一週間も経たない内に海月さんはクラスに馴染んで……それはつまり海月さんがいる事が普通になって……彼女の周りに人が群れる事は少なくなった。逆に授業時間などで話す機会が多かった私を拠り所にしたのか、私も特に反発しなかったからか、彼女と一緒に過ごす時間が多くなった。特別海月さんに友情を感じている訳ではないけど、海月さんの中で友達に一番近いのは私なんだろうなと何となく思った。
だから家に誘われたのは別段不思議ではなかった。
「家で勉強?」
「そう。テスト近いしさ」
「うーん……」
断る理由は無いのだけれど、遊びにすら一緒に言った事の無い間柄でいきなり家と言うのはいくらか手順をすっ飛ばしている気がする。
「嫌?」
「え?あ、嫌じゃない」
「じゃあ来て欲しいな」
「あ、うん」
勢いのままに乗せられてしまった。
まあいっか。今日は特に予定無いし。
「真由美、今日どこ行く?」
「ごめん、今日用事ある」
「へー、何するの?」
「あー……海月さんちに行く」
「そうなの?良いじゃん行ってきな」
「また明日ー」
「うん、明日ねー」
友達はさっと退散していった。二人の事だから自分たちも行くと言い出すと思っていたがあっさり引き下がったので少し面食らった。
海月さんの帰り道は驚く程私と同じだった。しかしいつもの道を、いつもとは違う人と歩く。それだけでどこか新鮮に感じられた。様々な店が立ち並ぶ駅前であっても寄り道をする様な素振りを一切見せず、他愛のない話をしながら信号を渡る。
「ねえ、聞きたかったんだけどさ」
「なに?」
「柳って、どう言う意味の名前なのかなって」
私がそう言うと海月さんは少し驚いた顔をした。
「なんでそんな事聞くの?」
「やっぱ柳ちゃんって珍しい、てか見た事無いし。どう言う意味で付けてもらったんだろうなーって」
「さあ、知らない」
「そうなの?親に聞いたりしないの?」
「私親なんかいないよ」
「え?」
「着いたよ」
いつの間にか人気の無い道に入っていて、海月さんが示したのは少し古そうなアパートだった。錆が浮き出た階段を昇って一番奥の部屋の鍵を開けて入っていく。開いたドアから見える部屋は薄暗くて、春なのに急に寒気を覚えた。
「入って」
「あ、うん」
一瞬感じた怖気みたいなのはすぐに消えた。部屋だって普通でおかしい所は何も無い。もしかしたら海月さんの発言のインパクトに引っ張られていただけかもしれない。
「お茶いる?」
「あ、お気になさらず」
「遠慮しないで良いよ」
「……分かった、もらう」
キッチンとリビングだけの簡素な部屋は複数人で住むには狭く感じる。さっきの話を考えるに一人暮らしなんだろう。
テーブルにコトリとグラスが置かれ、中に入った麦茶が窓から差す光に照らされている。
「いただきます」
冷たい液体はすうっと喉を伝っていった。
「真由美ちゃん?」
真由美ちゃんは可愛い寝息を立てている。人間が作った睡眠薬と言うのは実に便利な物だ。いとも簡単に一番無防備な状態にできる。
真由美ちゃんに近づくにつれて胸のざわめきは大きくなっていく。この一週間はずっと苦しかった。ご馳走が目の前にあるのに待てと言われた犬の様に、ただひたすら耐えていた。
それも今日で終わりだ。この娘で最後。やっと願いが叶う。幾人もの同胞が志半ばで果たせなかった事を、今日成し遂げるのだ。
真由美ちゃんの首にそっと手をかけ、少しずつ力を込める。
『力』を使えばこんなか弱い人間は一瞬の内に葬り去れるだろう。しかしそうはいかない。奴らは『力』を使った瞬間にそれに勘づき、私を殺すだろう。そうやって何人も仲間が死んだ。だからこの時、最後の仕上げは絶対気付かれてはならない。無力な人間になった瞬間抵抗すらできなくなる。なるべく『人間的な』やり方で事を済ませなければならない。
真由美ちゃんの表情が苦しそうなものに変わる。後もう少しだ。ほんの少し、心が痛むが仕方が無い事なのだ。許して欲しい。
「ごめんね、真由美ちゃ——」
ぽーん、とチャイムが鳴った。
気付かれたら不味いと言う計算ではなく、不意を突かれた事の反射として腕から力が抜ける。インターホンのボタンを押すと、二つの人影が映った。
「海月さんのおうちですかー?」
「ごめーん、実は尾行しててさー、真由美と一緒に勉強するんでしょ?うちらも混ざって良い?」
「ほらお菓子持ってきたからさ、駄目?」
真由美ちゃんと仲の良い二人だ。真由美ちゃんに近づくに際して厄介になるとは思っていたが、まさかこんな所で邪魔されるとは。
「うん、良いよ。今開けるね」
「はぁー……」
「どうしたのため息ついて、疲れてる?」
「疲れてるのかな……」
海月さんの家でお茶を飲んだ後どうやら眠ってしまったらしく、気付いた時には陽が落ちかけていた。結局勉強はしないまま、薄暗くなった道を友達と一緒に帰った。これじゃあ一体何をしに行ったのか分からない。
「最近勉強頑張ってるからじゃない?たまには遊んでも良いんだよ?」
「でも受験生だしさー」
「そんなの関係ないわよ。私とお父さんなんて、よく二人で授業さぼって遊んでたわよ」
「うわ何それ。お母さん不良だったの?」
「これでもね」
いたずらっぽく笑うお母さん。落ち着いた人だと日頃思っていたから、そんな感じだったなんて思いもしなかった。
「てかお父さんもなの?」
「そうよ。警察なんて言って、昔は昼間っからゲーセンとか遊園地で遊んでたりしてた」
「へぇー」
記憶の中のお父さんは真面目だったからそれも意外だった。
「でもねー、本当に遊びたかったのかは分からないのよねー」
「どう言う事?」
「お父さんは私のさぼりたいって我儘に付き合ってただけだったんじゃないかって思うの。お父さんの方から学校を抜け出そうとした事は一度も無かった。私が誘って、私が満足するまで一緒にいてくれてた」
「……そっか」
そっか。やっぱりお父さんはそう言う人だったんだ。
「まあ十中八九、惚れた弱みね」
「随分自信あるんだ」
「分かるわよ、お父さん私の事大好きだもの……勿論、真由美の事もね」
「……ふーん」
本当にそうだったら良いのに。確かめようがないから希望的観測になってしまうけど。
私もお父さんの事、好きでいたいし。
海月さんの家に行った日から二週間たって、その間に海月さんと一緒にいる時間が更に多くなった。4人で一緒に勉強したり息抜きで遊んだりして、いつの間にか3人から4人になった。別にそれで嫌な感じは無かったし、寧ろ嬉しかった。
そして今日はリベンジと言う事で、また家に誘われた。テストも終わったし焦って勉強する必要は無いのだが、家で遊ぶって意味合いも含まれているだろうから行くと返事をした。二人は生憎予定があって、私だけ行く事になった。
二人で帰る事も多くなった。海月さんの家にはゲーム類が何も無いらしいから、今はショッピングモールによって何か良いものがないか物色している所だ。
「あ、ねえこれ良いんじゃない?」
カードゲームのコーナーで見つけたのは元素が描かれたカードを組み合わせて、より複雑な化合物を作った方の勝ちと言う、大変ためになる代物だった。
「真由美ちゃんってほんと真面目だね」
「え、普通に面白そうじゃない?」
「まあ私そう言うの分かんないから任せた」
カードゲームとお菓子を詰め込んだレジ袋がゆらゆら揺れる。この前とは少し違う道を歩く道中は、少し長いけれど雑談してればあっと言う間。海月さんの家はすぐ目の前。
そう、もうすぐだった。
「真由美ちゃん!」
「え……」
口を開いた瞬間海月さんに押し倒される。痛みで思考が一瞬飛んで、なんでそんな事をしたのか聞こうとした時にそれが見えた。
「何あれ……」
得体の知れない何かがそこにはいた。馬の様な顔をしているけど、人間と同じシルエット。真っ黒な身体を震わせ
終わった、そう感じるには充分だった。頭の中が全部それで埋まって動けなかった。
だけどそうじゃなかった。
私の前に誰かが立ちふさがる。さらさらと流れるその長い髪が白く透き通って、意思を持った様に動き始める。体もぐにゃぐにゃと蠢いて白い肌……と言うより皮膚が露わになる。およそ人間とは思えない姿になって振り向いた海月さんの顔は、まるで骸骨の様だった。
海月さんが手をかざすと爆発の様な音と共に一筋の光が怪物を襲った。怪物の皮膚は焼け焦げ
また雷が来て、怪物が燃えていく。何度目かも分からない音が鳴り止んだとき、激しく燃えるそれは動かなくなっていた。
瞬きも忘れてそれを見ていた私は、もう一体の怪物が私を見た事に気付いた。頭蓋骨の奥に見える目は、何故だか悲しそうに見えた。
瞬きした時には怪物の姿は消えて、海月さんがそこに立っていた。
少しだけ目が合った後、海月さんは何も言わずに走り出した。
何故だろう。
何故、殺さなかったのだろう。
何故、助けてしまったのだろう。
競合相手がいるのは偶にある話だ。一方がそれを手に入れてしまったら他方はもう願いが叶わないのは周知の事。かち合った時に奪い合い、殺し合いになるのは当然の摂理。
じゃあ勝者たる私は、何故彼女を殺さなかったのか。
分からない。力を使ってしまった以上留まる事は危険だと言う本能的な動きとも考えられる。しかし見られてしまった以上、彼女に近づくのは困難になるだろう。
それとも、もしかしてだが、情でも湧いたか?
なんてことだ。そこまで人間に近づいたか。喜ぶべきか、悲しむべきか。そのせいで仕上げが出来なくなるなんて、とんだ笑い話だ。
「ははは、はは……」
思わず笑いが漏れる。私は多分、もうあの子の事殺せないんだろうな。
「海月さん!」
振り返ると、ちょっと離れた所に真由美ちゃんがいた。膝に手をついて荒い息を整えている。おかしいな随分走ったはずなのに、どうして見つかってしまったんだろう。
「ねえ、海月さ——」
「来ちゃ駄目だよ」
踏み出そうとした足を牽制する。そして背を向ける。取り敢えず、今は来ないで欲しい。
「なんで?」
「見たでしょ?私怪物だから」
「でも……」
「今度は真由美ちゃんの事、殺しちゃうかもしれないよ?」
息を呑む音が聞こえた。靴底が砂利を引き摺る音も。そう、怖がって、そのまま帰って。
何秒か遠くで車の走る音だけがしていた。そして……足音が、近づいて来た。
なんで?なんで近づいて来れるの?
混乱している間にも気配は近づいて来て、何かに服の裾が引っ張られた。
「……来ないでよ」
「……良いでしょ、別に」
「死にたいんだ?」
実際殺してしまうのは簡単だ。手を振り払って、力を使えば良い。それだけ、本当にそれだけ。
「死にたくはないけどさ、言わないといけない事あるから」
「……なに?」
「ありがとう」
どきん、と心臓が跳ねた。たった5文字の言葉が私を壊した。
「助けてくれて、ありがとう」
「何それ」
「だってそうじゃん」
「気分じゃなかっただけ」
「嘘」
「うるさい!」
服が更に強く引っ張られ、私は全然動けなかった。
「海月さん」
真由美ちゃんは笑っている様な、怒っている様な、泣いてる様な、不思議な顔をしていた。
「私大丈夫だから、怖くないから」
駄目だ、もう無理だ。
「ごめん、ちょっと無理」
「海月さん……」
「じゃあ、また明日」
今度こそ真由美ちゃんの手を振り払った。
どれくらい走ったか分からない。逃げて逃げて逃げた先に……そいつはいた。
若い男だ。そしてその腰には緑と金に光る何かが巻かれている。
「変身!」
叫んだ男の姿が揺らめいて、緑の鎧を纏った怪物に変わった。これが噂に聞く奴の一体であることは明白だった。
さっき力を使わなければ、こいつに捕捉される事も無かったのに。
「仕方ない、か」
緑の怪物は私に跳びかかった。
明くる日も当然の様に学校に行って、当然の様に友達に会って、そして当然の様に海月さんはいなかった。
先生に聞いても連絡がつかないと言う。放課後家に行ってみたけどいなかった。次の日も、その次の日も海月さんは来なかった。
でもきっと来てくれるはず。だって海月さんは、また明日って言ったんだから。
待ってる分には、迷惑じゃないと思うから。