…あれは遠き日の夢か、あるいは幼き頃の記憶、それとも————
あらゆる光源から閉ざされた地底世界の深淵たる闇に、漆黒のローブに身を包んだ祈祷師たちの、呪詛のような低い周波の響きが静かに満ちていく。
生き血に染められた祭壇に横たわる自分の周りには、無数の蝋燭の紅い火が天に向かってか細く揺らめき続け————禍々しく淀んだ空には、冥界にその身を捧げた古の亡者たちの表情が無数浮かびあがり、生贄が神に捧げられる証人としてその儀式を見守っている。
神獣の彫刻を施したオリハルコンの錫杖を天に掲げ祈る司祭と、祭壇を取り囲む数百人の祈祷師と僧侶により、その儀式は執り行われていく。
彼等は、破壊を司る魔界の神・アゴーラの復活を願い、御神体の蘇生に必要な魔力として魔族の生贄を毎年捧げ続け、最後の666人目となるこの日には、幼き命を差し出したのだ…
幾度となく繰り返される祈祷師たちの呪文の詠唱とともに、自分の生命力が全身から抜き取られ、虚空に現れた別次元の
自分が意識を失いかけたそのとき、一筋の剣光が空を切り裂いた。
人の形をした黒い影が舞うように躍動し、その手に握られた白銀色の剣によって、神聖で厳かな儀式を悲鳴と絶望と狂気の宴へと染めていく。
破壊神アゴーラの復活を阻止せんと現れた、光にも闇にも属さない制裁者————
伝説の剣豪ヒュンケル。
後世にそう称される影の男は、漆黒の馬に跨がり、現れたときと同じように音もなく闇の中に消えていった。
祭壇に横たわる自分に彼が置き残していった言葉は、それ以降250年以上もこの魂に深く刻まれている————
「強くなれ…己の限界を超え、そして神をも凌駕してみせろ。その身に埋め込まれたアゴーラの呪いを解かんとするのならばな…」
…ロンは、自分の肌に柔らかな光が当たる感覚で目が覚めた。
夢うつつで
それまで経験したことのない清々しい目覚めに、ロンは自分が魔界から人間界へやってきたことへの実感を深めた。
250年以上生きてきて、このような朝は初めての経験であった。
これが太陽光の存在する世界というものか————
目の前の暖炉は、昨夜と変わらぬ様子で炎が揺らめき、朝の冷気をしのぐに十分な熱を小屋の中へ伝えている。もしかしたら、自分がここで寝ている間も時折バランが薪を補給していてくれていたのかも知れなかった。
くるまっていた毛布から出て立ち上がると、ロンは小屋の窓からのぞく景色に目を奪われた。
先ほどまで見ていた魔界での夢とはあまりにも違いすぎる光景に、彼は息をのみ、思わず窓辺に歩み寄った。
昨夜までの激しい吹雪はすっかり止んでいた。
小屋の周りの木々を覆い尽くすように降り積もった雪が、朝日をまっすぐに受けて光を帯び、辺り一面に銀水晶の鉱山を思わせる輝きを放っている。
空を見上げると、雪の白さと対照をなすかのようにどこまでも青く透き通っていた。
何と色彩豊かに輝き、澄んだ美しい世界だろう。
それまで自分のいた魔界では、鉛色に淀んだ空と、沈んだ赤褐色の荒れた土、そして大陸の大部分を占める沼から漂う独特の臭気が当たり前であったのだ…
大魔王バーンがこの地上の恵みに嫉妬し、そのためにわざわざ魔王軍を編成した理由も分かるような気がした。
小屋の中に目線を移すと、少年バランが調理台で食事の準備をしている後ろ姿が見えた。
干した果物と木の実が数種類、薄く切った干し肉のようなものが2種類ほど盛り付けられた木の皿を、少年らしい無骨な造作ではありながら、手際よくテーブルの上に並べていく。
暖炉の上に乗せて温めていたポットの薬草茶を2人分の木椀に注いだバランは、ロンと目が合うと、食卓につくように手で促した。
考えてみれば、昨日は魔界のラグの店で酒を飲んで以降、食事らしい食事を取っていなかったことにロンは気付き、今更ながら空腹感を覚えた。
「…昨夜は、よく眠れたか」
少年が言った。
相変わらず無表情で愛想のかけらもないが、自分なりの礼節で接しようとするバランに対し、ロンはロンで友好的とは到底かけ離れた態度で、無言の頷きをもって最低限の返答をした。
朝の挨拶と呼ぶにはあまりに粗野なやりとりがなされたのちに、二人は無言のうちに着席し、テーブルに並ぶ木皿に盛り付けられた朝餉をとり始めた。
初めて目の当たりにする人間界の食べ物を、ロンは手に取ってしげしげと眺めたのち、目の前のバランに倣うように口のなかに入れた。
太陽光が射さないゆえに植物が育ちにくい魔界では、食用にできる
ロンは、口の中に入れた固い木の実を魔族特有の鋭い歯牙で砕き咀嚼しながら、自分の正面で黙々と食事を取り続ける少年バランを観察した。
逆立った短い黒髪と太い眉、そして鋭い眼光が特徴的で、程よく筋肉がついて引き締まった体格も相まって、親しみやすさといった雰囲気からは無縁だった。
そして、彼の額の辺りに何か並ならぬ強いエネルギーを秘めているのを感じるが、それが何なのかはよく分からない。
人間界に来て2人目に出会った人物もまた、只者でない予感がした。
「お前はここで一人で暮らしているのか」
ロンが尋ねると、バランは無表情のまま「そうだ」と答えた。
そしてまたしばらく小屋の中に沈黙が流れた。
さすがに客人からの問いに対して自分の受け答えが雑だと反省したのか、バランは次第にポツリポツリと、自分にまつわることや、シェーラのこと、この小屋の周辺のことなどを話し始めた。
自分は元々は戦争孤児で、赤ん坊の頃にシェーラに拾われて育てられたこと。以前はこの小屋の森を抜けたところにあるランカークスという村の教会で自分と同じような孤児達とともに集団生活をしていたこともあったが、訳あって数年前からこの小屋に1人で住み始めたこと。シェーラは普段はベンガーナ宮廷の官吏宿舎に寝泊まりしており、自分の様子を見るために時折この小屋を訪れるということなど。
決して話し上手ではなく寡黙な印象の少年だが、不器用ながらも、育ての親であるシェーラから「客人として丁重に扱うよう」と言われた約束を忠実に守ろうとしているのがロンにも伝わる。
その純粋さにつられ、ロンも少しばかり会話を続けることに力を貸した。
「…人間界では、いつもこうしたものを食べるのか」
「…いや、普段は挽いた穀物を発酵させて焼いたものも食べるし、山で採れた野菜と獣の肉を煮込んだ汁物も作る。ただ、今年は数百年に一度の厳冬で作物が十分に収穫できなかったから、こうした保存食に頼ることもしばしばだ。それでも、ベンガーナはまだマシな方だとシェーラが言っていた。ここよりもっと北のリンガイア王国の方は、それこそ食糧不足で飢饉に陥っているらしい」
今テーブルに並んでいるのは通常の食事ではなく、備蓄用の貴重な食料というわけだった。
バランは成長期の年頃に見えるが、彼の食べ方からしてそれほど食には頓着していないようにも見え、もしここに自分がおらず彼1人であったなら、もっと簡素な食事内容だったかも知れない。
それにしても、とロンは思った。
こうして己の身の安全が確保できたのは良いのだが、城の牢屋に投獄される際に腰当と剣を没収されたことは大きな損失だった。剣帯を兼ねた腰当には、飛び道具や鍛冶道具などを忍ばせていたし、剣も普段使いの両手剣としてはそれなりに気に入って長年愛用していたものだったからだ。
剣士にとって剣とは、己の矜持を象徴するものであると同時に、命そのものだ。
失ってしまったものは仕方ないが、心の中に開いたこの喪失感を埋めるには、しばらくの年月を必要とするだろう…
食事を終えると、バランは食器洗いを近くの小川で済ませたのち、今日は貴重な晴れの日だから、とランカークスの村中心部にひとりで買い物に出かけていった。
1人小屋に残されたロンは暇をもて余すことになったが、しばらくはこの人間界の景色を眺めるだけでも2、3日は退屈しないように思われた。
昨夜の猛吹雪と寒さが嘘のように、今日はとても穏やかな天気だ。
森の木々の狭間から覗く太陽の光が小屋の中にも差しこみ、家具の影を作り始めた。時間の経過とともに次第に陽射しの角度が変わり、影が少しずつ位置をずらしていく。この世界では日時計という形で利用されるこの自然現象を、ロンは興味深く眺めた。魔界でこれほどくっきりと日陰が生じることなど、極めて稀なのだ。
これから先のことは何もわからないが、なるようにしかならないだろう————
ここは自分がそれまでいた世界とは、住人も文化も土地環境も何もかもが違いすぎる。いろいろ思考を巡らせたところで無駄かも知れなかった。
バランが村に出かけてから1時間くらい経った頃、ふと小屋の中心に空間の歪みが生じた。ロンがその気配を感知して身構えると、次の瞬間、魔法によって遠隔移動したシェーラの姿が現れた。
昨夜に囚人だったロンの身柄を解放した女神官は、両手に大きな包みを抱えて小屋に戻ってきた。
「…城が広すぎるので少々手間取りましたが、間一髪、間に合いました。もし昨夜のうちに戻っていなかったら、これらは今頃ベンガーナ市場の競売に出されていたところでしょう」
安堵の笑みとともに、シェーラはテーブルに2つの包みを置き、それぞれの中身を取り出した。それらは————ロンにとって馴染みの深い…というより、彼にとって己の分身にも等しいものだった。
金属製の腰当と、魔獣の鋭利な爪を連想させる鍔装飾が施された両手剣。
それは紛れもなく、ロンのものであった。
腰当に刻まれた紋章が、窓の外の光を受けて静かな輝きをたたえている。その紋章との再会は、自分が人間界にやってきたとはいえ、変わらず魔界のベルク流鍛冶職人であることを証明するものであった。
「昨夜あれから城に戻って、事後処理をしていたのです。城の者達には、あなたが自力で脱獄し行方をくらませたように見せかけなくてはいけませんでしたし…そしてそのついでに、あなたの旅の持ち物を取り返してきました」
マントと寝袋、旅の携帯食は既に廃棄処分されていたとのことだったが、そんなものはロンにとってはどうでもよかった。
「そうか、それは手間をかけた…礼を言おう」
ロンはテーブルの上の剣に手を触れると、瞬時に鞘から抜き、並の武人ではとても反応できない程の速さでシェーラの喉元に鋭利な刃を突きつけた。
昨夜は容姿をじっくり観察する余裕がなかったが、こうして間近に見ると、種族の違う自分から見ても、整った顔立ちをした美人であるのがわかる。青緑色の瞳が、臆することなく静かにこちらを見据えている。
「素性のわからない俺に対してそこまでの便宜を図る理由とは何だ…俺がもし、人間界を侵略する目的でやってきたとしたらどうする。少なくとも今の俺にとって、お前さんの首を一瞬でかき斬ることなど
魔界では、自分にとって利用価値がない相手は存在する意味がなく、競合相手は蹴落とし、目的を同じくする仲間も時によっては裏切り、忠誠を誓う主君も状況に応じて替えるのが日常茶飯事だ。それが魔族の常識でもあり、処世術であった。
魔界よりはるかに邪気の少ない人間界の聖職者とはいえ、この人物に信頼を置くにはまだ早い気がした。
ロンは、剣の柄を握る手に力を込めた。
人間界の女神官は、魔族からの脅しに微塵もたじろぐことなく、静かにふっと目を閉じると、軽く微笑んだ。
「もしそうであったとしたら、その意思が明らかになったときに改めて考えるでしょう。昨夜牢屋で話した通り、種族の違いによって差別することはしたくないのです…ギネ神の教えに反しますから」
その妙にゆったりとした物腰の受け答えは、脅迫をもたらした側には逆に軽い苛立ちを感じさせる。
「あとはそうですね…強いて言えば、聖職者としての直感というものでしょうか。この人を死なせてはならないと…私の心が、そう伝えているのです」
その言葉に、剣を構える手から思わず力が抜けるのをロンは感じた。
理屈で片付けられないことを語るような相手は、ロンの苦手とするところだった。
いっそ、したたかに自分を利用してくれるような人物の方が扱いは楽だ。そう、魔界にいた頃の大魔王バーンが自分に対してそうであったように————
「やれやれ、食えない人物だな」
ロンは静かに剣を鞘に収め、軽くため息をつきながらそれをテーブルの上に戻した。
勝手のわからぬ土地で唯一自分の助けになってくれる存在を殺めたところで、自分にとって何一つ利益にならない。それは最初から明確だったが、魔界では他人に対し疑いを持たないことは即ち死を意味する。それゆえに、やはり相手の魂胆を確かめる必要があったのだ。
己の信ずる神の教えとはいえ、純粋な善意によって自分を助けたとは信じがたいが、この人間界の神官には、今利用できるうちは素直に従った方が得策だろう。
ただそれも一時的にであって、彼女に従属しつづける理由はどこにもない。この厳冬期が終わり次第、この大陸の地理と情勢を把握した上で、さっさと自分だけの居場所を探しにこの小屋を出たいところだ。
とはいえ、自分の半身ともいえる腰当と剣を取り返してくれたことに対しては、彼女に何らかの形をもって応える必要があるのかも知れないと、ロンは感じ始めていた————
「俺たち魔族は、お前たち人間どものように利他の精神を持ち合わせていないが、恩義の概念はある。…どうやら俺は、お前さんに大きな借りを作ってしまったようだ」
小屋の壁に背中を預けて腕組みをしたロンは、己の負けを認めたような面持ちで目を伏せた。
「もしそう感じて頂けるのなら、あなたにお願いしたいことがあります」
シェーラは、今しがた剣を突きつけられた喉元の詰襟が少し乱れたのを指で正しながら、言葉を続ける。
「あなたには、バランの剣術の教師になっていただきたいのです」
ロンは意表をつかれたような形で、片方の眉を上げた。
「バランは、今年15歳になります。彼には、これから騎士として生きていくのに恥ずかしくないよう、生きるための教養や作法、魔法の類いは私が一通り教えました。ただ、私は神官なので戦闘については棒術と弓しか心得がありません」
剣術の師を頼みたい————
予想もしなかった相手からの要望に、ロンは言葉を失った。
雪化粧の施された遠くの山脈から、キメラの鳴き声が微かにこだましているのが聞こえてくる。
シェーラは窓辺に歩み寄り、小屋の外の景色を眺めながら話を続けた。首の後ろで結われた白金色の長い髪が、太陽の日差しを受けて微かに煌めく。
「今まで世界各地から剣豪として名高い武人を何人もここに招いたのですが…教えるどころか、バランに力技で打ち負かされる有り様なのです」
ロンはその話に対して、率直な感想を述べた。
「この人間界の中でそれほど強いのだとしたら、別に師など要らないのではないか」
「いえ、そういうわけにもいかないのです」
シェーラはきっぱりと答え、再びロンの方に向き直った。
「なぜなら…彼は普通の人間とは違う、特別な存在です。まだバラン自身は、自分の生い立ちの真実を知りません。戦争孤児だった彼を私が養育者として引き取った、ということで伝えているのですが…」
神官帽の下から覗く青緑色の瞳に、真摯な使命感を帯びた光が揺らめいた。
「…でも本当は違います。15年前に、私が聖母竜から赤子のバランを授かったのです。伝説の【竜の騎士】————それが彼の真の姿です」
膝の高さまで積もった厚い雪をブーツで踏みしめながら、バランは小屋のある森からランカークスの村へと続く山道を下っていた。
今日は珍しく晴れ間が見えて暖かい陽気になったが、山脈の彼方でキメラが細く長い奇声を上げているのが聴こえ、明日からまた雪が降りそうだと予感した。
シェーラがどのくらいの間、魔族の男・ロンを自分の住んでいる小屋で保護するつもりなのか分からないが、今小屋の食糧庫には自分1人の備蓄しかない。もし2人でこの厳冬期を越すことになるのなら、少しばかり補充が必要だった。
山道を抜けてランカークスの村に出ると、ベンガーナ城から派遣されてきた役人と衛兵たちが、村の中心広場で村長を囲んで何か話し合っている。そしてそれを遠巻きに囲むように、村人が野次馬見物しているのが見えた。
人だかりを避けながら村の通りを抜けていくと、バランは一軒の穀物屋に入った。
持参してきた麻の袋をカウンターに差し出し、大麦を袋一杯に詰めてもらうように店の年老いた主人に依頼した。
少しばかりおまけをしてくれた主人に礼を言ったバランは、今しがた遭遇した村の広場での騒ぎのことを伝えた。すると、主人は白い顎髭を指で触りながら物憂げに呟いた。
「ワシがここで店を始めて60年近く経つが、ああやって城から役人が現れるときは、大抵ろくでもない事件が起きた時だ。しかし今回はえらい仰々しいのう…」
子ども・女性・老人など力弱き者には努めて優しく接するようシェーラから教育されてきたバランは、主人の持病だという膝の関節痛に回復魔法【ホイミ】を施しながら、魔族の男をかくまうことになった自分の生活がこれからどうなっていくのか、先の見えない未来に対し静かに思いを巡らせていた————
(続)