コーヒーの匂いで目が覚めた。
所長がカップにコーヒーを注いでいる。ドリップに時間をかけるタイプではないが、豆は彼女がこだわって選んだものだと聞かされた。
俺が起きたのに気が付いて笑いかけてくる。
「おはよう、涼」
カップを差し出してくる。いつの間にかこの部屋には俺専用のカップが置かれていた。
「おはようございます、所長」
「やだもう、今くらい
カップの持ち手を握る腕に力が入る。もう少しで割ってしまいそうだった。
「すみませんそれは……」
「そう、残念。そういう所お堅いわね」
そう言っている割には全く残念そうに見えない。寧ろにやついている。
わざと言っているのだ。
いつも思う。
何でこの女が里沙と同じ名前なのか。
もし違っていたら名前くらいいくらでも呼んでやった。
でもこれだけは、リサという音をこの女に向かって口にすることだけはどうしても嫌だ。
この女もそれが分かっていて言っているのだ。本当にたちが悪い。
「今日も寒いわね。一緒にシャワーでも浴びましょうか」
「いえ、遠慮しておきます」
この女の気分次第で朝からもう一度という事になりかねない。今日一日を最悪の気分で過ごす羽目になる。
「つれないのね。まあいいわ。先に浴びるから待ってて」
所長は部屋に備え付けられたシャワールームへと入っていく。
カップに目を落とす。
コーヒーに映った自分の顔は20代の頃のもので若々しいはずなのに、もうすぐ死ぬ奴みたいな顔をしている。
口に含むと、とても苦かった。
怪物がいる。
怪物が手をかざすと風が吹き荒れ、立っていられなくなる。
気が付いて後ろを見ると、穴の様なものがあった。
自分を待っている。底が見えない。
次の瞬間には落ちている。
ビルが連なる街を見下ろしている。
だが景色を楽しむ余裕なんてない。
避けられない死が目前まで迫っているのに、どうすることもできない。
ただ落ちるだけ。
段々地面が近くなる。
そして自分の体が崩れた。
夢から醒める。
自分の体は変わらず自室にあるのに、まだ体が浮いた様な感覚がある。
今日のヴィジョンはまだましな方だ。
もっとひどい死に方の時もある。こんな機能、本当に要らなかった。
こんな事を考えている場合じゃない。
自室を出て研究室に向かい、自動ドアが開くのを待つ。
「出現しました」
「流石ね。こちらもさっき反応を拾ったわ」
ディスプレイにこの街の地図が表示されており、その中の一点が赤く点滅している。
所長がパソコンに繋がれていた金のベルトを取り、俺に手渡す。
「葦原涼、アンノウン討伐のために出動を要請します」
アンノウンか。何がアンノウンだ。
全部知っているくせに。
「了解」
バイクを走らせ、反応があった地点に辿り着く。
気配はないが、直感の様なものでここだと感知できている。
ベルトに手を伸ばそうとした時、風が吹き抜けた。
振り返った時には、既に突風が俺の体を押しつぶさんと迫っていた。
風の向こう側に怪物が見える。蛇の様な頭をした青の異形。獲物が罠にかかったとせせら笑っている。
後ろを見ると穴があった。そのまま引きずり込まれていく。
前にもこのタイプに遭遇した事はある。恐れなんて微塵もない。
トンネルをくぐる時もどこか他人事の様に感じていた。
空に出る。
風切り音が聴覚を狂わせる。
俺が落ちるであろう地点は、建造中のビルとビルの隙間。
散々いじられたこの体であっても、何かの間違いがあったとしても確実に助からない。
ああ、このまま。
このまま落ちてしまえば、どれほど楽だろうか。
天国も地獄もそんなものは存在しなくても、ただ虚無になるだけだとしても、今よりましだと思えてしまう。
でも無理だ。
懐を探り、
こんな俺でも、守りたいものがまだある。
だからまだ死ねない。
ベルトを腰に押し当てると、帯が出て体に巻き付く。
今からやる事で、俺の体はぼろぼろになる。
それがどうした、と言う事もできる。
でもそれなりに覚悟は必要なのだ。
顔の前で手をクロスさせて力を込め、引く。
「変身!」
ベルトから光が溢れ、全身の細胞が蠢いて形を変えていく。
全身を食い破る様にして露わになった硬い甲殻に覆われ、筋肉が膨張する。
地面が間近に迫る頃には、既に変態を終えていた。
着地の衝撃でアスファルトが陥没する。勿論俺には傷一つない。
立ち上がると、怪物が驚いた様子で俺を見ていた。
研究員の男が目を見張る。
「これがアギト……」
「正確には違うわ」
深海理沙が否定する。
「様々なテストを行うために創られた最初の一体。他に同じタイプはいない、唯一のもの」
その表情は興奮を通り越して、陶酔している様に見える。
ディスプレイには『それ』に取り付けられたカメラから送られる映像が映し出されている。
画面の端の方、ビルの壁面に、どこか有機的な翠の鎧を纏った戦士が写り込んでいる。
「アギトプロトタイプ……でも私は別の名前で呼んでいるわ」
「それは、何と?」
深海理沙の口角が吊り上がる。
「
怪物が爪を振り上げる。
ギルスはそれを防ぎ、回し蹴りを放つ。
後退った怪物が力を込めると、体内から杖の様なものが出て来る。
怪物が杖で突く。
それもいなしたギルスは、杖を掴んで力任せに振るい、怪物を転倒させた。
そのまま踏みつけようとした時、後ろから赤い鞭が背中を打つ。
ギルスが振り返ると、頭に多数の蛇を生やした赤い怪物がにやりと笑った。
再び鞭が振るわれる。ギルスはそれを掴み、怪物を引き寄せて拳を打ち込む。
背後から杖が迫るのを、赤い怪物を盾にして防ぐ。
数で有利を取ったはずなのに、怪物たちが押されている。
ギルスが力を込めると、右の手首から金の鋭い爪が伸びる。
ギルスが爪を振るい、青い怪物の腹を裂く。
赤い怪物が掴みかかるが、ギルスが振り向き様に爪で頭部に生えた蛇を切り落とす。
赤い怪物が手をかざして風を吹かせる。
砂埃が収まった時には、赤い怪物の姿は消えていた。
青い怪物は傷ついてなお、ギルスに攻撃する。
迫る杖を避けたギルスがカウンターでパンチを怪物の頭に連続して命中させる。
ギルスが蹴りを放つと、怪物が大きく吹き飛ばされた。
駆け寄ったギルスが爪で怪物の杖を真っ二つにする。
何度も踏みつけ、立ち上がらせて膝蹴りを胴体に打ち込み、投げ飛ばす。
「ウオアアアアアアッ!」
ギルスが吠える。再び力を込めると、ギルスの踵から爪が生えた。
ギルスが跳躍する。右脚を抱え、上空から踵を振り下ろす。
爪が怪物に突き刺さる。
左脚で怪物の胸を蹴ると同時に爪を引き抜き、大きく宙返りをし着地する。
怪物が崩れ落ち、爆発した。
それを眺めたギルスは、直感に従ってまた動く。
バイクに跨ると、鎧の一部が蠢いてバイクに纏わりつき、その形を変化させた。
けたたましい音を立て、バイクは走り出した。
赤い怪物は走っていた。
高架下の暗いトンネルを、向こうに見える光に向かってひたすらに走る。
だが何かおかしい。
光が段々大きくなってくる。
それに音だ。身体に響くような音が迫って来ている。
その正体はバイクだった。
ヘッドライトを点けた黄金のバイクが、同じく黄金の鎧を纏った何者かを乗せて走っている。
怪物が避ける間もなく、バイクが怪物に体当たりする。
吹き飛ばされた怪物が顔を上げると、バイクから黄金の戦士が降りてこちらに迫って来る所だった。
怪物は鞭を振るう。
アギトがそれを腕で防ごうとすると、鞭が腕に巻き付く。
腕を引っ張られたアギトが体勢を崩すと、怪物の爪が襲い掛かった。
アギトはそれを避けて鞭を手繰り寄せ、怪物の首を掴んで壁に押さえつける。
拳を叩き込み、大きく振りかぶった一撃で怪物を吹き飛ばす。
なおも襲い掛かって来る鞭に、アギトが攻めあぐねる。
怪物が息を整えようとしたその時、アギトがベルトの左側を叩く。
ベルトの中心から青の光と共に、青の薙刀が出現し、アギトがそれを引き抜く。
アギトの姿が揺らめくと、鎧が黄金から青に変わった。
アギトが薙刀を振るうと、風が吹き荒れる。
怪物も同様に風を起こすが、徐々に押され始める。
怪物は動けない。アギトが薙刀を構え、そして。
「はあっ!」
一瞬の内に距離を詰め、怪物を切り裂いた。
背後で怪物が爆発したのを意にも介さず、薙刀を消したアギトがバイクに跨る。
黄金のバイクは、暗いトンネルの中を駆け抜けていった。
「あれがアギトか」
思わず声が漏れる。
実際に見たのは初めてだ。
実戦投入されたと言う話は聞かないが、恐らくは今後、あれがG3に代わって警察の主力になっていくのだろう。
そうなれば、俺の戦いもなくなっていくのだろうか。
そうなれば、俺は死ねるのだろうか。
「うっ……」
全身に痛みが走る。
ふと見た両手が、急激に精気を失って干からびていく。
いつもの後遺症だ。
これを治療せずに連続して変身すると、最終的には死が訪れる。
いつかはそうなってしまっても良い。
必要とされず、見捨てられたのなら、今の地獄からも解放される。
だがそれは今じゃない。
まだ死ぬ事は許されない。
里沙を守るために。真由美を守るために。
それが夫であり父である俺の責務だ。
震える手でエンジンをふかし、暗闇に向かってバイクを走らせた。