ノルンは笑わない   作:くものい

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12ー3:絶望の先へと/M

 翌朝、ぎこちなくも無理をすれば動けるようになったシャムロックさんを隊列の中心に組み込む形で、俺たちはルウの家を発った。

「皆さん……重ね重ね、申し訳ありません」

「礼にはまだ早いぜ、シャムロック。お前さんが途中で倒れちまったら元も子もねえんだよ。今はきっちり領主様に報告することだけ考えてろや」

 心苦しそうに言葉を絞り出すシャムロックさんの頭を乱雑にかき混ぜながら、切って捨てるようにフォルテが言う。ぶっきらぼうにも聞こえる言葉だけど、見るからに思い詰めた様子のシャムロックさんを気遣ってわざとそう振る舞っているなんて分からないはずがなかった。白い鎧を着込んだシャムロックさんは姿勢よく背筋を伸ばしているけれど、その顔色に血の気はないし足元だって時折ふらついている。未だ満身創痍に近いシャムロックさんに代わって先導してくれるフォルテにしたって、トライドラへの道を睨むように見据える横顔は固く強張っていて、普段のお調子者な態度が嘘みたいに重く剣呑な空気を背負っている。大事な相棒であるフォルテとその友人であるシャムロックさん、二人の背中を見つめるケイナの表情が心配そうに曇りを帯びるのも当然だった。俺たちでさえ言葉にならないほどの衝撃を受けたあの惨劇に二人の胸中がどれだけ荒れ狂っているのか、濁流のような感情をどんな思いで抑え込んで冷静に振る舞っているのかを思えば、掛ける言葉なんて見つかりそうにもなかった。

「……うん、この調子なら昼前には辿り着けそうだな。ここらで最後の休憩としとくか!」

 街道に出ては森に入り、木立を進んでは街道を確認し、少しずつ慎重に足を進めていくこと数時間。わざとらしく明るい笑みを浮かべて振り返ったフォルテに笑みを返そうとして、そこでようやく降り積もっていた疲労に気づいたのは俺だけじゃなかったらしい。安堵と脱力感の入り混じった溜め息や気が抜けたように相槌を打つ声が聞こえてきて、いくらネスやフォルテと相談したといってもかなりの強行軍を強いてしまった事実に今更の苦笑が込み上げた。けれど、今の俺たちにとってはむしろ、それでちょうど良かったに違いないとも思う。

 デグレアが本格的な侵略行為を開始したのはほぼ確定だ、とネスが断言したそれに否定の声は出なかった。砦を落としたのがトライドラとの全面戦争のためならば、聖王国内だと言っても今じゃどこにデグレアの目が光っているか分からない。戦争の準備にはそれなりの時間が掛かるとしても、黒の旅団のように既に先遣隊が入り込んでいない保証はないし、何よりトライドラへと続く街道なんて一番奴らの注意が向いているだろう場所だ。注意深く周囲の様子を窺いながらの行程はどうしたって時間が掛かるけど一刻一秒でも早くトライドラに辿り着きたい事情もあれば、必然的に削る先は休憩の時間になった。そんな決定に対して不満のひとつも出なかったのはそれだけ事態が切迫していたからでもあるし、皆が皆、余計なことを考えずに足を動かしたかったからだろう。休憩のたびに場に満ちる重苦しい沈黙とやり場のない鬱屈した雰囲気、それを誤魔化そうとして明るく振る舞おうとするほどに上滑りしていく互いの会話。それならまだ、談笑を交わす余裕もなく黙々と足を進めるばかりの道中の方が気が楽だと、皆も思っただろうことは想像に難くなかった。

 だから、と両足にじんわり広がる痺れめいた感覚を他人事のように眺めながら、誰へともなく言い訳じみたことを考えていた俺に声を掛けてきたのはミニスだった。

「ねえ、マグナ」

「うん?」

「タキツは……もう、戻ってこないのかしら?」

 手近な倒木に腰を下ろした俺が顔を上げるのを待っていたように、ミニスは口を開いた。疑問というよりは独り言のような、雨の滴みたいな呟きだった。ぽつりと落ちた声は静かで、悲しみだとか悔しさだとか、そういった感情とは切り離されたように淡々としたものだったのに、どうして俺は責められたように感じたんだろう。

「そんなこと、っ……」

 咄嗟に否定を返そうとして寸でのところで言葉を飲んだ。そんなことない、きっと戻ってくるなんて、言えるはずがなかった。タキツがどれだけマスターに会いたがっていたか、恋しがっていたか、大事に思っていたかを知っている。それなのに俺はあの時、何をしてしまったのか。交わした約束を裏切ってまで、一体、何を仕出かそうとしてしまったのか。

 一瞬で連想してしまった光景に、喉元まで出掛かった言葉がべったりと貼りついたように動きを止める。苦い後味ばかりを主張するそれを振り切ることも飲み下すことも出来ずに、何とも言えない沈黙が落ちた。落ち込むミニスを励まして元気づけたい気持ちはあるのに、何を言ったらいいか分からない。いや、そもそも、俺が口にしていい言葉があるのかどうかさえ分からない。だってファナンでの夜、街灯の淡い橙色に照らされながら歩いた夜道にはミニスもいたのだ。その場凌ぎの耳当たりのいい嘘で誤魔化されるようなミニスじゃないし、それに何より、タキツと一番仲が良かったのは俺なんかよりも、むしろ。

 今更のように思い至ってしまえば余計、何も言えなくなってしまう。

「あ……」

「ごめんなさい、変なこと聞いちゃって。やっぱりダメね、私。まだ、ちゃんと受け止めきれてないみたい」

 口ごもる俺を見越していたかのように緩やかに頭を振って、ミニスは言葉の続きを押し留めた。胸元に抱えた杖をぎゅっと両手で握り締め、どこか遠くを見るような眼差しを虚空へと投げ掛ける。

「敵でもね、タキツのマスターが優しいひとなら納得出来たかもしれないわ。でもあのビーニャって子、召喚獣を玩具としか見ていなかった……タキツのことはお気に入りみたいだったけど、でも、あんなのって」

 あの時、誓約の痛みを止めたのは俺の意志なんかじゃない。タキツの状況に気づいたビーニャが半狂乱になって駆け寄りながら辺り構わず召喚術を放ったからだ。ようやく気を失うだけの自由を手に入れたタキツを抱え込んで、殺してやると悲鳴のような絶叫を上げながら敵味方お構いなしに術を降り注がせたからこそ、その隙をついてあの場から逃げ出せたのも事実だった。

 たった一人で戦場を蹂躙するほどの圧倒的な魔力、自分で召喚した魔獣を足蹴にして笑い飛ばす無邪気な悪意。けれど同時に、ビーニャがなりふり構わず必死になってまでタキツを守ろうとしたのも確かだった。そうだ、あの場においては間違いなく、俺よりビーニャの方がよほどタキツのことを思い遣って大事にしている召喚主だった。それならきっとタキツが酷い目に遭わされることはないだろう。そう自分を納得させるように言い聞かせながらも上手く飲み下せずにいるのはただの負け惜しみか、妬み交じりの願望なのか、その判断すら今の俺にはつかない。

「本当にタキツは、それで納得してるのかな……」

 箒を逆さにしたような杖が僅かに震え、ミニスの葛藤を映し出すように束ねられた毛先が揺れた。その遣り取りが聞こえたんだろう、皆の意識もついにそちらに向いてしまったらしい。休憩を終えて歩き始めてみれば小声での遣り取りが聞こえ始めて、耳を澄ますまでもなくタキツの話を拾ってしまう。

「タキツ殿が定めた主君があの少女であれば、拙者としては何も言えんが……」

「やるせないね……あの子が大事に思う相手ならって思っていたけど、でも、それにしたってさ……アタシには、よく分からないよ……」

 ローウェン砦の惨劇から一昼夜も経っていない今、誰より深く傷ついているのはシャムロックさんだ。けれど、それまで仲間だったタキツを失った俺たちの胸にも深い爪痕が残されていて、皆の顔には色濃い疲労が滲んでいる。その上ではっきりしたのは、俺たちの誰一人としてタキツの優しくない振りに騙されてなんかいなかったってことだ。だって、ぽつぽつと雨垂れのように途切れ途切れに聞こえてくる声は、どれも優しい苦悩に満ちていた。

 タキツにしてみれば何より大事なマスターの元に戻っただけ、本来の居場所に帰っただけのことでも、皆がそう思うかは別の話だ。どうして裏切ったのかと悪しざまに罵ったり騙していたなんてと悲痛に泣き崩れたり、これまでの旅路は嘘だったのかと吐き捨てたりしたって何もおかしくなかったのに、そんな反応はひとつもなかった。胸を引き裂いたばかりの生々しい傷口は何をしていても否応なしに飛び込んできて、どうしたって思考の先はあの場面へと引きずられてしまう。あの場で受けた衝撃、動揺と困惑、言葉にならない憤りと悲しみが混ざり合った気持ちを思い返すたび、頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱されてしまう。それなのに一方的に非難するような声がまるで聞こえてこないことが、逆に、タキツがどんな人間だったかをありありと物語っていた。どんな嘘でもあっさり真に受けてしまうアメルでさえ、タキツが優しいことをちっとも疑っていなかったくらいだ。 

「私、まだ信じられません。ううん、信じたくない……」

「信じるも信じねえも、戦うも戦わねえも、結局は向こうの出方次第だろ。考えたって何がどうなるワケじゃねえ」

「でもっ……あのタキツさんが私たちを傷つけるなんて、そんなの有り得ない!? だって、だって私、まだ何も返せてないのに。優しくしてもらってばかりで、まだ、何にも……っ」

 溢れそうな思いを堪えるようにアメルは唇をきつく引き結んで項垂れた。俺もミニスも、ロッカやリューグでさえも、黙ってそれを聞いていた。

 何度言ってもタキツは否定したけれど、皆がその優しさを知っていた。タキツはちゃんと見てくれるし話を聞いてくれるから、もっと見て欲しくなったし、もっと話を聞いて欲しくなった。他愛のない話にも柔らかく目を細めて静かに相槌を打ってくれるのが嬉しくて、眠たげな様子にわざと気づかない振りをしたことだって何度もある。体調を崩して何度か寝込んだアメルも、スルゼン砦の後からちょくちょく一緒のベッドに潜り込んでいたミニスも、きっと覚えがあるだろう。一見分かりにくい態度でもその言動で確かに優しく気遣ってくれたから、いつだってタキツは一番の話し相手で相談相手だった。困っている時や弱っている時には当たり前のように寄り添ってくれたから、自分もタキツにとってそんな相手になりたくなった。そんなふうに甘えられるだけの、頼られるだけの存在でありたくなった。今すぐは無理でもいつかはって、そう思っていたのだ。

「すまない。僕たちもまだ、上手く感情の整理が出来ていないんだ。彼女は本当に、大事な仲間の一人だったから……」

「いいえ、どうかお気になさらず。ビーニャのことは許せませんが、貴方方の仲間だった彼女にまでそれを混同するつもりはありませんよ。ですが皆さん……さぞかしお辛いでしょうね」

 ネスとシャムロックさんの会話を頭の後ろに聞きながら、もしもの話を夢想する。もしここにタキツがいたなら、と想像しながら足を動かすだけで、自然と声が聞こえてくるようだった。また無茶をしてと呆れ交じりにこぼしただろうか、こうなったら潔く諦めろとでも諭しに掛かっただろうか。いいや、そんなことは言わなかったはずだ。下草や枯れ枝を踏みしめる音に混じっていくつもの想像上の声が響いては消えていったけど、鼓膜の震えを錯覚するほどはっきり聞こえたのはひとつだけだった。どんなに困難でも一見不可能にしか見えない道だとしても、それが俺の意志で選んだ道ならきっと、タキツは認めてくれた。旅の主役は俺なんだからと告げた時のように、かすかに眉尻を下げたあの困り顔で小さく笑いながら、当たり前のように頷いてくれたはずだ。

 もちろん付き合うよ、と。

「そうだよな……納得なんか、出来ないよな」

 知らないうちにこぼれ落ちていた声は擦り切れそうに低い。もし俺が一人きりだったら、これからどうするのか、どうすべきなのか、何ひとつ決められないまま立ち尽くしていたかもしれないけれど、だけどここには仲間がいる。大事な仲間だったタキツの言葉がある。それならまずは、目の前のことをやらなくちゃ。

 気持ちを切り替えるために大きく首を振るようにして仰いだ先には、高い城壁に囲まれた都市の姿が見えた。

「そら、あれがトライドラだ」

 フォルテの案内で辿り着いたトライドラは、聖王国の盾に相応しい威容を誇る街だった。スルゼン、ローウェン、ギエンの三つの砦を拠点とする三砦都市の要だけあって、高く築き上げられた城壁に囲まれた街は広大で厳かな佇まいながら、あちこちに根を張った大木が緑豊かな景観を生み出している。城砦都市の構造上、ゼラムやファナンに比べれば幾分小ぢんまりとしているけれど、まだ森から出てきて間もないルウからすれば目が回りそうな大きさだったらしい。中央にそびえ立つ無骨な城が領主の居住区らしく、正門をくぐってすぐ領主との謁見を取り付けたシャムロックさんの案内に従って感嘆交じりに付いていった俺たちだけど、気の抜けた遣り取りを交わせていたのは短い間だった。

「……なぁ、シャムロック。お前の報告を聞いたにしてはあんまり城に動きがねーな? 謁見を取り次いでくれた奴だってどこに行ったんだ?」

 何でもないような顔をして尋ねるフォルテだけど、その仕草の端々には隠し切れない警戒が滲んでいる。そして、それは俺も同じだった。街中を歩いていた時からの不穏な違和感、虫の羽音に似た奇妙な耳鳴り、肌がちりつくような不快な視線。それは城内に入ってから一層顕著になって、鬼道の巫女として悪意に敏いらしいカイナもしきりに視線を配ってる。落ち着きのない俺たちを咎めるでもなく、ネスも険しく眉根を寄せて人気のない城内を探るように窺っていた。

「リゴール様は皆さんからお話を聞いた上で全軍に指示を与えるつもりなのです。城には一般の者も多く出入りしています。下手な噂はそれこそ混乱を招きますし……」

「……いや、マグナ、このまま警戒は怠らない方がいい。開戦に備えているのだとしてもこれはあまりに」

 静かすぎる、とシャムロックさんを慮ってか、さりげなく身を寄せて押し殺した声で囁いたネスの表情は硬かった。これだけ歩いても衛兵どころか侍女の姿さえ見ない城内、騎馬の嘶きや訓練の剣戟が響くどころか、生活を営む住民同士の遣り取りや靴音さえも聞こえないほど静まり返っていた広大な街。スルゼン砦、ローウェン砦で起きたことを思えばただの気のせいで流せるはずがない。伝令役を務め切った安堵のせいか、シャムロックさんは不審に思っていないようだけど、フォルテも俺たちと同じ懸念を深めていたらしい。真剣な眼差しを前方へと投げかけたまま、辺りを憚るように声を潜めてネスの言葉に頷いた。

「ああ、どうにもキナ臭ぇ……最悪の事態を考えといた方がいいかもな」

「だけど、まさか……」

 それでも一縷の希望に縋るように謁見の間に臨んだ俺たちを迎えたのは、残酷な現実だった。領主の接近を知らせる近衛の楽隊の演奏に胸を撫で下ろしたのも束の間、威厳に満ちたトライドラ領主、リゴール様が人間の形を保っていたのは僅かでしかなかった。アメルが奇跡の力を持つ聖女だと認めると同時、その顔が崩れるような笑みに綻び、言葉どおり耳まで引き裂けるような狂笑と共に悪鬼へと変じてしまったのだ。

「ふふっ……ふふふっ、くくくっ、ひゃはははは!! それが本当ならばまたしても重ねて礼を言わなくてはなぁ!?」

「私は労せずしてあの方の望む鍵を手に入れたことになるのですからね?」

 異形と化しつつあるリゴール様の後ろ、ぬるりと玉座の陰から滑り出るように姿を見せた男の口元には満足げな笑みが浮かんでいた。咄嗟に身構えながらの短い問答で分かったことは、そいつがガレアノやビーニャと同じ、デグレアの手先である召喚師の一人であること。俺たちの目の前でリゴール様を悪鬼に変えた張本人であること。そしてもうひとつ。

「クククッ……残念ながら私は些か勤勉な性質でして、貴公らがおいでになる前に命じられた仕事を終えていましてね……いざや、鬼へと変じませい!」

 心底見下すような嘲笑が響き渡るのを待っていたかのように、黙々と楽器を奏でていた楽隊や石のように壁際に佇んでいた側近たちが腐り落ちるように鬼の姿へと変わる。俺たちはまた、間に合わなかったのだ。

 

 歴史あるトライドラの謁見の間が血煙上がる戦場になるなんてこれが最初で最後だろう。人間性も理性も失って血肉に飢えた化け物と化してしまったリゴール様やトライドラ住民だった彼らを相手に、俺たちは初め、防戦一方に回っていた。

 いくら天井も高く広々とした造りの謁見の間だと言っても、狂った獣のように見境なしに暴れ回る彼らが繰り出す殴打や斬撃に耐えられるはずがなく、重厚な玉座や格式ある大理石の床が無残にもひび割れては砕け散っていく。特に歴戦の勇士だったリゴール様に悪鬼が憑いたことでの膂力は凄まじく、人間だった時の数倍に膨らんだ剛腕から繰り出される一撃は掠っただけで吹き飛ばされそうになるほどだ。普段から前衛で武器を振るっているリューグやフォルテにしてもまともに受けることは避けてどうにか衝撃を流すことで耐えている。真っ向から切り結ぶなんて正気の沙汰じゃない、そんな相手からの猛攻を受けつつも何とか持ち堪えられているのはシャムロックさんのおかげだった。

「ぐっ……! リゴール様、どうか、どうか正気にお戻り下さいっ!?」

 苛烈な攻撃を一身に引き受けるシャムロックさんの甲冑にはいくつもの真新しい傷跡が走るけど、それでもアメルが癒しの力を使うような深手はまだ一度も負っていない。ローウェン砦で守備隊長を任されていただけあって相当の実力者だとは感じていたけれど、その卓越した技量は暴風のような剣技を繰り出すリゴール様相手にさえ引けを取っていない。矢面に立って俺たちを守りながらリゴール様を正気に戻そうと必死に呼び掛けている、そんな姿を目の当たりにした上で撤退の二文字が浮かぶほど、俺たちは薄情でなければ諦めのいい人間でもなかった。

「しっかりして下さい、シャムロックさん! これは嘘なんかじゃないんです!?」

「お前が腑抜けててどうすんだよ……! そんなことで聖王国を守ることなんか出来んのか、えぇっ!?」

 キュラーの嘲笑が響き渡り、不気味な唸り声が場を満たした直後、目の前で起きたことを受け止め切れずにシャムロックさんは一度崩れ落ちた。嘘だ、嘘だと繰り返すばかりの声は絶望と悲嘆に暮れていて、とても立ち直れるとは思えないほどの憔悴ぶりを晒していたけれど、俺の言葉というよりフォルテの叱咤が響いたんだろう。暗闇に呑まれかけていたシャムロックさんの瞳にかすかな光がよぎったのが見えて、俺はフォルテに彼を任せると素早くカイナを探して声を張った。

「カイナ! 君の力で何とか出来ないか!?」

「悪鬼を憑かせたのならば祓いさえすれば……けれども、今のあの方には隙がありません! まずは動きを止めなくては……っ!」

 俺たちが対応に迷ったのは、まだ、リゴール様たちが本当の化け物に落ち切っていなかったからだ。狂気の咆哮と粘ついた涎を垂れ流す口からも時々、シャムロックさんを認識しているような言葉がこぼれ落ちているのがその証拠だった。苦痛や飢えを吠えるように訴える口調も様々で、元々の人間性が欠片ばかりでも残っていることが見て取れる。そんな彼らに強烈な反撃を入れていいのか、躊躇いに武器を振り上げる手も緩みそうになるけれど、そんな気構えでいつまでも凌げるような相手じゃない。ならどうすれば、と必死に頭を巡らせた時に浮かんだのが、憑依状態の解除だった。

 鬼神使いのキュラーは召喚した邪鬼をトライドラの住民に憑かせることで悪鬼に変じさせたらしいけど、それなら憑依状態を解きさえすれば、あるいは術者を倒してしまえば、と思い付いたのは間違いじゃなかったらしい。幸か不幸か、キュラーの掛けた術ではリゴール様たちを一瞬で悪鬼に落とすことまでは出来なかった。それならまだ可能性はある、まだ助けられるかもしれない。シルターンの術に精通しているカイナならもしかして、と期待を抱いたそこまで上手くはいかなかったけど、僅かにでも光が見えた。

「ですが鬼に憑かれたものは時と共にその魂を食われていく……あまりに侵食が進んでしまえば手遅れになりかねません!?」

「だけど、まだ可能性はあるんだろ? なら……やるべきことは決まってる!」

「ああ、あのキュラーって野郎をぶちのめす! その邪魔をするんなら領主様だろうが何だろうが倒すだけだ! ……精鋭揃いの騎士たちが揃って心の闇なんてもんに呑まれちまうはずがねえ、こうしてる間にも必死に抗ってるはずなんだからよ……!」

 助けの手が伸ばされるどころか悪辣な罠に嵌ってしまった状況だけど、俺たちのやることは変わらない。厳しい現状を告げたカイナに迷わず返せば、自身を奮い立たせるようにフォルテが意気込みを口にする。それぞれの武器を握る手にも力が入ったのか、背中を押すような金属音がいくつも鳴って、自然と顔は前を向いていた。一刻も早くキュラーを追い詰めて、今この瞬間も苦しんでいるリゴール様を、トライドラの住民だった彼らを助けてみせる。そんな決意を新たに一握りの希望を胸に挑んだ戦場は、けれど想像する以上に厳しいものだった。

「ウインゲイル! 最大出力で、ダブリーザー!」

「オニマル、頼んだ! 痺雷撃!」

 理性を失って衝動に突き動かされるまま闇雲に暴れる化け物と化したせいで、最早彼らに統率の取れた動きなんてものはない。囮役を買って出てくれたモーリンやカザミネさんが飛び退ると同時、一か所に固まっていたその場へと俺とネスの呼んだ召喚術が降り注いだ。ローウェン砦を脱出してからここトライドラに向かうまで、なるべく人目を避けてきたとはいえ、何度か野盗やはぐれとの戦闘はあった。その時に手に入れた武器や落とし物のいくつかが召喚媒介になると気づいて休憩を迎える都度、誓約の儀式を試していたことがまさに功を奏した形だ。余計なことを考えたくなくて何か集中できることが欲しかっただけだけど、おかげでルウだけじゃなく俺たちの手元にもシャインセイバーを呼べる透明なサモナイト石が行き渡っているのは確かな強みだった。それに、いくら人間を越えた生命力や耐久力があるとはいえ、何度も手加減無しの召喚術を受けて立ち上がれるほど鬼も常識外れの存在じゃなかったらしい。見るからに動きの弱った悪鬼のうち、上手いこと俺の呼んだオニマルの麻痺も入ったらしい一体を見つけて鋭く目を光らせたモーリンが問答無用で距離を詰める。

「隙ありっ! でりゃあっ!!」

 強烈な一撃を鳩尾に叩き込まれて吹き飛ぶように床を転がった姿が動きを止めるのを見届け、俺は混戦状態に陥った謁見の間に無言で視線を走らせた。悪鬼と化したリゴール様やトライドラ住民だった彼らの動きには互いを気に掛けるようなものはなく、統率もなければ連携もないのが獣の群れともまた違うところだった。あくまでそれぞれの獲物を狙うだけ、互いの劣勢に気づいても援護する素振りもない、ただし弱った獲物を見つけた時だけは集中して追い詰めに掛かる。そういった習性に気づいてしまえば大した時間も掛からずキュラーまで辿り着けるかと思ったけれど、今だ、と駆け出そうとした途端に他の注意がこちらを向いてばかりで中々思うように進めない。ただ相手を退けることが目的ならいざ知らず、時間制限のある戦いだということが焦りに拍車をかけていく。焦れったさに歯噛みしそうになるたび、痛感してしまうのはタキツの不在だった。

 リューグやモーリンのように揺るぎなく前線を張ったり、フォルテやネスのように指揮を取ったり皆を牽引する代わりに、タキツはとにかくフォローや援護のための立ち回りが多かった。俺やミニスが召喚術を練り上げる間に邪魔されないよう庇ったり、ケイナが矢を番えたりレナードさんが次弾を装填する時間を稼ぐために敵の注意を引きつけたり、あるいは弓兵の固まった陣地に飛び込んで攪乱に動いたり、形を決めない遊撃手のような動きにどれだけ助けられていたかを今更のように実感する。数人ずつの集団に分かれて戦っているとはいえ、頭数が足りていないわけじゃない。早いうちから用心していた分、戦力だってちゃんと考えて割り振っている。それでも当たり前に助けてくれた、傍で気に掛けてくれた人間が一人消えたことでの影響はあまりに大きくて、その不在を突き付けられるたびにどろりと灰色の感情が思考に流れ込みそうになる。焦るな、と内心言い聞かせるように繰り返していた俺だったけど、仮初の冷静を保っていられたのもキュラーの呟きを拾うまでだった。

「おや、やはりあの娘はいないようで……これはむしろ好都合と言うべきか。後から文句を付けられては堪ったものではありませんからな」

「っお前、何か知っているのか!?」

「マグナ! 前に出過ぎだ!?」

 独り言ちるような声が聞こえてきたのは偶然だった。窓から吹き込む風の流れが変わったのか、壇上へと続く石段に陣取っていた悪鬼が動いたからか、悠々と佇んでいたキュラーと俺とを繋ぐように一筋の道が開ける。まるでタキツのことを知っているような物言いに目の色が変わった自覚はあった。引き留める声を背中に聞きながら夢中で床を蹴っていた俺を見て、キュラーが驚いたように目を見張る。左手に握り締めたサモナイト石に魔力を込めながら、新たに誓約を結んだばかりのシルターンの召喚獣の名前を叫んだ。

「来い、遠異・近異! 氷炎挟撃……っ!?」

「オニマル、痺雷撃」

 真っ赤に燃えるような輝きを放ったサモナイト石から魔力の奔流が立ち上がり、謁見の間の天井近くに異界の門が開く。そこから顔を覗かせた二対の瞳が敵を見定め、氷と炎の挟撃を繰り出したのと、キュラーが懐から取り出したサモナイト石に魔力を込めるのは殆ど同時だった。カウンター気味に放たれたのは俺もさっき使ったばかりの術で、なのに桁違いの威力が全身を貫いたことに堪らず呻きを漏らして膝を折ってしまう。今まで庇ってくれた誰かがいなくなったことで知った痛みはあまりに強烈だった。野盗に混じる外道召喚師が使う術とは明らかに一線を画したそれは、剣や槍で受けた傷とは種類の違う痛みをこれみよがしに主張して、意志が折れそうになるほどの苦痛を身を以て思い知る。キュラーの方も俺の術をまともに食らったはずなのに何でもないような顔で立っていて、わざと受けてやったのだと言いたげな余裕の笑みを浮かべているのが悔しかった。ローブに付いた埃を軽く払うような素振りをするキュラーを睨み上げながら、震える手で身体の下敷きになったサモナイト石を拾おうとした時だった。

「敵に塩を送る形になったかと思いましたが、これはこれは。思いがけず良い働きをしてくれましたな」

 意味深な言葉に知らず耳をそばだてる間にも、キュラーは気にした様子もなく続けていく。

「しかし、実に脆弱。惰弱かつ貧弱でしかない。アレでもこの程度は耐えられましたがなァ……ろくに耐性のない召喚師がこうも打たれ弱いとは、やはり痛みを伴わずに学べるものはないと言うことでしょうか? 主手ずから召喚頂いた雷精で手ほどきを、となった時は何の冗談かと思いましたが、クク……意義はありましたな」

「まさか、お前……タキツにっ!?」

 タキツの痛みへの慣れ、霊界サプレス由来の召喚術への耐性、それらを当然と受け入れての笑み。

 バラバラに散らばっていたピースが噛み合う音が聞こえたようだった。単体では奇妙な違和感止まりだった欠片同士が合わさって、点と点とが繋がって、ひとつの強固な線を浮かび上がらせる。瞬く間に組み上がった残酷な仮説を否定する材料はどこにもなかった。

 召喚術への耐性を上げるためにあえてその属性の術を受ける訓練方法は確かに存在する。召喚術や魔力を込めた攻撃はタイミングを合わせて自分の魔力を放つことで威力を軽減出来るけど、耐性があればそうした対処抜きに耐えられる限度が上がるのだ。ミニスがファミィさんからお仕置きとして受けそうになっていた術だって、絶妙に加減された強さの術を幼い頃から受けることでの緩やかな耐性向上を狙ったものだろう。だけど、タキツのあれは違う。召喚術に馴染みのない世界から召喚されて大して時間も経っていないのに、あんなにも高い耐性が普通のやり方でつくはずがない。文字どおり何度も死にかけるような威力の術を受けて、その痛みに慣れてしまうほど生き延びていなければ、ああまで強固な耐性が手に入るはずないのだ。

「っ、うおおぉっ! 来たれ、シャインセイバー!」

 怒りのまま練り上げた魔力は歪んだ門を虚空に描き、強烈な光を纏った剣や槍の切っ先が降り注ぐ。おっと、と僅かに身を傾けることで避けたキュラーの足が止まった。ローブの裾を床に縫い留めているのは魔力で形作られた武器のひとつ、白く輝くような刀の切っ先で、不快そうに眉根を寄せたキュラーがそれを薙ぎ払うより早く追撃の術が放たれる。

「ブラックラック! 黄泉の瞬き!」

 ネスによって霊界サプレスから呼ばれた悪魔の化身、ブラックラックの放った閃光がキュラーの左肩を貫いた。肘近くまで切り裂かれたローブの上から腕を抑えたキュラーが表情を歪めて後ずされば、それを待っていたようにアメルとネスが駆け込んでくる。

「大丈夫ですか!? すぐに傷を癒やしますから……!」

「一人で先走るんじゃない! 次はどうすべきか……分かっているな!?」

「ああ、もちろん分かってるさ……そんなの、アイツを倒すことだって!!」

 アメルが手をかざせば瞬く間に痛みは引いて、剣を支え代わりに立ち上がった俺は挑むようにネスの目を見返した。視線がぶつかるのは一瞬、厳しい表情でサモナイト石を握り込んだネスに背中を向けて駆け出せば、俺の意図を汲んだレナードさんの銃がすかさずキュラーの足元を狙う。瓦礫に当たって跳弾する弾に動きを阻まれたその目前、今度は大剣を構えて距離を詰めに掛かった俺へとキュラーは鼻白んだような顔をした。

「術の打ち合いでは決定打にならないと踏んだのでしょうが、実に愚かな……所詮は召喚師の武力、避けるまでもない! 己の無力を思い知りなさい!」

 凄まじい勢いでサモナイト石に魔力を込めながら嘲笑を浮かべたキュラーの前でみるみる異界の門が開かれていく。そこから放たれる召喚術はさっきのそれとは比べ物にならない威力だろう確信を抱きつつ、足を止めるどころか一層力強く石段を蹴って俺はキュラーの間合いへと飛び込んだ。にやにやと愉しげに吊り上がった口角もよく見える距離まで迫ったそこで、ついに頭上で開ききった門から容赦なしの雷撃が降り注ぐ。目の前が真っ白に染まるほどの閃光、轟音、そして強烈な痛苦は、だけど俺の肌に触れる手前で嘘のようにかき消える。信じられないとでも言いたげに目を見張ったキュラーが無防備に立ち尽くした、その隙を見逃してやる義理も躊躇いもどこにもない。最上段に振りかざした剣を勢いよく振り下ろせば、重量以上の速度と威力を纏った切っ先は吸い込まれるようにその身体を縦断した。

「な、ァっ!?」

 肩口から下腹までを深々と切り裂かれたキュラーが驚愕に目を見開きながら大きくよろけて、ひび割れた石段へと横倒しに転がった。混乱しきったその鼻先へと剣の切っ先を突き付けてやれば、俺のすぐ後ろに追いついたネスが鋭い声で答え合わせを告げる。

「お前の動きくらい、読めないとでも思ったか!」

「魔力を変換して、物理的な威力に上乗せする……マジックアタックって言うんだけどさ、やっとコツが掴めてきたんだ。お前たちと散々戦ってきたおかげでな!」

 走り出す直前、ネスに掛けられた術は機界ロレイラルの召喚獣、アーマーチャンプを憑依させるアストラルバリアだった。魔力を退ける力を持つ石を核にした召喚獣だけあって、その効果は一度だけ召喚術による攻撃を防ぐこと。無効化すること。それを召喚術の打ち合いと化した戦場で単に身を守るために使うんじゃなく、相手の油断を誘って一瞬の機を掴むための布石にするなんて博打、派閥にいた頃のネスだったなら思いつきもしなかっただろう。俺だってきっと、それほどの無茶をしてまで敵の懐に飛び込むような真似、想像しただけで怖気づいてしまっていたはずだ。見聞の旅に出てから学んだこと、荒事に巻き込まれる中で掴んだこと、これまで積み重ねた全てが今の俺に繋がっている。無駄なことなんてひとつもない。たった今、キュラーに通じた攻撃だってそうだ。召喚師が有する魔力を物理的な威力に変換して叩き込む技法自体は前々から知っていたけれど、まさか自分にそれが出来る日が来るなんて思いもしなかった。仮にも召喚師なのに体術の方が得意だった時点で可能性はあったのかもしれないけど、この旅の中で無意識のうちにコツを掴んでいたからこそ、格上の相手であるキュラーにまで通じる武器になったのだ。

「こっちを甘く見過ぎっ!」

「容赦しない、終わりだっ!」

 倒れ込んだままのキュラーを肩で息をしながら厳しく見据えたのと殆ど同じく、皆の方でも決着がついたらしい。フォルテとシャムロックさんの二人掛かりで抑えていたリゴール様にはルウとミニス、それぞれの放ったシャインセイバーとヒポスタマスのアシッドブレスが炸裂して、その近くに陣取っていた鬼憑きの召喚師の方はなんとロッカが単身撃破したらしい。ケイナの速射による援護で敵の動きが鈍ったのも大きかったらしいけど、とにかくこれで敵の無力化は叶ったことになる。そう気づいた俺が声を上げるより早くカイナが投具を放てば、弱ったリゴール様では抜け出せない結界が張られて、凛とした詠唱がその場に響き渡った。

「さあ、早く術を解け! 領主様たちを解放するんだ!?」

 カイナのお祓いを受ければリゴール様もトライドラ住民の彼らも元通りの姿に戻るはずだけど、術者の抵抗があればあるほど解呪に難航するのは間違いない。キュラーが生半可な使い手じゃない以上、いくら念には念を入れたって足りることはないはずだ。一層強く剣の柄を握り締めて厳しい声を放った俺を見上げて、だけどキュラーが浮かべたのは不敵な笑みだった。

「ククク……何か妙な期待をされていたようですが、一度鬼を憑かせたものを元通りとは……そんな都合のいい話があるとお思いですか?」

「なんだと!?」

 せせら笑うようなキュラーの言葉に反応したのはシャムロックさんだった。結界の中で苦悶の声を上げているリゴール様を気遣わしげに見つめていた目にさっと走った緊張と警戒、隠し切れない不安を見て取ったのだろう。キュラーの浮かべる笑みが一層悪辣さを増した。床に転がったことで髪は乱れて、しっかり整えられていた前髪もだらしなく額にほつれ掛かり、土埃や擦り傷と一緒にその顔を汚している。それでも爛々とした瞳に禍々しい悪意と愉悦を込めてキュラーは高らかに笑った。

「……っク、ククククッ!? 貴公らは揃いも揃って随分とおめでたい頭の持ち主ですなァ!? この身は卓越した術師、本来であれば即座に鬼へと変えられたものをあえて侵食を緩めてやっただけのこと! 悪鬼に侵食された身体も魂も二度と元に戻ることはない……もはやその男は領主の抜け殻、悪鬼に食い散らかされた食残しでしかないのですよ!」

「マグナさん……こうなってしまっては、もう!?」

 ついに血泡を吹いて藻掻き始めたリゴール様の抵抗を受けて、額に汗を垂らしながら詠唱を続けていたカイナが声を切る。苦しげな表情で大きく首を横に振りながらの悲痛な訴えは、リゴール様を、トライドラ住民だった彼らを助ける道が完全に潰えたことを一瞬で理解させられてしまうものだった。愕然とする俺たちの中、咄嗟にアメルが癒しの力を使おうとするのをルウが必死に止めに掛かる。下手に癒したところで意味はないどころか、むしろリゴール様に憑いている悪鬼ばかりが力を増してしまうのだと、今となっては全てが逆効果でしかないのだと泣き出しそうな声で説得を続けるルウも、ならどうすればいいかの結論が見えているのだろう。せめて少しでも人間としての意識が、自我が残っているうちに命を絶つこと。出来ることなんて最早それしか残っていないのだと、カイナが言外に告げた結論に辿り着いてしまった俺たちを見て、キュラーだけが満足そうに息を緩める。

 きっと、キュラーが見たかったのはこの反応なのだろう。一瞬で悪鬼に変えることも出来たのにわざと時間を掛けてリゴール様たちを苦しめ、今ならまだ助けられるかもしれないと俺たちに偽りの希望を抱かせ、必死になって戦ったその後で残酷な真実を突き付けて絶望に叩き込む。何のことはない、俺たちは初めから在りもしない希望へと誘導されていたのだ!?

「ならば……せめて貴様だけは! このような非道をした貴様だけは、ここで倒す!!」

 激高したシャムロックさんが怒鳴るように叫ぶや否や、一度は下ろされた大剣が風を唸らせる勢いで振り上げられる。俺やフォルテが制止の声を投げ掛けるより早く、倒れ込んだキュラーの首筋にその切っ先が届きそうになった時、思いがけない方向から召喚術の轟音が走った。シャムロックさんとキュラーとの間に撃ち込まれたそれは牽制にしては異様な威力で床を砕いて、覚えのある魔力に動揺しつつも咄嗟に転がるように距離を取る。間一髪で直撃を避けたシャムロックさんとゆっくりと立ち上がるキュラーの向こう、そこに現れたのは見覚えのある人影だった。

「何を遊んでいるのだ」

「テメェはガレアノ!?」

 怒声を張り上げるレナードさんを一瞥して鼻を鳴らすと、俺たちを気にした様子もなくガレアノはキュラーの前まで足を進めた。鼻に小じわを寄せて呆れ返ったように目を細めるガレアノに、ローブの埃を払いながらキュラーは苦笑を返す。

「どれだけ手を抜いたかは知らんが、無様にも足元を掬われおって……遊びにどれだけかまけておったのだ」

「これは失礼を。この者らの足掻きようがあまりに滑稽で、些か興が乗ってしまい」

 一人でも始末に負えない敵が合流してしまった戦慄に震えが走るも、どうにか連戦に備えようと剣を握るのとは別の手でサモナイト石をきつく握り込んだ俺を見て、ガレアノは唇を歪めるような笑みを滲ませた。

「ふん、こやつらの始末などいつでも出来る。今はルヴァイドの奴が呼んでおるのでな」

 そう言って不自然なほどあっさり踵を返して立ち去ろうとする様子に安堵よりも疑念を覚えたのは俺だけじゃなかったらしい。動揺と困惑がさざ波のように俺たちの表情を過ぎていくのを見つけてだろう。なるほどなるほど、と口元を緩ませたキュラーがわざとらしく顎を撫でさすりながら頷いた。思わず詰問するような視線を向けてしまえば、さっきの意趣返しかのようにキュラーが嘲笑交じりの答えを口にする。

「確かに今は、貴公と私が忠実な兵士へと作り替えたトライドラの者たちを連れていくことが先決でしょうな?」

「カーカッカ!鬼と死人からなる、悪夢の軍隊をなぁ!?」

 あまりに明解で残酷が過ぎる答えを突き付けられて、一瞬、頭が理解を拒んだ。だけど薄笑いを浮かべたキュラーと高笑いをするガレアノを目の前にいつまでも現実を否定することも叶わず、まさか、と、やっぱり、が交互に主張を繰り返していく。こんなに広大な都市ひとつ分、そこに暮らしていた人々全てが、たった二人の召喚師の手に落ちたなんて。

「そうか……そういうことかよ? てめえの術に耐えきったヤツには鬼になった騎士をぶつけて、それで傷つき倒れたんなら屍人の兵へと変えちまう……そうやって丸々都市ひとつ分の人間を手駒にしたってワケかよ、クソ外道がっ!?」

 愕然とした心地で剣を取り落しそうになった俺の傍で、シャムロックさんの肩を支え起こしていたフォルテが血反吐を吐くような呻きをこぼした。薄々勘付いていたのだろう、最後は喉が駆れるような怒号を放ったフォルテの瞳は滲んでいた。憤りや悔しさ、そんな単純な言葉に収まりきらない衝動と激情がその全身から立ち昇っているのが目に見えるようだった。

 フォルテの言うとおり、恐怖や憎悪に飲まれず耐えきった騎士もいたのだろう。だけど、それは全員じゃなかった。耐えきった彼らも鬼に憑かれた仲間と戦い、傷つき倒れた端から屍人の兵になり、鬼に憑かれた騎士もまた、自身の手で仲間の騎士や守るべきだった人々を殺す羽目になった絶望と苦痛に打ちのめされるまま、完全な鬼へと落ちてしまったのだろう。そして、そんな地獄絵図が繰り広げられている間、こいつらは今みたいな顔をして高みの見物を決め込んでいたに違いない。

「シャムロックさん……」

 高笑いをしながら屍人や悪鬼と化したトライドラの人々を連れ去っていったガレアノやキュラーを引き留めるだけの余力はなかった。俺たちに出来たのは、リゴール様とトライドラ住民だった僅かな彼らに引導を渡すことだけだった。せめてこれ以上の苦痛に苛まれることのないようにと覚悟を決めたシャムロックさんが剣を振り下ろした直後、すまない、と。一瞬だけ正気を取り戻したリゴール様は告げた。だけどそれも本当に一瞬のことで、音を立てて床に転がったその顔が安らかなものかどうかを見る間もなく、真っ赤な炎に包まれて立派な体躯は見る影もなく灰になる。二度と悪鬼に乗っ取られることのないように、屍人として使われることのないように、カイナがシルターンの術で髪の一筋も残さず焼き払ったその後には煤で黒ずんだ石床と乾いた灰しか残らなかった。

 きっと、これは始まりに過ぎない。俺たちがデグレアに負けたら、あいつらが今以上に侵攻の手を強めたなら、今回と同じかそれ以上のことが何度でも起きるのだろう。向き合っているだけで身の毛のよだつような強大な魔力と底知れない悪意を秘めていたあいつらに一体どこまで立ち向かえるのか、食らいつけるのか。アメルを守り切ることが出来るのか。今の俺には確信を持って言えることなんて何もない。だけど、それでもだ。

 雨の降る中、住民の一人もいない憩いの広場で、シャムロックさんは曇天を切り拓くように高々と剣を掲げて宣誓した。

「今、この時より……私はこの剣に賭けて誓います。無残に散った兵たちのために、守ることすら出来なかったこの街の人々のために……トライドラ最後の騎士としてデグレアと、戦い続けると!!」

 その背中を見つめながら、俺もやっぱり、諦めたくないと思った。認めたくないと思った。こんな現実を仕方ないって受け入れて諦めてしまうくらいなら、どんなにみっともなくても見苦しくても、最後の最後まで足掻き続けたい。どんな絶望の先にだってきっと希望は続いているはずなんだからと、自分に言い聞かせるように強く唱えながら顔を上げる。いつの間にか晴れ間の覗いた空の向こう、南東の方角を見据えて俺たちはトライドラを後にする。

 聖王国の盾と名高いトライドラ、その陥落を知らせるために、ファナンを目指して俺たちは止まることなく足を動かすのだった。




諦めない心が好きです。最後の最後まで諦めないからこそ奇跡を掴むのだし、もしダメだったとして絶望の度合いが深まってくれるので。
(完成前のを誤って一瞬上げてました、見たひとは忘れてください)
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