…地上の遥か下の世界、東の果ての土地。
そこには、魔界の神が振り下ろした斧によって生まれたとされる断崖と、その谷底には『修験の祠』と呼ばれる洞窟の入口があった。
祠内部には結界が張られ、地面に施された禍々しい象形の魔法陣の中に胡座を組んで座る男がいた。枯れ草の色をした肌と、上向きに長く伸びた耳。銀灰色の豊かな髪を背中に流し、魔族特有の隆々とした筋肉には、魔力の高まりによって浮かんだ汗が、ところどころ滲んでいる。武力と魔力を兼ね備えたその人物は、魔界の勢力抗争において、最強の名を轟かせた男であった。
魔王ハドラー。
三年前より、彼は地上の「死の大地」を足がかりにカール地方を侵略し、徐々にギルドメイン大陸全体へと覇権を広げる予定であった。
カール侵攻は順調だった。あと一歩で陥落できる、と確信した時、宇宙の周期まで把握していなかった彼にとっては予想外の事態———人間界に訪れた百年に一度の厳冬期によって一時中断された。地熱の影響を受け、溶岩が常時流れる環境で生きる魔族にとって、厳冬期の凍てつくような気候は唯一の弱点だった。一時的な氷魔法に耐えうる力はあっても、それが長期戦ともなれば、不利に傾く。今は時機ではない。
それならば、この修験の祠で力を蓄え、厳冬期の終焉と同時に一気に攻めこむとしよう———
<…地上侵略計画は順調ですかな?ハドラー卿…>
それは言葉ではなく、想念だった。ハドラーの胸の内に、それは直接響いてきた。 誰だ、と問いながらも、ハドラーにはその正体が分かっていた。
破壊神アゴーラを崇める司教。剣豪ヒュンケルによって二百五十年ほど前に倒されたと魔界史には書かれているが、何者かによる蘇生魔法によって息を吹き返し、再び破壊神を降臨させようとしているという男・ゾルデ———。
次の瞬間、 黒い靄のような想念が実体化し、その姿を現した。
「…地上の人間界に、竜の騎士の魂が復活して十数年———まだ覚醒はしていない赤子同然の状態のようですが…果たして何を制裁するために天界が遣わしたのか、気にはなりませぬか?」
聖母竜によって竜の騎士が人間界に派遣された、という噂はハドラーも知っていた。
地上を征服せんと目論む自分に対して天界が与えた障壁であろうが、そんなものを恐れていては魔王の名に恥じるというものだ。ハドラーがそう答えると、ゾルデは口の端を歪ませて意味深な笑みを浮かべた。
「一つ、興味深い話をいたしましょう———先日、死神の手によって根絶やしにされたベルク流鍛冶の最後の職人が地上界に落ち延び、未覚醒の竜の騎士とともに暮らしているとのこと…それにより、竜の騎士と、最強の武具の作り手が、人間界に味方する未来もあり得ると考えられますな」
ハドラーがわずかに反応したのを見て、司教は更に言葉を続ける。
「ロン・ベルクは魔界随一の剣士でもあった男…仮に彼が竜の騎士に味方すれば、一体どんな脅威になりますやら…いくら魔界の王とて、地上を支配することは困難となりましょう。もしかしたら、この魔界そのものを覆す存在になるやも———」
ハドラーの眉間に皺が寄り、ごく僅かに肩が震えだした。
「…しかしながら、竜の騎士と神魔剛竜剣———この二つの邂逅を阻止すれば…ハドラー卿、あなたにもまだ勝ち筋はあります」
その言葉によって、ハドラーの不快感は一気に爆発した。そもそも生理的にこの人物がどうにも好かないことに加え、自分が竜の騎士に劣るとばかりの指摘が気に入らなかった。
「黙れ!司教ゾルデよ、俺は武人として己の拳と魔力で戦うのみ———妙な入れ知恵や小細工などは必要とはせん。俺の怒りを買いたくなければ、今すぐこの場から立ち去れ!」
その言葉を受け入れたか否か、ゾルデは静かにその場から消え、祠は静まり返った。
気味の悪い男よ、とハドラーは内心で呟いた。破壊神の神官に特有の、殺気や狂気というよりも虚無をまとった得体の知れない闇。どんなに自分が窮地に陥ったとしても、奴にだけは助けられたくないとすら思う。
領地を広げることによって独占欲を満たす魔族や、相手の苦しむ様を見て悦に入る虐待を愛する魔族は多いが、彼らが望むのは、ただ相手の生命を瞬時に消し去ることである。そこには何の利益も愉悦もない。破壊神の信仰は、ハドラーにとって理解できないものの一つだった。
司教ゾルデの魔法力は相当なものだと聞く。彼を味方につければ、この厳冬期においても地上を制するのは容易であろう。しかし、彼の目的はあくまで破壊神の復活と具現化であり、魔王である自分への服従ではないのだ。彼の手を借りなくとも、自分には忠実な配下がいる。禁呪法を駆使して誕生した骸骨の騎士や、自らの邪気によって目覚めた魔物たちが…
この勢力で地上に侵攻をかければ、間違いなく人間界は我が物にできる。
「竜の騎士、か———」
しかしながら、魔王を名乗るその男は、伝説の存在に対し密かに冷や汗をかいた。この胸に湧き上がる感情を認めたくはない。自分こそが魔界を統べる唯一の男なのだ。
「舐められたものだな。この魔界で不敗を誇ったこの俺が…」
ハドラーは再び目を閉じ、深い瞑想に入った。
一方、瞬間移動魔法によってアゴーラの神殿に帰還したゾルデは、祭壇に上がり、自らの信仰する神に祈りを捧げた。
「…我らが神よ、復活の刻までしばしの猶予を…宇宙の
破壊を司るアゴーラ神の復活のため、六百六十六人目の生贄である青肌の魔族を捧げる。魔界の塔の守護者エンデラルに命を救われて以降、その悲願達成に向けて、二百五十年もの間待ち続けた。機が訪れば、いずれ生け贄に埋め込まれた刻印は解かれよう。それまでは、寄生体から発生した不安、恐怖、絶望といった想念を吸い取り、破壊神の印は生き続けるのだ。
よって、生贄の肉体に内なる平和が訪れることなく、常に混沌の境地に置かれていなければならない。そしてその度合いは激しければ激しいほど良い。そのための「種」を地上に蒔き続ける必要があった。ハドラーは「種」となりうるだろうか。それとも———
「…竜の騎士、光より出でて闇に去り行く戦神の魂よ———我らの希望となりて魔界の地に降り立ち、魔族と竜族の永きにわたる因縁に制裁の刃を与えんことを…」
地上では、朝霞に包まれた空模様の中、一隻の船が大海原を東に向けて進んでいた。
それはカール王国から出港した交易船であり、船内の倉庫室にはベンガーナ王国へ輸出するための農産物が積まれている。とはいえ厳冬期ゆえにこの時期の輸出量は少なく、この日も例年の半量に満たない果物が積まれたのみだった。交易船は荒波に見舞われることもなく、順調な航路を描いていた。
その船の帆柱に寄りかかるようにして立つ人物がいた。まだ成人に満たない年頃だが、マントの下は少しばかり改まった衣装で、左腰には長剣を携えている。青みがかった長めの髪を襟元で丸く巻き、眼鏡をかけているその姿は、あまり戦士らしい容貌ではなく、どちらかといえば学者を連想させた。
「お若い騎士さん、ちょっと顔が青いが大丈夫かね」
船の甲板にいた船長が少年に歩み寄って声をかける。少年は少しばかり冷や汗をかきながら答えた。
「ええ、なんとか…しかし、慣れない船旅だとやはり酔いますね」
「もう少しの辛抱だ。ほら、目的地が見えてきたぞ」
船長が指で示した先に、霞に隠れてぼんやりと陸の輪郭らしきものが見えた。高台の城のような影が、少年の目にも次第にはっきりと映る。
「あれがベンガーナ王国…商業大国だと噂には聞いていたけど、本当に大きな国だ」
そう呟いた瞬間、正面から吹きつけてくる海風の冷たさに、少年は思わず肩を震わせた。 彼は、自らの所属するカール王国騎士団の遣いとして、ベンガーナを訪れようとしていた。当初は陸路を考えていたのだが、たまたま港の商人たちが船でベンガーナへ向かう予定だったため、同乗させてもらったのだ。
この少年の名はアバンという。正式には、アバン・デ・ジニュアール三世というのが本名で、この世界の住人としては珍しく、家柄を表す「名字」というものを持っていた。しかし、その名字を他人に対して名乗ることはほぼ皆無で、長い本名を明らかにするのはせいぜい書簡に署名をするときくらいのものであった。
少年アバンの乗った船が入港すると、同乗していた商人たちは貨物を陸へ運びだしながら、城下町へ直結する西門へと向かっていく。ベンガーナ港は、商業大国としての機能を担うための重要な拠点であった。この日はカール王国以外にも、パプニカ王国からの交易船がやって来ており、商人たちが物資を運びながらせわしなく移動している。
そんな彼らをよそに、小さな荷袋一つを背負った少年はベンガーナ城壁の周囲を巡るように、しばし探索を始めた。
この日、カール王国からやってきたアバンには、公務以外にもいくつかの目的があった。
まず、少年が自身の学びのために観察したかったのは、ベンガーナ城外に
「これがシェーラさんの施した魔法陣か…さすが綺麗に描くなぁ。しかし、これは通常のマホカトールに何か改変を加えているのかも知れない…
アバンは目を大きく見開いて、二重円の中の象形世界に見入った。
少年にとって、この魔法陣を描いた人物は、神官魔法の師であった。指導を受けたのは十年ほど前———早熟にして頭脳明晰なこの少年は、四歳にして既に文章の読み書きと数字の計算が完璧にできていたことに加え、魔法の才能も持ち合わせていた。たった半年の指導で、簡単な魔法は一通り習得し、師を大いに驚かせたのだ。
【戒厳令により、外部からの入国者は自国で発行された身分証明書が必要となる】———そう告げられた少年は、大いに面食らった。カールではそんな情報は全く聞いていない。急に決まったのだろうか……そういえば、ベンガーナ王国では国王の権限で頻繁に施策や物価が変わるという噂を聞いたことがあるが……とはいえ、今からもう一度カールに戻るというわけにもいかなかった。自分を乗せてくれた商船が交易を終えて帰港するのは翌々日だと聞いているし、公務の遂行も考えると、それほど呑気に待ってもいられない。
アバンが困り果てていたところへ、城の内側から声が上がった。
「その少年は、カール王国騎士団からの使者です。私の大切な友人でもありますので、身分証明の有無にかかわらず、どうかお通し願います」
アバンは、その救い主の声に懐かしさを感じるとともに歓喜した。ギネの神官服を身にまとったその女性こそ、彼が今回の訪問で最も重要な意味を持つ人物だったからだ。 一方で、二人の門番兵は戸惑っていた。
「いや、しかしですね神官殿…」
すると、女神官はすっと二人の衛兵のもとへ近づいたかと思うと、その手から何か光るものを衛兵たちのそれぞれの手に握らせた。次の瞬間、門番兵は急に姿勢を正し、態度を改めた。
「…カール王国騎士団の使者の方とは知らず、失礼をはたらきました。どうぞお通り下さい」
何事もなかったかのように、門番兵たちは少年のために通り道を開けた。それによってアバンは城門をくぐり抜け、無事ベンガーナ国内に入ることができた。アバンは予想外の出来事から解放されてほっとすると同時に、あまりに呆気なく態度を一転させた門番兵たちに対して少々違和感も残った。
城門から少し歩いたところで、女神官は少年に向き直った。
「久しぶりですね、アバン」
「事前に手紙を送っていたとはいえ、よく私が分かりましたね、シェーラさん。あれから十年も経っているのに…おかげで助かりました」
「もちろん覚えていますよ。あなたは私にとって初めての魔法の生徒ですから。背も伸びて、すっかり逞しくなって…見違えましたよ」
「シェーラさんも、ますますお美しくなられました」
そう言って、アバンは人懐っこい笑顔をみせた。まだ年端もいかない少年の社交辞令に、シェーラは感心の苦笑いをする。
「…お祖父様に似て、女性を立てる言葉が巧みになりましたね」
次の瞬間、アバンは俯いて表情を曇らせた。
「でも、今のシェーラさんの行為には失望しました。私を助けるためとはいえ、門番兵に賄賂を渡すなんて…」
入国を拒否しようとした門番兵に数枚の金貨を握らせたことを、この少年は見逃していなかった。自分を信頼してくれている純粋な少年の心に影を落としたことに、シェーラは罪悪感にも似た後悔を僅かに感じた。
「アバン…」
すると少年は、曇った表情から一転して茶目っ気ぽく両手を広げてみせた。
「ふふ、失望したというのは冗談ですよ。この国が、お金で動いていることは知っています。そのやりとりを生で見るのは初めてでしたけど」
社会の不条理に理解を示すなど、この少年は年齢不相応に大人びている———シェーラは苦笑いを禁じ得なかった。
「あなたの生まれ育ったカールは実直なお国柄ですから、このベンガーナにはさぞ違和感を感じるでしょうね」
「ええ。コバルト団長がよく言っていますよ。シェーラがなぜベンガーナ宮廷に尽くすのかまるで理解できない、彼女は拝金主義の王国にはふさわしくない…とね」
その言葉に、シェーラの表情が固まった。 騎士団長の名に相手が反応していることを少年が見抜くと、さらに皮肉っぽい笑みをたたえて言葉による棘を刺した。
「そしてこうも言っていました———我がカール王国は勇猛果敢だが、知略や政治の面では今ひとつ劣る国家だ。シェーラがカールに来て国王に進言できる宰相の立場にでもなってくれれば、国力の均衡がとれるだろう———とね。それには、私も強く同感です」
「…残念ながら、それはできません」
女神官はそう言って一息つくと、不意に話題を変えた。
「それよりアバン、早朝の船旅でお腹が空いていませんか。城下町で何か美味しいものでもご馳走しますよ」
「いつまでも私を子供扱いされては困りますね。こう見えて、いま私はカール騎士団の一員。このくらいの船旅でお腹が空くなんていうことは…」
すると、本人の意思に反抗するかのように、アバンの腹の虫が大きく鳴いた。シェーラは、頬を赤らめた少年を連れて城下町へ向かって歩き出した。
途中、広場の中心にある立て札が少年の目に入った。気になったアバンは、自分の前を歩くシェーラにその内容を尋ねた。
「…まだカールまでこのことは伝わっていないのですね。実は、城の外で捕らえた魔族が武器を持ったまま逃走してしまったので、国王陛下が指名手配のお触れを出しているのです」
その脱走事件の真犯が自分自身である事は微塵も顔に出さず、シェーラは淡々と事実だけを述べた。自分はもはや立派な詐欺師だ、と心の中でひっそりと自嘲しながら。
「魔族…ですか。それにしても五百万ゴールドの懸賞金とは、さすがベンガーナですねぇ」
アバンはその立て札の内容に見入り、指名手配魔族の特徴を熟読した。長い黒髪をもち、背が高く、顔に十字の傷がある青肌の魔族———その文言は、記憶力に絶対の自信を持つ少年の海馬体へと素早く刷り込まれた。
ベンガーナ市場の大通りをシェーラに連れられて歩きながら、屋台テントに並ぶ色とりどりの野菜や果物に、料理を趣味とする少年は胸が高鳴った。厳冬期である今でもこの規模なのだから、平時はどんなにか賑やかな市場だろう。見たこともないような珍しい食材を購入したい欲を必死に抑えつつ、アバンはシェーラの後について一軒の食事処に入った。
市場の南門近くに立地する『海猫亭』は、ベンガーナの郷土料理を振る舞う飲食店として繁盛しており、冒険者や旅商人たちに大変人気があった。なかでも、漁港で獲れた槍烏賊の香草炒めや白身魚の塩釜焼きといった逸品は、蒸留酒の絶好の肴として常連客たちから愛された。
この日、遠方から訪れたアバンのためにシェーラが注文したのは、羊肉と野菜のローストに酢桃のソースを和えたもの、小麦粉を練って茹でたものを蕃茄と香菜で煮込んだ料理で、この日の料理長のお薦めとして給仕の少女から推奨されたものだった。
アバンは優雅にナイフとフォークを駆使しながら、大皿料理をみるみるうちに平らげていった。
自らは料理を注文せず、発酵茶のみをゆっくりと味わっていたシェーラは、目の前の少年の成長期らしい食べっぷりと、料理の味付けについて分析している様子に感心しながら、食に対して全く頓着しないバランとはまるで対照的だ、と思った。
アバンはひととおり美食を愉しんで空腹を満足させると、食後にナプキンで口元を綺麗に拭いた。彼の家柄が自然と身に付けさせた行儀の良さは、食後の皿を下げに来た給仕の少女をいたく感心させたほどだった。
「シェーラさん、《彼》はどこに住んでいるんですか?…ほら、私と一緒に魔法授業を受けて、ともに破邪の洞窟にも入った———彼にも会っていきたいなぁ。きっと、立派に成長しているんだろうな」
シェーラはそれがバランのことだとすぐに分かったが、僅かに言葉を濁した。
「…バランですね。彼はちょっと人見知りなところがあって、ランカークス村の森の奥で暮らしているのです。元気でやっていますよ」
この少年とバランを再会させてあげたい、という親心のようなものがシェーラの胸の内をよぎったが、しかし、今バランの小屋には魔族のロンがいる。指名手配の立て札を彼に見られてしまった以上、その秘密を知られる訳にはいかなかった。
勘の良いアバンはこの時、シェーラが自分に対し何か隠していることに気がついたが、あえてそこを追求せず、話題を変えることにした。
「…ところで、ベンガーナ城の外に書かれている魔法陣は、シェーラさんが描かれたものですよね。でも、普通のマホカトールとは少し陣形が違う気がします。あれは一体どうなっているんですか?」
時間とともにぬるくなった発酵茶を持て余しながら、シェーラは少年の問いに答えた。
「…あの魔法陣はまだ実験段階なのです。もう少し効果のほどを検証してからでないと、人にお教えする事はできませんね」
「いつか、その研究成果を書物にしたためてほしいものですね。後世のためにも」
そんな大げさな、と答えるシェーラに、アバンは強調気味に言った。
「シェーラさん、あなたはあなたが思っている以上に凄い方なんですよ。何せ、弟子をとらない方針の私の祖父が唯一とった弟子なんですから」
アバンの言葉を聞きながら、それは自分の実力ではない、と彼女は心の中で首を振った。
十年ほど前、「稀代の天才学者」として知られたジニュアール一世に懇願して弟子入りをした。その動機は竜の騎士バランの養育者となって以降、知識と魔法の両面でバランを教え導く存在にならなければならないと感じていたためであり、理由としてはそれ以上でもそれ以下でもなかった。
血縁以外の人間に自らの叡智の積み重ねを託すことを嫌うジニュアールではあったが、彼が提示した試練ともいえる条件———<破邪の洞窟でマホカトールを習得する>———を達成したことに加え、孫であるアバンが魔法を学びたがっていたことが彼の方針を動かした。孫の魔法教師となることを条件に、特別に自分を弟子として受け入れてくれたのである。
もし十四年前のあの日、聖母竜から竜の騎士を預かるという出来事がなければ、高名な学者に弟子入り志願することも、破邪の洞窟でマホカトールを習得することもなく、ただ神殿の中で祭事を執り行うだけの平凡な神官として日々を送っていたであろう。いわば、バランの存在が自分をここまで鍛え上げてくれたのだ。ゆえに、アバンやコバルトから過大な評価をされることはかえって恐縮するのだった。
「…そういえばアバン、あなたのお祖父様…ジニュアール先生はお元気ですか?私がカールを去ってからもうかなり経つので、先生がどうされているのかずっと気になっていました」
何気ない問いのつもりだったが、アバンは急に押し黙った。シェーラの胸の内に不吉な予感が走る。
「…もしかして、今回のベンガーナ訪問の目的は騎士団の公務以外にも…他に何かあるのですか?」
シェーラが先日受け取ったアバンからの手紙には、カール騎士団の取引先であるランカークスの武器屋——ジャンクの店——に、発注分の代金を前納することが目的であると書かれていた。 しかし、この少年の表情からすると、どうもそれだけではなさそうである。
「…ええ、もちろん。ここにやってきた目的は、実はカール騎士団の使者としてだけではなく…もう一つ理由があります」
「もう一つの理由…?」
意味深な言葉に対してシェーラが反応すると、アバンは真顔になった。
「シェーラさん、私と一緒にカールに来てください」
その要望にシェーラは一瞬驚いたものの、ちょうど自らカールへ赴く予定であることを告げた。そして明日準備が整い次第、瞬間移動魔法【ルーラ】で共にカールへ向かうことを提案すると、少年は目を輝かせて歓喜した。
「おお!シェーラさんのルーラで一緒に帰れるなんて、それは願ったり叶ったりです。…実は、また帰りも船旅になるかと考えたらちょっと憂鬱でしたので…いや~よかったよかった」
船酔いを恐れていた少年は、ほっと胸を撫で下ろした。
「ではアバン、今日のうちにあなたの公務を終わらせましょう。ここからランカークスまで歩いて行くと日が暮れてしまいますので、私が魔法でお送りします」
食事の会計を終えて海猫亭を出た二人は、魔法を発動するのにちょうどよい路地裏へと移動した。
「ランカークスの武器屋で納金を済ませたら、今日は村の宿屋で休んでください。私はカールへ向かう準備を整えて、明日あなたを迎えに村まで行きます」
そう言ってシェーラが転移魔法を発動しはじめると、アバンはその様子を爛々とした瞳で見守った。対象を遠隔に瞬間移動させる魔法は、シェーラが考案したものである。少しでも、優れた魔法の技術を盗みたい———だが、そんな少年の願望もはかなく、魔法の完成を見届けるより先にアバンの身体が光の粒子へと変わっていき、次第にその場から消えていった。
転移魔法によって量子化したアバンが再び肉体を伴って降り立った先は、目的地である村の入り口だった。
「これより先、ランカークス村」と書かれた古びた立て札を確認してから、アバンは村の敷地へ足を踏み入れた。
雪で少し滑りやすくなっている道を慎重に歩いて行くと、白く雪で覆われた耕作地の向こうに人家が見えてきた。
アバンが住んでいたのは人里離れた辺境の土地にある館であり、こうした農民の生活の匂いがする土地がとても新鮮だった。
すると、薪用の木材を運んでいた一人の村人の男がアバンの姿を見つけ、まじまじと眺めながら近づいてきた。腰に剣を携帯している少年を見て、全身から警戒心を漂わせている。
「おい、お前は
「魔族狩り…とは一体何ですか?」
「なんだ、知らんのか。ベンガーナ宮廷が魔族の男を捉えた者に報酬を出すってことで、懸賞金目当ての冒険者が増えてるんだ。この間も、アルトガの傭兵たちが大挙してやってきて村の中を探索していった。この土地に住んでる者としては、迷惑きわまりないんだよ。魔族なんてこの村にはいないから、さっさと出て行ってくれ」
その言葉に、アバンはベンガーナ城の広場で見たお触れの内容を思い出した。あの懸賞金を目的に、冒険者たちがこんな辺境の村にまでやってきているのか———
自分がこの村にやってきた目的はあくまで公務だが、武器を携帯して村の中をうろうろすることは、どうやら住民たちには歓迎されないらしい。
「ご安心ください。私は魔族狩りではありません。要件が済んだら村を去りますので、どうぞご心配なく」
屈託のない笑顔で応じる少年に、村人の男は難癖をつける気を無くした。初対面の相手には笑顔と褒め言葉が最大の友好手段であることを知っている少年は、語彙の限りを尽くして男の容貌と身なりを賛辞した。その後に少年が武器屋の場所を尋ねると、村人の男は無意識に警戒心を解き、すんなりと道を教えるのだった。
「ありがとうございます!今日も素敵な一日を」
アバンが村人に礼を言って村の中心部へ向かって歩き出すと、その最奥部に大きな森が見えた。雪で真っ白に覆われているため、その奥行きまでは掴めないが、かなり深そうな森だ。魔法の師・シェーラは、バランはランカークスの森に住んでいると話していた。ということは、あの森の中にバランの家がある可能性がある———そんな推測をしながら、アバンは今回の目的である、カール騎士団の取引先の武器屋に入った。
店内では、工房で作業している店主に代わり、夫人が店番をしていた。発注分の金額が記載された約束手形を渡し、書面上の手続きを終えると、アバンは窓の外から見える森を指して、ふと夫人に尋ねた。
「あの森の奥には、誰か人が住んでいるんですか?」
すると、挨拶のために作業を中断して現れた店の主人が、少年の問いに答えた。
「…ああ。ちょうどお前さんと同じくらいの年頃の少年が住んでいてな。だが、地元民の俺でも迷ってしまうような森だから、他所者はなおさら入らないほうがいいぞ」
その言葉を聞いて、アバンは確信した。間違いない、あの森の中にバランが住んでいるのだ。
ついでに、店主と夫人にこの村の宿屋についても聞いてみた。厳冬期で旅人も少ないため、営業していないかも知れないとのことだったが、村で唯一の宿屋を紹介してもらうことができた。
公務を終えて武器屋をあとにしたアバンは、宿屋に向かう前に、村の奥の出口から森へ続く小道へと行ってみた。他人から「入るな」と言われれば、入ってみたくなる性分なのだ。そして一歩足を踏み入れたアバンは、何か奇妙な違和感を感じた。
この一帯から、強い魔力が漂っている…きっと何かしらの魔法が、この森の入口にかけられているのだろう。おそらくこのまま進んでいけば、自分は何かの罠にはまるかもしれない———そう直観したアバンは森へ入るのをやめ、いったん村へ引き返した。
気がつけば、もう日が暮れ始めている。アバンは武器屋の主人が紹介してくれた村の宿で一泊することにした。
年季の入った建物の一階と二階を占めるランカークス村の唯一の宿は、その日の利用客は自分以外には誰もおらず、宿の女主人は愛想がなかった。宿の一階にある酒場が宿泊客の食事処を兼ねていたが、夕刻にもかかわらず客は一人もいなかった。ベンガーナ城下町と比べるとまるで活気が無い。しかしそれはそれで、閑静な田舎村の趣きを感じるのだった。
夕食として注文した野菜と羊肉のスープは少し塩辛く、付け合わせとして出てきた大麦のパンは固くぱさぱさに乾いていた。二階の宿泊部屋に入ってみれば、そこは最低限の清掃をした程度の簡素な部屋で、窓際にはうっすらと埃が積もっていたが、それも一つの旅情として前向きに捉えることにした。
旅の荷物を置き、身支度を解いて寝台に身を横たえると、窓から夜空の月を見上げることができた。下弦の月をぼんやりと眺めながら、アバンは思った。
十年前にシェーラとともにジニュアールの館に来た少年———バランは、どうしているだろうか。 彼に会ってみたい。
破邪の洞窟で共闘したときの彼は、尋常でない強さだった。何しろ、小型ナイフ一本で
明日は、時間が許すまで村の近辺を散策してみよう。あの森の入口に掛けられている魔法についても調べる必要があるし、もしかしたら、森に入らなくても村の中で運良くバランに出会えるかもしれない———そう思いながら、アバンは異国の宿で眠りについた。
バランが同居人の魔族ロンと二人で火炉づくりを始めてから、一週間あまりが経過していた。設計図を書いた当初は数ヶ月程はかかると想定していたものの、ジャンクから煉瓦を提供してもらえたという恩恵も手伝って、実際のところは想像以上の速さで作業が進んでいた。
その日の朝、バランは金物屋に制作を依頼した火炉の防火用フードを受け取るために、村に下りてきていた。
金物屋の老主人は、いつも完璧な職人仕事を見せてくれることで村人たちからの信頼も厚かったが、今回の依頼品もバランを感嘆させる出来栄えだった。寸法も正確で、機能的にも申し分ない。これさえあれば、火炉の完成も近い———バランは老主人に深く感謝を述べて代金を支払いつつ、厳冬期の前に狩猟で仕込んだ干し肉と、森の中で収穫した胡桃も、感謝の気持ちとともに納めた。
相手に喜んでもらえるかと思いきや、むしろ老主人は苦々しくも複雑な表情をして、自分に尋ねてきた。
「お前さん…アルトガの傭兵たちを殺したというのは本当かい?」
老主人は、悲しそうな目でこちらを見ていた。
「わしは…お前さんを信じとる。そんな暴力をはたらくような子じゃないと…」
バランは、胸の奥が詰まった。もしここで「違う」と言うことができたなら、どんなにか良かっただろう———しかし、バランは嘘を言うことができなかった。嘘は、彼にとって最も苦手な行為だった。下を向きながら、バランは答えた。
「…いや、本当だ…」
しばらく間があってから、老主人はバランに背を向けて小さく呟いた。
「今のは聞こえなかったことにしておくわい…成人の儀も控えとるしの…」
バランは重く沈んだ心とともに金物屋を後にした。自分の起こした騒動によって、大切な村人たちに余計な心労をかけてしまった。それも一度や二度ではない———罪悪感とともにため息をつくと、バランは老主人によって納品されたフードを脇に抱えながら、森へ帰るために大通りを歩いていった。
すると、前方から見慣れない服装の人間がこちらへ向かって歩いてきた。
一方アバンはこの日の朝、宿を出てから村の大通りを歩きつつ、どうしたらバランの住む森へ入れるのかを考えていた。
昨夜泊まった宿の女主人にこの村の地理を少し尋ねてみたものの、この村は冒険者を快く思っていないから、用事がないなら早くこの村を去れ、とすげなく断られてしまった。
あの森の入口にかけられた魔法を解く方法。あるいは、どこか森に入るための他の経路を探すには——— そう思案しながらアバンが村中心の大通りを歩いていると、向こうから一人の村人が歩いてきた。
そうして少年二人は、前方から歩いてきた相手を視野に確認するや立ち止まった。
しばしの間、見つめ合う。目の前に現れた、自分と同じ年頃の少年。この相手は、どこかで会ったことがある…もしかして… 互いにそう感じながら、確証となるような記憶をそれぞれの脳内で探り始めた。
「あなたは…もしかして…バラン、ですか?」
先に声をかけたのはアバンだった。そして相手の返事を待つより早く、 彼の幼い頃の記憶に残っていたバランの容姿が、この目の前の人物が醸し出す雰囲気と一致した。アバンは両手を広げて喜びを表現すると、相手に歩み寄った。
「やっぱりそうだ!バランですね!私のことを覚えていますか?アバンです。ほら、カールの館で一緒に過ごした、学者ジニュアールの孫です!」
バランは一瞬あっけにとられたが、昨日シェーラがカール王国への調査訪問について話していたときに、自分はこの少年について回想をしていたばかりだった。それにより、学者の孫という言葉ですぐに記憶が蘇ってきた。
「久しぶりだなぁ!いや~それにしても、あなたも大きくなりましたね!」
バランの均整のとれた体格をつくづくと眺めたアバンは、ふと、相手が両手に抱えている金属の物体が気になった。
「おや、その両手に持っているものは一体なんですか?それはもしや…鍛冶工房の天井に配置する防火用のフードですね?」
自分の手に抱えているものをまじまじと見つめるアバンに、バランはたじろいだ。
「…小屋の中に、火炉を作っている。それに必要なものだ」
「小屋の中に火炉を…一人で作っているのですか?ならば、私も手伝いましょう!二人で作業したほうが早いですし。ああ、どうか遠慮しないでください。自慢ではありませんが、私はけっこう手先が器用なんですよ」
バランは、この少年の巧みな会話術に次第にのまれていくのを感じ、思わず後退りした。
「い、いや、それはだめだ」
「どうしてです?私が行ってはいけない理由でもあるのですか?」
アバンは片眉を上げて、相手の目を覗き込んだ。
「その…俺の住んでいる森は、魔物が多く住んでいるから危険なんだ。やめたほうがいい」
バランはそう言ってしまった後で、それが全く意味の無い勧告であったことに気づいた。
「なぁんだ、そんなこと。舐めてもらっては困りますねぇ。私はいまや、カール騎士団の一員。昔あなたと破邪の洞窟に一緒に入ったときの幼児とは違いますよ。もう並の魔物は私の相手ではありません」
アバンは余裕綽々とばかりに左腰に提げた長剣を誇示して見せた。対してバランは、何とか相手に諦めてもらおうと、思いつく限りの理由を必死で並べ立てた。
「そ、それに…小屋までの道が複雑でとても迷いやすい。行きは良くても、帰りに遭難する可能性がある」
「なに、それについても心配いりませんよ。私には未開地探索のために祖父が開発してくれた七つ道具があります。これさえあれば、どんな秘境でも迷わずに出発点に戻ることができるんです」
そう言って、アバンは腰から何かを取り出すと、見たこともないような不思議な形の道具の数々を両手で披露した。方位磁石のようなものはバランにも理解できたが、それ以外のものは一体どんな用途をもつ道具なのか全く想像がつかなかった。
バランは困惑した。この相手にはどんな言葉を返しても、逆に自分が丸め込まれていく。この聡明な少年から逃れることは、とてもではないが不可能だ———
しかし、シェーラが
「わかった。これから小屋に戻るから、一緒に行こう」
そう言って、バランが森へ向かって歩き出すと、アバンは先に歩き出したバランの肩に手をおいて言った。
「バラン、あなたの肩を貸してください。どうも私、雪道が苦手でしてね…足を滑らせて転んでしまいそうです」
戸惑い気味にうなづくバランだったが、そんな相手の横顔を見てアバンは心の中でにやりと笑った。バランがこの森の奥に住んでいるのならば、彼はこの森の入口にかかっている魔法の罠を何かしらの方法で無効化して出入りしていることになる。それなら、彼の体に触れながらついて歩けば、その罠にかからずに辿り着けるはずだ———そうしてアバンは相手の肩に手をおいたまま、バランと並んで森の入口へと進んでいった。
アバンは、シェーラとバランが自分に隠している「秘密」が何なのかを知りたかった。秘密に対する好奇心と詮索は、思春期の年頃にはよくあるものであったが、このときのアバンには、その秘密が何か非常に重要な意味を持つもののように感じられたのだ。
バランの身につけている
「おお、なかなかに立派な小屋ですね。あなたが自分で建てたのですか?」
「いや、もともと宮廷役人の別荘として建てられたものらしいが、数年前にシェーラが俺のために買いとってくれた」
この少年が、シェーラによって大切に養育されつつも、誰にも頼らずに一人で生活していることに対し、アバンは感心した。
自分はといえば、先祖代々受け継がれている館に住み、日常的な雑事はすべて執事に任せている。無論、アバン自身はそこに甘えることはなく、祖父の英才教育のもとに相応に鍛えられて育ったが、やはりこうして森の中で自活している人間は逞しいものだ。バランの全身を包むしなやかな筋肉が、それを何より証明していた。
一方バランは、成り行きとはいえ、アバンをここまで連れてきてしまったことをひどく後悔していた。せめてロンが、森の散策に行ってくれていれば良いのだが、もし小屋の中にいたら、窓から外に抜け出てもらうか、物置の影にでも隠れてもらうしかない。
バランはアバンの方を向いて言った。
「ここで少し、待っていてくれ」
「私は入ってはいけないのですか?もしかして、誰かと一緒に住んでいるとか…」
「とにかく、待っててくれ」
そう曖昧に答えると、バランは一人小屋の中に入っていった。
残されたアバンは、頭の中で推理を働かせた。誰かと同居しているのか、それともこの小屋自体に何か秘密があるのか…
そのとき、アバンの背後に茂る木々から大きな人影がのぞいた。
バランが小屋の中に入ると、そこに同居人の姿はなかった。
「ロン、いないのか?」
外に散策に出ているのだろうか。それならば、逆に小屋の外でアバンがロンと出くわさないうちに、早くアバンを村まで帰した方が良い———
ロンはこの日、昼過ぎまで火炉の作業をしていたが、煉瓦積みの単調な作業に飽きがきてしまったため、気分転換に森の中を散策していた。
小屋に戻ってきたとき、扉の前に人間の姿を見つけたロンは思わず警戒し、木の陰に身を隠した。先日森の中に入ってこようとしていた村人の男とは違い、今度は少年だ。自分を捕らえに来た魔族狩りか…しかし一体どうやって森の入口にかけられていた魔法をくぐり抜けてここまで辿り着いたのか———そこまで考えた次の瞬間、その前方にいる少年が背中を見せたまま、こちらに向けて言葉を発した。
「その木の陰に誰かいるのは分かっていますよ———野生
その言葉に、ロンは相手が只者ではないことを悟り、身を隠す必要性を失った。ロンが木々の間から姿を現すと、少年騎士は大きく目を見張った。
「驚きましたね…むかし、子供の頃に一度だけ魔族の商人を見かけたことはありましたが、こうして間近で姿を見るのは初めてです」
その邪気のない反応に、ロンは一瞬だけ虚をつかれたものの、鋭い目でアバンを睨んだ。
「…魔族狩りか」
「ああ、なるほど。あなたが噂の指名手配中の魔族という訳ですか。これはこれはどうも、初めまして」
まるで緊張感のない相手に、ロンは拍子抜けしないでもなかったが、相手の少年は腰から剣を提げている。人間ごときに負ける気はしないが、自分の気配を鋭く察知するあたり、相応の手練れかもしれない。まずは地上界の剣士がどれほどのものか、お手並み拝見といこう。
ロンは剣を鞘から素早く抜くと、アバンに向けて斬りかかった。それに対してアバンも反射的に剣を抜き、ロンの剣刃を受けた。
小屋の中でその剣戟音を聴いたバランは、あわてて外へ出た。するとそこでは、向かい合って剣を交わしている魔族と少年の姿があった。
「ロン、やめろ!アバンは俺の友人だ。魔族狩りじゃない!」
二人の間にバランが割って入ろうとしたが、それをアバンは拒んだ。
「ご心配なく、バラン。これは彼なりの親愛をこめたご挨拶なのでしょう。ならば、私は礼儀としてそれに応えるまでです」
そう言って、アバンはバランに対して横目で不敵な笑みを浮かべた。
しかしアバンは余裕のある表情を見せながらも、内心は目の前の魔族の力に圧倒されていた。魔族は人間より遥かに強靭な肉体と高い戦闘力をもつといわれているが、さすがに強い。しかし、これでもおそらく彼の本気ではないはずだ。積雪で滑りがちな足元の不安定さもあって、思うように力が入らない。ちょっとでも気を抜けば、吹き飛ばされそうだ。
渾身の力で一旦ロンの刃を跳ね返したアバンは、瞬時に後退して相手との間合いをとった。そして剣の柄を逆手に持ち替えて後ろに引き、腰を落として身構えると、居合いの声を上げながら気を集中させた。
ロンは相手のその様子を興味深く見つめた。初めて見る構えだ。相手の剣刃にみるみる光の波動が蓄積されていく。そして少年が一気に剣を前に突き出したかと思うと、鋭い閃光がロンへ向かって放たれた。
二人の勝負の前にただ立ち尽くしていたバランは、そのアバンの剣技に目を奪われた。破邪の洞窟に一緒に入ったときは、彼はまだ四歳ほどで、ナイフも持てなかったはずだ。それが今や、こんな独自の技を編み出していたとは———
一方、アバンの攻撃に正確に反応していたロンは、剣を後ろから振りかぶると、アバンの剣から放たれた光の刃を一刀両断した。真っ二つに分かれた光は、左右の方向にそれぞれ放散し、小屋の周囲の木々に直撃した。数本の樹木がその衝撃波によって切断され、冠雪とともに大きくなぎ倒された。
「ん~…今のは私の研究中の技なんですが…まさか剣の一振りで軽くあしらわれてしまうなんて…これはまだまだ改良の余地がありそうですね」
アバンは、手で頭をかきつつ苦笑いをした。
ロンは無表情で剣を鞘に収めながら、 目の前の人間の少年に俄然関心を覚えた。相手の技はまだ荒削りであるし、身のこなしにも欠点は多いが、強く光る「何か」がある———魔界の凋落した武人たちより、よっぽど筋がいい。人間界にもこんな剣士がいるのなら、魔界より仕事のし甲斐があるかもしれない……
ロンがそんなことを思っていると、彼らの後ろでどさっと何かが落ちる音がした。
三人が振り返ると、そこには薬草の入った麻袋を地面に落とし、呆然とした表情で立ち尽くすシェーラの姿があった。バランの小屋に常備しておくための薬草をベンガーナ市場で調達してきた彼女は、瞬間移動魔法でこの森に降り立つや、アバンがその場にいることに驚愕したのだった。
「シェーラさん!」
アバンにそう声をかけられて正気にかえったものの、シェーラはどうやってアバンがこの小屋まで辿り着いたのかを理解するのに少し時間を要した。
「アバン、なぜあなたがここに———」
しかし、彼は天才学者ジニュアール一世の孫だ。甘く見てはいけなかった…。この賢い少年にロンの姿を見られてしまった以上は、真実を明かすしかない。そう観念したシェーラは三人を小屋の中に入れると、アバンに対し、これまでの経緯と事情説明をした。無論、バランが竜の騎士であることは伏せてはいたが———
ひととおり内情を理解したアバンは、シェーラから口外無用を言い渡されると、落ち着いた態度でにっこりと答えた。
「ええ、わかっていますよ、この事は誰にも言いません。シェーラさんのされることに必ず深い理由があることくらい、私にもわかります。口の固さには自信がありますので、安心してください」
シェーラも、その点については何の疑いもなかった。理知的なアバンが何かの拍子にうっかり口を滑らせるというようなことは、まずないだろう。
「しかし、シェーラさんの発想には驚かされますね。バランの剣術の師に魔族を抜擢するなんて———こんな強い人に指導してもらえるなんて羨ましいなぁ、私もその修行に一緒に加えていただけませんか?」
目を輝かせてバランとロンににじり寄るアバンを、シェーラは保護者さながらに厳しくたしなめた。
「いけませんよ、アバン。あなたはカール騎士団の一員である以上、『いついかなる時もカール王国のために身を捧げる』という団規に従わなくては———あなたには予定通り、これから私と一緒にカールへと向かって頂きます」
自分の希望が通らなかったことにひどく残念がってみたアバンだったが、次の瞬間には少し譲歩した形で別なる提案をした。
「それならせめて、ほんの数時間でいいから、この火炉づくりを手伝わせてください。バランが早く修行を始められるように、私も力になりたいのです」
わかりました、と言ってシェーラは同意し、バランとアバンの二人が築炉作業に入っていくのを見守ることにした。十年前には、共に破邪の洞窟に入った少年たちであり、いわば幼馴染みともいえる間柄だ。予想外の形で再会を果たした二人だが、これはこれで良かったのかもしれない。それにしても、子どもが大きくなるのは早いものだ…
一方でロンは、この日出逢った新しい人間———アバンという少年の才能に興味を惹かれていた。
物事の道理と真実を見極めようとする大きく澄んだ瞳が特徴的な少年である。バランとはまるで個性が違うが、先ほどの剣技からはひたむきに強さを探求していく姿勢が感じられた。その意味で、もしかしたら少し自分に似ているところがあるかもしれない———
「…人間界にも、なかなかに面白い人物がいるものだな」
ふと口をついて出たロンの言葉に、シェーラは微笑んだ。
「そうですよ。私たち人間は、魔族のような際立った魔力や武力はなくとも、みな宝石のような輝きと可能性をもっているのです。…少しは人間界に馴染んでみようという気持ちになりましたか?」
「大多数の人間どもが、俺を賞金首だと思っている以上、とてもそんな気にはなれんな」
「…今はそうでしょうね。でもきっと、いつかあなたも人間の素晴らしさに気づいて、心を開いてくれる日が来ることを…私は信じています」
シェーラのその言葉にロンは何も答えず、立ち上がってアバンとバランによる築炉に指示を出すと、自らも作業に加わっていった。
人間たちに心を開く———自分にそんな日が訪れる訳はない。今のように利害関係が一致すれば一時的に協力関係を結ぶことはあるかもしれないが、馴れ合いのような関係はまっぴら御免だ。生まれ育った魔界ですら、他人と共存したことなど一度もない。バランの剣術の指導が終わり次第、新天地を求めて旅をし、落ち着く所に落ち着いたら、隠遁しながら一人で生きていく。それが自分にとって最も適した生き方だ……
男三人による築炉作業は、完成までの道のりを大幅に縮めていった。アバンは自負する通りの器用さを備えており、金物屋に仕立ててもらったフードの天井取り付けから、バランが最も難航すると予想していた換気口の貫通作業も流れるように順調に進んだ。
そうして日が暮れ始めた頃に、遂に火炉は完成した。当人たちも驚くほど短期間のうちに、それは奇跡的に実現したのだった。このカールの使者による手助けがなかったら、もう少し時間を要していたかもしれない。バランに代わって調理台で夕食の仕込みをしていたシェーラも、その作業進行の速さに嘆息して、アバンに深く礼を述べた。
「いやぁ、お役に立てて良かった。私もバランには早く剣の修行を始めてもらいたいですからねぇ」
一同が完成した火炉をしみじみと眺めて達成感に浸った後、身支度を整えたシェーラとアバンは共にカール王国へ発つことになった。
小屋の扉を出たところで、少年二人は別れの挨拶を交わした。アバンは、バランに右手を差し出し、握手を求める。
「バラン、剣の修行を終えたら、いつか手合わせ願いますよ。私もそれまでには、今よりもっと強くなるつもりです」
「…わかった」
バランも相手に右手を差しのべ、そしてしっかりと握りあった。
シェーラは、少年たちの純粋な友誼を微笑ましく見守っていた。おそらく彼らは自覚していないが、この二人には 「自らの底知れぬ素質と潜在能力を隠しながらひっそりと生きる」という共通項があり、それが彼らの間に不思議な絆を作っているのかも知れない———そんなことを思いながら、頃合いをみて声をかけた。
「アバン、そろそろ行きますよ」
はい、と返事をしたアバンはシェーラの肩に左手を置きつつ、バランとロンに対し右手を上げ、笑顔で別れを告げた。シェーラが指先で宙に
養育者と幼馴染みの出発を見送ったバランは、ロンの方を振り返って言った。
「…ロン、アバンが手伝ってくれたおかげで想像以上に早く火炉が完成した。剣を作るために、次に何が必要なのか教えて欲しい」
つい先日まで、自分の意思ではなく養育者の指示に従うままに剣の修行に臨もうとしていた少年だったが、今は明らかに目の色が変化していた。まるで、先程の少年アバンの瞳に宿っていた剣士の精神が、バランに伝播したかのようだった。そしてそのバランの真摯な瞳は、ロンの胸にも確実に「何か」を届けたのである。
「…鍛冶作業をする上でまず炭が要る。そして工具となる槌と金鋏の類いは、木材と鉄だけで仕込める。剣の材料には鋼やミスリル、アステライトといったものが必要だが、それはまた先の話になろう」
「炭と木材と鉄は、村の中で手に入る。それ以外の金属は、鉱脈のある場所まで調達しに行くしかない…そのうち、採掘の旅に出ることも考えないといけないな———とりあえず、もう夜だ。シェーラの作ってくれた夕食が冷めないうちに食べよう」
バランはそう言って、小屋の中へ入っていった。やがてランカークスの森は深い夕闇に包まれていき、夜気の冷たさがロンを襲った。
小屋に戻る前に、ロンはふと夜空を見上げた。厚く暗い雲に隠れて月や星は見えないが、見えたところで、自分には星詠みをする能力などない。しかし、このときのロンには確かな予感があった。これから、自分の人生が大きく動こうとしているということを———
…一方、シェーラとアバンの二人は、瞬間移動魔法によってカール王国の敷地内に降り立っていた。シェーラにとっては十年ぶりの土地であったが、当時軍事国家として名を馳せたカール王国のかつての活気はない。その領地を支配していたのは、失意にも似た絶望だった。
(続)
続きが気になる方は、お気に入り登録して頂けると大変励みになります☆
ここまでお読みいただきありがとうございました!
「ロン・ベルク外伝」1話〜11話までを収録した紙媒体の同人誌と、副読本の頒布はこちらから。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
☆BOOTH 同人誌(ダイの大冒険)カテゴリ
【ロン・ベルク外伝(一)星に導かれし者たち】
【ロン・ベルク外伝 旅紀行(一)】
https://soratonica.booth.pm/item_lists/rYETpzzr