ノルンは笑わない   作:くものい

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差替済
※あっさりめですが、人間が獣に食われたシーンの描写があります。最後の段落に含まれるので、苦手な方はご注意ください。


16ー2:縛鎖を断つもの/N

 緩やかな坂道を下るように、状況は悪化の一途を辿っていた。

 徹底的な権威主義と血統主義で支配されたデグレアでは元老院の決定が絶対で、軍内においては上官の命令が全てだ。要は、立場が上の者に従うことが絶対不変の真理として一兵卒に至るまで染み渡っている。そんな中でいち随行員でしかなかった彼がビーニャの側仕えとして実質的な指揮権を握っている私を軽々に扱い、それを叱責するでも拒絶するでもなく従順に受け入れていればどうなるか。当然のことながら、彼こそがビーニャ不在時のトップであるように扱われ出すのは早かった。

 私にとっては気の抜けない厄介な相手であっても、他の兵から見た彼はこれまで突出した人間ではなかった。先遣隊より徴収された随行員は皆どれも高水準でまとまった能力を有する上澄みの兵に当たり、彼も例に漏れずだったものの、私と接する時を除いてあまりに存在感が薄すぎたのだ。静かな気配に欠けた生気、彩度の低い灰色の目と暗い髪色も相まって、どことなく冬の枯木立を思わせる人。そんな印象が嘘だったかのように今の彼は余裕ある笑みを口元に湛え、濡れた氷柱のような鋭い輝きを瞳に宿すようになった。その行動、振る舞いのひとつひとつに威厳と自信が行き渡るようになれば、周囲の見る目ががらりと変わるのも道理でしかない。

 自信と自覚は人を変える。その影響は本人のみに留まらず、良くも悪くも波紋のように外へ外へと広がっていく。

 彼の変貌の切っ掛けが何か、その自信の出所がどこにあるか。現在進行系で脅される身の私はそれを飽きるほど知っているが、元より文句を言える立場でなければ黙して語らずの他にない。実際、己より遥かに弱い立場の者との遣り取りで満たされる自尊心というのは少なくないものだ。己の意志ひとつ、気分ひとつで簡単に握り潰せてしまうネズミの命が手中にあると思えば絶対的な優越感や万能感、そこからの自信と余裕に繋がるし、憐憫からの愛おしみだって湧きもするだろう。擦り減る一方だった彼の自尊心が私との遣り取りで満たされた結果、軍内における実質的な地位向上まで達したことには驚きを越えて心配ですらあるものの、彼の方はこの上なく現状を満喫しているようだし、どうせ何を言おうと今更だ。

 あまり目立つと目を付けられる、と何度も忠告してきたのは浮かれる彼への皮肉でも嫌味でもなく、僅かに残った親切心と情からだった。秘密の対価としては破格過ぎる、けれど不本意極まりない恋人ごっこに付き合う不満と安堵はいつだって半々にあった。優越感に満ちた目で見下されるのは決して気分のいいものではなく、この状況に満足しているなんて口が裂けても言えないが、それでも次第に慣れてしまうのが人間というものらしい。

「どこで嘴を挟んでくるかと思っていたが。案外薄情なもんだね、副隊長殿も?」

「イオスくんがこんな些事に煩わされていいはずないでしょう、今は大事な任務中ですよ」

 平然と上官を軽んじるような物言いをする彼を窘めながらすっかり馴染んだ疲労感に肩を落とした私は、両手に抱えた果実水のカップを手持無沙汰に回している。

 穏やかな昼下がり、王都ゼラムきっての賑わいに満ちた劇場通りから一本入った路地の店先で、私は彼と暇潰しの立ち話に興じていた。数日から週に一度、諜報員から預った情報を携えて大平原奥の黒の旅団へと報告に赴いていたけれど、それが急遽今回で最後ということになり早々にゼラムに帰されたためだ。いよいよ開戦の気配が濃厚になってきて出入りの際の手続きや警戒度合いも増してきたこと、貴族の令嬢とその侍女や世話役という身分でも今後は怪しまれかねないこと、諸々の情報を総合的に勘案してこれが引き上げ時との判断になったらしい。ルヴァイドよりも更に上、デグレアを牛耳る元老院議会の決定だそうで、つまりはレイムが舞台に上がる日も近いということだろう。

「ビーニャの到着は明後日の昼になる見込みだ。合流次第、今の宿は引き払ってファナンに移動してもらう。それまでの間、くれぐれも余計な真似はしてくれるなよ」

 前回、部下にあるまじき態度で言葉を返した彼のことを、イオスは取り立てて言及しなかった。厳しい面差しで睨め付けるように見据えながらも、それ以上の叱責や処罰を与えることなく不問とした。それはイオスを目の敵にしている節のある彼にとって痛快無比な出来事だったらしい。

 あの苛烈極まる副隊長が自分と矛を交えることを避けた。随分と弱腰なことじゃないか小気味良さそうに笑っているが、あの場で直接的に軽んじられたのはイオスではなく私だ。気分を害しただけの第三者でしかないイオスがそれ以上の言及を避けたのは軍規に則ってみても当然だけれど、慢心しきった彼はそんなことにも意識が及ばないらしい。機嫌が良い分には結構なことだけれど、私に馴れ馴れしく接してくるのは憂さ晴らしの一環だと言い切った口で臆面もなく気遣うような言葉を掛けてくるのだから、ほとほと呆れてしまう。空になった木製のカップを店員へと返しながら横目で軽く睨んでみるも、機嫌良さげな笑みを崩さずに穏やかな眼差しで受け止められて、何とも言えない脱力感に襲われた私はこれみよがしに溜め息を落とした。

 とは言っても、彼と私は決して気心知れた仲ではないし、気を許せるような間柄でもない。

 呆れ顔を向けたり皮肉を返したり、私が従順でない素振りを取っても鷹揚に受け流してくれるのは優しさではなく余裕の表れで、今はまだあからさまな行為に及んでいないのも単に時機を見計らっているだけだ。若くして特務師団の副隊長にまで上り詰めたイオスや幼いながらにデグレア屈指の召喚師として君臨するビーニャに対し、私への嫌がらせを通して何かしらの意趣返しをしたいようで、楽しげな横顔の下で彼は今も思惑を巡らせているらしい。正直迂遠なやり方だと思うし、私をどうしたところで二人は痛くも痒くもないだろうけど、だからと言って考え直すように説得したり諭す気にもなれなかった。

「この先もずっと、このままだと思ってた」

 野営地を出発する直前、イオスの召喚術の進捗を見て魔力の扱いや収束の速さを褒めていたのが気に食わなかったのかもしれない。あんなの俺にだって出来ると張り合うように言って、私のブラウスの襟ぐりから滑り込ませた指にチェーンを引っ掛けた彼は、ペンダントトップであるリプシーの誓約石を無造作に掴み取った。いきなりのことに非難の声を上げるのも忘れる私の目の前、親指と人差し指で摘まれたサモナイト石から勢いよく淡い紫の光がこぼれ出る。

 見る者の目を奪うほど神秘的に澄み切った光。善意も悪意も、何らの意志も含まない輝きの中、空恐ろしいほどの力と可能性を秘めた石。

 魔力に反応するのがサモナイト石の特徴だけど、いくら強い魔力の持ち主だろうとただ触れるだけで石が反応することはない。意識して魔力を込めない限りはちょっと綺麗な石というだけで、その輝きが発露することはないのだ。つまりは、と唖然と目を見張っていた私へと、珍しく嫌味のない苦笑を浮かべた彼は淡々と教えてくれた。召喚術を扱う素養に魔力、独学でその扱いを習得するだけの直感に才覚。召喚術と言う力を忌避するデグレアでは決して日の目を見ることのない力に恵まれてしまった、彼のこれまでを。

「俺にだって力があったんだ、あんたと同じ力が。チャンスさえあれば、せめてこの力を正当に評価してくれる誰かさえいれば、俺だって……あんたほどとは言わなくても使い物になったはずだ。あんな半端な術しか使えない特務の奴ら、ぽっと出のくせ厚遇されてる召喚師ども……どれも一方的に見上げなきゃならない相手じゃなかったはずなのに」

 国家自体が召喚術に否定的なこともあり、帝国や聖王国と直に剣を交える軍属においてすら召喚術への理解は浅く知識は薄い。剣術や斧術を鍛える他に正規では登用されることのないデグレアにおいて召喚師の才能を持って生まれてしまった彼は間違いなく不運だった。偶然の成り行きでその唯一の例外たるレイムに目を掛けられ、召喚術の鍛錬を付けてもらった私でも、論理的な召喚の仕組みを学んだのはマグナの護衛獣になった後だ。頼れる師も先達の知恵たる教本もなく、ただ飽くなき執念ばかりを薪にして魔力の感覚を掴み取り、サモナイト石への込め方を体得し、そしておそらくは術の発動も出来るだろう彼はこれまで、一体どれだけの努力と修練を積み重ねてきたのか。

 想像だけでも胸が詰まるような思いで、私は何も言えずに押し黙った。

 不断の努力は報われず、弛まぬ修練は実を付けず、確かな武器になるはずだった力を無意味と断じられてしまった時。自分自身ではどうにもならないことで先が閉ざされ、蔑みの視線と弾圧的な声に抗うための術を失ってしまった時。この先ずっと、上の機嫌を損なわないよう頭を下げて思ってもいない言葉を吐いて、機械人形のように命令に従うだけの、のし上がっていくためのチャンスも力を持ちえない自分自身を突き付けられてしまった時、彼はとっくに絶望してしまったのだろう。

 この先もずっとこのまま、何も変わらない。妬み嫉みをいくら燻ぶらせたところで、恨み辛みをいくら降り積もらせたところで、彼を顧みてくれる誰かはいない。どれだけ不満だろうとも割り切るしかない。どれだけ不快だろうとも無理に飲み下す他にない。そうすることでしか生きていけないのだからと思い込もうとしていたところに、私が現れた。彼と大して変わらない弱さと似たような力を持つ、それなのにいくら彼が望んでも得られなかった偶然と切っ掛けに恵まれた人間が姿を現した。

 それは一体、どれほどの屈辱だったのだろう。

「それに気づかせたのはあんただ」

 感情の窺えない声で呟いて、彼は手を離した。その時初めて、彼のことを正面から見たような気がした。有り得たかもしれない可能性を私の中に見たのだろう彼に気が付いてしまったら、どうして彼の命を切り捨てられなかったのか、味方だから同じ陣営だからと言う理由に隠していた自分の気持ちにまで目が届いてしまった。

「……あんたも難儀な奴だよな」

 似ているのだ。息苦しいほどに重い彼の眼差しはいつか私も抱いた渇望と絶望によるものだ。だからこその親しみと気安さを向けられていたのだと、だからこその嫌悪と憤懣をぶつけられていたのだと、私を許せなかったのだと理解出来てしまった。

 共通項のひとつも持たない他人ならまだ諦めがついたものを、中途半端に弱さを併せ持った私だったから彼は目をつぶれなくなった。他人とは思えないほど似た立ち位置だからこそ、例えそれが偽善者じみた振る舞いに当たるとしても私は彼を否定出来なくなった。そうなればもう、私の意志で彼を殺すなんていう選択には踏み切れない。

「ああ、そうだ。例の約束ですがね、今夜はどうです?」

 右手は肩に回して、空いた手では頬にほつれ掛かった髪を指に巻き付けながら笑い掛けてくる彼を、私は冷めた目で一瞥した。明るいうちから夜の香りを漂わせる人も多い場所柄、この程度で悪目立ちはしないだろうが少しは周りの目を気にしてもらいたい。少なくともお嬢様付きの侍女と世話役という格好のまますることではないし、誰が通りかかるとも知れない道端で気の大きいことだ。肩に乗った手を払い落としながらそう返せば、楽しそうに口端を持ち上げて彼はいよいよ身を寄せてきた。

「何ならお嬢様のベッドでも使わせてもらおうか?」

「……悪趣味ですね、本当に」

 彼が私を抱こうとしているのは嫌がらせや当てつけであって好意ではないことだけが救いだ。我慢するのは得意だし、期待に添えられない結果でも下手な罪悪感や心苦しさを覚えずに済む。それにしたって、私とビーニャに割り当てられた部屋で事に及ぼうなんて実にろくでもないことを考えてくれるものだ。当てつけにしたっていい迷惑だし、ビーニャの勘の鋭さや沸点の低さを忘れてるんじゃないかと素の呆れを込めて言えば、彼は声を押し殺して笑った。

「はは、確かに。俺も浮かれてるのかもな」

 少年のような屈託ない笑みを浮かべるも、持ち上がった目には仄暗い興奮が滲んでいる。知らず身を強張らせた私の耳元に口を寄せて、髪先で遊んでいた手は頬へと添えながら、ゆっくりと笑いを含んだ吐息を吹きかけた。

「それじゃ、今夜」

「なあ、知り合いか?」

 タキツ、と風圧を感じる勢いで誰かの手が目の前を過ぎた。前触れなく路地の壁に突き立てられた手に瞠目していれば、咄嗟に仰け反って距離を取った彼が急に割り込んできた第三者を睨み付けようとして表情を消すのが見えた。思いがけない人物の登場に意表を突かれたのは同じだったろうに、軍人と言う杵柄あってか、さすがに立て直すのが早い。突然の闖入者、聖女一行の筆頭であるマグナを前に瞬きひとつで我に返った彼は、開いた両手を肩の位置に掲げて軽く笑ってみせた。

「……ああ、先約がいたのか! 申し訳ない、俺はここで失礼するよ」

 邪魔が入ったとばかりの鼻白んだ顔を一瞬で消して、数歩距離を取りながらおどけたように肩を竦めてみせる。ここで事を構えたところで益はないと判断してだろう、そのまま背中を返して去っていく姿に私は内心、安堵の溜め息を漏らした。

 こんなところでマグナに会うと思わなかったけれど、仲間たちに情報を共有されるかもしれないことを思えばここで彼の素性が割れるのは避けたい。

 何があったわけでもないのに執拗に後ろ姿を目で追っている様子にわざと声をこぼして気を引けば、どうやらマグナは私がナンパされていると思って間に割って入ってくれたらしい。怖いくらい固く強張った顔が振り向いてちょっと驚いたけれど、相変わらずの人の好さについ頬を緩ませてしまいながら私はそっと指先を持ち上げた。

「わざわざ声を掛けてきたってことは何か、話したいことがあるんでしょう?」

 手櫛さえ通していないのだろう、好き放題に跳ねた柔らかな髪を押さえるように撫でながら言えば、今にも泣きそうに紫紺の瞳が潤んだ。こうして向かい合って見ればよく分かるけれど、何だかとても疲れたような、本当に酷い顔をしている。一目でそう感じたのは正しかったのだろう。つっかえつっかえの震え声で、私と話したかったのだと訴えてくるマグナから目を離さないまま、私はとっくの昔に準備していた返事を口にした。

「いいですよ、付き合います」

 どれだけの思いを向けてもらったところで何も返せない。受け止めるだけの余裕もない。なら、本当はこんな半端な優しさよりもきっぱり突き放してあげた方が正しいのだと分かっている。だけど、ここまで来て放り出すような真似を選ぶことも私にはどうしたって出来ないから。

「大丈夫。貴方の話が終わるまで、ちゃんと一緒にいますから」

 多分、その声が聞こえた時点で観念していたし、覚悟は決めていた。どのみちこれ以上悪くなる立場も状況もないのだから、毒を食らわば皿までだ。どうせ夜は長いのだから、彼には暫く待ちぼうけを食らってもらうとしよう。せめて今だけは、マグナの心を苛んだのだろう不安や弱気に挫けそうな心を少しでも支えて寄り添ってやりたい。

 場を変えましょう、と言葉にしなくても差し出した手を受け取って頷いたマグナを前に、私は穏やかな笑みを浮かべている。

 

 ハルシェ湖の畔を歩きながらマグナの話に付き合ったのは、そう長い時間じゃなかった。

 行ってくる、と晴れ晴れしい笑みで駆け去っていく背中を見送った私は一人、胸中に満ちる言葉にならない感慨を噛み締めながら湖岸で佇んでいた。

「もう……俺、どうしたらいいか分からないよ。クレスメントの末裔だとか、ゲイル計画だとか、いきなりそんなこと言われても俺、何も知らなかったのに……!」

 風を受けいっぱいに帆を張った帆船や手漕ぎボートがのんびりと行き交う湖を横目に見ながらの私に対し、マグナの視線はずっと足元に落ちていた。外に気を向ける余裕もないことは顔色からして明らかだったけれど、時々不安に駆られたように顔を上げては縋るような眼差しを寄こすマグナに、だからこそ私はのんびりした相槌と微笑みを返すことに努めた。胸に渦巻く感情と思いの数々をマグナがすっかり吐き出し終えるまで、足を止めることなく静かに耳を傾け続けていた。

 ついに自身の血筋とそこに秘められた因縁や宿命を知ることになったマグナの心痛ははたして如何ほどだろう。そんな運命を持たなかった私には気持ちが分かるなんて口が裂けても言えはしない。何も知らずに罪を背負ったわけでもないから、突然の重荷に押し潰されそうになって混乱するマグナの苦痛に思い馳せるしか出来ない。だけど、そんな私にも教えてあげられることがあると知っていた。

「知ってしまった以上、知らなかった頃には戻れません。過去には決して手は届きませんし、誰にも時間を巻き戻すことは出来ませんから」

 真実はいつだって残酷なものだけれど、だからと言って必ずしも絶望を意味するものじゃない。今のマグナに必要なのは過去の過ちを変える奇跡でも記憶の一切を消すような逃避でもなく、あとほんの一歩の気づきだ。

 だって本当はもう、マグナだって分かっている。過去はどう足掻いたところで変えられず、いつまでも目を背けていられるものでもない。決してやり直しは出来ず、例え偽りで塗り固めたとしてもいずれ必ず暴かれる時が来る。その恐怖と焦燥に追われ続ける一生を過ごしたくないのなら、ただ受け入れるしかないのだ。目の前にある現実をあるがままに受け入れ、乗り越えていく。そのために必要なのは痛みを覚悟してでも前に進むための勇気、どれだけ険しい道になろうと一歩を踏み出すための決意だ。

 言葉にすればたったそれだけのことがどんなに困難極まることなのか、理解出来ないわけじゃない。耳当たりのいい慰めや労り、ぬるま湯のような同情や共感の言葉を求めたくなる気持ちを否定したいわけじゃない。それでも他ならないマグナ相手だったからこそ私は迷わず口にした。仮にも護衛獣としてずっと隣で見てきたマグナだから、本心からの信頼と確信を持って言い切ることが出来た。

「大丈夫ですよ、マグナなら」

 そう、マグナなら絶対に大丈夫。

 これまでの人生や自認を根こそぎひっくり返されるような衝撃を受けても、自身の在り方を根底から揺らがすような厳しい真実を突き付けられても、マグナはマグナでしかない。どんな状況に置かれようと、呑気でお人好しで、笑ってしまうほどに優しい人間で在り続けたマグナでしかない。それを知っている仲間たちに囲まれて支えられているマグナなら、こんな現実、決して恐れるほどのものじゃない。

 ずっと激動の真っ只中を駆け抜けてきたせいで気が付いていないのだろうけど、旅に出た頃と比べてマグナは見違えるほどに変わった。その強さが、意志が、目も眩むほどの輝きを纏うまでを私は見てきた。今のマグナはもう十分、悪夢のような過去にも現実にも立ち向かえる。あとはほんの少しだけ、自分を認めてあげるだけでいい。それだけの困難を乗り越えて成長してきたのだと、信じてあげるだけでいい。ありのままの自分を信じて一歩を踏み出す勇気さえ持てば、その背に圧し掛かる重石も目の前に立ち塞がる壁も無いのと変わらないのだと。

「……最後の最後まで世話の焼ける主なんですから、本当、困っちゃいますね」

 それを伝えることが、護衛獣だった私に出来る最後のお仕事だった。

 ようやく肩の荷が下りた思いで、緩やかに組んだ両手をぐっと前に突き出しながら伸びをする。これで真実、憂いは消えた。紫熟の誓約石はマグナに託したし、後は宿に戻って彼との約束に備えるだけだ。まあ、その前にひとつ用事が増えたようだけれど、と出港する船の汽笛が遠く鳴り響く中で私は首を傾げるようにして隣に立つ人物へと視線を持ち上げた。

「ねぇ、シャムロックさん?」

「……ああ、そうだね。だからネスティや君のような子が、彼には必要なんだと思うよ」

 気の早い西日を遮るように立ちながら苦笑交じりに呟いて、シャムロックは穏やかに私を見下ろした。

 君とは一度話をしてみたかったんだ、と社交辞令か判別の付かない言葉を先んじて告げてきただけあって、シャムロックは少なくとも今すぐ私を捕まえる気はないようだった。鎧を着込むどころか帯剣もしていない落ち着いた装いだけれど、警備の固くなったゼラムであまり物々しい格好をしていれば事情を知らない衛兵に見咎められてしまうかもしれないと言う配慮だろうか。ゲーム中でもマグナの相談相手はゼラム市街に散らばっていたし、外出ついでにたまたま波止場近くを通りかかってこちらに気が付いたのかもしれない。マグナとの話途中、悪意も敵意もない不思議な視線を感じたのはこれだったかと内心こっそり頷きつつ、街中へと戻るまでであればと話し相手になることを承諾した私へとシャムロックはほっとしたように胡桃色の瞳を和らげた。

「それにしても、君もゼラムにいたんだね。マグナの様子からして初めて顔を合わせたわけではなさそうだけど」

「別に待ち合わせはしてなかったんですけどね。私の方は出来るだけ避けていたんですが、マグナの嗅覚も案外侮れないと言うか何というか」

 仲間内に向けるような親しげな調子で話を振ってくるシャムロックだけど、その腹の中で何を考えているにしろここで彼と会えたのは私にとっても僥倖だった。街中だからと言って決して安全ではないことを豊漁祭の時点でシャムロックは正しく理解していた。であれば、彼と親しい仲であるフォルテも同じ推測に至っているはずだし、これから流す情報も有効活用してくれることだろう。

「白昼堂々、私が出歩いてるくらいですよ?無条件で安心出来る場所なんてどこにもないのに、ネスティの心労を思うと心底同情しちゃいます」

「それは、マグナも一応は警戒しているようだが……」

「皆がいれば何とかなる、って気楽に考えてるんでしょう? リューグ辺りは買い出し中だって気を抜かずにいそうですが、兵士相手でもないのに警戒するのは、まあ」

 マグナには難しいでしょうね、と苦笑に声を揺らせば、シャムロックはおもむろに目を細めて言葉を切った。ゼラムもファナンもあれから大分警備が厳しくなったけれど、デグレアの間者は未だ入り込んでいる。この作戦のために何年も前から先行して入り込んでいた兵は温厚で親切な現地住民を演じ、情報収集に徹し続けてきたのだ。もはや善良な一市民と見分けが付くはずもない。

 庇護すべき民のうちに潜んだ獅子身中の虫、完全な死角からの情報漏洩。

 そんな彼らの暗躍で事態が急変することはゲーム中ではなかったけれど、表に出ないところでどれだけの攻防や衝突が起きていたかなんて分かるはずもない。万が一の事態に備えて出来る限りの情報を流すのは今の私に出来る精一杯で、デグレアに対する背信行為、紛うことなき利敵行為になるのは承知の上だった。忠義の騎士たるシャムロックからすれば呆れや蔑みの対象になること間違いなしだろうが、だとしても構いはしない。私の目的はマグナたちが負けないことで、彼らに好かれることなんかじゃないからだ。

「……監視されているのは、君もなんじゃ?」

 そう思っていたところに降ってきた声に、え、と知らず顔を上げた。もうじき遊覧船の発着場も見えてきて、散歩中だったりベンチに腰掛けたりと人影もちらほら増えてきたけれど、その間隔は両手をいっぱいに広げたよりまだ遠い。他人に聞かれたくない話をするならここらが限度といった場所で足を止めると、シャムロックは湖の方角に顔を向けた。

「当然のように君は自分のことは棚上げして語るが、私たちと接触することで負う不利益の度合いは比べるまでもないはずだ。なのに君には、自分が助かろうとする素振りがまるでない。ビーニャの目が届かない場所では私たちの利となる立ち回りに終始して、なのに手心を加えてもらうつもりは欠片もないことばかり伝わってくる」

 湖面の輝きに眩しげに目を細めながら淡々と言葉を紡いでいくシャムロックが何を言おうとしているのか。その横顔を見上げて黙り込んでいれば、ふっと息だけで笑った気配がした。

「どこまで分かっているんだろうね、君は。わざと目をつぶって、口を噤んでくれていることが余りに多いように見える。それが君の恋い慕うビーニャの不利益に繋がるかもしれないと知った上で、様々なことを黙ってくれている……ひょっとすると私とフォルテ様の秘密も気付いているのかな?」

「……何を言っているのか、ちょっと」

 冗談めいた口調で尋ねられて、はっきり答えられずに言葉を濁した私にシャムロックは声を殺して笑った。砂利が擦れる音に次いで影の向きが変わり、身体ごと向き直ったシャムロックが正面から見下ろしてくる。

「そんな君だからこそ、尋ねてみたいことがあった。主君を持つ同士としてひとつ、いいかな?」

 真っ直ぐな瞳で見つめられて、無言で居住まいを正した。促すように視線を合わせて見つめ返せば、深く息を吸ってシャムロックは口を開いた。

「私は騎士だ。主君と定めた相手に嘘偽りない忠義を誓い、己が身を持って盾となり剣となり尽くすことを至上とする。だが、ならば、仕える主を失ってなおのうのうと生き延びてしまった私は実のところ誰のために、何の権利を持って剣を振るっているのか……時折、疑問に思ってしまうことがあってね」

 何を目的として剣を振るうのか。私はその場に居合わせていないが、ゲームどおりであったならキュラーの手によって陥落したトライドラでシャムロックは誓ったはずだ。死なせてしまった部下や守れなかった領民たち、主君であるリゴールのために、トライドラ最後の騎士としてデグレアと戦い続けることを。

 そして実際、マグナたち一行に加わって戦いに身を投じている姿はその誓いに背くものではないはずだけど、一体どうしてそんな疑問を抱くことになったのか。そもそもなぜ、気の置けない仲間たちではなく敵方である私にそんな懐を開いた話をする気になったのか。

 思いがけない相談に戸惑いを浮かべた私を察してだろう。苦笑に目を伏せたシャムロックは、少し昔話をしようか、と何気ない口振りで言って、かつて騎士を目指して修行に励んでいた頃の話をしてくれた。彼にとって何より信頼出来る相手、フォルテと出会い、交流を重ねるに至った騒々しくも得難い日々のことを。

 武門の家に生まれて物心つくかどうかの内から立派な騎士を目指して鍛錬を積んできたシャムロックにとって、やることなすこと破天荒で型破りなフォルテの存在はあまりに衝撃的だったらしい。門限破りに始まって素行の良くない先輩を闇討ちする手伝いだとか、酔い潰れて動けなくなったのを迎えに行ったりだとか、度々信じられないような面倒ごとに巻き込まれては冷や汗をかいたり狼狽えながら尻拭いに奔走したものの、そんな日々にどこか眩しく満ち足りたものを感じていたのだと。騎士たるべき理想の姿を目指して脇目も振らず邁進する中で、同じ騎士見習い相手にさえ感じていた見えない壁が、その時ばかりは影を薄めたような気がしたのだと。

「ローウェン砦の守備隊長などという、不相応なほどの評価を貰えたことを重責に思っていたわけじゃない。ただ、ひたすら騎士たる姿を目指すばかりだった自分のことが時々、ひどくつまらない人間のように思えてね。……デグレアの暴虐を許せない一心で剣を振るっているつもりでも、それだってただの自己満足や私怨ではないのか、ちっぽけな矜持を守るための逃避ではないのかと疑ってしまうことがあるんだよ……」

 怒涛の展開続きだった日々がやっと一息ついたことで、これまで意識に上らなかった自身のことにふと目が向いてしまったのだろう。今の自分が振るう剣はもしかすると義憤ではなく私怨に駆られて握ったものではないか。主君なく振るう剣の正しさは、己の騎士たる資格は一体何を持って肯定されるというのか。

 仲間たちに打ち明ければ優しい励ましと力強い否定が返ってくると分かっていたから私に話を振ったのだと理解したところで、どう返すべきか迷った。ここで私が何を言わずともシャムロックはきっと答えを見つけられるし、立ち直るための気付きを得ることが出来る。元来の責任感に隠し持っていた劣等感、加えて一人だけ生き残ってしまった負い目もあって、守れなかったトライドラの人々に対する罪の意識、己の振る舞いが騎士の本質に背いているのではないかという懸念に苛まれているのだろうが、ゲームどおりに行けばいずれ自問自答の先に拭い去ることが出来るはずだ。であれば、差し出がましい口を利いてまで告げるべきことなどあるのだろうか。

「……貴方は主を失ってなんかいませんよ」

 逡巡の末、私は結んでいた唇を解いた。

「貴方の目指した騎士は聖王国を守るために存在するものでしょう。貴方が主君と定めた相手もトライドラを、ひいては聖王国を守るための騎士であり、本質的には同じものに仕えた同士でしょう。それならシャムロックさんの主は聖王国そのもの、そこに住まう人民全てであり、貴方が剣を振るう理由もそこにあるのでは?」

 敵方に寝返った私にまで話を振るくらいの悩みを、いずれ答えに辿り着けるものだからと見て見ぬ振りは出来ない。一度話を聞いてしまった以上、その苦悩を切り捨てることは選べなかった。

 もし、罪の意識に駆られるまま贖いと償いのために剣を振るっていると思いたいなら、それを否定する気はない。騎士としての振る舞いの裏に自身の心を守るための打算や保身があったと信じたいなら、それもいいだろう。あの時何も守れなかった自身を罰し続けたいと言うのなら、それはシャムロックの自由だ。でも、失われた命を理由に自身の望みを否定するようなことはきっと、誰にとっての幸いにも繋がらない。現にシャムロックを騎士たらしめているのは後ろめたさや罪悪感、ましてや現実逃避なんて代物ではなく、守れなかった人々と守りたい人々への忠義と誠意なのだから。

「貴方は騎士です。今も昔も、誰かを守るために誰かに代わって剣を振るう、立派なトライドラの騎士様」

 無理に忘れまいとしなくとも、本当に大切なことは心に深く刻まれている。騎士としての主義信条、苦難を共にした仲間たちとの絆、悲劇の中で失われてしまった当たり前にあった日々。誰に証明するまでもなく、その全てが今のシャムロックを形作っている。義憤も私怨も併せ持って、その上で騎士たる振る舞いに努めているのはシャムロック自身なのだ。

「それにあのフォルテの友人を務められる人が、つまらないだけの人間なはずないでしょう?」

 笑い交じりに付け加えれば、シャムロックは愕然とした面持ちで私を見つめ返した。ああ、と耐え切れないように顔を俯かせる姿にどうしたものかと手を伸ばそうとして、やはり、と呻きにも似た低い声を聞いた。

「……君は、そちらにいるべきではない」

 伏せられていた瞳が持ち上がる。切っ先めいた黄褐色の鋭さに射抜かれ、背筋にぞわりと怖気が走ったその瞬間。反射的に足元を蹴っていた。

「召喚っ! スライムポット!」

 びちゃりと粘着質な音が弾け、一瞬前まで立っていた場所にどろついた粘液のようなものが降り注ぐ。勢いよく四方に弾け飛んだ飛沫がブーツを掠めるのを視界の端に、二度、三度と休まず石畳を蹴りつけて更に距離を稼ぎながら声の主を探して視線を飛ばす。いつの間に接近していたのか、ベンチの影から飛び出るなり召喚術を放った想像どおりの顔が、想像だにしなかった啖呵を高らかに切った。

「今日こそウチに帰ってきてもらうわよっ、お姉さまっ!」

 箒を模した杖の先を突き付けながらの宣言はまさしく不意打ちだった。一体何を、と唖然とするあまりに思考どころか足さえ止まる。戦場では一瞬の油断が命取り、僅かな逡巡や躊躇いですら勝敗を大きく左右する。無防備にも立ち尽くした相手をおめおめ見逃してくれる敵などいるはずもない、と寸でのところで思い出せたのは殆ど奇跡に近かった。音もなく伸ばされた腕を咄嗟に身を捩ることで避け、その場を転がるようにしてどうにか追撃の手を交わし切った私は堪え切れずに頬を引き攣らせての笑みをこぼしている。

「……っ、そういうことですかっ!」

 安全なはずの街中で突如、召喚術の光が迸ったからだろう。血相を変えて駆け付けようとする巡回の兵士にベンチから腰を浮かしかける住民と、ついさっきまで騒然としていた周囲の様子が僅かな攻防の間に様変わりしていた。やれやれとばかり定位置に戻った兵士の姿が何より象徴的だけど、散歩中の人が物珍しそうに見物し始めているくらいには無害なものだと思われている。それもそのはずだ。ほんの少し前までここゼラムでは、金の派閥の召喚師同士があちこちで子供じみた小競り合いを繰り広げていたのだ。巻き込まれた住民はいなくても派手な術を放っていたその内の一人がミニスだったことなんて、一度でも騒ぎを見かけたことのある人なら知っている。今度は姉妹喧嘩か何かだろうと勝手に誤解してくれることまで織り込み済みでミニスはさっきの言葉を叫んだのだ。

 して、やられた!

 にんまりと唇に弧を描いたミニスが再びサモナイト石に魔力を込め始めるのが見えるけれど、そればかりに気を取られてはいられない。なりふり構わず距離を取ったと言うのに体格差や身長差を大いに活用して一呼吸の間に距離を詰めてくる、もう一人がいるからだ。

「最初からこのつもりだったんですね……騎士様にして些か姑息な手ではっ!?」

 ミニスの襲来はシャムロックと打合せ済みのことだ。そうでなければこんな狙ったようなタイミングで術を発動出来るはずがないし、穏やかな対話から私を捕らえようとする動きへの切り替えがあまりに早過ぎる。私を見かけたのは本当に偶然だったのだろうが、であればなおさら千載一遇の好機と見たのだろう。いきなりの打ち明け話を含め、ここまでの遣り取り全てがこの盤面に導くための仕込みでしかなかったのだ!

 大きく踏み込んだシャムロックが軽く肘を引いたことに体勢を立て直そうとしていた私は迷わず横に跳んだ。空気を裂いて突き出された手が私のいた場所を過ぎていくけれど悠長に眺めてはいられない。剣術はあくまで武術の一種、治安維持にも駆り出される騎士は無手での体術や組打ち術にも通じている。相手を傷つけずに捕縛するための術なんて言わずもがなだ。シャムロックは言葉どおりの身ひとつ、徒手空拳でしかないのにこうも劣勢を強いられている今、真っ当にやりあって勝機を見いだせるとは到底思えなかった。

「計画を立てたのはミニスだからね。私は話に乗っただけさ。それに」

「こうでもしないと付き合ってくれないでしょっ!? タキツにその気がなくたって関係ないっ! 私たちのところに帰ってくる気がなくたって……お生憎様っ。そんなの聞いてあげないんだからっ!」

 聞き分けの悪いことを堂々胸を張って言ってくれるにミニスに思わず笑みが誘われるけれど、その間も手を緩めてくれないシャムロックのおかげで息つく暇もない。初め棒立ちになった私が捕まらずに済んだのはまったくの運だ。今度その間合いで足を止めてしまえば一巻の終わり、一度でも掴まれれば振り解けるとは思えない。三十六計逃げるに如かずと言った状況なのに、どこかで攻勢に転じなくてはその隙さえ見つからない。かと言ってあまりシャムロックから離れればミニスの召喚術が飛んできかねないと言う八方塞がりな状況に苦笑も滲む。

「もうっ、わざとでしょっ! シャムロックから離れないのっ!?」

 それでもやりようはある。ミニスはその年の召喚師にしては抜きん出た優秀さだけれど、召喚術の範囲や威力を細やかに制御出来るほどの経験は積んでいない。敵味方入り乱れての戦場で敵だけを識別して術を放つとなると、高位召喚師の称号を頂く程度に場数を踏んだ召喚師でなくては難しいのだ。いくら魔力を練り上げようと発動出来なければ意味はない。だからこそ危険は承知でシャムロックから付かず離れず、その間合いの内での攻防に私は専念していた。

「これも立派な戦術ですよっ。数の利で強引に事を運ぶ気ならこちらだって考えますっ」

「いっつも数の暴力を使うのはイオスたちの方でしょ! あんまり往生際が悪いとロッカも呼んじゃうんだからねっ!」

「ミニスっ!? そんな意地悪、どこで覚えたんですかっ!」

「はは、話には聞いていたけど本当に彼のことが苦手なんだね」

 お互いに手一杯な状況で増援を呼ぶのはさすがに冗談だろうけど、実際、あまり長引くのは拙い。見物人から話を聞いて仲間内の誰かが駆けつけるのと、息もろくに出来ない立ち回りに疲れ切った私が捕まってしまうのと、どちらが先かは分からないが、私からすれば大差ない結果に落着してしまう。まったく、つくづく神様に見放されているものだと苦い笑みに口角を下げて、私は息を切らしながら言い返した。

「もうっ……、困っちゃいますねっ。あくまで私はビーニャ様の護衛獣なのに、そんなふうに口説かれちゃうと!」

 言いながらあえて足を止め、シャムロックの手が身体に触れる寸前に迫ったところで勢いよく身を捩って伸ばされた腕に手を添える。体勢を整えきっていないのに無茶な動きをしたせいで身体の内側から嫌な音が響くけれど、鍛え抜かれた腕が引き戻されるより早くあらぬ方向へと受け流しながら石畳に打ち付けたブーツの踵を支点にターンを描けば、一瞬でシャムロックと立ち位置が入れ替わる。柔よく剛を制すると得意顔で言えるほど洗練された技ではないけれど、相手の力を利用させて貰うのは近接戦の常套手段だ。遠心力に乗って流れるようにその背中を取ったけれど、鋭利な刃物や固い杖も持たない私では有効打のひとつも与えられはしない。だから、狙いは最初からひとつだった。

 その間合いにありながら視線の外れる一瞬、待ち望んだ絶好の機会。シャムロックが振り返るより早くローブの内ポケットに潜らせた指先に目当ての感触を見つけた私は、これみよがしに取り出したサモナイト石を片手の内へと握り込み、にっこりと無言で微笑んだ。シャムロックの後方にいるミニスにも緑色の輝きが見えたのだろう、さっと緊張が走った二人の表情にやっとまともに呼吸が出来る安堵を噛み締める。これで、牽制は成り立った。

 この石で発動出来る術が攻撃系か、状態異常を付与するものか、あるいは憑依に当たるものなのか。ひょっとすると召喚獣と縁を結んでいない未誓約の石だとしても、シャムロックたちには判別の付けようがない。私が何を召喚するつもりか分からなければ、今までのように全力で飛び込むわけにはいかなくなる。一度ならず二度もビーニャの手によって魔力の塊をぶつけられたシャムロックなら猶更だ。痛みと屈辱の記憶が焼き付いているからと言って怯み臆しはしないだろうが、経験からの警戒は生まれる。ひとつひとつの行動に思考が挟まり、無心で繰り出されてきた動きが僅かにでも鈍る。私にでも、付け入る隙が出来る。

「……っ、だって!」

 ようやく見えた光明に息を整えながら笑みを深めた時だった。何かを振り切るように叫んだミニスの声に釣られるまま視線の先を動かして、私は多分、目を見張ったのだろう。シャムロックも動きを止めて見つめる先、ミニスはきつく唇を噛みしめて涙の光る瞳で私を見据えていた。私がビーニャに盲目なまでに付き従う理由も、その傍にいることに固執する理由も、何も知らないはずなのに。それがひどく耐え難くて辛いことであるかのように、これから告げる自分の主張がとんでもない我儘でしかないのを覚悟の上だというように、苦渋に満ちた瞳にきらりと流れ星のような決意が光って、幼くも力強い声が揺らぎなく放たれる。

「タキツは、私の友達だもん! 諦めないし、諦めたくない! 友達でいることも、友達が苦しむようなことも、全部が全部、仕方がないことだなんて絶対に……っ、諦めたくないのっ!」

 ただ、受け入れられない。受け入れたくないのだと。

 雄弁に物語るミニスの瞳に呑まれたような心地だった。炭酸水の泡が音を立てて弾けるようにいくつもの強い感情が金色の瞳を過ぎていく。仕方のないことだと大人しく聞き分けて、飲み込んで、諦めて、そうして胸から込み上げる思いに蓋をして我慢なんかしたくない。それが正しいことだと思えない。この気持ちを無かったことになんて、絶対したくないのだと。

「……あんまりしつこいと嫌われちゃいますよ?」

「タキツが私のこと嫌いになるはずないもんっ!」

 少し言葉に詰まって、ぽつりと言えば、涙声での食い気味の返しが飛んできて堪らず苦笑を飲んだ。現実を知らない子どもの戯言だ、実現するはずもない感情論だ。そう言って否定することは簡単なはずなのに、声に乗せようとすると喉が詰まって何も言えなくなる。そんな私とミニスのどちらに笑みを誘われたのか、柔らかい苦笑を浮かべたシャムロックの向こうで乱暴に目尻を拭ったミニスがスライムポットだろう誓約石に魔力を込め始める様子に、私は密かに魔力を注いでいたサモナイト石を握り締めた。

「……力を貸してね、フラップイヤー。ムーブプラス」

 それでも、ここで絆されてはあげられない。

 喋りながら走りながら、例え死にかけ寸前でも召喚出来るくらいに魔力の扱いには習熟した。だけど、いくら殺意がないと言っても、長年実戦を積んだ騎士の猛攻を凌ぎながら高威力の術を発動するほどの力量はまだ備えていない。そうした意味ではさっきの牽制もブラフに近かったけれど、対象が自分自身の憑依召喚なら話は別だ。身体能力の上昇なり低下なり、始めから一定効果が約束された術なら片手間に魔力を注ぐので事足りる。どれだけの魔力を込めて呼び掛ければ応えてくれるか、わざわざ意識を傾けるまでもなくこの身体が覚えている。

 イオスに憑依召喚を教える練習用にと新たに誓約を結んだメイトルパの清廉な獣、フラップイヤーのもたらす効果は一定時間の移動速度の上昇。サモナイト石に一気に込めることの出来る魔力量、ひいては術の威力や召喚速度では生粋の召喚師にとても及ばないが、実戦と絡めた扱いであればマグナやネスティにだって早々引けは取らない自信がある。シャムロックの注意が完全に向いてしまう前に風を切って懐へと飛び込んだ私は、正面から抱き着くように伸ばした両手を逞しい肩の上に勢いよく突いた。

「なっ……!?」

 石畳を蹴って飛び上がった刹那、ぐっと五指に力を込めて肩を押しやった反動も併せ、空中での一回転を決める。逆さまの世界を瞬く間に過ぎていく湖面の輝きや青々とした木々、戻ってきた重力に身を任せるまま片手で浮きかけた眼鏡を押さえて軽やかに着地する。スカートだというのにはしたない真似をしてしまったけれど、私の体重では背中を軽く押された程度の衝撃しか受けていないだろうシャムロック相手に振り返っている暇はない。体勢を崩すどころかたたらを踏んでいるかも怪しい予感が、はたして正しかったかどうか。目を見張ったミニスの下まで一直線に距離を詰め、杖を握り締めていた両手首を背中側から押さえるように包み込んだ私は振り返って、答え合わせをした。

「はい、そこまで」

 ミニスの背中を取り、その身動きを封じた。言わば人質に取った状況に、あと数歩に迫っていたシャムロックが動きを止めた。形勢逆転だ。

「シャムロックさんはそのまま、ゆっくり後ろに下がって下さいね。十分離れて下さったら私もミニスを解放してお暇させて頂きますから」

「タキツ……っ」

 こうなればもう私の勝ちは揺らぎない。ミニスが無理やり杖を振り回したところで威力はたかが知れているし、私の足を止めるほどの攻撃なんて出来るはずもない。自分でもよく理解しているのだろう、杖を握り締める手が小刻みに震えるほど悔しげな顔をしたミニスが唇を噛みしめる。心底悔しくてたまらないといった表情を浮かべるミニスにどうにも困ってしまいながら、なのに心のどこかで嬉しく思ってしまうどうしようもない自分へと眉尻を下げて、私はそっと小さい耳元に口を寄せた。

「ひとつ、いいことを教えてあげます」

 これがどれだけの意味を持つかは分からない。それでも、友達と呼んでくれたミニスに何か、返せるものがあるのなら。

「物事が上手くいっている時ほど、気を緩めないで。狙い通りに動かされていないか、知らず知らずに袋小路に追い込まれていないか……相手の意図がどこにあるかを考えて、よく目を凝らして耳をそばだてて。そしてもし、相手の思惑通りに事態が進んでしまったとしても、最後の最後まで決して諦めないで。それを忘れなければきっと、ミニスの大事なひとを守れるはずだから」

 返したいと思ったし、伝えたいと思った。私もミニスを友達だと思っていることを。大好きだって、いつだって笑っていて欲しいと願っていることを。

 もう、敵でしかないけれど。

 あ、と瞳を震わせたミニスが思わずと言った様子で口を開くのを最後まで見届けず、その細い肩を前に向かって突き飛ばす。倒れ込んだミニスを視界の端に、踵を返した私は街中へと続く道を勢いよく駆け出した。フラップイヤーの憑依召喚の効果は続いている。靴裏に力を込めて蹴り付けるたび、穏やかな湖畔の景色が飛ぶように過ぎていく。眩しくて温かくて優しい、穏やかな場所を決して振り返らないよう、ただ前だけを見つめた私はひたすらに走り続けていた。

 

 予定の時間を大幅に過ぎて帰り着いた自室の扉を押し開けて、その姿勢のまま固まっていたらしい。

 ゼラム滞在中の宿、ビーニャ不在の間は一人部屋と化した自室には、彼が待っているはずだった。我が物顔でベッドに座って不遜な笑みを浮かべているだろう彼の姿を想像しながら一歩、足を踏み入れたところで妙な臭いが鼻を突いて、眉を顰めた私は訝しみながら顔を上げようとして動きを止めた。

 そこまで広くはない部屋の中、出かける前にはなかった、奇妙な異物がそこにあった。

 窓から差し込む夕日を浴びて濡れたように輝く床の上、どす黒く染まった毛皮の山が脈打つように震えている。かつかつ、こりこりと、何かを削る音が小刻みに響いている。それが子供の頭ほどもあるネズミが十数匹、細長い何かを覆うように集まっている姿だと理解するのに少しの時間が掛かった。ひとつ塊のように寄せ集まった彼らが食事の真っ最中にあるのだと理解するのには、もう暫くの時間が要った。

 ぶちぶちと固い肉を無理やり引きちぎるような音、じゅるじゅると水気のあるものを一心不乱に啜る音。吐き気を催すすえた臭い、血溜まりに汚物の混じったような生臭さ。あまりに強烈で醜悪な、死の臭い。

「あっ! おかえりィ、ナチ! もうっ、どこで道草食ってたのよ? もうちょっと早く帰ってきてたら一緒に見れたのに……ほーんと残念」

 一体何が、と思考すらもが凍り付いたように固まっていた私を正気に引き戻してくれたのは、これもまた信じられない人物の声だった。出かける前に整えた通りの綺麗なベッドに腰かけて足をぶらぶら揺らしていたビーニャがにんまり笑って、私に向かって小首を傾げてみせる。不満げな言葉とは裏腹に喜色満面の笑みを浮かべたビーニャはまったくの自然体だった。

 どうして今ここに、戻りは明後日のはずでは、いやそもそも、この惨状を目の当たりにしてどうしてもそうも平静を保っているのか?

「ビーニャ、様……? あの……これは、どういう……」

 いくつもの疑問が目まぐるしく脳裏を過ぎていく中、ふらふらとビーニャの下に近づいたのは無意識だった。混乱の中で助けを求めるように身を寄せた私にビーニャはちょっと目を丸くして、それから嬉しそうに目元を緩ませると事もなげに言った。

「ほらぁ、ネズミよネズミ。アタシたちの周りを嗅ぎ回ってたあのドブネズミ! こっちに帰ってきたらいきなり部屋に入ってくるんだもん。調子に乗りすぎでしょ? だからァ……ネズミの始末はネズミに任せたってワケ! キャハハっ! アタシったら冴えてるゥ♪」

 得意げに笑って手を叩くビーニャの姿に、私もやっと理解が追い付いた。

 一体どうしたわけかは知らないが、ビーニャの戻りは予定より早まったのだ。それを知らずに私しかいないと思い込んで部屋に踏み込んだ時点で彼の運命は決まった。元より彼に対するビーニャの心象は地を這うように低かったのに、明確に機嫌を損ねるような真似をしたならばそれを見逃すはずもない。ビーニャには、私のような甘さも弱さもないのだから。

 忙しない咀嚼音とビーニャの笑い声をどこか呆然と聞きながら、次第に慣れてきた目はネズミの体色が二種類あることに気が付く。赤銅色に青錆色。少なくともリィンバウムに生息するネズミは私の知っているネズミとさほど変わらない色合いに大きさだったはずだ。いくら多勢に無勢と言っても現役の兵士を噛み殺すようなほどの獰猛さや強靭さは備えていなかったはずで、それならこれは、と思い至った私に正解を告げるようにビーニャは笑みを深めた。

「アタシが魔獣使いって呼ばれてるの、まさか知らなかったのかしらね? 大きい魔獣しか呼べないなんて一言も言ってないのに、狭い屋内じゃあっちの方が有利みたいに思っちゃってさぁ。剣を抜いて掛かってこようとするんだもん、バッカよねぇ! おかげで自分よりちっちゃなネズミに骨の髄まで啜られてるんだから」

 同情しちゃう、と唇を歪ませるビーニャの視線の先で、まだらに黒ずんだセーターの腹周りがぼこぼこと不格好に膨らんでは凹むのを繰り返す。柔らかい内臓から食べ進めているらしい食欲旺盛なネズミたちは、今度は骨にこびりついた肉を削ぎ落とすことに夢中らしい。肋骨の内側に潜ったのだろう動きに合わせて痙攣するように身体が揺れて、顔や手足に張り付いていたネズミが体勢を崩してずり落ちる隙間から彼だった物が見え隠れする。眼球があった場所は虚ろな穴に、鼻や唇、頬肉も乱雑にこそぎ落とされて、擦り減った血肉の向こうに覗く白にも深い亀裂や割れ目が走る。今この瞬間も原型を失いつつある彼を無言で見つめるばかりの私の傍ら、ビーニャは心底楽しげな声を上げて笑った。

「本っ当、おっかしかったァ! 身体中にネズミをくっつけて、きったない声上げてのたうち回って、まるでエビみたいに跳ねちゃって! あんまりおかしくってお腹が痛くなっちゃった」

 魔獣使いの二つ名どおり、ビーニャが召喚出来る対象は何もあの大きな魔獣に限った話じゃない。ネズミや鳥のような魔獣だって当然、呼び出すことが出来る。単独で砦を落としたキュラーとガレアノに並ぶ召喚師であるビーニャを相手にたった一人で敵うはずがないだろうに、彼は何を血迷ってしまったのだろう。逃げられないと踏んで一か八かの大勝負に出たのだろうか。それこそがビーニャの実力を見縊り、見誤っていた証左でしかないのに。

「それより、どうして迎えに来てくれなかったのよ? 楽しみにしてたのに!」

「あ……その、イオスくんからは明後日の昼、到着される予定だと……」

 動きの鈍い頭をどうにか叱咤してぎこちなく口を動かせば、わざとらしく唇を尖らせていたビーニャがふと納得したような顔をした。

「ふぅん……そういうこと。サプライズってヤツ? イオスちゃんもたまには気が利くじゃない」

 私にはよく分からないことを呟きながら小さく頷くと、ともかく、と明るく声を弾ませる。

「これで余計なことは気にしなくっていいわ。アンタはこれまでどおり、アタシのことだけ考えなさい?」

 無邪気に笑いかけてくるビーニャに呑まれたように首を縦に振りかけて、一度動きを止めた私はゆっくりと、意志を込めて頷き返した。

 確かに、これで憂いは無くなった。

 私では切り捨てられなかった彼の命を羽虫でも潰すような気軽さでビーニャが踏み躙ったのは、決して思い上がりでなく私のためだ。厄介で疎ましくて、それでもどうしても否定にまでは至れなかった彼を殺してくれたのは、間違いなくビーニャの優しさだ。どんな方法であれ、私のことを気遣ってくれた。私の心を守ろうとしてくれた。その気持ちが嬉しかった。

 大好きだった友達と同じ、先回りしてでも私の問題を片付けようとしてくれる不器用な優しさ、傲慢な施し。本当に友達なんて対等なものだったか不安になるくらい大事にしてくれた、守ってくれた、私の大好きなあの子。

「……ありがとうございます、ビーニャ。最期までずっと、お傍に置いて下さいね」

 二度と会えないと思ったあの子に重なる面影、柔らかな頬に浮かぶあどけない笑み。

 この笑顔を守るためなら何でも出来るし、何だってしてあげたい気持ちに変わりはない。それにどの道、ここまで手を汚しておいて引き返せる道もない。今更望める未来もない。思うままに笑みを浮かべて、地獄までの一本道を進むだけだ。

「ふふん、殊勝な心掛けじゃない。いいわよ、ナチなら最後の最後までアタシの隣を許してあげる!」

 一番のお気に入りなんだから、と屈託なく笑うビーニャに唇を結んで私もまた微笑んだ。獣たちの腹底に沈んだ彼と再会する日はそうきっと遠くはない。




モブが死にました。ビーニャはヒーローでありヒロインであり護衛獣思いの優しいご主人様なので。
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