今日は快晴だ。
窓を開けると、冷たい空気が部屋の中に入り込む。
新鮮な空気を吸った時の、肺の中が洗われるような感覚が好きだ。
楽しむのは程々にして、朝食の準備をする。
と言っても、昨日の鍋の残りを温めるだけなのだが。
もう7時だ。可奈さんを起こさないといけない。
可奈さんは個人経営のレストランで従業員として働いている。今日は仕込みの担当ではないが、そろそろ起きていた方が良いだろう。
寝室には俺のベッドと可奈さんのベッドが、間隔を開けて置かれている。空き部屋がないのだから仕方ないのだが、始めの内は物凄く落ち着かなかった。
目覚まし時計のスイッチは切られていた。起きられなかったのか、起きるつもりがなかったのか。
「可奈さん、朝ですよ」
そっと揺さぶる。
「うにゅ……しょーいち?」
いつもの様子からは考えられない程ふにゃふにゃだ。可奈さんは朝に弱い。
「はい、翔一ですよ」
「むー……おこして……」
と言って両手を広げる。
またこれだ。
「はいはい」
手の誘導に従って抱きかかえ、上半身を起こすように上に引っ張る。
朝早く起きないといけない時は毎回こうだ。これももう慣れた。
「ふふふー……ちゅー……」
ほとんど閉じたままの目と唇が迫ってくる。
「はいはい、顔洗ってくださいね」
咄嗟に顔を背けてしまう。
「……けち」
けちと言うか俺が恥ずかしいだけと言うか。
可奈さんは洗面所へ歩いて行った。
そうこうしている内に鍋の中身が沸騰している。
皿に盛りつけ、白米もよそって食卓に並べる。
座って待っていたが、しばらく経っても可奈さんが戻って来ない。
洗面所に行くと、可奈さんは何をするでもなく立っていた。
「可奈さん?」
声をかけると、可奈さんの肩が跳ねた。
「しょ、翔一?」
どうしたんだろう。
かなり動揺しているように見える。
「どうしたんですか?」
「な、なんでもないよ」
そう言ってすれ違う時、ポケットに何かを隠したのが分かった。
可奈さんは仕事へ行った。
朝食を食べた後も、可奈さんは挙動不審だった。
まるで何かに怯えるかの様に。
気になるが、そればかり気にしていてもしょうがない。
今日は俺が家事をする番だ。ぼうっとしていたら終わらない。
まずは部屋の掃除だ。
壁に立てかけてあるコードレスの掃除機を手に取り、電源を入れる。
一通り掃除機をかけ終えると、一層すっきりとした気分になる。
そして電源を切った時だった。
あの音が、頭の中で暴れ出した。
「うう……」
思わず掃除機を手放し、頭を押さえてしまう。
しばらくそうやっていると、音は消えた。
今回はそんなに長くなかったし、あの光景も見えなかった。
それで済んだと思っていたのだが。
翔一くん。
あの女性の声だ。
「誰だ?どこにいるんだ?」
こっちだよ。翔一くん。
声は寝室の方から聞こえて来ている。
ほら、こっち。
ベッドとは反対側に置かれた化粧台から声がする。
その引き出しの一つから光が漏れ出ている。
一体何なんだ。
見て。取って。
声に命令される。
得体の知れないものに従うのは危険だ。
だがなんと言うか、怖いもの見たさも正直ある。
少しの葛藤の後、好奇心が勝った。
ゆっくりと引き出しを開ける。漏れ出る光は更に強さを増していく。
そこにあったのは、黄金に輝く水晶の様な球体だった。
俺が手に取ると、光は消えていった。
「これは?」
大事なものだよ。失くさないでね。
「大事なものって?一体、どういう事なんだ!?」
それっきり声は途絶えてしまった。
今日の夕飯はシチューにした。
シチューを作る時は市販のルウは使わず、ホワイトソースから作る。
それなりに手間はかかるが、自分としてはルウを使うよりも美味しいと思う。
可奈さんも美味しいと言ってくれていたのだが。
今日の食卓に会話はない。
二人とも黙ってシチューを食べている。
可奈さんが帰ってから碌に言葉を交わしていない。
今朝可奈さんがポケットの中に隠したのは、おそらくあの球体だろう。
俺に見せようとしなかったのは、見せたくなかったからか。
でもあれは、俺にとって重要なものである気がする。
あの声に言われたからではなく、何故かそんな確信がある。
それでも黙って取ってしまった後ろめたさで、今話せずにいる。
可奈さんは何を考えているのだろう。
目は焦点が合っておらず、シチューを口に運ぶ動作もどこか機械的だ。
どうしてしまったんだろう。
あの球体を見つけてから、俺も可奈さんもおかしくなっている。
「可奈さん」
思い切って声をかける。
「え……何?」
数瞬遅れて可奈さんが反応する。
「シチュー、まずかったですか?」
「え?ううん、美味しいよ」
「それなら良いですけど」
「うん美味しいよ。美味しい美味しい」
そう言っているのも、どこか上の空の様に見えた。
結局その後一言も話さないまま、二人ともベッドに入った。
可奈さんはこっちに背を向けて寝ている。
いつもだったら寝るまで俺を見ているのに。
見られるのが気恥ずかしくはあるけど、いつも通りでないと調子が狂う。
「おやすみなさい」
一応、言っておく。
「……おやすみ」
元気のない声が返って来る。
もう気にせずに寝よう。
可奈さんとは反対側を向いて、瞼を閉じる。
「翔一?」
可奈さんの声がする。
「ねえ……まだ起きてる?」
可奈さんは壁の方を向いたまま、話しかけて来ていた。
「どうしたんですか?」
「あのね……今日、私変だった?」
不安そうな声が問いかけてくる。
「変、とは?」
「翔一と全然喋ろうとしなかったから……どうだった?」
「まあ、確かに喋ってないですけど」
布団が僅かに動く。
「やっぱそうだよね。私、変だよね」
声のトーンが下がっていく。
このまま一日を、終わらせたくないと思った。
「大丈夫ですよ」
「え?」
可奈さんがこっちを向いた。
「俺も今日変でしたから」
「何で?」
「それは……分からないですけど、俺も喋ろうとしなかったですし」
後ろめたい事をしたとは正直には言えないので誤魔化した。でもできる範囲でのフォローは成せたのではないだろうか。
「じゃあ、今日は二人とも変?」
「そうです。今日はそういう日です」
ぽかんとしていた可奈さんが、次第に笑い出す。
「そっかぁ。今日はそういう日だったんだ」
「はい、そういう日です」
「ふふふ……偶には良いかもね、こういう日があっても」
「どうしてですか?」
「だっていっつもいちゃいちゃしてると、飽きが来ちゃうもんね。息抜きしないと」
「いちゃいちゃしてくるのは可奈さんだけでは……」
「ひどい。私だけ好きみたい……って今はそうか」
少し寂しそうな顔をする。しまった、今の返しはまずかったか。
でもすぐに可奈さんは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「翔一もしたくなったらいつでも甘えてきて良いからね。大歓迎だよ」
「け、検討します」
焦る俺を見て、可奈さんが更に笑う。
それを見ていると、俺も自然と笑っていた。
二人とも、笑っていた。
良かった。
いつもの可奈さんに戻ってくれた。
この人の笑顔に、愛おしさを感じている自分がいる。
可奈さんはああ言っているけど。
俺ももしかしたら可奈さんが好きなのかもしれない。
そうじゃなくても、俺は今、幸せなんだろうな。
寒い。
暗い。
どこなんだろうここは。
寝ていたはずなのに、どこかへ向かって歩いている。
これは夢なんだろうか。
どうも感覚が曖昧で、思考もはっきりしない。
ただ、どこかへ向かわなければいけない気がする。
それだけを頼りにして足を動かす。
ここだ。
立ち止まる。
どこかの路地裏だ。
何で俺はここに来たんだ?
分からない。
一体何が起きている。
「私が呼んだんだよ。翔一くん」
我に返る。
夢ではない。本当に路地裏に来ている。
そして目の前に、あの女性がいる。
「だ、誰だ?」
暗がりから彼女が歩いてくる。
月明かりに照らされた彼女の顔は、思っていたよりも幼げで、女性と言うよりは少女といった印象を受ける。
「私だよ。翔一くん」
「え、いや、だから……」
私と言われても、覚えがない。
「ふーん、本当に覚えてないんだー」
俺はこの子に会った事があるのか?
「まあ良いけど。今日はね、翔一くんに渡したいものがあって呼んだの」
「呼んだ……?」
「そう、私が呼べば、翔一くんはいつでも来てくれる、でしょ?」
意味が分からない。
「それは置いといて、はいこれ」
そう言って差し出されたのは、妙な機械だった。
細身で手に持てる大きさの箱の様な形状で、ほとんど装飾のない黒に透き通っている。中央には丸い窪みがあり、何かがはめ込める様だ。
「これは……?」
「これも覚えてないの?これはあなたのものだよ」
「俺の……」
何故だろう。
知っている気がする。
とても重要で、持っていないといけないような。
俺はこれを持っていたという確信がある。
「持って来てくれたよね。大事なもの」
「大事な、もの……」
ポケットに手が伸びる。
何故か入っていたあの球体を握っていた。
「そうそれ。ここにはめるの」
彼女が窪みを指差す。
言われるがままに、球体を窪みに置く。
機械が蠢き、球体を飲み込んだ。
あるべき場所に収まった球体が、黄金の光を放つ。
「はい、これで完璧」
そう言って差し出されたものを、思わず受け取ってしまう。
「使い方、わかるよね。じゃあ実践してみよっか」
「実践って……」
顔を上げると、少女はいなくなっていた。
頑張ってね。翔一くん。
どこからともなく声が聞こえてくる。
その発生源を探る間もなく、あの音が聞こえてきた。しかもいつもより大きい。
頭が割れそうだ。
次第に視界が白んで、切り替わる。
濁った視界の中、暗い路地裏が映る。
ゆっくりと、確実に、獲物に迫る。
そして獲物を捉える。
その獲物は、俺の格好をしていた。
意識が戻る。
振り返る。
ほんの数十メートル先に、怪物が立っていた。
その頭は、人とネコ科の動物を混ぜたような形をしていた。
爛々と光る眼が、俺を見据えている。
衣服は着ておらず、人のシルエットをしているが、その身体も異形だった。
ひたひたと、一歩ずつ近づいてくる。
「なんだよ、こいつ……」
いや、なんだよじゃない。
こいつはあの光景の怪物だ。
あいつが暴れる度に、俺にはあの光景が見える。直感がそう訴える。
そんな事を考えている内に、足音が段々速くなっていく。
そして鋭い爪を、俺に振り下ろす。
「くっ!」
咄嗟に身をひるがえす。
爪は俺のすぐ傍の空を切り裂いた。
怪物が来た方向に転がり、距離を取る。
どうしてそうしようと思ったかは分からない。
ただ咄嗟に、体が動いた。
そして、俺は。
いつの間にか、あの機械を腰に押し当てていた。
機械の両端から帯の様なものが展開し、体に固定される。
その瞬間、何かが俺に入り込んだ。
「あ……は……が……」
強烈な不快感。体に力が漲る代わりに、俺自身が薄れていくような感覚。
頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられない。
視界は白く塗りつぶされて。
そして思考が、ゼロになった。
翔一が立ち上がる。
その瞳は真っ直ぐに敵を見据えるが、感情を見出す事はできない。
ゆっくりと、大地を踏みしめる。
腰に着けられた機械から発せられる音が、大気を振動させる。
怪物がまた腕を振りかざし、翔一に襲い掛かる。
その腕を、翔一は腕でブロックする。
少し驚いたような素振りを見せた怪物だったが、すぐさま反対の腕を振り下ろす。
しかしその攻撃も、翔一に阻まれる。
怪物の胸に翔一の拳がめり込む。
怯んだ怪物の胴体に、更にパンチが叩き込まれる。
パンチの勢いで怪物と翔一の距離が離れた時、機械から出る光が周囲を黄金に染め上げる。
その瞬間に、翔一の体が変わった。
黒のアンダースーツの上に、黄金の鎧が装着されている。
頭部は同じく黄金の2本の角を冠し。
深紅の二つの複眼が、一際激しく輝いた。
目を見開く怪物。
翔一が身に纏うオーラが、怪物を圧倒する。
それでも怪物は翔一に襲い掛かる。
翔一はそれを最小限の動きでかわし、背中に拳を放つ。
またも降ってくる爪を受け止め、もう片方の手で突く。
それだけで怪物は、大きく吹き飛ばされる。
翔一の角が展開し、6本になる。
両手を水平に広げると、足元に龍の顔をかたどった紋章が現れる。
手を身体に引き寄せ、半身を下げ、腰を落とす。
紋章が翔一の脚に吸い込まれていく。
向かってくる怪物に対し、翔一は跳び上がった。
空中で体勢を変え、右足を突き出す。
「はっ!」
そして初めて、声を上げる。
キックは怪物の胸に命中し、怪物は後ろへ吹き飛ばされる。
着地した翔一は、そのままの構えで残身を取る。
立ち上がった怪物は、しかしもがき苦しみ、そして爆発した。
爆発の後には、怪物がいた痕跡もない。
それに興味を持つこともなく、翔一はその場を立ち去った。
気が付くと、アパートの扉の前に立っていた。
表札には岡村と書かれている。
さっきまで路地裏にいたはずなのに、いつ帰って来たんだ。
というか、あの怪物は?
違和感を感じて手を見ると、あの機械が握られている。
あの少女から渡された機械。その黒い輝きに、瞳が吸い込まれる。
俺の姿が変わった。
そして怪物を蹂躙し、蹴りを放つ。
怪物が爆散する。
「っ!」
後退る。
思わず機械を落としてしまう。
何だ、今のヴィジョンは。
俺がやったのか?
あまりにも鮮明で、そうとしか思えない。
この機械を持っていてはいけない。
理性がそう主張する。
しかし、これは持っておかなければならない。
本能が囁く。
僅かな葛藤が生まれるが、すぐに理性は本能に駆逐された。
機械を手に取る。
俺はこれを昔持っていた。
これを持っていれば、俺の過去に繋がる気がする。
だから、持っておかなければならない。
例えその結果どうなろうとしても。
扉を開け、部屋に戻った。