一瞬の浮遊感、気が付いた時には乾いた石張りの床に立っていた。
召喚時の魔力の余波だろう、舞い上がった粉塵や土煙で霞んだ視界が少しずつ晴れていくにつれ、どこか見覚えのある景色がゆっくりと浮かび上がっていく。
年季の入ったくすんだ石造りの壁、無骨な敷石が部屋全体で階段のように詰まれた床。その上段へと視線を滑らせれば、金枠に縁取られた大きな窓がふたつ。曇りガラスのようなものが嵌め込まれたその奥にぼんやりと人影が滲む。部屋の中央にある踊り場めいた場所には魔法陣らしきものが描かれ、スライムのような不定形の生き物も何体か。そして私のいる最下段の床近くには、見た目からして成人前だろう若い男性が一人。
光源がどこにあるかは分からないものの、部屋全体が薄明るいことは幸いとして、息が詰まりそうな閉塞感と圧迫感に満ち溢れたこの場所がどこなのか。考えるまでもなく分かった。主人公が属する組織としては大分アンダーな雰囲気だったこともあり、ゲーム最序盤だというのに印象深く覚えている場所だ。認めたくはないけれどここまで来たなら仕方がない、腹を括って目の前の現実を受け入れるとしよう。ここは、この場所は、主人公が召喚師の見習い試験を受けた会場だ。
不自然に目を背けていた現実を観念して受け入れると同時、ずんと胸を重くする憂鬱に気分が真っ逆さまに沈むのを感じながら、私は呆然と突っ立っている青年の元へと足早に近寄った。柔らかそうな紫紺の髪は少し外に跳ねていて、すくすく育ったらしい恵まれた体躯とは裏腹に幼い印象の顔つきをしている。見るからに男だし、どうやらこの物語の主人公はマグナらしいと見当を付けつつ、柔らかく目を細める。
「あ、成功……なのか?」
「で?」
「へ?」
独り言めいた呟きに間髪入れず疑問を突き返せば、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔してマグナは大きく瞬いた。
「私は召喚されたんだろう? それで一体、何をすればいいんだ?」
「あ、あいつらを倒せばいいんだけど」
困惑を絵に描いたような戸惑い顔と躊躇う声に、イオスくんの口調に寄せた甲斐があったな、と内心息を緩めながら視線だけで斜め後ろを振り返る。そこにいたのは三体のスライムで、青や紫がかった体をぶるぶると震わせながら居心地悪そうに佇んでいた。ああ、目が合った。と思いきや蛇に睨まれた蛙のように竦み上がったスライムを不思議に思うも、腰に下げていた刀が視界に入って納得する。そうか、それは確かにもっともな反応だ。
「ふぅん……それはつまり、殺せばいい? それとも殺さない方が?」
「殺す!? 何を言って……というか君、いったい」
「どっちにするか、早く教えてくれないか? 殺すのか、殺さないのか。さあ、選んで」
咄嗟にイオスの真似をしたのは、何もふざけたわけじゃない。最初の印象はとても大きく、召喚主と召喚獣という上下関係に楔を打ち込むにはこのタイミングしかなかったからだ。後々のことを思えばここで従順すぎても反発しすぎても上手くない。会話の主導権を完全には渡さずに、けれど意思決定はマグナに任せる。そのためにも少し強気なくらいの物言いがいいだろうと判断した私は、出来る限り冷淡な口調で言い放った。
本当は、この時点で召喚獣としては大分失格寄りの言動だ。不本意だろうと召喚された以上は召喚主に敬い傅くのが召喚獣というもので、おまけにここは召喚師の総本山ともいえる蒼の派閥本部、もし召喚師に害意を持つ獣と見なされれば抵抗の間もなく処分されるだろう。それでもなお賭けに出たのは正直、ただの意地だった。
だって、私の召喚主はビーニャだ。私が護衛獣をなると決めたのはビーニャに対してであって、間違ってもマグナなんかじゃない。一刻も早くこの不測の事態を切り抜けて、何より大事なビーニャの元へ帰らなくちゃならないのだ。
「殺さない! 倒すだけだ、殺しちゃだめだ!」
そんな物思いに耽ったのも束の間、弾かれたようにマグナが声を上げた。判断が遅い、とイオスなら苦言を呈しそうだけど、生死の境をさ迷うような戦場に出たこともないマグナなら仕方がないところだろう。まあ及第点か、と上から目線で採点をしつつ我ながら無防備すぎる足取りでスライムへ近づいていけば、慌てたような声が背中に追い縋ってきた。
「な、あぶな……!」
「少し、黙って」
召喚獣が主に対して命令形というのはさすがに不味い気がして、出来るだけ柔らかい口調を意識しながら短く返す。ひとつ息を吸い込んで、今にも戦闘体勢に入ろうとしている青色のスライムの前に緩慢な動きで座り込んだ。片膝を突き、視線を合わせ、スライムの気持ちに思いを馳せる。鞘に収まったままの刀を静かに傍らに置くと、開いた両手のひらを見せつけるように晒して、にっこりと微笑んだ。
「大丈夫、痛いことも怖いことも何もしないよ。このとおり、武器なんて向けないから。君たちもこの場は収めてくれないかな」
この世界に来てからすっかり馴染んだ殺気や敵意は微塵も出さず、友好の眼差しでスライムたちを見つめる。召喚主から戦うように指示されているんだろうけど、戦闘意欲の欠片もなく笑いかけてくる私の姿にスライムは困ったように身を震わせた。攻撃するかしまいか迷っている、それは近くの青色のスライム二体だけでなく奥に構えた紫色のスライムも同じのようだ。こうしてみると黒々とした瞳はつぶらで中々に愛嬌がある。可愛いと素直に思ったところで、ちらりと目配せをするように紫色のスライムが視線の先を動かした。何となしに先を追ってみれば予想どおり、窓の向こうでこちらを眺めている、遠目にもふくよかな体つきをした金髪の中年男性の姿。つまり、と召喚主が誰だかの確信をいよいよ深めた私は笑みを深めて、スライム相手に囁くように話し掛けた。
「……ちゃんと、メイトルパに返してあげるから、ね?」
優しく甘やかな、慈しみに満ちた声。アメルあたりは得意だろうなと想像しながら私なりに成り切ってみたのが功を奏してか、青色のスライム二体はふっと私の目の前で平たくなった。伏せをした犬のような、首を垂れた人間のような、その姿からは戦意など欠片も認められない。マグナにもそれが見えたのだろう、後方から息を呑む音がする。奥にいた紫色のスライムもその場で平たくなっていることを確認して、膝を払って立ち上がった私はマグナに向かって声を掛けた。
「終わったぞ」
「あ、え、えええ?」
わたわたと挙動不審な動きをしているマグナに嘆息する私の足元、いつの間にか近寄ってきていたスライムの一体が呆れるようにぶるりと身体を波打たせた。
「そういったわけで、私の事情は理解して頂けたかな?」
試験会場からマグナの部屋へと場を移して、待ちに待った事情説明の時間を貰えた私はひとしきり話をし終えたところで言葉を切った。にっこりと三日月を描いた唇とは裏腹に目は笑っていない自覚があるけれど、その意図はマグナにも正しく伝わったらしい。ベッドに腰掛ける私、足元でうごうごと小刻みに揺れている紫色のスライム、床に正座して身を縮こまらせているマグナ。この場の力関係が一目で分かる光景だ。こうして今後のための話し合いがまさに今、行われているところだった。
「その、本当に悪かったよ……まさか二重召喚しちゃってたなんて、俺、全然気づかなくって」
しょんぼりと肩を落としてすまなそうに項垂れるマグナに悪意はなかった。二重召喚、ギャミングと呼ばれるそれは術者の魔力量が強大であることを前提にして初めて生じる、既に召喚された対象への所有権の上書きだ。マグナはそもそも鬼妖界シルターンに通じる赤いサモナイト石を握って召喚に挑んだらしいけど、一段落して握り締めていた手を開いてみれば透明な輝きを宿した誓約済みのサモナイト石があったらしい。そう、私との誓約が刻まれた無属性のサモナイト石だ。
魔力を高圧で凝縮すると大気中や地中にも偏在する四界の魔力が弾き出されて無色の輝きになる、という推論があるらしいが、詳しいことは未だ判明していない現象らしい。暴走召喚とはまた違った仕組みらしいそれは狙って引き起こせるものではなく、面識すらなかった私をマグナが意図的に呼ぶはずもないので、今回のことは純粋な事故だったと言える。私とビーニャの誓約が不完全だったこと、召喚時のマグナの意気込みが高すぎたこと。そうした複数の要因が絡んでの結果になるが、召喚獣側である私の同意など一切ナシに強引に誓約を上書きしてしまったマグナの潜在能力は如何ほどなのか。その絶大な魔力を以て運命さえ調律すると言われたロウラーの末裔というのも納得の凄まじさで、こうもあっさり悪魔であるビーニャとの誓約をも上回っていったマグナに少しばかり畏怖めいたものを覚えつつ、私は組んだ足先をぶらりと揺らした。
「まったく。仮にも召喚師だろうに、よく言うな」
「うっ、そうは言ってもまだ見習いだし……俺としては君の落ち着きようの方が正直意外だよ。主人が召喚師だからって、まさか、君まで召喚術に詳しいなんてさ……」
「マスターの側にいるのに要求されるラインが高かったんだ。私にとっても唯一無二の、大事なマスターだから」
召喚術やら武術やら、レイムに課される鬼のようなノルマをこなしてなお修練に励んでいたのは単に生き延びるためでなく、ビーニャの傍に胸を張って立ち続けるためだった。それがこんな形で功を奏するとは思ってもみなかったけれど、マグナの護衛獣として今後のストーリーに関わっていくなら有用であることに違いない。まだマグナには見せていない戦闘の腕を思い返しながら腰の刀を、それから足元で不思議そうに伸び上がる紫色のスライムを見下ろして、私は物憂げに目を伏せた。
初めてのオネダリで試験場にいたスライムのサモナイト石を譲り受けて貰った後、マグナの部屋で早速、スライムたちをメイトルパへと送還した。あんな弱さでしかないのを戦闘に出すのは非効率だし、あまりに哀れというものだ。そういった、いかにもな理由を添えてマグナの袖を引きつつお願い事を口にした私に、マグナは意表を突かれたような顔をして、合格したマグナを労りに来ていたラウル師範は穏やかな笑みを浮かべた。
「よかったのぉ、マグナ。なかなかに優しい心を持った子ではないか」
にこにこと温和な笑みを深めてマグナの肩を叩いたラウル師範は、その流れでフリップからスライムとの誓約を結んだサモナイト石を譲って貰うと、あっさり私に渡してくれた。マグナを経由して受け取った緑色のサモナイト石は小指の先ほどの大きさで、ころりと手のひらに転がせば薄闇に淡い陽だまりのような光を放つ。何となしにビーニャの笑顔を連想しながらその感触を確かめるように握り締めたそこで、やっと我に返ったマグナがあれこれ尋ねてきたこともあって早々に移動したわけだ。
俺も聞きたいことがあるんだけど、とか、サモナイト石の扱いを知ってるのか、とか、息も忘れる勢いで矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきたマグナをやんわり制して、ひとまず部屋にと促したのは良い判断だっただろう。廊下でばったり行き会った兄弟子ネスティへの返事も上の空に、期待以上の急ぎ足でマグナは自分の部屋へと案内してくれた。自分で言うのもなんだけれど、なにせ召喚されていきなり敵を殺すか殺さないかなんて聞いてくる物騒かつ胡乱な召喚獣だ。好奇心も警戒心も大いにくすぐられたところに先ほどのオネダリもあって、山ほどの疑問関心が込み上げていたのだろう。まあ、そうやって興味のままに事情を掘り下げた結果が、目の前での自発的な正座なのだけど。
「……悪いね、これは八つ当たりだ。それでも私から君への好感度は限りなく低いし、親しみも正直言ってあまりない。だが、見聞の旅にはしっかり付いていくさ。仮にも召喚主を守らない召喚獣なんていないものな?」
「うっ……かなり手厳しい……」
「それはまあね。ああ、だけど途中で私のマスターを発見した時にはそこで解放してくれよ」
慰めのためか伸ばされかけていた手が引っ込むのを視界の端に、淡々と言い切った私は顔を上げて据わった目でマグナを見た。泣いているのかと気遣ってくれたらしいマグナには悪いがが、そんな一銭にもならない気遣いより欲しいのは約束だ。気圧されたように首を縦に振ったマグナを見て、よし、と内心ガッツポーズを決めた私は足元のスライムを腕に抱え上げてこっそりとほくそ笑んだ。すんなり送還されていった他の二体と異なり、この紫色のスライムはなぜか送還を嫌がって私の傍に残ってくれた変わり者だ。召喚主が別にいてもこうしてサモナイト石ごと正式に譲り受けたなら誓約の解除や結び直しは出来るし、真の名を探し当てられなくてもひとまず呼び名を付けることは出来るけれど、さて、その名前はどうするべきかと思案していれば躊躇いがちな声が掛かった。
「ところで、そろそろ君の名前を教えてくれよ。それと俺のことも君じゃなくって、別の呼び方にしてくれないか?」
「……タキツ、かな。そっちの呼び方は主とかご主人様とか、そういう?」
「かな、って……ひょっとして嘘じゃないよな? あと普通にマグナって呼んでくれればいいんだけど……ご主人様なんてこそばゆいよ」
「姓の方ってだけだよ。名前呼びはマスターだけなんだ。そういったわけで君と名前で呼び合うのも却下かな」
ビーニャの名前は伏せてマスター呼びをした手前、マグナのことまでマスターと呼ぶのはどうにも心地が悪い。不可抗力とは言え、マグナは私を大事なビーニャと引き離してくれた張本人だ。仲良く互いの名前を呼び合うなんて精神衛生上良くないし、と声には出さずに思っていれば、それを察したらしいマグナが溜め息交じりに折れた。じゃあ、主で、と奥歯に物が挟まったような言い方だけど、私にとってはそれで十分だ。スライムを撫でていた片手をおもむろに伸ばして、しょげきって項垂れていた紫紺の頭をかき混ぜながらかすかに声色を和らげた。
「了解したよ、主」
さあ、旅支度を整えよう。派閥前の広場まで出ていけば兄弟子のネスティが待っている。そのまま城下を出て街道を進んでいけば、半日も経たずに野盗に襲われるだろう、波乱万丈な旅の始まりだ。
マグナたちにとっては古く長い因縁と向き合う、私にとってはビーニャと再会するための旅が、こうして始まったのだった。
なるべく短めを意識したい。