屋敷に帰り着く頃にはとっぷり日が暮れていた。
タキツと別れた後は殆ど駆け足だったけれど、それでもさすがに夕飯には間に合わなかった。玄関ホールに入ってすぐ濡れた髪のユエルと出くわし、着替えやタオルを持ったケイナにカイナと擦れ違った時点で正直予感はしたものの、パンの一切れさえ残っていない暗い台所に肩を落としてしまったのは仕方がない話だろう。見事に食いっぱぐれてしまった俺だけど、屋敷にいた皆はお腹も満ちてそれぞれ自由に寛いだ時間を過ごしていたらしい。空きっ腹を宥めながら広間に戻ってくると、丸椅子にどっかと座り込んで何やら唸っていたフォルテとレナードさんが俺に気づいて、よう、と気さくに声を掛けてきた。
「珍しく遅いお帰りだな? ネスティの奴なら夕飯もそこそこに引っ込んじまったし、話があるんなら明日にしといた方が無難だぜ」
「そっか。フォルテたちは……また練習してたのか?」
熱心だなぁ、と感心しながら覗いた二人の手の中には小指の先ほどのサモナイト石が転がっている。透明な輝きを宿したそれは俺も散々お世話になった召喚術、ロックマテリアルを呼び出せる誓約済みの石だ。まずは魔力の感覚を掴むのが先だときっぱり断言したミニス先生からの宿題で、最近の二人は暇さえあれば専らこの小さな石を光らせることに腐心していた。俺たち召喚師からすれば体内に巡る魔力を意識して外へと向けること、つまりは手にした杖やサモナイト石に込めるなんてのは基礎の基礎で息をするのと同じくらい簡単なことだけど、これまで魔力を扱ったことのない二人にしてみれば相当な難問なのだろう。時折光ったと思いきや儚く消える輝きに一喜一憂していたのを止めると、苦笑いを浮かべた顔を見合わせたフォルテとレナードさんは大仰に肩を竦めてみせた。
「何となーく掴めてきた気はするんだけどよ、ここぞってところがな? とにかく気合いを入れりゃいいってわけじゃねえ、変に力むのは逆効果だってとこまでは分かったが、その先がどうにも……手を焼いてるってわけだ」
「一朝一夕には行かないと踏んじゃいたが、なぁ? 余計なことをゴチャゴチャ考えずにやった方が上手くいってる気はするが、これがどうして意識すると中々難しいもんでな……」
溜め息交じりの苦笑をこぼす二人に何か助言出来ればと思うものの、普段これと言って意識してやっていないことを改めて説明する難しさに俺は敢え無く撃沈した。魔力を扱うにはとにかく集中することだけど、俺はもちろんネスやミニスだっていちいちサモナイト石に魔力を通すだけで神経を尖らせてはいないだろう。幼い頃から慣れ親しんだ魔力の扱いは今じゃあ頭で考えるより早く無意識に、無造作に、自然体の延長でやっていることだから逆に説明のしようがない。
「俺も殆ど無意識にやってることだしなぁ……二人だって武器を構える時にわざわざ何か考えたりしないだろ? 自然と身体が動いていつもの姿勢を取ってるじゃないか?それと同じでさ」
言えるのはそれくらいかな、と答えになっていないことを返した割に二人は何だか納得したような顔をしてくれたけど、本当にコレで良かったんだろうか? ミニスがいない間のお目付け役なのか、近くのソファに深々と身を預けて分厚い本を捲っていたルウまで何故か満足げに頷いてくれたことに曖昧な笑みを返したけれど、そんな疑問を打ち消してくれたのは予想外の人物だった。
「よかった。ミニスちゃんもどう教えたらいいか悩んでたみたいで、ちょっと気になってたんです」
夜風にでも当たろうと足を運んだテラスにいた先客、アメルだ。俺を見て目を丸くしたのも束の間、ちょうど話し相手が欲しかったのだと声を弾ませると、俺がいない間のことをあれこれ教えてくれた。風呂嫌いのユエルをついに浴室に連れて行ったけれど、十分髪を乾かす前に逃げられてしまってお冠のミニスがタオル片手に追い掛けているんだとか。夕飯もあまり食べなかったネスのことが心配で、夜中にお腹が空いても困らないよう何か作っておこうか迷っていたんだとか。
俺よりずっと皆の様子を気に掛けていたアメルは、最近のネスの様子は俺とのことが原因で、だからしっかり向き合って話をするためにも協力して欲しいのだと正面から頼むと、その場で大きく首を縦に振って頷いてくれた。
「ええ、あたしに出来ることなら喜んで。だけどネスティさんには皆お世話になってますし、フォルテさんたちだってきっと喜んで協力してくれたと思いますよ?」
断られるとは思っていなかったけど、意気込み十分といった様子で張り切るアメルに驚いてしまったのを見抜いてだろう。実は、と内緒話でもするように声を潜めて教えてくれたのは意外な話だった。
フォルテたちが魔力を込める練習に誓約済みのサモナイト石を使っているのは、なんとネスの助言が切っ掛けだったらしい。未誓約の石にうっかり魔力を込め過ぎれば暴発や事故を引き起こす可能性もあるからと、アメルに召喚術を教える時にもあえて低威力の術を発動出来る石を使っていたそうだけど、念のためにとネス自らそのやり方をミニスに提案したのだとか。そんなの、ミニスの召喚術講座を見て見ぬ振りするどころの話じゃない。あれだけ堅物だったネスがまさか率先して術の習得に手を貸すような真似をするなんて、と思わずこぼれ落ちそうなほど目を見張って見つめ返したミニスへと、ネスは少し決まり悪そうにしながらも目を逸らさずに答えたそうだ。
「あの二人はアメルと違って元々召喚師としての素質があったわけじゃなし、過剰な魔力を込めてしまう恐れはまずないだろうが……それでも、万一のことがあってはいけないからな」
仲間なのだから、と声にならない言葉を正しく受け取ったのは陰から覗いていたアメルだけじゃなく、きっとミニスも同じだった。その助言を真摯に受け止めたミニスは更に念を入れてフォルテたちの練習の場に必ず立ち会うか、代理の誰かを立てることにしたそうで、さっきのルウの笑顔の理由がやっと分かった俺は自然と緩みを帯びる頬をそのまま、嘆息混じりに呟いた。
「そうだよな、仲間だもんな……」
「そうですよ。もう、マグナさんも水臭いんですから。ネスティさんもですけど二人とも……結構隠し事、多いですよね?」
「あ、あはは……」
不意打ちの鋭い指摘に内心ひやりとしたのが顔に出ないよう空笑いをこぼすけど、アメルも案外勘がいい。帰りが遅くなったのはタキツと会っていたからだけど、そのことだってまだ秘密だ。少なくとももう少し、互いの立場や状況を変えるための何かを見つけてから相談したかったけど、こんな調子で秘密を守り抜けるのだろうかと早速不安に駆られてしまう。
「おかえり、マグナ! あれ、なんだろ……どこかで嗅いだことのあるニオイ……?」
玄関先で会ったユエルが不思議そうに鼻をひくつかせてきた時にも慌てて誤魔化したけど、よく考えれば今のタキツとユエルは会ったこともないのに変に狼狽えすぎたかもしれない。隠し事や秘密ってそれだけで気疲れするんだな、と知りたくなかった新事実をしみじみと噛み締める俺だったけど、不意に腹の虫が大きく鳴いたことで思わず赤面した。
「マグナさんたら……」
口元に手を当ててくすくす笑うアメルも、くう、と控えめな腹の虫が重なったことでバツの悪そうな照れ笑いに変わる。皆のことを心配し過ぎて自分のことが疎かになっていたらしいアメルと二人、顔を見合わせて笑ってから、なあアメル、と俺が小声で持ち掛けたのは皆には内緒の外出だった。
「こんな遅い時間にいらっしゃったのは初めてですよねぇ。さては恋人同士で夜のお散歩ですか?」
「そうですねえ、もしかしちゃうとそういうことかもしれないですよ?」
「はは……二人ともあんまりからかわないでくれよ?」
こっそり屋敷を抜け出して訪れた先はシオンさんの屋台だった。遅い時間でも店を開けていると前に聞いたことがあったからだけど、暗い路地に灯る暖かな橙色を見つけた時にはほっと息を緩めずにはいられなかった。揶揄い交じりに出迎えてくれたシオンさんに楽しそうに乗っかるアメルだけど、あくまで冗談な素振りを見て俺も苦笑交じりの言葉を返しながら席に着く。
この様子だとやっぱり、アメルが俺のことを好きだなんて先輩の勘違いだったんじゃないかな?
そう思えば少しがっかりなような安心したような、何だか肩透かしを食らった気分になるけれど、注文から間もなく目の前に置かれた丼の湯気を顔に浴びる頃にはそんなモヤモヤもすっかり忘れてしまっていた。
「はぁ……おソバ、本当に美味しかったですねぇ」
シオンさんの屋台以外でソバを食べたことはないけど、きっとこれほど美味いソバには滅多にお目にかかれないに違いない。木製の箱に並んだ生のソバを沸騰するお湯に放り込んで手早く湯がいて、水気を切ったそれを良い香りのする黒っぽいスープで満たした丼に円を描くように滑らせる。ネギの刻んだのや柔らかく煮た山菜、からっと香ばしく揚がったエビやキノコの天ぷらで飾るのを含めても大して時間は掛かっていないはずなのに、どうしてあんなに美味く作れるんだろう?
美味しいソバと温かい気遣いで心もお腹も満たされて、心地いい満足感に浸りながら歩く路地に人影はなかった。シオンさんの屋台が出ていたくらいだし住宅街の全員が寝静まったわけじゃないだろうけど、点々と並ぶ街灯の明かりに伸びるのは二つ分の影だけだ。何だか悪いことでもしているようで少し浮つく気分に誘われるまま、他愛のない話を交わしながら月の無い夜道を歩いていく。
「ネスティさんに貰ったんです、お守り代わりにって」
夜の街に出るのだし互いにそれなりの準備はしてきたけれど、アメルにはとっておきのお守りもあったらしい。話が途切れたところで、実は、と秘密を打ち明けるようにそっとポケットから取り出したのは、綺麗な端切れに包まれた淡い紫色のサモナイト石だった。誓約済みの石だと一目で分かったそれは霊界サプレスの召喚獣、ポワソを呼び出せる物だ。召喚術としてでなく実体を持った存在として呼び出す技術さえ身に着ければ、もしもアメル一人はぐれてしまった時にもきっと役立つだろうから。そう言って昨日、ネスから渡されたばかりだという石を大事そうに仕舞い直すアメルを見ながら、胸に込み上げてきた熱い思いに俺はぐっと唇を結んだ。
俺でさえ気が付いてしまうくらい、そこに込められた意図は明らかだ。ネスは本当に今この瞬間も、アメルのために、皆のために、自分に出来る精一杯のことをしているのだ。
もし俺とネスがアメルの件から手を引いたとしても、それに倣ってアメルの身柄を派閥に預けて良しとするような仲間たちじゃあない。一片の疑念もなくそう確信した上で、少しでも召喚術という強力な武器を皆に残していくための助言をし、アメルには伝えられる限りの知識や技術を伝え、決して一人ぼっちにならないようにと手の中に隠し持てる味方まで残そうとしている。導きの庭園で俺との話が物別れに終わった後も、最悪の想定に備えてネスはずっと、出来る限りのことをしようとしていたのだ。
その方法に俺と同じ、誓約済みのサモナイト石を相手に贈ることにしたのは少し笑ってしまうけど。
やっぱり兄弟弟子だと言動に似てくるところがあるのかな、と照れ交じりのおかしさを覚えていれば、アメルもちょっと唇をむずつかせるのが見えた。
「前から思ってたんですけど、ネスティさんとタキツさんってちょっと似てますよね」
今はもうナチさんって呼んだ方がいいのかな、と独り言ちるような声に首を捻りつつ俺は返す。
「どっちでもいいんじゃないかな? 俺がタキツって呼ぶのはいつかタキツが俺たちの元に帰って来てくれるよう、願掛けみたいなものだし。好きに呼んで構わないと思うぜ。でも、ネスとタキツが似てるってどうして?」
脈絡なくタキツの話が出てきたように思えて疑問が浮かぶけれど、アメルにとっては自然な流れだったらしい。だって、と顔を振り上げたアメルはその質問を待っていたとばかりに答えた。
「ネスティさんもタキツさんも優しくって親切だけど、自分が大変な時や困ってる時はちっとも頼ってくれないじゃないですか。わざと距離を置いたり、突き放すような言い方をしたり……そうやってあたしたちを遠ざけて自分の問題には関わらせてくれない。一人で何とかしようとしちゃう。今回のネスティさんのことだけじゃなく……あたしたちが気が付かなかっただけで、多分、これまでも似たようなことがあったと思うんです」
自分がちょっと無理をすれば、我慢すれば、何事もなく収まるから。皆に心配を掛けたり、不安にさせるくらいなら、黙っていた方がよほどいいから。自分のことなんて後回しで構わないんだから。
「……ズルいですよね、そういうところ」
堰を切ったような勢いから一転、アメルはぽつりと呟いた。急に話し声が途切れて、それまで意識していなかった虫の音色や夜風の囁きが聞こえてくる。場に響くのは互いの足音ばかりになって、くっきり浮かび上がるような静寂の輪郭を感じた時だった。
「あたし、タキツさんが羨ましかった」
俺は顔を上げた。アメルは前を向いたまま、こっちを見てすらいない。
「出会った時から当たり前にマグナさんの傍にいて、それがすごく自然な感じで、いいなぁって。村を出てからますます、そう思うようになりました。マグナさんはあたしに沢山話し掛けてくれたし、色んな場所に連れていってくれたけど……もっとお話したいなって思っても、皆に好かれているあなたはすぐ誰かのところに行っちゃうから。本当は結構、ヤキモチ焼いちゃってたりしたんですよ?」
知らなかったでしょう、とどこか楽しげに声を揺らして、アメルは風に遊ばれる髪を押さえた。アメル、と思わずこぼれた声は夜風に紛れて届かない。ワルツでも踊るようなゆったりとした足取りで、俺の前を進んでいく。
「初めてマグナさんと会った時、自信を持って、なんて言いましたけど、そんなのあたしにだってなかった。自分を信じるなんてどうしたらいいのか、ちっとも分からなかった。どうすれば皆に迷惑をかけずに済むのか、どうしたら皆を困らせずに済むのか……聖女だなんて呼ばれるようになってからはますます、そんなことばかり気にしてて。だからあたし、あたしにないものを持っていて、あたしに出来ないことをして、あなたにいつも見てもらっているタキツさんのことがずっと羨ましくって……苦手だった」
でも、と呟く声と共にその背中が止まる。静かに息を吸い込んで、アメルは一度、深く俯いた頭を上げた。
「それだけじゃなかった。タキツさんへの気持ちは、それだけじゃなかったの。だってあの人はあたしを見てくれた。聖女じゃないあたしを見て、良い子じゃないあたしに気づいて、そうして当たり前みたいに寄り添ってくれたから……だから。だからあたしずっと、タキツさんに甘えてたんです」
子供みたいなワガママも言ったし、癇癪めいた八つ当たりだってぶつけた。どこにでもいる普通の女の子でしかない、ただのアメルを見せつけた。
これまで抑え込んできたものを一気に吐き出すように、懺悔でもするように並べ立てたアメルを、隣に並んだ俺は何も言わずに黙って見つめた。きっと言葉にしなくてもアメルにはこの想いが通じると思った。ただの自分を当たり前に気にかけて認めてくれる眼差しに、どんな出来事や変化があっても変わらず見つめてくれる瞳に、どんどん膨らんでいった言葉にならない気持ちは俺もよく知るものだったから。
「……自信って、きっと一人でに湧いてくる物じゃない。誰かに信じて貰って初めて生まれる物だと思うんです。聖女としてのあたしじゃない、ただのアメルを見てくれたのは皆さんもでしたけど……この人はちゃんとあたしを見てくれる、どんなあたしでも変わらず受け入れてくれるんだって思ったら、不安な気持ちがすっと楽になるのが分かりました。訳の分からない力があっても不思議なことがあったとしても、あたしはあたし、何も変わらないんだって。こんなあたしにも出来ることが確かにあるんだって、自分で自分を信じられたの」
「アメル……君は、本当に……」
どこか懐かしむように語っていたアメルはふと口を閉ざすと、その場で足を止めてぱっと俺を振り仰いだ。両手を後ろ手に組んで、下から覗き込むように見上げる顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。釣られて笑ってしまいそうなほど晴れ晴れした笑みに目を奪われていると、マグナさん、とくすぐるような声が俺を呼んだ。咲き初めの花みたいに淡く色づいた唇が綻んだ。
「あたし、マグナさんが好きです。大好き。初めて出会った時から、ううん、ひょっとしたらもっとずっと前から」
それにネスティさんやタキツさん、皆のことも、と少しの間を置いて付け足したアメルの目は楽しそうに笑っている。半端に口を開けて固まっていた俺の姿に満足したのか、くすくす笑いに肩を揺らしながらアメルは穏やかに続けた。
「欲張りなんです、あたしって。……全てが始まったあの夜の、本気で胸が張り裂けると思った気持ちも、これまでの旅の中であった悲しいことや辛いことも決して、忘れられはしませんけど。大好きな皆と出会えて一緒にいられる今が嬉しくて楽しい気持ちも本当だから、もっともっと、皆との楽しい思い出を作っていきたいし、そこにはタキツさんもいて欲しい。これまで貰うばかりだった優しさや嬉しい気持ちを今度はあの人にも返したい。だからこんなところで負けたくないし、どんなに辛いことがあっても諦めたくはないんです」
ねえ、マグナさん、と言葉を切って深く息を吸い込んだアメルが真っ直ぐに見つめてくる。月の無い夜には眩しすぎるほどの光を瞳に宿して、アメルは果敢に笑ってみせた。
「今度はあたしがあなたの力になります。皆で力を合わせれば、きっと乗り越えられないことなんてないと思うから。ネスティさんのこともタキツさんのことも絶対、助けてみせましょう? ……それまでマグナさんのこと、あたしが見ていますから。あたしのこともちゃんと見ていて下さいね?」
「……ああ、もちろん!そんなの頼まれなくたって」
見ているさ、と胸がいっぱいになりながら弾かれるように声を返した次の瞬間だった。前触れもなく背筋に怖気が走り、二の腕の産毛が一気に逆立つ。唐突に突き付けられた殺気にアメルが俺を庇おうとするも、それを逆に抱え込んで転がるように身を伏せたのは無意識だった。途端、鋭く風を切り裂いて飛来した何かがすぐ後ろの石壁に当たる。すぐさま身を起こしながら横目で見れば、細長い両刃のナイフのような物がぴんと突き刺さって揺れている。カイナが使う苦無に似てるけど、より殺傷力を高めた形のあれは確かシルターンのシノビが使う種類の物じゃ、と授業の朧気な記憶を引っ張り出している間にもいくつもの人影が音もなく現れ、俺たちを囲むように佇むのが分かった。
「我が主君、キュラー様のご命令は聖女の誘拐……邪魔者は消すっ!」
一方的すぎる宣言に食って掛かるどころか身構えるだけの暇もない。冷淡な声が告げるや否や、複数の影が即座に苦無を構えて投げつけてきたことに咄嗟に片腕を前へと突き出した。どう足掻いたところで全ての刃は避けられない。ならせめて致命傷だけは避けようと、考えるより早くよぎった直感に突き動かされるまま歯を食い縛った時だ。
「中々上手い尾行をすると思いましたが、悪鬼に成り果てた忍でしたか」
きん、ききん、と澄んだ音が間を置かずに鳴り響き、少し離れた石畳に苦無らしき影が回転しながら転がっていく。想像していた痛みや衝撃はひとつもなく、瞬きもしていないのに気が付けば目の前に現れていた人影に俺は大きく目を見張った。突然の第三者に驚いたのはもちろん、投げつけられた苦無をひとつ残らず弾き落とした人物がまさかの、ついさっき別れの挨拶を交わしたばかりの知り合いだったからだ。
「大事なお得意様にこのような狼藉を働かれては私としても見過ごすわけにはいきません。助太刀いたします」
「大将っ!?」
涼やかな目元と落ち着いた声色はいつもと変わらないけれど、影に溶け込むような色調の服装はいわゆるシノビ装束というヤツだろうか?動 揺と混乱に声を上げた俺をちらりと一瞥して、説明は後で、と短く答えたシオンさんは抜き身の刀で空を切った。風切り音さえ残さない速さで振り抜かれた刀は牽制のためだろうけど、俄に警戒を強めたシノビの暗殺者たちが得物を構えながらじりじりと距離を測り直している。その姿から目を離すことなく、シオンさんは淡々と告げた。
「今はこの者たちを倒すのが先決です」
目の前の現実をありのままに告げる言葉に俺とアメルが連想した光景は、多分、同じだった。細身の刀を片手に下げて、いつも当たり前のように前に出て、俺たちを庇ってくれた背中はこんなに広くはなかったけれど。だからこそ一方的に守られるばかりの自分を、助けてもらうばかりの現状を、このままじゃ駄目だと思ったし本気で変えたくなったのだ。その背中に守られるだけじゃない、隣に並び立って一緒に助け合えるような自分になりたいと思った。その望みを現実に変えるためにも今、こんなところで足止めされている場合じゃない!
「っ、ああ! まずは動きを止めてやる! 来い、オニマル!」
弱気を振り払うように腹に力を入れてシルターンの召喚獣、オニマルの名を叫ぶ。敵との戦力差がどれだけあるかは分からないが、シオンさんの早業に対する反応からしてこちらが速さで劣っていることはなさそうだ。前衛を張れるのはシオンさんだけでも、敵もアメルを傷つけるわけにはいかない事情があれば、少しでもその動きを鈍らせられれば十分勝機はあるはずだ。
そのためには距離を詰められる前に先手を打たないと、とシノビにシルターンの術への耐性があるのは承知の上で魔力を一気にサモナイト石に込めれば、俺の考えを汲み取ったらしいシオンさんが疾風のように駆け抜ける。威力より速度重視で放ったオニマルの痺雷撃は狙い違わずシノビたちへと降り注いだけれど、さすがに麻痺の効果までは通じなかったらしい。一瞬よろめきながらもすぐに体勢を持ち直して殺気を向けてくるが、そこに肉薄したシオンさんが喉元や脇下を狙っての斬撃を繰り出し、たたらを踏んだところに今度は耐性なんてないサプレスの術が降り注いだなら話は変わる。
「逃がさない! ブラックラック、黄泉の瞬き!」
念のためにとシルターン以外の誓約石も持っていたことが正に功を奏した。異界の門から現れた悪魔の放つ閃光を浴びて次々とシノビたちが膝を突き、音もなく接近したシオンさんが手慣れた様子で拘束していく。辺りをぐるりと見渡して今回もどうにかなったと安堵に胸を撫で下ろした俺だったけど、それには少し気が早かったらしい。ぶち、と縄を引き千切るような音に顔を向けた先、首領格だったシノビが最後の力を振り絞って刀を振り上げ突進してくるのが見えた。だけど俺が驚いたのはむしろ、次の瞬間に響き渡った声にあった。
「お願いっ、ダークブリンガー! 闇傑の剣!」
アメルの呼び掛けに応えて虚空に開いた門から、漆黒の魔力を纏った無数の武具が勢いよく射出される。シノビの足や靴先を石畳に縫い留めるように突き刺さった武器は魔力で形作られているから間を置かずに消えてしまうけど、込めた魔力に比例してその時間は引き延ばせるものだ。召喚術を覚えたのはつい最近でも、アメルの生来の魔力と才能、サプレスへの親和性の高さは先輩たちでさえ目を見張るものがある。おかげでシオンさんが刀の柄頭でシノビの後頭部を殴りつけ、どうやらまだ余力があるようですから、と厳重に縛り上げて転がしてしまうまでの間、漆黒に染まった刀身や穂先は消えることなくシノビの足を貫いていた。そう、その身体に傷を付けながら動きを封じ続けていたのだ。
心優しいアメルのことだ。本当は敵も味方も誰一人、傷つけたくなんかなかっただろうに。
間接的な効果を発揮する術どころか、こんな術まで使えるようになっていたことに複雑な思いに駆られてしまうけれど、思わず様子を窺ってしまった俺へとアメルは眉尻を下げた困り笑いに微笑んだ。
「マグナさんの想像どおり、誰かを傷つけることへの抵抗がないわけじゃありません。あたしだけの話で済むのなら、やっぱり我慢しちゃうかもって思います。だけど、大事なひとが傷つくのを前に見ているだけのあたしなのは……もう嫌だから」
そう言って口を噤んだアメルに、俺は言葉に詰まった。そんな覚悟はしなくていいと言ってあげられたら良かったけど、それが無責任な励ましでしかないことは現状を顧みるまでもない。大事なひとが苦しんでいても何も出来ないことを、仕方がないって自分に言い聞かせるばかりの苦しさや情けなさを思えば、アメルはアメルのままでいいんだよとか無理はしなくていいんだとか、そんな口当たりのいい言葉を告げる気にもなれなかった。だから、せめて思いを馳せる。
誰よりも優しいアメルが敵を攻撃するための召喚術を使うようになったこと。
その決断を下すまでにどれだけの葛藤があったのか、辛い覚悟を飲み込んだのか、結局のところ他人でしかない俺には想像することしか出来ない。必要に迫られての判断と言われればそれまでかもしれないけど、元々の生業や自衛のために武器を握っていた仲間たちとアメルとを同じ括りで語るのは間違っているはずだ。確かに言い切れることがあるとすれば、それでも、それを選んだのはアメル自身だということだけ。
それなら今、俺が伝えるべきは労りでも慰めでも、ましてや謝罪の言葉なんかでもない。ひとつ息を吐き、大きく口角を持ち上げて目尻を下げ、朗らかな笑みを浮かべた俺は心からのお礼を告げた。
「そっか。さっきは助けてくれてありがとう、アメル。おかげで命拾いしたよ」
一生懸命に考えて、頭を悩ませ胸を痛め、何度も迷いながら導き出したのだろうアメルの答え。正解か不正解かはまだ分からない、どれだけの意味を持つかも計り知れないアメルの決意。
ひょっとしたら癒しの聖女には似合わないやり方なのかもしれないけど、俺の言葉にちょっと目を丸くして、照れたように小さくはにかんだアメルはどこか誇らしそうに見えた。
「はいはーい、皆ちゅうもーく! 知ってる人もいるだろうけど、こちらはゼラムやファナンでおソバの屋台を出してるシオンさん。……なんだけどぉ、実は鬼妖界シルターンから召喚された凄腕の忍! 心強い仲間の一人だったのよねぇ」
翌朝、朝食で賑わう広間でミモザ先輩の口からシオンさんの正体が明かされた。先輩たちとカザミネさんやカイナが前からの知り合いだったのは話に聞いていたけど、なんとシオンさんもその中の一人だったらしい。本来の役目はこちらで起きていることを聖王国西方の都市、サイジェントにいる仲間に伝えることだったけど、先輩たちから特別に頼まれたのもあって俺たちが黒の旅団から逃走する際にも手を貸してくれたのだとか。まるで気が付かなかった、と昨晩から説明をお預けされていた俺とアメルも皆と一緒になって唖然としてしまう。
「それでも私が手助けしたのは最初のあの霧の時だけ。ご立派でしたよ」
驚愕の眼差しの中で穏やかに微笑んでくれたシオンさんだけど、昨日の縦横無尽の活躍ぶりを見ている俺としては何だか気恥ずかしい。これ以上先輩たちに迷惑は掛けられないとゼラムを出たあの時だって覚悟はしっかり決めたつもりだったけど、それだって今と比べればあんまり未熟で甘かった自覚はある。それをずっと見守っていてくれたシオンさんの温かい言葉に頬を熱くしているうちに、今後はシオンさんも本格的に手を貸してくれることで話がまとまった。前からの仲間で同じシルターン出身のカザミネさんやカイナが早速嬉しそうに話し掛けに行っていて、こっちまで微笑ましくなってしまうような遣り取りが聞こえてくる。
「シオン殿の趣味はソバ打ちなのでござるよ」
「えぇ、趣味っ!? 趣味であんなに美味しく作れちゃうなんて……はぁ、本当に感心しちゃう……」
「うふふ、趣味とは言っても玄人はだしの腕前ですものね?」
「はは、お二人とも持ち上げすぎですよ」
悠々と語るカザミネさんにケイナが驚きの声を上げればカイナも嬉しそうに相槌を打って、忍び笑いをこぼしながらシオンさんが謙遜を言う。外道に落ちた忍に手を下すこともまた忍の任なのです、と止めを刺した敵を淡々と呪符で焼き払っていたシオンさんも、皆と和やかに談笑しているシオンさんも、どちらも同じシオンさんだ。だけど仲間になったからにはソバ屋の大将の時みたいに、シオンさんが穏和な笑みを浮かべられる時間を少しでも長くしたい。いや、そうしなきゃならないと強く思った。
危険を承知で力を貸してくれる人がいる。ここまでの道程を見守ってくれた人がいる。その厚意と善意に甘えるだけじゃなく、しっかりと向き合って応えたい。そのためには、と話し声で賑わう広間におもむろに背を向けて廊下に踏み出した俺は、玄関ホールの前で困ったような顔をしているネスといつもの笑顔でそれを引き留めているアメルを見た。
「すまないがアメル、僕には急ぎの用事があって……」
「ええ、帰り道で大丈夫ですから。こっちにメモした香辛料と、お酒と、出来たらシルドの実もいくつか見て欲しくって……あら、マグナさん」
こっちに初めて気付いたかのように振り返って微笑むアメルの隣、ネスが僅かに表情を強張らせる。散々避けてきた俺と正面から顔を合わせることになった居心地悪さにか、あからさまに目を逸らされるけど、そんなことで今更怯むはずがない。ごめんごめん、とわざとらしく苦笑交じりに駆け寄った俺は軽く頬をかいた。
「すっかり待たせちゃったな。アメル、これはネスとの用事が済んだら買ってくるからさ?」
「ああ、マグナさんとお出掛けだったんですね。あたしったら引き留めちゃってごめんなさい。二人とも、気を付けて行ってきて下さいね?」
半歩下がったアメルが俺とネスを交互に見上げて微笑んで、それでネスには大体のことが伝わったらしい。観念したような溜め息をひとつ、伏せていた目を持ち上げて俺を見る。困惑とも恐れともつかない色合いの眼差しを真っ向から見つめ返して、俺も笑みを消した真剣な表情を浮かべた。
「……話がしたいんだ、ネスと二人で」
嘘も誤魔化しもない、本気の気持ちを言葉に乗せる。ネスの隠している機密を教えて欲しい、どんな秘密を抱えているのか打ち明けて欲しい。その気持ちにだって変わりはないけど、俺の一番伝えたいこととは少しズレてしまうから、短い言葉と眼差しにありったけの思いを込めた。
ネスの話を聞かせて欲しい。ネスを苦しめている事情が分かれば、解決するための方法を一緒に考えることが出来るから。俺の話を聞いて欲しい。ネスが苦しんでいるのを見過ごせるほど、薄情な弟弟子になったつもりはないから。だから、だからそのために、他の誰でもないネスと二人で話がしたいのだ。
ややあって、その場で小さく頷いたネスが何を思ったかなんて分からない。分からないからこそ話をしなくちゃならないんだと、久しぶりに顔を見た兄弟子へと潤みそうになる視界を堪えて俺は、顔いっぱいの笑みを浮かべている。
「なぁ、ネス。俺はこんなところで投げ出したくなんかないよ。アメルのことを抜きにしても、もう俺たちだけの話じゃなくなってる。ここまで知り合った人たち、手を貸してくれた人たち、先輩たちに仲間の皆……その気持ちに応えたいし、向き合いたい。出来るだけのこともせずに投げ出したら、きっと一生、後悔すると思うから」
移動した先は再開発地区の外れ。まだ朝も早いことから鍛錬の面子も野良猫の一匹も見当たらないその場所で、俺はネスと向き合っていた。この間の庭園では伝えられなかった答えを告げるとネスは覚悟していたように項垂れたけど、そこで言葉を止めずに一気に言い切る。
「だけど、ネスのこともそのままになんて出来ない。先輩に聞いたよ、今の派閥の総帥はどんな理由があっても誰かを殺して機密を守るような人間じゃないって。なら、ネスは一体誰からそんなことを聞いたんだ? 俺が殺されなくちゃならない理由もだけど、どうしてネスがそんな酷い命令を聞かなきゃならないんだ? 従わなくちゃならないんだ? 俺、っ……そんなの納得出来ないよっ……!」
「マグナ……君、泣いて……?」
溢れ出しそうになる気持ちを取り零さないよう少しずつ言葉に変えていったけれど、耐え切れずに腰の横に下げた握り拳を震わせればネスは驚いたように目を見張った。この話を聞けば絶対フォルテたちだって嫌悪と憤りに顔を歪めるだろうに、ネスはそんなこと想像もしていなかったらしい。訳も分からないまま殺されるかもしれないことより何より、俺の大事な兄弟子のネスにそんな非道を強いるような誰かがいて、これまでもネスが一人きりで苦しんでいたことが許せなくてたまらない。そんな俺の様子を愕然と見つめるばかりのネスがまた悔しくて、だから教えてくれよ、と鼻を啜りながら何度目かの頼みを口にすると、少しの間を置いてネスはかすかに目元を和らげた。
「命令じゃない、これは僕たち一族が負ってきた義務なんだ……だけど運命はもう動き出してしまった」
僕はもう止めたりしないよ、と呟く声は静かだった。どこか清々したような、晴れがましい笑みを滲ませて、深く息を吸い込んだネスが一度伏せた目を上げる。初めて見るような力強い瞳が俺を射抜いた。
「最後まで君に付いていく。君は君の思い通りにしてくれ。君のこともアメルのことも、僕の持てる物全てを注ぎ込んででも守ってみせる。出し惜しみは無しだ。……まあそもそも、君たちにこうまで気遣われておいて端から諦めるだなんて、兄弟子としてあまりに不甲斐ないものな?」
「ネス……」
対等でない相手を説得するより勝算もあるだろうし、とよく分からない自嘲をこぼして肩を竦めるネスに、でもさ、と俺は目尻を拭いながらも釘を刺す。
「ひとつ、覚えておいてくれよ? 俺もアメルもずっと強くなったんだ。誰が相手でもそう簡単に殺されるつもりはないから……ネスもこれからは俺たちのこと、もっと頼ってくれよな?」
大事な相手が一人で抱え込んでいる姿を見るしかないのは中々、辛いものがあるから。笑みを取り繕って人差し指を立てて、ネスがいつもするみたいに声を低めて念を押せば、確かにそうだ、とくしゃりと笑ってネスは目を細めた。
「君もアメルも強くなった。ひょっとしたら僕なんかよりもずっと……ああ、そうか」
もう僕に守られるだけの子供じゃないんだな、と噛み締めるように呟いたネスの目は優しかった。俺には父さんや母さんの記憶なんてないけれど、ラウル師範の優しい瞳に映った時のような、面映ゆい気持ちやこそばゆい温もりを思い出す。タキツが俺を見ていた時の困ったような笑みも、アメルが俺の背中を押すように投げ掛けた笑みも、温かくて優しくて、絶対にこの人を裏切りたくないって湧き上がるような嬉しさの中で思った。その時のぐっと喉元にまで迫り上がるような熱い思い、言葉にならない気持ちを握りしめて、どうにか形作った不格好な笑みを投げ返す。
森での調査が済んだら、すぐにでもネスの事情を探ろう。
肝心なところは結局はぐらかされてしまったけど、ネスのことだって絶対このままにしてはおけない。今は機械遺跡の調査が先決だけど、ネスは確かに言っていた。ネスが俺を殺せなくても、他の誰かが俺を殺しにやってきて、そして遠からずネス自身も死ぬことになるんだって。すっきりした顔のネスは早くも満足そうに見えるけど、ネスを本当の意味で助けるにはやっぱり、俺は知らなくちゃいけない。大事なひとを助けるために、向けられた信頼に応えるために、俺だって俺に出来る精一杯をしていかなくちゃ。
不安を吹き飛ばすようにわざと威勢よく笑ってみせれば、呆れ顔を作ろうとして失敗したようにネスは柔らかく微笑んだ。
食料の補充や武器の手入れを念入りに済ませて、俺たちはゼラムを出発した。初めレルム村に向かってアグラ爺さんに事情を説明し天使の羽根を貸して貰ったら、なるべく人目に付かないよう森の中の林道や山道を突っ切る形でルウの家を目指し、一度休息を取ってから禁忌の森に入るという心算だ。ゼラム周辺の警備が前より厚くなったことと、俺たちに負けてあれだけ歯噛みしていたイオスが同じ手に出るとは考えにくいことを踏まえてあえて白昼堂々動いたけれど、黒の旅団の気配どころか影も形も見当たらなくって少し拍子抜けしてしまったくらいだった。
「あの兄ちゃんもプライドが高そうだからな、そうそう同じ轍を踏むような真似はしねえだろうよ」
そうフォルテが睨んだとおりになったけど、何にせよ余計な戦闘をせず済んだことは有難い。今回はネス公認で予算を多めに設定したこともあって回復や手当の道具も充実しているし、皆の武器も新品さながらに磨き抜かれているけれど、あくまで森に入るための準備だ。こういうところでケチると高く付きますからねぇ、なんてパッフェルさんも苦笑交じりに小型ナイフをひとつひとつ手に取っては刃毀れのチェックをしていたけれど、皆がそれだけ本気で付き合ってくれていることに改めて身が引き締まる思いがした。
アメルのためにも、ネスのためにも、そして俺自身の気持ちとしてもこんなところで立ち止まっていられない。
アグラ爺さんも俺たちの顔を見ただけで決意を理解してくれたんだろう。多くは聞かずに、長年大事に隠し持っていた天使の羽根を託してくれた。アメルにロッカ、リューグという三人の孫の幸せな未来の他に望むものはないからと、静かな面差しで呟いたアグラ爺さんに深く頭を下げた俺たちは、少し長めの休憩を取ったらルウの家まで休まず直行することに決めた。さすがに大平原から遠い山中までデグレアの目が光っているとは考えにくいし、今は少しでも早くあの森に辿り着いて遺跡の存在を確認したい。全ての始まりがあの森にあるなら終わらせる方法もあるかもしれないと思えば、居ても立っても居られない気持ちなのは皆、同じなようだった。
「あの日、ここから全てが始まったんだよな……」
遮るものなく吹き抜ける風を頬に感じながら、ようやく全景が見えてきた村人たちの墓に目を眇める。森の調査が終わったらまたレルム村に寄ってからゼラムに戻る予定だし、その時にお参りに来るのでもよかったはずだけど、俺の足は自然とこの場所に向いてしまった。派閥本部での見習い召喚師試験を終えて見聞の旅に出て、野盗退治の中でフォルテたちと知り合って、偶然の積み重ねで訪れることになったレルム村。だけど、この村での出会いから本当の意味での旅が始まったのだ。
初めてアメルと出会った時、何だかひどく懐かしいような離れ難いような、不思議な気持ちになった。ずっと会いたかったひとにやっと出会えたような、ずっと目を逸らしてきたものをついに突き付けられてしまったような、俺の知らないどこか深いところから湧き上がる、心底からの安心感と強烈な不安感。
二律背反する奇妙な思いに狼狽えているうちにタキツにはあんなみっともない真似をしてしまったけれど、あの不思議な感覚の正体さえまだ掴めていない。それでも分かるのは俺とアメルの間には何かがあって、その何かも多分、あの森に関係しているということだ。結界に封印された悪魔たちが俺とアメルだけを執拗に狙ってきた理由と、俺がアメルに感じた不思議な思いには、一体どんな関係があるというんだろう?
その正体も掴めるかもしれないと思うだけで浅くなる呼吸を落ち着けようと、細身の低木を押しやりながらそっと詰めた息を吐いた時だった。
「……とは、言わぬ」
低く深く、腹の底から絞り出すような重い声。聞き覚えのある声が誰のものだったか、記憶を探るより早く目に飛び込んできた姿に俺は声もなく立ち尽くしていた。
「恨まれるだけの、呪われるだけのことを俺はしたのだからな。だが、これだけはお前たちに約束しよう……俺は逃げぬ。だから存分に俺を恨むがいい、呪い続けるがいい」
村人たちの墓の前、懺悔でもするように深く、頭を垂れていたのはルヴァイドだった。あの厳めしい黒鎧の代わりに黒地の外套を羽織って、偶然通り掛かった旅人みたいな恰好をしている。反射的に周囲の様子を探っても他に気配は見当たらない。隠し切れない動揺に狼狽えつつも息を殺して見つめる先、ルヴァイドは俺に気が付くことなく顔を上げると重々しく呟いた。
「俺は逃げぬ。自分のしたことからは、絶対に……」
「……どういうつもりなんだ、ルヴァイド!? どうしてお前がここにいるんだよ、自分たちが皆殺しにしたくせに……どうして……!!」
そんなにも辛そうな顔をするのかと、残りの声は言葉にならなくて唸るように睨みつけた俺に、はっとした様子で振り返ったルヴァイドはほんの僅かに目を見張った。けれどそれも一瞬、何も聞こえなかったかのように踵を返すと足早に木立へと向かっていく。質問に答える気どころか問答するつもりもないということか、それともここで出会った事実にさえ目をつぶるということなのか。振り返ることなく去っていくその背中が見えなくなるまで、俺は一歩も動けずにいた。
本当に、歩みをひとつ進めるたび、分からないことばかりが増えていく。次から次へと深みを増していく謎はあまりに大きすぎて、ともすれば今にも足を取られてしまいそうだ。こんな状態で次の一歩を踏み出すことに全く躊躇いがないわけじゃないけれど、それでも、ここで足を止めちゃいけないことだけは分かるから。
少しでも前に進まなくちゃ、と手持ちのサモナイト石を眺めながら知らず知らずにルヴァイドの独白を振り返っていた俺は、隣で同じように座り込んでいたルウへと目をやった。逸る気持ちに急かされるように足を進めたのもあって、ルウの家に辿り着いたのは予定よりずっと早い時間だった。ただ、朝から殆ど一日歩き通しだった疲れが出たんだろう。簡単な夕飯を済ませた時点でユエルやミニスは夢の中へと旅立って、逆に神経が高ぶるあまり中々寝付けずにいる面子はこんな時間まで暖炉のある居間に残って思い思いに過ごしている。装備の点検だったり雑談を交わしたり、そうやって時間を潰していたのは俺もだけど、先祖代々この森を見守ってきたルウはとりわけ並々ならない思いが込み上げているのか。留守を守っていたペコを膝に抱えて、暖炉に揺れる炎を見つめる面持ちはどことなくぼんやりとしていた。
「緊張してる?」
小さな声だったけれど、弾かれたように顔を上げたルウは数度瞬きをして、すぐに気を取り直すと勝気な顔をして言い切った。
「勿論よ! アフラーンの一族の末裔として、一人の召喚師として、この森の結末は見届けなきゃいけないものだと思ってるもの。結界の中に隠された物がなんなのか……本当は知るのがちょっと怖いけど。今はルウひとりじゃない、皆もいるんだもの。ここまで来て臆病風に吹かれたりなんかしたらお祖母様に叱られちゃうわ!」
「そうだよな。何があるのか見届けて、俺たちの目で真実を確認して、これからのことを……考えていかないと」
結界の中に何があるのか、本当に機械遺跡は実在するのか。それを確認することは俺たちの旅の大きな節目になるだろうけど、決してゴールなわけじゃない。あくまで乗り越えるべき壁のひとつでしかないのだ。だからこんな夜でさえフォルテたちは魔力を扱う特訓に励んでいるし、アメルも召喚術の制御方法について熱心にネスの話を聞いている。向かいの壁際に座り込んで瞑想でもするように目を閉じていたフォルテとレナードさん、それぞれの手のひらで淡く光り続けていた石が輝きを強めたと思った次の瞬間、異界の門と呼ぶには可愛らしいサイズの、窓のようなそれが空中に開いて何かが落ちてきた。軽い音を立てて二人の間に転がったのは鍋の蓋と赤茶けたレンガの欠片のようで、本来ロックマテリアルで呼び出せる物に比べれば随分ささやかだけど、顔を見合わせて嬉しそうに破顔する二人にとっては文句なしの大戦果だ。サモナイト石を光らせるだけじゃなく、この短期間で術の発動に必要な魔力が溜まるまで安定して込め続けることも出来るようになったのは俺から見たって十分凄い。これが二度目の成功と言うのもあって俄然やる気が出たんだろう、底抜けに明るい笑みを浮かべて背中を叩き合っている。
「ふふ、子供みたいな顔しちゃって。自分のこと飽き性だなんて言うけど、物にするまでは絶対投げ出したりもしないクセにね?」
「ええ。色々と突拍子もないことを仕出かす方ですが、そういったところは私も心底尊敬してるんですよ」
椅子に座ってお茶のカップを傾けながら眺めていたケイナが微笑み交じりに言えば、シャムロックも相槌を打ちながら口端を和らげる。酒が入った時なんかに過去の話がてら、フォルテは冗談めかして自分のことを低く言ったりするけど、俺もケイナの言葉に同意しかなかった。武術であれ召喚術であれ、ひとつのことを極めるまで突き詰めるのは凄いことだけど、過去に学んだ幅広い分野の知識と経験を柔軟に活かせるのだって間違いなく凄いことだ。フォルテの物の見方にはネスだってたまに驚くくらいだし、流砂の谷からここまで付き合ってくれてる時点で十分すぎるほど忍耐強いのに、そういったことには案外鈍いのがちょっとおかしい。
「なあ、ルウ。……俺もさ、本当は少し森に入るのが怖いよ。だけど皆がいてくれる。どんな問題が出てきても、一緒に悩んで向き合ってくれる仲間がここにいるから」
テーブルの一辺に並んで勉強中だったネスとアメルだけど、アメルの方はいつの間にか眠気に負けてしまったらしい。こくりこくりと舟を漕いでいるアメルの肩に自分の上着を掛けてやりながら、ネスは眉尻を下げ切った柔らかい苦笑を浮かべている。少しでも足を引っ張らずに済むように、少しでも大事な誰かを守れるように、どんどん高くなるアメルの目標に応えようとしてネスも説明に熱が入り過ぎたんだろう。そんな二人の様子を目の当たりにすれば、心の隅でざわめく不安の声なんかに耳を貸す気にならなかった。禁忌の森で悪魔に追い詰められたあの時、心がひどくざわめいて聞き覚えのない声が渦巻いて、自分が自分でなくなるような恐怖と焦燥に激しく心臓が脈打った。そうして気づけば、敵の前で棒立ちになっていた。あの時と同じことがまた起きるかもと思えば、怖くないと言ったら嘘になる。あの森に眠る、俺とアメルに関わる何かの正体を知ることへの期待と恐れも半々どころか、天秤は後者に大きく傾いていることだって気付いている。だけど、俺の心はもう決まっているから。
隣のルウを横目で見て、俺はちょっと肩を竦めて笑い掛けた。
「なのにこんなところで足を止めたりしたら、きっと笑われちゃうもんな?」
誰に、なんて言わなくても伝わると思っていたけれど、やっぱりルウには俺が思い浮かべたのが誰だか分かったらしい。無言で瞳をきらめかせて大きく首を縦に振ってくれたルウと視線を合わせて、堪らず息をこぼすように笑っている。
そして、朝が来た。記憶と変わらず鬱蒼と広がる森に躊躇なく踏み入った俺たちは、言葉少なに暫く進んだところで足を止めた。
目の前に広がる結界の反応は相変わらず、周囲の気配を探ってみても動物や虫の声もしない。初めてこの森に来たパッフェルさんやユエルも異常を感じ取っているのか、誰から促されるまでもなく静かに緊張と警戒を高めているようだ。改めて気が引き締まる思いで深呼吸をひとつ、大事に仕舞っていた天使の羽根を取り出そうとしたところで俺はふとカイナに向かって尋ねかけた。
「そういえば、前回はどうやって結界を張り直したんだ?」
今回はアグラ爺さんから預かった羽根もあるし前みたいな壊れ方はしないと思うけれど、一応確認しておいた方がいいだろう。ネスやルウも興味があったのか自然と視線が集まった先、そうですね、とカイナは頬に手を当ててあの時の記憶を掘り起こす。
「あの時は結界の破片……ああ、目に見える物ではなく概念としての物ですが、濃密な魔力が薄く引き伸ばされたような物がそこかしこに散らばっていましたので、鬼神様の力を借りてそれらを繋ぎ合わせていったんです。千切れた布を糸で縫い合わせる、そんな感じでしょうか? サプレスの力を感じる結界をシルターンの力で直すので少々手こずるのも覚悟の上でしたけど、そういえば不思議とすんなり修復が叶ったような……?」
結界を中和する今回は心配ないと思いますよ、と付け足しながら自分でも首をかしげるカイナだけど、おかげで少なくとも懸念のひとつは晴れた。お礼を言って皆の心の準備が出来たことを確認した俺は、真剣な顔をしたアメルと一緒に結界へと近づいて天使の羽根をかざした。結界の反応は、待つまでもなかった。天使の羽根からこぼれる光に共鳴するようにアメルの身体からも金色の光が溢れ出て、柔らかな光を浴びた場所からじわじわと、春の日差しを浴びた雪のように溶けていく。前回とはまるで違う、音もなく消えていく結界を前に呆然と見入ってしまったものの、殺気のこもった低い唸りと呪詛のような声が聞こえてきたことに一気に我に返った俺は杖を構え直した。
結界を解いたら当然、封じ込められていた悪魔たちだって出てこれるようになる。そんなの最初から分かっていた。だからこそ対策だって講じてきたし、方針だって決めてきたんだ。
大きく息を吸って前を睨むと、迷うことなく腹の底から声を張り上げる。
「予定どおり、このまま突っ込んで強引に突破だ!」
号令が響き渡るや否や、一斉に皆が駆け出した。考えなしに獲物が突っ込んできたとでも思ったのか、一瞬意表を突かれた顔をした悪魔たちの口角が引き裂けそうなほどに吊り上がり、手にした槍や剣の切っ先を容赦なく向けてくる。それでも俺たちの誰ひとり勢いを緩めないことにさすがに違和感を覚えたのか、不審げに得物を引き戻して構えようとするけれど、その頭上に向かって薄暗い森の中でも一際暗い影が轟音と共に落ちてきた。
「とらわれの機兵! ヒュプノブレイク!」
「……おいでませい、オオアカ切断虫。双刃断!」
何が起きたのか理解も出来なかっただろう、根元から折れた樹木の下敷きになって目の前にあった悪魔の姿が消える。間を置かず、その後方に並んでいた悪魔の群れには大きな鋏を唸らせたシルターンの召喚獣が襲い掛かり、直線上にあった立木を何本も巻き込みながら豪快に薙ぎ倒した。俺たちの進路を切り開くように森の木々ごと巻き込んだ召喚術を放ったのは、俺のすぐ後ろを走っているネスとカイナ、それぞれサプレスの悪魔には耐性のないロレイラルとシルターンの術を専門にする二人だ。直撃せずともそれなりの威力を出す術だったけれど、本命の狙いは悪魔たちそのものではなく無限に等しく広がる森の木々。生い茂る樹木ごと悪魔たちを薙ぎ倒し、一点突破で真っすぐに森を駆け抜ける、それが俺たちの立てた作戦だった。魔力で構成された身体を持つ悪魔相手じゃあ毒や眠りといった状態異常もろくに通じないし、サプレスの魔力に満ちたこの森ではいくら倒したところで簡単に復活されてしまう。それなら端から足止めと割り切って倒木や突風、目くらましの土煙だとかを仕掛けて無理やりにでも撒いてしまう方がいい。だって、俺たちの目的はこいつらと戦うことじゃない。こんな奴らの相手をしている暇なんてどこにもないんだから!
「きええぇいっ!」
「そのままおねんねしてなっ!」
カザミネさんの飛ばした居合でまた一本、地響きを立てながら木が倒れ、レナードさんの放った銃弾がもうもうと噴き上がった土煙に火種を与えて局地的な爆発を起こす。反撃があった時のために先陣を切って突っ込んだ前衛組のリューグやモーリンも隙あらば拳や斧を振るって手負いの悪魔を吹き飛ばしているし、左右に位置するシオンさんやパッフェルさんも度々牽制や威嚇の攻撃を叩き込んでは敵の足を挫いていく。おかげで想定より魔力の消費もずっと抑えられている。次第に遠くなっていく悪魔の気配に、この調子なら、と胸によぎった期待が確信に変わったのはそれから数分もしないうちだった。すっかり上がってしまった息を整えながら各自の無事を確認しあっていたそこで、ふと視線を高くに持ち上げたミニスやモーリンが驚きの声をもらしたのだ。
「あれ? あれって、もしかして……」
「機械遺跡じゃないか!?」
その視線を追った先、濃淡様々な緑色に覆われた巨大な石壁のようなそれを見つけて俺も知らず声を上げていた。瑞々しい緑と赤茶けた枯れ枝の入り混じった色調で上手く森に溶け込んでいるけれど、明らかに人工的な建造物がそこに佇んでいた。
その大きさに圧倒されつつも慎重に近寄って、おそらく機械遺跡だろう建物の外壁やらの具合を見てみたけれど、適当なところからじゃ到底入り込めそうにない堅牢な作りをしていることはすぐに分かった。老朽化こそしていても元々の作りが相当しっかりしていたんだろう。壁を崩したり穴を開けての強行突破を図るよりちゃんとした出入口を探した方が良さそうだと早々に結論付けて皆で建物の外周を回ってみることにしたけれど、足を進めるにつれて自然、俺は隣を歩くアメルと目を交わしあっていた。
間違いなく、ここには俺たちに関わる何かがある。
それを確信するに至った根拠は、俺たち自身と言うべきなんだろうか。今だって背中が冷たく感じるほどびっしょりと冷や汗をかいて、言葉にならない胸苦しさと緊張に手先が震えを帯びている。悪魔を振り切るために全力で走っていたさっきより断然酷い。今にも何かを思い出しそうで、けれどあと少しのところが分からなくて、そわそわと浮足立って仕方のないこの気持ち。
「アメル……ここにあるのはやっぱり、俺と君の……」
その先を、俺は一体なんて言うつもりだったんだろう。何かあったよ、と響き渡ったミニスの声に咄嗟に口を閉ざしてしまったけれど、自分でも分からない言葉の続きに頭を捻りながら駆け付けた場所には何かの碑文のような物があった。ナイフで刻まれた文字のような溝には土くれや塵になった落ち葉が細かく詰まっていて、相当昔から野晒しになっていたことが一目で分かる。お掃除なら得意なんですよ、と親指ほどの太さの溝ブラシを取り出したパッフェルさんが手際よく綺麗にしてくれたけど、所々欠けたり削れてしまっている文字は上手く読み取れそうにない。というよりも、刻まれている文字自体がリィンバウムの言語じゃなさそうだ。せっかくの手掛かりだったのに、と肩を落としそうになったところだった。
「使われているのは霊界言語みたいだけど……ああ、この文字ならルウにも読めるわ」
ひょいと横から覗き込んだルウが碑文の文字を覗き込んで、なになに、と指を滑らせる。欠けた文字の輪郭を探るように指を動かしながら、一文字ずつ読み上げていく声がその場に朗々と響いた。
「禁断の智を、封印、する……調律者……クレスメント。……異界、人。ライルの、一族……ル、……ルギトス??」
調律者。クレスメント。
聞き覚えのない言葉が出てきたことに固唾を飲んで見守っていた皆は拍子抜けしたように、あるいは困惑や疑問の面持ちで声をこぼす。それを聞きながら眉根を深く寄せた俺の内心は、だけど皆とは違った。
ルウの読み上げた言葉を、俺は聞いたことがある。確かに聞き覚えのある言葉はどちらもつい最近聞いたものだ。そう、前にこの森で悪魔に襲われた時、憎々しげに俺を睨みつけながら悪魔が言い放った言葉。俺を呼んだその言葉がまさに、そうだったはずだ!?
そう理解が追いついたと同時、初めて耳にするような無機質な機械音が高々と鳴り響いた。
「声紋チェック並びに魔力の波動、全てライブラリと一致しました。貴方様をロウラー、クレスメントの一族であると認めます」
一体何を、と尋ね返す暇もない。当該研究施設内部へ転送いたします、と抑揚のない声が告げた途端、僅かに光った自分の身体に気を取られる間もなく俺はその場から姿を消していた。
何ひとつ事態の理解が追い付かないまま、自分の手さえ見えないような真っ暗闇に連れ込まれたなら誰だって混乱くらいする。一体自分はどうなったのか、他の皆はどうなってしまったのか。心底狼狽えながらも皆の無事を信じて暗闇の向こうへと声を張り上げた俺に返ってきたのはネスとアメル、何より大事な二人の声だった。
「ネス! アメル!」
いつの間にか薄ぼんやりと明るくなっていた周囲の様子に気を向ける余裕なんてない。夢中で駆け寄って二人の無事を確認する俺だったけど、その安堵も長くは続かなかった。
「さっきの光は機械遺跡内部に転送するために照射されたものだ。害はない。眠っていた遺跡の機械が君の声紋と魔力に反応して起動したんだ」
まさかここまで機能が生きているなんて、と感心したようにも悲嘆に暮れたようにも聞こえる声でネスが呟く。俺の知らない何かを知った上で、それが絶望でしかないと嘆くように声を落としたネスに、俺は堪らず疑問の声を上げている。
「待ってくれよ、なんで俺の声なんかで遺跡が反応するんだよ? それにネス、どうしてそんなに詳しいんだ……?」
「その回答は、貴方がロウラーであるクレスメント家の血を引くからです」
それは、と意を決したように顔を上げようとするネスだったけど、俺たちの間に割り込んで答える声があった。この機械遺跡のナビゲーターシステムだと己を名乗る、無機質な人工音声。それが俺の疑問をひとつひとつ紐解いていった先にあった過去の真実、機械遺跡が存在した理由は、あまりにも残酷すぎるものだった。
「なんだよ……それ……」
ゲイル計画、クレスメントの一族、天使アルミネの真実、融機人ベイガーと調律者クレスメントの一族が作り上げた負の遺産。
ゲイル計画の運営並びにデータ管理プログラムでもあると自らを名乗った声は、途中怒号や悲鳴交じりになった俺の問いかけに余すことなく、全ての答えをくれた。
ゲイル計画とは何か、それは召喚術を超えた召喚術を作り出すためのプロジェクト。召喚された対象に機界ロレイラルの機械工学技術による強化改造措置を施すことによって、圧倒的な戦闘力を持つ召喚兵器、ゲイルとして運用するための計画だということ。ゲイル計画によって生み出された召喚兵器とそのノウハウこそがデグレアの求める力、アグラ爺さんの言っていた力の正体だと考えが及ぶのと、そんなことをしたら召喚獣の意志はどうなるんだと怒声を飛ばしてしまったのは同時だった。心配はいらない、と宥めるような声が続けた言葉に思考が凍り付くのにも、ほんの一呼吸の間も要らなかった。
「ゲイルとしての強化改造の過程で、素体となる召喚獣の意識はプログラムの制御下に置かれて、完全に抹消されます」
本来の生き物でさえなくなり、苦痛も喜びも感じないまま、破壊されるまで稼働し続ける兵器。それが召喚術を超える力、ゲイルという召喚兵器。
こんな時でさえ逐一噛み砕いて説明してくれるネスの言葉もあって、否応にでも理解させられてしまった。それがどれだけ冷酷で無情なことなのかって、膝が震えるような憤りと激情に駆られるまま否定の声を上げてしまった。だけど、そんな俺に返ってきたのは更なる絶望の言葉だった。どこかで薄々気づき始めてはいたけれど無意識下で必死に目を逸らし続けていた、逃げ続けてきた真実がまざまざと突き付けられる。
こんな残酷非道なやり方でゲイルを作り上げたロウラーの血筋を、俺は引いているのだということ。
親も知れない孤児だったはずの俺がこんな大罪人の子孫で、償い切れない罪の継承者で。その事実だけでも頭を抱えてその場に座り込みそうなのに、最後に再生された映像記録を見たことで完全に頭が真っ白になった。
最後の召喚兵器、豊穣の天使アルミネを素体にした召喚兵器の戦闘記録だという映像。たった一人で、無感動に、無造作に、森を覆いつくすような悪魔の軍勢を淡々と薙ぎ払っていくその顔立ち。それは、アメルそのものだった。
数秒の間を置いて、理解が追い付いてしまったアメルの悲鳴が上がる。魂が軋みを上げるような痛々しい叫びはアメルの中の天使アルミネの断末魔のようで、その肩を支えに行くことさえ出来ずに俺は呆然と立ち尽くしている。ネスも石になったかのように固まったまま、俺やアメルに目をくれることなく、砕けそうなほどに歯を食い縛ってその場に深く項垂れている。
「理解いただけましたか、新たなる調律者よ。ご命令をどうぞ?」
「……ウソだ……っ嘘だぁぁーっ!?」
畳み掛けるような、追い詰めるような、抑揚のない声をかき消すように気が付けば絶叫を上げていたけれど、そうやって現実を否定出来たのもほんの僅かな間だった。重すぎる過去の真実に圧し潰されそうになっている間も、外にいる皆は急に姿を消した俺たちを助けようと必死になって機械遺跡に攻撃を仕掛けていたらしい。刀や武具、召喚術での攻撃を重ねてどうにか中に入ろうとしてくれた皆の姿がいきなり映像に映し出されて不覚にも泣きそうになるけれど、そんな皆を排除するために召喚兵器を差し向けたのだと、当然のように続ける声が耳に届いてひゅっと喉が鳴る。そんなの俺は望んでなんかいないと、いくら声を荒げて止めようとしてもまるで聞く耳を持たない人工音声に、怒りと焦燥に突き動かされるまま全力の怒号をぶつけるまで大した時間は掛からなかった。
「だったらぶち壊してでも止めてやる! いいから出せっ!? これは俺の命令だっ!!」
目の前が赤く染まるような激情に駆られるまま命令を下して外に出ると、皆は一様にほっとした顔をして俺たちを迎えてくれた。無事だったのねと表情を和らげるケイナに、心配したんだからと泣きそうに瞳を潤ませるミニス。俺やネスの様子を見て、何があった、と真剣な様子で気遣ってくれるフォルテ。皆と離れていたのは精々十数分くらいのはずだけど、目の前が滲みそうになるほどに懐かしい。だけど、本当の俺はそんな優しさや心配を向けられる人間じゃなかったのだ。胸に迫り上がる嬉しさと悲しみの入り混じった思いを無理やりに飲み下して、ポーチから取り出した赤いサモナイト石に魔力を込める。機械遺跡から押し寄せてくる召喚兵器、防衛兵器や銃を備えた機械兵を振り返りざまにきつく睨みつけながら、俺は胸の葛藤を振り切るように叫んだ。
「説明は後でするよ、今は……こいつらをぶちのめすほうが先だ!」
誓約とプログラムの二重の鎖に縛られて、永遠に命令だけを実行し続ける機械。それがゲイルなのだとネスが語ったとおり、召喚兵器を相手取った戦いは決して楽なものじゃなかった。本当の機能停止に追い込むまで容赦なく攻撃を加え続けなければ千切れかけた手足を引きずってでも襲い掛かってくるし、サプレスとロレイラルの気配が混じった召喚兵器なんかは特に打たれ強くて諦め悪い。ここまでの旅で培ってきた様々な連携や戦法を活かさなければ猛攻を凌ぐことは難しかっただろう。それでもどうにか立ち話を出来るくらいまで落ち着いたところで、俺とアメルは遺跡内部で聞いた召喚兵器ゲイルの仕組みを包み隠さずに皆に語った。豊穣の天使アルミネが自分の意志で悪魔の軍勢から人間を守ったわけじゃなかったことも、召喚兵器とされた彼女が戦って大破した時に偶然この森を包む結界を形作っただけだったことも、余さず語った俺たちにそれまで黙って話を聞いていたフォルテがおもむろに目を上げた。
「どうして黙っていた、ネスティ」
そんなことって、ひどすぎる、とルウやミニスがそれぞれの感想を思わず口にした時でさえ沈黙を貫いていたフォルテが一歩、前へと出ながら眼光鋭くネスを射抜いた。静かな声色に怒気を滲ませて挑み掛かるように見つめるフォルテを前に、僕は、と何かを躊躇っていたネスが腹を括ったように口を開く。だけど現実は、ネスに説明をするだけの時間も与えてくれなかった。黒い煙を上げて沈黙していた召喚兵器の一体が急にアメルへと飛び掛かり、機械の腕を絡ませるようにアメルを拘束するや否や、自爆のカウントダウンを始めたのだ。
「アメルっ!?」
「くっ……逃げてください、マグナさん! ネスティさん!」
ロッカとリューグがすかさず武器を手にアメルを拘束する召喚兵器を狙うも、この土壇場で起き上がったもう一体の召喚兵器に邪魔をされて弾き飛ばされる。一番近くにいた俺とネスも無我夢中で駆け寄ってアメルに巻き付いた鋼鉄の腕を引き剥がそうとするけれど、意志を抹消されたとは思えない頑なさで召喚兵器もアメルから手を離さない。どうにか振り解こうと身を捩っていたアメルまで淡々と刻まれていくカウントダウンに覚悟を決めたような顔をして叫んだけれど、こんな時でさえ他人のことばかり気遣うアメルにかっとなるまま、俺は叫び返した。
「イヤだ! 見殺しになんて出来るわけない!? 絶対に助けてやるっ、絶対にだっ!!」
守るって約束したのに、何も出来ず終いで終わってしまうなんてそんなの。今度もみすみす目の前で死なせてしまうなんて、絶対に!?
自分の物かさえも分からない感情の濁流に呑まれ掛けながら召喚兵器にしがみつき、聞き分けの悪い子供みたいに繰り返した時だった。
「どけっ、マグナ! アクセスっ!! ……間に合ってくれ、頼むっ!!」
ついに十を切ったカウントに奥歯をきつく噛み締めた俺の肩を誰かが掴んだ。信じられないくらい強い力で召喚兵器から引き剥がされて尻もちを付きながら見上げた先、俺のいた場所に身体を捻じ込んだネスが召喚兵器の腕を、いくつものコードが綻び出た間接のような部分を引き千切らんばかりに鷲掴んでいた。普段から血の気の薄いネスの肌に鈍色と灰色の折り重なった紋様が滑らかに浮き上がり、それは召喚兵器のコードを握り締めるネスの指先隅々にまで及んでいる。額や首筋から大粒の汗を吹き出しながら必死に何かを試みているネスのもう片手は無意識にだろうか、アメルと召喚兵器の間に割り込むように深く差し込まれている。このまま爆発を迎えたらアメルより先にネスの腕が肩まで吹っ飛んでしまうだろう。そんな無茶な行動にアメルが唖然と目を見開くけれど、それに気づくような余裕もなくネスは必死の形相で何かを試みている。その横顔に向けてアメルが何か言おうと口を開いた、次の瞬間。
耳をつんざくような轟音と目を焼くような閃光、その場から吹き飛ばされるような激しい爆風が巻き起こった。
「…………よかった」
森が揺れている。鳴り止まない地響きのせいだろう、鳥が一斉に飛び立った羽音と枝木の擦れ合う音が遠くに聞こえる。あのサイズの召喚兵器が起こしたとは思えない威力の爆発だったけれど、不思議と俺の身体にはひとつの傷もないようだ。いや、そんなのどう考えたっておかしい。爆発の中心地にいた俺たちの近く、地面だって軽く抉れているくらいなのにどうして。
その奇妙さに呆然としながら顔を上げた先に、俺は、天使を見た。
「ふたりとも……生きていて、くれた……」
背中から光り輝く金色の翼を生やしたアメルが、地面に座り込んだ俺とネスを包み込むようにして佇んでいた。慈愛に満ちた微笑みを浴びて一拍遅れで隣に目をやれば、そこには同じように目を見開いたネスの姿があった。ただし、その首筋から米神に掛けては見慣れない紋様がびっしりと浮かんでいる。まるで機械の表面を人間の肌に再現したような異様さに声もなくますます目を見張っていれば、俺たちの無事に気づいて駆け寄ってきたフォルテやケイナも思わずというように足を止めた。
「貴方たち、その姿は一体……?」
驚愕と困惑にどよめく皆の声を代弁してくれたケイナに向かって、おもむろに立ち上がったネスがアメルと目を交わすなり意を決したように口を開いた。
「僕はこの世界の人間じゃないんだ。僕の本当の名前は、ネスティ・ライル」
召喚兵器ゲイルの開発に関わったロレイラルの融機人、ベイガーのライル家の末裔だ、とネスが言う。
「……あたしも思い出しました。あたしのこの身体は天使アルミネの魂の欠片。召喚兵器となることで戻るべき世界をなくしてしまった、魂の欠片なんです」
金色の翼を緩やかに折り畳んで、アメルが顔を俯かせることなく静かに告げる。
「そしてマグナ、君は……」
ネスが俺を振り返る。悲しみと緊張に染まった目で俺を見つめて、強張った唇をゆっくりと動かして。
「……ゲイルを生み出した、調律者の一族」
その言葉を引き取って、泣きそうに潤んだ目をしたアメルが続ける。
もう聞きたくない、止めて欲しい。恥も外聞もなく喚き散らして二人の声を妨げたい欲求に駆られるけれど、手のひらに爪を食い込ませてでも暴力的な衝動に耐える。だって、こんな悲痛な顔をしたネスとアメルの邪魔をするなんて俺には出来ない。したくない。イヤだ、イヤだといつの間にか譫言のように繰り返しながらもその場に棒立ちになったまま、二人から顔を逸らすことさえ出来ない俺に向けて、ネスが泣き出しそうな声で呟く。
「クレスメントの、末裔なんだ……」
絞り出すような硬い声が突きつける俺の正体。それこそがこの森に隠されていた最大の秘密だったのだと、誰より信頼できる相手から宣告されてしまえばもう、自分自身の絶叫の他に何も聞こえはしなかった。
ただのアメルを応援しています。そして絶望回その2。ここまで大変お疲れさまでした、ディスク2に交換してください。