紙袋いっぱいに詰まった荷物を抱え直して、片手のメモへと目を落とす。ネスに頼まれたキッカの実やカーッツの葉、乾燥させた果物や穀物を焼き固めた携帯食料、それから剣や杖の留め具にサモナイト石を仕舞うポーチの当て布。荒事続きの旅をしていると何から何まで足りないものばかりで毎度財布の中身と相談になるけど、今回はどうにか余裕を持って買い揃えられたはずだ。
「ふぅっ、これで頼まれた物は全部かな?」
すっかり値切り交渉が板に付いた自分に苦笑をひとつ、心地いい重みを主張する戦利品を腕に抱えた俺は鼻歌交じりに商店街を歩き出している。
ファナンに到着したのはつい昨日のことだった。トライドラの陥落を知らせるという重責を背負って道を急いできた俺たちだったけど、街中に入ってすぐ妙な違和感に足取りを緩めた。とは言っても不穏なものを感じたわけじゃない。何だか街の様子が前よりずっと賑やかで、通りのあちこちも綺麗に飾り付けられていることに気づいたからだ。漁で使う太いロープは華やかな結び目をいくつも作って下町飲食店街の狭い空を横断しているし、それぞれの店の庇には海上での明かりとして使った物だろうか、大きくて丸いガラス玉が黒網に包むように吊り下げられてきらきらと日の光を返している。分厚いガラスの表面には深い青や緑を重ねた複雑な色合いが滑らかに輝いていて、色取り取りの布や紐が潮風を受けてはためく景色の中でもとりわけ目を惹く物だった。疑問符を浮かべながらも様変わりした通りの様子に見入ってしまった俺たちだけど、そこに答えをくれたのはアッと息を呑んだモーリンだ。
「すっかり忘れてたよ! そういや、もうすぐ豊漁祭だったんだ」
どうやらこの時期、ファナンでは街を挙げての祭があるらしい。元々は漁師が海の恵みに感謝するための祭で、夕暮れから夜遅くまで町いっぱいに明かりを灯して騒ぎ明かすものらしいけど、金の派閥が後援を務めるようになってからは予算も規模も格段に跳ね上がって、今じゃ遠く帝国からも観光客が大勢やって来るほどの賑わいようなんだとか。いつ訪れても賑わいと活気に満ちているファナンだけど、これから三日後に迎える本祭、その前夜祭ともなると、遠方からの観光客に加えて近隣の町や村からもこぞって人が押し寄せてきて、あの広々とした大通りでさえ埋め尽くしてしまうほどの混雑ぶりになるらしい。それだけの人間が一か所に集まるとなれば、普段ならちょっとしたトラブルがとんでもない大事件にまで発展しかねない。治安維持の名目を掲げて昼間から警備兵が巡回しているのも無理のない状況だったけど、もしここでトライドラが陥落したなんて話をしたら一体どうなってしまうのか。大混乱になるのは間違いなしだから、と俺たちの話を聞いたファミィさんは穏やかに微笑んで続けたのだった。
「そうねぇ。とりあえず、今は黙っておきましょうか?」
人出があるというのは身元の怪しい人間が紛れ込んでいてもおかしくないし、些細な噂から領主直々の言葉まで、あっという間に広がって皆に知れ渡ってしまうということだ。人の口に戸は立てられない。そこに悪意がなくても不安や緊張を帯びた話が広がるのは一瞬で、大々的に話を打ち明けたり迎撃準備をしたりすれば街全体が一気に混乱に呑まれかねないし、デグレア側も勘付くどころか下手な刺激を与えることになって開戦を早めてしまう危険性だってある。それを避けるためにもひとまず話は伏せて、けれど水面下では着々と準備を整えておく。そんな方針を瞬く間に決めてしまったファミィさんに心底感服する思いで溜め息をこぼしてしまったのが早くも懐かしい。
どのみち、祭が終わるまでは表立った動きは取れない。ローウェン砦での一件からここまで休まず動き通しだったこともあるし、それまではゆっくり身体を休めようという話に自然と落ち着いたのだ。
「シャムロックも少しは肩の荷が降りたみたいだし、ファミィさんはやっぱり頼りになるよなぁ」
トライドラが陥落して敵の手に落ちたなんて俄には信じ難い話をされても咄嗟に疑いを挟んだり理解を拒むようなことなく、ただ労りの言葉と共に静かに受け止めてくれたファミィさんはさすがだった。あれからシャムロックは怪我の治療や対策会議の関係で頻繁に呼ばれてるけど、信頼できる為政者にやっと話を伝えられて安心したのか、その表情は少し穏やかになったみたいだ。敬語は抜きで呼び捨てで構わないよ、なんて言葉に甘えて、年上の偉い騎士様相手だっていうのに俺の口調も態度もすっかり気安く砕けたものになっている。
「ついでにその馬鹿丁寧な物言いも直せよなぁ。聞いてるこっちが堅苦しさで窒息しちまいそーだぜ」
「あのですね……」
「あんたが礼儀知らずなだけなんじゃないの。少しは見習いなさいよ?」
ケイナの裏拳がフォルテに炸裂して慌ててカイナが宥めに掛かる、そんな光景に唖然としていたシャムロックを思い出すと顔が勝手に笑ってしまう。ファナンに無事戻って来れてトライドラの現実を伝えることが出来て、これまでの緊張から解放された皆の雰囲気は明るく穏やかだった。ケイナとカイナはよく一緒にいて互いの話をしたりシルターンの遊びらしい折り紙をして姉妹の交流を深めているし、旧友だけあって積もる話も山ほどあるんだろう、フォルテとシャムロックも何かと二人で話し込んでいる。ようやく落ち着いて話せるようになったのに邪魔するのも悪いしと場に混ざるのは遠慮したけど、嬉しそうに笑うフォルテを見るだけで何だか俺まで顔が綻んでしまうほどだった。アメルは再び台所に立つようになって張り切って料理をしているし、相変わらずケルマに狙われていて憂鬱そうなミニスもリューグたちに混ざって色々召喚術を試している。二人とももうホットミルクなしでも眠れているようで、戸棚の奥から取り出したマグカップを撫でているアメルの姿を見かけたくらいでしかない。俺とロッカの関係もあの夜のことなんて無かったみたいに落ち着いて、まるで前にファナンで過ごした時の続きのような日々だった。
「ユエルも下町飲食店街のひとたちに良くしてもらってるみたいだし、パッフェルさんは……今いくつバイトを掛け持ちしてるんだろうな、あのひと?」
買い物ついでに様子を見に行ったユエルはちょうどお使いに出ていて会えなかったけど、笑顔のおばちゃんから話を聞くだけで下町の皆に可愛がられていることが伝わってきた。
あの子のおかげで私らも元気をもらってるよ!あんたには何度お礼を言っても足りないくらいだ。
そう言って力強く背中を叩いて、差し入れだと果物や干物を押し付けてきたおばちゃんの声は温かった。海賊退治で顔が知れ渡ったのもあって、その後も通りを歩くだけで右から左から声を掛けられて、追加の差し入れがどんどん荷物の上に積まれていく。親しみと感謝のこもった声や眼差しをむず痒くなるほど浴びせられて、嬉しい悲鳴が上がりそうなほどだった。パッフェルさんに会ったのは商店街を目指して大通りに出たころだったけど、どうやら祭りが近いからっていつものケーキ配達の他に臨時バイトまで始めたらしい。立ち話もそこそこに走り去っていったパッフェルさんだけど、自由に使えるお金と賄いで出るケーキに釣られてバイトを始めたルウは中々優秀な働きぶりらしくて、有難い話ですよ本当、と何度も嬉しそうに声を弾ませていたのが印象的だった。
「いや~本当にタキツさんのオススメどおり、期待の新星って感じで助かってますよぉ……あ。出来たらマグナさんもまた、ちょっとお手すきの際にでも手伝って頂けたら嬉しいな~って?」
当たり前のように出てきたタキツの名前に動揺はしなかった。昨日から今日まで、ファナンに到着してから街の様子を見に行ったり皆の話を聞きに行ったりと俺なりに動いていたけれど、そのたびに今まで知らなかったタキツの交流や繋がりを教えてもらう形になっていたからだ。
少しずつ仲間が増えて行動範囲が広がって、それぞれ仲のいい相手や気の合う同士で動くことも多くなったけど、俺はどこかでタキツのことなら何でも知っている気になっていた。召喚主と護衛獣、その関係性のおかげで誰より一緒に過ごしてきた自負があったし自惚れもあった。大好きなマスターには及ばなくても、少なくとも仲間内では俺が一番傍にいてタキツを理解してやれてるし打ち解けられている。そんな、ひたすらに恥ずかしくって居た堪れない勘違いを本気でしていたのだから参ってしまう。
ベッドで眠れない夜を持て余している時、ホットミルクを手にタキツが訪ねてくるのが待ち遠しかった、とアメルは懐かしむように教えてくれた。バイト上がりに賄いのケーキやアイスをつつきながら、好きな味や気になる店のことをよく話したのだと、パッフェルさんは笑いながら言っていた。俺たちの旅に付いていこうか迷っている時、背中を押してくれたのがタキツだったとバイト姿のルウは照れ笑いにはにかんで、タキツの残したバイト代をパッフェルさんを通して受け取ったらしいレナードさんは、いくら同郷だからってと呆れと苦虫を噛み潰したような顔で深々と息を吐いた。
「嬉しかったんです、気に掛けてくれたことが。蜂蜜多めのホットミルクも嬉しかったけど、私を喜ばせようとしてくれたこと、私のことを考えてくれたこと。甘い飲み物より町での話よりそれが何より嬉しくて、つい引き留めてしまったの……」
嬉しそうにも困ったようにも見える笑みを滲ませて話してくれたアメルを思い出すと、やっぱり俺だけが特別扱いだったなんて気のせいだった気がしてくる。それが寂しいようなつまらないような、それでいてタキツが皆に大事に思われていて胸が詰まるくらい嬉しいような、不思議な気持ちだった。それにしてもアメルの件しかりレナードさんの件しかり、普段は控えめなのに変なところで思いっきりお人好しなのは自覚があるんだろうか。実のところ俺のことをそんなに言えないよな、タキツって、と苦笑をこぼして道場の門をくぐった俺は、木立の向こうに見え隠れする銀砂の浜を眺めて独り言ちた。
「まだ日も高いし。……荷物を置いたらもう一度、散歩にでも行こうかな?」
今度アメルと釣りの約束もしたし、場所の下見をするのもいいだろう。砂浜の奥まった方に向かえば鍛錬中のリューグたちに会えるけど、まだ回り切れていない波止場や路地裏の方を歩いてみてもいいかもしれない。手早く荷物を片付けてしまうと俺は早速、来た道を戻るように足を返した。だってまだ、ファナンの町のあちこちにタキツの気配が残っている。歩いた路地や覗いた店、関わった人たちの話を通じて俺の知らなかった彼女のことを知っていくのは妙な気分だったけど、宙に浮きっぱなしだった足をやっと地面に降ろせたような安堵があった。タキツは確かにここにいたんだって、皆の中にちゃんと残ってるんだって、ただ実感したかったのかもしれない。
「ねぇ、マグナ。あのね、じつはね……」
おずおずと躊躇いがちにユエルが声を掛けてきたのは、波止場でレイムさんと別れた直後のことだ。俺を見て一瞬目を見張ってから安心したように微笑んだレイムさんだけど、スルゼン砦やローウェン砦、それどころかトライドラもとっくに攻め滅ぼされたなんて話を小耳に挟んだとかで心配してくれていたらしい。けれどやはりデマカセでしたね、これで安心してトライドラに向かえます、と穏やかに笑うレイムさんに少し迷って、今のトライドラに向かうのは危険だと忠告してから上手く言えない不安と違和感に考え込んでいた俺だけど、ユエルが切り出した話を聞いた後にはそんなのすっかり頭から吹き飛んでいた。
「ミニス。この子が渡したい物があるそうなんだ」
ユエルを連れて道場に戻ってくると、ちょうどミニスが休憩しているところだった。冷たいお茶を手に首を傾げたミニスの前で、これ、と覚悟を決めた様子のユエルがペンダントを差し出すと、ぽかんと見開かれた金色の瞳がみるみる喜色に染まっていく。
「あーっ! それって私のペンダント!? ありがとう! あなたが見つけてくれたのね!」
飛び付くようにペンダントを受け取って声を弾ませるミニスだったけど、口ごもるユエルと黙ったままの俺を見て何かに気づいたように言葉を切った。ゆっくりとその眼差しが動いて、疑問の色を浮かべた瞳が探るように見上げてくる。だから俺はミニスと目を合わせたまま、無言の問いかけに答えるべく静かに口を開いたのだ。
「どうして今まで黙ってたの……? 私がどれだけシルヴァーナのこと心配してたか、マグナは知ってたでしょう?」
なのになんで、と静かに尋ねる声には抑えきれない怒りが滲んでいたけれど、ミニスは冷静だった。冷静であろうと必死に努めてくれていた。怒らないで聞いてくれと最初に頼んだのは俺だけど、苛立ちや憤りに呑まれないよう懸命に堪えながら尋ねてきたミニスにどう説明したらいいものか。逡巡して言葉を迷った俺に代わって声を張り上げたのはユエルだ。
「ま、マグナは悪くないよっ!? ユエルが悪いんだよ、渡したくないって噛みついたりしたから、だから怒るならユエルを怒って! お願いだから!」
「……ねえ、あなた、どうしてペンダントを返したくなかったの?」
ユエルの剣幕に呆気に取られたように目を丸くしたミニスだったけど、一拍の間を置いて促すように問い掛ける声色は落ち着いていた。ユエルを見つめる瞳も静かに凪いでいて、だからこそユエルも素直に理由の全てを吐き出せたのかもしれない。
ペンダントに嵌っていた石を覗くとユエルのいた世界が、懐かしい幻獣界メイトルパの景色が見えたから。どれだけ帰りたくても帰れない、恋しくて懐かしい故郷をすぐそこに感じられたから。リィンバウムに召喚されてたった一人、同族の亜人も頼れる仲間もいない日々がひたすらに辛くて苦しくて寂しくてたまらなかったから、だから返したくなかった。唯一の繋がりを手放したくなかった。返さなきゃと思っても、ずっとその勇気が出せずにいたのだと。
「なぁ、ミニス。それでも、会ってきちんと謝りたいって言ったのはユエル自身なんだ」
だけど、今のユエルはもう一人じゃない。下町飲食店街のひとたちに受け入れられて大事にされて、やっと故郷に繋がる唯一の石を手放すだけの勇気が湧いたのだと、絞り出すように打ち明けたユエルを黙って見つめていたミニスがふとペンダントへと目を伏せた。鮮やかな新緑に輝くサモナイト石の向こう、大事な友達のシルヴァーナへと語り掛け始めた声は穏やかで、その眼差しも柔らかい。ほどなくして顔を上げたミニスの口元に浮かんでいたのは優しい笑みだった。
「シルヴァーナがね、あなたのこと許して欲しいって」
きょとんと目を見張ったユエルに向けて、ミニスは目元を和らげた。
「あなたが一緒にいてくれたから寂しくなかったって。なら私の答えも決まってるわ。……許してあげるよ、ユエル。それからありがとう、私の大事な友達を見つけてくれて」
「……え?」
「この子と離れ離れの間、ずっと寂しくてたまらなかったけど……私には友達がいたし、この子にはあなたがいてくれたから、ひとりぼっちの寂しい思いをせずに済んだ。あなたが大事に守ってくれたから、またシルヴァーナと会うことが出来たんだもの。……ね、もし良かったら私とも友達になってくれる?」
いっぱいお礼をしなきゃ気が済まないわ、と強気な笑みに頬を持ち上げて笑いかけたミニスに、唖然と声を失っていたユエルの身体がわなわなと震えを帯びていく。丸々と見開かれた瞳にぶわりと涙が溢れるのと、ユエルの尻尾が勢いよく膨れ上がるのは殆ど同時だった。
「うっ、うぅ……っうわぁーん!! い、いいの? ユエル、悪いことしたのに……っ本当に、友達になってもいいの……っ!?」
「ちょっ、ちょっと! 別に泣くことないじゃないの!? それに、友達になって欲しいって言ったのは私の方なんだし……」
予想外の嬉しさと驚きで混乱してしまったユエルが泣きじゃくりながら尋ね返せば、戸惑ったように声を揺らしながらもミニスは何度も首を縦に振る。それが嬉しくてたまらないとばかり涙声で必死に頷き返すユエルを見ていられなくなったのか、息を緩めるような苦笑に眉尻を下げたミニスが手を伸ばして、前のめりに丸まったユエルの背中を撫でた。仕方ないわね、とこぼしながらもユエルを見つめる瞳は優しく微笑んでいて、二人の間に蟠りの一片も残っていないことは見るからに明らかで、いつの間にか俺もすっかり肩の力が抜けるまま緩んだ笑みを浮かべていた。
ともあれ、これでペンダントのことは一件落着だろうか?
胸のつかえが取れたように笑い合うミニスとユエルに穏やかな気持ちになった俺だけど、そうやって油断した矢先に面倒事が襲来するのだと思い出すまでに数時間も掛からなかった。
「もうペンダントのことなど関係ありませんわ……このケルマをここまで愚弄し続けた報い! 今日こそ! 今日こそ償わせてさしあげますわっ!?」
ミニスと一緒にユエルを下町まで送った帰り、散策ついでに足を運んだ水道橋通りでばったりケルマと出くわしてしまったのだ。どうにか顔を合わさないようミニスが避けていることに気づいていたのか、米神に青筋の浮いたケルマは据わった目をしてずんずん距離を詰めてくる。その剣幕に圧されて思わず後退りそうになる俺だったけど、さすがにケルマ相手じゃミニスの方が断然肝が据わっていた。ぐっと堪えるように足を踏みしめ、それってただの逆恨みじゃないの、と勝気な目をして食って掛かるように言い返したのだ。だけど、それで引っ込んでくれる相手ならここまで話が長引いているはずもない。ウォーデン家の名誉に掛けて最後の決闘を申し込みますわ、とついには語気強く言い切って、ケルマは真っ向からぶつかるように厳しい眼差しと言葉を投げかけた。
「さあ、ミニス・マーン! 返事はいかがっ!?」
その表情はこれまでになく真剣で、毅然と伸ばされた背筋にも覚悟が見えた。ただの小競り合いを越えて家同士の話にまで発展してしまった二人の諍いをどう収めるべきなのか、たじろぎながらも口を開きかけた時だ。
「……いいわ。受けて立とうじゃないの」
声を詰まらせたのもほんの一瞬、言葉どおりの真正面からケルマを見つめ返してミニスは静かに返した。その答えを聞いて驚いたのは俺の方だ。見るからに上機嫌になったケルマは決闘の場所や日時を告げると高笑いを残して去って行き、その背中が見えなくなってから俺は何とも言えない顔をしてミニスを見た。黙ってケルマの去って行った方向を見つめていたミニスがちらりと視線を持ち上げる。
「いいのか、ミニス? そりゃ、いつかは決着をつけなきゃならなかったけどさ……」
「いい機会だもの。前までと違って大勢の目がある場所での決闘よ? 正真正銘、これが最後。ケルマもそのくらい覚悟の上でしょうし」
その瞳も声も揺らすことなく落ち着き払って返したミニスの言い分は、決して間違ってはいなかった。ケルマが指定してきた場所は中央大通りの広場、日時は前夜祭の始まる夕方過ぎ。祭りで賑わう公衆の面前で雪辱を晴らさせて貰うのだと意気込んでいたとおり、観光客で賑わうファナンの町でも最も人通りのある場所だ。助っ人の参加は自由、召喚術は万が一にも周囲に被害を出さないようきっちり制御して、とあれこれ書かれた書面まで突き付けられて呆気に取られてしまったけど、ミニスはその最後に記されたファミィさんのサインまでしっかりチェックしていたらしい。ケルマとミニスの確執がこれ以上深まる前に事を収めたいのもあるんだろうけど、その決闘を前夜祭の催しのひとつ、召喚術を使った模擬演習という形で組みこんでしまう辺り、金の派閥議長としてのファミィさんの辣腕ぶりが窺える。召喚術を見せ物にするなんて、とネスは渋い顔をしそうだけど、ケルマとの戦いは初めから私利私欲での私闘でしかなかったのだからそれを言うのも今更だ。それならもう悩んだって仕方がない。皆への説明をどうしようかと腕組みをした俺の耳に、それに、と小さく噛み締めるような声が届いた。
「これくらい乗り越えられなきゃ、きっと友達を取り戻すなんて出来ないわ」
ペンダントを握り締めながらミニスが思い浮かべているだろう、もう一人の友達。それが誰かなんて聞くまでもなく、気が付けば無言で口を引き結んでいた。
豊漁祭を目前に控えて弾ける前の火花のような熱気漂うファナンの町。まさにその中心である大通りで俺たちはそれぞれ、微妙な顔をして決闘の場に立ち会っていた。
「ああ、話し合いで解決できればよかったんですけど……」
先に用事が入っていたり怪我が完治していない面子はいないけど、殆どの仲間はミニスに手を貸していた。一番初めからの付き合いになるアメルやネスはもちろん、乗りかかった船だからとレナードさんやカイナも貴重な時間を割いてくれたけど、その顔に浮かぶのはどれも呆れたような色合いだ。ケルマの召喚術の余波で掠り傷の出来たモーリンに癒しの力を使いながら残念そうに肩を落としたアメルに、無理だと思うけど、とミニスがすっぱり切って捨てたように、こっちがどれだけ和解を望もうとケルマに聞く耳がなければ話にならない。大半の顔触れはそんな期待を端から捨て去っていたような白け顔だった。
「まったく馬鹿らしい。こんなことをしている場合ではなかろうに」
ケルマ側の助っ人として笑顔のパッフェルさんが現れ、卓越したナイフ捌きと共に一番長い職歴は暗殺者だなんて教えてくれた時には唖然と目を見張ったネスだけど、それも今はお馴染みの渋面を浮かべて溜め息交じりに詠唱を唱えている。異界の門が滑らかに扉を開けばそこから現れたウインゲイルが指定範囲だけを狙って突風を吹きつけ、ケルマの引き連れてきたウォーデン兵が堪え切れずにたたらを踏んだ。より威力の高いフレイムナイトを選ばなかったのは、こんな場所で炎を噴射すればそれこそ万が一ということがあるからだろう。恋する乙女の顔をしたケルマの発言でカザミネさんとカイナの間にまでひと悶着あったり、衆人環視の元だっていうのにケルマとミニスの口喧嘩も相変わらずで、緊張感の欠片もない決闘に分かりやすく呆れ返っているネスだけど、周囲に配慮しながらも一切手を抜かずに魔力を練り上げてるんだから付き合いがいい。
「こちらの迷惑も考えて欲しいものですね。やってることは殆ど子供の喧嘩じゃないですか」
「本当にな。ま、俺様としちゃコイツの具合を試せてラッキーだったけどよ?」
新調したばかりの銃を構えたレナードさんが素早く足元を狙って引き金を絞れば、ネスの術で半分近く体勢の崩れていたウォーデン兵にこれ以上ない隙が出来る。それを逃さずロッカの槍が唸り、大きくしなる柄で打ち払われた数人が軒並み石畳に倒れ込んだ。ひゅんと槍を回して構えを取り直すロッカは呆れ顔で、深々と吐き出された息はその内心をありありと物語っている。それこそ黒の旅団相手に強制的に実戦経験を積まされ鍛え上げられてきた今、命の遣り取りをする覚悟もない相手なんて話にもならない、といったところだろうか。それもそうだよな、と久しぶりにクロやムジナと誓約した石を引っ張り出してきた俺は苦笑交じりに詠唱しながら視線を持ち上げた。
「いい加減にしなさいよ、この年増っ! 観光客の人たちにも迷惑が掛かるじゃないの!」
「はっ、チビジャリは考えが甘いですわね! ちゃんと召喚術を制御出来ていれば不要な心配でしかありませんわ!」
「もう……制御なんて簡単だもん! 大恥かかせてあげるんだからぁっ!!」
ケルマの煽りを受けて啖呵を切り返しているミニスだけど、その表情は真剣そのものだ。相手が金の派閥有数の召喚師だろうと、鍛え上げられた精鋭の兵士だろうと、それぐらいで及び腰になるような弱気の持ち主なんてここにはいない。ケルマだって起死回生の一手を求めるような必死さでこの決闘に臨んだのだろうことは分かっている。何度もぶつかってきた相手だけど、繰り出す技のキレも術の精度も今まで一番高く、無尽蔵と錯覚するほど放たれる魅了の術には危うく俺も吞まれかけたほどだ。だけど、これはあくまで通過点でしかない。これぐらい勝てなくちゃこの先、何を望めるはずもない。本当に目指す先も求める望みもはるか遠くにあるのだからと、燃えるような闘志を宿して輝くミニスの瞳は何より雄弁だった。
「お願いっ、シルヴァーナ! ブラストフレア!」
ミニスの声に応えて異界の門を潜り抜けた飛竜が、力強くファナンの空に舞い上がる。水平線に沈みつある真っ赤な夕日を背景にその口元で生まれた炎が赤々と輝き、魔力と共に凝縮された焔弾が狙い定めて真っ直ぐ、流星のような尾を描いた。それは最大限に加減された威力だったはずだけど、咄嗟にケルマが張った魔力障壁の上からも十分過ぎる圧力を降り注がせたことは一目で分かった。広場に舞い上がった粉塵と熱風が過ぎ去った後、悔しげに顔を歪ませて膝を突いたケルマの姿が露わになれば、勝敗の行方を尋ねる必要なんて有りはしなかった。
その後のことは、ミニスもケルマも遺恨なく和解に至った、という感じだろうか。やっと負けを認めてくれたケルマだけど、どうやら彼女が気にしていたのは自分とミニスの勝敗がそのまま、ウォーデン家とマーン家の権威や家格の優劣に繋がってしまうことだったらしい。召喚師としては当たり前の懸念だったんだろうけど、俺もミニスもそんなこと念頭になかったから思わず呆気に取られてしまった。ミニスがペンダントを渡したくなかったのは、それが初めてミニスの声に応えてくれた大事な友達だったから。友達と離れ離れになりたくないから抵抗したのだし、ミニスの目指している先だってケルマの想像からは大きく外れている。
「あのね、ケルマ。私はまず一人前の召喚師になりたいの。それだけ」
淡々と告げたミニスにぽかんと口を開けたケルマがやがて噴き出すように笑って、馬鹿馬鹿しい、と苦笑交じりに呟いて、ゼラムからここまで長々と続いた二人の因縁の物語もそれでおしまい。ミニスが俺たちの旅に同行する理由もなくなって、ひょっとしたらこのままお別れかもしれないとこっそり覚悟していた俺とアメルだったけど、それこそただの杞憂でしかなかったらしい。
「言っておくけど、今更仲間外れなんてイヤだからね? アメルのこともタキツのことも解決してないのに、私だけイチ抜けするはずないでしょっ!」
「危ない場面なら今までにだって何度もあったんだ。今更危険だからという理由で彼女の同行を拒むことなど通用しない、そうだろう?」
ネスまで味方に付けて声高に言い募るミニスを前に、無言で顔を見合わせた俺とアメルは息を吐き出すように笑ってしまった。ミニスのペンダント探しを手伝うのに最初あれだけ言っていたネスが弁護に回ったのもだけど、堂々と胸を張って言ってのけたミニスにまるで迷いがなくて、俺たちの懸念や気掛かりがつくづく余計な心配でしかなかったと思い知らされてしまったからだ。
「あのな。僕はきちんと認めるだけのことが出来る相手に対しては、年齢に関わらず相応の権利を認める主義なんだぞ」
「あの、それってつまり、マグナさんのことは……?」
「さあね、君の想像にお任せするよ」
アメルの問い掛けにふっと表情を和らげたネスだけど、俺も苦笑交じりに頬をかいたことでミニスは了承と受け取ったんだろう。お母さまに話してくる、とぱっと顔を明るくさせて部屋を飛び出していったミニスが意気揚々と戻ってくるのは早かった。
あなたがしたいと思うことを、正しいと思う方法でおやりなさい。
そんなファミィさんからの言葉を胸に、俺たちの前で高らかに声を張り上げたミニスの瞳は明るく輝いている。
「マグナ、決めたわ! タキツがどうしてビーニャの傍にいたいのか、ビーニャのことが好きなのか、私は何も知らないし分かってもあげれない……だけど、友達だもの。大事な友達が悲しい顔をするかもしれないのに、黙って見過ごすなんてそんなの絶対にイヤだから! だから、そのためならタキツとだって戦ってみせる。きちんと目を合わせて話を聞けるまで、私、絶対に諦めないんだから!」
「ミニス……」
小さな握り拳を胸に当てて、ペンダントの向こう側にいる友達へと誓いを立てるように宣言するミニスの眼差しは揺らぎない。確かな決意と希望を宿して夜空に輝く星のように眩しい光を放っている。思い付きでも軽い気持ちでもない、本気の熱意を込めて言い切ったミニスを見つめて、俺は胸に込み上げてきた言葉にならない気持ちを飲み込んだ。
俺がタキツを諦め切れずにいたように、ミニスも心からタキツを思ってくれている。これっぽっちも譲らずに、大事な友達のために覚悟を決めてくれている。優しさでも気遣いでもない、ミニス自身の気持ちとしてタキツを諦めないと言ってくれたことが、こんなにも心強い。
そう思ったら張り詰めていた糸が緩むように急に気が抜けてしまって、俺は堪らず眉尻を下げて笑っている。ネスとアメルの優しい眼差しの気配を感じながら、俺はミニスと二人、指切りの代わりに目を合わせて微笑みを交わし合っていた。
そして翌日、待ちに待った豊漁祭が始まった。前夜祭の時点で凄い人混みだったけど、本当に大通りを端から端まで埋め尽くすような混雑ぶりで熱気も賑わいも段違いだ。せっかくの祭なんだしと地元住民のミニスやモーリンが案内役を買って出てくれたこともあって、俺はアメルと一緒に皆を誘って祭の会場に繰り出していた。街角のあちこちでは大道芸や楽器の演奏、野外劇といった様々な催し物が行われているし、通路沿いに立ち並ぶ屋台ではたっぷりのチョコを掛けたナウバの実や飴を垂らしたシルドの実、香ばしく焼き上げられた海産物の串焼きがこれでもかと並べられている。ゼラムでも何度か祭を見たことはあるけどさすがにここまでの規模は初めてだ。まるでファナン中の人間が通りに出てきたような喧騒に当てられて気分が高揚するまま、俺は隣で屋台巡りを楽しんでいたアメルへと話を振った。
「それにしても凄い人だなぁ。パッフェルさんもルウもこんな中でバイトしてるなんて、ちょっと尊敬しちゃうな?」
昨日、ケルマから俺たちの助太刀を残業として命じられたとかで泣き言混じりに縋り付いてきたパッフェルさんだけど、そもそもあれはケーキ配達のバイトをルウに押し付けて割のいい臨時バイトに飛びついた結果だったらしい。すっごく大変だったんだからね、と頬を膨らませて文句を言っていたルウと今頃仲良くアイスやシャーベットの売り子をしているはずだけど、これだけの人出に怯まず立ち働けているのなら一種の才能だろう。
「ふふ、そうですね。あっ、このお芋さんもとっても美味しい! ほら、バターがとろけて少しの塩気とお芋さんの甘みが引き立てあっていて……ん〜! しあわせ!」
バイトの真っ最中なパッフェルさんやルウの他にも一緒に見て回れない何人かがいて残念がっていたアメルだけど、初めて味わう屋台の食べ物や祭の雰囲気を浴びてすっかりご満悦らしい。こっちもどうだ、とフォルテが竹楊枝の刺さったタコ焼きを面白そうに差し出せば、照れたように頬を染めながらもバターの掛かったジャガイモを持つのとは別の手で嬉しそうに受け取っている。その様子を微笑ましげに眺めながら発泡酒片手にタコ焼きをひとつ摘まんだレナードさんが、やっぱ祭ってのはいいねぇ、と懐かしむように目を細めた。
「このタコ焼きってのもそうだけどよ、俺様のいた世界と馴染みのあるもんが意外と転がってやがる。ふーむ、あっちの知識を上手いことして儲け話にでも使えんかね……」
「おっと、そういった話ならいつでも相談に乗らせてもらうぜ?」
興味津々といった声を返すフォルテだけど、どのみち今は手元不如意でな、と苦笑交じりにひらひら片手を振ったレナードさんの冗談だったらしい。
「こいつの整備にそこそこ突っ込んじまったしな。だが、一方的な施しに甘えるってのは大人のすることじゃねえだろ? 戻ってくる前に少しは懐を暖めておきてえのよ」
コートの上から銃を仕舞っている辺りを撫でて、ほんの少し眉を寄せた困り顔に笑みを滲ませる。その優しい眼差しの先が見えてしまったのは俺だけじゃなく、アメルも同じだったんだろう。旦那の武器も中々面白いよな、と興味を示したフォルテに顔を綻ばせたレナードさんが、グリップの塗装を変えたんだとか錆落としの薬剤がイマイチでとか本格的に話し込み始めてしまった傍ら、溶けたバターが染み込んで濃い黄色に染まったジャガイモを見下ろしながら小さく呟いた。
「……これも一緒に食べたかったな」
「それって、タキツと?」
無意識にこぼれ落ちたような声を思わず拾って返してしまえば誤魔化すように笑ったアメルだけど、それ以上は言葉を続けなかった。だから俺もそこで聞くのを止めたけど、多分、祭が始まる前からアメルはずっと何かに付けては連想して思い返していたんだろう。初めてケルマと戦った時のこと、ミニスと友達になった日のこと、一緒にピクニックに出かけたフロト湿原でのことや前にファナンで過ごした日々のこと、そこにいたもう一人のことを。
始まりは燃え盛る村から逃げ出すため、なし崩しに始まった俺たちとの旅だったけど、その中でアメルは少しずつ変わっていった。アメル自身やロッカが時々こぼす言葉からそれを教えてもらった俺だけど、村を出てから初めて知ることばかりだったアメルにとって、これまでの日々がどれだけ大きな刺激と変化に満ちたものだったのか。新しく馴染んでいった日々がどんな意味を持っていたのか、鮮やかで大切な思い出に繋がっていったのか、否応なしに想像してしまう。きっとそれは見聞の旅に出ることで派閥の外へと踏み出した俺と同じ、いや、それ以上の不安と期待に満ちたものだったはずだ。そこで出会った人たちや遭遇した出来事がどれだけ深く心に刻まれたのか、今の自分を形作るものになっているのか、どうして分からないはずもない。アメルもきっと俺やミニスと同じなんだろう、と膨れ上がる共感と衝動のままに顔を上げて口を開こうとして俺は、息を止めた。
大勢の人が行き交う通りの向こう、路地に入る曲がり角。一瞬視界を掠めたその横顔。夜風を受けて背中になびいた、栗色に近い焦げ茶の髪。
「っごめん! ちょっと用事が出来た!」
手に持っていた物をフォルテに押し付けて、無我夢中で人混みの中へと飛び込んでいた。流れに逆らって強引に人波を掻き分け、やっと辿り着いた反対側の通路際。迷わず路地へと飛び込んで、脇目も振らずに駆け出している。そんな俺を呆気に取られたように眺めていたフォルテが苦笑に息をこぼしたことも、アメルがかすかに眉尻を下げて寂しそうに笑ったことも気づかないまま、心臓の鼓動に急かされるままひたすら足を動かしていた。
「仕方ねえなぁ……大方、見つけでもしたんだろうな」
「あの様子ですもんね。それじゃ、ネスティさんのお土産はこっちで決めちゃいましょうか?」
そんな会話があったことも知らずに、俺は息を切らして遠目に見えた人影を追いかけていた。ほんの一瞬、雑踏の向こうに覗いた横顔は俺の知るものとは変わっていた。うっすらと化粧をして、柔らかい笑みに綻んで、格好だって髪型だって全然違う。なのに、それでも分かった。疑いなんて一片も差し挟む余地はなかった。思考なんて後回しに直感だけを握りしめて、必死になってその背中を追っていた。
大通りに繋がる路地だけあって混み合っていたのは最初だけで、通りを抜けた先が水道橋通りの広場だったことに気が付いたところで俺はやっと足を止めた。大通りから離れているせいで屋台の数や人影もそこまで多くないけれど、ここもいくつかの路地に繋がっている。金の派閥や富裕層の住宅街に向かって伸びる道もあれば、潮風の吹き抜ける波止場や海沿いの通りにそのまま繋がる道もあるから、ここで正反対の方向に向かってしまえばそこまでだ。一体どっちへ、と左右に目を走らせながら顎の汗を乱雑に拭ったけれど、まだツキには見放されていなかったらしい。
「マグナじゃないか。どうしたんだい、こんなところで?」
「シャムロック! こっちに誰か来なかったか!?」
金の派閥での会議帰りだったらしいシャムロックは俺の剣幕に目を丸くしたけれど、事情を説明すれば頷いてくれるのはすぐだった。今は敵に回ってしまった、ビーニャの護衛獣に戻ってしまった相手に会いたいだなんて相当無茶を言っている自覚はあったけど、フォルテが何か説明していたんだろうか。静かな面持ちで俺の話に耳を傾けると、それなら私の来た方向ではないはずだ、と迷わず海辺に繋がる路地へと足を踏み入れる。そこまで付き合ってもらうのは、と慌てて呼び止めようとした俺を横目で振り返って、シャムロックは腰に下げた剣の鞘を軽く叩きながらかすかな笑みを浮かべてみせた。
「念のため帯剣もしてきたからね。その様子だと君は丸腰のようだし、いくら祭の最中で警備も厳しくなっているとはいえ、一人では危ないだろう。私でよければ付き合うよ」
あまり治安のよくない裏路地にも繋がっているから、と付け加えながら先に立って歩き出したシャムロックの足取りは慣れたものだった。聞けば、トライドラの祭でも警備として回ったことがあるから何となく路地の構造が分かるのと、前に少しだけ護衛の任務でファナンの町を歩いたことがあるらしい。さっきは人混みを避けてわざと人気のない路地を通ってきたんだと苦笑交じりに教えてくれたシャムロックに思わず頬が緩みそうになったところだ。
「少しずつ食べれば大丈夫ですよ、ほら」
一歩踏み出そうとしていた足が勝手に止まった。別の路地に繋がる十字路、曲がり角の向こうから声が聞こえた。古ぼけた街灯がひとつきり、それでも俺たちの歩いてきた路地よりはいくらか広くベンチも置いてある、幅広な通りに誰かがいる。高い石壁と建物の陰で一段と暗がりになっているこちらとは逆に、空からの月明かりを受けて石畳もほの白く光っているようなそこには二つの人影があった。仲睦まじく寄り添って笑い合う、貴族のような服装の少女とその侍女のような佇まいの女性。まるで一枚の絵みたいに穏やかに完成している二人の姿を、俺は食い入るように見つめている。
「本当にナチは過保護よねぇ」
「ふふ、ビーニャ様がそれを許してくれるので」
甘えちゃってます、と照れたように頬を染めて笑うそれが誰か、知っていた。見たことも無いような笑みを浮かべて、嬉しそうに楽しそうに少女の傍に寄り添っている、彼女の名前を知っていた。浮かべる微笑みも眼差しも俺の知らない愛おしさと慈しみに満ちたものだったとしても、俺は確かに知っていた。隣から伝わってくる困惑と動揺の気配を気遣う余裕もなく、ただ、痛みを覚えるほど見開いた目にその光景を映す。目の前の現実を突き付けられるまま、声も忘れて立ち尽くす。さて、と静かな声が、不意に俺の鼓膜を打った。
「私たちに御用のある方は一体、どなた様でしょう?」
月明かりの下、するりと持ち上げられた視線がこちらを見る。冷えた輝きを宿したハシバミ色を前に、知らず俺の足は動いていた。
シャムロックさんをちょっと贔屓してるけど女子勢はもっと贔屓してますね。ミニス夢だったらハッピーエンドだった気がする。