首都ベンガーナの世俗的な賑やかさから遠く離れた村・ランカークスは、山脈と森に囲まれた環境も手伝い、自然界のささやかな恵みに感謝し、何気ない日々の暮らしを大切に重んじる人々たちによる集落である。
その村の外れにある森の奥深くで、木材を槌で打つ音が辺り一帯にこだましている。
森小屋の外で、小さな切り株の椅子に腰掛けながら大工仕事をしていた少年バランは、ふぅ、と一息ついて立ち上がり、数時間没頭していた作業の成果を眺めた。
物置にちょうどよい寸法の木材が残っていたおかげで、枠はおおかた完成した。あとは小屋の中に配置して、木枠の内側に干し草を厚めに敷いて布を被せる。そうすれば、取り急ぎ今夜の自分の寝床としては十分だ。
昨夜は、ロンが頑なにベッドで寝ることを拒んだが、遠慮したというよりは、おそらく他人に対してなるべく借りを作りたくなかったのだろう。でもこうして寝床が2人分あれば、そんなことも起きまい。彼には、それまでの自分が使っていた小屋備え付けのベッドを使ってもらうことにする。あのベッドの方が、長身のロンの体躯にぴったり合う寸法のはずだ。
ただ、そんなことよりも気にかかるのは————
昨夜からこの小屋に転がりこんできた、「指名手配中」の魔族のロン。バランは、彼が自分の剣術の師になるということについて、大きな戸惑いを感じていた。それを紛らわすように無心で大工仕事をしていたのだが………作業が終わったところでそれは解消されそうになく、いまだ心の整理がつかずにいる。
養母であるシェーラの決めたことに反対するつもりはない。魔族であるロンをかくまうことにしたのも、何か彼女なりの考えがあるのだろう。
このことが不安として心に付きまとう原因はむしろ————自分自身にあるのだ。
自分は生まれつき身体能力が他の子供たちより高いようで、物心ついた時から村の力仕事も任せてもらえるほどであったし、大人たちからも頼りにされていた。
ところが、思春期を迎える前後から、自分の中に眠る
そのようなときは、とにかく人家から離れたところに行き、小川の冷たい水で顔を洗ったり、拳を大地に打ち付けたりして発散を試みているのだが、勢い余って村の公共物を破損してしまうこともしばしばだった。
それは精神的な高ぶりが引き金になって呼び起こされる、ということだけは経験則で分かっていた。それゆえ、なるべく感情を表に出さず、努めて無表情であるように過ごしてきた。
しかしそれでも、自分と世間の人々との間にある「溝」を深くする決定的な事件が起きてしまった。
それは数年前のある日のこと、<———後にシェーラが事情聴取の場で調査官から詳しく聞かされたところによれば———>ベンガーナ城下町の食事処で、戦士の風貌をした巨漢の男が愚痴をわめきながら、昼間から酒をあおって泥酔していた。
ちょうどこの時期、ベンガーナ軍が大砲と戦車部隊を新設して白兵戦部隊の人員削減を行っていた。その影響により、解雇され職にあぶれた戦士たちが街や村の路上で途方に暮れて座り込んでいる光景がよくみられたものだったが————この男も、その日の朝に突然除隊を申し渡され、納得のいかないまま城外に放り出されたという。
そうして店で自棄酒を呑んでいた元戦士の男が、飲食の勘定を要求した店主に対し酔った勢いで殴りつけたことで、店内は騒然となった。
他の客からの通知を受けて城から衛兵数人が駆けつけ、男を取り押さえようとしたが————白兵戦部隊の中でも巨漢と怪力で知られていたこの男への牽制力には全くならなかった。店内装飾として壁に掛けてあった骨董品の
事件の後になって、この男が国で所持を禁じられている植物———強い幻覚作用をもたらす———を常用していたことが判明したのだが、彼の脳裏に展開された幻影は被害妄想を生み、次第に暴走し始めた。男は店の主人や客まで無差別に斬りつけ始め、店の内装を紅い模様で次々に染め上げていった。
そのとき
思わず大通りに出て、声がする方角へ駆けていく。すると、返り血を顔に浴びた女性が、焦点の合わない瞳で「誰か…誰か…」と助けを求める姿を見た。その声は、もはや叫び疲れて掠れきっている。
その女性は、自分の目の前までよろよろと歩いてきたところで膝から崩れ落ち、そのまま失神してしまった。何か尋常でないことがこの近くで起きている————そう瞬時に理解した。
その場に行って何ができるかとか、そんなことは皆目見当がつかなかった。今の自分は、短剣はおろか、武器を何ひとつ持っていない。
が、気が付けば体が勝手に動き、狂気の現場へと足が駆けていた。
己の中に秘められた野生の勘が、強烈な殺気の主を察知し、その場へと導いたのだ。
店の前に立つと、開け放たれた扉の向こうからは、むせかえる程の血の臭いがした。床には、非情の死を遂げた者たちの遺体が幾つも無残に転がっており、紅い水溜まりを随所に作っていた。
殺戮の現場を目の当たりにした自分は、血の気が引いていくと同時に、胸の鼓動が激しくなっていくのを感じた。
すると、店の奥でゆっくりと何か大きな野獣のような影が動いた。手に斧槍をもち、何か意味不明なことを口走っているその男こそ、この惨劇を生んだ主人公だと悟った。男は白目をむき、もはや正気を失っている。
男の躯体はかなり大きく、まるで
そう思った時、床に横たわっていた遺体のうち———まだ天に召されていなかったベンガーナの兵士が、地に這ったまま最後の力を振り絞って男の左足首を両手で掴み、そして自分に向かって叫んだ。
「坊主、ここから早く逃げろ!そして王宮へ行って騎士団の連中を呼べ!」
それに気付いた狂気の男は、足を掴んだ兵士の頭を目掛け、何のためらいもなく冷酷に斧を振り下ろした。
鮮血が宙を舞い、自分の足元にも赤い飛沫が振りかかる。生まれて初めて見る「人が人を殺す」瞬間に、全身が硬直した。恐怖で動けないというより、あまりにも非道な光景を目の当たりにしたことで現実感覚が麻痺したのだ。
もう誰も邪魔者がいないと知った男は、こちらへ向かってゆっくりと歩み寄ってきた。自分とは体格差がありすぎるその男が、両手で斧槍を振り上げた次の瞬間————額の中心に何か熱い力が急速に込み上げ、自分の全身が爆炎の柱になったかのような感覚におそわれた。
そこから自分が何をしたのかは全く記憶に残っていない————
気がついた時には、血まみれの状態で大の字になって天を仰ぎ倒れている巨体の男と、刃が真っ二つに割れて
そして自分の背後には、その現実離れした惨状に青ざめ、こちらの姿を遠巻きにみる街人たちがいた。子供は恐怖に怯えて泣き、大人たちも戦慄のあまり腰が抜けそうな様子だった。
そのとき、店内の壁に掛けてあった大きな鏡に写った己の姿を見て、街人たちが自分を激しく怖れた理由を理解した。男の返り血を浴びて真っ赤に染められた顔と服。そして鬼神のような鋭い眼差し———とてもこの世の生き物とは思えなかった。これが本当に自分なのか———と。
…その後、街人の通報によってベンガーナ騎士団の小隊が駆けつけた。騎士たちは、衛兵数人でも抑えることができなかったこの巨体の元戦士を子供一人が「素手で」倒した、ということが信じられない様子だった。何か違法の凶器でも所有しているのではないかと、かえって自分の方が怪しまれてしまったほどだ。が、騒動を耳にして宮廷執務を抜け出し事情聴取の場に現れたシェーラが巧みに自分を弁護してくれたことにより、何事もなくその場は釈放された。
その事件を村の人々に見られていなかったことだけが救いだったが、それ以来、自分でも制御不可能な力に恐れを感じ、無意識のうちに他人との距離を置くようになった。
一緒に暮らしている村の教会の孤児院の子供達にも、いつか必ず迷惑をかけることになる。自分は普通の人間とは違う。このまま村の人たちと一緒には暮らしていけない————
その想いをシェーラに正直に打ち明けると、彼女は自分に対しこう言ったのだった。
「普通の人間と違うということは、それがあなたにしかない個性なのだから、誇りに生きなさい。そうですね…他人に迷惑をかけたくないのであれば、一人で暮らすという選択もあります。あなたも背丈が私と並ぶくらい大きくなりましたし、そろそろ独り立ちの時期かもしれません。まずは自分自身をよく知り、内観を深めましょう。そうすることで、自分自身を律する余裕も生まれてくるはずです」
そして彼女は「心を養うには、自然の中で生活するのが一番近道」ということで、この森の土地の権利を買い、小屋を自分の住まいとして与えてくれたのだ。
村での集団生活はできなくても、この自然豊かな森林の中であれば自給自足して生きて行くことは十分可能だと———狩猟や農、保存食の仕込み方から、薬草の調合法、月の暦に合わせた樹木の伐採方法など、生活における様々な知恵も授けてくれた。動物の毛皮や羽、山脈の鉱石は街で売れば高い金額で買い取ってくれるため、お金にも困ることはない。この小屋での生活を通して、次第に一人で生きていくための力がついたと同時に、自分自身に対する肯定感も少しずつ取り戻していった。
そして、その事件以降シェーラは、何の考えがあってのことか分からないが、たびたび世界各地から剣術の達人をこの小屋に招き、自分の家庭教師として剣術の稽古をつけさせるようになった。
それはロモス武術大会の歴代の優勝者や、リンガイアの闘気剣の使い手、パプニカの剣豪、アルキードの将軍など、武人の出身地や経歴は多岐に渡るものだったが———しかし、そうしてこの小屋にやってきた人物の誰一人として、自分の一太刀をまともに受けられる者はいなかった。
地上最強ともいわれるカール王国の騎士団長が、直々にこの小屋まで訪れて手合わせをしてくれたこともあったが、やはりあの事件のときと同じように、何かに取り憑かれたかのように全身が熱くなって体が勝手に動き、気がつくと相手を完膚なきまでに叩きのめしていたのだ。そのときは瀕死に近い重傷を負わせる結果となってしまった。
シェーラが完全回復魔法【ベホマ】で騎士団長に応急処置をしてくれたおかげで事なきを得たが、自分の中では常に疑問がつきまとっていた。
なぜ、シェーラはそこまでの犠牲を払ってまで、自分に剣術を身に付けさせようとするのか————
直接尋ねたこともあったが、彼女は「成人を迎えたら、その意味が分かりますよ」と答えるのみだった。
そして今回、ふたたびシェーラが自分のために剣術の師を選んだ。しかもそれは、「魔界からやってきた」ということしか分からない、素性の知れない魔族だ。
彼女が何か深い思慮をもって決めたことに違いないだろうが、自分の異常性を突きつけられるような出来事には懲り懲りだ。できればもう、そんなことには向き合いたくはない……
小さなため息をつきつつ、バランが端材や工具の片付けをしていると、次第に太陽の角度が落ち始め、辺りの雪が次第に柔らかな黄金色に染まってきた。そろそろ夕食の準備をしなくてはならない。
明日からまた、しばらく雪の日が続くだろう。暖炉にくべるための薪を少し多めに小屋の中へ運ぼうと立ち上がったとき、木々の向こうから何か小動物が雪の中を跳ねるような物音が聞こえた。
姿は見えないが、あの気配はたぶん「アルミラージ」だ。
この寒さで冬眠したものと思っていたが、今日の暖かさで巣穴から起き出してきたのだろうか。幸い、まだこちらの存在には気付いていないようだ。
一角兎であるアルミラージは、通常の兎同様、食用にできる
うまく仕留めることができれば今夜の食材になる、とバランは思った。
そうでなくても今日から2人分の食料が必要になるのだから、出会えた獲物はできれば逃したくない。
自分のいる位置からは少し距離があり、下手に動くと獲物に気付かれる可能性がある。今立っているこの位置から狙うしかないが、魔法攻撃では急所を外してしまう可能性が高い。中途半端な魔法で絶命まで時間がかかると、苦痛によるストレスが獲物の全身を巡り、筋肉が固くなって美味しくなくなる。相手が痛みを感じないほどの速さで、一撃で仕留めねばならない。
バランは大工仕事に使っていた
己の気配も消し、獲物の「気」を慎重に察知する。誰に習ったわけでもない、自分ならではの探知方法だが、今までこれで獲物を外したことはなかった。
前方で蠢く獲物の様子を慎重にとらえていたバランは、ふとアルミラージの後脚に気が集まるのを感じた。
次の瞬間に獲物は跳ねる。
そう確信したところで、狙いを定め、木々の中へ向けて勢いよく錐を投げ放った。
すると、ごく僅かな鮮血が宙を舞ったと同時にドサッと何かが雪の中へ埋もれた音がし、獲物の「気」が完全に消えた。
バランが木々の中に分け入って近づくと、背筋に錐の刺さったアルミラージが、目を見開いたまま気絶して横たわっていた。中枢神経の部分をうまく狙えたようだ。
バランは小屋の外の物置から狩猟用ナイフを持ってきてアルミラージの首に刃を押し込み、完全に絶命させると血抜きをしてそのまま解体を始めた。手際よく毛皮を剥ぎ、内臓を1つ1つ取り出していく。狩猟と解体は、この森の暮らしを始めてから幾度となく繰り返している慣れた作業だ。
調理に使う筋肉と内臓の部位を木椀に盛ったバランが小屋の中に入ると———昨日から同居人になった魔族の男・ロンが窓際の椅子に腰掛け、両手持ちの剣を布で手入れしているところだった。
バランは、そのロンの手元で静かに光る剣刀に思わず目を見張った。
刃はまるで白銀の鏡さながらにバランの立ち姿を反射し、その鋭利さを誇示せんばかりに妖しい紫色の光をたたえている。まるで「戦神にその身を捧げる覚悟はできているか」と持ち主に問いかけるかのように————
鍔の装飾も独特の造りをしているが、この剣は、村のジャンクの武器屋やベンガーナの市場で売られているものとは、明らかに異質なものだ……
「何か用か」と怪訝な顔でロンに問われて我に返ったバランは、自分が小屋に入った理由を思いだし、調理場の台の上に肉を入れた木椀を置いて食事の準備に取りかかった。
これからはあの剣を手にした男から剣技指導を受けることになるのかと思うと、バランは何か胸の内側が不穏にざわつくのを感じた。
ふと、バランは暖炉の火がいつの間にか消えていることに気づいた。火打ち石を使って
その様子を見たロンが、剣を磨く手を止めて、バランに話しかけた。
「…お前は火炎魔法を使えないのか」
「いや、
「…昨夜、俺がここに連れられてきたときは、シェーラ自身が魔法でそこの暖炉に火をともしていたが?」
「あれは、吹雪の中を歩いて体の冷えたロンに早く暖をとらせてあげようと気遣ってのことだと思う」
ロンは腕組みをし、何か理解に苦しむ様子で眉間に皺を寄せて目を閉じた。
彼は、そうした人間の「利他」や「慈愛」の精神というものが理解できないのかもしれない———バランはなんとなくそう感じた。
暖炉の中の炎が十分に大きくなってきたのを確認すると、バランは先ほど仕留めたばかりのアルミラージの肉を捌いて塩と香辛料を揉みこみ、金属串に刺して炉の中に立て掛けた。
そして別に分けておいた内臓と脳を調理鍋に入れると、水瓶の水を少し鍋の中に入れ、塩と干した野菜の数種類を入れて暖炉の上に置いた。少しばかり火力が足りないと感じたバランは、
「…さっき、外でアルミラージを仕留めた。本当は熟成させた方が旨味が深くなるが、このままでも味は悪くないと思う」
しばらくすると、肉脂の焦げた香りが二人の食欲中枢を刺激した。程よい焼き加減になったと感じたバランは、暖炉から肉串を抜き、木の皿に乗せて食卓に並べた。
剣の手入れを終えてテーブルについたロンは、物珍しそうな表情でアルミラージの串焼を眺めた。
「…魔界では、
そう言いながら串肉を口に含んだロンは、滋養を感じる不思議な味だ、と思った。
近年の魔界には基本的に呪法で合成した魔物しかおらず、野生の
特に魔王軍に妖魔士団が編成されて以降は、
それと比べたら、この人間界の環境は随分と恵まれているようにロンには思えた。
「…悪くない味だ。この
大方の調理作業を終えて食事テーブルに着席したバランは、自分自身もその香ばしく焼きあがった串肉に齧りつきながら、ロンの問いに答えた。
「今日は運が良かっただけだ。アルミラージがこの時期に野山に出るのは珍しい」
その言葉を聞き、ロンはこの地上における生態系に少しばかり興味をもった。魔界とは物理現象が大きく異なるこの人間界では、一体どのような法則性をもち、環境が成り立っているのだろうか。
バランの剣術の師としての契約が終わり次第、この小屋を出て自分だけの居場所を探すつもりであるから、この地上で食料を確保し自活する術も、この少年からある程度学んでおかねばなるまい————
ロンはふと、バランに問いかけた。
「…ところで、俺がお前の剣の師になるとシェーラは勝手に決めたが…お前はそれでいいのか」
そのロンの問いに、食事をとるバランの手が止まった。
シェーラから交換条件のような形で受けた依頼事とはいえ、本人のやる気が無いのに稽古をつけようなど到底無理な話だ————バラン自身がどう思っているのかを、ロンは確かめる必要があった。
「…俺はまだ、ロンを信用した訳じゃない」
バランはロンと目を合わせないまま立ち上がって暖炉の方に歩み寄り、先ほどその炉の上に乗せて加熱していた調理鍋から煮汁を木椀に少しよそって味見をした。そしてロンに背中を向けたまま、バランは昨夜ロンがこの小屋に転がり込んできたときからずっと気になっていた疑問を、相手に投げかけてみた。
「…ロンは、もともと魔界にいたんだろう?この人間界にやってきた理由が知りたい」
それを聞いたロンは、昼間シェーラに対して放った言葉をそのままバランにも返した。
「…もし人間界を蹂躙する目的だったとしたら、お前はどうする」
バランは振り返って肩越しにロンの顔を見た。
もともと魔族特有の吊り上がった目付きをしているロンの表情が更に鋭さを増し、こちらの度胸を試すかのように自分を見据えている。
内臓と野菜を煮込んだ鍋の中身を二人分の木椀に盛り付け、肉料理の副菜として食事テーブルに添えたバランは、再び着席して少し沈黙したのちに、こう答えた。
「シェーラは、そんな人物を俺の師にはしないはずだ」
意外な反応に、ロンも思わず食事の手が止まった。
「今までシェーラが俺の為にしてくれたことで、間違いがあったことなど一つもなかった。だから俺は、ロンを信用するというより…シェーラの判断を信じる」
信じる————
その言葉は魔族であるロンにとって、まるで意味が理解できないものの一つだった。
それはおそらく人間特有の概念なのだろうが、しかし「誰かを信じる」ということは、己の判断力と洞察力を無力化するための一番簡単な方法だと、ロンは思っていた。
疑いの心を持たずに受け入れるなど、相手の策略や罠に自ら飛び込むようなものだ。この先どれだけ長く人間界にとどまろうとも、その概念だけは到底受け入れられそうにない…
食事の後、バランは昼間に完成させたベッドの木枠を小屋の中に持って入り、部屋の隅に置いて自分の寝床として整えた。
それを見たロンは、ほぅ、と少しばかり心の中で感心した。
単純な作りの寝床のように見えるが、使わない時は折り畳んで壁に掛けておくことができる構造になっている。少年の大工仕事にしては気が利いていた。
ロンがシェーラに提示した、バランの剣術の師になるための条件。
その1つは「小屋の中に鍛冶用の炉を作ること」であったが、バランのこの器用さがあれば、思ったより早く完成するかもしれない、とロンは思った。
今日からは暖炉の前ではなくこの小屋に元々備わっているベッドで寝るように、とバランから促されたロンは今回は素直に聞き入れ、食事に満足した様子か、この日は早々に眠りに落ちていった。
そんなロンを傍目に、バランは暖炉のそばに石臼を置き、昼間に村の商店で買ってきた大麦を少しずつ挽き始めた。外の冷気が屋内にまで忍びこむような夜には、自然の恵みに感謝しながら暖炉の前で保存食の仕込みをするのが、ランカークス村の人々の古くからの習わしであった。
昼間にベンガーナ市場へ買い出しに出かけたシェーラはこの夜、小屋には戻らなかった。宮廷で何か会議でもあったのかも知れない、とバランは思った。そうでなくても、彼女は日頃から多忙を極める人だ。
「物質の豊かさを尊ぶ国ベンガーナにおいて、非物質の尊さを重んじるギネの神官の存在感など、透明人間と同じですよ」
などと冗談めかして自分に話してくれたことがあったが、実際のところ現在のベンガーナ宮廷はシェーラの魔法力と見識に依存せざるをえず、おそらく彼女は1日何時間と寝ていないだろう。
思えば自分は小さな頃から何かと騒動を起こして養育者のシェーラに迷惑をかけるばかりで、この日まで育ててくれたことに対し何の恩返しもできていない。しかしながら、何をもって感謝の気持ちとし、彼女に伝えれば良いのかが分からない。
石臼の引き手をゆっくりと回し、大麦の粉が臼の外側に少しずつ滑り落ちていく様子をみながら、バランは己の「人として」の不器用さに小さくため息をついた。
ずっと感情を押し殺して生きてきたせいか、自分の素直な気持ちを表現したり、それを相手に伝えることが苦手だった。せめて、自分にとって姉のようでもあり、母のような存在でもあるシェーラにだけは、なんらかの形で感謝の想いを伝えたいと常々思っているのだが……
バランの手元を照らしていた台の上の蝋燭の火が、そろそろ尽きようとしていた。
明日からおそらくまた雪だ。昨日のように吹雪くと外出が困難にはなるが、ロンの提示した炉の設計図を書き、煉瓦や炭など材料の仕入れについて要項を整理するなど、小屋の中でやることは沢山ありそうだ。
暖炉の薪を朝まで絶えぬように補充したのち、バランは数年ぶりの他人との共同生活に少し違和感を感じながら、この日自分で作ったばかりの寝床でしばし眠りの世界へと旅立っていった。
…一方、その地上の遥か下の世界————
地底階層にある魔界のゾラの街では、資材屋の閉店作業を終えて、撤去の準備が完了し若干清々しい気分になったラグが、昨日馴染み客のロンと2人で空けた蒸留酒の残りを飲み干そうと瓶の栓を開けるところだった。
そのとき、店の扉を開く音がして、ラグが入口に目線を向けると、そこには戦士とおぼしき獣人の男が立っており、店内の様子を見回していた。
ラグは酒瓶をカウンターに置いて、突然やってきた訪問客に告げた。
「悪いがウチはもう昨日で閉店した。資材が欲しいなら隣街まで行ってくれ」
すると男は、自分は買い物に来たのではない、と否定した。
「魔界の名工ロン・ベルクを探している…ヤツの工房があるという【嘆きの谷】に行ったら、住まいの小屋が工房もろとも焼け跡になっていた…谷の住人から、たまにここに仕入れに来ることがあるという噂を聞いてやってきたのだがな」
ラグは、酒瓶の底に少しだけ残っていた蒸留酒をいとおしむように飲み干して言った。
「あいつなら多分、もうこの魔界にはいない。昨日、俺が最近仕入れた虹羽飛石を買っていった。おそらく今頃は地上の人間界だろう」
男は少なからず驚いた様子で、深く落胆した表情を浮かべてため息をついた。
「そうか…武器製作を依頼したかったのだが、叶わぬ夢となってしまったな。しかしそうなると、この魔界の武人たちはますます凋落の道を辿ることになるかもしれぬ…」
男の話によれば、ロン・ベルクが大魔王バーンから制作依頼を受けて献上した3つの代表作———「鎧の魔槍」と「鎧の魔剣」、そしてバーン専用の武器となった「光魔の杖」は、その評判が冥竜王ヴェルザーの耳にも届き、ヴェルザーは手下を送り込んで、この魔界のあちこちに点在するベルク流鍛冶工房の職人たちを根絶やしにしたらしい。竜の外鱗に傷を入れかねないほどの強力な武器は、竜族たちにとっては脅威なのだ。
自分の覇権を脅かすような作り手が存在する限り、ヴェルザー派はベルク流職人の命を狙い続けるだろう。
そして、それ以外にもロン・ベルクの行方を追っている連中がいる、と男は語った。
大魔王バーンの手下か、とラグが問うと、男は首を振った。
「…いや、グルー神殿の神官達だ。あまり関わり合いになりたくない連中だから詳しいことは俺も知らないが…」
ラグは顎の無精髭をさわりながら、聞き覚えのある単語から過去の記憶を探りよせた。
「破壊神アゴーラを信仰する奴らか。250年前の復活の儀式が剣豪ヒュンケルの介入で失敗して以来、絶滅した宗教だと噂に聞いていたが…」
獣族の男は、世にも忌まわしいものを眺めるような目つきで、ラグの言葉に答えた。
「ところが、神官の1人が奇跡的に生き残っていたのさ。そこから蘇生魔法で仲間たちを次々生き返らせて、再び水面下で力を付けつつあるようだ。まったく、あの信者たちのしぶとさと執念深さといったら尋常じゃない。目的のためなら手段を選ばんし、何の躊躇もなく禁呪法をも駆使する連中だ」
商売柄、裏事情に通ずる話———特に魔界における魑魅魍魎な噂の数々———は普段から耳慣れているラグであったが、この破壊神信仰にまつわる話には久々に背筋が凍る思いがした。
魔法の禁忌に触れる呪法は、天界の神々を冒涜する行為とされ、この世界を崩壊させかねないほどの多大な危険性を伴う。それをも厭わない連中が再び破壊神復活の野心を取り戻すなど、悪夢以外の何物でもない…
ベルク流職人の最後の生き残りを追って、地上の遥か下の世界で三つ巴の策謀が脈打とうとしていた————
(続)
まずは第一章完結です!
ここまでお読みいただきありがとうございました!