森の木々が、幽玄的な朝靄のヴェールにしっとりと包まれる———— ギルドメイン大陸の中でも温暖なランカークス地方においては、100年に一度の厳冬期にしか観られない稀有な自然現象である。鳥のさえずりが木立の間で微かに反響し合う中、獣たちは茂みの穴倉で冬の終わりを待つように深く眠り続けている。
その白く霞む静寂の世界を、水瓶を積んだ荷籠を背負った少年が、渓流に向かって足を進めていた。この朝出来たばかりの霜柱を一歩一歩踏み潰すたびに、ブーツの裏から冷たさがしみる。森で暮らす少年バランにとって、夜が明けきらない頃に最も不純物の少ない清まった湧水を汲むことは、日々の日課のひとつであった。
このランカークスの森は野生の
水の湧き出す
バランは背負っていた荷籠を下ろすと、水瓶に八分目ほど水を入れた。こぼれぬように木栓をして籠に収めたのち、少年自身も湧き出したばかりの清水を両手ですくって飲んだ。澄みきった水の冷たさが体の芯まで染みとおっていくのを感じながら、バランはふと昨日のことを回顧した。
壊された物置棚の残骸に血で刻まれた、あの魔族文字について言及されたロンは、自分の問いを無視してこの森の奥深くへ入っていった。あれがもし、魔界からロンへ向けた通信文であったとしたら————ロンは魔界からの使者である可能性が高く、村に危害を加える存在かもしれない————
疑いの心が、少年の胸の内に
バランは、己の葛藤を祓うがごとく、川の水で顔を何度も洗った。
ロンが指摘した通り、この不安定で激しい感情こそが、自分の致命的な欠点なのだ。そのロンに対し警戒心を抱きながらも、彼から剣術を学ばなくてはならない。それには、どこか試練めいた難しさを感じるバランであった。
いったいどうしたら、竜のように獰猛なこの「心」というものを律することができるようになるのだろうか…………
森の奥の渓流から自分の小屋へと戻ってきたバランは、小屋の外の脇に立て掛けた物置棚の残骸をもう一度確認することにした。魔族文字は自分には解読できないにせよ、その造形を少しでも記憶にとどめておくことで、今後もしかしたら何かの役に立つかも知れないと思ったのだ。
ところが————バランが棚に近寄ってよく見ると、魔族文字の刻まれた部分だけが黒ずんでいることに気がついた。火で燃やされたのであろうか。積雪の湿気によって棚板自体は燃えていないが、表面の文字は黒く炭化して読めなくなっている。そういえば、昨夜自分が暖炉の前で麦を挽いていたとき、星を見ると言ってロンが小屋の外に出ていった。あれは、おそらく彼自身の手で証拠を抹消するためだったのだ………
魔族の男・ロンの謎を解明する鍵となるものが、なくなってしまった。これでもう、真相は闇の中である————バランは怒りとも嘆きともつかない、やるせない想いで拳を握りしめた。
この日の森小屋における朝餉の時間は、いつもに増して無味乾燥であった。木の実を鋭い歯牙で咀嚼しながら、ロンはどことなく少年の表情が固いことに気がついていた。自分と目を合わそうともしない。それはおそらく、自分が昨夜のうちに物置棚の魔族文字を焼き消してしまったことが原因だろうと何となく分かったのだが、ロンはそれを表には出さず、黙々とした態度を貫いた。
バランとロンがそうして無言のまま皿の上の食べ物を各々消化している時、二人の耳に小屋の扉を叩く音が聞こえた。
食事を中断して立ち上がったバランが入口の扉を開けると、そこにはシェーラが大きな包みを持って立っていた。早朝の、しかも食事中の訪問を軽く詫びたのち、バランによって小屋の中に迎え入れられたシェーラは、暖炉のそばで自らが持ってきた荷物の包みをほどいてその中身を取り出した。丈の長い衣服のようにも見えるそれは、旅人用のマントであった。
「ロン、昨日は森を散策されて、さぞ体が冷えたと思います。今後、外へ出るときはこれを羽織ると良いでしょう」
ロンが魔界から旅立つ時に身につけていたマントは、ベンガーナ城に投獄された時に旅の荷物とともに没収され、その日のうちに廃棄されてしまっていた。にもかかわらず、昨日は防寒着のないままに森の中へ入ってしまったので、風邪をひいていないか気になっていた————と彼女は言葉を添えた。
ベンガーナ市場で入手したと思しきそのマントは、ロンの長身の体躯に合った丈で仕立てられ、適度な厚みと光沢もあり、寒さを凌ぐ役割は十二分に果たしそうな品質の高さを感じさせた。
「そして、これもあなたにお渡ししておきます」
その言葉とともに女神官の手によってテーブルの上に置かれたのは、一見羽筆のようにも見える、鳥類の翼を根元で束ねて彫金装飾を施したもの————キメラの翼であった。
「昨夜宮廷で噂を耳にしたのですが、魔族狩りを目的にこのベンガーナに入国している冒険者が増えているそうです。もしかしたら、このランカークス村まで探索が及ぶのも時間の問題かもしれません。ロン、あなたは瞬間移動魔法【ルーラ】が使えますか?」
「…俺には魔法の心得はない」
「では、いざというときにはこの翼を使って魔界に戻られるがよろしいでしょう」
その言葉に、ロンとバランは意表を突かれた形で絶句した。ロンにはこの小屋にとどまってもらうことを、シェーラは望んでいる————二人とも、そう思っていたのだ。
目の前の二人の唖然とした表情を見やりつつ、シェーラは言葉を続けた。
「————私としては、ロンにはバランに剣術を指導していただくことを望んでいました。でも、あなたが生きる権利というものも当然守られなくてはいけません」
ロンは怪訝な表情で女神官を見据えている。
「…俺がもし魔界へ戻ったら、バランの剣術の師はどうするんだ」
「それはまた、そのときに考えます」
静かに目を閉じて答えたシェーラの態度は、ロンを猜疑の深い沼へと静かに招き入れることとなった。
この人物は、相当手の込んだ策士か、あるいはとんでもない阿呆なのか————昨日、あの通信魔法による魔族文字が送られてきたのを見て、自分は魔界から来た悪の手先とみなされてもおかしくないはずだ。それにもかかわらず、このような「逃げ道」を相手に用意するとは————
ロンは自分の目の前に置かれたキメラの翼を手に取った。帰巣本能の強い
バランから鋭い目線が自分に向けられているのを感じながら、ロンは「配慮に感謝する」とだけ答え、キメラの翼を自らの懐に収めた。
用件を済ませたシェーラは立ち去り際に、バランの胸元に下げられている
「その
少年に微笑んでそう言い残すと、シェーラは瞬間移動魔法でギネの神殿へと戻って行った。
その場に残された男二人の間に再び気まずい空気が流れたが、少年は無言で椅子から立ち上がって食器の片付けを始めた。そして同居人と視線を合わさないままに、食器洗いと洗濯をするために近くの小川へと出かけていった。
一人になったロンは、小屋の窓辺に寄りかかり、先程シェーラから受けとったキメラの翼を懐から取り出した。朝日の光に翼を透かしてみると、風切羽の細かな斑模様が神秘的な色彩を帯びて煌めいた。
落雷によって事故死したキメラの両翼から採取した羽根でなければ魔法効果を保持できないと言われている希少な
これを使えば、再び魔界に戻ることはできる————しかしその選択は、自分の未来にとって果たして意味のあることなのだろうか。魔界では、破壊神アゴーラを信仰する輩どもから、そして人間界では賞金稼ぎ達から命を狙われ————どちらの世界にせよ、「追われる身」であることは変わりない。
自分はつくづく数奇な運命に飲まれたものだ、とロンは心のなかで一つ深いため息をついた。
川での洗い物を終えて小屋に戻ってきたバランは、食器を棚に収めながらロンに言葉をかけた。
「もし、魔族狩りがこの小屋までやって来たら————ロンは魔界へ戻るのか」
食事の時と同様、自分と目を合わせようとしない少年に対し、ロンはロンでそっけない態度を貫く。
「…さあな。その時になってみなければわからん。シェーラはキメラの翼を俺に与えたが、使うかどうかは俺次第ということらしい」
その返答を聞いたバランは少しの間沈黙した。そして彼自身の中で何か一つの結論を導き出したかのように、少年はロンの前に歩み寄って口を開いた。
「彼女の言うとおり、いざという時はそれを使って魔界へ戻ればいい。だが、せっかく二人でここまで作りあげた火炉だ。状況が許すかぎり、この作業を進めないか。俺は、物事が中途半端になるのは好きじゃない」
バランには、ロンが信用できる男なのかどうかまだ分からない。同居人への疑いを心の隅におきながら共に生活してきたこの数日間は、少年にとって決して安らぎのある日々ではなかった。
しかし、先日アルトガの傭兵たちと喧嘩騒ぎを起こしたとき、己の理性が制御できなくなるような激しい感情が浮上したことで、この魔族の男からは「冷静な心のあり方」を教わらなければならないような気がする————そんな複雑な想いが、少しばかりロンを繋ぎ止める言葉となって、少年の口から紡がれた。
そんなバランの様子を見て、ロンは相手の心の内に何か変化が起き始めていることに気づいた。自分に向けて強い警戒の目を向けていたこの少年が————自分から剣を教わりたいという気持ちが、次第に育ってきているのだろうか………
そして二人は、この日の築炉作業について打ち合わせを始めた。
壁面と火炉の煉瓦積みについては目処がついてきており、あとは作業中の熱を小屋の外へ逃がすための換気口を設置して排熱フードを取り付ければ、おおかた完成である。ただ、この排熱フードについては、さすがのバランでも自らの手で作ることは難しく、村の金物屋に依頼する必要があると感じた。
ロンを一人小屋に置いておくことに多少の不安があったものの、かといって彼を四六時中見張っていては、どこにも出かけられない。同居人には換気口の開通作業をやってもらうことを依頼し、バランは防寒マントを羽織って小屋から村へと向かった。
降雪こそないが、この日も手先がかじかむ冷え込みである。吐く息が今にも結晶化していきそうなほどだ。村へ続く細い山道を下りていきながら、バランは再び、心の中で思考を巡らせていた。
<なぜ、シェーラはロンにキメラの翼を渡したのだろうか————>
キメラの翼は、この地上で絶滅寸前といわれている流派の呪術師が集う辺境の村で、長老の手によって1つ1つ秘術を施しながら作られると聞いたことがある。その材料も、落雷に打たれて事故死したキメラから採取した羽でなければならないといわれており、大変希少なものだ。実際、ベンガーナ城下町の市場でもかなりの高額で取引されている。
シェーラがロンに与えたマントにしても、この界隈の村人が所持しているものと比べて、格段に品質の高さを感じるものだった。さらに数日前には、パプニカ製の防寒肌着をロンのために購入している。これらはおそらくシェーラにとって、かなりの金銭的負担であったことは間違いない。
「客人は最大の礼節を持ってもてなす」————ランカークス村の慣習に従って、彼女が利他愛の精神でロンに接しようとしているのは分かる。だが、もしロンが魔界からの工作員であったとしたら、人間の敵である悪しき存在に手助けをするようなものではないのか………
彼女の考えが理解できないと思ったバランだったが、それでも今は、自分をここまで育ててくれた人物をただ信じるしかない。胸の内に沸き起こる葛藤を追い出すように自らの頬を両掌で叩き、少年は村へ続く山道を更に下っていった。
バランが村の入り口に辿り着くと、ベンガーナ城から派遣された番兵が門の脇に立っていた。数日前より、国王からの勅令によって、魔族から村を守るために昼夜を問わず警備に当たっているらしいが、寝不足からか眠そうにあくびをしている。バランの姿に気づいて、はっと姿勢を改めた番兵は、相手が魔族でも不審者でもなく村人であることを確認すると、少年をすんなりと通した。
バランが村の大通りを歩いていくと、裏道の影で村人たちが不安そうな表情でひそひそと噂話をして、そそくさと家の中へ戻っていくのが見えた。その様子が少し気になったバランだったが、まずは自らの目的である村の金物屋に入ることにした。
ランカークス村で、扉の取っ手や
商談を終えたところで、店主は暖炉で温めていた野草茶を木椀に二人分注ぎながら、カウンター越しに座る顧客の少年に何気なく世間話を始めた。
「そういえば、お前さんは今年、成人になるんだったな」
火炉設計について思いを巡らせていたバランは、その店主の言葉によってふと我に返った。自分の年齢をあまり気にしたことはなかったが、そう言われてみれば今年で確か15歳になるのだった。
「今年成人を迎えるのは、バランと、エール醸造屋の娘リラ、あと靴屋の
店主の言葉に、バランはこの村がいつのまにか過疎の方向へ進んでいるという現実に気づかされた。確かに自分がまだ教会の孤児院にいた頃は、もっと村の中に活気があった気がしたが、ここ数年非常に穏やかで閑静な雰囲気になっているのは、そういう事情があったのだ————しかしそれはそれで、バランにとって不快な変化ではなかった。
「わしの娘は、数年前にベンガーナ城下町に出稼ぎに行って、そこで知り合った宝石商の男と結婚した。それ以来、滅多にランカークスに帰って来ることはない。こんな田舎村より、若い者は都の華やかさへ憧れるもんだ。バランだって、城下町の方が魅力的だろう?」
「俺は、都には興味ない。確かに賑やかで活気があるけど、なんだか落ち着かない————俺はこの村の方がいい」
店主を慰めるような形でそう呟いたバランだったが、実際、それは彼の正直な気持ちだった。ランカークスの村は自分の故郷であり、唯一の居場所なのだ。村の人たちがこうして優しく自分のことを受け入れてくれる限り、どこにも行くつもりはない………
「みんな最初はそう言うのさ、慣れたこの村がいいって。だが、一度都の煌びやかで刺激的な生活を経験すると、人間というやつはあっさり自分の故郷を忘れちまうもんでなぁ」
「————俺はランカークスのバランだ。これからもずっと」
野草茶をすする店主は、さあどうかね、と軽く笑いながらバランを店の奥の部屋へと招いた。
そこでは、店主の妻が、成人の儀の会場に飾られる建造物「天地の塔」を構成する部品——ウィステリアの枝で編んだ大きな輪——を制作している最中であった。
「天地の塔」は、天と大地の融合を意味する立体装飾で、このランカークス村の成人の儀には欠かせないものである。毎年成人を祝福する度に作り変えられ、儀式から遡って半年ほど前から、村の女達による分担制作が始まる。当日は、村の中央広場にこのウィステリアの枝で編んだ輪を塔状に積み重ねるように草花とともに色とりどりに飾り付けられ、儀式が終わると村人達によって火を放って燃やされる。そして、その焚き火で丸焼きにした家畜の肉を成人を迎えた男女が切り分けて、村人全員に振舞って食べるという習わしだ。
妻は加齢による白内障で目が見えにくくなっており、作業に支障が出ているので回復魔法を施してほしい、との店主の依頼に、バランは老女の両目に手をかざして回復魔法【ホイミ】を施した。
緑色の光を右手から放ちながら、バランは思った。ベンガーナ城下町のように華やかでなくとも、この村の素朴で静閑な空気と、人々の温かさが自分は好きだ。たとえ他の若者が見切りをつけてこの村を出ていこうとも、自分はこのランカークスで、一日一日を大切に生きる人たちを守っていきたい————
金物屋を後にしたバランが、森小屋へ帰るため、裏通りを抜けて村の出口へ戻っていこうとしたその時、傭兵らしき装備をした人間がちらほら村の通りを闊歩しているのが視界の遠くに映った。身なりから察するに、彼らはアルトガ傭兵街から来たに違いない。先ほど、村人がひそひそ耳打ちをして家に引きこもっていったのは、おそらくこれが原因だったのだろう。
そしてその男たちを見て、バランは思い出した。数日前、自分はアルトガから来た傭兵数人を殴り飛ばした。まさか、その仕返しに来たのだろうか————胸の鼓動が少しずつ激しくなっていくのを感じつつ、村の中心広場で何やら人が集まっている気配を察知したバランは、そこへ向かうことにした。
村の広場の中央では、傭兵たちの長とみられる大柄の男と、その部下の数人が花壇の上に立ち、そして彼らを遠巻きに見るように、数十人ほどの村人たちによって人垣が出来ていた。顔に刺青を入れ、鎧と剣を装備した荒々しい身なりの男たちが次々に村に入ってきたことで、人々は不安と警戒心をあらわにしている。
花壇の一段高いところから威圧的な表情で村人たちを見下ろしている代表格の男は、宝玉が施された額飾りと、マント留めのブローチの精巧な細工、両手のすべての指にはめられた指輪から、金目のものに対する鍾愛ぶりを感じさせる出で立ちであった。彼は、自らの存在感を主張するように高らかな声で村人たちに告げた。
「俺は傭兵街アルトガの頭領デルトンだ。うちの傭兵が数人、この村で魔族によって殺されたらしいと聞いて、真相のほどを確かめに来た。犯人である魔族がまだここに潜んでいるかも知れんからな。しばらくこの村をくまなく探索させてもらう」
その言葉に、村人たちの顔は一様に青ざめた。魔族が村に潜んでいる可能性も確かに否定できないが、柄の悪い傭兵たちが村に立ち入ることの方が、村人にとってははるかに不安なのだ。
人垣の外から、拳を握りしめつつ様子を見守るバランだったが、その少年の肩に手を置く者がいた。警戒心とともにバランが振り返ると、その手の主は彼にとって馴染み深い武器屋の主人・ジャンクだった。ジャンクは両目の視線を頭領デルトンに注ぎ、彼を鋭く睨みつけつつも、バランの肩を掴む手に力を込めていた。
先日、ジャンクはバランが傭兵たちを一網打尽にする現場を目撃していた。今ここで再びバランが騒ぎを起こしたら、もはや収集がつかなくなるだろう————この場においては、何が何でもこの少年を抑えておかなくてはならない。
そんな二人の様子をよそに、広場の中央では頭領デルトンが村人への宣告を続けている。
「安心しろ、俺たちが必ず魔族を見つけ出してやる。そうすりゃこの村の治安も良くなるし、我々の仇打ちもできるし、宮廷から懸賞金ももらえる。みんなが幸せになれるってわけだ」
その言葉を聞いて、ジャンクは歯ぎしりした。見るからに荒くれたこの連中によって、この村に安らぎと平和がもたらされるとは到底思えなかった。ジャンクが抗議に乗り出そうとした瞬間————少年の声がその広場の張り詰めた空気を切り裂いた。
「ここに魔族などいない。村から出て行ってくれ」
ジャンクの手を振り切ったバランは、人垣をすり抜けて広場の前へ出ると、デルトンの立っている花壇のもとに近づいた。そして傭兵の長を下からまっすぐに睨んで言葉を続けた。
「アルトガの傭兵たちを倒したのは魔族じゃない、俺だ。ただ、奴らがこの村を侮辱するような物言いをしたからこらしめただけで、殺すつもりはなかった」
「おい、バラン!やめろ!」
ジャンクはあわてて少年の元へ駆け寄って制止したが、覚悟を決めたバランの抑制力にはならなかった。アルトガの頭領は花壇から降り、自分の目の前に歩み出た少年を間近で一瞥すると、豪快に笑った。
「馬鹿を言え。俺の仲間たちは皆、元ベンガーナ戦士団だ。おまえのような小僧にうちの連中が倒せるわけがない」
アルトガ傭兵街の頭領デルトンは、かつてベンガーナ戦士団長だった。日頃から素行の悪い男として知られ、宮廷の文官を巻き込んで賭博で一儲けしたり、侍女に痴漢行為をはたらくことも日常茶飯事で、大砲導入による軍の再編成の際にまっさきに人員削減の対象となった人物である————が、その剣の実力は確かであり、熟練の戦士だった。それゆえに、デルトンにも、バランの鋭い目線から普通の少年とは違う並ならぬ気迫のようなものを、そのとき確かに感じられたのだった。
「ふん、小僧の言ってることが本当かどうかはともかく、俺たちは被害者なんだ。仲間を殺された悲しみをどう埋めてくれるっていうんだ?」
「誰がどう見ても、仲間の仇討ちといったものには無縁そうに思えるがな、お前さんらは」
ジャンクは村の自警団長を務める者としての責任感から、頭領への抗議の意を言葉の槍にして突き刺した。そのジャンクの皮肉を気にするでもなくデルトンは、しかし、ここで一つの条件をバランに示した。
「わかった。もしお前が本当に俺の仲間を倒したというのなら、弔慰金として明日までに500万ゴールドを用意して俺たちの街へもってこい。そうすれば、お望みどおり完全撤退してやる。この村に二度と姿を現わさないと約束しよう」
デルトンは、いかさま賭博を好む人種に特有の、蛇のように細長く邪知深い目でにやりとした笑みを作った。
それをバランの横で見ていたジャンクは舌打ちした。どちらにしても、この男はがめつく金だけは根こそぎ搾り取っていく魂胆だ。だが、少年はデルトンの駆け引きには微塵も動じなかった。
「それだけの金を払えば、本当に村から出て行ってくれるんだな」
バランは、頭領に念を押して確かめるように言った。
「バラン、そんな金がいったいどこにあるんだ?!ばかなことはやめろ!城下町の富豪でもそんな大金は一度に集められないぞ」
ジャンクはバランを制止しようとしたが、当人のバランは眉ひとつ動かさず、至極落ち着いていた。まるで何か一つの策があるかのように————
一方その頃、テラン国境近くの小高い丘にあるギネの神殿では、数十人の神官たちが聖堂に集まっていた。この日の朝、女神ギネを油彩によって描いた作品——祭壇に飾られる予定の絵画を、画家自らが納品しに訪れたのである。
ジャンクの妻・スティーヌは、ランカークス村で夫の武器屋を手伝う傍ら、教会や神殿に宗教画を描いて寄付する活動をしていた。数年前までは、宮廷画家としてベンガーナ城の美術絵画や王族の肖像画を手がけてきたこともあり、その芸術性の高さには国内外で定評があった。スティーヌが慣れた手つきで帆布を保護していた包みを紐解き、その作品の全貌が露わになると、神官たちの口々からため息が漏れた。
写実的な光と陰影、色彩温度の感じられる柔らかな風合いと瑞々しさを含み、無数の天使たちに寄り添われた女神ギネが、左手に光の盃を掲げ、輝く右手を地上に向けて差し伸べている————
1年の制作期間を経て完成したその宗教画は、スティーヌの会心作であった。昼間は村仕事や武器屋の店番をこなしながら、夜の限られた時間だけを作業にあて、蝋燭のかぼそい灯りを頼りに筆を進めてきた。神官たちからの絶賛の言葉を聞き、スティーヌは自分の努力が報われたことに心から安堵した。生活時間を切り詰めながらやってきた甲斐が十分にあった………
そして今回の絵画制作を依頼したシェーラも、他の神官たち同様に感無量であった。この厳冬期で少なからず心身を消耗していた地上の人間たちの心に、この絵画は一筋の希望の光を宿すことだろう————そう確信した。
絵画が神官見習い達によって祭壇の壁に設置されるのを見届けた後、シェーラはスティーヌを神殿内の応接間に招き、深々と礼を述べた。
「スティーヌの絵画は本当に芸術の域を超えていますね。あなたにお願いして本当によかった…このような素晴らしい作品に金銭で価値をつけることなど到底できませんが————これは私たちからのほんの気持ちとして、お受け取りください」
女神官から報酬の入った包みをテーブルの上に差し出されたスティーヌは、受け取りを静かに辞退した。
「…シェーラさんには、数年前に宮廷を追い出されて困窮していた私たち夫婦を助けて頂いたご恩があります。今回の作品は、そのお礼とさせてください」
ジャンクが軍務大臣に殴りかかったことで、夫婦共々城から永久追放された数年前の出来事は、ベンガーナ宮廷史に残る不祥事となった。それはシェーラにとっても胸の痛い記憶であったが、しかし、城下町で経済的に豊かな生活をしていた頃より、今の彼らはずっと幸せそうに見える。
真に心を満たすものは、お金や物質ではない————ランカークス村の素朴で質素な暮らしは、そんなことを彼らに教えてくれたように、シェーラは感じた。
シェーラがふと、最近のランカークス村の様子について問うと、スティーヌは急に表情を曇らせた。
「実は…今朝からアルトガの傭兵たちが村へやってきて、通りをうろついているみたいで…私はなんとか彼らに気付かれぬよう裏道から村の外へ出ましたが…戻るのが怖いですわ」
それを聞いたシェーラは、スティーヌを村へと送るがてら、自らも村の状況を確認しに行くことにした。
シェーラの発動した瞬間移動魔法によって、シェーラとスティーヌの二人はジャンクの武器屋の中に降り立った。
まずは傭兵たちに見つからぬよう、スティーヌを安全な店の中へ避難させ、ジャンクと合流させれば彼女も安心するであろうとシェーラは思ったのだが、店番をしているはずのジャンクの姿がそこにはなかった。
村の自警団の代表であるジャンクは、もしかしたら外で傭兵たちと対峙しているのかも知れない————そう憶測しながらシェーラが窓の外を見ると、傭兵と思しき男たちが村の通りを歩いている様子が伺えた。そして無作為に店や家屋に立ち入ったかと思うと、住人の怯えたような悲鳴が外まで響き、シェーラのいる武器屋の中にまで聞こえてきた。
これはまるで村への恐喝行為だ、とシェーラが眉をひそめた瞬間、自分たちのいる武器屋の扉が勢いよく開け放たれた。そして店の入り口から、一人の傭兵の男が姿を現した。
顔の頬から顎にかけて入れ墨のあるその男は、マントの上からでも分かる隆々とした筋肉と、どす黒い肌の持ち主だった。それは日焼けというより薬物摂取によって血行が悪くなったことによるものと思われ、およそ全うな人生を送ってきた者ではないことだけは明らかだった。
「魔族がこの中にいるかどうか、店内を探させてもらう」
理性を魔物に売り渡したかのような目つきと、その粗野な立ち居振舞い、まるで略奪か搾取を目的としているかのような脅迫じみた物言いに、スティーヌが声にならない悲鳴を上げた。
シェーラは、スティーヌを店の奥のカウンターの下に隠れるように促すと、男の前に一人歩み寄った。
「ここに魔族はいません。そのような物々しい格好で村に立ち入っては、いたずらに人々の不安を煽るだけです。どうぞお帰りください」
毅然とした態度で言い放つ神官を目にした男は、下卑た笑いを浮かべながらシェーラに近寄った。
「へぇ、ギネの神官どもの中に結構な美人がいると聞いていたが、あんたのことか。なんなら俺たちの夜の相手になってくれてもいいぜ。可愛がってやるよ…」
男の手がシェーラの肩に触れようとした瞬間、彼女は店の商品として陳列されていた長槍を手で掴んだ。そして、槍をひと振り回すや、その重みと遠心力を生かして柄で男の足を払った。
男が体勢を崩して仰向けに倒れこんだところを、シェーラは素早く柄頭を相手の喉元に鋭く突きつけた。
「荒くれ者よ、この場から立ち去りなさい。今すぐに」
その流れるような身のこなしは、護身のために棒術を訓練している神官たちの日頃の成果であった。存外に手強い相手と知った男は起き上がるや、捨て台詞を吐いて店から退散していった。
騒ぎがおさまるまで外に出ないように、とスティーヌに告げたシェーラは武器屋の外に出た。なにやら大人数の騒ぎ声が聞こえて来る村の中央広場の方へ駆けていくと、そこには村人たちに混じってバランとジャンクの姿があった。
村長は、領主への税金納付と村の自治報告書の提出のため村を出払っているらしく、60代以上の年配者が人口の約半数を占めるランカークス村は、傭兵たちの姿にただ言葉を失い、怯えるしかないといった様子だった。
シェーラがバランとジャンクの前に姿を現わすと、アルトガの頭領デルトンは小さく口笛を吹いた。
「よう、あんたのことは昔俺が戦士団にいた頃に、城の中で何度か見かけたことがあるぜ。相変わらずいい女だな」
シェーラはそのデルトンの言葉には反応せず、そして毅然とした表情を崩すことなく相手を見据えた。
「あなたがたの仲間がこの村で亡くなられたことについてはお悔やみ申し上げます。ですが、ここに魔族はいません」
シェーラはそう言うと、自らの神官帽に装飾として付いている宝玉を手で取り外し、デルトンに差し出した。
「本来ならば村長がその権限によって申し渡すべきでしょうが、あいにく不在ですので————今日のところはこれでお引き取りください。ベンガーナ市場の骨董商に売れば、300万ゴールドはかたいでしょう」
バランはその光景を見て、はっとした。
まだ幼かった頃の自分の記憶が蘇る。シェーラに抱きかかえられた自分は、彼女の神官帽についている八面体の青い石が気になって、手で触れようとしたことがあった。するとシェーラはバランの小さな手を優しく払って、こう言ったのだ。
————これは、ギネの御言葉を賜るために神官帽に施された聖なる石。神に仕える立場であることを証明する大切なものです。この「至聖石」はあなたであっても、決してむやみに触れることは許されません————
バランはその思い出が再生されるとともに、胸の内が強く締め付けられるのを感じた。
アルトガの傭兵たちが死んだ原因を作った張本人は自分だ。それなのに、シェーラが自らの矜持を————神官たる証を手放す形で、村の混乱をおさめる事態になっている………
しかし、今ここで自分が下手な発言をしたら、状況は余計にややこしくなる予感がした。そうでなくても、自分の言動の数々は、今まで多くの騒動へと発展させてきたのだ……少年は、自分の無力さを恥じた。そして顔を俯かせ、デルトンに対する憤慨の念を押し殺しながら、ただ、両手の拳をきつく握り締め続けた。
「随分と話の分かる聖職者じゃねぇか。よし、こいつはありがたく頂いていく」
希少な、かつ金になりそうな骨董品を手にいれたデルトンは満足の笑みを浮かべると、腰から下げていた角笛を吹いた。低い周波の音が村一帯に響き渡った後、しばらくして村の隅々へ散っていた傭兵たちがぞろぞろと広場へと集まってきた。
突然の撤退命令を告げられた傭兵たちはいまひとつ納得していない様子ではあったものの、頭領が大きな収穫を得たことがわかると、至極あっさりと村から引き上げて行った。
小さく安堵のため息をついたシェーラは、幼馴染みの方を向いて言った。
「ジャンク、あなたとの約束は守ります。この村に危険が及ぶようなことがあれば、私が全ての責任を取る————彼らはいろいろ名目をつけてはいますが、結局のところ目的はお金です。それがはっきりしている以上、何も難しいことはありません」
ジャンクは苦々しい表情で幼馴染みの顔を見つめた。確かに彼女の言う通りではある。彼らの目的は金銭であり、それ以上でもそれ以下でもない。魔族からこの村を守るなど、白々しいほどの口実に違いなかった。
そもそも、アルトガはもとより、このベンガーナという国全体において、金がすべての決定権を支配する風潮がある。宮廷に仕えていた頃は、賄賂の噂を耳にしない日はなかったし、通行証をもたない闇商人や、他国から逃亡してきた指名手配犯も、門番にいくらかの
この村にも、戒厳令が出されて以降、城からの番兵が交代で村の入口で警備にあたっているが、彼らはおそらく頭領デルトンから金を握らされて、見てみぬふりをする形で彼らを通したに違いなかった。このベンガーナは、そのようなことが日常的にまかり通る国なのである。
そのことを一番苦々しく思っているのは、聖職者であり、かつ今もなお宮廷執務にあたっている彼女自身であろうに。軍務大臣との暴力沙汰でクビになったものの、腐敗した宮廷と縁が切れてせいせいしたと思っている自分に対し、彼女はあえてその環境にとどまり、一番損な役回りを自ら買って出ているのだ……
「村のみんな、傭兵たちは去りました。村長には、私から報告しておきます。どうか安心して普段の生活にお戻りください」
シェーラが広場の中央で宣言すると、村人たちは災難がひとまず去ったことに安堵し、各々の家へ帰って行った。そして広場には、ジャンクとバラン、シェーラの3人だけが残った。
「シェーラ…」
バランが心配そうに歩み寄って声をかけると、シェーラは手を伸ばして少年の口元を封じた。
「言ったはずですよ、バラン。あなたが気にすることなど何もないと————さあ、私たちも帰りましょう」
そして幼馴染みの方を振り向いて、シェーラは言った。
「ジャンク、明日村長が戻ったら私はもう一度ここへ来ます。後処理は私に任せてください」
ジャンクは、躊躇なく神官の証を捨てたシェーラに対し、何一つ言葉をかけることが出来なかった。確かに彼女は、数日前にギネの神殿の応接間で自分に向かって宣言した。「村に危険が及ぶときには自分が全ての責任をとる」と————
しかし、長年の付き合いによって相手の性格を熟知している自分でも、今回彼女がとった行動はあまりにも予想外で大胆なものであった。
中央広場から歩き去っていくシェーラとバランの後ろ姿を、ジャンクはただ一人呆然と立ち尽くすように見送ったのだった。
ジャンクが自宅を兼ねた武器屋に戻ると、スティーヌが今にも泣きそうな顔で自分の懐に飛び込んできた。傭兵たちによって店内を荒らされた形跡はなかったが、やはり怖かったのだろう。スティーヌの小さい肩を優しく抱きながら、彼は一つの決心を固めていた。
太陽が西の彼方に堕ち、星たちが少しずつその存在感を地上に伝え始めた頃、松明をもった男が一人、荒野の中を南へと歩き続けていた。彼が向かおうとしている土地は、アルトガ————それはランカークスから南へ、一つの谷と二つの小川を越えて下ったところに存在する。
アルトガは、ギルドメイン大陸においては売春と賭博の街として知られている。
元々この地域は、世界がまだ群雄割拠の時代であった頃に、アルキードとベンガーナ——<正確に言えば、当時はまだ正式な国家名称が付けられていなかった両陣営>——の交戦場に近く、ベンガーナ側が前線に兵士を送り込ませるための基地として用いられていた。
国家間の戦争が終わった今となっては、土壌の質が耕作地に向いていないこと、地理的な利便性もないことから、人々の居住地として開発されることもなく廃墟となり、国の管轄からも見放されて単なる荒野と化した。そこに数年前に軍から解雇されたベンガーナ戦士団の元兵士たちが住みつき、自らの拠点とするようになった。
荷袋を背負い、松明を左手に持ったジャンクがアルトガの街にたどり着くと、石造りの人家が不揃いに点在しているのが見えた。過去の戦争で荒れ果てた外観はさほど整備された様子もなく、一見、ランカークス村よりもさびれた環境に映る。それは街の景観を整える経済力がないということではなく、日々の「食う」「寝る」を問題なく営むことができればそれで良しとする住人たちの怠惰な精神の表れなのかも知れなかった。
集落の中へ足を進めていくと、どこからか微かに娼婦の嬌声が聞こえてくる。この厳冬期で飢饉に陥っている国もある中で大変お気楽なことだ、とジャンクは嫌悪混じりのため息をつく。自称「勇者」を名乗る冒険者の類いが、どこかで詐欺まがいの悪事をはたらいて金を得ては、このアルトガで博打に興じ、女を抱き、堕ちた快楽に溺れることも少なくないというが、何とも虫酸の走る話だ。
できることなら、こんな腐った人間どもの集まる場所に足を踏み入れたくなどなかった。しかし、あのシェーラの行動を見せられて、これで黙っているようでは男がすたる。そう思う気持ちが、ランカークスから数時間かけて彼の足をここまで運ばせたのだ。村の自警団の代表としての責任と、若干の意地を背負って………
ジャンクが遠くに目をやると、現在地から少し離れたところの高みに、一本の大きな旗が目印のように夜風になびいているのが見えた。どこの国旗とも違う、赤と黄色に染められた柄の旗は、アルトガ傭兵団の象徴とされているものだ。あそこがこの街の本拠地であるに違いない————そう目星をつけたジャンクは、その旗を目指して更に歩みを進めた。
次第に、夜気に混じって妖しい香煙が目の前に漂ってくるのを感じ、ジャンクは片手でそれを払いながら奥へと歩き続けた。この街は、合法的な嗜好品であるニコチアナの葉巻はもちろん、各国が法律で禁じている依存性の高い薬物の売買もされている。ジャンクが宮廷にいた頃は、ベンガーナの王族達もひそかに入手していたとの噂を聞いたものだ。
アルトガ傭兵団の旗は、二階建ての石造り構造の人家——というより、その無機質な風情は「基地」のようにも見える——の屋上に建てられていた。その下へたどり着いたジャンクは、意を決して家屋の垣根の入口をくぐった。
すると、彼が扉を叩くよりも先に、扉は自ずと勝手に開いた————否、彼の訪問をあらかじめ察知していたかのように、内側より静かに開かれた。
やっぱり来たな、という声がジャンクを迎えた。その声の主は、この日ランカークス村の中央広場において、村人達を震撼させた傭兵の頭領・デルトンであった。
天蓋が施された部屋の中央で、暖炉を背にして玉座にどっしりと座るデルトンは、を片手にニコチアナを
彼の両脇には、護衛が一人ずつ立っており、いずれもベンガーナ戦士団の時代から付き従ってきたデルトンの忠実な部下だった。
「久しいなジャンクよ。お前には、戦士団時代にずいぶんと世話になった。俺はこう見えて、他人から受けた恩義は忘れん人間でな。お前のおかげで、俺は百人斬り団長の名を欲しいままにした」
宮廷鍛冶職は、軍の白兵戦部隊と密接な関係にある。実戦や、訓練での剣による打ち合いなど、経年摩耗していく武器の整備を担当することで、陰ながら戦士職を支えていた。数年前までベンガーナ戦士団長を務めていたデルトンは、普通の兵士より飛び抜けた腕力を誇っていたため、宮廷鍛治職人たちは彼のために大ぶりの両手剣を特別にこしらえていたのである。そしてその彼の剣の製作や整備に最も関わっていたのはジャンクであった。
「あの頃は、武器の扱いが雑なお前のために、何度剣を研ぎなおしてやったことか————おかげで俺は、職人ギルドの中でも研磨だけは誰にも負けない技量になったもんだぜ」
当時からデルトンに良い印象を持っていなかったジャンクは、皮肉をこめてそう言った。が、不意に表情をあらため、かつての知己に懇願するような思いで口を開いた。
「頼む、デルトン。金が欲しいなら俺の武器屋の売上げを全部持っていけ————これで足りないなら、今後の稼ぎもくれてやる。だから、もう二度と村には来ないでくれ」
デルトンはふっと鼻で笑った。
「俺もお前も、国から解雇された被害者同士だ。言うことを聞かん訳でもない————」
デルトンは煙管を口にくわえたまま、脇の小卓に置かれた青い宝石——昼間にランカークス村で手に入れたギネの神官たる証——を右手で持つと、もう片方の手に持った拡大レンズで蝋燭台の灯りに透かして見た。石の内側に光の粒子のような神秘的な内包物が映り、彼はその計り知れない希少価値に心を躍らせた。
ジャンクが両肩に背負っていた荷袋をデルトンの前で下ろし、袋の口を開けると、そこには金貨がずっしりと積められていた。デルトンの傍にいた部下と思しき男たちが、荷袋に集まって中身を数え始める。
部下たちが手作業で確かめるより先に、デルトンは一目見ただけでジャンクの持ってきた金貨のおおよその額の見当をつけた。それは金勘定に慣れた人間による、一種の特技のようなものだ。
「…ジャンクよ、お前もずいぶんと小さい男になったな。宮廷鍛冶職人だった頃は、城下町で一番羽振りのよかったお前が————いまや貧乏村の武器屋でたった10万ゴールドの全財産か」
「へっ!ここの連中のように売春と賭博で金を稼いでるよりか、貧乏鍛冶屋の方がよっぽど崇高な人生だぜ。俺はいまの武器屋の仕事に誇りを持ってんだ。お前なんかに俺の価値を決められてたまるかよ!」
理解に苦しむ、といわんばかりに眉を歪めたデルトンは、煙管からニコチアナの香を少し吸い上げると、物憂げに呼気を深く吐いた。紫煙が石造りの空間の中をゆったりと泳ぎながら霧散していく。
「軍務大臣を殴りつけて城を追放されたお前だ。もうちょっと物分かりのいい男だと思ってたんだがなぁ…ジャンクよ、男の価値はいくら稼げるかだ。連れの女に貧乏生活を強いるような奴は、とても男とは呼べねぇ」
その言葉に自尊心を傷つけられたジャンクは歯ぎしりした。しかし、こちらの条件———村に二度と現れない———を相手に飲んでもらわなねばならぬ以上、ここは黙って耐えるしかない。
「だが喜べ、ジャンク。お前にもまだ、そこそこの価値がある」
なんだと————そう言おうとしたジャンクは、意識が朦朧としはじめ、ぐらりと平衡感覚が揺らいだ。眩暈がしたと自覚した次の瞬間、ジャンクは膝から崩れ落ちるように正面に倒れこんだ。
「そう————人質としての価値だ」
ジャンクが倒れた背後から、デルトンの部下の一人が姿を現した。天蓋のカーテン裏に身を隠していた彼は、気付かれないようにこっそりジャンクの背後に忍び寄り、密かに燻した眠り草の煙によって相手を昏睡させたのだ。
意識を失ったジャンクを見下ろしながら、デルトンは考えた。この男の身柄と交換条件で、更にどんな利益をもたらすことができるだろうか。
たとえば————この青い宝石の持ち主であった、あのギネの女神官をわが街の娼婦として引き入れてはどうか。あのなら、間違いなく稼ぎ頭になるであろう。無論その前に、自分でもじっくりその価値を味わわせてもらうが————
デルトンは片側の口角を引きつらせつつ、さながら
その日の夜は、満月だった。
月明かりが煌々と人間界の大地を照らす中、ランカークスの森小屋で夕食を終えたバランは、暖炉のそばで自らの剣を手入れするロンをよそに、外出の身支度を始めた。
そして戸棚の中から取り出した小さな皮袋を右腰にぶら下げると、その上から防寒マントを羽織った。
「ちょっと南の町まで出かけてくる。明け方までには戻る」
松明を暖炉の炎にかざして火を移しながら、バランは同居人の魔族にそう告げた。そして小屋の扉を開くと、夜風に導かれるまま、森の暗闇の中へ颯爽と消えていった。
ほんの一瞬ではあったが、何か強い決意を秘めた少年の横顔を、ロンは見逃さなかった。
(続)
シェーラの神官帽の青い宝石については、下記参考資料のイラストからイメージしてくださいませ。
https://www.pixiv.net/novel/series/8703394/glossary/141403