イノリミゴ   作:晃人

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第一章
1 異形


 煌々と輝く月が、夜半を照らしていた。

 鬱蒼たる森の中を小走りで進む女性にとって、その月明りが何よりの綱である。

 

 彼女の身なりは、薄布の頭巾に、所々継ぎはぎが為されている着物。

 そして、その腹部は、丸みを帯びて膨らんでいた。

 息は絶え絶えで、表情に余裕はなく、裸足で駆け続ける両足は、泥と血で塗り固められていた。

 

 不意に、樹木の根本に足が引っ掛かり、女性は体勢を崩す。

 新たな生命に、決して衝撃を与えまいと、四肢を駆使して地面を抑える。その甲斐により、腹部に付着したのは跳ねた泥のみだった。

 一種の恐慌状態に陥りながらも、すぐさま立ち上がり、その場から離れようとする。

 しかし、その足は程なく止まった。

 

 前方の木陰から、鎧に包まれた兵が姿を現すのが見え、彼女の顔から血の気が引かれた。

 腰に刀を差した兵の一人である男が、言葉を発する。

 

「逃げられるとでも思ったか?」

 

 後方、そして横からも兵が現れ、完全に囲まれている事を察し、叫んだ。

 

「お願いします! どうか、どうか見逃してください! 私はどうなっても構いません! この子だけは──」

「『忌み子』は速やかに処分しなければならない。貴様も理解している筈だ」

「っ……その根拠が、ただ私の周りに災いを招いている事だけだなんて! 納得できません!」

「被害を被った住民に同じ台詞を吐けるのか?」

 

 兵の男は淡々と連ねる。

 

「その兆候はついに表れ始めた。大地は揺らされ、作物は毒され、幾人もが難病を患い、それらによって齎された死者に向けてどう弁明するつもりだ?」

 

「……っ」

 

「悪いことは言わん。今ならまだ間に合う。その赤子を産めば、異変はこの程度では収まらんぞ。すぐに堕ろせ」

 

「……嫌です!」

 

 女性は、両手で我が子を支えた。

 

「たとえ、災厄を携える危険があったとしても──、生まれる前に裁く道理は、断じてありません! 他の誰が見捨てようと、私だけは、この子の為にあり続けます!」

 

 兵を真っ直ぐ見据え、膝をつき、

 

「人目のつかない場所で過ごします。もう皆さんにご迷惑はかけません。どうか、どうか見逃してください……」

 

 頭を下げ、消え入りそうな声を発した。

 草を踏む柔らかな足音が徐々に女性の耳へ入る。

 

 やがて目の前で足音が止まり、静寂が流れた。

 兵は、尚も頭を上げない相手を見下ろし、

 

「では、今すぐ死んでゆけ」

 

 素早く腰の刀を抜き、忌まわしき生命の源目掛け、女性の胴体を刺し貫いた。

 苦痛、狂乱、絶望の入り混じった悲鳴が森林に鳴り響く。

 

 兵は五月蠅そうに、音源を発する頭部を踏みつけ、刀を引き抜いた。

 二人分と思われる鮮血が零れ落ち、刀を軽く払う。

 

「子は、遺体として回収させてもらう。準備しろ。原型は崩さないようにな」

 

 部下へ指示を出した後、続けざまに、身重の体へ狙いを定め、

 半円を描くように刀を振り抜いた。いかなる生物をも容易く両断せしめる、流麗な動きであった。

 

 標的の胴体は繋がっており、目立つ外傷は先刻空けた細い風穴のみ。

 彼女の体に変化はない。

 男が訝しんだ次の瞬間、異変を感じ、刀を握る自分の腕に視線を向け、

 

「なっ――⁉」

 

 溢れんばかりに目を見開き、驚愕する。

 腕は、異様と化していた。

 

 幾千もの糸が捻じれたかのように、赤黒い肉の細かな繊維が独立して暴れ回る。一つ一つに意思が込められていると見紛う動きで、身に着けている衣服の袖や小手を切り裂いていった。たちどころに、それは全身へと及んでいく。

 

 刀を落とし、絶叫を上げようと口を開く寸前、彼は見た。

 足元に蹲っている女性、その背部へ突き刺した傷口から、濃紺の、霞のような何かが現れている。それは、まさに今起こっている異常の腕と繋がっていた。

 

 やはりこいつが、災いの原因──、

 

 男の思考は、全身を微塵にされた段階で余儀なく止まった。

 霞は、次の標的を定めたかのように、他の兵全てへ移動する。

 

 誰一人反応する間もない早さで増殖し、体を憑依され、瞬く間に摩り下ろされた肉塊へと変貌した。

 鏖殺(おうさつ)の完遂を見届けたのか、霞は変化を止め、たちまち霧散して消えていった。

 

 やがて、ただ一つ肉体が残っている人間の体が動き始めた。

 正確には、這いつくばっている女性の腹部だけが、もぞもぞと揺らしている。

 

 動きは一瞬止まり、

 

 女性の体が、糸で包まれた繭が割れるように背中から真っ二つに別れた後、それは出産された。破水や血潮等の様々な体液が、破れた着物に沿って流れていく。

 

 本来の過程を省略して生まれた赤子は、通常より小さく、肌も霞と同じ色に染まっており、何よりも際立つ特徴は、人としての形が定まっていないことだった。手足や目鼻口を適当に接着させた肉塊、その表現が最も適切だった。

 

 胎児は動き出す。が、その速さは鈍かった。突然外気に襲われた事も要因の一つだが、最大の原因は鋭い刃で突き刺された外傷である。母体を貫かれた刀は、その内にある命まで届いていた。

 赤子は声を未だに上げないまま、弱々しく這いずり、遺体の上に乗ったまま移動する。

 

 思いついたように一度停止し、微量な霞を発する。しかし、力が弱まっており、それ以上は捻出できず、諦めたように再び動き始めた。

 

 理性によるものか、本能によるものか、辿り着いたのは母親の頭部だった。

 歪んだ位置にある眼球でそれを見た肉塊に、表情は全く伺えない。

 

 愛児は、頭と思われる箇所を少し上げ、すぐさま振り下ろした。

 二つの頭部が衝突する。衝撃によって反発せず、密着し続けた。

 

 やがて、黒い顔が沈み始める。熱した鉄で氷を溶かすように、女性の顔から、肉、骨、脳、あらゆる体組織がたちまち崩れていった。

 

 顔の部分が終わると、肉塊は首の内部へ入り込み、着物の中を蠢き続けた。

 時間が経ち、着物の足元から子が現れる。遂に母親の身体全ての『摂取』が完了した。

 

 子に異変が起き始める。それは、肉塊が本来の人間へと形を取り戻していく現象だった。肌は通常の色へと変化し、体躯は六、七歳ごろまで成長していた。

 全裸の少年は、瞼をゆっくりと開き、この世の風景をその目で見た。そのまま静かに立ち上がる。

 

 朝焼けの空、緑で囲まれた木々、地面に転がっている赤黒い何かの数々、

 視線は、自然と下へ移っていく。

 そこには、至る所に血が滲み、原型を留めていないほどに破れた着物が広がっていた。

 

 少年はじっと見つめたまま座り込む。

 

「ア……ウァ……」

 

 言葉を知らない少年の喉から発する音は、動物の鳴き声のように、およそ意味を成さないものだった。

 しかし、『忌み子』である人間の脳は、目の前の惨状を理解する。

 それは即ち、自分が母親を犠牲にしてしまったという事実。

 

 少年は、泣き叫んだ。

 

 押し寄せてくる感情に抗えぬまま、

 森に、甲高い鳴き声が響き渡った。

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