青い春の残りカス   作:ほし。

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才羽ミドリが愛色について考える話です。

pixiv:https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=23719395


アイゾメ ── 才羽ミドリ

 01 逢い初め(アイゾメ)

 

「ここの桜は綺麗らしいよ。もうすこしすれば、ここらいったいの空が桜色に覆われるんだって」

 

 緑地の並木道の、その一本の前で立ち止まって、先生は見上げて言った。「咲いたらさ」と続く。

 彼は枝先の冬芽が黄色ぽく色づいているのを指さして、「モモイたちも呼んで見にこれたらいいね」と私を振り向いて笑った。無邪気だな、と感じた。呼ばなくていいのに、とも思った。

 芽が黄色になっているからあとちょっとで緑になるはずだ、それから徐々に開花していくはずだ、としばらく嬉しそうに語っているのを、私は最初からすべてを肯定するつもりで聞いていた。彼の薄い眼鏡越しに見える目は、ゆるく細められていた。よく見る笑顔だった。

 二月中旬に差し掛かってから日脚も伸びて、これから暖かくなる予感がしていた。今日は休日で、希望的な朝だった。

 

 先生はそれから並木道を進んで、私は横について並んだ。目的の場所もなくただ歩くすがら、彼はこの木々の変化が楽しみで毎日この道を通っている、と明かした。彼にとってはそれが日々の多忙の憩いになっているようだった。そう語る彼の言葉には、よく大人のする苦味があるように思えた。

 私はそれにつけてなにかを言おうとして、詰まったまま口を閉ざしてしまった。無理をしないでほしいとは言えなかった。私はこれから、彼に突飛で曖昧な質問をする予定だった。そうやって私はこれから、彼に無理をさせるのだった。見ると、彼は満足そうだった。

 

 

 

 

 私がゲーム開発部のことで悩んでいたのを、先生はすこし前から察していたようだった。彼が前回部室に遊びに来たときは年末だったが、そのとき私がいつもより目を伏しがちだったのを印象に残してしまったようだ。

 そんな些末なことから心配を膨らませてしまうのだから彼の心労が絶えないのだろうという批判はともかく、そうした経緯があって、年が明けてからもずっと私のことを気にかけてくれていたらしい。

 

 悩みの内容はただアイデアが浮かばないというだけの、言葉にしてみれば些細なものだった。昨日私がモモトークで彼に相談を持ち掛けたところ、待ち構えていたかのようにすぐに返事がきた。いつも数時間おいてから返信をする先生にしては珍しいことだった。

 「散歩はアイデアを得るのに良いよ」とは、先生が教えてくれたことだ。頭に柔軟な発想を期待するときは、なるべくリラックスできる環境に身を置くといいらしい。

 

 それで、いま実行に移しているところだ。

 

「たまにはゆっくり歩くのもいいね」

「そうですね」

 

 果たして彼の隣でほんとうの意味でリラックスすることはできなかったものの、心地の良い空間であることは間違いなかった。

 休日の朝からこうして、鉛筆でなぞるような速さで、並木のつぼみが膨らみがちでいる様子をぼうっと眺めながら歩いていると、不安や焦燥に駆られない、おおらかな時間の使い方をしているように思えた。

 私にはそれが新鮮に感じられた。

 

「最近はずっと寒いから、あんまり外に出るのも億劫だったんですけど、部屋でうずくまって考え込んでるよりかなりいいです」

「でしょ。みんな考えに行き詰ると引きこもりがちだから、適度に体を動かさないとね」

「私もそういう、行き詰ったときの気分転換とか時間の使い方に敏感になるべきなんですけど……」

 

 私はすこし振り返ってみることにした。

 なかなかアイデアが出ないとき、私はたいてい焦っていて、ひとりで頭を抱えて唸っている。やがて自分の頭の中がからっぽであることに気づいてしまうと、やけになって十分に納得のいかないもので妥協する。あとになって、それを破り捨てる。

 そうなってしまうともう他の誰かに頼らざるを得ない。直近だと、先生に泣きついてどうすればいいか助言を貰ったことがある。今回もそうだ。私ひとりだけで考え込んでいると、道が閉ざされているような気がするのだ。「いざこうなると視野が狭くなりがちで」と続けた。

 

「なにか他にいい方法ってないですか?」

「あ、そうそう。昨日いろいろ調べたんだけどね」

 

 彼が言うには、普段と違う環境に身を置くことや、気分の落ち着く行動をすることが創造性を高めるらしい。それと再三強調されるのが、リラックスできる環境。

 創造性の4Bという言葉も、それと関連づけて教えてくれた。

 

 わざわざ調べてくれたようだったので礼を述べると、彼は「私も知りたかったから」とだけ返した。

 

 

 

 

 足が疲れてきた頃合いで、私たちはどこか腰を落ち着ける場所を求めた。

 小さな丘になっているところにベンチがあったので、私たちは舗道を逸れて、その丘の急になっているところを登っていった。坂を登りきったあと、互いに息の切れているのを見つめ合って、休むためにした働きを二人で笑い合った。

 

 ベンチに座ると、並木が瞰下近くに見渡せて、枝先の冬芽が先ほどよりも鮮明に見えた。すこし大きく膨らんできているつぼみが、枝先を軽くひずませていた。

 こうして見てみるとたしかに全体が黄色っぽくなっているな、と感じた。これからこの黄色が緑色に変わっていって、次第にピンク色が強くなって、やがて花びらが見え始めるのだと思うと、その自然的な変化に、理屈抜きに前向きな気分になれた。先生もそうであればいいと思った。

 

 

 

 木々の様子から意識を逸らして、先生の方を振り返った。

 先生は私のことをずっと見ていたようだった。私と視線がぶつかって、それから彼はゆるく目を細めた。眼鏡の奥で優しい目をしていた。

 

 私はもうそれだけで、これから説明しようと計画していた経緯だとか、錯落とした内容のどれから話すべきかとか、そうしたものをすっかり忘れてしまった。

 

「先生」

 

 ただ彼が困惑するだけだとわかりつつも、私は零れてしまった言葉のままに続けた。

 

「愛って何色ですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 02 irony,(愛色に)

 

 先生は呼吸ひとつ分だけ押し黙ってから、沈黙を埋め合わせるように「えっと、」と漏らした。それから困った顔をした。

 

「青が生まれた色だよ……ってことじゃないよね」

「はい、その藍色ではなくて」

「だよね。愛、愛……」

 

 彼はいっそう困った顔になった。 彼はもう一度冬芽のほうに向きなおした。

 

「絵に詳しくないから、愛が何色なのか、私には分からないけど」

「はい」

「『あなたの色』とかは、ありきたりだよね、たぶん」

 

 今の私には、そのありきたりと評される色でさえも何色なのか分からない。彼の思い描く色を私も理解したかった。

 私は彼の目線を追うことにした。冬芽はまだ茶色で、すこしだけ黄色っぽくて、これから緑色になる。これほど分かりやすいものもない。

 

「ううん、難しいね。当たり障りのないことしか言えないかも」

「すみません、困らせてしまって……」

「いや、困ってはないよ。ただ、生憎私も答えを持ち合わせていないというか」

 

 彼はすこし考えていたが、しばらくして首を振った。

 

「思い当たることがあるにはあるけど、それは私という存在が、この体で、この色で生きてきてはじめて理解できる感覚だから。これは分かる?」

「はい、なんとなく」

「だからなにも言えない」

 

 それはそうだ、と私は思った。先生は先生なりの答えを持っているけれど、最終的に知りたいのは私の思う愛色だった。先生のそれは私にとっての答えじゃない。

 それとは別に、先生の思い浮かべる答えを知りたいという感情もあった。より困らせるだけだと思って、私はこれを隠すことにした。

 

「なにがあったか、詳しく聞いてもいい?」

 

 手助けぐらいはできるかも、と彼が言った。

 

「……今度、恋愛をテーマにしたゲームを作ることになりまして」

「ノベルゲームみたいな?」

「はい。といっても、部としての経験を広げるぐらいの意味合いで、それほど大掛かりなものじゃないんですけど」

「いいね、たのしみ」

 

 『ペルシアの瞳』というタイトルの、短いゲームの予定だった。

 私はそれから、お姉ちゃんのシナリオ作りは珍しく順調であること、アイデア出しやゲームシステムのほとんどはみんなうまくやっていること、私も作中に使うイラストをいくつか提出したことを話した。

 

「先生も知ってると思いますけど、普段はあんなのでも、だからといって熱量がないわけではないんです。みんな、その作品がより良いものになるように、ちゃんと意見を出し合うんです。つまり──」

「意見が食い違ったんだ?」

「簡単に言えば、はい」

 

 年末のアイデア会議で私が提出したのは、主人公がヒロインに一目惚れをする瞬間のスチルだった。

 これに関して、私は現時点でこれ以上ないというくらいに上手い具合のものを描いた。私なりの萌と愛おしさを詰め込んだ快作だった。これは私の思い上がりではなくて、ユズちゃんもアリスちゃんもこれがいいと大いに認めてくれた。

 お姉ちゃん以外は、納得してくれたのだ。

 

「お姉ちゃんの指摘は──まあいつものことなんですけど──とにかく曖昧で、具体的にどこを変えればいいとか、肝心なことはなにも言ってくれないんです。今回だってそう。私、お姉ちゃんになんて言われたか分かりますか?」

「ちょっと想像つかないな」

「『もっと愛色っぽく』ですよ。そんなの、なにも言ってないのと同じじゃないですか。ほんとうに、意味が分からないです」

「はは、そう聞くとモモイらしいというか……」

「お姉ちゃんはいつもそうなんです。気に食わないところは指摘するくせに、内容はふわっとしてるし……それに、絵のことなんてお姉ちゃんはなにも……!」

 

 口が回り始めたところで、先生と目が合った。

 

「……とにかく、その『愛色』が問題なんです」

 

 私はすこし熱くなりすぎたと思って目を伏せた。気が高まると相手のことを考えずに一方的な話をしてしまうのは、私の生来の恥だった。

 先生の前なのだから、もっと大人らしく振る舞うべきだ。

 

「ゲーム内で使う他のイラストは、それから描き上げました。そっちはちょっと手直しがあるだけで、すんなり通りました」

「つまり、問題はその『愛色』だけなんだ?」

「はい、それだけ、なんですけど……」

 

 私にはそれだけのことがよっぽど深刻なのだと伝えた。

 

「『愛』なんて言葉、よくわかってもいないのに私に描けるんだろうかとか、私に見えてる世界の『色』が、他の人のとは違うんじゃないかとか、ぐるぐる考えてるだけで、時間ばかり経ってしまうんです」

「いままでもそういうことはあったんじゃ?」

「たくさんありました。でも、そういうときってたいてい、1週間もすればそれなりの落としどころを考えつくんです。結局それも気に食わなくなってやめることがほとんどですけど……」

 

 「毎回大変そうなのは伝わってるよ」と先生が言った。私は苦笑いするしかなかった。

 

「そうじゃなくて、今度のはほんとうにただ時間を無駄にしてるだけなんです。もうだいぶ長い間進展がないです。その事実でまた焦燥感が出てきて、はやくなんとかしないとって、だんだんそっちのほうに気を取られてしまって」

 

 ひと息に話しすぎた。私はしばらく息を整えてから「それで、」と続けた。

 

「気づけばなにから手をつけていいものか分からなくなってしまって、なにもできなくなったんです」

 

 私はしばらく絵を描いていないことを話した。

 問題のイラストを前にすると思考が止まる。気晴らしに他のイラストを描こうと思っても、その前に考えるべきことがあるはずだと、愛色のことを考えずにいられない。

 

「…………」

 

 先生は何度か軽く頷いて、私にかける言葉を選んでいるようだった。

 やっぱり困惑させただけだな、と私は後悔した。

 

「やっぱり、こういう方面だと、私もたいして力になれないな」

 

 先生は薄く笑った。「だから、」と続く。

 

「たぶん方向は違うんだろうけど、おなじ絵描きに聞いてみるのもいいかもね」

「絵描き……?」

 

 ミドリと仲のいい子だよ、と先生が言った。

 

 

 

 

 

 

「あ、あいいろ?」

「うん、愛色」

「……青が生まれた色だよ、って話じゃなくて?」

「藍色じゃなくてね」

 

 「愛って何色だと思う?」と切り出した先生に対して、やはりマキちゃんも困惑を返していた。

 ヴェリタスの部室で、他の皆は出払っているらしかった。

 

「愛色かぁ……」

 

 何度か藍だの藍じゃないだのの問答があったあと、やっと愛に思い当たったようだった。

 彼女はすこしのあいだ考えるそぶりを見せて、すぐに「考えたことないかな!」と返した。まあそれはそうだろう。

 

「でも、グラフィティを描くのは好きだよ。愛してる、って言ってもいい」

「そうだろうね。見てたら分かるよ」

「その意味でなら、あたしの描いた作品はぜんぶ愛色なんじゃないかな!」

 

 自分で心を込めて表現したものはすべて『愛色』ということらしい。

 

「……な、なんか、すごく恥ずかしいこと言ってる気がするけど」

 

 マキちゃんの感覚はよくわかる。

 私も、自分が最大限の愛おしさをもって描いたものに対しては特別な輝きを見るものだ。

 もちろん、後になってこれは下手だったなとか、もっと上手く描けたなとか、私が成長するごとに粗は見つかるけれど、欠点や改善点を含めて私の色だなと思う。愛色と言わないでも、私が好きな色には違いない。

 

「この質問って、ミドに関係あるの?」

 

 彼女が先生に尋ねた。

 ずっと同じ空間にいるのに黙りこくっている私のことを、彼女は不安に思ったようだった。私の方も、いま名前を呼ばれてはじめて、私がこの空間にいることを思い出すような心地でいた。

 

 私はマキちゃんに自身の現状を伝えようとした。言葉を落とそうとして、喉の奥につっかえた。

 それで気がついた。私は彼女と喋りたくなかったのだ。今の私にはその資格がない。彼女に対して引け目を感じている。理由は分からない。

 

「……? ミド?」

 

 寡黙を貫いている私の様子が、マキちゃんや先生を不安にさせたらしかった。

 私は「なんでもない」と言って、伝えるべきことをもう一度考えた。

 

 私は大事な部分だけに絞って、ゲーム開発部で次に制作する作品のこと、提出したイラストにお姉ちゃんに「愛色」を指摘されたこと、その「愛色」が分からずずっと停滞していることを説明した。

 軽いスランプで、そう大したことのない風を装った。イラストが描けなくなったことは伏せておいた。

 

「話を聞く限り、モモがまた変な方向に暴走してるだけに思えるんだけど……」

「私もちょっとそう思う」

「みんなに相談とかはしてみたんだよね?」

「一通りは。でも収穫は少なかったかな」

「……そのまま提出するとかはないんだよね?」

「うん。色々反感はあるけど、お姉ちゃんが本気だったのは伝わってきたから」

「そっか。それなら、あたしも考えてみよっかな」 

 

 

 

 

 

 

「ごめん、あんまり力になれなかったみたいで」

「ううん。いい気分転換になったから」

 

 一時間ほど話し合ってみたものの、結局いい具合のアイデアは浮かんでこなかった。

 私もマキちゃんも、まず「愛」というところからつまずいてしまうから、「愛色」を探す前提のところでだいぶ苦労した。

 先生の助けも借りつつなんとか共通の認識を用意してから、じゃあ愛は黒色だとか、透明だとか桃色だとか緑色だとか、そんなことを検討した。終始ふわふわした議論にはなったけれど、友達と愛はこうだの色はどうだのと話し合うのは、単純に楽しかった。

 

 ふたたびマキちゃんに引け目を感じ始めたのは、彼女が部室を出る寸前になってのことだった。

 

「それじゃあもう行くけど──あたしも興味が出てきたから、いろいろ考えてみるよ」

 

 彼女が私の方を振り向いた。

 この後は予定があるらしい。

 

 私はそのまま見送ろうとして、考え直した。

 

「あ、その前にちょっといい?」

「うん?」

「マキちゃんに聞いておきたいことがあって」

 

 彼女に対して引け目を感じている理由は、なんとなく分かってきていた。たぶん、精神性の違いだ。

 私は深く息をした。しばらく考えて、やがて遠回しな言葉を諦めた。

 

「マキちゃんはさ」

「うん」

「絵のことで、なかなか思うように描けないとか、忙しかったりとか」

「うん」

「……嫌になったり、しない?」

 

 なにが、とは口にしなかった。声に出してしまうことで、私がそうである、と認めたことになるのを恐れたのだ。

 マキちゃんはきっと、私が言いたいことを理解したと思う。

 

「うーん、そういう状況になることはあるけど」

「……ある、よね」

「うん。でも、嫌いになる理由にならないかな」

 

 彼女はそれだけを何でもないことのように言った。

 彼女ならそう答えるだろうと、私は予想できていた。

 

「そっか。……そうだね。ありがとう、マキちゃん」

「ん」

 

 私はなんだか、やる気を奪われる気がした。

 

「じゃ、行ってくるね!」

「うん、またね」

 

 別れの間際に、彼女と目が合った。

 そこではじめて、私はずっと彼女と目を合わせていなかったことに気がついた。

 それだけのことを、私はとても恥ずかしいことのように感じた。しばらく彼女が去ったあとの空間を眺めていた。

 

 眩しい。

 

 

 

 

 

 

「絵を描くのは嫌い?」

 

 しばらくして、私たちも部室を後にした。それから、先生はそう訊ねた。

 マキちゃんとのやり取りの中で、私が絵に対して後ろ向きな感情を持っているように見えたのかもしれない。

 

「好きです。そうじゃなきゃこんなに悩まないと思います」

 

 そうだよね、と先生が言った。先生も答えは分かっていたのだろう。

 その時々の考えというものは、すぐに形を変えていくものだから、言葉にしておかないわけにはいかない。そうやって確認しておくことは大事なんだと思う。私は絵を描くのが好きだ。

 

「あ、そうだ」

 

 彼がふいに言葉を落とした。

 

「そういうことを考えればいいんじゃない?」

「そういうこと?」

「もう散々試したかもだけど……『愛色』が問題なんだから、自分が何を好きでいるか──何を愛してるか、考えてみたらいいんじゃないかな」

「愛してるもの、ですか」

「ミドリは何を愛してる?」

 

 考えるまでもなく、浮かんでくるものがあった。

 

「……さっきも言いましたけど、イラストを描くのは、好きです。それが愛なのかは分からないですけど」

「マキと一緒だね。それから?」

「それから」

 

 迷いようもなく、いろいろな顔が思い出される。

 

「ユズちゃんとアリスちゃん……あと、ムカつくことも多いけど、お姉ちゃんのことも好きです」

「うん」

「愛なんでしょうか」

「どう思う?」

「……たぶん、そうです」

 

 私にとって愛がどのようなものか、いまいち掴み切れてはいない。だからひとまずこれを愛としておくことにした。

 私は、ユズちゃんやアリスちゃん、お姉ちゃん、マキちゃんも……とにかく、私と関わりのある人たちはたいてい好きだ。たぶん、愛している。

 

 あとは──

 

「あの、それと……」

「それと?」

「……や、やっぱりなんでもないです」

「そう?」

 

 先生が私に目配せをした。なんの心構えもないまま目が合って、すこしドキリとした。

 先生は笑って、眼鏡の奥で目を細めていた。

 

 

 

 私たちはそれから、ゲームセンターにでも行こう、という話になった。

 これも気分転換のうちだから、と彼は言った。

 

 道中、先生と私は無言だった。

 私はとにかく、私が愛しているものについて考えていた。

 私が今まで愛してきたもの、私が今愛しているものを、注意ぶかく見つめた。

 それから、かつて嫌いだったものについても考え始めた。私が今愛しているものがその中に含まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 03 sarcastic(咲かしていく)

 

 中学生のころ、美術展に行ったことがあった。八月の半ばで、夏休みだった。

 照りつける日に汗が止まらなくなって、どこか休める建物がないか探したのがきっかけだった。

 

 その頃の私はお姉ちゃんとの関係があまり良くなくて、とにかく同じ場所にいるのを嫌ったり、目を合わせないように努めたりしていた。彼女を前にするだけで、対抗心だとか腹立たしさだとか、嫌悪として湧き上がってくるものが辛抱ならなかった。一方的なものだったように思う。実際彼女が私に寄り添おうとしてくれていたことは、振り返ってみて分かることだった。

 

 その日私が家を飛び出して、宛てもなく街を歩いていたのは、そうした嫌悪に関連があってのことだった。

 具体的なきっかけは覚えていない。とにかく私からの一方的な蟠りに耐えきれなくなって、なんとなく見知った誰とも顔を合わせたくなかった私は、何もかもを断ち切ることを願って家を飛び出したのだった。すぐにでも現実の私が、ミレニアム自治区とは離れた場所に居ることを望んだ。

 爆発的な情緒に任せてどこか見覚えのない遠くの通りに着いてから、我に返った。息が切れて、汗が出ていた。夏だった。うだるような暑さに後悔した。美術展の「学生無料」という文言を見つけたのは、そのときだった。建物の中は涼しいだろうと予測できた。ただ都合がいい、というだけだった。

 

 美術展の中身に、これといった印象はなかった。どんな絵画が中心だったか、それも覚えていない。

 その頃の私は今と同じだけの熱量を絵に対して持っていたわけでもなく、そもそも好きなジャンルが違っていた。もうすこし古くさくて、みんな特別注意を払うわけではないけれど、ふしぎとみんなに好かれている、そうした雰囲気のものが好きだった。レトロゲームのドット絵とか、背景画とかだ。

 

 

 

 

 

 

 ゲームセンターに到着して、先生にしばらく遊びに付き合ってもらったあと、私たちは近くのスイーツ店や最近できたらしいカフェで時間を過ごした。先生と最近のゲームについて語り合ったり、お姉ちゃんの愚痴に付き合ってもらったりした。

 愛色に関しての焦燥感はおかげでしばらく薄まってくれた。

 

「昔は嫌いでした。お姉ちゃんのこと」

 

 話の流れで思い出したことがあった。

 椅子にゆったり座っていた先生が、興味深そうに僅かに身を乗り出した。

 

「だから昔、ちょっと家出みたいなことを──あ、でもぜんぜんかわいいもので、その日には帰ったけど。まあ、したことがあるんです」

「若さだね。懐かしい」

「え。先生も経験あるんですか? 意外……」

「まあね。なんとなく、誰にも会いたくなくて。ミドリはどうして家出を?」

「私も似たような感じです。特に、絶対お姉ちゃんなんかと顔を合わせないって思って飛び出しました」

 

 あのときの情緒を思い出してみようとしたけれど、今はもう分からない感覚だった。

 

「夜までそうしていたんですけど、そしたらどこに行けばいいか分からなくなっちゃって。不安になったんです」

「そんなもんだよね」

「中学生でしたから」

 

 先生は笑った。

 彼にも覚えのあることだったのかもしれない。当たり前だけれど、大人にもそんな時期があったのだと思うと、すこし安心した。

 

「結局、そういうとき真っ先に思い浮かぶのが、お姉ちゃんの顔でした」

「…………」

「……ニヤニヤしないでください」

「ふふ、ごめん」

 

 まったく謝る気のない様子で彼が笑った。

 

「とにかく──先生」

「うん?」

「私、絵を描くこともお姉ちゃんのことも、愛してます」

「それならよかった」

 

 先生は軽く微笑んで、目を細めた。彼が嬉しそうにしてくれるものだから、私も喜ばしい気分になった。

 しばらく彼の姿を眺めた。眼鏡の奥で細められた目が愛おしかった。

 

 ──私は先生のことを愛しているのだろうか。

 

 ふと思い浮かんだ。

 私はきっと、私にかかわりのある様々なものを愛しているのだと思う。

 だけど、先生のことはよく分からない。もっと彼を知りたい。

 

「先生はどうですか?」

「私が何を愛してるか、でいいかな」

「はい。先生は、何を愛してますか?」

 

 

 

 

 

 

 その日は日が暮れるまで先生に付き合ってもらった。

 画材屋や家電量販店に寄ってみたり、やっぱりもう一度ゲームセンターに戻ったり、とにかく思いつく限りの私の関心に先生を巻き込んだ。

 未だに愛色は見つかっていないけれど、十分にリラックスできたように思う。今朝までに感じていた愛色への焦燥や不安は静まっていた。

 

 日が沈んで、これからシャーレに戻る先生に別れを告げてから、今度は愛色を見つけてから連絡する、と私は言った。

 期待してる、と彼は言った。

 

 

 

 帰宅してから、お姉ちゃんにどこに行っていたのかを聞かれて、私は曖昧に答えた。愛色について深刻に悩んでいたから先生のもとに行っていた、とは言えなかった。ただゲームセンターにいた、とだけ伝えた。

 

 その日の夜はなかなか寝付けなかった。体は疲れていたけれど、頭が起きていたがった。ベッドの中で何度も寝返りをうって、そのたびに頭が冴えていく心地がした。

 それでも無理やり目を瞑っていると、色々なことが頭の中に浮かんできた。

 

 今日あったできごと、愛のこと、愛色のこと。

 それから、昔のこと。

 

 

 

 私が美術展に行ったあの日、私はそこを出たあともしばらく知らない街を歩いていた。

 私のまったく知らない人たちが、私のまったく知らない街並みを勝手知って行き交うのを羨ましく思いながら、それに紛れながら過ごした。誰も私がそこにいるなんて分かるはずがないのに、私はずっと息を殺していた。

 

 夜も更けてくると、やっぱり不安になった。そんなときに思い浮かぶ顔がお姉ちゃんで、私は自分が馬鹿らしくなったのを覚えている。顔も合わせたくないと思っていたのに、そのときにはもう恋しくなっていたのだ。

 

 それからなんとか帰宅すると、すぐにお姉ちゃんが出迎えてくれた。

 どこに行っていたか尋ねる声は、心配そうでいた。私は嬉しかったのだと思う。どんな顔をしているのだろうと気になって、私は彼女の顔に目を向けた。

 声色と同じ意味の目が、私を見つめていた。目を合わせるのは久しぶりだった。

 

 当時、私から一方的に軋轢を感じていたのは間違いないことだ。

 今も当時の心境の説明をうまくできない。ただ、あのころはよく、私の内向的な性格と彼女の明朗さとを比べられて評されることがあった。それが無性に腹立たしかったのも覚えている。そのあたりが原因だろう。

 共通の趣味を見つける前の私たちなんて、そんなものだった。ずっとそのままの関係が続くのだろうと、うっすらと未来に失望していた。

 

 けれど、そのとき一度合ってしまった目は、もう逸らそうとは思えなかった。

 

 私たちはそれから、その日見て回った美術展の話をして、ふたりですこし盛り上がった。美術展の内容はまったく理解が及ばなくて退屈だった、レトロゲームの展覧会なら見たい、それなら今度ミレニアムでいいイベントがありそう。

 今度はゲームセンターとか、ゲームの展示会にでも行こうかと、浮ついた約束をした。

 

 

 

 過去のことを思い返していると、徐々に眠気がやってきてくれた。

 

 私は意識が遠のくのを感じつつ、絵を描くことと、お姉ちゃんのことを思い浮かべた。

 どちらも私が愛しているものだ。このふたつの愛を自覚できたのはきっと先生のおかげだった。

 

 それから、こういう想像をした。

 

 そのふたつはきっと、私の中に同じ意味合いで存在していて、ひとつの世界に充足している。目には見えない。けれど、世界で彼女たちが動くとき、その軌跡に愛色の残痕が浮かんでいる。そうして、淡い絵の具が真っ白な空間に滲んで色を広げていくように、その残り香が私の世界を押し広げている。私はそうした痕跡を見てはじめて、そこに彼女たちが満ちていることを知る。

 

 私はただ、そういうものに対して、なにかの形を与えたいだけだった。そのことを通じて、私自身に形を与えたり、世界とのつながりに恵まれていることを確かめたりするのだった。それが私の愛だった。

 私はようやくそのことに気がついて、こんなことだったのかと感じた。

 案外単純なことなのだと思った。それでよかった、とも思った。

 

 私はそれから、その世界に先生がいることに気がついた。

 彼は私のほうを見ていた。目を細めて笑っていた。

 

 私は彼に与えられるものがないか探してみたが、悲しくなるばかりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 04 愛染め(アイゾメ)

 

 

 窓の外に、中庭が見える。

 木造の校舎を背に、そこで「彼女」が誰かを待っている。

 学生鞄を両手で前にぶらぶらとさせながら、俯きがちでいる。

 ずいぶんと待たされているようで、暇なときの手癖なのか何度か鞄を持ちかえたり、地面に転がる粒ほどの石たちをざりざりと足で撫でてやったりする。

 ふいに「彼女」が顔を上げる。

 向かいの校舎の窓からその姿を追っていた主人公に、「彼女」が気づく。

 目が合う。「彼女」の息づかいが見える。「彼女」が目を細める。

 

 ……その瞬間の切り取り。

 

 お姉ちゃんに指摘されてから手を付けられていなかったそのイラストに、私はしばらくぶりに向き直っていた。

 先生に相談してからは数週間が経っていた。ちょっと時間が開いてしまったけれど、私には必要な時間だったと思う。

 以前このイラストに触れたときは、義務感と不安でまったく落ち着いていられなかった。今はそうでもない。

 

 あらためて問題のイラストに向き直った。以前の私が描いた線画については、これはこのままでいいと思えた。

 だから、あとは色だけだ。

 

(……愛色)

 

 「愛色」って、他の色で言い表せるものではないのだと思う。

 たぶん、名前のついた色に合わせようとするのがよくないのだ。

 

 私は長い時間をかけて、その絵に何色が似合うか、思い出すように考えた。

 まだ色のない線画に、想像上の色を重ねていく。

 

 「愛色」の空、「愛色」の涙、「愛色」の瞳、「愛色」の──

 

 世界を染めるべき彩りを、一刻も早く表現したかった。その努力を惜しまなかった。

 やがて何もかも決心してしまってから、私は筆を取った。それでも、線画に色を付け始める直前になって、まだいくらか迷った。

 

 手を付けてしまえば、もう迷いはなかった。

 無彩をこの手で、愛色に咲かしていく。

 

 

 

 想像上の彩色を現実のものにしていく中で、私は何度も同じことを思い出していた。

 

 先生が私に向ける目と、お姉ちゃんが私に向ける目。

 先生が笑うときに眼鏡の奥で細める目と、お姉ちゃんが好きなことをしているときの輝いた目。

 私の頭の中には、そのふたつの「愛色」だけが交互に浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 05 Eyes on Me(アイゾメ)

 

 モモトークで予定を取り付けたのは数日前で、彼からはいつも通り数時間遅れて返信がきた。

 「この前持ち掛けた悩みが解決したから、会って話がしたい」と、私が送ったのはそういう内容だ。ずいぶん時間をかけて推敲して、意を決して送ったもののはずが、もうすっかりどんな文面で送ったか忘れてしまっていた。

 とにかく、彼からは快く返事が返ってきた。それははっきりしている。

 

 私は約束の当日までうまく眠れずにいたし、何をするにもうまくいかなかった。頭がぼうっとして、誰と話をしていても言葉の上辺をなぞるだけで空回りし続けたし、受けた講義の内容も、受講して数分後には何の科目を受けていたかすら忘れてしまった。さすがに自分でもまずいと思った。やるべきことは既に終えてしまっていたから、大した痛手ではなかったのが救いだ。

 

 この不注意を2日か3日続けた。

 先生と会うと決まっただけでこうなるのは、はじめてだった。

 

 約束の当日、私は重い目をなんとかこじ開けて、それから前日に決めていた装いに着替えて、いつもより時間をかけて身だしなみを整えた。

 お姉ちゃんにはゲームセンターに出かけると言って、早めに待ち合わせに向かった。

 

 

 

 時間より30分ほど早く目的地についた。しばらく余裕があるので、私は並木を眺めながらゆっくりと歩くことにした。

 私が彼に相談を持ち掛けたあの日、彼は「もうすこしすれば、」と言っていた。その通りだった。三月も中旬になった今では、ここらいったいの空は桜色に覆われて、陽気で満たされていた。

 

 私は一面の桜色をしばらく立ち止まって眺めた。かつては茶色で、すこしだけ黄色っぽくて、それから緑色になって、ようやくこの色になったのだった。

 私はずっと前向きな気分だった。決してこの色を忘れないように願った。

 

 

 

 しばらく歩くと、小高い丘になっている場所が見えた。

 そこを登ればベンチがあった。私はそこで休もうと思った。

 

 丘を登った。息が弾んだ。休むためにした働きを、心の中で笑った。

 そしてそれ以上に、そこに先生が待っていたのを認めて、ずっと喜んだ。

 

 桜を眺めるその横顔に、頬が緩んだ。

 

「愛色ですよ、先生」

 

 つぶやいた。

 視線がぶつかった。彼がゆるく目を細めた。いつもの眼鏡をしていなかった。私を見て笑ったのか、光束をせばめて目を凝らしただけなのか、判断がつかなかった。前者であればいいと思った。

 小さく風が吹いた。冷たく乾いた空気に目を細めながら、私は先生のもとへ向かった。

 

 

 

 

アイゾメ 了

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