ノルンは笑わない   作:くものい

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14ー2:確かな想い/N

 豊漁祭の翌日、予定どおりにファナンでの宿を引き払った私たちは、大勢の観光客に紛れる形で聖王都ゼラムへと向かった。あまり長居をすればマグナたちが街を出るタイミングと重なりかねないし、こちらも何人か兵を引き連れていると言いってもあくまで随行員としての人選だ。うっかり顔を合わせて戦闘にもつれ込む羽目になれば、想像するだに目も当てられない事態を迎えることは間違いない。いや、ビーニャがこちらにいる以上は大敗を喫するなんて有り得ないのだけど、そんな状況に陥ってしまった時点で任務どころか計画は総崩れ、ゲーム本編の流れを一切合切ご破産にしかねない大惨事だ。一寸先は闇、板子一枚下は地獄。無事にゼラム入りして事前の指示どおりに宿を取り、やっとビーニャと二人きりの部屋に落ち着いた時には思わず深い溜め息をこぼしてしまったものだ。

 任務の方はといえば、ファナンにいた時と大して変わりなかった。市街随所に散った諜報員からの情報を取りまとめては本国ひいては大平原奥に潜む黒の旅団へと引き渡しに向かうだけ。ゼラムに滞在する冒険者や旅人も時折足を延ばして近隣の村やフロト湿原、城壁近くを散策に出ているようだし、見るからに貴族らしい装いのビーニャが気晴らしを求めて数日出かけたところで疑念を持たれるはずもない。いいところのお嬢様が馬車も使わず数名のお付きだけで大平原にまで遠出するのは些か不自然だろうが、誰にも見られなかったなら無かったことと同じだ。

 いっそ穏やかなほどに全てが順調。けれど、こうまで呑気にしていられるのもゼラムの警備がまだ厳重と程遠い様相である今だけだと知っている。マグナたちが到着すれば、騎士であるシャムロックや蒼の派閥を経由してのトライドラ壊滅の報告が上がれば、観光気分でビーニャとぶらり歩きを楽しむのも難しくなるだろう。貴重な息抜きに迫るタイムリミットという事情もあって、ゼラム入りして早数日、私の余暇はすっかり街歩きへと注ぎ込まれていた。

「ああ、やっぱりここは行き止まりでしたか。うーん……これで大通り沿いの路地は全部押さえましたかね?」

 王城前、ハルシェ湖畔、劇場通り、再開発地区、蒼の派閥本部に導きの庭園、高級住宅街に一般住宅街。

 頭の奥から街の見取り図を引っ張り出して、いつか案内してくれた声を思い返しながらゼラムの街を歩き回るのは、存外楽しいものだった。歴史の古い街だけあって表通りも裏通りも縦横無尽に入り組んでいて、王城前から劇場通りに掛けての目抜き通り沿いはもちろん、一般住宅街の路地ひとつ取っても大樹の枝葉のように複雑に入り組んでいる。マグナたちの通りそうな道を避けるため、ビーニャの好きそうなお店を押さえておくため、いくつか理由はあるけれど、いざという時に備えて地理を把握してくことは大切だ。聞かれもしない言い訳を頭の端に、ビーニャと一緒の時もそうでない時も寸暇を惜しんで街を巡っていた甲斐あって、簡素極まりなかった想像上の地図が賑やかなほどのメモと走り書きで埋まるまで時間は掛からなかった。

 例えば、王都だけあって路面の石畳はどれも凹凸なく滑らかなものだけど、特に高級住宅街や劇場通りの歩きやすさと言ったら知らず知らずに足が向いてしまうほどだということ。パッフェルやルウはバイトの都合でどこに現れてもおかしくないけれど、知らない抜け道や裏道がまだまだ多くあるという意味でも、再開発地区や一般住宅街の方面は日中だけでなく避けた方が無難だろうこと。

 土地勘を養うにはとにかく自分の足で歩き回ることらしいけど、あちこちの街並みや路地を突き合わせて頭に叩き込むたびに、ぱっと目の前が開けるような気がした。知らない路地をひとつ覗くたびに新鮮な発見と驚きが待っている。何度も通った路地さえも気まぐれに新しい一面を見せてくれる。身内からの監視は百も承知でひとつ通りを覚え、ひとつ路地を覚え、地道な単純作業にお似合いの素朴な喜びと達成感だけが報酬だったけれど、ただの気晴らしとしては望むべくもない。前にマグナに連れられて一日市街を練り歩く羽目になった時は楽しむどころじゃなかったけれど、あの経験が僅かにでも活きたのなら人間万事塞翁が馬と言ったところか。強いて懸念を挙げるとすれば、そんな面白味のない街歩きにすら付いてくるほど、ビーニャが私にべったりなことだった。

「……誓約の痛みを使っていい、だとか突拍子もないこと言い出して。アンタがおかしいことなんて知ってるけど、あの時は本気で正気を疑ったわ」

 祭の夜の一件で随分ヤキモキさせてしまったらしい。今でこそ大分機嫌を直してくれたけれど、ゼラムに到着してすぐの頃は四六時中、片時も肌身離さずお人形のように私を連れ回していたビーニャがやっと口を開いて告げた言葉がこれだ。不機嫌を隠しもしない仏頂面、ピリピリと肌に刺さるような魔力からも明らかに気が立っていると分かるのに、怒声や暴言はなく、むしろいつもより口数少ないビーニャはひたすら私の腕を抱え込んでいた。朝から晩まで手元に置いて、食事や湯浴みの間も離れず、こちらが世話を焼くどころか逆に髪を梳かれたり花を飾られたりと面倒を見られる始末。その居た堪れなさに早々に音を上げて理由を尋ねた私へと、表情も変えずにビーニャは返したのだ。

「でも、おかげでよーく分かった。つくづくアンタは甘すぎるって。自分のことだと手抜きも手抜き、まともな生存本能が備わってるとは思えない。だから、ナチに代わって今後はアタシが目を光らせてあげるの……分かった?」

「あー……はい、仰るとおりです、弁解の余地もありません。その、ですのでそろそろ、護衛獣なり侍女なりの振る舞いをさせて頂きたく……」

「返事は、ハイ、しか聞かないわ」

 有無を言わさぬ返しを告げてやっと顔を上げたビーニャの目は据わっていた。何を選べる余地もなく、ハイ、と大人しく頭を垂れるしかなかったのは言うまでもない。

 実際、ビーニャの主張は最もだった。優先すべきはビーニャだと決めたくせに、マグナを突き放すことも切り捨てることも出来なかった時点で私が間違っている。どっちつかずの甘い顔をしたせいでビーニャを不安にさせたのは事実、敵であるマグナたちに捕まらず帰ってこれたのも結果論、気が気でなかったと大きく息を吐いたビーニャの反応こそが当然だ。アンタはアタシのことだけ考えてればいいのよ、と短く鼻を鳴らして頭を擦り寄せてきたビーニャの言葉は信じられないほどの温情だった。不機嫌さは不安の裏返し、それだけ私のことを心配してくれたからだと理解しているし、ちっぽけな良心と親しみを握り潰せなかったせいで何より大事なビーニャに不安を与えたのだ。多少の不便や居た堪れなさは甘んじて受けるべきだろう。それはちゃんと分かっているし、理屈でも頭でもきちんと納得しているつもりだけど。

 本来お世話をするべき相手から一方的に可愛がられて構い倒されている現状に、どうしようもなく居心地悪さや羞恥の念が込み上げてしまうのは止められない。はぁ、と憂いのこもった息が漏れ出てしまえば、傍にいた随行員のひとりが眉を動かした。私のことを疎んでいる彼からしても目に余る事態、と言うより、胸焼けのする光景をいい加減どうにかしてくれと訴えたいのだろう。

「あんたな……少しは主張のひとつもしたらどうだ?」

「ご忠告感謝します。ただ、今のお嬢様に口答えする勇気も気力もちょっと、在庫切れなんですよねぇ」

 あまり食べ歩き文化のないリィンバウムだけど、大陸で最も栄えた王都の繁華街ともなると、場所こそ限られるものの軽食のスタンドや移動販売も日常的に出ている。アイスに目を留めたビーニャには随行員の二人が、ベンチで待っているように言われて帰りを待つ私の傍には青みがかった黒髪の彼が控えていた。観光地らしく割高な店や足元を見てくる店も多いけれど、比較的強面のお兄さんを連れたビーニャにわざわざ吹っ掛ける真似はしないだろう。なので目下の悩みは十中八九、木匙でアイスを掬ってあーんをしてくるつもりらしいビーニャへの対応だ。獣は獣でも愛玩用のソレのような可愛がり方は彼からしても同情に値するのか、物言いたげな顔をして見下ろしてくる目にいつもの刺々しさはない。力ない笑みを浮かべた私は追加でこぼれそうになる溜め息を飲み込んで、ゆるゆると頭を振ってみせた。

 それが、一日前の話だったのだけど。

「……もうっ、ナチ! ちゃんと聞いてるの!?」

 そんな何てことない遣り取りが走馬灯のように駆け巡ってしまうくらいには、うっかり意識を飛ばしていたらしい。目が覚める声に現実逃避から引き戻された私は、パスタを巻き付けたフォークを手にしたままの現状を思い出した。

 以前、パッフェルに聞いた美味しいカレー屋さんの二号店が劇場通りの外れに出来たと小耳に挟んで、せっかくだからとビーニャを案内したのだった。てっきりカレーが出てくると思ったけれど、客層や地域柄に合わせてメニューを変えるのはよくある話、どうやら本店とは違ってこちらはパスタをメインに扱うことにしたらしい。路線変更にしても随分思い切ったことをするなと感心したけれど、これがとんでもない罠だった。端的に言ってしまえば、美味しいけれど辛すぎると言った意味で。

「聞いてます、ビーニャ様……このパスタ、確かに美味しいですが……私には、辛すぎます……!」

 ここまでの経緯を思い出すにつれじわじわ蘇ってきた舌の痛みに耐え切れずフォークを置き、氷水の満たされたコップに救いを求める私とは対照的に、ビーニャは涼しい顔をして刺激的な赤やオレンジに染まったソースや具材を絡めたパスタを次々口に運んでいく。扱う品は変えても辛味重視の路線に変わりなく、オマケに物は試しと一番辛味の強い品を二人分注文してくれたビーニャのおかげで私の舌は瀕死なのだった。

「このぴりぴりする感じがいいんじゃない」

「うう……ビーニャ様ほど豪胆な舌を持ってないんですよ、私」

 リィンバウムにハバネロやジョロキアのような辛味の限界にある食物があるかは知らないが、私にとって行き過ぎた辛味は辛いばかりでしかない。辛党のミモザならあるいは喜んで食べるのかもしれないけれど、平凡な味覚を持つ私としてはアメルの優しい味付けが恋しいばかりだった。どうにか一口二口と食べ進めるものの、唇も舌もヒリヒリするような熱感の他は完全に麻痺してしまっている。ルウじゃないけれど、今ばかりは甘いものを身体が切実に望んでいるのが分かる。ビーニャに振り回されること自体は決して苦ではないし、少しでもストレス発散に貢献出来るなら文句はないけれど、暫くはこの店には近寄らないようにしたい。クレープやアイスだとかのお店に誘導するとかして、と必死の算段を立てながら涙目でフォークを動かしていると、不意にわざとらしいほどの猫撫で声が呼び掛けてきた。

「ねぇねぇ、ナチ」

 恐る恐る顔を上げてみれば、ぼってりと粘性のある真っ赤なソースをたっぷり絡めたパスタがフォークに一巻き。視界の暴力に達しているそれを満面の笑顔で突き出しているビーニャは、小鳥の囀りめいた声で朗らかに死刑宣告を告げる。

「はい、あーん?」

 やっぱりビーニャは悪魔なんだなぁ、と間の抜けた感想をしみじみと抱きながら、私は強張る口をぎこちなく開けている。

 

 大平原の野営地に到着する頃にはすっかり疲れ切っていた私に対して、ご機嫌そのもののビーニャは兵たちに稽古を付けるのだと言って早速飛び出して行ってしまった。せっかくだし練度を見てあげる、と魔獣を召喚しながら一方的な決定を告げたビーニャに、私からの定期報告を受けていたゼルフィルドが表情のない顔にこれ以上ない苦渋を滲ませるのが見えたけれど、まあ、曲がりなりにも今はデグレアに与する召喚師だ。ビーニャだってちゃんと手加減なり手心なりを加えてくれるだろう。多分、と胸中で付け足しながら大分希望的観測が入るそれを言い訳のように並べたものの、藪をつついて大蛇を出したくなかったのはゼルフィルドも同じだったのか。鉄面皮に諦観を滲ませた重い足取りでビーニャの去った方向へと歩いていく姿を見送ると、私も私で残りの仕事をさっさと片づけてしまうべく、教えて貰ったばかりの陣幕目指して足を動かすことにした。

「こんにちは、イオスくん。事の顛末は聞かせてもらいましたよ」

 寒冷地であるデグレア仕様だけあって、軍で支給される備品はどれも耐久性や実用性に特化した機能性重視の品ばかりだ。野営地を区画ごとに仕切る陣幕、陽射しや雨風を防ぐために幅広の布を垂らしたタープ、居住区も兼ねる軍用テントに至るまで、そのどれもが防水・防寒を意識して厚手の生地を使っている。重量もしっかり増してしまうのはご愛嬌で、以前愛用していたローブも陽射しの強い日には汗ばむ肌を無視出来ないくらい存在感があったものだ。扉代わりに垂らされた布の重みに懐かしさを覚えながら声を掛ければ、肌を刺すような緊張に満ちた空気が一瞬で解けて、代わりに苛立ちと羞恥が綯い交ぜになった気配が滲み出る。わざとらしく気が付かない振りをして、入りますよ、と入り口を潜れば、組立て式の小さな机に向かって書き物をしていたらしいイオスから忌々しげな顰めっ面が向けられた。

「誰からっ……クソ、ゼルフィルドの奴……!」

「独断専行はいけないって前にも言われたのを無視するからですよ。腫れや炎症はともかく骨のヒビだけでも治しちゃいますから、そのままじっとしてて下さいね」

 手元には書きかけの紙が何枚も重なっているけれど、利き腕を肩から吊っているのと内容が始末書と言う相乗効果もあって、随分と筆の進みが悪いようだ。腹立たしいと言うよりバツが悪そうな様子で低く唸るイオスだけど、構うことなく近付いた私は首筋に触れるチェーンを手繰り寄せながらしげしげと怪我の具合に目を凝らした。

 ゼルフィルドに聞いてはいたけれど、手首から肘に掛けての前腕部は単純骨折、手指や足先には軽度の火傷に切り傷、一番重症なのは左肩が抉れて見えるほどの打撲跡だろうか。おそらく大剣か大斧での強烈な一撃を受けたのだろう、衝撃と威力をまともに食らって鎖骨もぱっきり折れてしまっている。いくら回復効果のあるキッカの実やジョウユの実を摂取したところで肉体の欠損まで治るものじゃなし、本来であればそのままじっくり静養するべきところだろう。惜しむらくは戦闘に次ぐ戦闘が約束されているイオスに、それは出来ない相談だと言うことだ。

「それじゃ……力を貸してね、リプシー」

 緊急時以外で回復召喚術を多用するのは良くないけれど、イオスの負った怪我は思ったよりも深手らしい。自然治癒力を底上げするストラでは次の戦いに間に合わないし、せめて骨や筋肉の形を固定するくらいは必要だろう。手早く召喚したリプシーに普段より多めの魔力を渡して治癒の術を使ってもらうと、魔力を帯びたほの明るい燐光が包帯や白布で包まれた患部へと降り注いでいく。光が触れた場所から痛みが引いているのか、イオスの眉間の皺が次第に薄まっていくのを横目に一通りの治療を終えたところでサモナイト石に注ぐ魔力を止めた。恩に着る、と短く言って目を伏せるイオスをリプシーが無邪気に覗き込もうとするのをそれとなく抱き寄せながら、私も軽い調子で声を返す。

「いいえ、普段ご迷惑をお掛けしているのはこちらですし。今回は大した報告もありませんから、よければ愚痴にお付き合いしますよ?」

「恩着せがましく言ってくれるな……どうせ大体のところは聞き知ってるくせに、暇潰しにしても趣味が悪い」

 せっかくですしお茶でも淹れましょうか、と小型の簡易ストーブに掛けられていた薬缶の沸き具合を見て、持参した茶葉と茶菓子を出し、それから壁際にあった椅子を引き寄せながらうきうきと言えば、イオスは呆れ返ったように呟いた。随分な言い草だけど、別に傷口に塩を塗りたいわけじゃない。ゼルフィルドに事の顛末を聞いたと言っても、その場に居合わせたわけじゃない彼の話は又聞きを重ねた物でしかないし、どうせなら実際にマグナたちと交戦したイオスの言葉で聞きたかったのだ。それにイオスは現状、最も気楽に話せる相手でもある。ビーニャの護衛獣として随行員を含む兵からも警戒の目を向けられている私にとって、肩の力を抜いて会話を楽しむことの出来る相手は実質イオスくらいのものだった。形ばかりの上官に向けて寝物語をせがむ子供のような笑みを滲ませてみれば、嘆息交じりに大きく肩を落としたイオスが渋々口を開くまで大した時間は掛からなかった。

 どうやら今回、マグナたちは相当上手く立ち回ったらしい。前々から警戒していた召喚術の脅威に手酷く晒されたのみならず、新たな顔ぶれに巧みな連携、一手先を行く戦術にあっさり絡め取られて負けてしまい、その挙句に止めも刺さずに縛り上げられて放置されてしまった。そのことがイオスの矜持を散々に傷つけたらしかった。

「あいつらは温すぎる! 戦場に立つ以上は命の遣り取りも覚悟の上だと言うのに、僕を馬鹿にしているのか……!?」

 別方面への斥候に出ていた兵士が戻ってきて事態に気が付くまで為すすべもなく茂みに転がっていたそうだけど、無様な敗北より惨めな仕打ちより、何よりもイオスの怒りを焚き付けたのはマグナたちの手温い対応にあったらしい。白皙の美貌を真っ赤に歪めて湯気でも噴きそうな勢いだけど、今こうしてイオスと言葉を交わせているのもマグナたちの甘さ、あるいは優しさのおかげだと思えば、私としては内心感謝せずにいられなかった。もちろん、そんなことを口に出せばますます火に油を注ぐだけだから、表情ばかりは同情的に装うのを忘れない。同時に、それにしても、と思う。こうして直に対峙したイオスの話を聞いて確信したけれど、やっぱり、マグナたちは想定した以上に強くなっている。

 単にイオスが弱かったわけでは決してないはずだ。ゲーム本編の知識を抜きにしても今のイオスに並ぶ練度や技量を備えたものは限られるし、例え数人掛かりだろうと容易く抑え込めるものじゃない。シャムロックとフォルテ相手ならともかく、実際、決定打を受けるまではロッカとリューグの猛攻を一人で凌ぐどころか優勢に傾きつつあったと言うのだから恐れ入る。それでもマグナの放った術で強引に隙を作り出された後はあっという間で、咄嗟に直撃を避けようと飛び退った先でロッカによって得物の槍ごと腕を払われ、ネスティから攻撃力上昇の憑依召喚を受けたリューグに強烈な一撃を叩き込まれ、堪らず膝を突いたと言う流れだったらしい。警戒していた召喚術をあくまで隙を作るためと割り切って使われた時点で勝敗は見えていたが、魔力をそれなりに消費する火力の高い術を、それも運が悪ければ麻痺にまで掛かる雷撃を選んだマグナの判断には感嘆を覚えてしまう。劇的な短期決戦を遂げるために色々準備したのだろうけど、憤懣やるかたないと言ったふうに語るイオスを前に顔を緩めるわけにはいかず、私はこっそり頬の内側を噛んだ。

 それにしても、ネスティも随分と派手なことをする。開幕早々、火攻めを仕掛けてきた話にはゼルフィルドから聞いた時点で笑ってしまったけれど、あれで意外に情の強いネスティだ。時に冷徹なほど合理的な判断を下す彼が大平原という地の利を活用したことに不自然はないけれど、本音はレルム村での意趣返しだろう。よりにもよってアメルたちが村へと向かう道中を邪魔されてよほど腹に据えかねたに違いない。一度懐に入れたものへの情の深さはマグナとの遣り取りで知っていたつもりだけど、冷静沈着な仮面の下にそれだけの激情を抑え込んで過ごしているのだから、フォルテやケイナが事あるごとにネスティを気に掛けていた気持ちもよく分かる。他にも、アメルが召喚術を使うようになったり、増えた顔ぶれにパッフェルやユエルの姿があったりと、嬉しい驚きがいくつかあった。誰かを傷つけることに抵抗のあるアメルがどうして召喚術を覚えたのかは気になるけれど、戦う術があることは彼女自身を守る盾にもなるだろう。アメル自身の意志で召喚術を使ったなら誰が何を言うことでもないし、それは仲間に加わったユエルにしても同じことだ。信頼出来る相手、守りたい相手のために爪牙を振るうと決めたユエルのこれまでを思うと、他人事ながらに胸が熱くなってしまう。召喚獣をその有用さだけで測って、価値の優劣を付け、一方的な烙印を押すこの世界で生きるには窮屈な身の上だけど、きっとマグナたちの傍であれば呼吸もし易いはずだ。それに本編では隠しキャラだったユエルやパッフェルが順調に仲間に加わっていることを鑑みるに、ひょっとするとマグナならイオスやルヴァイドのことも仲間に引き入れてくれるかもしれない。そうだといいな、と自然和らいだ目元をカップに伏せた私はさりげない苦笑へと浮かべる表情を変えた。

「まあまあ、イオスくんもここはひとつ、召喚術を鍛え直してみませんか?」

 マグナたちが理想的な勝利を飾ることが出来たのはこれまでの積み重ね、惜しみない研鑽の成果だ。パッフェルたち新たな仲間の働きも決して無視出来ないけれど、過去の経験と日々の鍛錬を元にそれぞれの手札を増やし、効果的な連携や戦法を皆で探っては試して共有し、言葉がなくとも互いの意志や呼吸を汲み取れるほど信頼し合った上で戦いに挑んだ。それは強力な召喚術での力押し一辺倒な戦い方よりもはるかに恐ろしく脅威的な彼らの武器だ。そんな相手にせめて拮抗状態へと持ち込むには相応の戦力強化、もしくは切れる手札を増やすことが先決だろう。

「イオスくんなら下地もありますし、相性のいい子に絞って一点集中で鍛えれば、短期間でも十分実戦に通用するものになると思いますよ。術自体の威力ではなく、あくまで召喚速度や精度を上げる形になりますが」

 幸いなのはデグレアの軍人には珍しく、イオスには召喚術の素養があることだ。国家自体が召喚術に否定的なだけあって、レイムたちは例外として軍全体として召喚術という存在への馴染みが薄い。おかげで私も召喚術を学ぶ際は習うより慣れろ、身体で覚えろを地で行くものだったから、ギブソンやミモザ、ルウの家で教本を手に取るまでは召喚の仕組みを論理的に理解しているとはとても言えなかったくらいだ。イオスは何故か今の時点でも最低限の術は扱えるし、狙いさえ定めてしまえば十分勝算はある。

「お前に物を教わることになるとはな……まあいい。どうせ暫くは奴らの動向を窺うしかないんだ。効率のいい手法があるなら教えてくれ」

「はい、喜んで。次の戦いまでにきっちり仕上げちゃいましょう」

 だって、人間は変わる。変化と成長、可変性こそが生きる人間の持つ武器だ。目的と意志さえあれば短期間でも並外れた成長を見せるものだと私自身、ここ数ヶ月の経験から知っている。デグレアにいた頃は無機物相手の誓約しか結べず、メイトルパやサプレスの使える術は少しばかりの回復と状態異常の治癒、あとは搦め手としての憑依だけ。そんな私が今じゃ刀抜きでも野盗を蹂躙出来るほど召喚術に通じるようになったのは何故かと言えば、単純に学んだからだ。

 暇さえあれば借りた教本や資料を読み耽って召喚の基礎概念や魔力の流れを叩き込んで、マグナやネスティが実際に召喚する際はお手本としてひそかに目を凝らして観察して、ビーニャの護衛獣に戻ってからはひたすら実戦で繰り返して、そうやって一度コツさえ掴んでしまえば後はトントン拍子だった。仕組みを理解して実践を積まなければ上手く使えないのは武器も術も同じこと、野盗の命を糧にして私の召喚術の練度は急速に底上げされていった。デグレアであれこれ詰め込まれた時はビーニャの側仕えとして相応しい力や知識、振舞いを身に着けるのが優先で、召喚術の耐性はともかく扱いを習得する必要性が薄かったのもあるけれど、マグナの護衛獣だった僅かな期間で意志ある獣相手にも単独で誓約を結べるようになったのは中々の快挙ではないだろうか?

 これも召喚主であるビーニャからの援護あってだろうけど、とお茶のお代わりを注ぎながら私はそっと口元を綻ばせた。すっきりした爽やかな風味にほのかな甘い余韻が特徴の茶葉はデグレアでは見なかったものだけど、どうやらイオスの口には合ったらしい。厚手のマグカップを繊細なティーカップに錯覚するような優雅な所作で口へと運ぶイオスは依然として仏頂面だけど、糖蜜漬けの果実がぎっしり練り込まれたパウンドケーキを食べ進めていく手つきは淀みない。陣中食なんていくらカロリーがあってもいいし、どんな状況であれ食欲があることはいいことだ。微笑ましい気持ちになるまま、私は心ばかりの励ましを口にした。

「今回のことは仕方ないですよ。ルヴァイド様の不在はともかく、主力のゼルフィルドも欠いて数の利もない状況では流石に厳しかったとしか。ほら、本来の力量ならイオスくんの方が圧倒的に勝ってるんですし」

「大敗を喫した今それを言われても皮肉か嫌味にしか聞こえないが? それより、お前はどうなんだ」

 片眉を上げて突き返すような物言いをされるまでは予想のうちだったけど、そこに付け足された言葉にきょとんと目を丸くしてしまう。脈絡のない問いかけが一体何を指しているのか、思わず目顔で尋ね返してしまった私に対して、イオスは一拍の間を置いて言葉を重ねた。

「ファナンでは本当に何もなかったのか? 余計な騒ぎを起こしたりはしなかったんだろうな?」

「もう、ビーニャ様だって何もないのに癇癪を起こしたりしませんよ。それに流石は噂に名高い豊漁祭! 大陸全土から押し寄せた物見客や商人のおかげで大層な混雑ぶりで、その喧騒由来のいざこざも随分あったようですし……本当、あんな賑わいようじゃどれだけの人や荷馬車が出入りしたかも分かりませんねぇ」

「祭に乗じて物資の搬入を誤魔化す余地はいくらでもあったということか……いや、それはいいが、本当にファナンでは何もなかったんだな?」

 奥歯に物の挟まった言い方をするイオスにいよいよ困惑するまま、私は大きく首を傾げてみせた。多少は気心の知れた仲なのもあって、イオスから私に向けられる言葉は基本的に清々しいほど遠慮もへったくれもないものだ。単刀直入に歯に衣着せぬ物言いをする彼がこうまで言い淀む姿なんて初めて見るかもしれない。一体何の話だろうと疑問を深めていると、私に察しの良さを期待することを諦めたらしいイオスは一度深々と息を吐いて、顔を上げた。

「ファナンにはあいつらがいただろう」

 聖女一行が、と私を見つめる眼差しには気遣う色しか見つからない。それでやっと理解した。イオスの懸念の先はマグナたちとの内通でも裏切りでもなく、彼らと複雑な関係にある私自身の心だ。

「聖女一行は……あの召喚師を筆頭に、どれもこれもお前を気にしているようだった」

「あぁ、そういうことですか」

 マグナたちと通じているんじゃないか、接触があったんじゃないか。そうした疑念を向けられても仕方ない、そういったことを危惧されて当然の立ち位置だ。客観的に考えて当然でしかない懸念を突き付けられたところで傷つく心は持っていないし、例えイオスがそうした意味で尋ねてきたとしても思うところはなかったはずだ。だけど、純粋に心配しているのだと一目で分かる、星のような瞳が私を映した。だから私は何でもないように軽く笑って、大丈夫ですよ、と普段どおりの抑揚を保って返す。

「前にも言ったでしょう? 今はもう敵だって。ご心配せずとも次の戦いには一緒に出向きますから」

 精一杯イオスくんの援護に尽力させて頂きますね、と冗談めかして返せば、イオスはまだ何か言いたげにしながらも口をへの字に結んで押し黙った。敵への容赦のなさと身内への情の深さを両立させているだけあって、呆れも心配もありのままにぶつけてくれるイオスには正直好感しかない。また心配を掛けちゃったな、と素直に反省しつつも頬を緩めていると、不意にその瞳が迷うように持ち上げられた。

「前から思っていたんだが、お前は……」

 だけど、その先を聞くことは出来なかった。失礼します、と一枚の布越しに掛けられた声に無意識に背筋を伸ばしてすぐ、入り口から顔を覗かせた兵がきびきびと報告を告げる。

「演習場に迷い込んだならず者をビーニャの魔獣が嬲り殺しましたが、処理せず場を離れてしまったため対処が要ります。いかがしますか?」

「アイツ、またか……埋めるも焼くも手間が掛かると言うのに! お前は随行員の一人だな? ビーニャを見つけ次第連れてくるから、それまでにゼラムに戻る用意をしておけ」

「よければ、お手伝いしましょうか?」

「結構だ。お前はアイツの機嫌の取り方でも考えておけ」

 厚手の布を乱雑に押し開いてイオスが足早に出ていくと、場に残った兵士がじっと私を見下ろした。黒鎧に身を包んでいない兵はお付きの数人だけど、用事も済んだのに無言で近くに佇む相手となると心当たりは一人しかいない。

「……あれだけ殺したくせに、あんた、まだ人死にに思うところがあるんですか」

「うーん……初めて言われちゃいましたね、そんなこと。結構繊細そうに見えるんですか、私って?」

 額面通りにこちらを気遣っているわけではないだろう。意味ありげに見つめる色素の薄い目に、私もまた視線でその疑問の在り処を尋ね返す。さっきのイオスではないけれど、皮肉か嫌味か、探るような灰色の眼差しは胸の内の動揺や困惑まで透かし見ようとしているようで、わざと軽口を叩いたのも精一杯の虚勢だった。一瞬ひやりとした背筋も内心こぼした舌打ちも見抜かれてたまるかとばかり、にこにこと貼りつけた笑みを投げ返す。

 私のことを嫌っているくせ、本当にこのひともよく分からない。

 誰かの命を奪うことへの抵抗も、誰かを傷つけることへの躊躇いも、結局、私には捨てきれなかった。いくら胸の奥深くに押し込めて目を逸らしたつもりになっても誰かの命を奪うたびに込み上げるものがある。表情や態度、声色にだって滲まないよう必死になって堪えているけれど、吐き気を纏った罪悪感や焦燥感、息苦しいほどの自己嫌悪はずっとそこにある。これだけ人殺しに手を染めても馴染み切れずにいるなんて自分でも不器用なものだと思うけど、そんな面倒な葛藤を持て余している護衛獣だなんてバレたらどうなることか。ひょっとしたら疎まれてしまうかも、捨てられてしまうかも、そう思うと不安で仕方がなくて、ビーニャにだって勘付かれないよう徹底して振る舞ってきたのに。

 どうしてこのひとは、と苦々しい思いを飲み込みながら小さく息を落とす。憎しみに呆れ、嫉妬に羨望、そうしたものを綯い交ぜにした身勝手な悪意をぶつけてきた相手が今、何を考えて私を覗き込んでいるのか。理解出来るはずもないと思考を放棄したがっている自分自身を宥めるように、私はゆっくりと息を吸って吐き出した。

 

 事態が動いたのはその三日後だった。元老院から招集命令が掛かったのだと、ビーニャ宛ての書状を手に訪ねてきた兵の話は単純明快なものだった。

 ビーニャにはこの後、速やかにデグレア本国へと帰還して貰うこと。末端には詳細を明かせない極秘任務であるため、道中の案内役を兼ねて派遣する兵が同行するのもローウェン砦を過ぎた地点まで、そこから先は本国から出向いた兵が案内役と護衛を引き継ぐことになること。貴族の令嬢の振りは継続とし、不自然のないように随行員も少数引き連れていくこと。そして、半月近く不在になるビーニャに代わって黒の旅団への報告任務を負うのは私になるということを、部屋に入ってすぐのところで直立不動を保ったまま言い切った兵士へと私は穏やかに頷いた。

「承知いたしました。日暮れ前には出発なさるんですね? でしたら急いで支度しませんと」

 どうやら悪魔たちの計略もいよいよ大詰めと言うことらしい。推測するにビーニャを呼び出したのは元老院の名を借りたレイムで、本格的な開戦が迫ってきたことで近衛悪魔の三人と直に顔を合わせての計画の微調整や各地の情報共有が必要になったのだろう。元々が中身のないお飾りの頭だった元老院だけど、完全にレイムの傀儡と化した今、その膝下であるデグレアの住民たちも無事とは到底思えない。出迎えに来る兵はキュラーの鬼憑兵か、腐敗の進んでいないガレアノの屍人兵か、どちらにせよ生きた人間でないことだけは確実だ。城下ひとつ分の生者が丸々消えたとなれば都市機能も実質壊滅しているだろうし、どんなに盲目的な兵だろうと街に一歩足を踏み入れれば無視出来ない違和感に襲われる。だからこそ本国に呼び戻す人員は最小限に、処分しても惜しくない有象無象に限り、念には念を入れて屍人の軍隊を留め置いている様子の一帯にさえ近づけないよう徹底しているのだろう。生者の不在を悟らせないよう、周辺の街道どころか一帯丸ごと立ち入りを禁じているのだから大したものだけど、逆算するにローウェン砦から少し北側の国境付近がその場所だろうか。死体の腐りにくい寒冷地に留め置くのが最良だけど、あまり無茶な行進をさせては本番前に身体が崩れてしまうやもと妥協したのかもしれない。そして、ビーニャに求める役割としてはおそらく、使い物にならなくなった屍人や鬼憑兵の処分もあるはずだ。戦争が始まる前にうっかり兵が使い物にならなくなっては困るからと、劣化や腐敗の激しい兵については先に片づけておくことにしたのかもしれない。

 そこまで一息に考えてまず浮かんだのが感心だったあたり、私の感覚も大分麻痺している気がするけど、長年掛けてコツコツ入念な下準備を重ねてきたのだろう。せっかくあれこれ仕込んで用意したのに日の目を見ることなく終わってしまったら残念すぎるし、その用意周到ぶりには賞賛の念を覚えてしまうのも本当だ。一時でもビーニャと離れ離れになるのは辛いけれど、ここで反抗したところで良い結果に繋がるとも思えない。迷うことなく承諾を返した私だったけれど、これに首を縦に振らなかったのはまさかのビーニャだった。

「やだっ! ナチも連れてくったら連れてくの!」

 お祭りの夜からの情緒不安定がやっと落ち着いたのが嘘のようにビーニャはゴネにゴネた。そう申されても、と困惑しきりの伝令兵の前で両手足をバタバタと振り回して喚き立てる。どうしてナチを連れて行ってはダメなのか、私の護衛獣なのに一緒にいられないなんて意味が分からない。小さい身体をめいっぱい使ってそんな主張、もとい不満を大いに表明するその姿に面食らったのは私も同じだった。

 ビーニャが駄々を捏ねて上からの命令に反抗する。それ自体は珍しくも何ともないことだ。立場上の上官であるルヴァイドにも揶揄い交じりの態度を見せるように、ただの元老院からの通達であればその反応に何もおかしいところはない。だけど今回のこれは明らかにレイムからの指示だ。悪魔であるビーニャがその意志を持って従うことを是とする相手からの命令であるはずなのにと困惑から抜けきれないまま、私はひとまず両手のひらを見せて宥める声を掛けようとした。

「大丈夫ですよ、ビーニャ様。私ひとり残るわけじゃありませんし、そう心配なさらずとも……」

「だからよっ!? 今のアンタをひとり残して置いてって、何かあったらどうするってのよ!?」

 まあまあ、と続けるはずだった声が止まる。ぎっと噛みつくような視線と怒声を浴びて、思わず目を丸くした。ガラスのぶつかるような甲高い怒声を響き渡らせるビーニャの目は真剣そのもので、いつもの癇癪を破裂させたのだと考えていた私は大きな思い違いに気が付く。ビーニャは、本気で私のことを心配してくれているのだ。私の不調に気が付いていて、その原因にも気が付いていて、その上でここまでの反発を見せているのだと鈍い私がやっと思い至ったことを見抜いてだろう。ビーニャがますます眦を高く吊り上げた。

「最近調子悪いの、アイツのせいでしょ!? なのにアンタばっかり残していくなんてぜーったいイヤッ!?」

「ビーニャ様……」

 前回の定期報告を境に、監視の目が変わった。担当者が変わった以上にその質が変わったのだと、気が付いたのは私だけだと思っていた。これまで日常的に浴びていたのはビーニャの癇癪を警戒してのもので、その内容は業務的で無機質なものだった。それがあからさまにこちらの一挙一動を見張るような視線に変わり、観察されていると言う居心地の悪さを突き付けるものになり、肩の力を抜くどころか息を緩めることさえ躊躇うほどの状況に変わっていた。

 怪しんでいる、疑っていることを隠しもしない視線を常時受けながらも心穏やかに過ごせる私であればよかったけれど、残念ながらそこまで頑強な精神は持ち合わせていなかったらしい。上手く眠れないどころか気を休めるのもままならず、何かと注意が疎かになっている自覚はあったし、いくら化粧で誤魔化しても薄くクマが滲んでしまっていた。それでも粘ついた視線と重苦しい感情を向けられている先はあくまで私であって、ビーニャではないことに安心しきっていたのだけど、そんな馬鹿馬鹿しい安堵を抱いた時点で自覚する以上に頭が回っていなかったらしい。

 あれだけの負の感情を向けられて、どうして悪魔であるビーニャが気が付かないはずがない。

 大人しくするようにとのレイムの言い付けを守って我慢してくれていたようだけど、私ばかりを残していく不安と心配がついに上回っての爆発だったらしい。不調を見抜かれていた驚きに嬉しさ、気が付かないうちに心配を掛けていた申し訳なさに声を失っている間にも、ビーニャの機嫌は降下の一途を辿っていく。甲高い声で喚いていたのが歯軋りするような低い唸りをこぼし始め、苛立ちも露わに歯を剥いてぶつぶつと呟く姿には言い知れない凄みがあった。

「本っ当に気に食わない……こそこそドブネズミみたいに嗅ぎ回って……! ナチもナチよ! ちゃんと分かってるの!? あんな雑魚にアタシの、このアタシの護衛獣であるアンタが舐められてるとか、そんなふざけた話がある!?」

 怒り狂う小型の肉食獣のように声を荒げるビーニャだけど、恐ろしい反面どうにも愛しくてならないと感じてしまうのは私だけだろうか。そうまで本気になって怒ってくれているビーニャにじんわりと熱を持つ胸元を押さえながら、私は照れ交じりの笑みに目尻を下げた。

「今のところはあくまで視線だけですし……ね?」

「また悠長なこと言って!? アンタはアタシの物なんだから、アンタを舐めて掛かってくる奴はアタシを舐めてるのと同じよ! 全部潰しちゃいなさい!?」

 本当にビーニャは私のことをよく見てくれている。単なる道具以上に気に入られている自覚は流石にあったけど、私自身よりもずっと私のことを気に掛けて気が付いてくれる。私の気持ちが別の誰かに向くことを不安がって見張っているだけかもしれないけれど、言葉にならないほど嬉しくてたまらない。胸がいっぱいのまま緩みきった笑みを返せば、呆れと苛立たしさと照れが綯い交ぜになったようなむくれ顔でビーニャは唇を尖らせた。

「……いくら言ったって聞かないんだから。護衛獣のクセにさァ……」

 納得いっていない様子で呟くビーニャだけど、現実的に考えて自軍の兵をどうかしたとなれば余計な火種になりかねない。自分の身を守るために何をしてもいいとビーニャが許してくれた、その事実だけで十分だとつい笑みを深めてしまえば、抗議の声の代わりに肩からぶつかられてしまった。それでもまだ心配が尽きないのか、最後の最後まで念押しを繰り返していたビーニャをどうにかこうにか宥めすかして見送ったのだけど、やっぱり現実は甘くないらしい。

「だけど、困りましたね……」

 ビーニャの存在が抑止力になっていることに薄々気が付いていたけれど、出発から一日足らずでいよいよ悪化した状況に私は部屋で力なく息を落とした。こうして自室にいても緊張を解けずにいるのは一気に増長した彼への警戒のためだ。急に態度が変わった理由も分からなければ、何が目的で私を探っているのかも見当も付かないけれど、確実に何かを疑っていることだけは分かる。妙な勘繰りを避けるためにわざと撒くことも出来ず、自然な素振りで伸ばされる手を避けることも難しく、精神がじりじりと削られていく音が聞こえるようだった。そして何より、そんな彼のことを本気で嫌うことも疎むことも出来ずにいる私自身が厄介だ。対処に迷うなら報告しろとイオスにも言われているけれど、こんな些末事で手を煩わせるのは気が引けるし、彼の疑念には正当性がある。探られて痛い腹をしているのは事実だし、マグナとの話の内容だったりをビーニャに黙っているのも本当だ。一方的に被害者ぶって糾弾する権利なんてない自覚があるからこそ、私は彼に対して強く出れなかった。彼がそれに気が付いていて付け込む素振りを見せていても、決して余裕があるわけではなくても、最後の踏ん切りが付かずにいるのは私自身の躊躇いのせいだ。

 それでもやっぱり疲れてしまうのはどうしようもなくて、ベッドに腰掛けながら私の手は無意識にサモナイト石へと伸びる。メイトルパに送還して随分と経ったのに、時折こちらに話しかけるように淡い明滅を繰り返す緑色のサモナイト石は、紫熟と誓約を結んだそれだった。

「……呼べるはずないのにね?」

 苦笑をこぼして、懐かしい気配のするサモナイト石を指先で撫でながら自嘲交じりに呟いた。紫熟の石は普段、私物入れの奥に潜めたポーチの中に仕舞い込んでいる。誓約済みのサモナイト石からは独特の気配がするのか、持ち歩いているとビーニャが目敏く勘付いてしまうのだ。本当は一時も手放していたくないけれど、余計に目を付けられないための苦肉の策だった。なにせ最近のビーニャはこれにさえ焼いてくれるのだから、と胸元のチェーンに目を伏せて苦い笑みを滲ませる。

「その石、随分気に入ってるみたいだけど何なワケ?」

「ああ、いえ、少ない魔力で回復が出来るので重宝してるんです。お気に入りと言うか単に使い勝手がいいだけですよ」

 ビーニャ以上の一番が私に出来ることを恐れてだろう、そんな遣り取りをするくらいビーニャは何かを不安がるようになった。人間は変わる生き物で、簡単に裏切るし心変わりしてしまう。悪魔であるビーニャはそれをよく知っている。何度もマグナに甘い顔をしてしまった時点で見えていた反応だったのに、どうして気が付かなかったんだろう。

 私自身に八つ当たりをする代わり、私がよく使う召喚獣やイオス相手に憂さ晴らしをしたがっている様子が見えてきて、拙いな、と思った。紫熟を送還しておいて良かった、とも思った。ビーニャは幻獣界メイトルパのエキスパートだから、もしも紫熟の存在に気が付けば最後、無理矢理に召喚して殺してしまうかもしれない。それでビーニャの不安が消えるなら本来、私がすべきは大人しくその意向に従うことだ。召喚主のお気に召すままそれを良しとすべきが護衛獣である私の正しい在り方で、ビーニャの道具としての正しい振る舞いで、でも、だけど。

 はぁ、ともう何度目かも分からない溜め息がこぼれそうになるのを飲み込んで、気怠い身体を無理矢理ベッドから起こした。こういった時にいくら沈思黙考を気取ったところで下手な考え休むに似たりだ。益体もないことばかり考えるより散歩に出た方がまだ気分が晴れる。クローゼットから引っ張り出した深い藍色のローブに袖を通してすっかり馴染んだショートブーツに足先を入れると、軽く床に打ち付けてその場で一回転、ローブの裾や紐飾りにほつれがないか確認した私はフードを被り直して誰へともなく頷いた。どうせ部屋にいたところで気が休まらないなら、いっそさりげなさを装って監視を撒いてしまうのもいいかもしれない。我ながら名案だと小さく笑って、自室のドアから滑り出た。

 山際に位置するのもあって朝晩は冷え込むゼラムだけど、日中は穏やかな陽光が降り注ぐ。それとなく人通りの多い道に踏み込んで、背後の気配が感じられなくなるまで人混みを掻き分けたり路地を折れたりを繰り返すと、私は強引に勝ち取った一人の時間を堪能するべくゆったりとした足取りで進んでいった。歩きながらの方が考え事が捗るのは知っていたけれど、そんな中でも思い出してしまうのはビーニャのことばかりで、そんな自分に少し笑ってしまう。

「……嘘吐いたら許さないって、分かってるわよね。アンタは、ナチはアタシのだってちゃんと理解してるのよね?」

 アンタはアタシの物なんだから、と繰り返すビーニャは俯きがちにスカートの裾を握りしめていた。見送りに出向いた城門前で、迷わず膝を折って正面から目を合わせながら私は偽りない気持ちを告げた。

「もちろん。ビーニャのためならいつ死んだって構わないくらい、大好きですよ」

「……そうよね。だってナチはアタシの護衛獣で、アタシの道具で、アタシの……アタシだけの物なんだから」

 下を向いた睫毛が震えて、薄く開いた唇から、そう、と吐息交じりの声がこぼれて、ビーニャは噛みしめるように呟いた。人間がどんなに変わる生き物でも、永遠に変わらない想いなんてないのだとしても、それでもビーニャにだけは嘘を吐きたくない。ビーニャに嘘を吐いて裏切るくらいなら死んだ方がいいと本気で思っているのも変わらない。どんなに変化の連続に突き落とされたとしても、その気持ちだけは守り抜きたかった。

 そして変化は、これからこの街にも訪れる。

「今頃はまだ、レルム村あたりでしょうか……?」

 大きく首を倒して見上げた先の王城は、昼の陽射しを浴びて燦然と輝いていた。トライドラ陥落の話を信じきれていないのか、それとも厳しい情報統制を掛けた後なのか、相変わらず緊張感のない緩んだ空気が流れている。平穏な日常が明日も明後日もずっと続いていくのだとばかり穏やかな賑わいを見せる通りには多くの人が行き交っていて、そのうちの一人として私は道端に佇んでいた。それなりの格好をして堂々と振る舞っていればまず不審に思われることはないし、露店で購入したばかりのつば広の帽子を目深に被って、おまけに黒縁の眼鏡も掛けていれば、そう簡単に私とは気が付かないはずだ。監視の気配もないことに少し気が緩んで小さく独り言をこぼした私は目を細めると、ここにはいないマグナたちに思いを馳せた。

 禁忌の森、ゲイル計画、クレスメントの一族。

 融機人ベイガーと調律者クレスメントの一族が作り上げた罪の遺産、豊穣の天使アルミネの隠された真実、兄弟子であるネスティと守りたい女の子だったアメルの正体。

 もう一度あの森に踏み込んだが最後、マグナはこれ以上ないほど残酷な過去の事実を突き付けられることになる。召喚した獣にロレイラルの機械工学技術による強化改造を施すことによって、圧倒的な戦闘力を持つ兵器へと作り変えて運用する非情な計画。苦痛や喜びを感じるだけの自我も意識もプログラムの制御下に抹消され、完全に破壊されるまで半永久的に稼働し続ける召喚兵器、ゲイル。それを作り上げた調律者の血筋を引くのが自分なのだと強制的に突き付けられ、認めざるを得なくなるマグナの混乱や苦悩は想像するに余りあるけれど、それを乗り越えなければマグナたちに、いや、この世界に未来はないのだ。

 私はどうせそのうち捨て駒として処分されるし、ビーニャに手を下して貰えるようならそれ以上は望むべくもない。自分のために散々誰かの命を踏み台にして好きに振る舞ってきたのだから因果応報でしかないし、どんな末路を辿ろうと文句なんてあるわけがない。だからそれはいい、別に構いやしないのだけど、でも。

 王城前の通りを行き交う何も知らない住民や冒険者、衛兵たちの姿を眺めて、思う。屈託ない笑みを浮かべて駆けていく幼い子供、今日の献立を考えているのか野菜やパンの詰まった包みを抱えて急ぐ女性、表情を引き締めてきびきびと視線を走らせている衛兵に、肩を組んで陽気な笑い声を響かせている冒険者の二人組。今を生きるこのひとたちが傷つき苦しむ姿を見るのは、嫌だと思った。これ以上、誰かの死ぬ姿を見たくない。この街が戦火に呑まれる光景を見たくない。このまま悪魔の思いどおりになってしまえば何を考えたって意味もないけれど、無辜の人々が命を散らすことを良しと出来る私には、どうしたってなれそうにない。

 いつか、街を案内してくれたマグナの横顔を思い出す。お日様みたいにへらりと笑って、あちこち跳ねた柔らかい髪もそのまま、次から次へと立ち並ぶ建物や通りを案内してくれた声は温かかった。一緒に行動する中で散々な目に遭ったことも少なくないのに、一緒にいると自然と安心してしまう不思議な空気がマグナにはあった。何だか人懐っこい犬でも相手にしてるみたいな、なんて言ったら怒られてしまうかもしれないけど、マグナはずっと私の中で穏やかな日常の象徴だった。ほっと気が緩んでしまう安心感に形を与えたような存在だったから、こうしてマグナのことを思うだけで不安がゆるりと溶けていく。

「……まあ、最後には勝つのはマグナですけどね」

 根拠なんて何ひとつないのに、声に載せて呟けば自然と頬が緩んでいる。現金な自分自身に苦笑をひとつ、少し強くなってきた風に帽子のつばを押さえて踵を返そうとしたところで、肩に掛かった重みに顔を上げた私は無言で目を見張っている。




不貞腐れたり意地悪したりヤキモチ焼いたりするビーニャは可愛い。イオスとの友好度だけが真っ当に上がり続けている状態です。
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