12ー1:絶望の先へと/M
見上げる月はただ白い。黒い影のような森の上でこうこうと輝く、その色合いだけはあの日と何も変わらない。ただ静かに、澄んだ光を惜しみなく降り注いでいる。禁忌の森やルウの家の屋根へと音もなく降りしきる、どこか冷たく柔らかい銀の光。何だか雪みたいだな、とぼんやり間延びした思考の端で考えた時だった。
「マグナ。こんなところにいたのか」
不意に降ってきた声に首を倒して振り仰いだ先には、ネスがいた。それほど眩しかったつもりはないけれど無意識に目をすぼめていた俺を気遣ってだろう、オレンジ色の明かりをこぼしていた玄関扉の隙間がすぐに押し込められて、俺たちを照らすのは月明かりだけになる。それでも、ネスがほんの僅かに眉尻を下げて、困ったような顔をしたのが分かった。
「……彼女のことを考えていたのか?」
躊躇いがちな声は、それでも確信を持って向けられた。こんな時でも百発百中、俺の考えなんて手に取るように分かってしまう兄弟子の凄さに咄嗟に笑おうとして失敗した俺は、息をこぼすだけの空笑いを引っ込めて小さく頷く。
「はは……ネスには何でも分かっちゃうな」
暖炉の炎やランプの光、そうした温かいオレンジ色が消えて、月明かりだけが残った空間は少し肌寒い。ルウの家のすぐ横にある切り株に腰掛けて随分経った気もするし、単に俺の身体が冷えているだけなのかもしれない。それでもまだ立ち上がる気にはなれず、半端に開いた口をゆっくり閉じて俺は視線を下げた。眼鏡のつるを押し上げる、かちゃりという金属音がかすかに響いて、押し殺したような溜め息がひとつ。やりきれない、といった様子でネスが首を横に振るのが目に見えるようだった。
あれから俺たちは、ローウェン砦からシャムロックさんを連れてルウの家まで逃げてきた。戦略的撤退なんて言えば聞こえはいいかもしれないが、命からがらあの場所から逃げ出しただけだ。生存者のひとりも見つけられず、シャムロックさんの部下だったひとたちの遺品すら回収出来ず、黒の旅団やビーニャへと一矢報いることさえも出来ずに、そして、大事な仲間のひとりを失って。
何とか砦を脱出して街道を駆け抜け、森まで入った後も、誰もが言葉少なだった。気力だけで意識を保っていたシャムロックさんもそこで限界だったのだろう、フォルテの肩から崩れ落ちるように気を失ってしまった彼を代わる代わる担いだり背負ったりしながらの道中、急ぎながらも何度か休憩を挟んだのだけど、気詰まりな沈黙ばかりが場に満ちていた。いつもなら軽い口調で話題を明るい方へと変えてくれるフォルテも険しい顔つきで押し黙って、モーリンやルウも辛そうな眼差しを足元深くに落としていて、俺やネスも似たようなものだった。深手を負ったシャムロックさんを一刻も早く安全な場所で休ませなければならない焦りや不安はもちろんのこと、ローウェン砦で目の当たりにした現実とは思えないほどの惨劇、それを引き起こした張本人、ビーニャの残虐極まる振舞いと次元の違う実力に圧倒されて、何も考えられなかったのかもしれない。そんなビーニャの元にあのタキツが向かったこと、寝返ったなんて言い方はしたくないけれど、敵に回ってしまったのだという現実を飲み込むのは、ひどく難しいことだった。
とにかく、まずはシャムロックさんの手当が最優先だ。誰が言葉にしたわけではないけれど、その意志だけは皆に共通していた。夕方遅くにルウの家に辿り着いてすぐ、ベッドに寝かせたシャムロックさんに付き添ったのはアメルとモーリンで、二人は代わる代わる癒しの力とストラを使って手厚く看病してくれた。その間、カイナは悪意を感じ取る結界を周囲に張ってくれて、カザミネさんやリューグは森の近くまで哨戒に行ってくれて、ネスやフォルテは難しい顔で今後のことの相談や現状整理を進めていて、皆が皆、何かしていないと落ち着かない様子だった。ぐるぐると渦巻く不安を誤魔化すように、やり場のない焦燥を掻き散らすように、目の前のことに必死になる振りをしていたのは俺も同じだった。
これからどうするのか、どうすべきなのか。
それが決まった切っ掛けは、シャムロックさんが目を覚ましたことだった。絶え間ない熱心な看病の甲斐あって深夜近くに目を覚ましたシャムロックさんは、高熱で朦朧としながらもネスとフォルテの説明で事態を正しく把握すると、僅かな逡巡も挟まずに言ったのだ。
「なら一刻も早く、生き残りの私がこのことを知らせなければ」
トライドラまで、伝令に向かわなければ。
ぼやけていた瞳の焦点がその一瞬、はっきりとブレなく定まって、掠れきっていた声に芯が通り、毅然と告げる。正気を疑うまでもなく、本気だと分かった。熱にうなされてのうわ言や現実から目を逸らした世迷い言なんかじゃない。俺やネスにとっては思いもよらない言葉だったけど、フォルテはどこかで想像出来ていたのか、苦虫を噛み潰したような顔のまま頬を引き攣るように持ち上げての苦笑いをこぼした。
「そういう奴だよな、お前さんは……」
仕方なさそうに呟く声には、呆れと諦めと悲しみと、ほんの少しの誇らしさが入り混じっていた。それでも、いくら意識を取り戻したとはいえ元々の傷が傷だ。急使として走らなければ、と今にもベッドから起き上がりそうな勢いで繰り返していたシャムロックさんだけど、フォルテが支えていなければすぐにベッドに崩れ落ちてしまう有様で、本当ならまだ数日は絶対安静でベッドの住人にならなきゃいけない状態だった。けれど、誰かを代わりにすることも出来ない、騎士である自分が伝えてこそ遅滞なく領主まで伝わるのだとまで言い切られてしまえば、俺が結論に至るまで大した時間は要らなかった。
「それなら、俺たちが貴方をトライドラまで無事に送り届けます」
シャムロックさんが無事にトライドラまで辿り着けるよう、護衛を買って出たのは俺の独断だったけど、反対の声はひとつも出なかった。
「どのみち、戦争が始まってしまえば街道を自由に行き来することも難しくなる。トライドラがデグレアを退ければ、黒の旅団の動きを制限することにも繋がるだろうしな」
「すまねえな……こいつの石頭は何度死に掛けたって変わりゃしねえ。お前さんたちにはつくづく世話になってばかりだな」
何度止めようとしても頑として譲らない様子を見ていたのはネスもフォルテも同じだったから、多分、どこかで覚悟は決めていたんだろう。
「朝になったら、出発しましょう!」
二人の後押しを受けて、瞠目するシャムロックさんに向き直った俺はもう一度、安心させるような笑みを浮かべて言葉に力を込めて言った。それでやっと張り詰めていた気が緩んだのか、シャムロックさんは再び気絶するように眠りに落ちてしまったけれど、これで方針は決まった。日が昇り次第、トライドラに向かって出発する。デグレアの目を潜り抜けて、シャムロックさんが砦の陥落を知らせることの出来るように護衛をするのだ。
休む間もない強行軍になるから、それまでに準備を整えて少しでも身体を休めておくことが今の俺たちのやるべきことだった。わざわざネスに説明されるまでもなくちゃんと分かっていたけれど、なのに、俺はちっとも眠れなかった。身体も心もくたくたに疲れ切ってるはずなのに、いくら目を閉じてじっとしていても少しの眠気もやって来ない。手持ちのサモナイト石を確認して杖や剣の手入れを済ませても目が冴えるばかりで一向に寝れなくて、仕方なしにこうして夜風を浴びて月を眺めていたのだけど。その原因がどこにあるのかは、自分でもよく分かっていた。
「彼女のマスターとやらがビーニャだったとはな……おそらく、タキツはデグレア側、つまり僕達の敵になったと考えて問題ないだろう」
「けど……っ!」
タキツ。俺が二重召喚で呼び出してしまった、ビーニャの護衛獣。ハシバミ色の瞳に栗色に近い焦げ茶の髪をした、俺には少しだけ手厳しい、本当はとても優しかった女の子。
見習い試験を終えて見聞の旅に出てからずっと、当たり前のように隣にいた存在が忽然と消えてしまったことが、敵に回ってしまったことが、俺はまだ受け止めきれていなかった。いや、それどころか、そんな彼女を引き留めたいあまりに自分が何をしたのかも、上手く飲み込めていなかった。それでも、ネスが口にした敵の二文字が重く圧し掛かって、咄嗟にその重圧を振り払おうと勢いよく顔を上げて声を張っている。
「あの時、タキツは!」
「逃げろ、と警告してくれた。わざわざ彼女が敬愛するビーニャの意志に逆らってまで僕達を逃がそうとしてくれたのは事実だ。だがしかし、彼女にとって絶対の存在がビーニャであることも……また、事実なんだ」
ローウェン砦での惨劇を作り出した、あの、ビーニャなんだぞ。
淡々と告げる声に込められた無言の訴えが俺を打つ。
「君が思うとおり、きっと彼女には僕らを殺す気なんてない。けれど、それもビーニャの命令さえあれば……」
叱責するでもなく、警戒を促すでもなく、噛み締めるように絞り出された声色はネスの苦悩を現しているようだった。そんなの当たり前だ。ネスだって俺と同じくらい、タキツと一緒に過ごしてきたんだから。他愛のない話を交わして、戦いでは背中を預けあって、そうやって信頼して助け合ってここまで来た相手が敵になってしまった事実を飲み下そうと必死なのだろう。召喚主である俺がこんな始末だからネスにばかり負担を掛けている。言葉にならない申し訳なさと居た堪れなさが込み上げてきて項垂れそうになりながらも、俺は諦め悪く繰り返してしまう。
「それでも……俺は」
ぽつりと呟いたそれが、あんまり低い声色だったからだろうか。ネスが言葉を切って俺を見下ろした。虫の声だけが響く中、自然と思い浮かべてしまうのは、今は隣にいない彼女のことだった。
召喚直後は、とんでもない子を呼んでしまったと思ったものだ。
「まったく。仮にも召喚師だろうに、よく言うな」
唯一無二と公言して憚らない大事なマスターと引き離してしまったせいだろう。うっかり二重召喚したことを謝る俺に、タキツの反応は中々に辛辣なものだった。淡々と落ち着いた声で手厳しい言葉を浴びせ掛けられて、自然小さくなって萎れてしまったことを覚えている。今になって思い返してみればあれでもタキツなりに手心を加えてくれたんだろうけど、それに気づく余裕はまだ無かった。ただ、了解したよ主、と頭をくしゃりとかき撫でていった手の優しさに、ひょっとするとあの時にはもう、何かを期待してしまっていた気もする。
「本当に、主は仕方ないな……」
ゼラムの街を案内すれば目と目を合わせてお礼の言葉を言ってくれて、ネスとの口論では俺の言い分もきちんと聞いてくれて、俺が何かをやらかしたり巻き込んでしまっても、決して俺を突き放さずに傍にいてくれるのがタキツだった。困った顔をして仕方がないなぁと言いたげな素振りを見せても、最後は必ず手を貸してくれる。一番初めにあれだけ厳しい線引きをしていたのが嘘みたいに、タキツは優しかった。厳しい物言いはしてもいつだって寄り添ってくれたし、俺が危ない目に遭いそうになれば身を挺して庇ってくれた。我が身を顧みずなその言動には次第に心配と不安を持て余すようになっていくのだけど、初めのうちは単純に嬉しくて仕方がなかった。照れ臭さや戸惑いの中で、変な期待をますます膨らませていったことを、忘れていない。
「そうだとしたら、がっかりだ」
アメルに出会った直後、ひょんなことから俺の隠してきた劣等感や卑屈な思いがバレてしまって、がっかりだと言われた時。カッとなって衝動のままに食って掛かったのは、その裏返しだった。
分かってくれると思ったのに、と自分からは何も語っていないくせに勝手に期待して失望して、手ひどく裏切られた気になって。煽られるまま憤りのまま、子供じみた癇癪を起こして自棄っぱちになって噛み付いて、一方的に傷つけて。なのに、タキツは見捨てないでくれた。そんな俺から目を逸らさないでいてくれた。ちょっと強い言葉だったけど、俺の馬鹿な思い込みを明後日の方向から叩き直してわざとらしい溜め息をひとつ、どうにか顔を上げられるようになるまでずっと、背中を撫でてくれたから。俺はすっかりタキツに甘えるようになってしまったのだろう。
タキツは優しい。そう言葉にするたび否定の声が返ってきたけれど、俺は微塵も疑っていなかった。俺だけじゃない。ネスだってミニスだって、一緒に過ごした時間が長ければ誰だって気づいていたはずだ。無表情に素っ気無い態度を装っても、それはあくまで振りでしかない。話を聞いて相談に乗ってくれて、励ましや慰めの言葉はもちろん、時には容赦のない物言いや手厳しい態度でも迷う背中を力強く押してくれた。いつも、いつだって、俺を気に掛けてくれたし心配してくれた。ずっと、俺のことを見てくれていた。
それがたまらなく嬉しくて、まるで自分が特別みたいな気がして、どんどん勘違いしそうになっていって、そのたびに頭から冷水を浴びせられたみたいに我に返る羽目になった。俺の浅はかな勘違いを窘めるように、勝手な思い上がりを戒めるように、タキツはマスターのことを口にした。俺の考えなんてお見通しだとばかり、まるで釘を刺すかのように、念を押すかのように、最初に交わした約束を持ち出した。ふわふわと気持ちが浮ついて上向いた後はいつも、鉛のように胸を重くするばかりだった。
本当に、タキツがマスターと呼び慕う相手はまともな召喚師なんだろうか。もしそうじゃなかったとしたら、俺は本当にタキツとの約束を守るべきなんだろうか。マスターなんかの元に戻らない方が、ずっと、タキツの幸せに繋がるんじゃないだろうか。
アメルを守って燃え盛るレルム村から逃げ出して、俺たちを付け狙う黒の旅団と戦って、スルゼン砦の異変を目の当たりにして。突き付けられる殺意と悪意の矛先を交わし続けていくうちに、疑念と願望の入り混じった不審のモヤは色濃く膨らんでいった。殺すか、殺さないか、当然のように問いかけてくる冷めた眼差しは俺の知るタキツにはどうにも結びつかない気がして、タキツの置かれていた環境やそれを許していたマスターへと気づけば疑いの目を向けていた。初めは些細な違和感だったのが次第に大きく、見過ごせないほど増していき、決定的だったのはレナードさんから話を聞いた時だろう。リィンバウムに召喚されるまでタキツが暮らしていた国では、命の遣り取りはおろか武器を持って戦うこと自体が滅多になかったらしい。それならタキツは一体どこで、と浮かんだ疑問に答えが要らなかった時点で、疑念は殆ど確信に変わっていた。
召喚主のことを詳しく知ったら俺が困ることになるからだろう、タキツは頑なに口を噤んでいた。ちっとも上手くない、優しくない振りを続けていた。その健気な気遣いが誰に向けた物なのか、誰を意識しての物なのか、考えるだけで胸が重くなったけれど、それでも俺は何にも気づかない振りをしていた。自分がどうしたいのかも忘れるくらい悩んで躊躇って葛藤ばかりを繰り広げて、同じ答えの上で何度も何度も行ったり来たりを繰り返して、それでも踏ん切りがつかなかったのだ。だってタキツは時々、びっくりするほど優しい顔で、柔らかい声で笑ったから。
「私にはマスターがいるから。一緒にいるためなら何でも出来るし、どんなに辛いことでも乗り越えられる。そういった意味では似たようなものかもしれないね」
冗談交じりの言葉だったけれど、満天の星空を眺めるようなその瞳は何より雄弁に物語っていた。ミニスが満足そうに息をこぼすくらいには満ち足りた笑みを浮かべていたから、だから、俺は何も言えなくなってしまった。それが本当にタキツの幸せに、笑顔に繋がるのならと、思ってしまったのだ。どんなにネスと相談した結論から外れていても、どれだけ後悔を引きずるだろう決断になったとしても、本当の本当に、タキツがそれでひとつも悔いがないみたいに笑うなら、って。
「もう、特別扱いなんて出来ないんですから」
目を閉じれば思い出す。目蓋の裏に焼き付いてしまったあの泣きそうに歪んだ笑みを、俺はきっと忘れられはしないだろう。縋るように向けられた眼差しは息も出来ないほど苦しげで、困ったように垂れ下がった眉尻と歪に持ち上がった口角のせいで、泣き顔に崩れる一歩手前の笑い顔を浮かべていた。困り切って弱り果てて、どうしようもなく震えを帯びた声色と同じ、ひとりぼっちの迷子みたいな笑い方だった。
笑っているけど、泣いている。
そんなつもりはなかったのかもしれないし、タキツ自身、それに気づいていなかったのかもしれない。けれど、それなら余計に許せなかった。約束したはずのさよならを、到底受け入れる気になれなかった。ただ、そんなの結局俺の独り善がりでしかなくて、そういった意味じゃロッカと何も変わらなかったのかもしれないけど。
「ロッカ……どうしてあの時、タキツを攻撃した?」
代わる代わるシャムロックさんを背負いながら森を進んでいた途中、一番初めの休憩のタイミングで俺はロッカに声を掛けた。どんな用事か分かっていたんだろう、何を聞き返すでもなく黙って付いてきたロッカはひどく落ち着き払っていた。針葉樹ばかりの薄暗い森の中、一方的に胸倉を掴まれて太い幹に押し付けられても動じた様子もなく、逆に冷めた眼差しで見つめ返してくる。けれど、その瞳の奥には熾火のような深い憤りが燻っていた。
「それが一番確実な手段だったからです。殺す気なんてありませんでしたよ、それはマグナさんだって同じことでしょう?」
あれだけの目に遭わせていても、と。
ビーニャに向かって駆け出したタキツ目掛けて、ロッカは槍を投げつけた。そのことに俺はずっと腹を立てていた。狙いがあくまでタキツの足を止めること、ビーニャの元に向かう邪魔をすることにあったのは理解していたけれど、あの時はまだ仲間だったタキツを傷つけた、そのことがどうしても許せなかったのだ。だけど、そこに俺の八つ当たりが混じっていたことは否定出来ない。同じことをしたのに、と痛いところを突かれて押し黙った俺の手を振り払うでもなく、ロッカは声色を低くした。
「僕には分かっていました。ずっと前から、彼女のマスターがろくでもない人間でしかないと……分かっていたから、無理にでも引き留めようとしたんだ。貴方だってそう考えたから、あんな手に出たんでしょう」
誓約の痛み。それを手段として扱う召喚師は今だに少なくないらしく、蒼の派閥でも時々そうした話を聞くことがあった。魂を引き裂くような強烈な苦痛を与えることで無理矢理に召喚獣の意志を捻じ曲げ、召喚師の思いのままに従うように仕向ける技。そんなの意志を持つ相手にするようなことじゃないし、ただの物扱いにしたってあまりに酷すぎる。俺は絶対そんなことはしないって呆れと嫌悪の入り混じった思いで内心、吐き捨てるように呟いたはずなのに、それでもあの時の俺はどうしても、どんな手を使ってでもタキツを引き留めたかったのだ。
「あんな奴のところに戻ったところで彼女は……絶対、幸せになんてならない」
彼女を取り戻すためなら僕は同じことをします、何度でも、と迷いなく繰り返すロッカに何も言えなかったことを思い返しながら、俺は握りしめていた右手を開いた。感覚が無くなるくらい強く、固く握りしめていた手の内には透明なサモナイト石がひとつ。あの時のような白い輝きはもう纏っていないけれど、俺の魔力に反応してほのかな明滅を繰り返している。近くにいないからだろうか、その輝きは月明かりのように淡いけれど決して消えることはない。召喚師と召喚獣とを結びつける誓約済みのサモナイト石に、まだ魔力のパスは通っている。これはまだ、俺とタキツを繋いでいる。
「俺は……タキツを諦めるつもりなんてない。ビーニャに渡す気なんて、ない」
ここでお別れだ、今までありがとう。囁くようにそう告げたあの表情、この切り株に腰掛けて月を眺めていた時の横顔、どれも鮮明に思い出せる。穏やかに満ち足りた声で微笑んだその顔に、胸を打つような寂しさと心細さが伝わってきたあの眼差しに、本当は腹が立って仕方がなかった。マスターのことを考えてそんな顔をするところなんて見たくなかった。嬉しそうに顔を綻ばせて笑う姿も、物憂げに目を伏せて項垂れる姿も、俺には見ていられなかった。そんなにマスターが大切なのかと尋ねたら、きっと肯定されてしまうから聞けなかったけど、だけど。
イヤだと思ってしまったのだ。タキツにそこまで思いを向けられる相手がいることが、それが俺じゃない相手なんだっていうことが。
「マグナ、君は……」
気遣わしげなネスの声に言葉を返す代わり、俺は黙って視線を遠く月へと投げかける。森の向こう、空の高いところに移り始めている月は次第に色を薄くし始めて、あと数時間もすれば日が昇る。次に黒の旅団やビーニャとぶつかる時がいつになるかは分からないけれど、きっとそう遠くはないはずだ。ビーニャの護衛獣と名乗っていた彼女なら戦いの場にも付き添っていることだろう。俺の、護衛獣だった時と同じように。
もし、また会えたなら。
あの時、誓約の痛みを使ったことを後悔しなかったわけじゃない。罪悪感や自責の念、後ろめたさや後味の悪さ、それらが綯い交ぜになった不快な思いに胸を悪くするまま、木々の根元や草陰で何度膝を突いたことだろう。胃液の他に何も出なくなるまで地べたを見つめていたせいか、こうして見上げる月はいつもよりずっと眩しく目に映る。それだけの苦い後悔を味わった直後だ。何が正しいかも分からないまま、手段も選ばず行動に出た自分のことは本心から愚かだと思うけれど、それでももし。もしもまた、タキツと会えたなら。
あれほど苦しむ様子を目の当たりにした今でさえ、二度と彼女を手放さないためならあの力に手を伸ばすのだろうな、と思ってしまう。そんな自分が、ひどく恐ろしかった。
誤差の範囲で原作と細かい差異が出てきます。大体悪い方向への誤差です。