青い春の残りカス   作:ほし。

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早瀬ユウカが初恋について考える話です。

支部にも上げてます:https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=18743673


『H₀:私たちは結ばれない』 ── 早瀬ユウカ

 

 

 01

 

 初恋の人と結ばれる確率は、たったの1%程度らしい。

 過去の遠くの物好きがそう結論づけたようだ。非常に大規模な統計的試みが行われ、初恋の行く末として結婚に辿りつく確率を大真面目に求めたとか。

 

 当番を任されたシャーレに向かう道中、同門の生徒らしき2人組が、簡単な娯楽を取り扱う気楽さでそう話していた。

 話題はすぐに、それを下地にした恋愛話や、やがてまったくべつの脈絡ない方向へ変わったが、私は数回交わされただけのその「初恋の話」にすっかり思考を覆われてしまった。

 標本数は? その取り方は? 適切なデータ処理だったか? ミレニアム自治区とは離れた場所で確認された結論らしいが、この地域では通用しない局地的な結論ではないか?

 ──考えるだけ無駄な勘繰りを、その生徒たちが見えなくなってからも続けた。

 

 顔も名前も知らない2人が話題にするところの又聞きでしかないため、信憑性でいえば皆無だ。眉唾の話でしかない。

 本来であれば、ただの噂話やいっときの娯楽としてありのままを疑わず受け入れて、飽きて忘れかけた頃には一笑に付す程度の価値でしかないのだろう。だれも本気にしない類の話だ。

 しかし、なかなか忘がたく得がたい知識として、私の頭は受け入れてしまったようだった。

 

「──それで、今日はなにをすれば?」

 

 領収書の整理を手伝ってほしいと情けなく頼んでくる大人に、仕方なさを装ったため息をお見舞いする。

 シャーレオフィスの執務室に入った瞬間から、泣きつくような目を向けてきていた。ほんとうに事務作業が嫌いなんだな、と再確認する。

 

 領収書の整理となれば私の得意分野なので、私に任せるのは妥当な判断……それはそれとして、その数が多すぎる。どうも面倒な仕事だからと後回しにしてきたらしい。そのツケを自分で処理しきれなくなって、当番の私に命運を任せた、というところか。

 言われるがまま席に着く傍ら、ちら、と目線を向けてみると、彼は作業に取り掛かった私を拝むようにしていた。

 

 はあ。

 こうしただらしない大人には、しっかり面倒を見てやれる生徒がつくべきだ。

 べつにそれが、私である必要はないけれど、でも、まあ……。

 

 …………。

 

 手を動かす。

 特別頭を使うような仕事内容でもないので、そのうち色々な思索に頭を回すようになった。

 領収書の内容にいくつか疑問点があったから、この後どう問い詰めるべきかとか、もっとお金の使い方に気を遣ってほしいとか、でも小言を言いすぎてもまた彼も離れていくだけかな、とか。

 ──あとは、「初恋の話」とか。

 

 あの与太話を信じているわけではないが、どうもあの結果を聞いただけだと、むなしく思ってしまう。 なにしろ1%だ。

 成功しない恋など、結局は踏み台や前座みたいなもの。それなら最初からあきらめるのが吉。そう簡単に諦められないにしても、一縷の望みさえ叶わないだろうと悟った時点で、すぐにでも切り捨てるのが賢い判断。

 なんともむごい話のように思える。きっと、ほとんどの人にとって、そうなるくらいなら、初恋の人とは、初恋を消化しきるまで出会いたくないだろう。でも、それだと初恋の人は初恋の人でなくなるわけで……。

 

 しばらくぐるぐるした。

 初恋、初恋。

 

 

 

 任された仕事は早々に終えて、指摘しようと思っていた不満や小言もそこそこにとどめておき、彼の書類仕事を手伝えるだけ手伝うと、もうすっかり窓の外は日が暮れていた。

 今日の夜は思いがけず冷え込んで、シャーレの玄関を出たときには少々肌寒く感じた。

 もう秋らしい。すこし体を縮こめてしまった私に気づいたようで、彼はわざわざ居住区まで上がっていって、買ったきり使えていないらしいストールを持ってきてくれた。ためらいなく巻きにかかってくるので、制止する暇もなかった。次来るときにでも返してくれればいいと、有無を言わせない語気だった。

 

 その後心配だから見送るといってくる先生をなんとか説き伏せて、ひとり帰路に着いた。一応、徒歩で行き来できる近さとはいえ、ミレニアム区域までどれだけ時間がかかると思っているのか。わざわざ見送りなんてさせられない。

 私の方が遥かに身体的に強いのに、どうしてああも必要ない心配ばかりしてくるのだろう。偏に彼が優しいだけだとは知っているが、にしたって生徒にかける温情に限りがなさすぎる。

 

 ああして細かな気遣いをかけられるのは、嬉しいことは嬉しい。思わず頼ってしまいたくなるときもある。私だけじゃなく、キヴォトス中のどの生徒をとっても同じことを思うだろう。

 それくらい普段は頼りになるくせに、事務作業となるとみっともなくなるのも、彼にも不完全なところがあるのだと感じられて、嫌いではなかった。変なところで子供っぽいのも、いつも完璧を演じている大人の抜けた側面を見ているようで、なんとも言えない感情になる。べつに、だからどうということでもないけれど……。

 首元のストールのぬくもりを頼りに歩きつつ、そうした思案の数々に耽る。

 

 ──ふと、何気なく思いついて、すぐに頭を振った疑問があった。

 

 初恋が成就する確率、これは分かった。

 なら、大人と子供、「先生」と生徒が結ばれる確率は──これは考えないでおこう。

 

 

 

 

 

 02

 

 そのはしがきを見つけたのは、無意識なりに必然的だったと思う。

 セミナーの会計としての仕事を終え、手が空いたタイミングで、溜まっていた不必要な書類を処分することにした。その作業中、思いがけず手が止まることがあった。シュレッダーにかける予定の、その中のひとつに、ふと目に留まるものがあったのだ。

 

 「H₀:これは初恋である」。

 

 ちょっとした計算の書き散らしに使用したルーズリーフの端っこに、小さく書かれていた。

 いつ書いたものか、おそらく最近、前回シャーレに行ったときあたり、暇を持て余したタイミングで、ごく小さな思考の遊戯を書いたもので、そう大事に取り扱っていたわけではない。

 私はそれを何の気なしに取り分けて、処分予定の紙の束から逃した。

 

 ──帰無仮説、というもの。

 ある仮説1を証明したいとき、その逆を意味する仮説2をたてて、それを否定・棄却することで、もとの仮説1のただしさを主張する手法がある。ようは背理法。その「棄却する側」の仮説が、帰無仮説。帰無仮説とは対となる、採択したい仮説をたてて、対立仮説。

 それぞれ「H₀」「H₁」で表して、「H₀:これは初恋である」というのが、このはしがきで見つけたところの帰無仮説だ。

 

 こうした仮説検定は統計的推定のための道具であって、間違ってもこのはしがきのような確率で表せない命題の真偽を問うためのものではない。

 それなのにどうしてこんなはしがきが生まれたのかというと……まあ、そういうことなのだろう。

 どうも、これを書いたときの私は、ここで決めた「H₀」を間違っていると示したかったらしい。そのために適さない手法とわかったうえで、一種の思考の遊戯として。

 

 ────。

 

 シュレッダーのもとに向かおうとしていた頭を切り替えて、次の当番がいつだったか、スケジュール帳を確認する。

 来週。すぐだ。

 

 あれからシャーレへの訪問はなかったから、彼と顔を合わせるのは久しぶりになる。きっとまた溜め込んだ雑務を任されるのだろう。領収書関連はしばらくないかな。彼とは対面のデスクで、泣きつくような表情をされるものだから断れなくて、ちょっと小言で突いてみると誤魔化すような顔をして目を逸らされる。眠そうに紙やディスプレイとにらめっこしている。任された仕事が早く終わったからコーヒーでも淹れてみると、顔を明るくしてやわらかな笑みでこたえてくれる。私はそれを……って。

 ああ、もう。

 

 このごろの自分がおかしいことは自覚していた。

 頼りになるくせしてだらしないあの大人のことを、暇があればずっと考えてしまっている。

 溜め込んだ書類に手をつけるときの、隠そうともしない嫌々ながらな表情。雑務仕事となると面倒くさがるひどく緩慢で大人的な疲弊の目つき。そのくせ生徒のことになると親身に寄り添う真面目な顔つき。

 ……私に詰められているときの、あの情けない顔。

 暇さえあれば、そうした印象的な表情ばかり頭で追ってしまう。

 

 最近の私にとって彼は、存在感の比重が重い。

 だから、これが初恋であってほしくないと願う自分がいるのだ。

 これは初恋でない、ただの親愛や尊敬の延長で、ほんとうの初恋は誰か別の人に回すのだ。それで、どうせ叶わないその初恋は早々に切り捨てる。

 そしたらもう、この確率のしがらみからは抜け出せてしまえる。

 

 …………。

 

 先ほどの帰無仮説を手帳に書き写しておく。ルーズリーフは他のものと一緒に処分しておこう。

 もうこれは、統計も棄却もあったもんじゃない。これは確率の話でもなければ、数学ですらない。ただの言葉遊び。

 けれど、疑似的にそう扱うのが、私にとってはやりやすい。どうせ自分では真偽を明確にできない命題を、はっきりさせるのに都合がいい。

 

 「H₀:これは初恋である」。

 これを棄却すれば、私にとってのこれは、初恋ではなくなる。

 次の当番のときにでも、ゆっくり検討しよう。

 

 

 

 

 

 03

 

 次の当番のときにでも──と、思っていたけれど。

 当番が回ってくるのを待つまでもなく、先生と会う機会を得てしまった。

 

(はやく来すぎた……)

 

 待ち合わせはミレニアム自治区内の大型ショッピングモール。

 休日なこともあって人の密度が高い。

 

 どうもわけもなく緊張しているらしい私は、待ち合わせ時刻の1時間も早くここに着いてしまった。

 人の往来から離れた陰に移動して、誰かにごまかすようにスマホを取り出して、目的もなくモモトークを開く。最近の履歴……先生とのトークを開いた。

 

 二日前、珍しく先生の方から連絡があった。

 曰く、ネクタイ選びに付き合ってほしい、と。

 ゲヘナでの用事で外回りに出かけた際、不良生徒の抗争に巻き込まれて靴下を残してすべて燃やし尽くされたらしいのだ。靴下を残して。

 

 どういう理屈で服を燃やされるに至ったのかは理解できないけれど、早々に対処しにきた風紀委員長の鎮圧で、幸いにも怪我はなかったらしい。

 とはいえ、服の方は壊滅的。支給品のスーツや革靴、気に入っていたネクタイも塵芥と化したようで。靴下だけは無傷。生命線らしかった。

 

 そういうわけで、私に声をかけたらしいけれど──

 

「……あれ、ユウカ?」

 

 声に顔を上げる。先生の声。

 すこし肩を跳ね上げてしまいつつ振り向くと、そのとおりの人がいる。

 物陰にひっそりとしていた私をたまたま見つけたようで、ちょっと驚いたような顔をしている。

 

 まずい。前髪──は、本人の前で整えられない。

 油断しすぎた。

 

「せ、先生? なんでもう……?」

「待ち合わせまでカフェでも入ってゆっくりしておこうかなって。ユウカこそ、なんで?」

「私は、えっと、その……似たような感じで……」

 

 ごまかしにかかる。

 自分でもよくわからないとか、ちょっと緊張してて時間を間違えたとか、とても言えたものじゃない。

 今ほんとうのことを話してしまうのは、先生に対して築き上げてきた私の大事なイメージが崩れてしまうようで少し憚られる。

 

「お、遅れたらだめだと思ったから早く来ただけで、その、べつに、他意は……!」

 

 結果、なにに対して誤魔化しているのか、むしろ変に思われるかもしれない言葉が飛び出た。

 先生の方は気にしないで、笑顔で「そっか」とだけ言って切り上げてしまう。

 ありがたいのだけれど、なんだかその笑みに焦りを見透かされているような心地になる。ほんとうに他意はなくて、と否定したい気持ちが言葉ならずに胸にたまる。

 言い出せずに消化不良のままその会話は閉じた。

 

 とにかく、私もカフェで寛ぐために早く来たのだと、そう解釈してくれたのは間違いなかった。

 その流れで、せっかくなら一緒に店に入ろうと提案してくれたので、それに与って喫茶店に入店することになった。

 私はなんでもよかったので普通のドリップコーヒーを、先生も特にこだわりなく同じように頼んでいた。

 

 彼がいつもと違う素振りをしていたのに気づいたのは、2本目からだった。

 

「あれっ、先生。今日はお砂糖ですか?」

「うん」

 

 2本目のスティックシュガーをどばっと入れはじめた彼に、どんなきまぐれだろうと少し興味が湧く。

 

「珍しいですね。てっきりブラックがお好きなのかと思ってました」

「よく見てるね」

「はい、まあ。……あ、べ、べつに、変な意味とかじゃなく……」

 

 また誰宛でもないごまかしを口走ってしまう。これがあるから余計に誤った心証を抱かれるというのに、ほんとうに学ばない。

 先生の方は、ふふ、と余裕そうに笑ってから、

 

「まあ、そう。普段は入れないんだけどね」

 

 ガムシロップまで入れ終わったカップにスプーンを入れて、特別な思い入れでもあるかのように、ゆっくり、ゆっくりと回している。ホットコーヒーにガムシロップとは、なかなか組み合わせが独特だ。

 やがてカップに口をつけて、すこし傾けたけれど……やはり甘いのは好みじゃないのだろう。

 すぐに口を離した彼は、絶妙な表情をして一息ついていた。

 上がり切らない口角と、若干引き攣った頬、半分細めた目に、すこし笑ってしまう。

 

「苦手だな」

「どうして入れちゃったんですか……」

「今度こそはいけるかなと思って」

 

 これまでに何度も試してきたらしい。

 飲めそうにないと分かっているなら、無理して克服しようとしなくていいのに──と思ったけれど、すぐに、どうもそういう話でもなさそうだと悟った。

 

 スティックシュガーの残骸が2本と、ガムシロップの空箱。

 

「でも、やっぱり慣れないね」

 

 苦笑しながらもいつものような優しい目を向けるそこに、なんとなく誰かの影があるように思えた。かつて私が見たこともない感情が乗っているようにも思えた。

 誰宛の感情か分からない。たぶん、私でない、誰かに。

 

 そういえば、先生はやはり、既に初恋を済ませているのだろうか。

 

 ────。

 

 胸が痛んだ。

 砂糖入りのコーヒーを苦労して飲んでいる彼が、すこし楽しそうに見えた。

 

「ユウカはさ──」

 

 

 

 喫茶店を出たらすぐスーツ専門店に向かうのだろうと思っていたら、かなり寄り道に連れ回された。

 洋服を見に行ったり、本屋に立ち寄ってみたり、寝心地よさそうな枕を物色したり……果ては映画まで。

 大型ショッピングモールの利用法として、これ以上ないほどに満喫してしまった。

 

「…………」

 

 帰りのモノレールに揺られながら、今日一日で観測した先生のはしゃぎようを振り返る。

 

 そういう大人であることは十分に承知していて、そのうえで親愛を寄せているのだから、べつに不満はない。だからというかなんというか、私も救われない。

 彼の言うネクタイ選びとはいい口実で、ただ気分転換に遊びたかっただけなのかもしれない。それでもまあ、私は付き合ってもいいかな、という特別感に浸りたい自分が存在することは自覚していた。

 べつにそれでいい。それもすべて親愛の結果なのだから。

 心の中で誰かに言い訳していて悲しくなる。

 

 先生がイレギュラーな行動ばかりしてくるせいで、本来の目的を終えて帰宅する頃にはもう陽は暮れかけていて、斜陽の傾くのにずっと遠くの方までが赤らんでいた。

 彼に見送られた駅前で解散してから10分もすると、橙色の空の反対には紫雲のような闇が迫っていて、輝きの大きな星が早くも点滅するのが見て取れた。

 モノレールの車窓越しに見えるその波のような瞬きに、特に感慨なく視線を向ける。

 

 数秒で飽きた。

 手帳を取り出して、つい最近メモしたばかりのページを開いた。

 「H₀:これは初恋である」。ただの言葉遊びであるとともに、私の感情を親愛であると断言するための、私にとって大切なプロセス。

 ぼうっと言葉の羅列を眺めているだけで、星を見るよりもずっと長い思索に入り込める。

 ただ、後ろ向きな頭なのが救われない。

 

 ──今日は楽しみきれなかった。 

 

 せっかく先生と「それっぽいこと」ができたのだ。もっと心から喜んだり、心からそれを表現したりして、もっと距離を詰めてよかった。

 帰無仮説、だなんて大層な言葉で遊ぼうとしていたけれど、心の底ではその真偽についてとっくに自覚している。自分のことだから、当たり前のことだ。

 そう自覚しているから、今日一日の記憶がたいして良い思い出になりそうになかった。

 

 喫茶店でのやりとりが、どうしても離れないからだ。

 たった少しの会話が、ずっとぐるぐるしている。

 

(初恋、初恋……)

 

 考えないようにと気張っていても、どうしてもそのシーンだけが脳内をリフレインする。

 

『ユウカはさ、』

 

 砂糖入りのコーヒーを苦労しながら飲んでいた彼が、ふと懐かしむように目を向けてきたのを、私はなにかよくない予感で答えた。

 

『初恋ってしたことある?』

『えっ』

 

 胸を撃つような苦しみだった。

 すぐに顔を下げた。

 

『……いえ。まだ』

『そっか』

 

 2本のスティックシュガーの残骸と、ガムシロップの空箱をにらんだ。

 消えてくれ、と願った。

 

『私の初恋の人はね、』

 

 楽しげに語る先生を、もう見ていられなかったのだ。

 

 

 

 

 

 04

 

「先生。これ、以前お借りしたストールです」

 

 紙袋を差し出す。

 先生は一瞬分からないような顔をして、しばらくして思い当たったように「あぁ、」と声を漏らした。

 

「そのまま返してくれてよかったのに」

 

 クリーニングのタグが付いたままのストールを取り出して、彼は遠慮するような笑みをしていた。

 

 さすがにそのままというわけにはいかない。目に見えてよごれはしなかったけれど、私のにおいがついてしまったかもしれない。

 彼も買ったきり使う機会に恵まれなかったようだから、なおさら綺麗にして返さないと気が済まない。

 まあ、もうすこし使用感があったほうが……とかは、ちょっと考えてしまったけれど。

 変な意味じゃない。

 

 

 

 なんとなく顔を合わせづらい当番も、いざ向かってしまえばなんとでもなった。

 執務室でうんうん唸っている先生に挨拶して、案の定泣きつかれたので持ち込みの仕事が終わり次第手伝うといってなだめて、対面のデスクに座って、早々に作業を始めてしまう。

 思ったよりも平常心でいられた。ストールを返すという副次的な目的があったおかげだ。没頭しやすいセミナーの仕事を持ち込んだのも役割として大きいだろう。

 すっかり頭の中を作業のほうへ前向きにして、積み上がった仕事を片っ端から処理していく。

 久しぶりに、会計としてクリアな頭を保てているかもしれない。

 

(なんだ、案外簡単だったんだ)

 

 きっと私は寛容な気分になれていた。

 過集中じみて周囲の音も遮断するようになって……時間の経過も忘れていた。

 

「ユウカ」

 

 肩をたたかれて、振り返る。

 いつの間にか背後に立っていた先生が、労うように笑いかけてくれた。

 

 給湯室に行っていたらしい。

 いつも仕事を手伝ってもらっているお礼、と前置きして、淹れてきたコーヒーを私に差し出した。

 いつもとおなじマグを受け取る。

 淹れたてでまだまだ熱いそれをひとくち呷る。

 いつもどおりの味。

 

 視線を送る。

 

 いつものように苦虫を噛み潰したような顔で、ふたたび作業に取り掛かる彼の様子を、じっと見つめる。

 彼の手元のマグには、砂糖もシロップもミルクも入っていない、いつもどおりのブラックが見える。

 いつもどおり、コーヒーの匂いがゆるやかに満ちて、キーボードの乾いた音が響く室内で、二人きりでいる。

 いつもどおり、私はしばらく彼の顔を見つめる。

 

 これまでと変わらない光景がこうも続くと、なおさら不思議でならない。

 

 あの日、どうして先生があんな話をしたのか真意が掴めないでいる。

 いつもと違ってコーヒーに砂糖を入れ始めたのも、いつもと違って遠くを見るような目をしていたのも、いつもと違って私の初恋について訊ねてきたのも、いつもと違って先生が自分から身の上話をしたのも、分からない。

 

 いつもの気まぐれや世間話の延長なのだろうか。

 そうでない意図は隠れていないのだろうか。

 

 ずっとなにも理解できないままで、私は──。

 

「……うん? な、なにか不備でもあった?」

 

 じっと見つめていると、ふと目がかち合った。

 ようやく見つめられていることに気づいたらしい。

 

 いつもどおり、彼はなにか怒られることがあったのだと半ば覚悟しているようで、少しびくびくして不安めいた表情でいる。

 いつもどおり、それをいちいち愛おしいとは思うけれど、べつにこれはいつもどおりの敬愛や親愛であって──

 

「……ユウカ?」

 

 …………。

 

「な、なんでもないです」

 

 見つめ返されただけでいつもと違って動揺して照れてしまうものだから、「いつもどおり」ではもう言い逃れできない。

 ぶわっと湧き上がってくるような胸の締め付けに、体温上昇。頭からつま先までが熱くなる感覚。

 

 性懲りもなくどこかに否定できる材料があるのではないかと探ってしまうけれど──面倒だ。もう認めてしまおう。

 これは敬愛でも親愛でもなく、情愛。きっと初恋だ。

 

「こ、コーヒーを淹れてきます」

「え? まだ残ってるけど──」

「飲み干しましたからッ」

 

 言ってから飲み干す。

 まだ熱い液体が喉を焼くように通り抜ける。

 先生が困惑した目で見てくるのを感じ取りつつ、振り返らず足早に給湯室に向かう。

 

 …………。

 

 つらい。

 

 初恋、の自覚は分かった。

 あの日聞いた初恋の人と結ばれる確率の話とかそのあたりも、消化しきれてはいないけれど、もうずっとマシに捉えている。

 いや、この際、もはや自分の初恋の話など、どうでもよかった。

 

「…………」

 

 コーヒーを淹れ終えてから、最低な気分でしばらくぼうっとしていた。

 不注意でなみなみに注いでしまった黒い液面が、苦しみに近い感情を取れなくしている。

 

 このまま持っていくにはあぶない。

 ここですこし容量を減らすべきだ。

 

 少しだけ飲もうとして、思いとどまった。

 ミルク・シュガーポットからいくつかを取り出して、その液体に恨みをそそいだ。

 

「…………」

 

 シュガースティック2本とガムシロップの残骸を捨てる。

 こぼれないようほどほどにかき混ぜてひとくち飲む。

 甘くてやっていられない。

 

 …………。

 

「……苦しい」

 

 急に力が出なくなって、給湯室の床へへたり込むようになってしまった。

 気力の問題だと自分でも分かった。しばらく戻れそうにもないと悟った。

 

「無理」

 

 自覚した感情に歯止めがきかない。

 趣味の悪いこの甘ったるさが、助長しているのだと思う。

 

 べつに、あの初恋の噂話がずっと頭を離れないからといって、私たちは結ばれない、と短絡的な結論には至ることはない。

 確かに初恋が成就する確率は低い。確率があらわすことのむごさ、これも私は嫌になるほど知っている。

 けれど、0でないだけまだ望みはある。

 

 ──とは、思うけれど。

 

「先生……」

 

 頭を抱えた。ほんとうに考えるべきは、そうじゃなかった。

 喫茶店で見た、あのときの先生の表情を忘れられない。

 

 ()()に向けていたあの目。

 ほんとうに誰かを想っていたのだろうと分かる表情。

 どの生徒に向ける慈しみでも親愛でもない、なにか他の感情をもったそれ。

 あんなに楽しそうで、懐かしそうで、戻りたそうで、美しい思い出を振り返るような──。

 

 私は、彼に不幸であってほしかった。

 彼にとっての()()が、吐き気がするほど惨めで苦しくて胸糞悪くて、二度と思い出したくないものであってほしかった。泥沼でずっともがいていてほしかった。

 顔も知らない私以外の誰かとは、きっと不幸であってほしかった。

 

 面倒くさい性格だ。

 好きだから彼の不幸を願うなんて、とんでもない性悪だ。自分で考えていて嫌になる。

 経験がないから、自分の計算通りに事が進まないと、どうしても我慢できなくなる。

 初めてだから、自信がないせいで、幼稚でつたない感情ばかり発露してしまう。

 だから初恋なんだろう。

 

 ああもう。もどかしい。

 

 床にマグを置いた。

 胸ポケットから取り出した手帳を開く。既に否定しようのない帰無仮説のページを開く。ボールペンで思い切り二重線を引いた。その下に大きく書き直した。

 

 私にとって不都合な結論はこの際仕方がない。それはいい。

 どうせ現実はこんなもので揺るがないのだ。きっとあの日聞いた初恋の確率なんかより、もっとむごたらしくて、やるせない壁が立ちはだかるのが現実だ。

 

 だから、そうしよう。

 現実を見よう。

 どうやっても否定できそうにない、絶望的な帰無仮説でも新しく打ち立ててしまえばいい。

 そのうえで、最大限の努力をそそごう。

 なみなみと、ここで減らしきれないくらいに。

 

 ペンが紙面をなぞる。

 きっと報われない現実を仮想する。

 

 初恋の1%のうえで、考えないようにしていた「大人と子供、先生と生徒が結ばれる確率」をのせて──きっと今まで以上に棄却できそうにない帰無仮説。

 

 

 「H₀:私たちは結ばれない」。

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