ノルンは笑わない   作:くものい

40 / 40
2章:ビーニャの護衛獣/後編
17ー1:影は歌う/M


 カーテンの隙間から白い光が差し込んでいる。薄暗い部屋に真っ直ぐな線を描いて伸びる、その白さがやけに目を引いて、寝起きで半分閉じていた目が次第に開いていくのを感じた。体温で温もったシーツから足を下ろして、ベッド脇の冷えた絨毯を踏み締め、伸ばした手にカーテンの布地を掴んで左右に開け放つ。眩しいほどの光を透かして水面のように輝く窓を大きく上へと押し上げながら、俺は、自然と息をこぼしていた。

 朝だ。白く霧がかったゼラムの街を、波のように折り重なったオレンジと金色の日差しがほの明るく浮かび上がらせている。屋根や尖塔、煙突に敷き詰められたレンガの赤茶色が、冷たく澄んだ空気の中で静かに朝焼けの光を返しているのが見える。通りを歩く人影や薄い煙を吐き出す煙突がちらほらと見え隠れして、少しずつ眠りから覚めていく街の息吹がすぐそこに感じられるようだった。

 こんなに清々しい気分で朝を迎えるのは、一体いつぶりだろう?

 降り注ぐ日差しの中、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、身体中に活力が満ちていく爽快感を噛み締めながら俺は目元を和らげた。

「おはよう、シャムロック。朝から鍛錬かい?」

 こんな気持ちの良い目覚めを迎えておいて二度寝するのはさすがに勿体ない。せっかくだし散歩でもしようかと庭に足を運んだ俺は、熱心に剣の素振りをしている先客を見つけて朝の挨拶を投げ掛けた。ああ、おはよう、と汗の滲む顔を綻ばせて振り返ったシャムロックは珍しく一人での鍛錬中だったようで、いつもの顔ぶれは見当たらない。そんな俺の考えを読んだように、訓練用の剣を下ろしながらシャムロックは笑い交じりに言った。

「彼らは一足先に再開発地区に向かってね。これまでの鍛錬の集大成を兼ねて、アグラさんと模擬戦形式でぶつかるつもりらしい。どれだけ自分たちが強くなったか、しっかり教えてやるって意気込んでいたよ」

「うわぁ……フォルテやカザミネさんもそれに便乗して付いていったわけか」

 俺が元気になったから旅の再開も近いだろうと踏んで、リューグがアグラ爺さんに話を持ち掛けたらしい。リューグは大剣、ロッカは剣を予備の武器として扱えるように鍛えていたけれど、この短期間で実戦に使える練度まで仕上げたことに思わず驚いてしまう。それに、悪戯めいた表情で教えてくれたシャムロックの姿にも、内心かなり驚いてしまった。これまでどこか気負ったような覚悟と決意を秘めていた眼差しが和らいだような、余分な肩の力が抜けて自然体で立っているような、そんな雰囲気に見えたのだ。

「ああ、私も負けていられないと思ってね。フォルテ様のような器用さはないと自覚しているし、出来ることなんて剣を振るうことくらいだが、それならせめて一層の研鑽に努めなくては」

 こうやって話しているだけでも大分受ける印象が変わったように思う。ひょっとして誰かに背中を押されるようなことがあったんだろうか。悩みのモヤを抜けたような晴れやかな笑みを見ているうちにタキツに話を聞いてもらった時の自分を思い出してしまって、少しの照れくささと共感の混じった心地で俺も表情を和らげた。

 昨日、ネスとアメルと一緒に屋敷に帰ってから皆にこれまで考えていたことを話して、精一杯の気持ちを込めて謝って、出来たらこれからも一緒に戦って欲しいと頭を下げて頼んだ。胸に滲み寄る弱気と不安に負けないよう自分を奮い立たせて声を上げた俺に返ってきたのは、気の抜けたような笑い声に呆れや苦笑交じりの怒り顔、いつかも耳にした覚えのある文句や非難の声だった。そんなの頼まれなくたって当然だろ、今更何を言い出すかと思えば、まったく水臭いにもほどがある。四方八方からそんな言葉をぶつけられて慌てふためきながらも思い出したのは、黒の旅団の正体が判明してもアメルを守り抜くと決めた時のこと、それを屋敷の庭先で皆に向けて宣言した時のことだった。

 言葉にするのも躊躇う恐れや不安、葛藤に散々足踏みしてしまったけれど、思ったことや考えたことを実際に全部打ち明けて皆の考えを聞いてみれば、あの時も想像していたのとはまるで違う反応が返ってきた。今みたいに皆から叱られて励まされて背中を押されて、重くわだかまっていた不安は溶けるように消えて、前へと踏み出そうとする気持ちを力強く支えてくれる笑みや言葉ばかりが胸に残った。

 やっぱり、一人で殻に閉じこもってちゃいけない。どんなに不安でも怖くても、残った勇気をかき集めて話をしようとしなきゃいけないんだ。そうでなきゃ本当の問題がどこにあるのかも、勝手な想像で膨らませた不安の正体がちっぽけでしかなかったことすらも、ずっと何ひとつ分からないまま怯えて蹲って過ごすことになるんだから。

「あ、こんなところにいた!シャムロックさんもマグナも、早く来ないとご飯がなくなっちゃいますよ?」

 鍛錬組の様子をシャムロックから聞いていると、ふと二階の窓から顔を覗かせたアメルが声を投げ掛けてきた。と思いきや廊下の方へと視線を向けて、こちらの返事も聞かずに大慌てで引っ込んでしまう。ユエルちゃん、顔を洗ったらタオルで拭かなくちゃ、と焦ったような声と軽い足音が聞こえてきたことにシャムロックと顔を見合わせた俺は忍び笑いをこぼして、テーブルに並んでいるだろう温かい朝飯を想像しながら足取り軽く屋敷の入口へと向かう。

 勇気を出して相手の気持ちを知ろうとしなくちゃ、互いの思いを伝えようとしなくちゃ、間に横たわった距離が縮まることはない。顔を上げて外を見て、誰かと話をしようとしなくちゃ見えないもの、気づけないものはたくさんある。それに、その先でしか手に入らないものだって。

 たった一日で取れてしまったアメルからのさん付けをどこか懐かしく振り返りながら、何とも言えない面映ゆさに俺はこっそりと頬を緩めた。

 

「それで、アメルはどうやら天使の力で畑の作物の成長を促せないか気になっているようだ。僕にもノウハウを尋ねてきたが、まったく……彼女の考えることは本当に予想がつかないよ」

「はは……確かにアメルなら言いそうだな……?」

 食事を取る皆で賑わう広間には和気藹々とした雰囲気が漂っていた。早めに食べ終えたらしいルウやレナードさんは応接間寄りのソファでデザートやコーヒーを楽しんでいるし、料理の盛られた大皿近くは戦場さながらに混み合うからだろう、ネスやケイナたちは少し離れた席で落ち着いた様子で食事を進めている。俺も自分の分を確保してすぐ鍛錬に出ていた面子が雪崩込むように入ってきたことに慌てて場を離れると、ひとまずネスの近くに腰を下ろして目の前の料理に集中することにした。せっかくの美味しい食事なのだ、温かいうちに食べた方がいいに決まってる。

 今じゃすっかり口に馴染んだ、角切りの芋がふんだんに練り込まれた優しい甘みのパン。ごろごろ具材の入った滋養たっぷりな根菜のスープ。千切りにした芋を平たく広げて、カリカリになるまで香ばしく焼き上げた黄金色のガレット。

 主菜から副菜までふんだんに芋を使った料理はまさしくアメルといった感じだけど、後からやってきたロッカもネスも、揃って何とも言えない顔をしてスプーンに掬った芋の欠片を見つめている。不思議に思うまま疑問を向けた俺だったけど、二人の苦笑を噛み殺しながらの説明を聞き終える頃にはよく似た表情を浮かべて相槌を打っていた。

「あの子が頑張り屋なことはよく知っていますが、まさか芋の収穫量を増やすために力を使おうとするとは……いや、さすがに僕も驚いてしまいました」

 自分の力の正体がかつて豊穣の天使アルミネだった頃の権能に由来するものだと知ってから、アメルはいよいよ輪を掛けて今の自分に出来ることを探っているらしい。昔の記憶を持つもの同士、あれからもネスと色々話しているのは知っていたけど、苦痛に満ちた記憶の中にさえ明るい希望を見つけ出そうとする行動力と前向きさには素直に感心してしまう。その上で、やっぱりアメルは俺の知っているアメルのまま、少しも芯がぶれなかったと言うべきだろうか。

 豊穣の天使アルミネは大地に草木を芽吹かせたり弱った生き物に活力を与えることが出来たそうだけど、癒しの力がその名残なら今の自分にも似たようなことが出来るのでは?さすがにまったく同じことは無理だとしても、例えば畑一畝二畝の土壌を豊かにして作物の成長を、とりわけ収穫の早い芋の育ちを促すくらいのことはやれるのでは?

 そんなふうに思いつくが早いが即実践とネスに相談に行ったというのだから恐れ入る。今後のためにと召喚の仕組みを聞きに来ていたロッカもたまたまその場に居合わせたそうだけど、開いた口が塞がらずにネスと一緒になって暫く黙り込んしまったらしい。いきなり畑に向かって力を注ぐのではなくまずは鉢植えの花だとかを相手に試してみては、という提案に納得してくれたからよかったとしみじみ語る二人を見ながら、大好きな芋のことになると目の色が変わるアメルを思い返して俺も口元を緩ませてしまうけれど、すぐに引き締め直した。多少行きすぎなきらいはあるかもしれないけれど、そうまで熱心に自分に出来ること、やれることを増やそうとしているアメルの姿勢は、俺だって見習わなくちゃいけないと思ったのだ。

「それにしても、童話とかになったあの森の話はどうやって広まったのかしら……?真相を隠すためにしては興味を掻き立てるように出来すぎてるし、誰かがわざと広めたんじゃないかってルウは思うんだけど」

「お前さんも一度気になるととことんって性分だねぇ……娘の小さかった頃を思い出しちまうぜ」

 サツマイモのマフィン片手にぱくつきながらペンを握ったもう一方の手で何かノートに書きつけ頭を捻るルウの傍ら、苦笑を浮かべたレナードさんが優しく目を細める。機械遺跡での一連の出来事を振り返って気になることや疑問点をまとめているルウは、あの混乱した状況でも石碑に刻まれた文章をしっかり写し取ってくれていた。ネスと相談してその解読は先輩たちに頼むことにしたけれど、破損した文字も含めて正確に記録された紙面を見せてもらった時には研究者としてのルウの探究心と才覚に感嘆の念さえ覚えたほどだ。

「これなら何とか解読することも可能だろう。さすがは名に知れたアフラーンの一族だね」

 微笑むギブソン先輩に照れたように頬を染めていたルウだけど、実際、霊界言語に通じたルウがいなければここまで精巧な写しは取れなかったに違いない。この先の人生でどれだけ役立つかは分からなくても、ひょっとしたら一生日の目を見ることのない努力かもしれなくても、途中で投げ出すことなく霊界言語の習得に取り組んでくれたルウのおかげであの碑文を確かな手掛かりに活かすことが出来た。それは、碑文の解読を請け負ってくれた先輩たちにしたって変わらない。こういった物の解読が趣味だからと穏やかに微笑んでくれたギブソン先輩も、遠慮しないでもっと頼りなさいと朗らかに背中を叩いてくれたミモザ先輩も、それを当たり前に出来るようになるだけの労力と時間を積み重ねてきたからこそだ。いくら先輩たちが優しいからって、ルウがそれを気にしないからって、その気持ちや努力に胡坐をかいて一方的に甘えるような真似をするなんて、誰より俺自身が許せない。

「貴方もネスも私たちにとっては可愛い後輩なんだから」

 軽い調子で笑うミモザ先輩を前に、せめて俺たちも少しでも出来ることを増やして任務の手伝いをさせて貰おうと、ネスと目顔で頷き合ったことを覚えている。そのためには少なくとも、召喚術の腕前も召喚師としての練度もこんなところで満足してる場合じゃない。今まで以上に実力を磨いていかなくちゃと決意を新たにしたところだったのもあって、それで、とコーヒー片手に話を振ってきたエルジンへの返しに迷うことはなかった。

「みんなはこれからどうするの?」

「一旦ファナンに戻ろうと思ってる。黒の旅団が次に狙っているのは間違いなくファナンだからね」

 レルム村に向かう途中に襲撃された場所から考えても、大平原のどこかに黒の旅団が潜んでいるのは確実だ。ファナンは立地からして一番遺跡に近いけれど、デグレアからすればそれ以上に経済や交通の要衝として王都ゼラムに攻め入る前には絶対落としておきたい街だろう。デグレアの動きを警戒してゼラムやファナンも警備が厚くなってきたけれど、その分、自警団や騎士団の統制は厳しくなってきたと聞いている。この状況下で自由に動けるのは規律や組織に縛られていない傭兵や冒険者くらいのものらしい。それなら間違いなく、何にも縛られず自由に動ける俺たちにしか出来ないこと、やれることがあるはずだ。そのためにも明日には出発するつもりだと答えれば、いつの間にかソファの背もたれに寄り掛かっていたミモザ先輩まで眼鏡の奥で目を細めながら嬉しそうに頷いた。

「感心感心、マグナもちゃーんと考えてたみたいね?ホント、ここに帰ってきた時とは見違えるくらい良い顔になったじゃない?」

「あはは……重ね重ね、先輩たちにはご心配をおかけしました」

 たった数日前まではあんな絶望のどん底にあったのに、今はただ清々しいほどに吹っ切れた思いと自信に満ちた気持ちで前を向いてるんだから自分でも不思議なくらいだ。我ながら現金だとは思うけど、自分の手足さえ見えない真っ暗闇に立ち尽くしているようだったあの時間さえ今となっては意味があったように思えてしまう。アメルやネス、タキツとあんなに腹を割って話すことが出来たのは、ほんの僅かの虚勢や意地すらも残らないような絶望の中で俺が本当に望んでいること、求めていること、恐れていることが分かったからじゃないかって思えるのだ。

「どんなに優しくしてもらっても、言葉を尽くしてもらっても……自分で自分のことを信じていなくちゃ結局、正しい意味では受け止められないものね。ネスティやアメルの言葉を素直に信じられたのは、それだけの信頼や信じるための土壌を育ててきたからじゃないかしら。このひとに信じてもらえる自分なら大丈夫って、そう思えるほどにね?」

 昨日、リューグやフォルテに肩や背中を叩かれてバツの悪い笑みをこぼしていた俺に、ケイナは笑うでもなく穏やかにそう言った。タキツと会ったことは話してないのに、全部お見通しといった表情で微笑んだケイナに俺は少し言葉に詰まって、照れ交じりの笑みで大きく頷いた。

 そうだ。皆からここまで信じてもらって、やっと俺も少し、自分を信じることが出来るようになってきた。皆からの気持ちに報いたい、その想いに応えたい。俺はそれが出来る自分で在りたいし、皆と一緒にならそれが出来るのが今の俺だって本気でそう思える。そう信じられる。自分に出来ることを全力でやり切るだなんて、ここまでの旅でだって呆れるほどに繰り返してきたんだ。今の俺なら、俺たちなら、全力でぶつかった先に何も掴み取れないなんてはずがない。

「もう、あんな情けない姿は見せませんから」

 少なくともそう断言できるくらいには今の俺は、俺自身を信じることが出来る。その自覚と自信を持って、俺は瞳に力を込めるまま挑むように笑い返した。

 その翌日、大勢の冒険者や傭兵で混雑する城門を派閥の手形ですんなり抜けた俺たちは、予定どおりにファナンへと向かった。デグレアが本格的な侵攻を開始するのも秒読みに迫った現状、街中に入るだけでなく住人が外に出るのでさえ手続きに随分時間が掛かるらしい。俺たちは蒼の派閥と金の派閥、どちらもが融通を利かせてくれたことで足止めを食らわずに済んだけれど、こうなってしまうと街道を行き交う人影も普段よりずっと寂しいものでしかない。

「それだけデグレアの脅威が高まってきてるんだろうね……」

 ファナンに帰ったら下町の奴らに挨拶しにいかないと、と初め喜色を滲ませていたモーリンが神妙な顔でカザミネさんと話しているのを聞きながら、俺は左手に嵌めたばかりの緑玉の腕輪へと目をやった。先輩たちの屋敷を出発する直前、派閥本部での忙しい任務の合間を縫ってわざわざ足を運んでくれたラウル師範が餞別にとくれたのがこの腕輪と、今はネスが装備している双蛇の杖だった。どちらも師範が若い頃に使っていたというだけあって俺でも分かる濃厚な魔力を漂わせていて、召喚媒介としても有用だろうことは想像に難くない。一体どれほどの価値があるのかと、ネスが思わずといったように口を開こうとするのを優しく押し留めて、ラウル師範は言ったのだ。

 派閥の件は心配せずワシに任せるといい。お前たちに手は出させぬ、と。

 温かい笑みを浮かべて何でもないように師範は言ったけれど、異端者だった俺とネスを庇うことでこれまでも相当な反発を食らってきただろうに。見聞の旅という名目で勝手な行動を取っている今でさえ、当然のように守ってくれている。実の子供でもないのに温かい愛情を注いでくれるラウル師範の、その気持ちと信頼に応えるためにも、戦う前から引き下がるなんて絶対にしたくないと思った。

 ネスと俺がそんな決意を人知れず深めたように、きっと皆もそれぞれの決意を胸に秘めてるんだろう。晴れ晴れと澄み渡った青空に気持ちのいい風が吹き抜ける街道を歩くうちに会話も弾んできたようだけど、完全に気を抜いている仲間は一人もいない。カイナたちと談笑していてもシオンさんの雰囲気はソバ屋の大将というよりシノビのそれに近いし、ユエルも何か気になるのか、ひくひくと鼻先を動かしては不思議そうに首をひねっている。それでも今のところは順調な道行きかなと結論付けようとしたところで、俺はちょっと迷ってロッカたちの近くに足を運んだ。

「なあ、ちょっと声が聞こえたんだけどさ……何かあったのか?ひょっとしてアグラ爺さんの具合でも……」

 困ったような表情のロッカと苛立ちを堪えているような顔つきのリューグ、二人の間に居心地悪そうに挟まれているのはアグラ爺さんだ。禁忌の森からゼラムへと戻る途中、アメルを心配して付いてきてくれたアグラ爺さんは本当はレルム村に戻るつもりだったようだけど、それを半ば強引にリューグが引き留めたのだ。使えるモンは使わねえと、といつか豪語したとおりに模擬戦に引っ張り出した手腕を遺憾なく発揮して、今後暫くの同行までもぎ取ってしまったらしい。アンタも来るよな、と誘いというより殆ど断定系で迫ったそれに爺さんは初め難色を示したそうだけど、だからと言って大人しく引き下がるリューグじゃなかった。

「俺と兄貴の二人掛かりでもアンタに膝を突かせられなかった時点で、俺たちはまだまだ弱い。まさかそんな俺らとアメルをほっぽり出してアンタ一人、村に戻るつもりじゃねえよな?」

 そういった言い方をすれば良心が咎めるだろうと踏んでかもしれないけど、意外だったのはあのリューグがそうまでして爺さんを引き留めたことだ。俺たちの旅はいつだって危険と隣り合わせで、だからこそ一緒にくるかどうかは本人の意志で決めてもらっている。たとえ善意でも気遣いでも、他の誰かの気持ちや考えを理由にしては何かあった時の後悔に繋がりかねないからだ。はっきり聞いたことはないけど、少なくともリューグも同じ考えのはずだった。アメルのことを守ってやらなきゃいけないなんて思い上がりでしかないんだと、ロッカ相手に猛然と食って掛かった時の眼差しからしてもそれは火を見るより明らかだった。

 それぞれの意志でそれぞれに決めたことだから、何があったとしても本人にしか責任を負えない。誰を言い訳にも出来ないからこそ、腹を括って目の前の現実と向き合うことが出来る。

 何があっても他人は他人と、いっそ突き放したような態度を取っていたのもリューグなりの誠意や真摯さから来ていたのだと今はよく知っている。そうしたこともあってロッカなんてアグラ爺さん以上に目を丸くしてしまったそうだけど、爺さんを一人村に帰したくなかった気持ちは同じだったから、リューグにしては不自然な素振りを深く追求することも出来ず終いになってしまったらしい。

「このジジイ、まだハトの世話だとかを気にしてるんだよ。普段から半ば放し飼いだっつーのよ」

「それも気がかりと言えば気がかりじゃが……」

「あの子たちは草の種や小さな虫を啄むので、本当に大丈夫ですよ。飼い慣らされた家畜と違って何から何まで世話をしてやらなきゃいけないわけではないので」

 迷うように言葉尻を揺らすアグラ爺さんに遠慮してだろう、ロッカが声を潜めて教えてくれる。となると、未だにすっきりしない表情を浮かべている爺さんの懸念は別のところにあるようだ。たまたま通り掛かったアメルが爺さんの同行を早合点して喜んだのもあってつい首を縦に振ってしまったというのも理由のひとつかもしれないけど、場の雰囲気に流されてでも勢いに呑まれてでも、その承諾を撤回せずに付いてきたのは爺さん自身だ。この期に及んで何を往生際の悪い真似をしているのかと、煮え切らない態度にいい加減痺れを切らしたのだろうリューグが大きな溜め息を吐いて顔を上げた。

「どのみち、今の村に戻ったところで出来るのは墓守くらいだろうが。言い訳は聞き飽きたってんだよ。……アンタが強いのは知ってるが、旅団の奴ら全員で掛かってこられちゃさすがに敵わねえだろ。でもな、俺たちは本気で奴らの鼻を明かす気でいるんだ。変にうだうだ言う暇があるなら俺らに稽古のひとつでも付けて鍛えてくれよ。それこそ死んだ親父の分もな」

「リューグ……。そうか、お前たちは本気で立ち向かう気でいるのか……」

「当ったり前だろうが!?負けるなんて決まっちゃねえだろ!!」

 呆然としたようなアグラ爺さんの呟きを受けて、それまでは厳しい声色ながら活を入れるような響きのあったリューグの眉間にはっきり青筋が浮いた。声を荒げて詰め寄るリューグと爺さんの間に慌ててロッカが割り込むけれど、アグラ爺さんはそんな喧騒が聞こえないかのように深く目を伏せて何か感じ入ったように押し黙っている。家族喧嘩というにはどこか毛色の違った様子にどうしようか迷っていると、ルウと話し込んでいたアメルが事態に気づいて駆け足で向かってくるのが見えた。その腕に召喚したポワソを抱えているあたり、サプレスの召喚獣の特性や得意な術を聞いていたのを中断して来てくれたらしい。リューグたちの間を取り持つつもりが逆効果になってしまった不甲斐なさに肩を落としつつ、アメルと入れ替わりにその場を離れた俺へと声を掛けてきたのはシャムロックだった。

「マグナ、少しいいかな?」

「ああ、シャムロック……っと、ミニスも?どうしたんだ、二人揃ってだなんて」

 シャムロックの陰できょろきょろ周囲に目を配っているミニスに気づいて声を掛けると、ちょっとね、と短く答えてちょいちょいと手招きされた。耳を貸せということらしい。言われるままに軽く肩を下げて身体を傾けた俺に、囁くような声でミニスは言った。

「実はね、私たちもタキツと話したの。マグナがタキツと会ったあの日」

「えっ!?」

 驚きに思わず声を上げれば、声が大きい、とすかさず眉を吊り上げての叱責が飛んでくる。困惑しながら慌てて口を噤む間にも忙しなく動いている視線の先を追ったところで、俺は納得に小さく頷いた。タキツとロッカの間に漂っていた微妙な緊張感、穏やかでない空気のことをミニスも察していたらしい。出来たらあの場で捕まえたかったんだけど、とロッカの方を気にしながら一層声を潜めて残念そうに呟くミニスに合わせて、シャムロックも静かに相槌を打つ。

「やはり一筋縄ではいかないね。だが、実際に対峙してみてよく分かったよ。確かに彼女はあちら側にいるべきじゃない」

「だって、タキツったら相変わらずなんだもん。結局最後まで話に付き合ってくれたし、こっちが押してる時なんか口では困ったようなこと言うくせ、あんな嬉しそうに笑ってくれちゃって……あれで自分のこと敵だって言い張るんだから参っちゃうわよね」

「そっか……さすが、ミニスに掛かるとタキツも形無しだな?」

 頬を膨らませながら少し目元を緩めているミニスを見ればその本心がどうあるかなんて尋ねるまでもない。これ以上ない共感と同意を込めて苦笑を返せば、気恥ずかしげに口元をむずつかせてミニスはかすかに頬を染めた。だけどそれも束の間、こほん、と気を取り直すような咳払いをひとつ挟んで俺を見上げた顔には真剣な表情が浮かんでいる。

「重要なのはそこじゃなくって!……タキツ、最後に言ってたの。いいことを教えてあげるって。……物事が上手くいっている時ほど気を緩めないで。狙い通りに動かされていないか、知らず知らずに袋小路に追い込まれていないか……相手の意図がどこにあるか考えて、って」

 ただの助言かもしれないし、どんな表情だったかも分からないけど、と早口に続けるうちに視線ごと俯いていってしまうミニスだけど、ふと迷いを振り切るように顔を上げて俺を見た。必死さすら滲ませて食い入るように見つめてくる瞳には、言葉にならない焦燥と不安が揺れている。

「私にそう囁いた時の声が、何だか……いつもみたいに優しい声なのに、すごく切羽詰まって聞こえて、それで……」

「気になって、俺に話してくれたってわけか」

 無言で小さく頷いたミニスの肩に手を添えたシャムロックも眼差しだけで肯定を告げてきたことに、俺は難しい顔になるのを止められなかった。タキツが親しい相手に助言をすること自体は別段、おかしなことじゃない。味方だった頃はもちろん、もう敵に回ったと繰り返し主張している今でさえ、タキツは顔を合わせるたびに俺たちの背中を押したり不安を拭うような言葉を掛けてくれる。だからそう、タキツからミニスへの助言やその内容自体に不自然なものは感じないけれど、ミニスが訴えたことの他にも俺には引っ掛かる点があった。

 あのタキツが、いいことを教えるとまで前置きしてから告げたこと。

 これまでタキツの言葉がどれだけ励みになったか、支えになったか、心を奮い立たせるものだったか。俺はよく知っているけれど、タキツ自身には大して実感がないだろうことも知っている。その口から紡がれた励ましも労りも叱咤も、俺の護衛獣や皆の仲間だった時のタキツからしてみれば当たり前の優しさ、自然な気遣いの延長でしかなかったからだ。だから余計に胸が打ち震えたのだということは一旦横に置くとして、そうなると気になってくるのはタキツがわざわざ、ミニスにその助言を伝えようとした意図だ。

 タキツの望みはビーニャと一緒にいることだけど、同時に、俺たちに勝って欲しいと願ってくれているのも本心だ。負けないで、と俺の手を包み込んだ手の温もりも、祈るような真摯な声も、まだ記憶に遠くない。そういったこれまでの言動に今回の言葉、切羽詰まった声を合わせて考えれば考えるほど、悪い想像しか浮かんでこない。タキツはひょっとして、俺たちの今後にそれだけの危険が迫っていることを警告してくれたんじゃないだろうか?

 あくまで可能性の話だ。切羽詰まった声はミニスの聞き間違えかもしれないし、ただの助言を俺が考えすぎているだけかもしれない。そう思いながらも漠然とした不安が膨らんでいくのを止められずに黙々と足を進めて、ファナンの町を取り囲む城壁が見上げるほどに近づいてきた時だった。

「……腑に落ちない」

 訝しげどころか緊張すら帯びた声色に顔を上げた先、眉間に深い皺を刻んだネスと目が合った。どうしたんだと声を掛けるより早く、足早に隣へとやってきたネスは押し殺した声で尋ねてくる。

「マグナ。君はここまでの道中、野盗やはぐれの類を見かけたか?」

「い、いや?平和そのものな道中だったじゃないか」

「……だからおかしいんだ」

 さっきのミニスみたいに用心深く周囲に視線を配りながら、唸るようにネスは呟いた。

「戦火が鼻先にまで迫った今、見聞の旅に出た当初とは比べ物にならないほど治安は悪化している。人目に付く真昼の街道だろうと油断は出来ないと踏んでシオンさんやユエルに周囲を警戒してもらっていたが……そうした奴らの気配は感じ取れなかったらしい。いっそ不自然なほどにな」

「それは……先に通った冒険者のひとが捕まえたりしたんじゃないか?それで安全に通ってこれたならいいことだろ?」

 よっぽどのお金持ちや貴族を除いて旅の基本は徒歩だ。旅人の持つ金銭や食料を狙って街道から砦跡まであちこち出没する野盗やはぐれの相手も慣れたものだけど、遭遇せずに済むならそれに越したことはない。シノビであるシオンさんは不審な視線に敏いし、ユエルの鼻は遠くかすかな匂いでも嗅ぎ付ける。ネスらしい適切な采配に感心しつつ偶然の幸運を喜ぼうとした俺へと、だけどネスはいよいよ眉根を寄せて深刻な顔つきになる。

「だといいが……嫌な予感がするんだ。君の考えの他に、単に僕たちが大所帯だから恐れをなしたと考えることも出来なくはないが……」

 マグナ、と顔を上げたネスが重々しげに告げる。

「ひょっとすると、思った以上に差し迫った事態になっているかもしれないぞ」

 そして、それは予感に留まらなかった。久々に足を踏み入れたファナンには、一目でそうと分かるほどのおかしな雰囲気が漂っていたのだ。

「何だか、妙じゃないか……?」

 眩しいほどに晴れやかな空も、爽やかに吹き抜ける潮風も変わらないのに、そこに暮らす住人の様子だけが記憶とまるで違っていた。前に感じたのとは違う不穏な違和感、息苦しいほどに張りつめた空気。賑わいと活気に満ちた港町の姿はどこにも見当たらず、ぴりぴりと肌を逆撫でするような緊張感と得体の知れない不安感がそこら中に漂っている。通りを行くひとたちは皆、どこか落ち着きのない様子で、時折ひそひそと辺りを憚るように声を落として話している様子が目についた。その表情はどれも不安と緊張に固く強張っていて、何かに怯えているようにも見える。

「詮索は後回しにしてまずは道場に……とは言ってられなさそうだな?」

「ええ、何人かはこのまま情報収集に向かった方がいいでしょう。よろしいですか、ネスティさん?」

「ああ、僕も同感だ。街中ではあるが……念のため単独行動は避けるべきだろうな」

 城門から大通りを抜けて下町飲食店街に差し掛かる頃には全員が異変を確信していた。表情を引き締めたレナードさんが横目で尋ねるのにシオンさんが頷きながら言えば、ネスも厳しい表情で同意を返す。歩きながらそれとなく耳をそばだてていたけれど、町の人たちがこぞって話題に上げているのは何かの噂話らしい。それならと意気込んでファミィさんのところに向かったミニスにはシャムロックが、下町飲食店街に向かったモーリンには以前屋台を出していたシオンさんが付き添って、バイトで顔の知れ渡っているパッフェルさんとルウがお得意様やバイト先へと話を聞きに行ったところで、フォルテが首を大きく回しながら嘯いた。

「それじゃ、俺たちは道場に急ごうぜ。腰を据えてじっくり話せるかはどうも怪しいところだがな」

「……皆が戻ってき次第、僕からも話したいことがある。すまないが、良い話でないことは覚悟しておいてくれ」

 声を低めるネスに肩を竦めた苦笑いを返しながら歩き出すフォルテだけど、多分、言葉にしなかった返事は俺が思い浮かべたものと同じだったはずだ。

 この状況で良い話だなんて端から期待するわけがない。ここまでの旅自体、都合のいい展開や虫のいい話とはちっとも縁が無かったのに、今更そんな甘い期待を抱けるはずがないだろう。

 皆が持ち帰って来るだろう噂の内容や町の現状だってそうだ。ひょっとすると既に取り返しがつかないほど、俺たちは後手に回ってしまっているのかもしれない。不穏な町の状況、ネスの言っていた嫌な予感、タキツがわざわざくれた助言。じりじりと身を焦がすような焦燥と不安に駆られながら道場で待っていた俺たちにもたらされたのは、案の定、想像の数段先を行く悪い知らせだった。

 

 ファナンの領主が正式に布告する前に、デグレアがファナンの町を狙っているという噂を流している誰かがいる。

 ミニスがファミィさんに教えられたという話は、モーリンやパッフェルさんが町の人から聞き集めてきた話と完全に一致していた。直に戦争が始まることは誰しも肌身で感じていても、まさか次に狙われるのがこの町だと名指しされては心穏やかにいられるはずがない。それも荒唐無稽な法螺話ならともかく、何より厄介極まりないのは複数流れる噂のどれもが真実であることだった。

 スルゼン、ローウェンといった三砦都市どころか、聖王国の盾と名高いトライドラでさえ実はとっくの昔に陥落している。聖王国内には既にデグレアの特務部隊が入り込んでいて、王都ゼラムの目と鼻の先にある村が実際に壊滅させられている。ゼラムでもファナンでも、領主たち上の人間はそうした情報を掴んでいるのにわざと住民たちには秘密にして自分たちだけで握り潰している。

 ぽつぽつと流れ始めた噂はある日を境に爆発的に広がって、今ではファナンの住民の殆どが怯えている始末らしい。噂に煽り立てられた不安や恐怖、猜疑心や警戒心をそれぞれの胸で抱えきれなくなった結果、街角での噂話という形で吐き出されたそれがまた誰かの不安に伝播して、町の空気は日に日に悪くなる一方なのだとか。本当に噂は真実なのか、だとしたらなぜ領主は何も言わないのか、ひょっとして俺たちを見捨てるつもりなのか。そうした不信や疑念の言葉さえ聞こえてきたと、やるせなさそうにこぼしながらモーリンはきつく眉尻を吊り上げた。

「どこのどいつか知らないけど……見つけたらあたいがぶっ飛ばしてやるよ、絶対に!」

 ファミィさんたちが情報を規制したのは決して自分たちのためじゃない。デグレアを不用意に刺激しないためとか水面下での迎撃準備を進めるためだとかもあるけれど、一番はファナンの住民を悪戯に不安がらせることのないようにだった。そのはずだったのに、こんな噂が出回ったせいでファミィさんたちの配慮はまるっきり裏目に出てしまった。シャムロックが苦々しい顔で呟いたそれにアグラ爺さんも重々しく頷いて、ここは噂の出所を確かめておいた方がいいだろうとレナードさんが唸ったところだった。

「その前に、僕からひとつ話がある。……マグナ、前にシオンさんから聞いた妙な噂というのは豊漁祭の辺りから流れていたんだな?」

「あ、ああ。そうだよな、シオンさん?」

「ええ、西の方で戦争が始まるという噂でしたら確かにその頃からですよ」

 いきなり話を振られて面食らいながらシオンさんに同意を求めれば穏やかな肯定が返ってくる。俺たちの遣り取りを聞いて深く息を吐いたネスは、今度はフォルテへと質問を投げかけた。

「ではフォルテ。豊漁祭の頃から僕たちが野盗に遭遇したことはあったか?」

「は?そりゃ野盗なんざどこにでも……………おい、まさか、その頃から連中が足並み揃えてたって言うんなら……」

「おい、自分たちだけで分かったようにしてんじゃねえ。話すんならさっさと話しやがれ」

 唖然としたように途中、口元を手で覆って何やら呟き始めてしまったフォルテと真剣な面持ちでそれを見つめるネスティに、リューグが苛立ち交じりの催促を投げ掛ける。焦れったそうに舌打ちしながらの言葉は鋭かったけれど、今回は俺も止める気になれなかった。ネスは一体何を言おうとしてるんだろう?前にシオンさんに聞いた妙な噂と、ファナンまで野盗やはぐれと遭遇せずに済んだ話と、そのふたつの間にどんな関わりがあると言うんだろうか?

 俺たちの顔に浮かんだ疑問を見て取ったようにネスは一度口を閉ざすと、ゆっくりと息を吐き出した。静かだけれどよく通る声が道場に響く。

「通常、人心を乱す流言飛語の飛び交う時、野盗の類は勢いを増すものだ。例えそれが虚言や空言、根も葉もない噂話だとしても、不安と疑心に駆られて真に受けてしまう小心者は少なくない。少しでも安全に思える場所に移ろうと町を出たがるが、護衛を雇う余裕のあるものは限られているし、妙な噂が流れていれば必然代価も跳ね上がる。合理的に考えればそもそも町に留まるべきだが……怯えきった人間にまともな判断力はない。かくして野盗にしてみればまたとない機会が訪れるわけだが、今日、これだけ不穏な噂が渦巻くファナンの周辺でそうした連中を見かけることは一度もなかった」

 思い返してみれば、豊漁祭からこれまで野盗に襲われていないことに気づく。黒の旅団ばかり気にしていたのはあるけれど、はぐれの相手をした記憶さえもない。たまたま街道沿いを縄張りにする連中が捕まったり、場所を移した可能性だって考えられるけど。

「何らかの事情で街道沿いを縄張りにする連中が姿を消したのだとしても空白地帯は一時的なものだ。すぐに他の誰かしらの影響下に入る。豊漁祭の頃から戦争の噂が流れていたなら尚更、ならず者にとっては絶好の狩場に他ならないからな。だが現実に野盗はいなかった。気配や痕跡すら感じ取れなかった。……そう考えて、僕はひとつ推測を立てた。野盗たちは消えたのではなく、消されたんじゃないか?」

「消されたって……殺されたってことか?そんなのいくら恩賞が掛けられてたって」

「騎士団や冒険者であれば命を奪うまではしまい。だが奴らであれば……デグレアであればどうだ?旅人を装った斥候を放ち、町に入り込んだ兵と接触し、必要な情報を集めるに当たって邪魔は少ない方がいい。排除を躊躇う理由はないだろう。どちらも人目を避けて動くもの同士、遭遇した者から逃さず密やかに片付けていけばいずれ、勘のいい連中は自ら逃げ出してくれる。戦争の噂を流した時点で住民の動揺だけでなく邪魔になる連中の炙り出しを狙っていたのなら……実際大したものだな。この状況も狙って作り出したに違いあるまいよ」

「まさか……街中にまでデグレア兵が入り込んでるって言うのか!?」

「ハッ、そういうことかよ」

 水面下で着々と侵攻が進んでいた驚愕と衝撃に息を呑んでしまう俺とは逆に、納得いったとばかり苦々しい舌打ちをこぼしたのはリューグだった。目を見張ったまま見つめてしまう先、忌々しげに表情を歪めたリューグは苛立ち交じりに吐き捨てる。

「前々から妙だとは思ってたんだ。俺たちを監視してるにしろ、旅団の奴らの動きはあまりに正確すぎる。まるで俺たちの考えをそのまま聞いて行動してるみてえに……そう不気味に思っちゃいたが何のことはねえ。連中、街中でまで聞き耳立ててやがったか!」

「オーマイガッ!スパイが紛れ込んでたってことかよ。そりゃあ噂を流すのだって簡単なはずだぜ」

 ぴしゃりと額を打って嘆くレナードさんが言うとおり、ファナンの町に潜り込んだ連中がいたのなら妙な噂を流すのはもちろん、俺たちの動きを掴むのも容易だったはずだ。路地裏、街角、酒場に店先、いつどこで盗み聞かれていたかは分からないけど、心当たりのある場所はいくらでも思い浮かぶ。気を張り詰める戦闘中ならともかく、身の危険がない街中での買い物や散策中はろくに警戒していなかったし、行きつけの店や顔馴染みの相手と話す時にはすっかり肩の力も抜けていた。見るからに隙だらけで無防備にもほどがあっただろう俺たちを襲撃するでもなく、慎重に慎重を重ねて情報収集という本分に徹してくれたデグレアの間者には正直、感謝の念を抱いてしまうくらいだ。連中がもし、少しでも欲を出していたなら、まず間違いなく俺たちの誰かしらは洒落にならない怪我を負っていただろう。

「とにかく、最早街中だろうと油断ならない状況だ。噂の火元を探るうちにデグレア側に悟られてしまう可能性も高い。各自しっかりと戦闘準備を整えた上、噂を探る間も決して一人にならないよう細心の注意を払って動くべきだろう」

 ネスの結論に大きく頷きながら、だけど、俺は何とも言えない引っ掛かりを覚えた。なんだろう、何だかしっくり来ない。リューグやレナードさんの考えは至極もっともで、おかしなところなんてひとつもないはずなのに、小骨が刺さったような違和感が胸にそわついている。何か重要なことを見落としているような、何か大事なことを見逃してしまっているような、いやに落ち着かない心地。今を逃したらもう後がないような、緊張感すら纏わりついた据わりの悪さ。

 俺たちを付け狙う旅団の動きがあまりに正確だったことも、豊漁祭の頃からじわじわと不穏な噂が広まっていったことも、既に町に入り込んだデグレア兵がいたのなら全てに説明が付く。ちらりともその存在を匂わせず情報収集に徹していた連中がいたのなら、どんな情報を掴まれてもおかしくはない。そうだ、そのはずだけれど。

 本当に、そうだろうか?

 これまでもふとした折に込み上げては、はっきりした形を取る前に有耶無耶になっていた違和感の数々が蘇った。その途端、無意識に堰き止めていた思考が一気に溢れ返った。

 それだけ慎重な立ち回りを見せていたデグレアの間者が、どんな好機でもあくまで情報収集に専念していた連中が、どうして自ら不穏な噂を流すなんて真似をするだろう。あまり具体的な噂の火元となれば周囲の不信や警戒を買いかねないし、ともすれば正体を勘繰られる危険性だって跳ね上がる。それをこんな見計らったようなタイミングで、これだけの事実を盛り込んだ噂を流すなんて、ただ上の指示に従って動いていた奴らに出来る芸当じゃない。なら、それを決めた奴がいる。間者として潜り込んだ奴らの他に、噂の火元を担った奴が、別にいる。

 それはきっと、町への出入りが厳しくなった今でも比較的容易に入り込めるような、町の住人にとっても知らない顔じゃない誰か。一番初めに噂を吹聴しても不自然じゃない、仮に火付け役と知られても大して不審に思われない誰か。

 そう思い付いたところで浮かんだ顔を咄嗟に掻き消そうとして、寸でのところで踏み止まった。俺にとってもまったくの他人じゃない、進んで疑いたくなんてない相手。友人だと思っているその人の顔が浮かんだまま、ちっとも消えてくれないけれど。

 だけど、もし、そうだったとしたら。

「……なあ、皆。ちょっといいか?」

 情報収集に向かおうとする皆を呼び止めて、俺は乾いた唇を舐めながらひとつ、頼み事を口にしていた。

「でも、本当にいいんですか?マグナさんが一緒に行かなくて」

「ああ。俺がいたら余計、おばちゃんたちを怖がらせちゃうかもしれないしさ」

 噂の火元を探りに皆がそれぞれ市街に散っていった後、俺はユエルとロッカと一緒に下町飲食店街の近くに来ていた。皆に頼ってばかりじゃいられないし、さあ俺もと続こうとしたところで、ユエルに声を掛けられたのだ。下町の皆の様子が気になるから、一緒に付いてきて欲しいのだと。

「あの時のユエルが迷惑掛けちゃったのは本当だけど、おばちゃんたちにまだ怖がられてるかもだけど、でも……おばちゃんたちが怖い思いをしてないか、心配だから」

 様子を見に行きたいのだと、おずおずとながらに懸命に言い募るユエルは、あの頃から少し変わった。ネスからの頼まれ事をこなしたり一緒に戦ったりする中で、ユエルの持つ力は決して傷つけるためだけの力じゃないことに気付いていったのだろう。芽生え始めた自信と精一杯の勇気を振り絞ってこんなふうに頼み込まれたら返事なんて決まってる。それでも、実際の付き添いをロッカに頼んだのには理由があった。

「あれから時間も経ちましたし、今なら落ち着いて話すことも、理解して貰うことも出来ると思いますが……」

「いいんだ。……それも考えはしたけど」

 店の軒端に並んだ品物まで見える距離に近付いて最後の念押しとばかり振り返ったロッカに、俺は声を潜めて囁いた。

「いま、下手に召喚術への恐怖や警戒心を取り払ってしまうのは逆に危険な気がするんだ。この人が呼んだ召喚獣なら大丈夫、この人が使う召喚術なら怖くない……そんなふうに安心されるより、今はまだ、怖がってもらっていた方がいいかもしれない」

 ファナンの町にデグレア兵が紛れ込んでる以上、ひょっとしたら噂の出所を確かめるだけに済まず、戦闘に発展してしまう可能性だってある。それを思えば下手に不安を払拭してしまうのは危ない気がしたのだ。あの時のこともあっておばちゃんたちと顔を合わせにくいのは事実だけど、前みたいに話せるようになるのは町が落ち着いた後でいい。だけどせめて、ユエルが下町の皆を案じる気持ちだけでも伝わってくれないかと、ロッカの背中に隠れるようにしておばちゃんたちを見つめているユエルの背中につい目をやった時だ。

「っ!?」

 空元気でも笑みを浮かべているおばちゃんたちの様子に、ほっとしたように表情を和らげていたユエルが目を見張った。ぴんと張られた糸のように視線が繋がる先には丸々と目を見開いたおばちゃんがいて、次の瞬間、お客さんの相手も放り出して一目散に駆け寄ってきたおばちゃんは瞠目するユエルを力いっぱい抱き締めていた。

「ごめんよ、ごめんよユエルっ!一番辛かったのはあんただろうに……っ!!」

「え、えっ?お、おばちゃん?」

「あの日からずっと後悔してたんだ、あんな形であんたを突き放しちまったこと。拒絶しちまったこと。本当に最低な真似をしたって、ずっとずっと、あんたに謝りたくてたまらなかった……!」

 混乱に瞬くばかりのユエルの肩口に顔を埋めて鼻を啜るおばちゃんの声は湿っている。嗚咽交じりの謝罪を繰り返すおばちゃんに呆気に取られたのはロッカも同じようだったけど、さすがに事態の把握が早い。ユエル、と穏やかな呼び掛けに我に返ったように視線を向けたユエルへと、ロッカは優しく微笑んだ。

「おばさんはね、ユエルと仲直りしたいって言ってるんだよ」

「え……でもユエルのせいで」

 困惑交じりにユエルが言おうとした先を否定するように、おばちゃんは大きく首を横に振った。あんたのせいじゃない、あんたは何にも悪くなかったんだ。いつか間違ってしまったことを懺悔するように、自分自身に言い聞かせるように繰り返しながら、おばちゃんは言う。知らないからと恐れて、遠ざけて、拒絶して、だけど知っていることだって確かにあったのに。お使いを頼めばどこか誇らしげに張り切って飛び出していくこと。何か手伝えることはないかと暇さえあれば大きな瞳を輝かせて尋ねてくること。持ち回りでの世話もあって大していい暮らしもさせてやれなかったのに、気遣う声を掛けるたびその頭を撫でるたび、それだけで心底嬉しそうに緩みきった笑みを浮かべていたこと。

「どうか許してくれるかい、ユエル。あたしたちが……またあんたと一緒にいたいって、仲良くしたいって思うことを……」

 胸が詰まるようなおばちゃんの訴えを半ば呆然としたように聞いていたユエルの目に、じわりと透明な水の膜が膨らんだ。いっぱいに盛り上がったそれは音もなく弾けて、ユエルを抱き締めるおばちゃんの頬や肩にぽろぽろと大粒の雨のように落ちていく。本当に、いいの、とやっとのことで絞り出したような掠れ声が聞こえたと同時、おばちゃんがユエルを抱え込む両腕に一層の力を込めたのが分かった。

「もちろん……いいに、決まってるよっ……!」

 ユエルの顔がくしゃくしゃに歪んだ。所在なく下がっていた両手が震えながらおばちゃんの背中に回り、それでついに我慢出来なくなったのか。大きな声を上げて泣き出してしまったユエルの元へと堪え切れないように下町の皆も駆け寄ってきて、おばちゃんごとユエルをぎゅうぎゅうに抱き締めていく。感情が決壊したように泣きじゃくるユエルとおばちゃんたちに優しい眼差しを注ぐロッカと目を交わし、胸に満ちていく深い安堵のまま俺は息をこぼした。

 どれだけ親しくても好意を抱いていても、人間の気持ちは簡単に変わってしまう。相手に自分を脅かすような力があって、それがよく知らない力だったり途方もなく強大なものだったりすれば、どうしたって恐れ怯えを抱いてしまうのは仕方のない話なんだろう。それでも、変わってしまうのは悪い方にだけとは限らない。関わることを止めないで、諦めずに対話を重ねて交流を繋げていけば今みたいにきっと。

 いつか必ず、理解し合える時が来るはずだ。

「何か良いことがあったようじゃの」

 微笑ましげな声にふっと顔を上げると、道場側の小路から歩いてきたアグラ爺さんが片手を上げていた。初めての町で土地勘もない爺さんには留守を頼んだはずだけど、じっとしてると身体が鈍るとかで近くを散策していたらしい。アメルのおかげですっかり本調子だと闊達に笑う爺さんだったけど、さっきのユエルの話をすると神妙な顔をして俺に向き直った。

「やはり、あんた方は強いな。こうして一緒にいるとよく分かる。特にあんたはあれだけ過酷なものを背負わされてなお、それを受け止め更に前に進もうとしている……ワシには到底真似出来んよ」

「そんなことないさ。俺が前に進めているのは皆が支えてくれるからだし、ひとりだったらきっと潰れてた。それに爺さんだって俺たちの旅に付いてきてくれたじゃないか?」

 召喚兵器ゲイルを生み出したクレスメントの末裔として、俺は生まれながらに途方もない罪を背負っていた。目を背けたくなるような因果と業がこの血には流れているけれど、それは俺の一側面でしかない。俺という存在を形作っているのは、俺という人間の価値や意味を決めるのはそれだけじゃないって認めてくれる人たちがいたから、逃げずに立ち向かおうと思えたのだ。

 そう力を込めて言い切れば、ふっと苦笑めいた息をこぼして、そうじゃな、と爺さんは呟いた

「ワシなんぞに出来ることなど……長い間、そう思っとった。だが、リューグやネスティの言葉で少し考えるようになった。本当にそうか?それでいいのか?とな」

 大事な孫たちがああも必死に立ち向かっているのに、自分ばかりが戦う前から諦めて逃げていていいのか。本当に今の自分にはもう、何も出来ることなど残っていないのか。例えこれが思い上がりや自惚れに過ぎなかったとしても、あまりに遅すぎる決断だったとしても。

「それでも……ワシもまだ、間に合うだろうか?」

「ああ、もちろん!俺もだけど、リューグやロッカだってきっと、爺さんのことを待ってるよ」

 無言で目元を和らげたアグラ爺さんが欲しかったのは、最後のほんの一押しだったに違いない。噛み締めるようなその横顔からそっと目を逸らした俺も、暫くの間、心地のいい沈黙に浸っていた。

「ねぇ、若人ぉ?前から聞きたいと思ってたんだけど、貴方たち、いつもは何やってんのぉ?」

 そんなふうにユエルやアグラ爺さんの件で気が緩んでしまったせいもあるだろう。シオンさんの屋台がある路地裏へと向かう途中、念の為にと立ち寄ったメイメイさんの店でズバリ核心に切り込んだ質問をぶつけられた俺は、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしたはずだ。働いてるようには見えないしぃ、剣呑な気を感じるしぃ、まるで四六時中戦ってるみたいだしぃ、と遠慮もなく指折り数え上げていくメイメイさんだけど、意外なことに街中の様子はちっとも知らなかったようで、逆にあれこれ説明する羽目になった矢先だった。

 でもまあ、確かに不思議に思うのも無理はない。随分大所帯になった俺たちだけど、何も知らない人が見たらこれは一体どんな集まりなのかと首を傾げるだろう。メイメイさんとも長い付き合いになるしと、成り行きながらに事情を話した俺だったけれど、メイメイさんはそれを聞いてふと真剣な顔をした。

「ふぅん……なら、いい訓練の場所があるわよ?」

 お得意さんにはオマケしないとね、といつもの軽い笑みを浮かべてウインクを決めるメイメイさんだけど、それが本当なら願ってもないことだ。詳しい話を聞く前から前のめりになって飛び付きそうになるものの、寸でのところで思い止まった俺は力なく眉尻を下げた。

「あ、だけど今はまだやることがあるんだ。急ぎの用が済み次第、また仲間と一緒に来てもいいかな?」

「もっちろん。またの来訪、お待ちしておりまぁす♪」

 朗らかな笑みで見送られながら路地に出て、深呼吸をひとつ。そうだ、今はまだそんな余裕はない。大きく頭を振って意識を切り替えた俺は迷わずシオンさんの屋台に向かって、そして、数分後には脇目も振らず人気のない路地を駆けていた。

 常連さんが有力情報をお持ちで、今はレナードさんとフォルテさんに尾行してもらってるんですが。

 手早く店仕舞いを進めながら、シオンさんは口早に言った。

 今なら追いつけるかもしれません。おそらく移動先は、水道橋通りから中央大通りに延びる路地のひとつ。

 路地の入口側か奥まった辺りかは分かりませんが、とシオンさんの声を思い出しながら視線を巡らせた先、ある路地の入口に見慣れた人影を見つけて俺は息を殺して近寄っていく。フォルテは皆を呼びに行ったのか、ひとり難しい顔をして路地の中を睨んでいたレナードさんが、横目で俺を振り返った。

「マグナ、ビンゴだったぜ……!」

 苦虫を噛み潰したように低く唸る声を聞く前から、多分、覚悟は出来ていた。

 

「……何をしてるんですか、レイムさん」

 内心込み上げる怒りを押し殺しながら静かに呼び掛けると、薄暗い路地の中ほどで町の住人だろう数人相手に熱心に話し込んでいたレイムさんはゆっくり振り返った。

「おや、マグナくん。珍しいですね、今日はお二人だけなんですか?」

 張り詰めた空気の中、レイムさんはいつもどおり、何も変わらなかった。穏やかな笑みも優しげな声色も俺の知っているレイムさんのままで、だからこその信じられない思いとああやっぱりと腑に落ちてしまう悔しさが胸中に激しく入り乱れる。

「私はこちらの方々とお話を少々。……何やら穏やかでないご様子ですが、一体どうしたんです?私はただ、吟遊詩人として聞き知った話を町の皆さんにもお伝えしているだけじゃないですか」

「……それでファナンの人たちがどれだけ不安になっているか、分かってるんですか?聞き知ったとは言うけれど、いま流れている噂の殆どはレイムさんが広めたものじゃないんですか?」

 思わず声を荒げそうになる気持ちを抑えて、努めて冷静に言葉を返す。はっきりした説明を貰えるまで引き下がる気はない。追及の手を緩めるつもりはないのだと視線の圧を強める俺に対し、それでもレイムさんは浮かべる笑みを崩さない。妙な雲行きに戸惑っているのか、レイムさんと話していた人たちがそわそわと不安げに顔を見合わせていることに気付いた俺は、意識して深く息を吐くと、隣のレナードさんに目配せをした。

 これ以上噂を広められても困るし、ひとまずレイムさんを連れてどこか他の場所に移動しよう。

 厳しい表情で佇んでいたレナードさんが僅かに顎を引き、一歩、前へと踏み出そうとした。そこに待ったを掛ける声があった。

「ま、待てよ!あんたら……まさか上の奴らの差し金か?本当のことを俺たちに知られちゃ都合が悪いからって、この人を口封じでもするつもりじゃないだろうな……?」

 それは、レイムさんと話していた町の人たちだった。警戒したように身構えながらこちらを睨み据える中には何度も利用したことのある露店のおじさんもいる。それにはっとしてよく見れば、レイムさんを庇うように前に出た人も引け腰で、見るからに荒事には不慣れな様子だ。格好や佇まいからして皆、普段は市場や大通り沿いで商いを営んでいる人たちなのだろうと気付いたところで、俺は思わず唇を噛んだ。

 やっぱり、レイムさんは誰彼構わず噂を流していたわけじゃない。お客さんや同業者との世間話に雑談、そうした遣り取りの多い人たちを狙って噂を広めていたのだ。

「ふむ。では、ひとまず大通りにでも出ませんか?あれだけ人目に付く場所であれば逃げ出すのはもちろん妙な真似など出来ませんし、マグナくんたちも安心でしょう?」

 そう直感して険しさの増した表情を浮かべてしまう俺に、ふふ、と微笑み交じりにレイムさんは提案する。路地を抜けた大通りの広場には警備兵が常駐しているし、フォルテたちも既に待ち構えているはずだ。万が一にも取り逃がしたりすることのないようにと考えれば、こちらとしても不都合はない。だけど、と苦い顔を隠せない俺に気付いてかどうか、レイムさんはどんどん誘いを重ねていく。

「せっかくです。私を疑うに足る理由があるのなら、移動しながらでも是非、聞かせて頂けませんか?」

 緩やかな足取りで集団の先頭に立って、いっそ興味深そうに小首を傾げて尋ねてくるレイムさんの表情はどこか楽しげで。向けられる疑念と不信を面白がっているような素振りに苛立ちと悲しみが一層煽られるのを感じながら、俺は深呼吸をひとつ、静かにその後ろへと続いた。

「……前から違和感はあったんです。波止場で貴方と再会した時から少しずつ、モヤのような疑問は降り積もっていた」

 アメルの祖母が暮らす村を目指して街道を行く途中、偶然行き会ったレイムさんからトライドラに向かう途中だと聞いた時には何を思うこともなかった。不自然なものを感じたのはそれから暫く後、豊漁祭直前のファナンの町で再会した時だ。

 スルゼン砦やローウェン砦、それどころかトライドラもとっくに攻め滅ぼされたと小耳に挟んで心配していたのだと微笑むレイムさんにお礼を言おうとして、ざわりと胸が騒いだ。けれどやはりデマカセでしたね、これで安心してトライドラに向かえますと続いた言葉に、ざわざわと強風に木々が揺れ軋むような不安感が込み上げた。あの時は上手く言葉にならずに見過ごしてしまった違和感の正体がなんだったか、今なら分かる。

「あの時点でそんな話が出回るはずないんだとか、そんなことは言いません。レイムさん。なんであの時まだ、ファナンに残っていたんです?路銀を稼ぐにしたってあんなに時間が掛かるはずがない。まったく急ぐ旅でないならいざ知らず、噂の真偽を確かめたいと語っていた貴方の行動としてはあまりに不自然だ」

 レイムさんと再会するまでにどれだけの日数が経っていたか、気が付いた途端にそれまで漠然とした違和感だったものが重石のような疑念に変わった。スルゼン砦の悲劇、禁忌の森での驚愕、ローウェン砦の惨劇、そしてトライドラでの絶望。向かう先々で苦難にぶつかって必死に足掻いていた俺たちとは違って、初めからトライドラに目的地を定めていたレイムさんなら歩みが鈍る理由もなかったはずだ。あの話をした時点なら街道の封鎖もなかったし、問題なく行き来できたはずだろうに、どうして豊漁祭の直前までファナンに残っていたのか。まるで噂の真偽なんて初めから知っていたかのように、あくまで俺の反応を見ることが目的だったかのように。

「一番の稼ぎ時である祭の時期、豊漁祭のために滞在を延ばしたならまだ理解出来ます。だけどそうじゃなかった。ならどうして、なんのために?一度疑問に思ったらもう目を逸らせなかった」

 豊漁祭の頃から流れ始めたという、西の方で戦争が始まるという噂。それを流したのがレイムさんだという確証はない。レイムさんが本当にずっと、ファナンの町に残っていたとも限らない。どこまでが真実でどこからが嘘かの判別もつかないけれど、少なくともレイムさんが小耳に挟んだ話というのはどれも情報通だとかの言葉で済ませられるものじゃなかった。あの時期にそれを知り得たのは当事者だけ、俺たちかデグレア側の人間しかいない。吟遊詩人というレイムさんの立場をデグレアが一方的に利用して、騙している可能性も考えなかったわけじゃないけれど、それが一筋の藁に縋るようなあまりに薄い期待であることも分かっていた。だから、皆に頼んだのだ。

「会ったことがある人もいるだろうけど、俺の友達にレイムさんって吟遊詩人の人がいて、こうした噂に耳が早いんだ。真っ白な髪に雰囲気のある格好をしてるから遠目でも見付けやすいと思う。噂を辿っていくついででいい、その人を探してくれないか?」

 ただの勘違い、気のせいや取り越し苦労で済むならそれでいい。だけど、皆に声を掛けながら俺は半ば確信していた。

 ファナンの町に流れる一連の噂に、レイムさんは間違いなく関わっている。そして俺の想像が当たっていた場合、決して話し合いで解決するような事態ではないだろうとも。

「私がデグレアと通じていて、適宜タイミングを見計らって噂を流していたと……確かに筋は通りますね。ですが、デグレア側の人間であれば誰でも同じことが出来たのでは?私が噂を流したと疑うには些か根拠が弱いようですが」

「そうですよね。だから貴方はヒントをくれたんだ」

 影に満ちた路地を抜ける。絶えず反響していた靴音と声が途切れて、眩しいくらい晴れ渡った青空と鮮やかに彩られた広場の景色が飛び込んでくる。山ほど積まれた新鮮な野菜や果物、木箱に溢れる水揚げされたばかりの魚介類、焼き立てのパンやお菓子を扱う店もあれば冷えた果実水や輪切りの果物を並べた屋台もあって、前より明らかに人通りが減ったとはいえ大通りの広場は雑多な喧騒と物音に満ちている。遮るものなく降り注ぐ日差しに目を眇めた先、話を混ぜ返したり遮ったりすることもなく耳を傾けてくれていたレイムさんが足を止めて振り返る。その口元には薄い笑みが滲んでいる。

「トライドラが陥落したこと、それがデグレアの仕業だってことや魔物を使う奴もいるってこと……町に流れる噂はどれも聞いた人の不安を煽るように出来ていた。だけどそこには共通点があった。デグレアの特務部隊に壊滅させられた村、騎士たちを食い殺した恐ろしい魔物……噂を形作っていたのは前に、俺が貴方に教えた話ばかりだ……!」

 大事な友人だと思っていた。信頼出来る相手だと思っていた。本当なら秘密にしておくべき話を打ち明けたのも他ならないレイムさんだからだったのに、そんな気持ちを裏切って、当てつけるかのように嘲笑うかのようにファナンの町に噂を流した。

 俺の剣幕に異変を察したのか、周囲から人が引いていく。近くに残ったのはレナードさんと路地から付いてきたおじさんたちしかいないけど、日除けの帆布を大きく垂らした屋台の影にはネスとフォルテが、道端に積まれた木箱近くにはモーリンやミニスの姿が覗いている。どれだけ残酷な現実だろうと一人で立ち向かっているわけじゃない。やり場のない憤りや悲しみを振り切って、俺は糾弾の声を放った。

「優しい貴方を疑いたくなんかなかった。だけど、そう考えると全ての辻褄が合うんだ。レイムさん……ファナンに一連の噂を流したのは貴方なんじゃないですか!?」

「いやはや、お見逸れしました。さすがはマグナくん」

 正解です、と。

 あまりに軽い肯定に続けるはずだった言葉を見失う。咄嗟に何を返すことも出来ず立ち尽くした俺の代わり、それじゃ、と人垣の中からよろめくように出たアメルが声を震わせた。

「貴方が、あたしたちと親しくして下さったのも全部」

「ええ、そうですよ。それが一番都合が良かったからです。おかげで随分と助かりましたよ」

 微笑みすら浮かべて答えるレイムさんは本当に楽しそうで、アメルの肩を支えるモーリンや刀の柄に手を掛けたカザミネさんがどんな形相になってるかなんて気にもしていない。確かな言質を取ったことでじりじり距離を詰め始めたフォルテやロッカ、悲鳴を上げて路地の方へと後退るおじさんたちに目をくれず、ただだだ愉快でたまらないといった様子で笑みを深めている。

「あっ、あぁ……そんな……」

「しっかりして下さい、おじさん!」

 あまりのことに腰が抜けてしまったのか、仰け反るように尻餅をついた露店のおじさんを助け起こそうとする俺の耳に、笑い交じりの声が届いたのはその時だった。

「ですが、これは考えませんでしたか?そうも用意周到な振る舞いだった私が一人、不用心に動くような真似などするだろうか、と」

「マグナっ!避けろっ!!」

 唐突に怒声が弾けた。ネスの声かフォルテの声かも分からないそれに反射的に身体が動いて、石畳に膝を突く寸前だった動きを無理矢理に捻じ曲げる。重心を崩してみっともなく転がりながら顔を向けた先には、さっきまで俺がいた空間に真顔でナイフを突き出しているおじさんの姿があった。だけど狼狽える間もなく、今度は屋根の上から矢が降ってくる。

「まだだっ、そいつだけじゃねぇっ!」

 銃弾のお返しを叩き込むレナードさんへと狙いを変えたおじさんの前、滑り込んだフォルテが牽制の一撃を放った。大きく飛び退ったおじさんは信じられないほど冷たい目をして俺たちを見据えている。どうにか体勢を立て直して周囲の様子を探れば、おじさんの他にも数人、喫茶店の店員や露天商の格好をしたまま武器を取り出した人が出たらしい。遠巻きに見ていた町の人たちが俄然色めき立って、駆け付けてくれた皆の警戒も一気に高まって、混乱と動揺の波がいよいよ高まるばかりの広場の中央。微動だにせず微笑むばかりのレイムさんを囲むように、気が付いた時には見慣れた黒鎧の兵士たちまでもが姿を現していた。

 

「街中だってのに、どうして黒の旅団の奴らが!?」

「前から入り込んでたってわけかよ……随分と入念な準備をしてくれたもんだなぁ、ええ、おい!?」

 驚愕の顔つきで叫んだモーリンに続き、苦々しい表情を浮かべたフォルテが確信を持って吐き捨てる。レイムさんに近づけないよう武器を構えて立ち塞がっているのはこれまで何度も戦ってきた黒の旅団の兵士たち、そして同じファナンの町に暮らす住人だった人たちだった。

 広場に面した喫茶店の店員、不定期に店を広げていた露天商、手頃な値段のアクセサリや雑貨を扱っていた小店の店主。

 当たり前に顔を合わせて他愛のない話をして、日常の一部として溶け込んでいた人たちの変貌に理解が追い付かないのだろう。一体どうして、何が、なんで。いくらか遠巻きに下がったものの完全に場を離れることも出来ずにいた町の人たちが、ざわざわと戸惑いと困惑の声を増していく。一体何が起きているのか分からなくて、一体何が起きているのか知りたくて、込み上げる不安と混乱に眼差しを揺らし始めたその様子を満足気に見渡し、俺たちの敵意と警戒に溢れた視線を心地良さそうに浴びてから、レイムさんは歌うように告げた。

「皆さん、不思議がることはありませんよ。もう随分と前から……貴方たちが最初にこの町を訪れるずっと前から、私の部下たちはこの町で活動を開始していたのです」

 察しの良い方もいらっしゃるようですが、改めてご紹介いたしましょう。

 そう言って、ステップでも踏むような足取りで数歩下がると、大きく弧を描くように振り下ろした手を左胸へと当てながら恭しく膝を折ってお辞儀をする。

「私の名前はレイム。黒の旅団の顧問召喚師としてデグレアに協力させて頂いているものです」

 まるで悪びれもせず堂々と言ってのけたレイムさんを唖然と見つめ返してしまったのは数秒、落ち着き払ったその様子にかっと目の奥が熱くなる。一気に頭に血が上りすぎて、くらくらと目眩がするようだった。この期に及んでも崩れない丁寧な物言いも柔和な物腰も、決して俺たちへの誠意や敬意から来ているものじゃない。それが分かってしまう。嫌と言うほどに痛感してしまう。きっと俺と同じように感じているのだろうアメルの瞳が悲しみと怒りに大きく揺れるのが視界を掠めて、きつく奥歯を噛み締めた。

 大事な友人だと、信頼できる相手だと思っていたのは俺たちだけだった。俺たちがその身を案じて心を悩ませていた時、再会の喜びに無邪気な笑みを向けていた時、微笑みを浮かべた顔の下でレイムさんはまったく別のことを考えていた。なら、彼は一体どんな気持ちで俺たちを見ていたのだろう。何も知らない俺たちが浮かべる笑みを、向ける好意を、どんな思いで受け取っていたのだろう。腹の中では舌を出して笑いながらも、上辺ばかりは取り繕ってあの優しい言葉を、微笑みを返していたというのだろうか。

「レイムさん……俺は、貴方のことを絶対に許さない!!」

「元より許しを請うつもりはありませんよ。騙された貴方たちが悪いのです。それにまだお仕事の途中ですので、少し黙っていて頂けませんか?」

 湧き上がる憤慨に声を荒げて射殺すように睨み付けた俺へと、けれどレイムさんは平然と言葉を返す。神経を逆撫でするような微笑みを浮かべたまま、悲痛な面持ちで胸元を握り締めるアメルや怒りに肩を震わせる俺をまるで意に介することなく、いっそ穏やかに告げる声は揺らぎない。これっぽっちも動じずに、感情の波打つところなんてないように、ただただ綺麗に整った笑みを浮かべるレイムさんを前に、俺は虚無感にも似た脱力を覚えていた。

 どれだけ言葉を交わしたところできっと、この人とは本当の意味で理解し合えることはない。

 いくら目を凝らしても見えない溝がある。埋められない断絶がある。まったくの他人事のような態度を目の当たりにしてそれを肌で感じ取ってしまうまま、静かな絶望が足先を浸していくのを感じた時だった。

「アンタっ!もう許さない!!」

 止める間もなかった。もっともファナンの町に思い入れのあるモーリンがついに激高して石畳を蹴った。レイムさん目掛けて一直線に駆け抜けていくその全身から烈火の気迫が溢れている。猛然と迫り来るモーリンの姿に警戒を覚えたのか、前を固めようと数人の旅団兵が咄嗟に動こうとするのを片手で押さえて、レイムさんはやれやれとばかりに首を振った。

「荒事は私の領分ではないんですが……仕方ありません、お相手いたしましょう」

 声を少し低めて言うなり、緩やかに顔を上げる。軽く持ち上げられたその手の中に何があるのか、察してしまった俺やネスが声を上げるより早く、歪んだ紫色の光が渦巻くように立ち上り、そして。

 瞬く間に宙に浮かんだ異界の門が、耳をつんざくような甲高い音と共に開かれた。そこから滲み出るのは底冷えするような恐怖と威圧感、それを纏っているのは死後もなお瘴気を放ち続ける大悪魔の骸。俺たちも誓約を結んだことのある、けれど同じ召喚獣だとは到底思えないそれを見上げるモーリンの目が驚愕と恐怖に染まったところに、無慈悲な声が告げる。

「パラ・ダリオ。永劫の獄縛」

 毒々しい極彩色の光と音の塊が破裂した。禍々しい花火のような魔力の濁流を正面から浴びたモーリンが悲鳴もなくその場に崩れ落ちた。地べたに這い蹲った身体からは薄い煙が幾筋も立ち上っていて、次の瞬間、言葉にならない悲鳴を上げて駆け出したアメルがモーリンの傍らに滑り込むように膝を突く。俺とネスも全力で駆け出しながら、同時に思わず声を張っていた。

「アメルっ!後ろだっ!?」

 倒れ伏したモーリンの治療に飛び込んでいったアメルはいま、敵の目前で一人きりだ。無我夢中で癒やしの力を使おうとする無防備な背中へとデグレア側だった店員の男が勢いよく手を伸ばす。はっとして振り返ったアメルの顔に影が差して、薄茶の瞳が大きく見開かれて、けれど男の手がアメルに触れることはなかった。音もなく立ち上がったモーリンの拳が深々と、その鳩尾に突き刺さっていたからだ。

 濁った呻きをひとつ、力なく膝から崩れた男の前でゆらゆらと、モーリンは不安定に揺れている。それを見るレイムさんは少しだけ不思議そうな顔をしている。アメルの癒やしを受ける前で瀕死に近い重傷なのに、あんな威力のある拳を放ったことに驚いているのか。それとも重度の麻痺も与える術だったのにどうして動けているのかという疑問だろうか。そのどちらにも答える気はないとばかり、ぷっと血を吐き捨てながら口元を拭ったモーリンが顔を上げた。憤怒に燃える瞳がレイムさんを見止めて歪んだ。

「やって、くれたね……この町を、ファナンをどれだけコケにすれば、気が済むんだいっ……!」

「おやおや……怖いですねぇ。兵士の皆さん、お願いしますよ?」

 全身の痛みを凌駕する怒りに突き動かされているのだろう、ドスの効いた掠れ声で言い放ったモーリンに軽く笑ってレイムさんは片手を上げる。旅団兵が示し合わせたように剣を抜き槍を構え、町の住人の姿をしたままの敵もそれぞれ短剣や杖といった得物を構えた。こんな白昼の街中、町の人たちもいる場所で戦うなんて正気とは思えないけれど、それでも相手をしない選択肢はない。まだ仕事の途中だと言っていたレイムさんが何をしようとしているのか、何が目的で俺たちの相手をしようとしているのか、分からないけれど好きなようにはさせない。

 絶対に思い通りになんかさせないと鼻息荒く意気込む俺たちに目を細めて、レイムさんはうっそりと笑みを深めたようだった。

「ふんっ!」

「動ける人はそうでない人を連れて、屋内に避難してくださいっ!」

 騒ぎに気付いて駆け付けてくれたアグラ爺さんが吹き飛んできた屋台の破片を叩き落とし、その隙にパッフェルさんやシオンさんが逃げ遅れた町の人たちを誘導する。町の住人や建物の被害を気にすることない敵に対して、俺たちの方はそうもいかない。模擬戦でもない本気の戦いとなれば、いくら配慮しようがどうしたって被害は出てしまう。それが頭では分かっていても皆、あまり威力の高い術や技は使わず、周囲に被害が出ないことを最優先に立ち回っていた。町の人たちの気持ちを考えたのもあったけど、俺たち自身、これ以上は少しもファナンの町を傷つけたくない思いでいっぱいだった。

 観光客が多く訪れるファナンの町の中心部だけあって、広場周辺は特に景観を意識していたのだろう。建物の屋根や壁は明るい青や白で統一されて、立ち並ぶ屋台も個性豊かに飾り付けられて、道沿いに並ぶ鉢植えの花は生き生きと咲き誇っていた。それが今や道端の屋台は木屑に変わり、建物の外壁にはヒビが走り、露店の敷き布は襤褸切れになって吹き飛んでいる。戦闘の余波で砕けた鉢植えの花は土ごとこぼれて踏みにじられて、だけどそれに目を向ける余裕もない。悲しみも悔しさも後回しに目の前の敵を捌いていたけれど、ファナンの町で顔が知られている面々が率先して声を張ってくれたこと、アメルやルウの召喚したポワソたちも怪我人の手当てをしたりと動いてくれたことで、次第に混乱も落ち着いてきたらしい。じりじりと一進一退の攻防を繰り返していた状況に変化を感じて、ざっと目を走らせた時だ。

「……さて、皆さん。優秀な間者に求められる資質とは何か、ご存じですか?」

 朗々と歌うような声が聞こえてきたことに知らず顔を向けている。数人の兵士に守られるような位置で、レイムさんは町の人たちへとにこやかに笑い掛けていた。もちろん、その間には十分な距離が開いている。すぐ近くではフォルテやシャムロックが鋭い剣戟の音を響かせながら旅団兵を追い込んでいるし、敵のダークブリンガーを相殺どころか飲み込む勢いでシャインセイバーを返しているミニスの姿もあって、身の危険を感じるべきはむしろレイムさんの方だろう。なのに動じもせず、怯えもせず、その声は続いていく。

「優秀であること?魅力的であること?いいえ、いいえ、そうではありません。温厚で親切、あるいは温和で聞き上手。気付けばついつい話し込んでしまうような……自然と好意を抱いてしまう人柄であること。そのように演じられることが、優秀な間者の条件です。事実、そうだったでしょう?」

 視線だけで辺りをぐるりと見渡したその動きを無意識に追って、愕然とした。町の人たちは呑まれたようにレイムさんを見つめていた。目の前で行われる戦闘に怯えて立ち竦んでしまっていたのに、すっかりその目は釘付けに、足はその場に縫い止められてしまっている。その一挙手一投足から視線が剥がせないと言うように、その一言一句に耳を澄ませずにはいられないと言うように。

 耳を傾けてはいけないと頭の中で激しく警鐘が鳴っているだろうに、誰もが誘惑に呑まれてしまっている。引きずり出された好奇心と興味に手を引かれるまま、レイムさんの話にどっぷり浸かってしまっている。

「実に善良な隣人だったでしょう?思わず親しみを抱いてしまったでしょう?彼らはそう演じていただけなのに、勝手に信じて心を開いて気を許して秘密を打ち明けたのは……貴方方、ご自身です」

 舞台に上がった役者のようによく通る声で、レイムさんは言った。それに思い当たることがあったのだろう、何人もの顔色が変わる。そして俺にも確かに思い出すことがあった。顔馴染みだった露店のおじさんは、少し呑気で調子のいいところもあったけど、ついつい雑談やらで話し込んでしまうような気安い人柄だった。仕方ないなと頭をかきながら値段を負けてくれたり、この分ちゃんと贔屓にしてくれよなと苦笑交じりに念を押してきたり、用事がなくても顔を出したくなるような人だった。それも全部、演技でしかなかったのだとレイムさんは言ったのだ。

 何年も前からファナンの町に潜り込んで、日常の一員として溶け込むくらいに周囲に馴染んで、知り合う全員を欺いて騙し続けて。満を持して命令が下された今、仮初めの全てを捨て去る時が来たのだとばかりに彼らは立場を明らかにした。裏切るも何も、初めから味方などではなかったのだと突き付けたのだ。

「行きつけの店での顔馴染み、軽口を叩き合った仕事仲間、弱音も愚痴も吐き出せる友人……ふふふ、本当にそうでしょうか。そう思っているのは貴方だけかもしれませんね?どこの誰も信用出来ない、いつ何時も気を抜けない。隣り合って呑気に笑っていたらナイフでぐさり……なんて目に遭っても何もおかしくないのが今のこの町、ファナンの現状なのですよ?」

「ウインゲイル、ダブリーザーっ!」

 人々の不安を煽り立てるようなレイムさんの言葉を強引に遮ったのは、突然放たれた機界ロレイラルの召喚術だった。ネスの指示する範囲一帯に突風が吹き付け、不意を打たれてレイムさんの傍にいた兵士がたたらを踏む。おっと、と危うげない足取りで射程外へと逃れたレイムさんが振り返りざまにネスを目に止めた。どこか面白そうに目を細めたレイムさんへと食って掛かるようにネスが声を張る。

「内通者はこの場に出揃った!不安要素はもうこの町にはいないだろう!?」

「おやおや、ネスティさんにしては随分と楽観的な物の見方をしますね。私の部下たちがこの場に現れたもので全てだと、どうしてそう思えるのです?」

 今のうちにと体勢を崩した兵士に向かって召喚術を放った俺も、その手元から武器を弾き飛ばしたレナードさんも、援護に駆け付けようとしていたシャムロックも、例外なく目を見張ったのが分かった。揶揄うような笑みを浮かべたレイムさんへと一瞬瞠目したネスが、苦渋に満ちた表情に顔をぐしゃぐしゃに歪ませる。

「そうか、このためにっ……!!」

 レイムさんがデグレアと通じていたと、ファナンの町の人たちの前で明言した時には途方もない怒りや悲しさの他に、ほんの少しの安心感もあった。ファナンの町に噂を流して不安と混乱に陥れることで何が狙えるかと言えば、領主への不信や疑念から来る機能不全だ。こんな領主は信頼出来ないと協力を拒んだり、町から逃げるような住人が増えていけば町は回らなくなる。デグレア側からすれば労せずしてファナンの町を落とせることになるけれど、そもそもの噂を流したのがデグレアだったと判明したことで少なくともその憂いは晴れた。そう、安堵したこと自体が間違いだったのだ。

 この場に現れたデグレアの間者が町に潜り込んだ全員でないのなら、町の人たちの不安は晴れない。気心知れた隣人が知らない顔の敵になる。荒唐無稽とも言い切れない、そんな疑心暗鬼の孤立の中で恐怖ばかりが膨らんでいく。不安と恐怖に駆り立てられるまま視野は狭まり、やり場のない憤りは領主へと向かい、そしていずれ、暴動が起きる。

「恐慌状態に陥った集団というのは手の付けようもありませんからね。領主もさぞや苦労なさるでしょう。タガの外れた興奮と狂乱の中、目に入るもの全てを恐れ怯えきった人間が何を仕出かすかなんて……ああ、想像するだけで恐ろしくてなりません」

 溜息交じりに頭を振るレイムさんに腹の底が煮え滾るような憤怒に駆られるけれど、それでも冷静さの切れ端を握り締めて俺は怒鳴るように言い放った。

「だったらなおさら、逃がしはしないっ!」

「全部、白状させてあげるんだからっ!!」

 話に夢中だったのはレイムさん自身もだったのだろう。俺たちの間に立ち塞がっていた兵士や間者だった人たちはもう一人もいない。負傷して倒れ込んでいたり仲間の誰かが相手をしていたり、勝敗が決まったと言うには早いけれど俺たちの優勢は揺らがない状況だ。いつの間にか大通りの壁沿い、近くには横倒しになった車輪付きの屋台や散乱する凹んだ木箱しか残っていないと気が付いたレイムさんが意外そうに目を丸くする。それに一切構うことなく俺がパッフェルさんの名前を呼んだ反対側では、怒り心頭とばかり強く瞳を輝かせたミニスが胸のペンダントに手をかざす。重ねられた手指の隙間から目が眩むほどの新緑の光が溢れ出ると同時、お任せ下さいっ、と風を切ってパッフェルさんが俺の隣を駆けていく。

「まさかここまでとは……皆さん、話に聞いていたより随分とお強い」

 正面と背面、召喚術とナイフでの挟撃が目前に迫っているというのに、それでもレイムさんは余裕を崩さない。感心しきりといった表情でぱちぱちと手を鳴らす様子にミニスがべぇっと勢いよく舌を突き出すのが見えたけれど、それにもただ穏やかな微笑みを返して、傍にあった横倒しの屋台の土台に背中をもたらせかける。あまりに余裕に満ちた振る舞いにパッフェルさんが眉をひそめ、ミニスも苛立ちを煽られたように眉尻を跳ね上げながら、けれどこれで最後とばかり力強く宣言した。

「シルヴァーナ、ブラストフレアっ!」

 虚空に開いた門から見慣れた竜の鼻先が覗き、滑り出るように現れた体躯が一気に天へと駆け上がる。翼を大きくはためかせ、がぱりと開いた口の中で炎が渦を描くように凝縮し。ぼっと破裂するような音と共に放出された焔弾がレイムさんへと真っ直ぐ突き進んでいく。それを目を細めて見上げながら、だけどレイムさんはおっとりと呟いた。

「その奮闘に敬意を表して、私も少しばかり手札をお見せいたしましょう。……頼みましたよ、ふたりとも?」

「はァい♪」

「はい」

 弾むような幼い声と、湖面のように凪いだ声。重なる声がそれに応えたと思った瞬間、壊れた屋台の影から大小、二つの影が躍り出た。小柄な影は一呼吸の間に魔力を練り上げ、焰弾の進行方向だった空中に異界の門を開き、そこから押し出されるように姿を現した魔獣がその身で焰弾を受ける。肉の焦げる匂いと濁った絶叫を上げながら石畳に叩きつけられた魔獣を振り返ることなく、軽やかに着地を決めた少女が誇らしげな顔をこちらに見せた。

「な、アナタ、ビーニャ!?」

 驚きに目を見開くミニスや苦痛に泣き叫ぶ魔獣の声が聞こえていないはずだろうに、パッフェルさんは微塵も動じない。表情を消した顔つきのまま僅かに残った距離を詰めて、迷わず振り抜いたナイフの切っ先がレイムさんを狙う。だけどそれは、細身の影が振り抜いた刀によって阻まれていた。

「あーあ、上手くいったと思ったんですけどねぇ」

「私としても残念極まりないので、次はもっと上手くやって下さいね?」

 火花をこぼして噛み合ったナイフと刀、それぞれの破片が毀れて落ちて二人の顔には困ったような苦笑が滲む。肉薄していた刃を鳴らして互いに大きく飛び退ると、刀の切っ先を地面に下げたその人物は、それでも戦意は解かずに冷え冷えとした目でこちらを見た。冬場の氷のように冷たい、いっそ熱いと錯覚してしまうような眼差しを受けて言葉も感情も迷子になる。どうして、なんて言葉はおかしい。なんで、なんて疑問は不要だ。だって、もう随分と前からこんな事態は想像出来ていたはずなんだから。

 それでも混乱と動揺に立ち尽くしてしまう俺へと視線を合わせたレイムさんが、左右に並んだ少女と女性、それぞれの肩に手を乗せる。折角です、と穏やかな微笑みを浮かべて続ける先は知っていた。

「こちらもご紹介いたしましょう。私の大事な部下であるビーニャ、そしてその護衛獣である、ナチです」




色々あったのでマグナが原作よりちょっと敏いです。おかげで三万字を超えてしまいました。大体マグナとレイムさんのせい…
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。