「そういえばさァ。結構伸びたわよね、髪?」
前触れもなく振られた声に足元から視線を持ち上げ、首を傾げるように振り返った。召喚した魔獣のうち、比較的小柄な一体の背中に寝そべっているビーニャの口元には薄い笑みが滲んでいる。退屈そうに頬杖をついて軽く足をぱたつかせているけれど、血色の悪い唇をにんまりと緩めて私を見下ろしている瞳は機嫌の良さそうな色合いだ。イオスたちの陣幕を後にして街道を進むこと一時間近く、穏やかな天候と寡黙極まる随行員、そして思い上がりでなければ私が傍に控えていることでビーニャの機嫌は中々の高水準を保っているらしい。
「そうですね。こうしてまとめていればともかく、解くと広がっちゃうのはちょっと邪魔ですけどね」
「え~? ふわふわして気持ちいいし可愛いし、長い方が絶対いいわよ! そのまま伸ばしときなさい!」
「ビーニャ様……そんなふうに言われたら私、嬉しすぎてどんな顔をすればいいか困っちゃうんですけど……」
勝手に緩んでしまう頬を両手の指でぎこちなく押し上げながら視線を迷わせれば、ビーニャが呆れたような溜め息に肩を落として半眼になる。信じられないものを見るような目で、それでもどこか愉快で堪らないとばかり、赤みの増した紫水晶の瞳が私を見た。
「アンタってほんっとう、相変わらずよねぇ」
嘆息交じりに緩んだ声を聞きながら、私はますます頬を熱く染めてしまっている。
スルゼン砦を出て数日、貴族の令嬢とその侍女としてファナンに潜入する手筈となった私とビーニャはデグレア軍と行動を共にしていた。より正確に言えばイオスたち黒の旅団に厄介になっていた形だが、主力である本隊がいざ侵攻を開始する際に恙無く行軍出来るような仕込みとして、どうやらこの頃から少しずつ先遣隊も各所に入り込ませていたらしい。黒の旅団にそれらの人員も合わせて野営を繰り返しながら大平原を進む間、携行品の確認や不測の事態への対処法、貴人の側仕えとしての所作や立ち居振る舞いの最終チェックをイオス直々に受けられたのは願ってもないことだったけど、無害な一般市民を装って潜入するだけの私たちがどうしてファナン到着寸前まで彼らと共にいたのか。これはレイムの指示というよりルヴァイドの采配である面が強かった。
いつどこで癇癪玉を破裂させるか分からない、生きる火薬庫であるビーニャ。その扱いにはローウェン砦の一件に限らず散々に手を焼かされているが、後々の面倒を思えば可能な限り野放しにはしたくない。今は私というレイム公認のお目付け役が付いているものの、それだってビーニャの行動全てを制御出来るわけではないのだ。加えて見た目だけでも可憐に取り繕った今、例えビーニャ自身が大人しくしていようと生存本能と頭の足りない悪漢の方から勝手に目を付け絡んでくる恐れもある。デグレア屈指の召喚師かつ魔獣使いであるビーニャがその程度の輩にどうこうされる筈もないが、野盗に襲われていたご令嬢が手慣れた様子で獰猛極まる魔獣を召喚して相手を返り討ちどころか一方的に蹂躙した、なんて場面をうっかり目撃されてしまえばどうなるか。今はまだ隠密かつ慎重にすべきファナン潜入どころか聖王国への領域侵犯自体、大々的に露見してしまいかねない。レルム村の一件だけなら賊の仕業に誤魔化すことが出来ても、間を置かずに疑わしい事件が積み重なっていけば話も変わるのだからと様々な事情を総合的に勘案した結果、ファナンの町に入る寸前まで黒の旅団による庇護もとい監視下に置くべきという結論に達したらしい。
おかげでビーニャとのんびり散策を楽しめているのだから文句なんてないけれど、と草むらから街道に戻ってきた私はブーツに付いた汚れを土に擦りつけつつ顔を上げた。
頭上に広がる青空はどこまでも晴れやかに澄み渡り、所々にぽつぽつと羊のような綿雲が浮かんでいる。緩やかに伸びる街道の遠くにはファナンの町を囲む城壁や白く光るような水平線が覗いているし、近くへと視線を引き戻せば素朴な黄色や白の花弁を広げた野花が穏やかな風に揺れている。この辺りは特に人通りが多いから定期的に修繕の手が加えられているのか、歩きやすく均された地面は気を抜いてたって転ぶこともなさそうだ。他愛のない話に花を咲かせる私たちの後方には、同じく世話役という体でビーニャに随行するデグレア兵士が数人。余計なものを視界に入れなければいかにも令嬢のお忍び旅行らしいと口元を苦笑に緩めながら、私は一足先に魔獣の背中から飛び降りていたビーニャへと向き直り、その場でくるりと回ってみせた。
「ひとまずお掃除は済みましたが、どうでしょうか? どこかに目立った汚れなどはありませんか?」
「うんうん、返り血のひとつも付いてないし上出来じゃなァい? ま、アタシの護衛獣なんだからこれくらい出来てトーゼンだけど、褒めてあげるゥ!」
満足そうに笑って頷いてくれるビーニャに私もほっと胸を撫で下ろすまま微笑んで、それじゃあ仕上げですね、と淡い緑色に輝くサモナイト石を取り出す。潜入任務に合わせて用意されたせっかくの服を汚すのは気が引けるしと、早々に召喚術の鍛錬に切り替えた判断は正解だった。ボワの沈黙の暖撃で悲鳴もなく焼き焦がされ、手加減無しのダークブリンガーで細切れに切り刻まれ、息も絶え絶えのまま魔獣の餌となった野盗たちは既に原型を留めていない。街道沿いの草きれに飛び散った血液や肉片、僅かに残った彼らの残滓も私の呼び出したメイトルパの水棲亜人、セイレーヌの巻き起こす水流で草原の奥へと押し流されていく。そしてビーニャが自身の魔獣を送還すれば何事もなく元通り、ルヴァイドの懸念は杞憂に終わり平穏で退屈な道中だったことになる。
「お待たせしました、ビーニャ様。それではファナンに参りましょう?」
片足を引いて軽く膝を折っての会釈をひとつ、ビーニャの侍女らしく振る舞う私の両手は震えることなく、軽やかにスカートの裾を摘まんでいた。
ファナン潜入に当たって私の服装を決めてくれたのはイオスだ。こちらに来てから衣類も小物も実用性一辺倒、特段の拘りがないこともあって判断を丸投げしてしまったけど、責任感と意気込み溢れるイオスはそんな事ですら一切手を抜かなかった。注文のひとつも付けなかったというのに、それこそ私の希望にぴったり沿った、お淑やかな侍女らしい格好を僅か数日で見繕ってくれたのだ。
襟元まで覆い隠す清楚なブラウスに品のある淡紫のカーディガン、その上に羽織るローブは深い藍染めの生地に細い銀糸で葡萄蔓のような繊細な模様が縫い付けられていて、群青色がグラデーションを描くマーメイドスカートと磨き抜かれたショートブーツの飴色によく調和している。項近くで緩くお団子にした、いわゆるシニヨンにまとめた髪を飾るのは薄紅色の寒椿の髪留めで、リボンで柔らかな花弁を形作って一輪咲きを模したそれは単品でも上品な雰囲気を漂わせている。襟口や袖口のレース飾りやボタンのデザイン、ローブに緩く垂らした紐飾り、薄化粧に映える口紅の色まで妥協なく選び抜かれたことは素人目に見ても明らかだった。それに、単に落ち着いた装いというだけではない。人魚の尾びれのように裾の広がるスカートは少し長めの膝丈で、いざとなれば走ったり跳んだりにも支障がない具合だとか、いかにも値の張りそうなローブも実は物理攻撃に耐性のある繊維が織り込まれた物なんだとか、ただの侍女でなく護衛獣として傍にいたい私の望みにまで見事に沿っている。
「イオスちゃんの見立てにしては悪くないじゃん」
と、ビーニャも満更でなさそうな顔をするほどの完成度に包まれて、初めて袖を通した時には素直な感嘆の声がこぼれ出たほどだ。ただ、予想を遥かに上回っていたのは服装の仕上がりだけでなく、それを決めるまでの調整もだったと知った時には思わず笑みが固まった。イオスくんの好みなら髪留めは白を選びそうなのに、と何気なくこぼした私に、不本意そうに鼻を鳴らしたイオスは短く答えたのだ。
「ピンクの方が似合うと散々駄々を捏ねられたからな」
その時まで露とも知らなかったけれど、どうやらビーニャの方はそれなりに、私がどんな格好をするのか興味があったらしい。その結果、小物の色やらボタンの位置やら、お人形遊びの延長のようにイオスが決めたことを取り下げさせたり変えさせたりと散々横から口を挟んできたのだと言われて、一体どれだけ手を煩わせてしまったのかと気が遠くなるような錯覚さえ覚えた。今まさに聖王国への侵攻真っただ中にあるデグレア、その中でも精鋭と知られる特務部隊、黒の旅団の副隊長を務めるイオスの仕事は幅広い。マグナたち相手に槍を振るうだけが業務の全てであるはずもなく、本国への報告書やら備品や食料の補充管理、各自の武器の損耗度まで把握しなければならない多忙極まる身だ。ビーニャだけを考えていればいい私とは前提どころか次元が違うのにと、居ても立っても居られずに謝罪と御礼に飛んでいった私を見るイオスは何とも言えない目をしていた。
「本当、イオス君にはお世話になってばかりで……いつか必ず、この恩はお返しします……!」
「いいからこれ以上ビーニャの被害がこちらに及ばないようにしてくれ。戦闘時以外までああも反感を買っていればルヴァイド様でも抑えきれなくなる……自軍に寝首を掻かれるなんて笑えない末路を辿ることになるぞ」
そのイオスとは野営中に、何度か手合わせをした。召喚師相手の立ち回りを鍛えたいイオスと、少しでも実戦の勘を取り戻したい私とで需要が噛み合ったのもあるし、それ以外の情報共有の場としても都合が良かったからだ。魔力の維持訓練も兼ねてダークブリンガーの刀を振るっていた手を止めた私に、分からない振りは止めろ、と訓練用の槍を地面に突き立てながらイオスは睨み付けるように言った。
「用心するのはお前もだ。アイツに敵わないなら代わりにお前を、という卑怯な考えに及ぶ輩が出てもおかしくないんだ。……召喚術が使えようと戦う術があろうと、素の力では男に敵わない。あまり甘い顔をするな」
厳しい警告の裏には細やかな気遣いと心配が滲んでいて、勝手に笑いそうになる顔を堪えきれずに私はつい笑みをこぼした。いくら規律の厳しいデグレア軍といえど、高潔そのものなルヴァイド率いる黒の旅団とそれ以外の兵とでは意識の差が大きい。何かあった時にすぐ対処出来るようにと私とビーニャはルヴァイドたち指揮官近くの陣幕に配置されたけど、警戒の対象がビーニャだけでなく合流した兵でもあることには気が付いていた。
戦争に性暴力は付き物、その対象が敵国の人間になるか自国の人間になるかで敷居の高さは多少変わるだろうが、女日照りの軍に長らく身を置いていればいつ魔が差したっておかしくはない。彼らだって選択の自由がない結果だろうしと、ビーニャが対象にならない限り静観の構えを取るつもりだった私を見抜いたかのように、イオスはますます眉を吊り上げた。
「風紀を乱すような輩を見逃しては軍全体の士気に関わってくるんだ、お前では対処に迷うと言うなら逐一報告しろ!」
「うーん。でも急に抱きつかれたり噛みつかれたりとかしてませんし……」
「獣か? ともあれ、長々と手に触れたり意味もなく髪に触れるような輩を野放しにするな。お前がどうあれ、見ていて僕が不愉快だ」
余計な騒動を起こすな、僕を当てにするな、と散々言っている割にイオスは面倒見がいい。黒の旅団に戦力として組み込むには私の技能は偏っているとレイムは評したけれど、少しでも彼らの力になりたくなってしまうのはこういう時だ。同じ陣営とはいえ私はデグレアどころかリィンバウムの人間ですらない、ビーニャの護衛獣でしかない存在だと知っているのに、ルヴァイドもイオスも当然のように女性として気遣って紳士的に接してくれる。そんな彼らに戦場以外でまで面倒を掛けるのは出来るだけ、避けたかった。今のところあからさまな目で見たり妙な触り方をしてくる兵は少ないし、行動を共にするのもファナンに入るまで、そして何より、一兵卒である彼らを近々待ち受けているのは逃れ得ない死だ。いずれ圧倒的な絶望に心折られ命を失うと知っている彼らに対して何も告げず、助けようとすらしない私に、はたして何か言えた義理があるのだろうか?
それに、と躊躇いがちに視線を持ち上げながら私は本心からの言葉を返した。
「ビーニャ様が本気になってしまったら、私ではとても止められないと思いますが……」
「この期に及んで何を言ってるんだ、お前は」
だけどそんな訴えを一蹴して、イオスは同意でも求めるように待機中だったゼルフィルドを横目で見る。ゼルフィルドもイオスと同じ考えだったのか、困惑仕切りの私を一人残して無言で頭部を縦に振る。すっかり置いてきぼりの私が疑問符を浮かべて見上げる先、隠しもしない呆れ顔でイオスは言い切るのだった。
「誰から見ても、アレはお前に甘いだろうが」
さて、そんなことをどうして今になって思い出したのだろうか。無意識にイオスを頼りにしてしまっている深層心理の現れだとしたら、私は自覚するよりずっと彼らに甘えているのかもしれない。
いけないな、と自省を込めて息を吐きつつ、ヘアブラシ片手に梳いていたビーニャの髪を緩やかにまとめて、左右の耳の下辺りでバランスよく結び直す。もう少しきつめに結べばツインテールも出来なくはないけれど、窮屈なのはイヤだと言うビーニャの希望に沿っての二つ結びだった。椅子に腰かけて丸い靴先を揺らしていたビーニャが鏡を覗き込み、いいじゃない、と満足そうに息を緩めてちょんと毛先に触れる。普段の貴族らしい派手な色調の装いも似合っているけれど、レースやフリルをあしらって可憐ながらに落ち着いた雰囲気のワンピースもまた似合っていて、血色を良くするための白粉くらいでお化粧を済ませてしまったのが惜しまれる。目立っちゃ拙いんだからそりゃそーでしょ、とイオスのような呆れ顔を浮かべていたビーニャだけど、せめてその髪を彩るリボンや髪紐だけでも揃えさせて欲しいと私が頼み込んだことを覚えていてくれたのか。部屋の窓から身を乗り出すようにして外を見下ろしながら、そうだ、とさも名案を思い付いたように笑った。
「祭りの日まで待機なんて暇すぎだし、後で買い物にでも出ましょ! 良さそうなお店に案内して頂戴よね?」
「そうですねぇ。もうじき頼んだケーキも届くはずですし、お茶でもしながら相談いたしましょうか」
無邪気な笑みへと微笑みを返して立ち上がる私の背後、タイミングを読んだように響いたノック音に動きを止めながら、私はもう一度イオスの声を思い出す。
ファナン滞在中の宿を決めるのに迷うことはなかった。金の派閥や大通りといった市街地からいくらか離れた海沿いの小さな宿、そこを使うようにと初めから指示が出ていたからだ。海沿いとは言っても銀砂の浜とは反対側、クローネ洞窟へと続く寂れた通り沿いにある宿は見るからに年季の入った外観だったものの、その実、ビーニャの機嫌を損なわない程度に快適かつ清潔感と高級感を併せ持った宿だった。思えば近くに色街や裏路地の広がる一帯、長期漁から帰ってきた船乗りや景気のいい海賊の他にも訳アリの客が多く訪れることを前提とした場所だ。足を延ばすのも精一杯の安宿と貴族御用達の最高級設備とサービスを誇る宿が隣接していても不自然ではないし、強烈な陽射しと潮風に晒されて傷み切った外壁の修理すらままならない安宿を装った高級宿が存在していようがおかしくはない。加えて、公に出来ない事情や後ろ暗い身の上を持つ流れ者でも懐深く受け入れる港町の性質だろうか。寛容さとも無関心さとも言い換えられる混沌に満ちたその宿は、だからこそデグレア兵にとっても使い勝手が良かったのだろう。決まりきった手続きと前払いでの清算を済ませ、世話役として隣室に控える兵と今後の段取りを話していた時のことだ。
「上手くやったもんですね、あんたも」
頭上から降ってきた言葉の意味を咄嗟に理解出来なかったくらいには気が抜けていた。ファナンで集めた情報を黒の旅団ひいては本国へと伝達するのが私とビーニャの任務だけど、実際に街中や酒場で情報を収集するのは潜伏する兵たちだ。もう少ししたらレイムと一緒に虚偽の風説あるいは真実の吹聴も担うのだろうけど、それも私たちの関知するところじゃない。マグナたちに顔が割れている以上、物見遊山の観光客として出歩く程度ならまだしも、表立って動き回るのは明らかに好ましくないからだ。到着早々、ファナンで人気のケーキを食べてみたいと騒ぎ始めたビーニャのためにお使いを頼んだのもその一環、その程度のことは随行員である兵も理解していないはずがない。なのにこの皮肉めいた言い方はなんだろう、と訝しみながら顔を上げて、知っている顔だと気が付いた私へと、憎しみと呆れの同居する目で見下ろしていた彼は低く吐き捨てるように言った。
「あのお嬢様に取り入って、澄ました顔で害虫も潰して、普通の神経じゃ到底出来っこありませんよ。つくづく尊敬しちまうな。そのくせただの女みたいにヘラヘラ笑って……そういう図太いところが気に入られたんですかね?」
「……どうでしょうね。お嬢様の侍女として為すべきことをしているだけですよ」
青みを帯びた黒髪に曇天の空に似た瞳。先遣隊の一人としてデグレア本国から合流した兵で、イオスが言うような妙な触れ方をしてくる相手だった。イオスたち黒の旅団兵のこともビーニャたち召喚師のことも良く思っていない彼はおそらく、特別な役割を与えられた者への嫉妬があるのだろう。鬱憤の捌け口というより悪意を突き付けるためにわざとらしく触れてくる彼のことは覚えていたけれど、先遣隊からたった数名徴収されるビーニャの随行員に入るとは思っていなかった。そして、こうやって面と向かって声を掛けられるまで、その存在を思い出しすらしていなかった。
こういった見通しの甘さがイオスに呆れられる原因かも、と他人事のように思っていると、その手が無遠慮に伸びてくる。
「そうですか、でもあまり無理はしないで下さいよ。……あんたが調子を崩しでもしたら、お嬢様の機嫌が悪くなるからな」
気遣うような言葉に合わせて頭に触れた手が髪をなぞって滑り落ち、粘つくような緩慢さで首元から肩先へと動いていく。これ見よがしな重さを込めて、骨の形を確かめるような圧を掛けて、私を脅かそうとしている彼に何を返すべきなのか。受容と拒絶のどちらを示せばいいものか。黙って深く目を伏せた私に分かるのはただ、彼の苛立ちの先がビーニャに向かわなくてよかった、ということだった。
ともあれ、だ。どれだけ衝撃的なことが起きようと、人間、喉元過ぎれば熱さを忘れる。どんなに反感を買いやっかみを受けようともビーニャに被害が及ばなければ詰まるところ問題なし、事前の心構えと覚悟さえあれば堪えられないことの方が滅多にない。半ば開き直りの境地でそうした考えに至りつつ初日の反省を大いに活かした結果、ビーニャの機嫌を大幅に損なうことも彼に足元を掬われることもなく、ファナンでの日々は概ね順調に過ぎていった。
ビーニャの希望どおり、買い物や食べ歩きで昼の街中を何度か連れ立って歩いたし、思うところのある彼とも任務の都合で街を巡ることがあったけど、未だマグナたちとは顔を合わせることなく済んでいる。それだけ用心して立ち回っていたのは否定しないけど、何より徹底したのは、外では決して不用意に足を止めないことだ。遠目で一瞬見るだけなら気のせいで済んでも時間を掛けて観察されれば必然確信に近づくし、そうした警戒はマグナたちだけじゃなくビーニャや彼に対しても同じことだった。
私の行動に、不審や疑念を抱かせてはならない。
マグナたちに思い入れや心残りがあるような素振りを見せたらどうなるか、それを思うだけで身が引き締まるような思いだった。緊張の糸をぴんと張り詰めて、そうと気取られないよう細心の注意を払って、それでも呆れて笑い出したくなるような偶然は至る所に転がっている。たまたま一人で出かけた時に足元に飛んできた紙切れが子供がするようなお使いのメモで、顔を上げたすぐ先に泣きそうな顔で狼狽えているユエルを見つけた時には内心、苦笑がこぼれ出た。
「ありがとう! ユエル、これがないとお使いできなくて困るとこだったんだ」
「ふふ、もう落とさないように気を付けて下さいね」
青い耳をぴんと立てて嬉しそうに破顔したユエルがぶんぶん尻尾と手を振りながら去っていく。その無邪気な姿には私も手を振り返しつつ顔を綻ばせてしまった。実のところ、ユエルのような存在を獣人ではなく亜人と呼ぶのだと知ったのはつい最近だ。ビーニャには何度かメイトルパの術を教えてもらう機会があったけれど、どうしても感覚型なのと悪魔よりの知識になるからだろう。リィンバウムの召喚師としては偏りのある知識や学び方になっているきらいがあった。それでも、ビーニャに分け与えられた知識や技術だと思うだけで胸に火が灯るような喜びを覚えてしまうのだから仕方がない。この時だって感慨に浸ったのはほんの束の間、ビーニャに心配を掛けないように早々に踵を返して宿へと戻った私だけど、一度だけ、長々と足を止めて見入ってしまった場面があった。
前夜祭の始まる夕方過ぎ、立ち並んだ警備兵と鮮やかな黄色と赤のテープで仕切られた中央大通りの広場。召喚術の模擬演習という名目で、けれど実態はミニスとケルマの決闘だと一目で分かる激しさでぶつかり合うマグナたちを、群衆の中から眺めていた。たった一呼吸の間に練り上げられていく魔力の眩しさと、それぞれの構える武器から繰り出される洗練された技の数々、余裕や貫禄さえ感じさせる彼らの佇まいをひどく懐かしい気持ちで見つめていた。
ネスティの召喚したウインゲイルがごく限られた範囲に突風を吹きつければ、体勢を崩したウォーデン兵の足元へと間髪入れずにレナードの銃弾が撃ち込まれる。隙が生じた一瞬を逃さずにロッカが間合いに飛び込み槍を振るえば、将棋倒しのように複数の兵士が倒れ込み、畳み掛けるようにミニスの呼んだローレライがアクアトルネードを放つ。他の兵が動揺から立ち直る前に駆け込もうとしたフォルテとマグナへと、対抗するように鉄扇を開いたケルマがドライアードを呼び出すのが見えた。複数人を対象に放たれた魅了の術はフォルテの意志を絡め取り、ふらふらと振り上げられた剣の切っ先は味方であるはずのミニスへと向かう。その射程から逃れようと駆け出しながらも、ミニスの強気な瞳はケルマをしっかりと捉えている。
「また魅了ぅ? 自分に魅力がないからって召喚術で補うのはどうかと思うわよ!?」
「魅力の欠片もないチビジャリがっ! 補うのじゃありませんわ、魅力あるもの同士、互いを高めあってるのだと気づきなさいっ!」
二人が舌戦を交えている間にネスの召喚したルニアがフォルテを正気に戻すけれど、バツが悪そうな顔のフォルテにケイナは白けた目を向けている。さっき魅了に掛かったカザミネに冷えた微笑みを浮かべていたカイナもだけれど、本人たちにとっては笑い事じゃないだろうに何だか笑みが誘われてしまうのが魅了の術の恐ろしいところだ。ケルマと初めて戦った時には召喚師のマグナまであっさり術中に嵌っていたことをしみじみ振り返りながら、たった今、何事もなかったように薄桃色の霧を抜けて剣を振るったマグナへと目を細めた。いつの間にかあの頃とは比べ物にならないほど強くなった背中を見つめて、込み上げる感慨に息をこぼす。
「……いつの間にか、こんなに強くなっていたんですね」
ゲームどおりに、マグナたちがトライドラから脱出出来たことは知っていた。ビーニャが可笑しそうに語ってくれた話からすると、あのキュラー相手にかなりの善戦を見せたらしい。とは言ってもマグナたちの相手はキュラーにとってあくまで二の次、ガレアノと共に悪鬼憑きや屍人兵と化した住民を連れて行くのが本命の仕事だったことを思えば決して楽観視は出来ないけれど、本編では澄まし顔を崩しもしなかったキュラーに一泡吹かせることが出来たならそこにはきっと意味がある。何かと気の利くレイムがより召喚術の威力を高めるための杖や短剣、召喚媒介になるローブや小物の類を用意してくれるデグレア側とは違って、マグナたちが使える術はただでさえ限られているのだ。その上でゲームの流れを少しでも変えるだけの奮戦をしたのならと、祈るように私が見つめる先、ミニスがその手を高々と掲げた。
「お願いっ、シルヴァーナ! ブラストフレア!」
凛と響き渡った声に応えて白銀の飛竜がファナンの空へと舞い上がる。燃えるような夕焼けを背負って放たれた焔弾は一筋の星のように宙を横切り、狙い違わずケルマの元へと降り注ぐ。
召喚術に対し自前の魔力を放って相殺あるいは威力軽減を狙えるのはサモンナイト3の授業でも触れていたし、魔力の扱いが上手くなれば全身に薄いバリアを張るような芸当も出来るそうだけど、さすがにあれだけ凝縮された魔力を相手には焼け石に水だろう。霊界サプレスの術に限ってなら私も大分耐性がある方だけど、それだって所詮は急拵えの代物だ。一方的に召喚術の的にされたり、召喚に成功しなければ死ぬような状態に追い込まれたり、そうしたスパルタ式で身に着けた技法は確かに役立っているけれど、何もかもが付け焼刃でしかない私では到底太刀打ちできないような威力の術を目の当たりにしたからだろうか。何だか勝手に口端が緩んでしまうまま、私は誰へともなく独り言ちた。
これならきっと大丈夫、と。
周囲を警戒するように目を走らせ始めたロッカやリューグに見つかる前に、背中を返して駆け出した私の胸に広がるのは安堵だった。胸に満ちる穏やかさに笑みこぼしながら混雑した路地を抜け、人気のない海辺の通りへと小走りに急ぎながら、その時の私はただひたすらに深い安堵と充足感ばかりを噛みしめていた。問題なんてまだまだ山積みなのに、まるで何の憂いもなくなったような気分だった。
そして豊漁祭の本祭を迎えたその晩、私はビーニャと二人、大勢の人で賑わうファナンの町へと繰り出していた。明日になれば他の観光客に紛れてゼラムへと移動するのだし、今夜はビーニャが多少羽目を外したとしても目をつぶろう。そんな勝手を心に決めて歩く私は普段の侍女らしい姿を少し崩して、いくらか気軽な服装をしていた。年に一度のお祭で賑わう場には夜なのにむせ返るような熱気が漂っていて、下手に品のあるローブでは似つかわしくないし襟元まで覆うブラウスじゃあまりに窮屈がすぎる。一度解いた髪はハーフアップにまとめ直したけれど、気まぐれな潮風が吹き付けるたびに緩やかに波打った髪が翻り、ビーニャがかすかに表情を和らげてくれるのが嬉しかった。
「ビーニャ様、髪を巻き込んでらっしゃいますよ?」
令嬢のお忍び旅行という設定を踏まえても、こうした場であれば様付けを徹底せずとも問題なかったはずだ。けれど随行員のデグレア兵の他にも情報収集の諜報員があちこち散らばっていると思えば、ビーニャの体面を保つためにも口調を崩すわけにはいかない。普段ならそう呼びかけるだけで不満そうな顔をするビーニャだけど、人間の感情が混沌の坩堝と化した場に当てられたのは悪魔としても少女としてもだったようで、すっかりはしゃいだ様子でお祭を楽しんでくれたのは嬉しい誤算だった。見た目相応の無邪気な笑みを浮かべて私の手を引き、あれは、これは、と矢継ぎ早に尋ねる声は弾んでいて、ひょっとして私に出会う前からこうした場に興味があったのかもとさえ思ってしまう。
「だってぇ、フワフワしてると思ったら案外ベタベタするのよ、これ」
眉を寄せて唇を尖らせるビーニャの手に握られているのは綿あめの棒で、あれこれ屋台や出店を見て回ったビーニャがやっと購入を決めた品だった。依代の趣味かどうか、どちらかと言えば甘味より辛味を好んでいる節のあるビーニャだから少し意外だったけれど、可愛らしい少女の外見も相まって顔ほどもある大きさの綿あめがよく似合っている。ぶつぶつと不平を漏らしながらも綿雲のような食感が面白くてならないのか、小さな口で噛みつくように千切り取っている様子に目元を和らげながら、私はその頬についた髪を指先で摘まんで払い落とした。
「少しずつ食べれば大丈夫ですよ、ほら」
大きなお祭だけあって振る舞い酒やジュースの類も惜しみなく配られている。半ば押し付けるように渡された酒のカップを通りのベンチに置くと、ハンカチの角のところを軽く浸してからそっと押さえるようにビーニャの頬を拭った。冷え込みの厳しいデグレアでは野営中でなくても熱い紅茶にウイスキーを垂らして暖を取ることがままあったし、ビーニャもこれくらいなら平気だと知っている。けれど万が一にも肌が荒れないよう、軽く押さえては離すのを繰り返すようにして砂糖のべたつきを拭き取っていると、その顔が堪え切れないような笑みにふと緩んだ。
「本当にナチは過保護よねぇ」
「ふふ、ビーニャ様がそれを許してくれるので」
甘えちゃってます、と冗談交じりに返した声がひどく柔らかなものになった自覚はあった。宿までの距離はあと僅か、治安のいい場所ではないけれどもう何日も通い慣れた道だけあって、今いる場所が比較的安全な路地であることを知っている。街灯もベンチも引き抜かれることなく残っているし、こうしてビーニャと私の二人きりでも絡んでくる輩がいないからだ。それもお祭のために警備が増強された今だけの話だろうけど、ビーニャと過ごす時間さえ穏やかであればそれ以上を望む理由もない。スポットライトのように降り注ぐ月光を浴びながらはにかみ笑いを浮かべた私は、だけどそこで動きを止めた。いくつか交差するように伸びる路地のひとつ、曲がり角の陰から誰かに視線を注がれていると気が付いたからだ。
こちらを良く思わない随行員の彼か、それともビーニャに反感を抱いていた他のデグレア兵か。はたまた仕事熱心なファナンの警備兵か、元々この辺りを根城にしていたゴロツキの可能性だってある。
一瞬で脳裏を駆け巡った想像はどれもあまり喜ばしくなかったけれど、ただ観察するような、というには熱烈過ぎる視線の主がこのまま引き下がるとも思えない。なら、対処にさほど変わりはないと覚悟を決めて立ち上がった私の前、水を差されたとばかりにビーニャも溜め息をこぼした。やんなっちゃうわ、と小声で吐き捨てられた言葉に同意を込めて苦笑をひとつ、毅然と背筋を伸ばして振り返った私は暗がりの奥へと目を細める。
「さて、私たちに御用のある方は一体どなた様でしょう?」
表情を消して声も静かに睨みつけた先、だけどそこから現れたのは予想の全てを裏切る人物だった。
路地の角から人影が二つ現れて、その表情まで見て取れる距離にまで近づいたところで私は思わず眉根を寄せていた。
マグナと、シャムロック。
どうしてこの場にいるかは分からないけれど、二人の浮かべる表情は決して穏やかなものじゃない。ただし、それに呆れを感じてしまうくらいに彼らの装備はお粗末な物だった。シャムロックはまだ帯剣しているからいいとして、祭の最中で気が緩んでいたのか、マグナの腰元には杖や剣どころかサモナイト石を収めているはずのポーチすらない。ファナンに潜入している兵には直接マグナたちへ危害を加えるような命令は下されていないはずだけど、どさくさ紛れに何を狙うかも分からないというのに不用心にも程がある。何より呆れてしまうのは、そんな状態で私たちに接触してきた無謀さだ。
方や丸腰に近いくせ敵意を込めた眼差しを怯みもせず突きつけてくるマグナ、方やレイムから交戦許可が下りていないとはいえ気分次第で暴走しかねないビーニャ。
一体この場をどう収めたらいいのか。想定外が過ぎる展開に正直困り果てていた私に代わり、口を開いたのはビーニャだった。
「せっかく楽しんでたのに……ちょっとは空気を読んでよね、マグナちゃん?」
片手に綿あめを持ったままでもビーニャの漂わせる威圧感は一瞬で場の空気を変えた。まだサモナイト石に触れてすらいないが、ビーニャがその気になればシャムロックが剣を抜いて踏み込むより早く魔力を練り上げ召喚術を発動させるだろう。そう確信させるだけの重厚な魔力の気配に感動すら覚えていれば、対抗するようにマグナが声を張り上げた。
「どうしてお前がここにいるんだ……ビーニャ!?」
「その様子、一体いつからファナンに入り込んでいた……!」
シャムロックが眼光鋭く射殺すようにビーニャを睨み据える。その視線からビーニャを庇おうとさりげなく立ち位置を変えた私に、マグナがどこか腹立たしげに唇を噛んで眉間に深い皺を刻んだ。暗い情念が燃える紫紺の瞳は真っ直ぐ刺し貫くように私を見つめていて、そんな目を向けられる覚えのない私としては困ってしまって眉尻を下げるしかない。いや、確かに憎まれても仕方ないだけのことはしたけれど、私の知っているマグナは誰かにここまで強く憎悪を向けるような人間ではなかったはずだ。
そんなふうに思ってしまえば一層困惑が先立ってしまい、知らずのうちに当惑の表情でも浮かべてしまったのだろうか。マグナの唇がきつく引き結ばれるのが見えた。シャムロックもどこか気遣うような眼差しをマグナに向けたことに、どうかそのまま妙な態度の理由を聞き出してくれないかと内心勝手な応援をしてしまうけれど、ビーニャが呆れ混じりに吐き捨てる方が早かった。
「アタシがどこにいたって関係ないでしょォ? それよりマグナちゃん、勘違いもいい加減にしなよォ?」
猫の子が擦り寄るように身を寄せてきたビーニャの手がぎゅっと私の腰回りに回される。薄手のシャツの上から顔を押し付け抱きついてきたビーニャの意図は分からないものの、とりあえず邪魔だろうと綿あめの棒を預かって首を傾げた私を見るでもなく、ビーニャは息を吐くように笑った。マグナだけを映して見下すように、歪んだ三日月を描いた目でせせら笑う。
「どうしても何も、ナチは元々アタシのなんだから。アタシの傍にいるのが当たり前、アタシと一緒にいるのが普通なの!」
そんな悪辣な笑みを浮かべたとは知る由もない私はビーニャの言葉にただ目を丸くしたけれど、マグナは別の意味で目を見開いたらしい。見たこともないような怖い顔をすると忌々しげに呟いた。
「……だけど、ちゃんとした誓約は結べてないんだろ。俺がこれを持ったままなんだから」
感情を押し殺したような声で低く言い放つと、ポケットに指先を滑り込ませてひとつのサモナイト石を取り出す。きらきらと燐光を放つ透明なサモナイト石は月明かりの下、控えめながらに確かな光を宿している。ああ、私の石だ、と理解するのを待っていたように淡い輝きごと手の内に握り込んで、マグナは固い声色で告げた。
「魔力のパスはまだ途絶えていない。お前がタキツの正当な召喚主だとしても、俺にだって召喚主としての力は残ってる。俺がそうしようと思えば今だって……誓約に、物を言わせることが出来るんだ」
緊張の掠れを帯びた声音には切羽詰まった響きがあって、強張った表情や頑なな瞳を見るまでもなく強硬な姿勢が見て取れた。指の節が浮き上がるほどきつくサモナイト石を握り込んでいるマグナが口を閉ざすのを前に、どうやら、と私は場違いにも思う。
あの時のことをマグナが気に病んでいないか、ずっと心配で気掛かりでならなかった。だけど幸か不幸か、それは私の杞憂に過ぎなかったようだ。
能天気なお調子者で、底抜けのお人好し。ネスティは呆れ交じりに、アメルはどこか嬉しそうにマグナを語っていたけれど、マグナがそれを向ける対象から私は外れたらしい。誓約という言葉で匂わされた手段を思うと、とっくに覚悟は済んでいたはずなのに心臓を握られたような緊張が走った。そしてそれ以上に、肋骨の間を隙間風が通り抜けていったような寂しさがあった。寂しくて悲しくて泣き出したくなるような、場違いな感傷が胸に詰まって仕方がなかった。
だけど、全ては私の自業自得。あの苦痛が蘇ったとしても報いを受けるだけのこと。終わった話だと思っていたそれがマグナの中で続いていたのは意外だったけど、私に対してそこまでの憤りと憎しみを抱いていたなら仕方がない。マグナがそれを望むなら甘んじて受けるしかないのだし、と観念しきって口を開こうとした時だ。
「……はァ?」
地を這うような低い声が、私の胸元で響いた。みしり、と腰回りを抱きしめる小さな手に異様な力が入る。不穏な圧力と膨れ上がる怒気の気配に視線の先を下ろして、思わず息を飲んだ。ひょっとするとマグナの言葉は、あくまで交渉の材料としての発言だったのかもしれない。だけどそれが、今まさにビーニャの逆鱗に触れた。
「なァに言ってんのォ……? アタシの物にちょっかい出して、その上、今から横取りするって宣言のつもり……? キャハハッ、マグナちゃんたら面白いこと言うよねェ~。そんなの、アタシが許すと思う? 見逃してあげるって思う? アタシのナチに手を出して、本気でタダで済むと思ってるワケ……?」
「マグナ、下がって」
「へぇ、さすがは騎士様。仲間のことは絶対守りますって? 我が身を犠牲にしてでも、なーんて健気よねぇ。偉い偉い。でもォ……ちょっと頭は足りてないのかも? そうやってあの時だって何にも守れやしなかったのに、ねぇ?」
マグナを背中に庇うように一歩前に出たシャムロックへと標的を変えて、ビーニャはこれ見よがしな猫撫で声で笑った。粘つく悪意の込められた挑発はこれまで毒気を抜かれたようだったシャムロックの表情を険しいものへと変える。剣の柄に手をかけ、貴様、と煮え滾る怒気を声色に滲ませたシャムロックへと口角を吊り上げ、ビーニャは弾けるような嘲笑をぶつけた。
「キャハハハっ! 勝手に信じて騙されて、みぃんなアタシの魔獣の餌になっちゃったしねェ……? 本当、あそこにいた奴等みんなみーんな馬っ鹿みたい!?」
「貴様ァっ!!」
「シャムロック!?」
激高したシャムロックが剣を抜くなり一直線に詰め寄った。挑発に乗せられている自覚はあっても、ローウェン砦で失った部下をも嘲笑われては我慢しきれなかったのだろう。するりと腕を解いて私から身を離したビーニャが背中を向け、息を吐く。激情に突き動かされながらも迷いなく剣を振りかざしたシャムロックを見上げ、空気を震わせるような怒声を浴びせた。
「……ウザいのよっ!!」
溜めもなく、一瞬で練り上げられた魔力の塊が放たれる。ローウェン砦の時と同じ、召喚術ですらない一撃がまたもや軽々とシャムロックの体躯を跳ね飛ばし、遠く後方の石壁へと吹き飛ばす。あの時とは違って燐光がこぼれるほどの魔力は集まっていなかったし、怒りに呑まれていたとはいえシャムロックにも油断はなかったはずだ。それでも本気になったビーニャには敵わない。マグナを通り越した先の壁に痛烈に背中を打ち付け、今にも崩折れそうな身体を石畳に突き立てた剣を支えに必死に堪えたシャムロックは、傍目にも限界を迎えていた。
「っぐ、クソ……っ!」
「キュラーちゃんに上手いことやったからってアタシにも通用すると思った? ……キャハハハッ! バッカみたーい! アタシはあいつらとは違う、アタシが一番強いんだから! 甘く見ないでよねっ!?」
高らかに笑うビーニャの言うとおり、ビーニャの魔力量は三悪魔の中でも頭ひとつ抜けている。キュラーやガレアノと違って憑依召喚のような搦め手を使わないのもその魔力の強さゆえだ。魔獣を従えているのも元から出来たことでしかないと、いつだか当然のように言っていたことを思い出しながら私はちらりと視線を動かした。
それにしても、シャムロックは随分と深手らしい。悔しげに呻くシャムロックに焦った様子でマグナが駆け寄っているが、先に負った傷が開いてしまったのか、薄暗がりにもその額に赤色が伝い落ちるのが見えた。たった一撃だけでも被害は甚大と言った様子で、私は人知れず眉を寄せて考え込んでしまう。幸いにしてビーニャの溜飲はいくらか下がったようだけど、さて、この後の収集はどう付ければいいものか。
考えあぐねるままビーニャの前で膝を折って目を合わせながら屈み込んだ私は、緩やかに人差し指を立てて声を掛けた。
「ビーニャ様? あまり騒ぎは起こさないようにとのことですし、どうか堪えては頂けませんか?」
「……フンッ」
ファナン潜入中はなるべく目立たず大人しくしているようレイム直々に申し付けられていることを思えば、これ以上の事態は避けたい。困ったように訴えれば、ビーニャは視線を逸らしてそっぽを向いた。あんまり可愛らしい拗ね方に苦笑も緩みそうになるけれど、そんな現実逃避も許しては貰えないらしい。
「タキツ……!」
シャムロックの肩を支えながら切羽詰まった声で呼びかけてくるマグナは、この期に及んでも諦めが付かないようだ。私の意識がそちらに向いたと気が付いたのだろう、うっすら額に青筋を浮かべたビーニャが今にも噛みつき出しそうな気配にどうどうと宥めつつ、私は仕方なしに溜め息を吐いてマグナへと目をやった。しっかりと視線が噛み合って、今にも崩れ落ちそうな紫紺の瞳が私を見る。それを真っ向から受け止めて、いいですよ、と告げた。
「誓約の痛み。使いたければどうぞ、お好きになさって下さい」
あっさり言い放った私に、マグナとビーニャがぎょっと目を見張る。だけど、どのみち私に抗う術などないのだ。それだけマグナが私を恨んでいると言うのなら大人しくされるがままになるしかない。
「使うも使わないも貴方の自由です。例え殺されたって文句を言うつもりはありませんよ。だって私は敵ですし」
もちろん抵抗はしますけど、と付け加えれば、マグナは泣きそうに顔を歪めた。誓約の痛みを匂わせたのは自分なのに、私がそれを受け入れようとすれば苦しそうに瞳を揺らすなんてよっぽど矛盾している。まるで自分で自分を傷つけているような有様が無性に労しくてならず、私は眉尻を下げるまま、宥めるように、慰めるように、淡々と言葉の先を綴った。
「あぁ、誓約の痛みを侮っているわけじゃありませんよ? 龍神をも屈服すると噂に名高いだけはありますね。あんなに痛みのバリエーションがあるなんて知りませんでしたし、勉強にはなりましたけど、正直言ってもう二度と経験したくはありません……もう一度経験したら、さすがに正気でいられる気がしませんし」
「なら!」
「でも、それがどうかしました? 私がビーニャ様に従っているのは命令だからじゃない。ただ、好きだから。傍にいたいから。何があっても離れたくないから。……どんな責め苦を受けようと、例えその先に待つのが死であろうと、この気持ちに嘘はつけません。ですからどうぞ、貴方は貴方の思うがまま、ご自由に」
本心からの素直な気持ちを言葉にしただけなのに、そこまで告げたところでマグナは不自然に押し黙った。泣きそうに瞳を揺らして唇を噛みしめる表情は頑是ない子供のようで、こちらの罪悪感をちくちくと刺激してくる。だからといって頭を撫でて慰めてやるわけにもいかず、私はこぼれ落ちそうになった苦笑を無理矢理に飲み込んだ。誓約の痛みなんて悪辣で非人道的な痛みを盾に取って脅したとは思えないその在り様はいっそ目に眩しいほどで、冬の夜空に輝く星を思わせる。だから、と目を伏せたそこで、独り言ちるようなビーニャの声が響いた。
「……そんなの使ったら、ナチが許したってアタシが許さないんだから」
シャツの裾を掴んで俯きがちに視線を落とすビーニャの髪をゆっくりと撫でつけて、私はいつものように微笑んだ。そう言って貰えるだけで十分過ぎるほど幸せなのに、どうしてビーニャが気に負うことがあるだろう。帰るわよ、と何かを振り切るように言い捨てて私のシャツから腕へと縋りつくように手を回したビーニャの隣、歩き出そうとした時だ。
「ま、待ってくれ! 最後に……っ話をしてくれないか!?」
縋りつくようなその声に思わず足を止めた私とは逆に、ビーニャは分かりやすく顔を歪めた。本当につくづく感心してしまう諦めの悪さだけど、思えばマグナはいつだってそうだった。最後の最後まで諦めない、自覚もないまま粘り切る。絶望の箱の底に残った最後の希望を掴むまで、その瞳は光を失わずに輝いている。そういうところを好ましく思ったし、眩しく感じてしまったのだと、懐かしさと微笑ましさの入り混じった感慨に立ち止まってしまった私は覗き込むようにビーニャを見た。そんな私の反応を察していたのか、苦虫を口いっぱいに詰め込まれたような顔をしたビーニャの反応は早かった。
「イヤよ。絶対にイヤ。そんなのトーゼン、お断りよ!」
「あの、私、まだ何も言っていませんが……」
「ナチは優しいからどうせ話をするとか言うんでしょ? どうしてそこまでするワケ? 意味分かんない! なんでなのよォ!?」
癇癪を起こしたように地団太を踏んで訴えるビーニャだけど、その指摘も最もだ。ここでマグナの話に付き合う道理もなければ必然性だってない。律儀に付き合う義理もなければ、そもそも利益のひとつもないと言うべきか。どうして私と話をすることに拘っているのか分からない以上、その要求を飲んだが最後、何をされるかも分からない相手でしかないのだ。
だから、ビーニャの心配は正しい。私を守ろうとしてくれている、その気持ちは嬉しい。ビーニャの不満も不安も当然で、それでもマグナを放っておきたくないのは私の我儘でしかない。その上で、私は宥めるようにビーニャの名前を呼んだ。
「いずれこのような機会は必要だったかと。……ご心配をおかけしますが、必ず貴方の元へ帰りますから。ですから今は、先に戻っていて下さいませんか?」
「ナチはまたそう言ってっ……! アタシの物なんだって自覚が足りないんじゃないの!?」
烈火の怒りを宿した赤紫の瞳を突き付けられて、私は眉尻をこれ以上なく下げ切った困り笑いを返した。
私は、この世界の行く末を知らない。マグナたちが負けてしまってもリィンバウムという世界が存続していくのかどうか、それさえも分からない。ゲームとして知っているのはサモンナイト3までの知識でしかなく、未来がどんな形を描いているのか、どんな軌跡を辿っていくのかも想像出来ないくせに、敵方であるビーニャに肩入れして世界の破滅に貢献している。見苦しくも生にしがみついて、身勝手な幸福に縋り続けている。それを悔やむつもりも正すつもりもないけれど、誰より眩しいマグナに糾弾されるならそれでよかった。身勝手で利己的な極悪人だって、救いようのない人間だって、マグナの言葉で否定されるなら少しでも罰を受けたような気分になれる気がしたから。
それすらもただの自己満足でしかないと承知の上で、私はビーニャに目を合わせて心からの微笑みを浮かべてみせる。少しでも安心して貰えるように、込み上げる愛おしさを眼差しに込めて、血の気の薄い額にそっと唇を寄せた。
「大丈夫。……いつだって、私の一番は貴方ですから」
囁くようにそう告げて、細い小指を掬い取って小声で指きりの約束を交わす。それでやっとビーニャもひとまずは納得してくれたらしい。渋々といった様子ながらも少しずつ遠ざかっていく背中を見送って、私は詰めていた息を静かに吐いた。あんなに可愛い子が一人夜道を歩いていたら悪漢に狙われないか、こうしていても心配の念が尽きないけれど、本来正しく心配する先は悪漢の命の方だろう。帰り道でお掃除をすることにならなければいいけれど、と何とも言えない苦笑を浮かべて小さな後姿が見えなくなるまで見つめた私は、一度目を伏せ、顔を上げる。
「それで、どんな話か気になるところですけど」
ベンチに置いたままでいたお酒のカップを取り上げて、すっかり言葉の途切れていたマグナとシャムロックを振り返りながら、首を傾げて尋ねかけた。
「まずは手当てでしょうか。マグナ、回復の術が使えるサモナイト石、それか道具の用意はありますか?」
ぽかんと口を開けて目を見張るマグナを前に、私は堪らず苦笑をこぼしている。
13話をトリスでシャムロック選ぶと苦手な酒イッキしてぶっ倒れて膝枕で介抱される騎士様が見れて地味に好きでしたね。なので同じく倒れて介抱される展開にしました。あとモブは死ぬ。