身代金受け渡し当日…綺世は目立つバラの花束を持ち、そして1億が入ったケースを地面に持って公衆電話の前でただずっと待っていた。
時間はまだ8時40分、綺世は自身の30分前行動を初めて憎らしく思った。
このただ待っているだけでも緊張と恐怖で胸が張り裂けそうだった。
その緊張感は綺世だけでなく、周囲にいる警官たちにも伝わっていることだろう。剣持以外にも10人程の警官が綺世のことを監視している。
そして更に待つこと5分…8時45分。
綺世の頭部から汗が滴る。
まだ春の陽気で気温は20あるかないかなのに、綺世にとっては既に真夏なのではないかと思うほど、身体や手まで汗が出ていた。
(落ち着け…落ち着くのよ、私…!大丈夫、私が身代金を渡せば2人は無事に…!)
だが、綺世の中で『失敗』という言葉もチラつく。
万が一…受け渡しに失敗したら…あまりの緊張で倒れたら…。
綺世はそういった想定を全て思考から払い除けて、拳を握る。
(絶対に…助けるんだ!玲香ちゃんもはじめちゃんも…!今まで何度助けられて来たんだ、はじめちゃんに…。絶対に助ける…絶対)
その時、公衆電話が勝手に鳴り出した。
綺世は目を見開いて公衆電話を凝視する。ゆっくりと…手を伸ばして、受話器を取って耳に置く。
「…もしもし」
「緊張しているようだね、神津くん。どうやら怖気付かずにきちんとやって来たようだね。見えるよ…血のように赤い薔薇」
綺世は思わず周囲をチラチラと見てしまう。どこかで監視しているのではないかと。
「さて、早速クイズだよ。神津くん」
「クイズ!?」
「大と中の間は人、じゃあ大と小の間はなーんだ?」
「貴方…ふざけてるの!?」
「ふざけてなんかいないさ、そんな人がいっぱいいるところで取引するはずがないだろ?とにかくそのクイズの答えに当たる場所に向かうんだ。今から2分以内にね…」
そこで電話は切れてしまう。
綺世は乱暴に受話器を戻すと、ケースだけ持って飛び出す。
先程のクイズの内容からして、そこまで難しくないが…短い制限時間だ。焦らない方がおかしい。
綺世は周囲の店や街頭、歩く人波にまで目を凝らす。
(中と小の間?一体…)
すると1つの店が綺世の目に入った。
そこへ駆け込んだと同時に店員から「神津綺世様!いらっしゃいますか?」との声が聞こえた。綺世はそれを受け取る。
「くくく…今のは全て指に当てはめると、中指と小指の間は薬指…。つまり薬局が正解だ。君には少し簡単すぎたかな」
「ふざけてないで…早く取引を…!」
「黙れ!この取引を決めるのは僕だ!あまり逆らうと人質に痛い目にもう一度合わせるぞ!?」
「もう一度…?2人に…2人に何をしたの!?」
「大したことじゃない。さて次だ。そこから商店街を真っ直ぐ行くと1日1本しかないバスがある。それに2時間乗り続けるんだ。2時間後にバスの右側をずっと見ていろ。面白いことが起きるからね、ひひひ…」
「…分かったわ」
「言い忘れてた。バスはあと3分で出発だよ…」
綺世は電話を投げ捨てると、薬局を飛び出した。
全く道も分からない場所で、綺世はケースを片手に駆け出す。商店街を抜けた先のバス停へと急ぐ綺世を監視している剣持たちは少し違和感を感じていた。
「犯人はどういうつもり?こうも取引現場を変えるなんて…」
大体2分が経過した頃、踏切の先にバスが止まっているのが見えた。
このまま行けば間に合う…そう思われたが、ここで踏切の遮断機が降りてしまう。それでも構わず乗り越えて行こうとしたが、見知らぬ男性に止められてしまう。
「君!ダメじゃないか!」
「離して‼︎あのバスに乗らないと…!」
すると、バスの運転手がエンジンをかけ始めた。
もう時間がないと判断した綺世は持っていたケースで男性の腹を思いっきり殴った。流石の男性も突然の暴挙に出るとは思っておらず、脇腹を抑えて倒れる。
綺世はその隙に踏切を渡ろうとする。しかし、もはや自殺同然で綺世のすぐ真横にはノンストップの電車が迫っていた。綺世は轢かれる覚悟で飛び出し…どうにか向こうの踏切へと行くことに成功した。綺世は極限の緊張状態から抜けて、フラフラした足取りでそのバスに乗り込んだ。
今から2時間、このバスに揺られ続ける。
その間に綺世は道化人形が言っていたことが脳裏から離れなかった。
「痛い目に
あの言葉の真意を綺世が知るのは、更に先である。
綺世が身代金の受け渡し日時を教えられてすぐのことだ。
はじめはそんなことが起きているとは全く知らずにいたが、監禁されてそのままでいる程、甘くはない。机とテーブルを重ねて天窓から脱出する。天窓から見えた外は森だ。果てしなく続く森を見たはじめは(遭難は決定だな…)と思った。
だが、同時にここに捕まっているよりはマシだとも思えた。
はじめは隣の部屋の天窓に近付いて、音を出さずに外すと玲香に小さく叫んだ。
「早く!こっちだ!」
玲香は椅子の上に乗って、はじめの手を掴む。
はじめは力を込めて玲香を屋根の上へと引っ張り上げる。
「これからどうするの?」
「まずは建物から離れる。それ以降は…神に祈っておきな」
バカな玲香でもこんな森林で歩くことがどれだけ危険なことかくらい分かっている。その時、部屋の中から道化人形の怒声が響いた。
「どこだ!?」
「マズい…!こっちだ!」
はじめは玲香の手を取り、屋根から降りる。
道も分からない森の中へと2人は突っ込み、ただ走り続ける。
とにかく道化人形に捕まらないようにと…。
すると…2人の前に朽ち果てる寸前の吊り橋が目に飛び込んだ。他を行こうにも、ここ以外は断崖絶壁で川…。ここから落ちたらひとたまりもないだろう。
「どうするの?金田一くん」
「…奴がいつ来るかも分からない。…賭けで渡ろう。俺たちが渡った後にこの橋が落ちれば、奴は追跡出来なくなる」
そう言って渡ろうとした時だった。
深い森に1発の銃声が轟いた。それと同時にはじめの左肩が弾けた。
「なっ…!?」
撃たれた反動のまま、はじめは前のめりに倒れる。
玲香ははじめが撃たれたことで甲高い悲鳴を上げた。
「いやああああああああああああああぁぁッ‼︎金田一くんッ!血…血が…‼︎」
「僕から逃げようなんて…舐めた真似をしてくれたじゃないか?」
「道化人形…!」
はじめは肩を抑えつつ立ち上がろうとするが、今度は腹に鋭い蹴りが飛び込んでくる。
「がはっ…!」
「言ったよね?逃げたら殺すって‼︎」
「くっ…‼︎」
そのままはじめは銃弾を再び食らうかと思われたが、道化人形は拳銃を下ろした。
「でも良かったね、まだ君たちには利用する価値があるんだ。無かったら殺してたけどね、ケケケ…。でも、逃げようとした罰は受けないとねえ…」
はじめはそのまま何をされるのかと思えば、手錠で吊り橋の支柱に繋がれる。脆い支柱であるため、はじめの力なら簡単に外せる。そう思ったが…道化人形が小さく耳打ちする。
「逃げちゃっていいのかなぁ?愛しの神津綺世がいずれここに来るよ?」
突然出てきた彼女の名前にはじめは思わず道化人形を二度見した。
「どういうことだ?なんであいつが…!」
「さあ、なんでだろうね?」
「詳しく言え‼︎おいッ‼︎」
手錠を付けられたはじめは道化人形に激しく問うもそれ以降は返答がなかった。
そして今度は玲香の前に立つ道化人形、ポケットからスタンガンを取り出すとそれを脇腹へと突き立てた。途端に流れる激しい電流、玲香は沈痛な声を漏らした後に気絶する。
「玲香…!」
「じゃあさらばだ、金田一くん。もう会うことはないだろう、でも…生き残れるかな?その出血で…」
そのまま道化人形は玲香を抱えると、森の深くへと姿を消した。
はじめはどうにか外そうと思ったが、ここで想定外のことが起きる。手錠をかけられた左手に力が入らなくなって来たのだ。
撃たれた肩の感覚もなくなり始めている。
「…クソ‼︎」
はじめは支柱を思いっきり叩き、空を見上げる。
夕刻に近付きつつある森でただ1人…はじめは取り残されてしまったのだった。
ー現在ー
綺世は既にバスに乗って、2時間が経とうとしていた。それからすぐに右側の窓をずっと注視する。道化人形が言っていた
綺世はバスの運転手に何も言うことなく、後方の非常扉を無断で開けた。そのまま飛び出して地面を転がる。よく映画などであるアクションシーンだが、これですぐに動ける人は只者では無いと綺世は思った。
肩から降りたのだが、そこは鋭い痛みが残り…全身も殴打されたような鈍い痛みが暫く残った。
綺世は道路の真ん中で数分横たわると、ゆっくりと起き上がってその文字が書いてあった箇所にまで戻る。そこには【バスを降りろ‼︎】と新たな指示が書かれた張り紙があった。
「そこから向こうの山道に入り、橋を渡ってその前に身代金を置いていけ。時間は午後1時半。約束通り人質は解放する…ね」
綺世は目の前に広がる大地に思わず笑みを溢した。
取引を失敗させたいのではないかと思えるような無茶な内容だった。
だが考えている時間はない。
綺世は迷わず森の中へと入る。一応山道もあり、案内板もあって橋の場所は分かるが…あまりに遠い。ここから約2時間かかるかどうかといった所りだ。時計を見つつ、綺世は少し急ぎ目で山を登っていく。
その額を汗を流しながら…。