01
べつに、大の大人が弱った顔を見せたからといって、それくらいでときめくほど私も甘くない。
ただ、降り積もった雪に先陣切ってダイブした挙句、数秒後には縮こまってくしゃみのひとつでもされると、胸のあたりが締め付けられるだけだ。
「ふふっ。……カイロ、いります?」
はしゃぎすぎたかな、と声と手を細かに震わせながら受け取った大人は、それでも子供のような雪色の笑顔を絶やさないでいた。
02
今年のこの時期は、大寒波らしかった。23日から日付をまたいですぐ……イヴの深夜から、大雪になると予報が出ていた。
その日、私が天気予報を見逃したとか、見たけれど忘れていたとか、そういうことは決してなかった。前日の時点で予報は確かに確認していたし、シャーレへの用事でミレニアムを発つ際にも、夕方のこの時間までには帰ってこよう、と計画を立てていた。24日の0時からの大雪を、間違っても忘れはしなかった。
ただ、所詮天気予報も確率の話。肝心なときに残念なやつだ。
「0%」と示されていた23日の夕方に、もう窓一面が真っ白に覆いつくされるほどの大雪が降ったとき、既にその日は帰れないであろうことを悟った。案の定雪に強いはずのモノレールの運休通知がすぐに来ていたし、遠回りすれば帰れないこともないとはいえ、一体どれほどの寒さに襲われるかを想像して、既にその気も失せていた。
間が悪い。まさにあとひとつだけ仕事を終わらせてから帰ろうと、意気込んだ直後だった。シャーレの執務室で、先生と同時に窓の外の異変に気が付いて、互いに顔を見合わせたとき、きっと私たちは同じことを考えたと思う。
──泊まり? 2人きりで?
経験がないわけではない。
あまりにもセミナーの仕事が多く時間に追われているときや、先生の手伝いが長引いたときは、シャーレの居住区で一晩過ごすことくらいはあった。他の生徒も恐らくあるのだろう。
私の場合だと、幸いミレニアム自治区からは近い方だし、朝方に帰れば余裕をもって次の日を始められる。何度かそうしてきた。
ただ懸念があるとすれば……。
まあ、そのあたりは先生も私も、考えないようにしていたと思う。
タイミングの話というだけではあったし、他に方法もなかったので、とにかくその日は居住区の一角を借りることになった。
ノアにだけは連絡を入れておいて、あとはなんとかしてくれるだろうと楽観的になった。すぐに既読がついた。それから送られてきた揶揄うような返信は、通知から消して見ないようにした。
複数の生徒に彩られたのであろうこの時期なりの飾り付けが、居住区のいたるところに見られた。中には知り合いのものらしき痕跡もあった。インベーダーゲームの敵が赤と緑の配色でツリーを模して並んでいる壁紙や、天辺の星の代わりに機関銃の銃口が見えている歩くツリー型のそりっぽい椅子……? など。
浮かれた空気感と幸福のにおいがそこらに満ちていた。硝煙のにおいはたぶん気のせいだ。天井の弾痕も知らない。
すこしだけ、私もなにかひとつ残そうかと思い悩んで、やめた。装飾に相応しいものを持っていなかったし、内心でははしゃいでいるのだと思われるのも嫌った。
後ろ向きな気持ちで、おおきなツリーに背を向けた。
それからは……特に何があるわけでもない。
普段はあまり自炊しない先生と一緒になって頭を悩ませながら料理をしたり、苦労のすえ出来上がったものを2人で喜びあったりしていると、すぐにその夜は更けていった。時間をかけすぎた夕飯は、けっしていい出来ではなかったけれど、味は重要でなかった。
何も特別な夜ではない。ただ、すこしだけ、浮足立った居住区の装飾に感化されたらしい。寝る寸前まで特に理由のない緊張が離れなかった。
心を落ち着けようとのぞいた窓の外は、やっぱり大げさなくらい雪が降りしきっていた。
翌朝の4時ごろに目を覚ますと、雪はまばらにやんでいて、まだ暗い窓外には真っ白な景色が広がっていた。予報通り積もっている。電灯の明かりに照らされて、雪道がてかてか光っていた。
すぐに運行状況を調べた。公式のアナウンスだと、始発から通常どおり運行を再開するらしい。仕事が早い。
すっかり目も覚めたのでオフィスまで降りてみると、すでに先生は執務室に閉じこもってなにやら作業を始めていた。気づかれないよう給湯室に向かった。呆れながらコーヒーを差し出すと、柔和な笑みで受け取ってくれた。
「ちゃんと寝てください──お願いですから」
12月24日。
毎年誰もが惚けたような表情で浮足立つこの日も、生憎今年は平日で、私も彼も自身のコミュニティのなかで求められた役割を演じなければならなかった。世間はほとんど休みだけれど。
私はセミナーの会計としての立場と……それに、年内最後の授業もある。BD学習とはいえ、受講時間に遅れるわけにもいかない。早朝にはシャーレを出て、ミレニアムに戻る必要があった。
彼はそれよりも早くから起きていたらしい。デスクに溜まっている書類の量はいつもと変わらないように感じたのに。ひょっとして時節にかかわらず毎朝こうなのかと思い至って、憤りや罪悪感がないまぜになって感じられた。
困ったような笑みで誤魔化して、先生は否定した。
どうも、私を送り届けるために早起きしてきたらしい。
あたたかい格好に着替えて外に出てみると、車道には既にいくつもの轍で凍りついた跡があった。
昨日の夕方から今朝まで、あんな大雪の中でも車の通りはあったのだろう。
しかし、歩道のほうは踏まれた形跡がなく、まっさらのままでいた。
外套に自販機のあたたかいほうを忍ばせて、熱を守りながら帰路を辿った。駅までは近い。
ペットボトルの容器越しに手を温めながら、彼が先導するその足跡をなぞるように、おなじ場所を踏みしめ、後ろに続いた。
まだ少し余韻のような雪が降っている。ちらちら視界を通りかかるそれらを跳ね付けて歩いた。
新雪は怖い。
特に降り積もった直後の早朝。
まだ誰も外に出ていないような時間帯では、新雪はどこも踏み固められていないから、濡れた足が重たくなりやすく、靴の中にどんどん水が入ってしまう。まだ暗い早朝ではそれだけでも怖い。
だから、せめて1人だけでも先陣を切って、道を作る人が必要。そのために彼は「送り届ける」と言い出した。
……というのは建前で、雪道の誰も踏んでいないところに足跡をつけるという密かな楽しみを、早朝に、しかもほぼ手の付けられていない状態で享受したかった、と語ったのが本音らしい。
童心を忘れていなくて結構。これを愛おしいと思うのだから、もうどうしようもなかった。
これくらいの可愛い童心なら、もっと普段から出してもらいたいものだ。おもちゃの大人買いとか、そういうのじゃない方面で。もっとこの類の童心を。
童心。
童心……。
…………。
いや、さすがに飛び込めとは言っていない。
うずいてたまらなかったらしい。
雪を顔じゅうに纏わりつかせて、若干白っぽくなった顔で「はしゃぎすぎたかな」とか笑っている。
私はしぶしぶを装ってため息を白く吐いた。
こうして情けない大人にペットボトルのカイロを渡すのも、嫌いじゃない。
03
先生の全身の雪を落としていると、とくにわけもなく、今まで辿ってきた足跡が目に付いた。
きれいに1人分の足跡だけが残っている。先生のものだ。私はその上を歩いてきた。ひと回り大きいサイズだったから、合わせて歩くのは簡単だった。
この1人分にしか見えない足跡は、彼のやさしさや子供っぽさの現れみたいで好きだ。
だけどすこしだけ残念な思いがあるのは、それが1人分にしか見えなかったからこそなのだろう。
「ほら、前行ってください。もうすぐですから」
震えが収まった彼の背を押して、先ほどまでと同じように歩かせる。すこし粗暴になってしまった。彼は何も言わず足を動かした。
先生の足跡をたどる。会話はなかった。列になっていると話しにくい。足元に集中しているとなおさらだ。黙り込んだ。
ずっと足元ばかりを注視していると、ふと、先生のつくる足跡の間隔に違和感を覚えた。ようやくそこで、いままで歩幅を小さくとってくれていたことに気がついて、やっぱり黙り込むしかなかった。
駅近くの商店街を通りすがった。
店はほとんどシャッターが下りていて、まだ人の起きてくる気配はない。
しかしまあ、飾り付けが多い。ほんものの雪を被ったツリーやリース。光っていない電飾。店前の風船、くつした、雪だるまの人形……。
今夜に備えてのそれらに、やっぱり浮足立った雰囲気を覚える。気が早く、そわそわしている。大事な人と過ごすそのときを、町全体がずっと待ち遠しく思っているような、幸福に満ちたそれら。
この空気感は好きだ。感化されて嬉しい気分になれる。
まあ、私はこれといった用事はないけれど。
「…………」
──先生は誰かと過ごすのかと、昨日のうちも、今も、尋ねることはできなかった。
いや、聞くまでもなく答えは知っていたから、尋ねる必要もなかった。
どうせ仕事が恋人だとか冗談めかして笑って、実際誰と過ごすわけでもなかったろうから。
ただ、
(みんな気にしてる)
先生の扱いについて、おそらくキヴォトス中に共通認識があるように思う。
誰もが同じ結論に至っているかは分からない。けれど、みんな言葉にしないだけで、きっと心の奥底で気づいているはずだった。
自分では──「生徒」では、彼の隣に特別な居場所を求めることはできない。
卒業後とか、私が大人として振る舞えるようになれば、もしかしたら可能性に恵まれるかもしれないけれど……それでも、細い道だろう。
私たちを見守る役割を終えたなら、先生はまた新しい「生徒」に目を向けるだけだから。
「…………」
先生の過去についてでさえ、私たちは何も知らない。その質問をしなかった。
どこで生まれたのか、いつ自我が芽生えたか、どんな環境で育ってきたのか、なにを一番大事にしていたか、どうやって生きてきたのか、なぜここに来たのか、誰を一番──今までクリスマスを誰と過ごしてきたか、誰が初恋の相手だったか。
「…………」
今も、聞いてしまいそうになる衝動を必死で噛み殺している。みんなそうなんだと思う。
誰に強制されているとか、彼について知ることが許されていないとか、そういったことはない。
ただ、雪を融かす光は、誰も掴めない。それだけ。だから眩しいんだろう。
「先生」
私たちは光を受けて融かされていく存在でしかない。
振り返らず返事を寄越した彼に、続ける言葉は持っていなかった。ほんとうはあったけれど、何も言うべきじゃなかった。
私はなおも黙りこくったのだ。自分から呼びかけておいて身勝手なものだった。私は彼の背中を見ていた。歩を進めるにつれて、変わらず一定の間隔で肩を上下させていた。先生はそれ以上聞き返したり、振り返ったりしなかった。
「…………」
俯いた。
足元だけを見た。
足跡が私の前につくられている。
私を先導するために、通るべき道を指すようにつくられている。
彼は「前」にいる。
「…………」
彼の踏んだ足の形から、一歩分……いや、半歩分だけ。横にずれて、足跡に並ぶように歩きはじめた。
雪の冷たいギシギシとした感触が、靴の底から伝わってくる。新雪にはじめて足を踏み入れる感覚。鳴き雪の低い踏み音がひとつ余分に増える。
先生には気取られないよう注意していると、しだいに靴の中がぬれだした。
相変わらず会話はなかった。私たちは足元にばかり集中していた。
04
駅が突き当りに見えてきたところで、振り返った。
私たちの足跡は、まだ暗い早朝の雪道に、もうずっと向こうの方までただふたりぶんだけあって、こうしてみればあたかも寄り添って歩いてきたようだった。
私はそれを何度も目に焼き付けるように、寒気に凍みて瞬きした。
────。
ふたたび前を向いた。
彼は立ち止まった私に気づかなかったようで、すこし離れていた。小走りで追いつくと、何もなかったかのようにおなじことを続けた。
彼の後ろで、まるでずっと隣を歩いてきたふうに振る舞って、満足した。
「……先生」
もう一度呼びかけた。黙りこくったおかげで声が出にくかった。
聞こえなかったらしい。今度は返事もなかった。喉が渇いていた。
暖に買ったペットボトル飲料の存在を思いだしたので、口をつけた。外套の中ですっかり熱を失ってしまっていた。
キャップを閉めると、空気を吸った。
潤った喉が、吸入した外気にふれて冷たく感じた。
吐き出すときはいくらか温かく感じた。
伝えたいことがあった。
聞くことはもうしない。これはなにかを尋ねるための呼びかけじゃない。もう言葉に迷うことはない。
「先生」
彼が振り向かずに注意を向けるのに気がついた。
そのまま続けた。
「先生。これはべつに、ただの余計なお世話なんですけど」
私を駅まで送り届けたあとは、きっと彼は同じ道のりを帰っていくのだろう。
そのときにはもう、街も起きてくる頃合いだろう。私たちの足跡は他の誰かのものと混ざって、見分けがつかなくなっているかもしれない。
──そうでなくても、私たちの痕跡はいつか消える。
今は降っていないけれど、いつかまた大雪が降る。いつの間にかそれが幾層にも重なって、けれどそのうち陽の光で溶けだして、あとかたもなくなる。
でも、もし、叶うなら。
「帰り。足元、気を付けてくださいね」
──心配ありがとう。
私はなにも答えなかった。