ぼんやりと意識が浮上する。目蓋越しに感じる光に抗うことなく目を覚ませば、そこは簡素ながらも清潔なベッドの上だった。
寝起きの鈍い頭に片手を添えておもむろに背中を起こせば所々引き攣るような痛みが走って、思わず顔を顰める。だけど、おかげで霞がかっていた思考が一気に晴れた。多分、ローウェン砦で気絶した私はそのまま回収されたのだ。それがマグナ側とデグレア側、どちらの陣営なのか皆目見当もつかないことが差し当たっての問題なのだけど、とこれまた見覚えのない部屋をぐるりと見渡して、私は力なく息を吐いた。
くすんだ灰色の天井に石造りの壁、ベッドのシーツや薄手の毛布はまだ新しいようだけど、机もなければ窓もない素っ気無いほどに殺風景な部屋は相当年季が入っている。ビーニャに召喚された直後にデグレアで使っていた部屋と少し雰囲気が似ているが、大まかな造りや建材も違うようだし、少なくともデグレア本国まで戻ったわけではなさそうだ。ひょっとしたら陥落したばかりのローウェン砦の一室なのかも。そう思い至ったところで、推測に過ぎないそれを可能性の枠へと差し戻す。いかにも有り得そうな展開と言っても思い込みで動くのは禁物だと、ここ暫くの日々で嫌というほど思い知ったばかりだ。とにかく、この状況を説明してくれる誰かを見つけなければ始まらないと結論付けて、私は情けなく眉尻を下げて呟いた。
「やっとビーニャに会えたと思ったのになぁ……」
もしこれでマグナ側に回収されていたなら目も当てられない。思いっきり悪役として振る舞った後であの優しい集団に戻るのは、さすがに辛いものがあった。
あの時、ローウェン砦で起きたこと。
最後の方は意識もおぼろげで途切れ途切れの記憶しかないけれど、マグナに誓約の痛みを行使されたことは、はっきり覚えている。ビーニャの護衛獣だからと悪びれもなく言い放って刀を向けておきながら、どうにか魔獣の包囲を抜けられるよう、ビーニャの被害に遭わずに生き延びられるよう、ローウェン砦からの脱出を促していた時点で私も大分おかしな振る舞いをしていた自覚はあるけれど、それでも人が変わったような冷徹さで力を振るってきたマグナには思わず面食らってしまった。どれだけ動揺してしまったかと言えば、前触れもなく突き付けられた異様な感覚、言葉に出来ない強烈な痛苦の渦に叩き込まれてもなお、困惑の占める割合の方が勝っていたくらいだ。それも私に物を考えるだけの余裕が残っていた間の話でしかないけれど、その後のことは記憶の有る無しに関わらず出来れば思い出したくもない。情状酌量の余地なしに加害者側であるくせして被害者ぶった思考を回していた気がするし、全身を苛む苦痛にまるで無辜の民じみた反応をしていた気もするし、落ち着いて振り返ってみると滑稽も呆れも通り越して羞恥の念しか湧いてこない。願わくばどうかこのまま、記憶の底に沈め切ってしまいたいものだ。
だけど、そう、こうしてあの時のことを思い出せる限り思い出してみても、私の胸は不思議と凪いでいた。身体が強張ったり肌が粟立ったりするようなこともなく、場違いな穏やかさと苦笑ばかりが満ちていた。罪悪感や自虐の念、心苦しさといったお馴染みの気持ちの他には目立って主張するものもなく、少なくとも、マグナに対して憤ったり恨んだりと言った感情が一切ないことは確かだった。
ゲーム知識として知っていたとおり、いや、それ以上に、誓約の痛みは凄まじいものだった。全身が粉々に砕けるような激痛が走ったかと思えば、神経の一本一本を丹念に爪弾くような苦痛の波に晒されたりと、我ながらよく正気を保っていたものだと感心してしまう。身を以て知る羽目になった悪辣で非人道的な痛みの奔流、動揺と混乱に呑まれるまま自我すら見失ってしまいそうな中、それでも理不尽を呪う言葉のひとつも出てこなかったのは、切れ切れの思考のどこかで深い納得を抱いていたからだろう。起こるべくして起こったこと、当然の報いを受けただけのこと、そんなふうに心のどこかで現状に理解を示してしまっていたからだ。
終わった話でしかないと、あの時のことはもう私の中では片付いている。筆舌に尽くしがたいあの痛みは二度と経験したくないけれど、誓約の痛みはあくまで一過性の物、精神崩壊の憂き目に遭わず済んだ以上は後遺症のひとつもない。だから私の心配する先はむしろ、マグナのことにあった。マスターを見つけたらその時点で解放してくれるよう約束していたとはいえ、それが敵対する相手方の召喚師で、それまで味方として振る舞っていたのに即座に離反をかまして切っ先を突きつけてくる護衛獣だとか、そんなのいくら温厚なマグナでも逆鱗に触れて当然だ。混乱と失望、憤りの中で自棄っぱちになるまま、普段じゃ考えられない荒業に出ても仕方のない話だろう。ただ、底抜けにお人好しなマグナのことだ。あの怒涛と狂乱の戦場を抜けた今、正気に戻ったマグナが気に病んではいないか、というのが目下の懸念事項だった。
「はぁ……絶対、気にしてますよねぇ……」
何でこの期に及んでマグナの心配をしてるんだろう、と腹底からの溜め息をこぼして項垂れた時だった。廊下を歩いてくる静かな足音を耳に拾い、そろりと視線を上げて閉じた扉へと投げ掛ける。マグナにしては大人しすぎるテンポ、ビーニャにしては大きな歩幅、苛立ちや焦りの代わりにどこか楽しげにも聞こえる足音。一体誰が、と疑問符を浮かべた私の見つめる先で、重たげな木製の扉が部屋の中へと押し開けられていく。
「……ビーニャ様は、いらっしゃらないので?」
「おやおや、そんなに残念そうな顔をされては傷付いてしまいますね」
現れた笑顔のレイムに、私は内心そのままの表情を浮かべていたのだろう。酷いですねぇ、と上機嫌に歌いながら優美に笑みを深めるレイムを見上げて、私は喉元まで込み上げた溜め息を無理矢理に飲み下した。
「ともあれ、貴方の帰還を喜ばしく思います。ビーニャの護衛獣、もとい側仕えは続投で。というより、やはりあの子のストッパー役がいなくては計画に支障を来たしかねないんですよ」
長居するつもりはないのか、椅子を持ち出すでもなくレイムがつらつらと語り出した現状説明の内容は、概ね予想していたとおりだった。私が気を失った後、砦が崩壊する勢いで召喚術を乱発し始めたビーニャを抑え込もうと黒の旅団が必死になっているうちにマグナたちは逃げおおせてしまったらしい。どうにかサモナイト石を取り上げた後も意識のない私を抱え込んで周囲に毛を逆立てていたビーニャに、命を繋がせたいのなら手当てをすべきだとルヴァイドが声を掛け、先日陥落させてからはデグレア兵の駐留地としていたスルゼン砦へと移動して今に至るのだと言う。ゲーム中では陥落したスルゼン砦やローウェン砦はフリーバトルの場になっていたけれど、後々大平原に侵攻してくるデグレア本陣の規模やらを考えれば自然な話だ。レイムがこの場に居合わせたのもわざわざ足を運んだからではなく、中継拠点として状況確認に訪れたからだったそうで、納得に頷きながら私はふとした疑問を口にした。
「それは願ってもないお話ですが、よいのですか? あまりに私にとって都合のいい任務のような気がするんですが」
「まぁ、貴方にしてみればそうでしょうね。ですが、最近のあの子は少々羽目を外しがちでしたし……どのみち今の貴方の使い道はそう多くない。マグナくんたちの内情を探るのはもう不可能ですし、黒の旅団に正式に組み入れるには些か技能が偏っていますからね。ビーニャのサポートを存分に務めて頂ければそれで結構」
鷹揚すぎる采配を下してくれたレイムに本心からの感謝を抱けば、苦笑交じりに肩を竦められてしまった。物好きな人間がいたものだと呆れたのかもしれないし、目の前の欲に眩んだ人間を哀れんだのかもしれない。だけど、これでもレイムの意図はちゃんと汲み取っての上だ。ストッパー役として私をビーニャに付けるのは変わらなくても、その目的がデグレアにいた頃とは変わっている。レイムが語ることに嘘はなくても真実の一側面に過ぎないことと、羽目を外したビーニャが何をしがちだったかを思い出せば、自ずと答えは出ていた。
せっかく砦を攻め落として多くの死体を入手する機会を得たというのに、ビーニャはそれを作り出した端から魔獣の餌に変えてしまう。いずれ来たる全面戦争に備えた大事な資源、悪鬼憑きや屍人兵として活用出来たはずの死体を無意味に食い潰されることをレイムは憂いていたのだろう。
死者の魂と肉体を最大限に有効活用する。それは人間視点で見てみれば仁義にもとる外道の策であるものの、合理的で効率的な手であることは確かだ。なるべく長持ちさせるためにも出来るだけ欠損の少ない、せめて原型を留めた死体を揃えたかっただろうに、機嫌次第で無茶苦茶をするビーニャに随分消費されてしまったらしい。死者の尊厳を思えばまだ魔獣の腹に収まった方が安らかな眠りにつける気もするが、そこは今の私の考えることじゃない。ご期待に沿えるよう尽力いたします、と恭しく頭を下げて言えば、レイムは安堵めいた息をこぼして微笑んだ。
「しかし、貴方がマグナくんに召喚されるとは……街道で会った時は驚きましたよ? 思わず声を上げてしまいそうになりました」
「それは、私だって対応に困りましたよ。レイム様がまさか吟遊詩人の真似事をされてるなんて思いもしませんでしたし……情報収集にしても、御自ら最前線に出向くなんて」
「私の気質に最も合っているのが吟遊詩人でしたからね」
竪琴を弾く真似をしてみせるあたり、今日のレイムはとりわけ機嫌がいいようだ。それとマグナくんたちですが、と思い出したような声に耳をそばだてた私は、続いた言葉に知らず構えていた身体の力を抜いた。
「もし戦場で相対しても、出来るだけ、それとなく手を抜くなり逃げるなりして、生かしておいて下さい。彼らは実に面白い……残酷な運命に足掻いて藻掻いて抗おうとする、その懸命な姿が私は見たいのですよ」
嬉々とした笑みを浮かべた頬は僅かに赤みを帯びて、陶然とした眼差しも相まってどこか艶めいて見える。全ての元凶、因縁の紡ぎ手にここまで気に入られているなら、マグナもそう易々と死ぬことはないだろう。それが幸か不幸かはさておき、主人公としての条件をしっかり満たしていたらしいマグナの気の抜ける顔を何となしに思い返していれば、満足した様子のレイムがひとつ頷いた。細々とした話は別の者からさせますので、と落ち着いた足取りで部屋を出ていく背中を見送って、私はやっと全身に薄く張り詰めていた緊張を解く。
何はともあれ、今のところは予定調和だろうか。
誰が来るかもわからないしと、寝起きの格好そのままだった私は胸元に垂れていた毛先を摘まんで少し考え、うなじ近くの低いところで緩いお団子にまとめ直した。髪紐もゴムもないから髪の一房を抜き出して代わりにしたけれど、大分マシな見た目になったはずだ。魔獣の体液や血、吐瀉物で散々に汚れたローブは処分されたのだとして、幾分ゆとりのあるシャツとふくらはぎの辺りに裂け目の出来たスカートといった姿はどういった経緯だろう。上だけでも着替えさせてくれたのかな、とつらつら思考を巡らせ始めたところだった。扉が勢いよく押し開かれ、弾丸のように小さな影が飛び込んでくる。
「ナチっ!!」
「ビーニャ様!」
蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで部屋に飛び込んできたのはビーニャだった。顔を上げた時にはもう私目掛けて床を蹴っていたビーニャを受け止めるべく、ベッドに腰掛けた姿勢のまま私はめいっぱい両腕を広げる。どっ、と背中にまで響くほどの衝撃を受けて息を詰めた拍子、堪らず頬が緩みを帯びた。ビーニャだ。もう会えないかと思っていた、また会えなくなってしまったかと不安で仕方がなかった、そのビーニャがいま私の腕の中にいる。それだけの事実が声にならないほど嬉しくてたまらなくて、体温の低い身体を温めるように力いっぱい抱きしめ返してしまえば、私の胸に顔を埋めるように抱き着いているビーニャもこれ以上なく力を込めてくる。私の背中に両手を回してぎゅうぎゅう抱きしめてくるビーニャは何も言わない。言えないのか、言う気がないのか、それは分からなかったけれど、やっと私にも実感が湧いてきた。
私は、ビーニャの護衛獣に戻れたんだ。
ようやくこちら側に戻ってこれた事実を噛みしめるにつれ、どこか夢見心地だった胸の内にじわじわと深い安堵と喜びが広がっていく。何だか私まで何も言えなくなってしまって、抱きしめるビーニャの頭に深く目を伏せて込み上げる感慨に浸っていたそこで、ごほん、と低い咳払いが響いた。
「……取り込み中、失礼するぞ。今後の任務について話がある」
開け放たれた扉の前にはルヴァイドの姿があった。黒鎧の甲冑は着込んでおらず、いくらか身軽な格好だ。呆れたように片眉を持ち上げてこちらを見つめる後ろにはイオスの姿もあって、苛立たしさと困惑の混じった何とも言えない表情を浮かべている。胸当てや籠手のような軽鎧を付けていないのは同じようで、レイムの言っていた別の者が誰か、やっと思い当たった私は口を開こうとした。そこに重なったのは、噛みつくようなビーニャの声だ。
「駄目に決まってるじゃない! 後にしなさいよっ!」
「これはレイムの指示によるものでな。お前の指示は受け付けん。……手短に済まさせてもらうぞ」
あんなに大人しかったのが嘘のように目を鋭く尖らせて烈火のごとく怒声を張り上げたビーニャだけど、ルヴァイドの方にも今回はレイムの指示という大盾がある。ぎりぎりと歯噛みしながら不満げに睨み付けるビーニャを一瞥して、ルヴァイドは厳かに口を開いた。
「今後、黒の旅団は街道に兵を散らしファナンの動向を探るのを第一に、聖女の確保を第二に動く。ビーニャ、及びお前は暫くの間、観光客に扮してゼラムとファナンを行き来しながら潜伏している兵たちから内情を受け取り、本国へと伝えるようにとのことだ。任務に変更が生じた際は都度、連絡がある。……それまで勝手な行動は厳に慎むように」
ローウェン砦でのことを思い出してか、最後はきつい視線をビーニャにくれたルヴァイドへと私は大きく首を縦に振って頷いた。
「承知しました。先ほどレイム様からもお目付け役の任を承りましたので、精一杯尽力いたします」
「うむ。だが……お前は以前、聖女一行の中にいなかったか? 召喚事故とは聞いているが……」
「ええ。そのため、成り行きとは言え黒の旅団と敵対行動をとる形になってしまいましたが、どうかお許しを頂ければ」
思案げに細められた眼差しを向けられて内心どきりとするも、レイムの許しがあることを言えばルヴァイドも強く出れないはずだ。最初のうちはなるべくバレないように立ち回っていたけれど、フロト湿原での一戦でルヴァイドも完全に私の存在を把握してしまったことには気が付いていた。本来味方である旅団兵に武器を向けたことは事実である以上、多少のお咎めは止む無し。それでもレイム直々に与えられたビーニャの側仕えという立場までは口出し出来ないはずだろうしと、覚悟を決めて真っすぐ見つめ返した私にルヴァイドは僅かに眉を曇らせたらしい。それを疑問に思うも一瞬、すぐに表情を引き締め直したルヴァイドはイオスを振り返って普段どおりの毅然とした声で指示を下す。
「後の話はイオスからさせてもらう。頼んだぞ」
「はっ!」
歯切れよく返事をしたイオスにひとつ頷き、踵を返して去っていくルヴァイドの背中は悠然としたものだった。マントに覆われていないからその体幹のぶれなさや重心の安定した足取りがよく分かり、何となしに感嘆を込めた眼差しを送ってしまう。その実力も精神も騎士として最高峰、そうそう並び立てる人間なんていないだろう。そんな呑気なことを考えていたら回された腕が緩んだことに気が付くのが遅れてしまったようで、俯きがちに視線を落としたビーニャを覗き込むように私は首を傾げてみせた。
「けど……マジでムカつくぅ……マグナ、だっけ? ナチを召喚したヤツって」
「はい、そうですが……?」
少しは落ち着いてきたのか、ビーニャは小さな握り拳を口元に当ててじっとしている。何か考え込んでいるような仕草を前に疑問符を浮かべた私は、色味の薄い唇がぼそぼそと小さく動いたそこでやっと思い違いに気が付いた。口元に宛がわれていたのは握り拳ではなくて親指の先、苛立ちを誤魔化すように何度も噛まれた爪は不格好に削れてしまっている。
「ナチが倒れちゃったのだって、そもそもアイツのせいじゃない……本当、ウザすぎ……!」
私のいない間にすっかり爪を噛むのが癖になってしまったのか、よく見てみれば人差し指や中指の爪の形も歪に波打ってどれもが深爪気味だ。無意識での仕草なのか、苛々と爪を噛むビーニャの眼差しはどこか遠くを見ているようで、不機嫌を隠しもしない低い声色を吐き捨てる間にもその爪先が削れていく。大事なビーニャの可愛い爪が痛々しく歪んでいく姿に、私は堪らず両手でビーニャの手を包み込むように押さえた。首を傾げて視線を合わせた姿勢のまま、宥めるような笑みを投げかける。
「ビーニャ様、せっかくの綺麗な爪に跡がついてしまいますよ。それに、気にしないでください。現にこうして私は無事、貴方の元にいるんですから。私はそれだけで十分満足していますし」
「もうっ……またそんなこと言って、ナチの馬鹿ぁ!?」
「茶番は終わったか? こちらも暇ではないんだが」
少しはビーニャの気を逸らすことに成功したのか、丸々と目を見開いていったビーニャが頬をさっと紅潮させて怒ったように眉を吊り上げる。だけど同時に、イオスの我慢も限界を迎えてしまったらしい。ここまで口を挟まずに待ってくれただけ寛大な対応だと思うけど、感極まったように声を上げたところに横槍を入れられたビーニャの機嫌が瞬く間に急降下するのが分かった。
「アンタはすっこんでなさい! 今はアタシがナチと話してるって、見て分かんないワケ!?」
「僕のこれはお前が慕うあの男に押し付けられた命令だ! 文句があるならあちらに言ってくれないか?」
ルヴァイドが現れた時点で大分苛立っていたこともあり、目つきだけで食い殺すような勢いでイオスに返しているビーニャだけど、イオスの方も短い導火線に完全に火が付いてしまったようだ。フロト湿原での時も思ったけれど、冷静沈着といった印象を受ける見た目の割にイオスは案外気の短いところがある。まあまあ、と話の当事者なのにこの場で一番落ち着いている私が間に入って仲裁することになってしまったけれど、何だかこの対応すらもが懐かしい。デグレアでの日々を思い出して緩みを帯びてしまう顔に少しの苦笑を混ぜて、私は小さな手を包み込んだまま、改めてビーニャへと目を合わせた。
「すぐに用を済ませてお傍に参りますから。私がビーニャ様との約束を守らないことなんてなかったでしょう、ね?」
赤みの強い紫紺の瞳を見つめるうちに自然と愛しさが込み上げてきてしまえば、う、と声を詰まらせたビーニャが視線を迷わせる。
「う、う、うぅ〜っ……っ今回だけよ、用が済んだらすぐにアタシのところに来ること! そうじゃなきゃ、ナチだってお仕置きだからねっ!?」
不承不承ながらに聞き入れてくれたビーニャへと満面の笑みで頷き返すと、絶対に絶対なんだからねっ、と念押しの言葉を重ねて部屋を飛び出していく。今の遣り取りで機嫌を損ねてしまったかもと少し心配だったけれど、あの様子なら大した癇癪も起こさなそうだ。すっかり待ちぼうけを食らわせてしまったイオスを振り返って、それでは、とひとつ咳払いをした私は今更ながらに余所行きの笑みを浮かべてみせた。
「ご迷惑をおかけしましたが、無事帰還と相なりましたので」
「今後はどうかよろしく、とでも言うつもりか? 厚顔無恥にもほどがあるな」
挨拶を言い切るより早くぴしゃりと打つような言葉が飛んできて苦笑がこぼれれば、あからさまに鼻を鳴らして一瞥される。手厳しいことこの上ない対応だけど、つい懐かしさと安心感の入り混じった安らぎを感じてしまったことを察してだろう。鋭く吊り上げていた目尻を呆れたように下ろして、深い溜め息を挟んでからイオスはゆるゆると頭を振った。
「僕は今、本気で呆れている。何が上手くやっておくだ、離脱する機を見計らっての結果がまさかアレだったと言う気はないだろうな?」
「それを言われると面目次第もございません……あ、そういえば着替えさせてくれたのってイオスくんですか?」
助かりました、と裏のない感謝の言葉を告げれば、イオスは渋面を浮かべながらもそれを認めた。ローブを貸してくれたり武器を支給してくれたり、あるいは身の回りの細々したことの申請先だったりと、デグレアにいた頃からイオスには何かとお世話になっている。知らない相手じゃないこともあって自然気安い態度になってしまうけど、それを咎めるでもなくイオスは私の疑問にきびきびと答えを返した。
「ローブは汚れがひどかったからあの場で処分した。そのシャツは僕の替えだ。お前が寝ている間に差し当たっての服は用意したから、後で着替えておくといい」
「いやぁ、何から何まですみません。イオスくんにはつくづく頭が上がりませんね」
「本気でそう思うなら少しは行動を改め……いや、いい。その代わり、しっかりビーニャの手綱を引くことだ。あの男もそれを期待してのことだろうしな。それで、今の状況はどれくらい理解してる?」
言いかけて止めただけ、イオスは私の行動原理と言うものを理解している。手綱を引くまでのことが出来るかどうかはさておきとして、レイムに教えられたばかりの情報を補う形でイオスから説明を受けた私は、ひとまずの理解が出来たことを伝えるべく静かな表情で頷いた。確実な任務遂行のためには入念な準備と情報共有が大前提だと宣うだけあって、イオスは期待していた以上に細かい状況を教えてくれた。私は今後、貴族の令嬢のお忍び旅行に随行する侍女という設定でビーニャと行動を共にするらしい。ルヴァイドの話にあったとおり、主に行き来するのはゼラムとファナン。数日掛けて準備を整えたら、まずはここから近いファナンに向かって出発することになるけれど、ビーニャはともかく私の方はその前に色々と準備することがありそうだ。
「特にお前は聖女一行に顔が割れているし、髪型や服装は無論、貴族の側仕えらしく所作も変えてもらわなければ」
「それはまた散々に詰め込まれたお勉強の成果が出ますね。あの努力の日々が日の目を見るなんて、嬉しい限りです」
うきうきと声を弾ませて言えば、イオスは呆れ交じりの苦笑の中にほんの少し柔らかい色を混ぜた。ビーニャの側仕えをするにあたって徹底的に礼儀作法や立ち居振る舞いを叩き込まれたけれど、その指導役の大半を務めていたのはイオスだ。初めはキュラーが主だって教えていたのだけど、召喚術の指導や戦闘訓練もあるからと途中でイオスに面倒事を押し付けてきたらしい。それでも実際、お辞儀の角度や手の重ね方、下品でない微笑み方など、どうしてそんなことまで知っているのかと疑問に思うくらいイオスの知識は深く洗練されていて、思いがけず最良の指導役を得ることになった私としては文句のひとつもなかった。それを実践で活かせると思えば心も躍るというものだけど、イオスの方はまだ気掛かりが残っていたのか。うなじ近くで緩くまとめた私の髪へと目をやると、それはそうと、と大きく肩を落としながら言った。
「お前も少しは自分自身に金を掛けろ。髪留めくらい用立ててやるから、そうやって有る物で済ませようとするな。それくらいの経費は出す」
「そこは節制が身に付いていると褒めてくださるところでは?」
「お前のそれは度が過ぎてるんだ。浪費をしないのは美点だが、要望があるなら口に出せ」
伸びた髪を同じく髪の一房でまとめていたのがそんなに哀れだったのか、言い聞かせるように繰り返しながらイオスは頭が痛いとばかりに額に手を当てる。確かに貴族の令嬢の侍女がしていい格好ではないだろうけど、任務が始まったらビーニャの側仕えとしてちゃんと相応しい身なりに整えるつもりはあったのに。ただ、それが自分自身を飾るというより主であるビーニャに恥ずかしい思いをさせないための行動と言う自覚はあったから、下手な言い訳をする代わりに私は曖昧な誤魔化し笑いを浮かべて肩を竦めてみせた。それじゃお言葉に甘えて、と髪留めの件はちゃっかり甘えることにしたところで、ふとその存在を思い出す。
「それでは、チェーンか何かを頂けませんか? こう、首に掛けられるような」
「何かペンダントにでもするのか? それならすぐ用意出来ると思うが‥‥…」
「ええ。あちらでの貰い物ですけれど、回復系の術が使えるサプレスのサモナイト石がありまして」
せっかくだから活用させて貰おうかと、と軽く笑って返した私に、イオスは少し目を見張って何かを躊躇うような素振りを見せた。その眼差しが痛ましいものを見るかのように私を、そして私の足元を覆い隠すスカートへと下りていく。ベッドに腰掛ける私の足は床に着く手前で揺れていて、スカートの裾も穏やかに波打っている。汚れ切ったシャツやローブと比べてまだ使い物になりそうだけど、それは表から見た時の話だ。ふくらはぎから膝裏辺りに大きく入った裂け目は誤魔化しようもない。新しい服に着替えると同時、このスカートともお別れになるだろう。
「お前は、それでいいんだな?」
私の足には傷ひとつ残っていない。それなのに、まるで生々しい傷がそこにあるように眉根を寄せて見つめるイオスに苦笑をこぼして私は頷き返す。
「物に罪はありませんし。それにもう、彼らは敵ですから」
何も気にすることなんてありませんよ、と穏やかに言い切って微笑む。そんな私に言葉を返すことなく、イオスは固く口を引き結んだ。
イチャイチャしたり仲良くしたりパート。