には伸びてきたし、マグナが気になったのも分からなくはないけれど、何だか妙に気恥ずかしい。口元がむずむずして仕方ないのを無理矢理に引き締めたところで、あ、と間の抜けた声をこぼしてマグナは片手をポケットに突っ込んだ。
「そうだ、あとこれも」
ごそごそとポケットを探っていたマグナが私の手を取って、はい、と開かせた手のひらに乗せてきたのは紫色のサモナイト石だった。誓約前の物ならただの綺麗な石に見えたかもしれないが、複雑に折り重なった色合いと魔力の奥行きから私はその正体に気が付いてしまう。これは、誓約済みのサモナイト石だ。どうして、と思わず顔を上げてマグナを見つめてしまえば、照れくさそうに頬をかきながらマグナはあっさりと答えた。
「タキツに召喚術の素養があるって知ってから考えてたんだ。リプシーなら術者の練度にそこまで影響されないはずだし、ちょうどいいかなって」
「そうじゃない。なんでこれを私に……」
「俺が渡したかったから」
マグナは鬼妖界シルターンの属性だから、これを作るに当たってはわざわざ派閥の儀式場にまで出向く必要があっただろう。そう困惑交じりの視線を投げかければ、最近サプレスの適性も出来たみたいでさ、と誇らしげに胸を張って笑みを浮かべるマグナに他意はなかったものらしい。だけど、それでも素直に受け取るだけの踏ん切りが付かずに、私はじっと手のひらの上で輝く淡い紫色を見つめて眉尻を下げた。
物を残せば重石になる。それを見るたび思い返して、いつまでも忘れられなくなってしまうから。
それはいつか、マグナに語ったことのある言葉だった。何気ない会話のついでに話しただけだったから忘れられてしまったのだとしても不思議じゃない、けれど。このタイミングで渡されたサモナイト石を、本当に受け取ってしまっていいのだろうか?
何が正解かの判断がつかないまま、悩んで迷って躊躇って、穏やかな輝きを放つサモナイト石を前に随分長いこと黙り込んでいたらしい。緊張にそわつくような気配と不安げな眼差しを向けられていることにやっと気が付いた私は観念して息をひとつ吐くと、手のひらに転がしたままだったサモナイト石をゆっくりと握り込んだ。
「……ありがとう、大事にするよ」
マグナの真意は分からないけれど、いくらサモナイト石を見つめたところで答えが返ってくることはない。これを私に渡したいとマグナがそう思ってくれたなら、それ以上の真実を無理に暴こうとする方が無粋と言うものだろう。
疑問はまだ残っているけれど潔く忘れ去ることにしてお礼の言葉を告げれば、どういたしまして、と満足そうに顔を綻ばせながらマグナは目尻を下げた。替えの服と新しい刀と誓約済みのサモナイト石と、ファナンの街を巡って準備してきたそれらを無事私に渡すことが出来てすっかり肩の荷が下りた気分らしい。一転して呑気な笑みを浮かべ、金の派閥本部からファナンの街中を歩いてくる途中にあった出来事を語り始めたマグナにうんうん頷き返していると、ふとその視線が私の腕に抱えられた紫熟を見た。
「それにしても、あんな顔で笑うんだもんな」
獣人の少女、ユエルが下町飲食店街で世話されることに決まったのだと話をしていたところだった。ユエルがはぐれになってしまった経緯の推測や、世話をするに当たっての持ち回りの順番だとかを事細かに語っていたマグナが不意に言葉を切ってこぼした呟きに、咄嗟に理解が追い付かないままオウム返しに尋ね返す。
「あんな顔?」
「ほら、さっきしてた楽しそうな笑顔だよ」
紫熟にさ、と続く言葉に思わず顔を顰めてしまえば、マグナは喉元で押し殺すように笑いながら紫熟の頭あたりを手のひら全体で撫でた。やっぱり、紫熟と波打ち際で遊んでいた時の様子はすっかり見られていたらしい。錯覚だとか幻視だとか、あまりに子供じみた誤魔化し文句が口を突いて出そうになるのを必死に堪えていると、そんな私の葛藤などお見通しとばかりにマグナは苦笑に肩を竦めて瞳を和らげた。
「笑ってるわけじゃないって」
言いながらその口元には柔らかな弧を描いているくせ、白々しいにも程がある。つい恨みがましげな目を向けてしまうが、マグナは苦笑を深めただけでそれを流すと、ひょいと私の腕から紫熟を取り上げた。
「お前はいいなぁ」
太陽に透かすように掲げ持った紫熟へと羨ましそうな声色を投げ掛ける、その横顔は笑っていた。そう断言出来るのに、私の知っているマグナの笑い方とあまりにかけ離れていたからだろうか。一瞬別人のように見えてしまって無意識にその動きを追ってしまう。
もっと屈託ない、無邪気で緩んだ、あっけらかんとした笑い方をするのがマグナだと、少なくともこれまでの旅の中で私はそう思ってきた。どこか子供みたいな笑い方をするマグナのことをどうしても嫌いになれず、むしろ微笑ましく思ってしまうばかりで、そんな自分に何度も呆れては自嘲の笑みをこぼしてきた。だから、目が合ったついでのように小さく笑いかけてきたマグナに何となく、気圧されてしまう。
楽しそうな、困ったような、それでいて苦しくてたまらないような、折り重なった幾つもの感情が滲んで透かし見える笑み。
道場へと続いていく緩やかな上り坂へと踏み込みながら、私に返せたのはただ、それらの全てに目を背けた曖昧な微笑みばかりだった。
真っ当に優しくて普通にいい奴なマグナが好きです。普通の人間らしく思い詰めていってください。