確信に輝く瞳で見下ろしてくるマグナを前に、瞬間、迷った。
どうする。人違いだと白を切るか? 突き飛ばしてでも逃げ出すか?
一呼吸の間に様々な選択肢が巡ったけれど、心底嬉しそうに破顔するマグナを見たらもうダメだった。この顔にはつくづく弱いんだって、自分でも改めて認識したばかりのことを思い知らされてしまって、自然と込み上げる苦笑に目尻が下がる。肩を掴まれた一瞬で張り詰めた緊張も勝手に緩んで、鏡を見なくたって分かるくらい自分の表情や声色からも力が抜けていってしまう。
こんなのズルい。あんまりだ。こんな顔をして笑い掛けられてしまったら、どうしたって突き放すことはおろか、強くなんか出れやしない。
ぼやき交じりに溜め息を吐いて降ってくる眼差しを受け止めると、私はかすかに唇の端ばかりを上げて微笑んだ。
「……そうですね。立ち話もなんですし、ひとまず場を変えませんか?」
肩は依然しっかりと押さえられたまま、帽子も奪われたままなのに無理に振り払って逃げ出すなんて現実的じゃないし、早々に白旗を上げて降参を訴えている内心の声に抗う気力も残っていない。おまけにマグナの推測は実際正しく、街中での交戦許可はビーニャ含めて下りておらず、下手に衆目を集めるような真似は個人的にも極力避けたい事情があった。状況を打開するために打てる手は尽きたと言えるし、これはもう、気が済むまで付き合うしかないだろう。
落ち着きがない大型犬のようにそわそわしながら私の返事を待っていたマグナはそれを聞いて何故か驚いたように目を見張ったけれど、次の言葉で納得交じりに表情を引き締める。
「あまり人目に付くところは、ちょっと」
時刻はそろそろ夕暮れ時、王城前の広場を行き交う人々は多く、いくら幅広の通りとはいえ長々と話し込んでいれば邪魔になるし、何より人目を引いてしまう。マグナは私と話をしたいだけなのかもしれないけれど、仲間たちがどうなのかまでは分からないし、今も素知らぬ顔をしてあちこちに潜んでいるデグレアの諜報員にだって見つかってしまいかねない。まずは移動を、と促しながら帽子を返して貰うべく手を差し出した私に、ああ、と合点がいったように頷いたマグナはいつかのように通路側へと立ち位置を変えながら、帽子を持つのとは逆の手で私の手を取った。
「それじゃハルシェ湖の辺りはどうかな? 今なら客船の発着時刻も過ぎてるし、そんなに人気もないはずだけど」
「ああ、湖畔ならベンチもあるし丁度いいですね。って、いえ、そうではなくて、あの……」
あんまり自然な流れで手を繋がれて一拍遅れで瞬きを思い出すけれど、嬉しそうに張り切った声で提案してくるマグナの方はエスコートでもするような足取りで早速歩き始めている。戸惑いながら繋がれた手を軽く振って離してくれるよう催促してみるも、上手く意図が伝わらなかったのか、ますます顔を綻ばせたマグナは同じように手を揺らし返してくる。帽子を返して欲しかったんですが、とはとても言い出しにくい満面の笑みに少し悩んで、溜め息半ばに全ての思考を一旦投げ捨てることで結論とした。何の下心もなく優しく握り込まれた手を一方的に振り払うのはさすがに良心が咎めるし、ここで揉め事を起こせば望まずとも注目を集めてしまうだろう。一回りは大きい手からじんわり伝わってくる温もりと圧力にそれ以上の抗弁を諦めて、せめて少しでも顔を隠すべくマグナの傍へと一歩身を寄せた私は、早くも振り回されている自覚にこっそりと視線を俯かせた。
鮮やかな夕焼けに染まるハルシェ湖の畔には予想どおり、さほどの人影は見当たらなかった。客船の発着時刻は過ぎ、貨物船の出入りは落ち着き、漁業の船が戻ってくるのはまだ少し先になるらしい。穴場と言っていいのか、ちょうどいい時間帯に訪れることになった私はマグナと二人、適当なベンチを探しながら湖畔の通路をゆっくりと歩いた。
巨大な汽水湖であるハルシェ湖には毎日数え切れないほどの船が出入りするけれど、客船や貨物船、漁業や観光といった用途ごとに係留する場所が定められていることもあって、元々そこまでの人だかりが出来ること自体滅多にない。外洋を経由して聖王国西方にあるサイジェントや帝国へと向かうような大型客船は沿岸から少し離れた辺りに停泊しているし、そこまでの大きさじゃなくても蒸気を動力にする汽船だとかは念のためにと湖に突き出た桟橋沿いに繋がれていて、湖畔すぐのところに浮かぶのは帆を下ろした帆船や手漕ぎボートの類ばかりだ。歩きながらマグナは視界に入ってくるあれこれをそうやって説明してくれたけど、街歩きに多大な時間を費やした私からすれば殆ど知っていたことばかりで、それでも口を挟むことなく相槌を打ったのは懐かしかったからだ。あんまり懐かしくて楽しくて現実から目を逸らしていたかったのは私もだけど、無人のベンチを見つけたマグナの言葉尻が不自然に揺らいだことで結んでいた口を開いた。
「ところで」
するりとその脇を抜けながらベンチに腰を下ろし、視線ばかりを持ち上げる。日中ならいざ知らず、こんな時間に繁華街ではなく湖畔に張り込むような諜報員はいないだろうけど、念には念を入れて本当は歩きながら話が出来れば一番だった。レイム直々の指示と言って誤魔化すのも出来なくはないが、それで見逃して貰えるかは五分五分だし、余計な博打は打ちたくない。だけどそれも所詮、理想論だ。このままではいつまで経っても本題に辿り着かないと見て、私は腹を括って問いを投げかけた。
「私にそちらに戻る気がないことは、まさか忘れてはいないと思いますが……一体、どんな話をお求めなんですか? こうして世間話に付き合うだけでいいなら、私は別に構いませんけど」
話に付き合うとは言ったものの、先手を打って釘を刺すことは忘れない。どうしてゼラムにいるんだとかビーニャはどうしてるんだとか質問責めに遭うのも覚悟の上で付いてきたけれど、何もかもが中途半端な私にしたって譲れない一線はあるのだ。それに実のない話に長々と時間を費やせるほど余裕のある間柄でもない。遠回しに予防線を引きながら首を傾げてやれば、困ったように眉を八の字にしたマグナはすぐ隣に腰掛けながら、ええと、と言葉を濁した。
「参ったな……色々話したいことがあったはずなのに、改めてそう言われたら何も出てこないや……ごめんよ、すぐに思い出すから」
「本当、貴方って……っふふ、相変わらずなんですね」
この上ない難問に直面したかのように次第に前のめりに項垂れてしまったマグナは片手を額に押し当て、もう片手に私の帽子をぶら下げながらうんうん一生懸命に悩み始めてしまう。記憶とまるで変わらないマグナの姿に呆れようとして途中、我慢仕切れずに吹き出してしまった私は、何だか胸が締め付けられるような感慨深い気持ちに思わず目を細めた。
まだレルム村の辺りかと思っていたけれど、この場にいることを踏まえてみてもマグナは多分、禁忌の森に入ったらどうなるかをネスティに告げられた後だ。正確には脅された後になるんだろうけど、ネスティの言葉で散々迷って悩んだだろうにおくびにも出さずにいるあたり、答えはもう出ているに違いない。そして、答えを出す前か後かまでは分からないけれど、意志を固めるその過程でマグナはきっと誰かに相談出来たのだろう。誰より近しい兄弟子や護衛獣だった私がいなくても、一人きりで抱え込まずに弱い自分を見せて誰かに頼ることが出来たのだろう。迷いや躊躇いの残る余地なくはっきりと答えを出せたからこそ、偶然行き会った私との話にこれだけ真剣に向き合って悩むことが出来ている。
出会ったばかりのアメルを助けるために得体の知れない敵の前へと迷わず飛び出したマグナだ。その善性やお人好し具合に疑うところはなかったけれど、当たり前のように誰かを助けるくせに自分は助けて貰えると思っていないようなところが少し心配だった。だけど、もしこの推測が当たっているなら僅かに残った憂いも晴れたようなものだ。少し見ない間に随分成長したらしいマグナをしみじみと眺めていると、いつの間にかすっかり黙り込んでいたマグナが、あのさ、と思い切ったように口を開いた。深い紫紺の眼差しが滑るように持ち上がって、音もなく目と目が合う。
「俺、タキツのことが好きだ」
突然告げられた言葉の意味を、咄嗟に正しく理解出来たと言えば嘘になる。
気が付けば身体ごと真っ直ぐ向き直って、靴先から瞳までしっかり私を見つめて、両手の指先を包み込むように握り込みながら想いを告げてくれたマグナを前に、私は暫くの間、固まった。驚きとか困惑だとかの反応さえも返せずに、ただ呆気に取られて大きく目を見開いて見つめ返すしか出来ない。やっとのことで呼吸の存在を思い出し、忘れ切っていた瞬きを三度繰り返したところで、待っていたかのようにマグナは言葉を重ねた。
「仲間としてだとか友人としてじゃなく、一人の女の子として君を、タキツのことを好きなんだ」
「えぇ……なんで先回りして答えちゃうんですか……?」
本気で困惑しながらの嘆きをこぼせば、なんか誤解してそうだなって、と大してすまなく思ってなさそうな笑みを滲ませてマグナは肩を竦めてみせた。その間も私の指先、第二関節から先を優しく包みこんだままの温かな手は離してくれる気配もない。ほのかに汗ばんだ手指から伝わってくる体温と緊張を帯びた真摯な眼差しを浴びて、私は天を仰ぐ代わりに一度目を閉じて深々と息を吐いた。
「……生憎ですが、それを私に言ったところで意味なんてありませんよ」
ひょっとして親愛の情かと思考を飛ばしそうになったことすら見抜かれていたのだ。下手な誤魔化し文句を並べるよりも正直な胸のうちを告げた方がまだ誠実な対応と言えるだろう。それにマグナが本当に私をそういった意味で好きだなんて、とてもじゃないが俄かには信じられない。穏やかな日常とお日様のような安心感、そんな印象を抱いていた相手に知らず知らずとはいえ妙な勘違いをさせてしまった罪悪感に、その時の私は少しばかり視野が狭くなっていた。
「どのみち、私が敵であることに変わりはないんですし。マグナの言うそれもきっと何かの誤解です。確か派閥に来る前は一人で過ごしていたんですっけ? 母や姉に向けるような憧憬と恋心を重ね見ているのかもですし、そうだ、吊橋の恋と言う話は知っていますか? 危機的な状況に置かれた人間は鼓動の高まりを恋によるそれだと錯覚すると言うお話で、ほら、私たちのこれまでだって……」
「そうだよな。俺だって自分じゃちっとも気づかなかったし、タキツからしたらそれこそ寝耳に水だろうしさ。信じて貰えなくても正直、仕方ないって思う」
だけど、と何かを堪えるように一瞬固く目をつぶり、マグナは静かに私の手を握り直した。ぐっと力が込められて無意識に身体を強張らせた私へと懺悔でもするように深く視線を落としながら、マグナは噛み締めるように呟いた。
「諦めたくなかったんだ。絶対なんかない、不可能なんかじゃないって。今はまだタキツの言うとおり、言葉にしたって何の意味もないかもしれないけど……タキツのことが好きだと思った、この気持ちに嘘は吐きたくなかった」
ああ、酷いことを言った、と今更のように気が付いた。マグナの気持ちは固く、心は決まっている。私に向けて抱いた好意は他の何かと取り違えているわけではなく、正真正銘、混じり気なしの恋心だったとやっとの思いで飲み込んで、初めに覚えたのは愕然とした気持ちだった。嬉しさや申し訳なさ、罪悪感に羞恥の念だとかの前に、途方もない困惑が先立ってみるみる頭の中を埋め尽くしていく。一拍遅れで複数の感情が押し寄せてきた胸の内も混乱と戸惑いに席巻されて、無数の疑問が矢のように思考の端を流れていく。思いがけない事態と馴染みのない感情を突き付けられて、途方に暮れてしまって、知らず背中を丸めるように身を縮こまらせた。
「どうして、そんな……私、そんな思わせぶりな態度でした? マグナもロッカも、なんで私なんかに……こっちの世界の人間でもないのに」
自然と俯いていく視界の中、マグナの手は変わらず私の指先を包み込んでいる。振り解くなんて出来そうにないくらいしっかり捕まえられているのは前と同じでも、骨の軋むような痛みや圧迫感の代わりに優しい温もりと思いが伝わってきて、ますます顔を上げられなくなってしまう。けれど、思わずこぼした呟きには予想外の効果があったらしい。
「そっか、タキツにも帰る世界があったよな……ん? ロッカ? どうしてここでロッカが……もしかして前に様子がおかしかったのって。そうだ、それに名もなき世界! タキツがその話を知ったのってまさか、元の世界でのことなのか!?」
思い出したように呟いていたマグナはふと目を見張ると、いくつもの疑問に気が付いたとばかりに声を上げた。マグナの頭の中では今、過去に覚えた違和感と当時の状況とが音を立てて結びつき、いくつもの閃きが連鎖的に生じているところらしい。驚愕の面持ちで矢継ぎ早に質問を浴びせ掛けられて、さっきまでの居心地悪さも忘れて目を丸くしてしまった私だけれど、そこでふっと気持ちが緩むのが分かった。
ああ、なんだ。混乱の中で勝手に恐れて身構えてしまったけれど、マグナはマグナだ。私の知っているマグナのまま、何も変わらない。
「……答えられることには答えます。話が済むまで逃げたりしませんから、少し落ち着いて?」
それなら私も、前と同じように返せばいいだけだ。
気が抜けるまま苦笑を浮かべて宥めてやれば、ベンチから半分腰を浮かせる勢いだったマグナは恥ずかしそうに頬を赤くして座り直した。素直な反応を微笑ましく思いつつ、その手から力が抜けたことを幸いに帽子を取り返した私は、さて何から話しましょうか、とそれらしく思案顔で独り言ちながら手元の帽子に目を伏せる。
本当は元の世界に帰る気なんてないのだけれど、せっかく誤解してくれたのならあえて解かずともいいだろう。それに召喚獣を元の世界に送還するには対象の持つ真の名を、種族全般を指す種族名や一般に呼ばれる固有名詞とはまた違った、魂に刻まれた真名を知る必要があるのだけど、マグナは私のそれを知らない。名もなき世界の人間に真の名があるかは疑問だったけれど、何故かビーニャは私の本名を最初から知っていた。ならタキツでもナチでも足りない、「滝津川那智」という本名が代替的に真の名として扱われたのだと判断しているけれど、今はそれだって関係のない話だ。あくまで聞かれたことには答える、それが今の私に出来る精一杯の誠意だろう。少し考えてから、私はゆっくりと口を開いた。
「まず最初に、というか本題になりますが。敵対している事情がなかったとしても、貴方の気持ちに応えることは出来ません。……そもそも、よく分からなくって」
そういった意味で誰かを好きになる気持ちが、と躊躇いがちに続けると、まるで断頭台に上るような顔をしていたマグナが無言で大きく瞬いた。それって、と語尾に疑問符が付くのも最もだ。バツの悪さに眉を下げながら、私は情けなくも素直に思うところを白状する。
「前に恋はしていないって言いましたけど、本当は恋をしたこと自体ないんです。ずっと大好きな友達がいて、その子がいれば満足で、他に誰か気になったりする余裕もなかったから……だから、さっぱり分からなくて。親しい相手や友達に向けるような好きと、マグナの言う好きとで、どれだけの違いがあるのかも。私が同じ気持ちを返せるのかも全然、想像出来なくって……」
友人や身内に向ける親愛や友愛、深い情愛や思慕の念は分かっても、他とは種類の違う熱を持った恋心だけは頭でしか理解出来ていない自覚があった。他人の恋の話を聞くのは嫌いじゃないけれど、いざ自分はどうなのかと言われると途端に何も浮かばなくなる。大好きなあの子と一緒にいたかった。その気持ちが強すぎるせいで、心の一部がずっと幼かった頃のまま足踏みしているのだと気が付いてはいた。
「単純に好きかどうかだけなら、間違いなくマグナのことは好きだって言えるんですけど……」
誰かを好きだと思えること、それ自体はとても素晴らしいことだと思う。出来ることなら同じ気持ちを返せてあげられたらと思うけど、そういった話じゃないことはさすがに私だって理解している。言葉を切って横目で見ると、あまり気を遣わないでくれよ、とむず痒そうに苦笑してマグナは軽く唇を尖らせた。
「タキツはいつもそうだけどさ、俺だって別に子供じゃないんだからな?」
「一応、貴方を子供扱いしたことはありませんよ。ちゃんと試験にも合格して対外的には立派な一人前の召喚師ですし、年だって殆ど成人してますし。それはまあ、一緒だった時はいつもハラハラしてばかりでしたが……」
そこまで言ったところでマグナが不思議そうな顔をしたことに釣られて疑問符を浮かべながら見つめ返したけれど、その反応でますます腑に落ちることがあったらしい。目顔で促すまでもなくマグナが教えてくれたのは、デグレアでの詰め込み教育では取りこぼしてしまった、こちらの世界の一般常識のひとつだった。
「ああ、だから……それであの時、ロッカも怒ったんですね。身内でもない相手からの子供扱いなんて面白くなくって当然でしょうし」
リィンバウムでは国や地方の差こそあれ、概ね十五歳を迎えた時点で成人と見なされる。それが許される立場や資金さえあれば、新たに所帯を持つことや開業することも可能となるらしい。言わば公に認められるための最低条件らしいけれど、色々と抜け道や暗黙の了解もあるから一概には語れないそうで、てっきり元の世界と同じ感覚でいた私は胸に去来する様々な思いに嘆息した。
この世界の基本的な知識や教養は叩き込まれたけれど、通俗的な一般常識となると片手落ちがあったのだろう。そもそもデグレア軍に属するのは比較的富裕層寄りの貴族階級が多く、市井の生まれの人間は探して数えた方が早い。当人同士の意志で結婚に至るような人間が少なければ、そういった観点からの知識に不足が生じるのも無理もない話だ。
「それもあるだろうけど、ロッカが面白くなかったのは多分、別の理由だと思うけどなぁ……?」
話の流れでロッカからの告白とその前後にあったことを打ち明けると、初め難しい顔で聞いていたマグナは段々頭を抱えるような姿勢になっていき、最後はひどく気の毒がるように呟いた。リューグに何度か相談に乗って貰ったことも明かせば何とも言えない顔をしたけれど、ロッカへの感情が思ったより穏やかなところに着地してくれたようで内心ほっとする。同情と苛立ちの混じった複雑な表情を浮かべながら、でもちょっと分かる気がするな、とマグナはしみじみした調子で言った。
「タキツにその気はないんだろうけど、見ていて俺もたまに心配になるくらいだったもん。目が離せないって言うか、俺が付いててやらなきゃ、みたいなさ」
「うーん。マグナに言われるのはかなり心外ですが……あ、でも、そっか。昔飼っていた小鳥に重ねてるって話も、そういったことだったのかな……?」
「うん? そういったことって?」
幼いロッカたちが一時期保護していた鳥の話を掻い摘んで説明すると、何か思い当たるところがあったのか、マグナは片手で口元を覆って黙り込んでしまった。そっか、だから、とさっきの私のように小声で呟いているマグナを何となしに眺めていると、口から少し手を浮かせて困り笑いのように目を細めて見上げてくる。
「……いや、何でもないよ。タキツはさ、本当に皆に大切に思われてたんだな、ってしみじみ思っちゃってさ」
前までと同じようで、少し変わったような笑い方をするマグナの目は優しかった。無邪気さや朗らかさの代わりに慈しむような優しさに満ちた眼差しを受けて、けれど私は知らず戸惑ったのだろう。知っているようで知らない顔で笑い掛けられて咄嗟に何かを言おうとして、あ、とそれを思い出したのは無意識の逃げだったのかもしれない。
「そうだ、あとは名もなき世界についてどこで知ったか、でしたね。それもさっき話した、大好きな友達に関わってくるんですが……」
どこまで話そうか迷いはしたけれど、易々と調べられない別の世界と言う前提があれば無理に嘘で塗り固めなくてもいいだろう。大好きな友達と一緒に遊んだ思い出のゲーム、何年も一人飽きずに周回を繰り返し続けた大切なゲーム。サモンナイト2というゲームを物語と言い換えれば、あとは自然と言葉が滑り出てきた。
「その友達と一緒に読んだ物語の中で知ったんです。その物語で描かれていた世界はこのリィンバウムによく似ていて、他の世界の住人から力を貸してもらう不思議な術があったり、少し町を出ると恐ろしい怪物なんかも出たりして、私もその子も夢中になって何度も読み返して……それこそお話の展開や出てきた言葉を殆ど暗記してしまうくらい。その子の方が私よりいくつかお姉さんだったのに、毎回本気で怒ったり笑ったりして…………きっと私よりもずっと、あの子の方が物語の世界を夢見ただろうにな」
少し余計なことも話してしまったけれど、だから名もなき世界という呼び名で本当に合っているかは分かりませんよ、という話だ。幼い頃の思い出から断言してしまっただけで根拠はないのだと、それとなく有耶無耶にしようと話を運んだ私だったけれど、ひとつ誤算があった。私の語ったその物語にマグナが思いのほか食い付いてしまったことだ。
「へえ、そんなに似てたのか? 召喚術に派閥、街や建物までそっくり似たようなのが出てきてるって……物凄い偶然だよな!」
楽しげに声を弾ませるマグナは何故か、私の語った物語の欠片に想像力と好奇心を大いに刺激されてしまったらしい。どちらかと言えばマグナとの話では聞き手側に回っていたこともあって少し意外だったけれど、瞳を輝かせて好きなゲームのことを聞かれたら嬉しく思わないわけがない。形ばかりの苦笑に頬を緩めながら聞かれるがままにいくつか答えていると、物語中の登場人物にも興味を抱き始めていたらしいマグナがそわそわと身じろぎながら尋ねてきた。
「その物語にはさ、ひょっとして俺みたいな奴もいたりした?」
「もう、そんなの知ってどうするんです。似てるかどうかも私の主観でしかないですし、私の話なんて聞いたところで」
仕方ないでしょう、と笑い交じりに返そうとして、思いがけず真剣な顔をしたマグナと目が合ったことで声が途切れる。あまりマグナらしくないほど熱心にあれこれ聞かれて少しおかしいくらいだったけれど、想像とまるで違った表情を浮かべていたことに面食らって言葉が迷子になってしまえば、それを見かねてだろう。俺が聞きたいんだ、と照れたように笑って湖の方へと顔を向けたマグナは穏やかに言った。
「タキツの好きな物や好きなこと、こっちに来る前の暮らしや楽しかったこととか面白かったこととか……何をどんなふうに感じたり、思ったりしたのか。タキツのことが好きだから知りたいし、出来たらもっと、俺のことも知って欲しいって思うんだ」
宝物でも眺めるような眼差しで、望みというにもささやかなそれを語るマグナに何と言って返せばいいのか。迷うどころか何も思いつかずにその横顔を見つめるしか出来ずにいた私をおもむろに振り仰いで、マグナは息を吸った。
「だからもうひとつだけ、教えて欲しい」
僅かに伏せられていた目が上がり、紫紺の輝きに光が差す。本題が来る。背筋に走った直感に身構えるより早く、揺るぎない声が核心に切り込んだ。
「タキツが本気でビーニャの道具扱いを望んでいるのなら、それはどうして? どんな理由があってのことなんだ?」
お祭りの夜に吐露した胸のうちを、マグナはあれから忘れることなく覚えていてくれたらしい。アレが嘘偽りない本音であると同時、いくつもの真意を伏せて結論だけを告げたものだったことに、いつ気が付いたのだろう。一方的な話の勢いに巻き込んで思考の余地を奪ったあの場ではなく、冷静さを取り戻してから何度もあの遣り取りを振り返ってくれたに違いない。そして、どこかで確信したのだ。アレは間違いなく私の望みであるけれど、望みを叶えるための手法でしかない。その根底にある望みはもっと別のものだと。
「言ったでしょう、道具であれば最後まで一緒に連れて行ってくれるから」
「それは本当に道具じゃないと出来ないことなのか?」
間髪入れずに真っ直ぐ、心の中まで見通すような目で尋ねられて返しに詰まる。けれどマグナはそこで一旦、言葉を止めた。手を緩めてくれたわけではない。苦し紛れの言い訳やそれらしい誤魔化し文句ではなく、真実を教えて欲しいのだと無言で訴える瞳は微塵も揺らぐことなく私を見ている。道具でありたいと望んだその理由、あるいは望みを抱くに至った動機、それを教えてくれるまでは決して引く気はないと告げている。だから私は、詰めていた息を糸のように細く吐き出しながら静かに項垂れた。
誰にも明かしたことのない私の本音は、子供じみた我儘で、泣き言で、消せない悪夢のようなもので。もっと早くどこかで割り切って断ち切るべきだったと頭では理解していても、心がどうしても追いつかないまま、こんなところまで来てしまって。どうしたって仕方のないことなのに、ずっとずっと、悔やみきれずに呆れ返るほどの一人問答ばかりを繰り返して。
だけど、でも、だって。
「……もう、置いていかれたくないんです」
情けなく掠れ切った囁き声でそう呟いた私にマグナが何か言おうと口を開くのが見えた、その瞬間、大きな物音が響き渡った。
弾かれるように勢いよく顔を上げた私とマグナだったけれど、どうやら湖岸近くのところで水鳥が飛び立ったらしい。全身に張り詰めた緊張が一気に弛緩して、どちらからともなく溜息をこぼしたところで随分辺りが暗くなっていることに気が付いた。山の端にか細く滲む赤色は今にも消えそうで、夕方と夜の狭間にある空は紫を帯びた薄く淡い藍色に染まっている。思いのほか時間が経っていたことにベンチから立ち上がれば、無言で続いたマグナが絞り出すような声で囁いた。
「……また、話せないか?」
両手は身体の横に下ろされたまま、震えるほど固く拳を握り締めている。手を伸ばしたらダメだと必死に言い聞かせているらしいマグナの顔は下を向いて、足元の石畳を食い入るように見つめている。それを見たら何だか、無性に泣きたくなった。
そこまで思って貰っているのに、私に返せるものはない。何があっても最後はビーニャを選ぶと決めているし、その気持ちが覆ることだけはないと断言できる。それでも、だとしても、決して何も思わないというわけではないのだ。
「約束は出来ません。……いつどこでお会いできるかも分かりませんが、それでいいのなら」
言いながら、馬鹿だなぁ、と思った。口約束ですらない曖昧な慰めを受けて、涙の滲む目尻を嬉しそうに和らげたマグナが、じゃない。ビーニャを選んだはずなのにこうやってまた、中途半端に甘い顔をしてしまう自分こそが、誰よりも愚かで救いようのない大馬鹿者だ。それでも直に物語は節目を迎え、マグナたちの戦いはこれまで以上に過酷なものへと変わっていく。それまでの僅かな間ぐらい、不安な気持ちや弱気に挫けそうな心へと少しでも寄り添って励ましてやりたいと思う気持ちも本当だった。
「今日のことは黙っておいて下さいね? お互い立場もありますし、私も聞いたことを含め胸に留めておきますから」
「うん、今はそれがいいよな」
街中の通りに繋がる湖畔の入口へと足を進めながら、ぽつぽつと言葉を交わした。こんな時間まで話し込むとは思っていなかったけど、それはマグナも同じだろう。きっとアメルが美味しい夕食を作っていただろうにと眉を下げて言えば、どうしてもお腹が空いたら大将のところに行ってみるよ、と軽く笑って言ったけれど、私のようにデグレア側の人間がいつどこに入り込んでいるかも分からない状況だ。もっと危機感を持って欲しいんだけどなと苦笑しつつ、高級住宅街の方面に向かっていくマグナを小さく手を振って見送ったところで私は息を吐いた。
「盗み聞きとは、随分感心な趣味をお持ちですね」
次に会う時は紫熟との誓約を結んだ石も忘れず持ってこよう、と胸中呟きながら振り返りもせずに呆れ声だけを投げ掛ける。それを呼び水にゆらりと人の気配が現れて、数歩の距離を詰めてくるのを待って視線を持ち上げた。
「驚いたよ。アンタ、思ったよりウブいんだな?」
「貴方こそ、いつから諜報員に鞍替えなさったんですか?」
半眼で掬い上げるように睨みつける先、ひどく機嫌良さそうに私を見下ろす灰色の目には優位を確信しきった笑みが滲んでいる。
マグナと顔を合わせる一時間ほど前のことだった。頬を撫でる風の強さが変わり、物思いに耽るあまり長居をしてしまったと苦笑半ばに踵を返そうとしたそこで、肩に乗った覚えのある重みに目を見張った。咄嗟に身を捻るようにして振り返った私の前にいたのは、ここ数日張り付いていた視線の主。ゼラムに残ったビーニャの随行員であり世話役の、何かと疑念の眼差しを差し向けてきていた彼だった。
「マグナ、って言ったよな?」
断定の響きで問い掛けてきた薄灰色の目には見たこともない興奮と歓喜の色が滲んでいた。お嬢様付きの世話役と侍女という役割同士、膝丈まであるチェスターコートに薄手のハイネックセーターに身を包んだ彼も紺色を主体とした装いで、普段はその振る舞いもそれらしく取り繕っていたけれど、今にも上擦りそうな声を無理に抑えながら詰め寄ってくる彼からは軍人特有の凄みと圧が溢れ出ていた。
「ファナンの前夜祭、中央大通りの広場。あの時も見てたよな? 聖女一行の中心人物、あの召喚師の男。そいつの名前だ、あんたが言ったのは」
まさかあんた、と思い出したように表情を取り繕った彼は、口角を柔らかく持ち上げた。
「あちら側と、内通してるんです?」
「……いきなり何を言うかと思えば、少し誤解が過ぎますね。皆さんと私やお嬢様とでは与えられている役目が違うことくらい、ご承知の上かと思っていましたが」
どっと冷や汗が吹き出るのを感じながらも顔色を変えずに返せたのは奇跡に近い。引き攣りそうな喉に無理やり唾液を飲み下して冷めた声を演じた私に、彼はまだ納得行かないような顔をしていたけれど、その場はどうにか押し切った。本当に、と暗い目をして覗き込んできた彼に、本当です、と目を逸らさずに答え、それで渋々引き下がってくれたのだけど、雑踏に消えていく背中を見送ってなお王城前に留まってしまった時点で判断を間違えたのだろう。
監視の目は確かに撒いたはずだったのに、どうして。ファナンの時も見られていたなんて、彼は一体、いつから?
そんな動揺と不安に狼狽えたままでは宿に戻る気になれず、もう少し時間を潰してから帰ろうと考えてしまった時点で思うツボだったに違いない。
監視の目を撒いたつもりになっていた。そう思わされていた時点で、彼の方が圧倒的に有利な立場にあった。黒の旅団に登用されるような精鋭でなくとも長年厳しい訓練を重ねてきた兵士なのだ。私に悟らせるような監視しか出来ないわけがなく、そう思えば一度すんなりと引き下がってみせたのも演技だったのかもしれない。そこまで考えが及んだのは、マグナに呼び止められた後だった。
「いいんですか? あいつには特務の精鋭様たちも散々煮え湯を飲まされてるだろうに、あんな親しげにして」
取って付けたような敬語で彼が笑う。いつもは彩度の低い灰色の目は薄明るく輝いて、不穏な笑みを滲ませている。
「……レイム様から内々に命じられていることですので、質問にはお答え出来ません」
「ああ、いいさ。それで構わない。俺にも分かったことがあるからな。あんたのあの行動、お嬢様は知らないな?」
再びがらりと口調を変えて、彼は蛇のように目を細めた。全てが叶ったとばかりの優越感に満ちた笑みに悪辣な気配が交じり、これまで向けられてきた様々な悪意を思い出しながら私は首を傾げて尋ね返す。
「……脅すつもりですか?」
ビーニャの癇癪が破裂すれば被害を被るのはそっちの方だ。私がマグナに甘い対応をしたと知ってもおそらくビーニャは私を殺さないが、報告を上げた兵士は八つ当たりの憂さ晴らしを食らうだろう。そう言外に匂わせた私に、彼はせせら笑うように息を吐いた。
「俺だって好き好んで化け物の尾を踏むような真似なんざしませんよ。だけどあんたの理由は違うだろ。あの化け物が泣くのも怒るのも嫌でたまらないと思ってるあんたには、こんな脅しでも十分通じる。だから、目をつぶる代わりに……」
見返りが欲しい、と告げられた言葉の意味が分からず呆けたように見つめ返した私に、彼はおかしそうに口の端を吊り上げた。私の反応が滑稽でたまらないとばかりの様子だけれど、私に差し出せる見返りなんて思いつく限り大したものはない。ビーニャの温情で息をしているだけの召喚獣に給金なんて存在しないし、特定の兵士を取り上げて厚遇するような権限だって持ち合わせていない。このひとは一体何を望んでいるのだろうか、と困惑をそのまま眼差しに乗せて返した私に、彼はあっさりと答えた。
「あるだろう? あんた自身が」
頬に手を添えて口説くような距離で囁かれてもなお、困惑の表情を消せなかったのは私だけの責任とは思えない。だって、彼の言うことは全く持って意味不明だ。ここが辺境の街や人里離れた地ならともかく、ゼラムなんて聖王国切っての繁華街と歓楽街を兼ねた劇場通りを擁する街だ。美味しい食事や刺激的な遊びといった様々な快楽を供する場には当然、煌びやかに着飾った女性から艶めかしい接待を受ける店だってある。金に糸目さえつけなければいくらだって綺麗所も見繕えるだろうに、なぜ私相手に拘ろうとするのか。
「意味が分かりません。それで貴方は満足だと言うのですか?」
眉を顰めた私に、彼は初めて清々しい笑みを見せた。
「ああ、そうだ。こんなの憂さ晴らしだ」
すり、と乾いた親指の腹が頬を撫でていく。ささくれだった皮膚が唇の端に引っ掛かって、私の口角を捩じ上げるように無遠慮に押し込んだ。
「あんたばかり幸せそうなのが腹が立つ」
だから引きずり下ろしてやりたいだけだ、と薄ら笑いを浮かべて、彼はうっそりと私を覗き込んだ。
あれから数日が過ぎた。何が起きようとも時は待ってくれないし、私のやるべきことも変わらない。ビーニャ不在の間は黒の旅団への報告任務を代行すると言う役目もあって、少数のデグレア兵と共に足を運んだ大平原の野営地で私は久々にルヴァイドと顔を突き合わせていた。
「差し当たってはこんなところでしょうか」
イオスではないけれど、早々顔を合わせないルヴァイド相手となると報告ひとつ取っても気合いが入る。手短に済ませるつもりだった予定を修正して少しばかり念入りな説明を上げたところで、それまで表情も変えずに耳を傾けていたルヴァイドがおもむろに口を開いた。
「お前は、あれから変わりないか?」
低い声色と静かな眼差しからは気遣う気配しか感じられず、一拍の間を置いて私はにこやかに答えた。
「ありがとうございます。大して面倒事も起きていませんし、少し退屈なくらいですよ」
跳ねた心臓に目を逸らして綺麗な笑みを取り繕ったけれど、ルヴァイドの慧眼に驚かされるのはこれが初めてでもなかった。ビーニャの随行員の殆どは本国からの先遣隊として合流した兵であり、つまりは黒の旅団の指揮下に入ったことのない兵たちだ。目の届くうちであれば兵の規律にも不安はなかったが、と遠回しに語るルヴァイドは私の周りで何か問題事が起きていないか気にしてくれているらしい。例えば、本来負い目にすらならない何かを盾に無理を強いられていないか。弱みに付け込まれて負担を課せられているのではないかと懸念しているようで、さすがに心配しすぎだと笑って返そうとした私へとルヴァイドは神妙な顔をして言った。
「だが、お前は本来、こちら側の人間ではないだろう」
「え……それって、まだ裏切りかねない奴だと思われてるんでしょうか……?」
そうだとしたら正直、結構本気で悲しいかもしれない。意図せず気落ちした声を返してしまえば、む、と眉根を寄せてルヴァイドは律儀に訂正を挟んだ。
「すまない。言い方がよくなかったな。俺が言いたかったのはそういったことではなく……お前は、人を殺すことに向かない人間だと言うことだ」
ひたりと視線を合わせて遠慮も躊躇いもなく言い切ってくれたルヴァイドに、何の反論も返せなかった時点で勝敗は決していたのだろう。
「我ら軍に身を置くものは目的と理由さえあればそれで十分事足りる。どのような業を背負おうとも命令遂行の邪魔は消し、障害となるものは排除する……悼む心があろうとなかろうと、傲慢にも生き続けることが出来る人間だ。だが」
お前は違うだろう、と疑う余地なく断言したルヴァイドに返す言葉なんて見当たるはずもなかった。大して関わりのない私をここまで気遣ってくれるのは、はたして騎士の務めや矜持から来るものなのか。だとしたら悪魔たちに食い物にされてしまったのもよく分かると、声には出さずに小さく独り言ちた。
愚直なほどに真っ直ぐに、気高く騎士らしく在ろうとする一方、命令だからと全てを割り切られるほど情を捨てきれないのがルヴァイドの魅力であり弱点だ。僅かな合間を縫って足繁くレルム村の方面へと通う姿もよく知っている。向けられる気遣いを有難く思いこそすれ、だからこそ彼にこれ以上の負担を掛けるなんて到底、認められるわけがなかった。
「うんうん、大分仕上がってきましたね。さすがはイオスくん、想定よりずっと早いです!」
「ありがとう、お前の褒め言葉は話半分に受け取っておくよ。ところでビーニャの帰りが早まるらしい話はもう聞いたか?」
イオスの召喚術の鍛錬については順調そのものだった。あくまで召喚速度や精度の向上に焦点を絞ったことが功を奏して、気分屋のメイトルパの獣、エールキティの憑依召喚に限って言えばひょっとすると私より僅かに早いほどかもしれない。安定した召喚の土台となるのは十分な魔力や素養の他に、自分の呼び掛けに相手が応えてくれるという絶対の自信だ。命令にせよ信頼にせよ、呼び掛けに応えてくれると信じて疑わないくらいが丁度いいと助言したそれがイオスにはバッチリ噛み合ったらしい。前に頼んだ杖のことやビーニャの戻りについての情報も入り、ほくほく顔で喜んでいるとイオスは呆れたように尋ねかけてきた。
「前々から気になっていたが……お前はどうしてそこまでビーニャに入れ込む? 大恩のある相手のように敬って傅いているが、はたしてアレがそこまでの相手か?」
「そうは言いますけど、イオスくんだってルヴァイド様にご執心じゃないですか。そんなに不思議なことですかね?」
わざと茶化して返したけれど、ナチ、と圧を感じる声で呼ばれて背筋を正す。真面目な話だと言外に告げる眼差しに肩を落として息を吐けば、乗り気でないのが伝わったのか。イオスは少し口をもごつかせてから、言いにくいことならいいが、と付け足した。そこまで気を遣われると逆に気が引けてしまうのにと軽く笑って、私はなんてことないように答えを告げる。
「すごく似てるんです。大好きだった友達に」
一番初めは本当にそれだけだった。それだけでも十分だったのに、ビーニャのことを知れば知るほど面影が重なって、二度と会えないと思ったあの子にまた会えたみたいで嬉しくて、この子のためなら何だって出来ると信じ込むようになるまで大した時間は掛からなくて。
「何だってしてあげたくなっちゃったんですよねぇ」
そう私が言えば、イオスは渋い果実に大口で齧りついたような顔をして憐憫の眼差しを注いできた。
「アイツと同一視するなんてその友達とやらに失礼なんじゃないか? それに友人相手に一方的に尽くすと言うのは健全な関係ではないだろう」
「そう言われると困っちゃうんですが、幸いにと言うか何と言うか、ビーニャ様にとっての私って友達とかじゃないですし……少しでもお役に立てるように便利な道具らしく振る舞いたいって思っても、ほらね? 誰も困りはしないんですよ」
丁度よかった、と晴れやかに笑ってみせれば、お前もつくづく勝手だな、とイオスは呆れたように鼻を鳴らした。でも、一緒にいられるだけで十分過ぎるほど幸せを感じてしまう相手に何かを返そうとするなら、そのくらいの距離があった方が上手く回るんじゃないだろうか?
別に自虐を込めて言っているわけではなく、一方的に与えられるばかりでは護衛獣としても道具としても、ただの私としても居た堪れないにも程があって、だから少しでも出来ることを必死に探しているだけでしかない。私にも何か出来ることはないか、どうにかして報いられないか。その一心で動いていることに嘘はないけれど、勝手な自己満足でしかないことも重々承知の上だ。本気でそう思っていたのもあって、そうかな、と呟く声に顔を上げた私は唖然と目を見張っていた。
「確かにお前のそれは一般的な友愛と呼ぶには心酔や崇敬の念が強すぎるきらいがあるが。ビーニャの方は実際、お前をどう思ってるんだろうな? 僕からすれば、それこそ」
友達に見えるが、と何気なく言ったイオスに他意はなかったはずだ。ただ思い返した印象を口にしただけ、率直に思うところを言葉にしただけ。それが私にとってどれだけ心を揺さぶられるものだったかも知らずに、あっさりと与えてくれただけ。
「……イオスくん」
だけどその瞬間、誰にも寄り掛からないよう張り詰めていた緊張の糸が音を立てて緩んだ。言ってみようかな、と気持ちが大きく揺れた。こんなことを言えば負担になる、面倒を掛けると迷わず押し込めてきた弱音がおずおずと顔を覗かせた。こんなことで勝手に期待されてしまってもイオスだって困るだけだと呆れ窘める声がする一方、私にない視点で想像もしない言葉を放ってくれたイオスへと縋り付きたいような気持ちがしきりに訴え掛けてきた。
イオスくんなら、助けてくれるかもしれない。
こんなことで忙しいイオスの手を煩わせたくない、私ばかりが被害者のように振る舞うなんて卑怯じゃないか、ビーニャの機嫌を確実に保つためには黙って大人しくしていた方がいいんじゃないか。そんな懸念や不安がひそひそと声を交わす中でも、いつかのイオスから貰った言葉ははっきりと存在を主張していた。対処に迷うなら報告しろと当然のように言い切ってくれた、その記憶を握り締めるようにローブの胸元を掴んだ私は顔を上げる。
「あの、実は……」
そうして悩みを打ち明けようとしたところで邪魔が入るなんてお約束でしかないのに、どうして本気で期待してしまったんだろう。
「ああ、ここにいたんですね。そろそろ出発しないと宿に着くのが夜更けになっちまいますよ。最近じゃ城門のところでそれなりに時間を食うんですから、あまりボヤボヤしてないで下さいよ」
「おい、まだ僕たちの話は終わっていないと言うのに貴様は何を勝手に……それになんだ、その巫山戯た態度は!?」
召喚術の鍛錬や実戦訓練は屋外で行うのが一般的だ。万一の魔力暴発に備えて軍用テントではなく陣幕で仕切られただけの平地にいたから、事前の声掛けなく近づいていいと判断した。そんな彼の理屈は分からなくもないけれど、イオスもいる場で浮かれたような軽薄さを隠さず近付いてきたことにひやりとする。そして不安は的中し、片眉を鋭角に跳ねて苛立ちも露わに怒鳴り付けたイオスへと彼は一兵卒らしくない冷めた目に薄ら笑いを浮かべて言い返した。
「与えられた任務を全うしてるだけですよ。お嬢様の側仕え同士、気心知れた仲らしく振る舞った方が自然ってもんでしょう?」
「ええ、ですのでどうか、先ほどのことは大目に見て頂けると」
普段の癖が出てしまったようで、と話に割り込んでイオスの怒りを宥めようとする間にも、彼はまるで気にした様子もなく私の肩にローブを羽織らせるまま、移動を促すようにぐいぐいと背中を押してくる。そういったわけなので、とおざなりな会釈で去ろうとする彼にイオスが呆気に取られている気配を感じつつ、どうにか顔だけでも振り返った私は短い別れの挨拶を告げた。
「それじゃまた、イオスくん!」
きっと違和感どころか間違いなく不審を覚えただろうなと、野営地を離れて街道を歩き始めても溜め息がこぼれそうになってしまう私に対し、彼は相変わらず鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌だった。あくまで彼は私の弱みを握っただけで、イオスにまで強く出られるようになったわけじゃない。それを失念してしまうほど、あるいは自制が効かなくなってしまうほど、今の状況が愉快で面白くてたまらないのか。
まあ、それもそうだろうな、と私のすぐ前を行く彼の背中を眺めながら思う。
立場はひとを変える。相手に対して一方的に有利な状況にあれば尚更、圧倒的な優越感に酔い痴れ、驕り高ぶった態度を取ろうと不思議はない。一兵卒として軍の規律に縛られ耐え忍んできたこれまで積もり積もった不満もあれば、相手の意志や都合も気にせず強制的に自分の考えを押し付けられる現状に麻薬じみた快感を覚えているのだろう。
「……私はともかく、イオスくんにまでああいった態度を取るのはタメになりませんよ。貴方に取っても」
「ああ、分かってる。俺が見てるのはあんただけさ」
独り言めいた呟きに反応が返ってくるとは思わなかったけれど、ぱっと振り返った彼は歩調を緩めて私の隣にまで来た。憐れむような慈しむような目をして見下ろしながら、あんたは同じだから、と波打つ唇の隙間から囁きを落とす。
「これでもちゃんと分かってたんだ。俺だけが格別不幸ってわけじゃない、運命に振り向いて貰えなかった奴らなんてごまんといる、所詮は十把一絡げの有象無象にゃ世界を変える力なんてなかったんだって」
妬み嫉みを燻ぶらせつつも現状を嘆くばかりで満足していた。嫉妬と羨望に身を焦がしながらも冷えた諦めを飲み込んでいた。そのままずっと変わらないと思っていたのに。
「あんたが、俺なんて足元にも及ばないくらい優秀でズバ抜けた奴だったらよかったのに。イオスみたいに冷徹で、弱さなんか切り捨てたような奴ならよかったのに。……なあ、俺とあんたで何が違った? 俺になくてあんたにあったのは何だ? 偶然か? 切っ掛けか? そんな、俺にはどうにもならないことで差が出来たって言うんなら、どうして俺は」
だから、と足を止めた彼は、何かを振り切るようにひしゃげた笑みのまま吐き捨てた。
「割り切れない。許せない。そう思ってならないのをあんたに突き付けてやりたい。あんたと俺とで一体何が違ったんだって、これみよがしに爪を立てて思い知らせてやりたくなる……」
影が、降ってくる。陽射しを遮るように前のめりに傾いた彼の目が私を貫いて、頬に添えられた手指の先が米神へと滑るついで、眼鏡のつるの下に潜って無造作に押し上げる。不自然に浮かんだつるの感触を不快に思うより早くもう片方の手が眼鏡を抜き去っていき、輪郭が見えないくらい迫った彼はもう鼻先が擦れ合う距離で、寸前、自由な右手を差し込んで乾いた唇を防いだ私に彼は不満を覚えたらしい。
「……なぁ、立場、分かってるよな?」
「お嬢様の侍女と世話役、それが私たちの役割でしょう。誰が通るとも知れない道であまり品のないことをしないで下さい」
声を低めての問いかけに眉根を寄せて言い返せば、彼の口元を覆っていた私の手を剥がしながら仕方ないなとばかりに苦笑してみせる。こんなこと腹を立てるまでもないと言いたげな、余裕に満ちた態度を取られた私は刺々しくも言葉を返す。
「少しは主張のひとつもしたらどうだ、と言ったのは貴方でしょう? いちいち脅されなくたって立場は理解しています」
「ああ、拗ねたのか? 悪い悪い、俺が悪かったから機嫌を直して下さいよ。あんたのそんな顔を見たらお嬢様がまた荒れちまう」
誰のせいだと思ってるんですか、と私が言い返すのを待っていたように、俺のせいだな、といけしゃあしゃあと返す彼は完全に開き直っているように見える。強引な手を取ることに躊躇いがなくなって、人目も気にせず行動に出ることが増えて、重さを隠さない眼差しで私を見るようになった。ロッカのことを思い出すな、なんて呑気な現実逃避をするにしても限度がある。何より厄介なのは、ここまで疲弊を深めてもなお、彼のことを本気で疎ましいと切り捨てることが出来ずにいる私について見抜かれてしまっていることだ。
「本気で嫌だというなら、あんたなら俺をどうとだって出来る。なのにそれをしないってことはつまり、そういうことだよな?」
付け込まれているのは私の弱さ、彼を殺すと言う選択に踏み切れない私自身だ。それを理解しているから彼はこうも強気に振る舞う。自分の命を盾に、私はそれを切り捨てられないと高を括って増長しきっている。少なくとも今は味方、同じ陣営に属しているのに害することなんて出来ない。本気でそう思っている私を鼻で笑って見下して、憐れんでいるのだ。
思ってもないことを嘯いて笑う彼を見上げて、私は無言で唇を引き結ぶ。偽善者の自覚があっても、ただ自分の都合だけでは誰かを害することに踏み切れない私はさぞかし滑稽に映るだろう。けれど同時に、どんな代償を支払ってでもビーニャの傍にいると決めたのも私自身だ。そのためならいくらでも心以外は差し出して構わない。だから、そう。
「別にこんなの、どうということありませんし」
静かな溜め息をひとつ、明後日へと視線を投げた私に返ってきたのは堪え切れないような笑い声だけだった。
告白、そして絶望回その1。モブ夢っぽい。行動により引き起こされる変化は必ずしも望む方向に留まらないので、何ていうかまあ残当ですね。