ロン・ベルク外伝   作:ソニカ

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少年バランは、ロンから剣術の稽古を受ける条件として、小屋の中に鍛冶作業場を作ることになった。その参考とするため、ランカークス村の武器屋ジャンクの店を訪れ、その制作現場を見学することになったが…

新章第二部スタートです!


第2章
【第7話】雪中芽


 

…ランカークス村から少し北に向かったところ、テラン国境の近くに「鎮魂の丘」と呼ばれる場所がある。

 太古の昔から、この丘の上に亡き人を想いながらデルフィニウムで編んだ花冠をおさめると、家族のもとへ新しい命として生まれ変わってくるという云われがあり、大きな戦争の後には、敵地に身を投じ故郷に帰ることのなかった各国兵士の遺族たちがこの地に花冠をたむけ、丘全体が蒼く染まる風景がみられた。

 

 その鎮魂の丘を右手に登りきったところに、テラン王国の国教である誕生の神ギネを奉る神殿は存在する。ギルドメイン大陸の中で最も標高の高い位置にあることから「天空の神殿」とも呼ばれるその建造物からは、オーザム、パプニカ、ロモスなどの国々をはるか遠くに見渡すことができる。

 誕生の女神ギネは、子宝と安産を加護する神でもあるため、日頃は女性の来殿者が多い。この日は新星ローランが太陽に最も近づく「黄金の種」と呼ばれる暦で、明け方から子宝祈願の神事が執り行われていた。

 

 天窓から射し込む朝日の光とともに、神殿長が厳かに儀式を執り行う様子を傍らで見守っていた神官・シェーラは、ベンガーナや近隣のテランから訪れたと思しき多くの女性の参列者たちの中に、一人だけ男性の姿があることに気がついた。背が高く、逞しい体格の持ち主であったため、聖堂の中でも大変に目立っているその男は、胸元にリンガイアの国章をつけていた。

 

 厳冬期で大陸全土を雪が覆いつくしている中、遠く離れたリンガイア王国からこの神事のためにわざわざ足を運んでくれたことに対し少なからず感銘を受けたシェーラは、神事が滞りなく終わったあと、多くの参列者たちが神殿を去っていくなか、その唯一の男性参列者のもとへ歩み寄って声をかけた。

 

「リンガイアからわざわざお越しくださったのですね」

 

「自分のような武骨な男は場違いでしたでしょうか」と少しばかり面映ゆそうな様子の男に対し、シェーラが柔らかに否定すると、男は少し安心した表情になった。

 

「実は、最近結婚したばかりなのですが、妻が病弱でして…おまけにこの厳冬期による食糧難で栄養をつけさせることも叶わず、せめて祈願だけでもと—————本人を直接ここに連れてくるのは難しいので、私が代理で来ました。こういうことは、やはり本人でないと効果がありませんか」

 

「そんなことはありません。婚姻の儀式を交わした時点で、ご夫妻は一心同体なのです。御国へ帰られたら、こちらの護符を奥方様にお渡しください」

 

 祭壇で清められたその護符の裏面には、夫婦両名の名前を神官が記載する決まりになっている。その旨をシェーラが伝えると、男は神への敬意を示す形で恭しく跪いて名乗った。

 

「私はバウスンと申します。妻の名はセレナ。お心遣いに感謝いたします」

 

 今この人間界は100年に一度の厳冬によって、そうでなくても年を通して寒冷地であるオーザムやリンガイアは氷河期のような寒波に覆われ、それにより広範囲の農地で凶作となり深刻な飢饉が人々を襲っていた。妊娠を望む女性には不利な条件が揃いすぎていることに、シェーラも少なからず同情した。

 このような情勢において子宝を望むことを非現実的だと指摘するのは、いささか酷と言うべきだろう。かくも絶望的な状況だからこそ、少しでも人々にとって希望となる星が———新しい命の誕生が必要なのだ。

 

「ギネのご加護がありますように———《ラ・ルーモ・デ・アモ・エスタス・ツィーオ》」

 

 愛の光こそすべて、という意味を持つ聖典の一節を添えたのちに、シェーラはギネ神に仕える神官のみが扱える「生誕の秘法」を護符に施して、それをバウスンに手渡すと、妊娠の助けになるといわれる植物・ネトルの群生地を地図に描いて示した。

 

「今の季節はどこも雪に覆われていますので、採取は困難かもしれません。取り急ぎ、薬草屋を訪ねて処方してもらうのがよいでしょう。ここから少し北に向かえばテランの高名な薬草士が住む村があります」

 

 深く礼を言って神殿から去っていくバウスンの後ろ姿を見送りながら、シェーラは空の厚い雪雲の切れ間から朝日の光がうっすら射し込んでくるのを見た。

 そして彼女はふと、十数年前のことを思い返した。まだ赤子だったバランを、この展望の良い神殿へ連れてきていた頃のことを———

 バランは、とりわけ高いところが好きな子供で、神殿の屋上まで連れていって抱き上げると、目を輝かせて喜んでいた。

 

 まだ神官見習いだった13歳の頃に聖母竜からバランを授かったシェーラは、幼馴染みのジャンクから「お前自身がまだ子どもなのに、他人の親代わりが務まる訳がない」と猛反対された。無論それは、ジャンクには聖母竜のことは一切触れず、ただ「孤児を引き取った」とだけ伝えたことも大きかったのかも知れないが————

 

 神官修行の生活をしながらの子育ては正直楽とはいえないものだったが、神殿長を始めとする神官たちがみな「生命を育む」行為を大いに祝福する精神をもっていたため、育児そのものについても何かと協力的だったことが救いだった。

 

 むしろ、バランが物心つく年頃に成長してからの方が、養育者としての試練の日々となった。バランが騎士として生きていくに恥じない素養を身に付けさせるために、まず親である自分自身が、彼を導けるほどの器に成長しなければならなかったからである。

 戦闘能力は歴代の「竜の騎士」たちの魂の経験値がそのままバランの肉体に引き継がれているが、魔法や教養については一から教えなくてはならず、それには修行時代に培った僧侶魔法だけでは不十分だった。一人前の神官として自立した後も、元素系魔法を一通り習得し、カール王国の外れで隠遁生活をしている高名な学者のもとへ弟子入りして幅広い教養を身に付けるなど、自己研鑽のための努力が常に欠かせなかった。自分の半生において、執務と睡眠と食事以外の時間は、ほぼ修行期間に充てたといってもいいほどだ。

 

 聖母竜がわざわざ人間の里へ赤子を降ろすということの意味を考えれば、「竜の騎士」という先入観を捨て、純粋に1人の人間として育ててもよかったのかもしれないという気持ちもあるが———ともあれ、そのバランが今は立派に成長し、ここから遠く望むランカークスの森小屋で一人暮らしている。

 そして、そこに先日魔界からやってきた男が、彼の剣術の師になることが決まった。

 

 人間の自分が、竜の騎士を育てているところに、魔族が現れた—————

 これには、何か運命の巡り合わせのようなものを感じる。

 異なる種族同士が、それぞれの個性を尊重しあいながら、この地上で共存できるかどうかを、天界の神々から試されているのだろうか。雲間から覗く(もや)のような白い天の光は、彼女の問いには何も答えず、この世界をただ淡く照らしている。

 

 午後からのベンガーナ宮廷執務の前に、二人の住む森小屋に届け物に赴く必要があった。彼らの生活の様子をつぶさに聞き、足りないものがあれば随時補ってやりたいが、あまりそこに時間を割いてもいられない。特に今日は、国の防衛対策について宮廷魔術師と協働で議案を作成し提出しなくてはならないのだ。

 

 シェーラは、後輩の神官が背後から自分の名を呼ぶのを聞いた。神事の後は、参列客から貰い受けたであろう雑念や邪気から身を清めるのが神殿のしきたりである。ギネ神に仕える聖職者たちは、祭壇の前で祈りを捧げて浄化作用をもつ瞑想を行ったのち、各々の執務へ戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 この日の朝は、昨日バランが予想したとおりに、ランカークス村のはずれの森では綿のような粒の雪がちらちらと舞い始めた。朝の食事を終えたバランとロンは、作業場の設計について打ち合わせを始めた。

 

 ロンがバランの剣術の師となる為の「条件」の一つは、この小屋の一角に鍛冶作業場を造ること———

 

 これから剣を習う上で、作業場はどのみち必要になるものだとバランは理解していた。自分の剣くらいは、自分で作れるようになれた方がいいはずだ。

 

 ロンから鍛冶作業場を設置する上での注意点を聞いたバランは、小屋の中をあらためて見回した。

 必要な工程は、大きく分けて3つ。

 作業場周りの床板をすべて外し、土が剥き出しの状態にすること。換気を良くするための通気口を開けること。そして火造りをする作業場としての火炉を粘土と煉瓦で作ること。防火対策として壁や天井にも煉瓦が必要だろう。

 

 そして少し熟考したのち、バランは大きな羊皮紙をテーブルに広げ、羽筆で設計図を手際よく書き始めた。まるで定規を使っているかのように、正確に縦横の線を引く姿を見たロンは、昨日の大工仕事に引き続き、バランの器用さに再び感心した。

 立体感覚や、造形感覚が優れているのだろう。もしかしたらこの少年は、鍛冶にも向いているかもしれない…

そんなことをロンが思っていると、小屋の扉を叩く音がした。

 

 バランが設計図の描写を一時中断して、覗き窓で来客の姿を確認して扉を開くと、彼の養育者であるシェーラが大きな包みをもって二人の前に現れた。

 

「さっそく始めているようですね」

 

 テーブルの上の書きかけの設計図を見たシェーラは微笑み、バランの作業の邪魔にならない場所に自らの荷物を置いた。そして、その荷物の中から先日ベンガーナ市場で購入した防寒用の肌着の入った包みをロンに手渡した。

 

「昨夜には間に合いませんでしたが、これがあれば、あなたも地上の寒さを少しは凌ぎやすくなるでしょう」

 

 するとロンは「わかった、あとで着てみる」と言って、その包みの中身を確認もせずにテーブルの脇に置いた。その様子をバランは少しばかり不思議に思った。せっかくシェーラが気を利かせて用意してくれたものに対し、礼も言わずにすぐ脇に置くとは———自分であれば、その場で試着して、まずは何かしら感想を彼女に伝えるし、それが相手に対する礼儀というものだ。

 

 バランとは対照的に、ロンの反応をさして気に掛けない様子のシェーラは、テーブルの上の描画途中の設計図を見て二人に話した。

 

「あいにくこの雪では剣術の稽古は難しいですが、こうして屋内で火炉の設計をするには丁度よい時節ですね」

 

「別に天候などはどうだって構わん。どんな状況でも戦えるようになっておかねば意味がないだろう」

 

 ロンの意見はごく真っ当なものだった。しかし、それでも稽古より火炉の設置を優先しなければならない理由が———ロンの想定を超えた事情というものが、この人間界には存在した。

 

「確かに仰る通りですが、バランには練習用の剣がありません。ですから、まずは火炉を準備して剣を作ることが必要になります」

 

「…剣を持っていないだと?」

 

 ロンの言葉は少し怒気を含んでいた。その理由について何となく察しがついたシェーラは、「人間界の常識は魔界の非常識」であることを念頭に置きつつ、魔族のロンに分かりやすいように事情を説明した。

 

「この人間界では、一般人が剣を持つことを各国が禁じているのです」

 

 ベンガーナに限らず、どの国においても、領民が狩猟用以外の武器を持つことは基本的に違法とされている。騎士や戦士、傭兵といった国から認められた職業の人間か、武術の教師など特別な資格を持った者にしか、国は武器所有許可証を発行しないのだ。それゆえに武器屋の店主も、武器購入のために訪れた客には国から発行された許可証の提示を求めている。

 今までは、剣を教えに来た戦士や剣士たちがバランのために練習用の剣を別途用意してくれていたため、こちらで用意する必要もなく済んでいたのだった。

 

 そうした事情を聞かされたロンは、不可解極まりない、といった風に眉間に皺を寄せた。

 

「理解できんな…なぜそんな制度が必要なんだ。常に丸腰でいるなんぞ、他人に対しどうぞ自分を襲ってくださいと言わんばかりではないか」

 

 弱肉強食の魔界では、騙し合いや裏切りといったことも日常茶飯事のため、性別や年齢を問わず武器を日常的に携帯しており、武術や魔法を磨き、自分の身は自分で守るのが常識とされていた。

 

「それは人間というものが…互いを信頼し、助け合うことで命を繋げていく種族だからです」

 

 シェーラは目を閉じ、静かな口調でロンの疑問に答えた。

 

「あなた方魔族の世界の常識からしたら、他者と協力しあい、共存することの意味を理解することは難しいでしょう。でも、あなたもこの厳冬期にこの世界に来てわかったように、大いなる自然の中で人は自分が無力であることを知るのです」

 

 その言葉に、ロンは自分が数日前にこの人間界にやってきた時のことを思い出した。息も出来ないほどの猛吹雪にさらされた自分は、魔族としての能力も発揮できず、確かに無力そのものであった。

 

「この人間界では、自分の弱さを認め、他者と協力しあわなければ生きていけないように出来ています———ロン、これからこの世界で生きていくのであれば、そのことは覚えておいてください。」

 

 ロンは、腕組みをして深く考え込んだ。

 彼女の言葉の意味を「表面的には」理解したものの、それを芯から納得するには時間を必要としそうだった。

 他者と助け合い、協力して生きていくなど、魔界では考えられないことだ。いかに競合相手を排除し、自分に有利に生きていくかが重要となる世界で数百年ものあいだ生きてきた自分には、丸腰で日々を過ごしても危害を加えられることのない人間というものが、この世の神秘としか思えなかった。

 

 シェーラは、目を伏せて思案しているロンをよそに、これから火炉を設置しようとしている小屋の片隅の方を向いて、バランに言った。

 

「今のうちに火炉を作って稽古用の剣を作っておけば、厳冬期が終わる頃にはその自前の剣で修行を始められますね。バラン、村のジャンクの工房の火炉が参考になるでしょう。彼のところに余った煉瓦もあるかもしれません」

 

 その言葉に頷くと、外の雪がまだ小康状態だと知ったバランは、さっそくジャンクの作業場を見学しに、フード付きのマントを羽織って小屋から出ていった。

 

 バランの後ろ姿を窓越しに見送りながら、シェーラはロンに言った。

 

「火炉の設計についてはバランに任せておいて大丈夫でしょう。彼は村の民家の建築現場を何度も手伝ってますし、こういうことは得意なのです。————魔界の名工殿のお気に召すものになるかどうかはわかりませんが」

 

 ロンは眉をひそめた。

 

「…なぜ、その呼び名を知っている」

 

「あなたのその腰当ての紋章———それはベルク流職人の証ですね。魔界の鍛冶流派の中でも、ごく少数といわれる……この人間界でお目にかかれるとは思いませんでした」

 

 ロンは、やはりこの人物は油断できない、という思いを新たにした。いったいどこまで魔界を、そして自分のことを知っているのか——————

 

「…シェーラよ、忠告しておくが……知りすぎることは、命を縮めるぞ。特に俺の素性についてはな」

 

「異なる種族同士が共存するには、まずお互いのことをよく知らなければなりませんから」

 

 シェーラはロンが言葉の剣を鋭く突き刺してくるのをさらりとかわしながら、話を続けた。

 

「この大陸の多くの人間は、噂でしか魔族のことを知りません。あなたも、人間のことは何もわからないでしょう。無知は誤解と偏見を生み、諍いを起こす根本原因です。ですから…あなたに少しばかりこの世界のことを記した書物をもってきました」

 

 そう言うと、彼女は自分が持ってきた大きな包みから、厚みのある書物を数冊と、大きな巻物1つを取り出した。テーブルの上に置かれたそれら書物は、この人間界の地理や気候、動植物、民俗、国家や宗教といったことについて書かれた文献の数々だった。

 

「ロン、人間界の文字は読めますか?」

 

 ほんの少しだけな、とロンが答えると、シェーラは1つの巻物を手に取り、その結い紐を解いてテーブルの上に広げた。それはこの人間界の地図であった。シェーラは、この世界を構成する5つの大陸について1つ1つ解説を始めた。それを聞きながら、やはり全体的に魔界とはかなり大地の作りが違うようだ、とロンは思った。

 

 ふと、ロンは地図の中の青く彩色されている部分が気になった。魔界の地図にはない要素だ。

 

「この陸地以外の青いところは何だ」

 

「この部分は海で、魔界でいうところの沼にあたります。でも人間界の海はとても深くて沼のように歩いては渡れませんから、通常は船や気球を使って大陸間を移動します。魔界と共通する移動手段は、馬を使うところくらいですね」

 

 正確には、魔界の住人たちは飛行能力をもつ魔物(モンスター)にまたがり移動することが多いため、馬との主従関係に独自の美学をもつ騎士くらいしか馬を御する者はいない。

 

「先日、あなたが魔法陣で囚われた場所はこのアルキードとベンガーナの境界線付近です。そして今私たちのいるランカークスの森はそこから北東に位置するこの部分です」

 

 ロンは、自分が辿ってきた足跡を目で追った。魔界からやってきたその日、ちょうどこの世界の中心部に自分は降り立ったことが確認できた。

 

「この地上では南に行くほど暖かく、北に行くほど寒くなる性質があります。特にこのリンガイアから北にかけてはとても寒い土地なので、あなたが住むには適さないかもしれませんね」

 

 どの場所においても一定の気温が支配する魔界の感覚からみると、どうやら人間界はかなり特殊で複雑な環境のようだ。

 魔界の猛者が人間界を侵略せんと野心を固めてから実際に行動に移すまで、100年と時期を待つことが珍しくないが、それはこうした事情があるのだということが理解できた。大魔王バーンが実際にこの人間界に侵攻をかけるのも、おそらくこの厳冬期がすぎてからになるであろう———ロンはそう予測した。

 

 「それから、これを」といって、シェーラはテーブルの上にレンズのようなものを置いた。それは、片眼鏡だった。

 

「異言語を解読する片眼鏡です。それを片目にかけることで、魔族語が人間語に、人間語が魔族語に置き換わって見える効果があります。私が昔師事していた学者の先生が創られたもので、試作品だといって私にくださったのですが、私はあまり使うことがないので———あなたにお譲りします」

 

 ロンは片眼鏡を右目に掛けて、地図を見た。すると、地名の書かれている人間語の上に、うっすら立体的に魔族語が薄く浮かび上がるのが見えた。

 その効果を確認したロンは片眼鏡を外してテーブルに置くと、腕組みをし、ため息をついた。

 

「いろいろと感謝するが———やはり俺にはまるで理解できん」

 

 防寒用衣類に、人間界の書物、そして言語を翻訳する片眼鏡———

 魔族にとって最も謎に包まれている「人間の心」———その不可解さというものにロンは直面していた。

 

 魔族や竜族と異なり、利益や欲望で推し量ることのできない純粋な心を人間は持っている———ということは魔界にいた頃から噂に聞いていた。しかしその実態というのが、単純な駆け引きのできない、魔族であるロンにとっては掴みどころのない霞のようなもので、シェーラの言動がまさにそれを具現化したものだった。

 

 ロンの心情を何となく察したシェーラは、やさしく諭すように答えた。それまで生きてきた道理とは真逆の概念に直面すれば、不可解さに苦しむのも無理はない。

 

「私たち人間と、魔族のあなたとでは、生きてきた土台が違いますから、理解できないのも当然でしょう。…そうですね、これらの物はバランの剣術の師となっていただくことの報酬だとお考えください」

 

「そのバランに剣術を教える件だが———ここに火炉を作って剣をこさえるまでは、徒手の稽古くらいしか出来んぞ」

 

「十分です。あなたもバランから人間界について教わることが多いと思いますので、この雪がおさまるまでの間は、ゆっくりお互いに学び合うと良いでしょう」

 

 そう言うと、また数日後に様子を見にくる旨を伝え、シェーラは瞬間移動魔法【ルーラ】を発動して、小屋からベンガーナ宮廷へと発っていった。

 

 ロンは、彼女がテーブルに置いていった書物の山を見た。翻訳器を置いていったおかげで、しばらく退屈せずに済みそうではある。

 一人小屋に残されたロンは片眼鏡を手に取った。それを魔族特有の彫りの深い眼窩にはめると、窓の外で静かに舞い落ちる雪を背景に、読書の世界へ暫し耽ることとなった。

 

 

 

 

 

 

 頭からかぶったフード付のマントが、次第にうっすらと雪の膜に包まれていくのを感じながら山道を下って歩いていく。村の入口からはところどころ雪の凍結した石畳に足をとられそうになりつつ、バランは村中心部の通りを抜けて武器屋に辿り着いた。扉を開けると、店内の暖炉によって程よく温められた空気が、雪道で冷えた彼の体を癒すように柔らかく迎えた。さして広くもない店内には村人とおぼしき客が既に数人おり、ジャンクはその接客対応中だった。

 

 普段は先客がいることなどほとんどない店なのだが、やはり戒厳令の影響は大きかったらしい。バランが店内に陳列されている商品を見ると、短剣は既に完売している様子で、小型ナイフや棍棒の類いも品薄になっているようだった。

 

 バランはふと、店内の壁に掛けてある両手剣を手に取ってみた。鍔部分に彫られた装飾に少しだけ欠けが生じている———といってもバランの目にはほとんど分からない程度だったが———そのために少し値引きした価格が付けられていたその剣は、鋭い切れ味を買い手に保証するかのように威圧感を伴って青光りしている。ジャンクが手掛けた武器は、かつて宮廷鍛冶職人として作品を上納していた腕前の程を如実に表す出来だった。

 

 しかし昨夜、小屋でロンが磨いていたあの両手剣は、やはりこれらのものとは何かが違う。一体なにがあの剣にはこめられているのだろう——————

 そんなことをバランが思っていると、背後から自分を呼ぶ声がした。

 

「お前もそろそろ、長剣が似合うようになってきたな」

 

 待たせてすまなかった、という言葉にバランが振り向くと、そこには接客を終えた店主・ジャンクが立っていた。

 

「残念ながら、今のところ国の許可証なしで買えるのは短剣だけで、そいつは対象外だ」

 

「いや、時間つぶしに見ていただけだ。武器を買いに来たわけじゃない」

 

 鍛冶用の火炉の作り方が知りたいというバランの言葉に、何を始めるつもりなのか疑問に思ったジャンクが尋ねてみると、バランは若干しどろもどろな口調で「狩猟用の弓矢の(やじり)を自分で作ってみたい」という答えを返した。その様子をジャンクは少しだけ奇妙に思ったが、彼が他人の些細な言動に執着しないおおらかな性格だったのは、嘘やごまかしが苦手なバランにとって幸いした。というのも、武器職人以外の一般人が武器を作ることも、この世界では違法にあたるのだ————

 

「そうか、ちょうど店の短剣が在庫を切らしてて、いま裏の小屋で仕込んでいるところだ。作業を見ていくか」

 

 そう言って、彼は店の裏へとバランを案内した。店舗と工房を兼ねた自宅の渡り通路を歩きながら、ジャンクは自分の後ろをついて歩く少年に言った。

 

「バランよ、今もあの森の小屋で一人で住んでるのか。魔族の脱走事件があったことは知ってるな?気を付けろよ、お前もそこそこ逞しくなったから多少ケンカはできるかも知れんが、魔族の強さは人間の比じゃねぇみたいだからな」

 

 ジャンクが心配するのも無理はない、とバランは思った。

 

 いま自分が住んでいる森小屋は、高台にあり星が綺麗に見えるため、天体観測を趣味とするベンガーナの大地主が別荘として建てたものだった。しかし、完成してしばらく経った頃にキメラの亜種やグリズリーなど凶暴性の高い魔物(モンスター)が近隣の山脈に棲みついて繁殖し、森にも頻繁に姿を現すようになってしまったため、恐れた地主は所有権を手放し、いわゆる「訳あり」な不動産物件として市場に長いことぶら下がっていたという。

それをシェーラが数年前に買い取り、村での共同生活に限界を感じた自分のために住まいとして与えてくれたのだ。ベンガーナの領地ではあるが、特別区域として国の整備管轄からも外れており、普段は村人も寄り付かない。だからこそ、自分の住まいとしては丁度良いのであるが—————

 

 「そうだな、用心する」と答えた少年の表情が、またしてもぎこちないようにジャンクは感じたが、彼は気にせずバランを案内した。

 

「これがうちの火炉だ」

 

 バランはジャンクに促されるまま作業小屋の中に入ると、まずは部屋全体をじっくりと眺めた。

 床は土が剥き出しの状態となっているが、純粋な土としての面影はなく、鍛冶作業をしながら飛び散ったであろう灰や金属とともに固まり、有機物とも無機物とも言えぬ独特の風合いを漂わせている。

屋内右手にある火炉の周りには、長方形の金属の板が積み重なり、掴み箸や槌がいくつも金床の周りに置かれていて、何か作業している途中とおぼしき様子だった。おそらく彼が言っていたように、これらは最終的には短剣へと形作られていくのだろう。

 

 ジャンクの火炉を見たバランは、これを元に自分の小屋をどのように改築すべきかを、頭の中で順序立てることにした。かなり大掛かりな作業となりそうだが、もしロンにも作業を手分けして手伝ってもらうことができれば、冬の間には完成できるかもしれない。

 

「煉瓦はウチの方でたくさん余ってるし、足りなくなっても裏山に粘土質のちょうどいい土が掘れるから、必要なときは取りに来い。お前は器用だから、いい火炉ができそうだな」

 

 ジャンクは、以前にバランが村の家屋の建築作業を手伝っていた現場を見たことがあり、その時の手際の良さと、その道20年の職人が青ざめるほどの手先の技量に感心していた。そんなことを思い出しながら、ジャンクは言葉を付け加えた。

 

「バラン。お前さえ良ければ、いつでもウチの息子になってくれていいんだぞ。そうすりゃ俺がここで直接お前に鍛冶を教えてやれるんだが…」

 

 今までも何度か、ジャンクのその言葉を聞いてきたバランだった。ジャンクにはまだ子どもがいなかったこともあり、何かにつけて、バランのことを我が子のように気に掛けていた。しかし、こうした言葉をかけられる度にバランが返す答えはジャンクを少しばかり寂しくさせ、と同時に頼もしさを感じさせる内容だった。

 

「俺はあの森小屋での暮らしが気に入っている。だから、今のままでいいんだ。それに、何でも一から作るのは勉強になる。火炉にしても道具にしても、自分で使うものは自分で作りたい」

 

 ジャンクは、寡黙ながら純粋で実直なバランのことをいたく気に入っていたが、それは彼の妻・スティーヌも同様だったようで、バランの帰り際には、彼女の手作りの軽食が入った包み袋を少年に手渡した。

それはサムスといって、小麦の粉に樹液蜜と乳酪を混ぜて練った生地に羊の細切れ肉と香草を包んで窯で焼きあげたランカークスの郷土料理で、バランの好物だった。まだ焼き上がってからそれほど時間が経っていないようで、バランが包みを受け取ると袋は温かく、調味料とともに加熱された肉と香草、そして程よく発酵してふっくらと焼きあがった麦生地の匂いが食欲を誘った。

 

 スティーヌからサムスの入った袋を受け取ったバランが、二人に礼を言って店を去っていく後ろ姿を夫婦で見送ったあと、ジャンクはしみじみと妻に語った。

 

「15年前にシェーラが孤児を引きとると知った時は、それはもう驚いたもんだが———立派な少年に成長したじゃないか」

 

 ジャンクの脳裏に昔の記憶がよみがえってくる。

 当時のシェーラは修行中の神官見習いで、かたや自分も鍛冶職人を目指して工房に弟子入りをしたばかりだった。幼馴染みが突如「未婚の母」になったと知り、最初は猛反対したものだ。

 やっかいなことを引き受けやがって、修行しながら孤児の子育てだと?無謀にも程がある。何があっても俺は絶対にお前の子育てなんて手伝わないからな—————

 

 しかし、気がつけば自分の「面倒見の良い親分肌」の気質がむくむくと顔を出し、教会孤児院の中でもひときわ活発なバランの遊び相手となっていたのには、我ながら呆れることとなった。時折自分の修業先である工房に遊びにやって来るバランに対し、帰れとも言えず、槌を持って振り回しては楽しそうにはしゃぐバランの様子に、怒るどころか、かえって顔が緩んでいたものである。

 何より自分自身が孤児院出身ということもあり、どこかバランに自分の姿を重ねていたのかもしれない。

 

「俺たちの間にも息子ができたら、あんな風に育ててみたいもんだ」

 

 その言葉を隣で聞いていたスティーヌは、やんわりと夫に言った。

 

「子育てに理想を抱くべきではありませんわ。どんな子であっても、私たちにとってはかけがえのない宝物です」

 

 …十数年後、ジャンクは実際に生まれてきた自分の子供が、バランとは真逆の個性で、いったい誰に似たのか軟弱でお調子者の性格、しかもある日突然家出同然に行方不明になってしまうという有り様に、「子育てに理想を抱くべきでない」という妻の言葉が正しかったことを認めるようになるのだが———ともあれ、この時の彼は理想の息子を絵に描いたようなバランの成長ぶりを頼もしく思うと同時に、あの立派な少年が森小屋でどのように火炉を作って鍛冶仕事をするのかが気になり始めた。

 

 そういえば、まだ一度もバランの小屋には行ったことがないし、彼がどのような生活をしているかの様子見もかねて、いつか手伝いに行ってやらねばなるまい———そう思いながら、ジャンクは妻と家の中へ戻っていった。

 

 

 

 

 

 バランがジャンクの小屋を出た時、すでに外に降り積もる雪は青みを帯び、夜の訪れを予感させた。

 自分が森小屋を出る時にはまだ屋内でロンと話していたシェーラも、もう今頃は宮廷か宿舎に戻っているだろう。そんなことを思いながらバランが村の通りを抜けていくとき、傭兵のような風貌の大柄の男数人が目の前から歩いてきた。

 

 みな幅広の大型剣———おそらく武器屋に特注してもらったものと思えるほどに重量感はなはだしい———を腰に携帯しており、防寒用マントの上からでも隆々とした筋肉に包まれた体格が伺え、顔や首元にところどころ刺青を入れている。その歩き方にも、気品を感じさせるものは微塵もなく、巨大な亜人物怪(オーク)が威圧感をもって歩み寄ってくる、まさにその様子を連想させた。

 

 ベンガーナの6つある町のうちの一つに、アルトガ傭兵街と呼ばれる傭兵たちの居住地があり、この目の前の男たちはそこからやって来たに違いないとバランは思った。

 

 数年前にベンガーナ軍が白兵戦部隊を大幅に削減したときに、路頭に迷った戦士稼業の人間たちの一部は、ほぼ廃墟と化して国の管轄から見放された町・アルトガに住み着いた。表向きは「地主と領民の治安を守るため」の傭兵を名乗っているが、実際に彼らの住み処で行われていることというのは、賭博や薬物売買、売春などで、およそ生産性のない経済圏でその日暮らしをしているらしい。

 ランカークスの中には、彼らを「ならず者」と表現する村人も多く、すこぶる評判はよくない。バランが直接この「傭兵街の住人」を目にしたのは初めてだが、この素朴で長閑なランカークスの村には、似つかわしくない印象だった。

 

 おそらく彼らの目的は魔族狩りだろう、とバランは苦々しく思った。500万ゴールドの懸賞金を目当てに、これからもこうした輩が増えるのだろうか———

 彼らとすれ違う瞬間、バランは傭兵たちのうちの一人に声をかけられた。

 

「坊や、この辺で魔族の姿を見かけなかったか」

 

「さあ、俺は知らない」

 

 バランは、関心なさげに装い、男たちの問いに伏し目がちに答えた。このようなとき、相手と目を合わせるべきではないということを、バランは直感的に理解していた。あらぬ因縁をつけられ、金銭を騙し取られたり、たちまち喧嘩に発展する可能性があるからだ。

 今は戒厳令で村人も外出を控えており、この通りにも人の気配がないとはいえ、村の中で騒ぎを起こしてはならない。ましてや、自分はベンガーナ城下町で一度前科があるのだ——————

 

 すると他の男が言った。

 

「まあこんな何もない田舎の村に潜伏したところで、魔族にとっても利益はなかろうよ」

 

 その下卑た笑い声にバランは胸の内が不快にざらつくのを感じたが、何とか平常心を保つことができた。しかし、このままこの男たちを相手に会話を続けていたら、自分の心が煮え立ちそうだ。

 そう思って、男たちの横を通り過ぎて去っていこうとした瞬間、一人の男の言葉がバランの耳を捉えた。

 

「ベンガーナ中心部もくまなく探したし、今度はテラン国境の方にでも行くか。あそこのギネの神殿にはたいそう美人の女神官がいるって話だから、ちょっとばかり俺たちと遊んでもらおうぜ」

 

 バランは足を止め、男たちの方を振り返った。

 

「…お前たち、神殿に行って何をする気だ」

 

 バランは全身の脈が急速に激しくなっていくのを感じた。自制心と呼ぶべき感覚が、次第に自分から遠ざかっていく。

 

 肩越しに振り向いて少年を見た男たちは、おどけたように笑って答えた。

 

「何をするって、決まってるだろうがよ…坊やにはまだわからんか。大の男が何日も旅を続けていれば、たまってくるものもあるというもんだ。なぁ、そうだろ?」

 

 他の男たちに同意を求めるように言うと、仲間たちは下衆な笑い声をそれぞれに響かせた。

 

 それを聞いたバランは、少し顔を俯かせた。その隠れた表情の中に、怒りに満ちた竜の鋭い牙が潜んでいることに傭兵たちの誰一人として気づかなかったのは、彼らにとってあまりにも不幸だったかもしれない。

 

「そうか、ならば行ってみろ…ただし、俺を倒してからだ」

 

 バランはスティーヌからもらった食べ物の袋を脇に置くと、一番近くにいた男の手首を取り、軽く腕を引いて相手のみぞおちに強力な膝蹴りを与えた。バランにとってはほんのわずかな力を使っただけであったが、頑強な鋼の鎧を身にまとっていた男の体からは、肋骨にひびが入る音がし、男は呻き声とともにうずくまって倒れた。

 

 そして、後ろから襲いかかろうとする2人目の男に、バランは振り返りざまの勢いをつけて回転飛び蹴りを喰らわすと、その後ろにいた3人目と4人目の男も巻き添えにしながら、その場からかなり離れたところの雑木林まで吹っ飛ばし、樫の大木に大きな衝撃を与えた。地響きのような轟音とともに、男たちは木の幹の根元に重なり合うように崩れ落ちた。

 

 5人目の男は剣を抜いてバランに斬りかかってきたが、後方宙返りをしてその突きをかわしたバランは、着地足を反動力にして、低い位置から拳を突き上げ相手の下腹に命中させた。またしても鎧の内側から骨が派手に砕ける音がし、男と剣は宙高く飛ばされ、男は数メートル離れた水路の中へと転落し、剣は雪で覆われた村の外壁を飛び越えてどこかへ消えていった。

 

「どうした…この程度でくたばるなんて情けないにも程があるぞ、大の男どもが…」

 

 雪の中に倒れてうずくまり、中には気絶している男たちに侮蔑の台詞を吐き捨てたバランは、自身の荒くなる呼吸をなんとか静めようと努めた。突然の格闘で心拍が上がったのではなく、自分にとって唯一の家族といえる存在の女性を汚すような言動を彼らがとったことで、湧き上がる怒りを制御できなかったのである……

 

 それでも、数年前のベンガーナ城下町の一件よりは、まだ自分の意識がかろうじて残っていただけ進歩というべきだろうか。やっと呼吸が落ち着いたバランは、雪の地面に置いた袋を取り、表面に少しだけ積もった雪を手で払った。

 せっかくスティーヌが作ってくれた食べ物が、すっかり冷たく湿ってしまった。無駄な格闘をしている場合ではなかったのだが———彼は一つため息をついて、地面にうずくまる傭兵たちを残してその場から静かに歩き去っていった。

 

 バランは帰路をたどりながら、徐々に青暗く沈んだ色に染まっていく空をあおいだ。

 さっきの喧嘩騒ぎが誰にも見られていないようにと祈りながら、未熟すぎる自分を恥じていた。自分のなかに潜む魔物(モンスター)のようなこの凶暴性を御することができずに、どうして大切な人を守れようか—————自分が情けなくなったと同時に、もしもロンだったらあの傭兵たちをどうあしらっただろうか、という思いもよぎった。

 

 まだ2、3日しか一緒に過ごしていないが、常に冷静沈着で、腹の据わった男だ。彼を信用したわけではないが、彼の剣術を通しての心構えというものからは、もしかしたら自分にとって学べることが多いのかもしれない———

 最初は乗り気ではなかったが、このときを境に、バランは少しばかり剣術の稽古に対し前向きな気持ちになりつつあった。

 次第に降雪の量が増してきたため、バランは足早に森小屋へと向かった。

 

 

 

 

 

 小屋の中に1人残され、しばらく読書の世界に浸っていたロンは、日が暮れてきたことで肌寒さを感じ、ふとシェーラが市場で買ってきたという防寒肌着を手に取った。

 試着するため、詰襟を緩め、下半身とつなぎになっている上衣部分をはだけた。

 

 幼少の頃から、自分の裸———特に上半身は、今までの人生で決して他の誰にも見せることはなかった。自分でも直視することにいまだ抵抗があるのだが、ふと視線を移した先の窓に自分の姿が映り込むのを見て、ロンはあらためて自分の肉体にあるものを客観的に認識することとなってしまった。

 

 心臓部からみぞおちにかけて、黒い(あざ)のようにも膿のようにも見える「何か」が、この体を大きく侵食している。それは、異形の生命体に溢れる魔界に住む者でさえも、思わず目を背けたくなる不気味な様相で、悪霊が呪詛を囁いているようにも、慄きをあげているような表情にも見える。ロン自身ですら、この禍々しく得体のしれない物体が自分の肉体に寄生しているという事実を、できることなら認めたくないほどであった。

 

 幼少期から、自分の肉体はこの【呪われた寄生体】とともにあり、破壊神アゴーラの呪いは、250年以上経った今でもまったく薄れていないことを物語る。

 

 現時点で自分が死に至っていないところを見ると、とりあえず命にかかわることはなさそうだが、しかし、自分の体が何者かに乗っ取られているという感覚は、彼にとって決して心地よいものではなく、ときには発狂しそうになることも、一度や二度ではなかった。

 ただひとつ分かっているのは、少しでも弱気な心を見せた時に、この痣が気味悪く疼き、まるで養分を得たといわんばかりにその面積が大きくなって、何かの紋様のように見えることだ。それは、ロンにとっては途轍もなくおぞましい瞬間だった。

 

 この呪いを乗り越える術は、本当にあるのか…………

 破壊神復活の儀式で生贄にされた自分を助けた剣豪ヒュンケルは、確かにあのとき言った。「呪いを解かんとするならば、強くなれ」と—————今はその言葉にかけるしかなかった。

 

 火蜥蜴〈サラマンダー〉の外皮を炭にした粉を練り込んだという生地はほのかに発熱し、丁寧な縫製で知られるパプニカ製の織物は、ロンの上半身を暖かく包んだ。その上に上衣を重ねて着たところ、夜気の冷たさは全く感じられず快適そのものになった。

シェーラの言うとおり、これなら魔族にとって耐え難いこの地上の寒さも何とか凌ぐことができるだろう。

 

 ロンは窓の外を見た。昼間よりも少し雪の量が増してきたように感じる。

 

 程なくして、村に出ていたバランが小屋に戻ってきた。ロンが少年に目を向けると、自分がこの小屋にやって来て以来ずっと彼から向けられてきた鋭い視線が、僅かに和らいでいるように感じた。気のせいであろうか。

 

 彼が村人からもらってきたという食べ物を暖炉の上で温め、それを今夜の夕食とした。

 食事の席でバランは「火炉の実物をじっくり見てきたから、明日から本格的にこの小屋を改造する」と話した。そして、この厳冬が過ぎる頃には剣術の稽古を始められるようにしたいから作業を手伝ってほしい、とも。

 

 少年が稽古に対して自発的になった———かどうかは分からないが、少なくとも今朝この小屋を出たときと比べて、明らかにバランの顔つきが変化したようにロンには感じられた。

 自分としては今もあまり前向きではない剣術の稽古だが、どうせ教えるなら、教え子には本気で向き合ってもらえた方が、こちらとしても気持ちが白けずに済む。

 

 まずは火炉づくりだ。

 魔界から人間界にやってきても、長年培ってきた職人気質はなかなか抜けないのか、金床の上で槌を振るわない日は何だか気持ちが落ち着かなくなってしまった。ずっと小屋の中にこもりきりで体も鈍っている。

本来このような環境づくりにまつわることなどは弟子の仕事ではあるが、早く稽古そのものを終わらせてこの小屋から出ていくためにも、自分も手伝う必要がありそうだ。

 

 夕食後、自分がベッドに入って眠りにつこうとしている頃にも、バランは蝋燭の灯りをたよりに、1人テーブルの上で設計図を描き続けていた。その真剣な眼差しに、ロンは少年の本気度を少しばかり目の裏に焼き付けられつつ、眠りの精霊たちの誘いに導かれていった。

 

 

 

 

 翌朝——————

 

 ランカークスの村のはずれで、路上に傭兵とみられる男の凍死体がいくつも転がっているのが村人によって発見された。

 村長からの通報を受けて調査にやってきたベンガーナ城の衛兵たちによれば、遺体に殴られた跡が幾つもあり、現在逃走中の魔族の仕業ではないかとの見立てがされた。

 

 村人は、自分たちの村に指名手配中の魔族が潜んでいたと知り、驚愕するとともに恐れおののいた。しかも、その魔族はいまだ発見されておらず行方をくらませたままである………

 

 村の騒ぎを店の入口から遠く眺めていた武器屋の主人ジャンクは、村人たちの怯える様子に眉をひそめた。

 

「…俺はもしかしたら、とんでもないものを見ちまったのかもしれない———」

 

 彼は昨日、自宅を去ったバランに、夕食を家で一緒に食べていかないかと誘うため、少年の後を追って歩いていたのだ。

 

 そこで見てしまった。

 腕っぷしに自信のある自分でさえあまり相手にしたくはないほどの大柄の傭兵たちを、まだ成人に満たない少年がたった一人で再起不能にした。それも、我が目を疑うような超人的な身のこなしで——————

 

 養育者のシェーラにこのことを知らせるべきか。あるいは、バランがこのような人間離れした存在だということを彼女は既に知っているのか…一度確かめる必要がありそうだ。

 

 事件の一部始終を唯一目撃していた村人・ジャンクは、自分の中に抱えたこの「秘密」をどのように扱うべきかについて、暫くのあいだ思い悩むことになるのであった………

 

 

 

 

(続)

 

 





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