ロン・ベルク外伝   作:ソニカ

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バランと神魔剛竜剣の共振現象は、魔界にも影響を及ぼしていた…




【第9話】混迷への序曲

 創世の時代、天界の創造主は【竜族】【魔族】【人間】の三つの種族を生み、地上に降ろした。

 

 この起源には諸説あり、一人の神が能力別に分裂した結果、個性の異なる三種族が生まれたという説や————あるいは三人の神々が諍いを起こした結果、創造主が戒めとして彼らをそれぞれ人間、魔族、竜族に姿を変えて天界から追放したといういわれもあり————結局のところ、どのように三種族が誕生したかという経緯は数億年経った今もなお不明のままである。

 

 竜族は、鋼鉄よりも固い頑強な皮膚をもち、無尽蔵の生命力と圧倒的な戦闘力を誇る異形の種族。

 魔族は、強靭な肉体に知性と魔法力を備え、魔法や武術、錬金術など「技術」や「能力」の発揮に長けた種族。

 そして人間は、三種族の中で最も弱い生命力でありながら、「心」という想念の力をもって未知の可能性を拓くことができる種族————

 彼らは自尊心と支配欲の芽生えによって互いに譲歩することを知らぬまま、緑豊かな地上世界の支配権を巡って、いつ終わるとも知れない不毛な争いを続けていた。

 

 それを憂いた天界の創造主は、それぞれの種族の個性と能力を考慮した結果、三種族に対し公平に住環境を与えた。人間には、太陽光の降り注ぐ地上界を、そして竜族と魔族には、岩漿(マグマ)の流れる地底界を————

 地上の大気や太陽光から完全に遮断され、陰鬱とした色彩が支配する地下の世界は、いつしか「魔界」と呼ばれるようになった…………

 

 

 

<魔界の魔力(エネルギー)が不安定に揺れている………>

 

 数千年とも数億年とも知れない悠久の歴史をその外観に刻む、古びた石造りの塔の最上階。

 深紫のローブを纏ったその男は、目深に被ったフードの内側から銀色の眼をわずかに覗かせ、目の前に鎮座する魔水晶——【魔界の魔力(エネルギー)状態を映し出す窓】——を注視していた。いつもと様子が異なる水晶内の光の状態に、男は一人静かに思考を巡らせる。

 

<神々の命により、この魔界を数百年もの間ずっと見守り続けているが、このようなことが起きる時というのは————竜の騎士の目覚めが近づいている前兆だ。今までの経験上、それしか考えられない………>

 

 胸の内で密かにそう確信しながら、男は下層階より靴音が響いてくるのを聴覚で感じていた。塔の外周に沿うように造られた螺旋階段をゆったりとした足取りで最上階まで昇ってくる人物の気配を知りつつも、男は意識を魔水晶に向けたまま微動だにしない。

 

「今日はやけに、この魔界の気流が大きく乱れておりますな」

 

 黒と赤の色調で統一された法衣を身にまとった人物が、展望室の中央に佇む男の前に姿を現した。彼の法衣の前掛けに金刺繍された紋様は、司教の役職であることを証明するものである。

 

 司教の言葉に、男は答えた。

 

「…この世界もそう永くないかも知れぬ。もっとも、終わりのないものなど存在しえないのだがな」

 

 魔界の大陸には、大きな五芒星を結ぶように各方位ごとに5つの塔がある。それは太陽光の届かない魔界において、魔族の生命活動に必要な魔力を増幅し、維持させる役割を果たしていた。

 その五塔の機能が暴走したり停止したりすることのないよう、中心に制御塔が存在し、そこには守護者(ガーディアン)が塔の番人として常駐しているが、この塔の詳細を知る者は魔界においてもごく一部の支配層にしかおらず、広く明らかにはされていない。

 

 そしてこの深紫のローブを纏った男こそが、その制御塔の66代目の守護者である———

 

 守護者は、天界の神々から選ばれ勅命を受けた人物が着任することになっており、魔界の勢力争いの派閥からは完全に独立した中立の立場である。この存在を殺めることは、すなわち魔界そのものの終焉を意味するため、魔王や竜族たちも塔の守護者を抗争に巻き込まないことを暗黙の規則(ルール)としている。

 

「左様で…この魔界に古代より伝わる破滅の書には、このような記述もありますからな。【万物は生の苦難から解き放たれ永遠の安らぎを得るため、無に帰結することを本能的に望む】————と」

 

 司教は右手の指で何かの印を切るようにアゴーラ神の邪典の一節を唱えたが、塔の守護者はそれには反応せずに言葉を続けた。

 

「私はこの地底界を愛している。そして天界からの勅命を受けているからこそ…魔族と竜族による暴走を止めなければならぬ。そなた達アゴーラの神官たちを復活させたのも、そのためだ」

 

 現時点において、この魔界の勢力は、主に3つの派閥に分けられていた。

 征服欲から魔界と人間界を制圧せんとする冥竜王ヴェルザーと魔王ハドラー、そして自尊心ゆえに天界の創造主に反旗を翻し、人間界そのものを消し去ることが目的の大魔王バーン————

 

「心得ております————エンデラル殿に救われたこの命、破壊神復活のために尽くす所存…」

 

 司教の言葉に、エンデラルと呼ばれた塔の守護者は静かにうなずいた。

 

 250年以上前、破壊神アゴーラ降臨の儀式は剣豪ヒュンケルの介入によって失敗に終わり、祭壇を取り囲むように祈祷を捧げていた僧侶たちは剣士一人によってことごとく抹殺された。宗派そのものが絶滅の危機を迎えたその日————たった一人だけ虫の息ながら生きていたのが、この司教だった。

 エンデラルが彼に回復魔法をかけて復活させると、司教は次々に仲間たちを蘇らせ、再び新たな拠点としての神殿を魔界の最果ての地・ドルンに築き上げたのである。

 

「…ところで、ヴェルザーの配下がベルク流鍛治職人をことごとく暗殺したようではありますが————どうやら【魔界の名工】の異名をとる、あのロン・ベルクだけは、地上の人間界へ逃げのびたとの噂が入っておりますな」

 

 司教の言葉に、エンデラルの表情がわずかに動いた。

 

「あの死神から逃れたか……察しの良い男だ。しかし、地上のどこにいようとも、アゴーラが残した「痕」がある限り、その宿命から逃れられるはずは————」

 

 言葉の途中で、突然それは起きた。目の前の魔水晶に映し出される光が波打つように大きく乱れたかと思うと、塔の外で轟音が鳴り響いた。それはまるで、天変地異を思わせるような大気の咆哮であった。

 

「エンデラル殿、これはいったい何事が————」

 

 驚く司教をよそに、エンデラルは塔の窓辺に歩み寄り、外を見た。魔界の鉛色の空に渦が現れ、そこから雷のような太い光が大陸の中心に向かって落ちた。

 それによって生じた衝撃波でエンデラルの纏うローブが強風にひどく煽られ、目深にかぶっていたフードに隠された顔があらわになった。数百年以上の刻を生きてきたことを示す顔の皺と、魔族の象徴である上向きに伸びた長い耳————そして腰まで伸びた銀色の長い髪が、荒い熱気流に踊るように激しくなびいた。

 

 エンデラルは、目の前の光景に既視感があった。

 遥か昔、魔界の王と竜の騎士が決戦を繰り広げたとき————エンデラルはこの塔の上からその勝負の行方を見守っていたが、竜の騎士が振るう神魔剛竜剣の放っていた「気」が、今の衝撃波と酷似している。

 神魔剛竜剣は、竜の騎士以外の者には扱うことはおろか、触れることすらできない神器だ。その剣による衝撃波が地上から伝播してきたということは————すなわち、竜の騎士がいま人間界にいることを示唆するものだ………

 

 天界の神々が遣わした「制裁者」————遥か古代より魂の転生を繰り返してきた竜の騎士も、これでいったい何度目の復活となるだろうか………

 

 おそらく冥竜王ヴェルザーも、自分と同様にこのことを感知したであろう。ヴェルザーを初めとした竜族は、神魔剛竜剣の存在を何より恐れている。もしかしたら、竜の騎士が真に覚醒する前にいち早く人間界へと攻め入る準備を進めるかも知れない。そうなれば、地上の厳冬期が過ぎ去るのを待っているハドラーやバーンも黙ってはいないはずだ。

 

 それにしても————竜族も魔族も、創世の頃より何も学んでいないと見える。何千年何億年と歴史を重ねても、結局生き物の性質というのは変わらないのだ。

 

「…ゾルデ司教よ、アゴーラ神がこの世界の歴史を閉じたとき、肉体を失った魂の数々はどこへ向かうのであろうな」

 

 ゾルデと呼ばれたアゴーラ神の司教は、互いの目的のために一時的に協力関係を結んだ<塔の守護者>エンデラルを見た。この目の前の相手からは、支配欲や自己顕示欲といったものは驚くほど感じられない。ただ分かるのは、彼の瞳には静かで純粋なる深い闇が宿っていることだけだった。

 

「竜の騎士…この世界をどう粛清してくれるものか、非常に楽しみではないか————」

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日の人間界は、晴れ渡った空と澄んだ大気が地上を支配し、ここベンガーナ首都では、その景観麗しい広大な城がより一層その存在感を増していた。

 世界一敷地面積が広いことで知られるこのベンガーナ王城には、王族の居住区を内包する主塔を囲むように各方角に向けて四つの塔が張り出している。その中でも「東の塔」は、天文や地質・動植物などを専門とする学者や魔術師など、頭脳労働に携わる職業人が多く存在するために、城の関係者からは「知識塔」と呼ばれていた。

 

 その東の塔の大広間で早朝から会議を開いているのは、王国内の卓越した魔法使い達によって構成されるベンガーナ魔術師団である。 先日の宮廷会議にて、ギルドメイン大陸全体で魔物(モンスター)の凶暴化現象が増えているという報告をうけた魔術師団は、大雪による湿気で稼働できない大砲部隊に代わって国防の柱となることを強要されたのだ。

 

 ベンガーナ魔術師団をまとめる宮廷魔術師イザムは、この会議に宮廷神官のシェーラを同席させていた。国境付近と城の周囲に破邪の魔法陣を張り巡らせていることによって、特に大きな被害もなく領民の安全が守られているが、それが主に彼女の功績によるものだからである。

 

 魔術師団の紋章の刺繍を施した団旗を正面に掲げた大広間には、総勢60名ほどの団員が招集された。魔術師たちは、大きな会議卓に広げられたベンガーナ界隈の地図を囲みながら、意見を交わし合っていた。

 

「陛下は魔王軍襲来の可能性があると先日の宮廷会議で仰られたそうだが、果たして本当だろうか。それらしき予兆といえば、魔物(モンスター)が凶暴化していることと、一人の魔族がこの国に姿を現したということくらいだ。それが魔王軍と関係あるのかどうか————」

 

「歴史書を見れば、魔王軍が地上に現れる前には決まって野生の魔物(モンスター)が凶暴化するとの記述がある。大いに関連していると見るべきだろう」

 

「先日この城から脱走した魔族が、魔王軍の遣わした諜報員だとしたら————ランカークス村で賞金稼ぎの傭兵数人が死体として見つかったらしいが、彼らを殺したのはその魔族だと言われているそうではないか。まだこのベンガーナ界隈に潜伏していて、我が国の情報を魔王軍に報告しているかもしれんぞ」

 

「ならば、このまま大陸の賞金稼ぎたちに委ねて、魔族が再び捕獲されるのを待つよりも、我々の方でも独自に捜索した方が————」

 

 次第に議論の内容が「逃走中の魔族」に及んできたところで、議長のイザムは口を開いた。

 

「仮にその魔族を捕らえられたとしても、魔王軍について口を割るかどうかは分からない。現状において我々は、凶暴化した魔物(モンスター)による被害を抑えつつ、いつ来るか分からない魔王軍の侵攻に対しどのように備えるかという検討課題を優先すべきだ。魔族のことは国防とはまた別に考える問題だと思うが————シェーラ、君の意見を聞きたい。君の描いた魔法陣で、魔王軍の侵攻を食い止められるのかどうか、あるいは他にどんな対策が可能なのか」

 

 イザムから発言を促されたシェーラは、少し思考したのちに口を開いた。

 

「魔王軍の中には、もしかしたら破邪魔法 (マホカトール)を打ち消す術の使い手がいるかも知れません。魔法陣には過度に期待しないほうが良いでしょう。そして皆さんの仰るように、魔王軍が地上に偵察を派遣している可能性はあります。ただ魔族は寒さに抵抗力がない種族ゆえ、この時期に攻め入ってくることはないと私は考えています。厳冬期が終われば、大砲部隊も稼動できる状態になっているはずですから、その間に私たちができることをやればいいのです」

 

「この厳冬期が終わるまであと半年ほどと言われているそうだが、それまでに一体何ができるというのか。ベンガーナ領土は広い。このたった数十人の魔術師だけでやれる対策など、たかが知れているぞ」

 

 他の魔術師がシェーラに問うと、彼女はベンガーナ一帯の地図を指差しながら説明した。

 

「魔王軍がどれほどの勢力で現われるか分かりませんが、彼らも効率というものを考えるはずです。歴史的に見ても、侵略価値のある首都を中心に攻撃していますから、そこに私達の力を一点集中させるしかありません。戦士団や騎士団と連携した戦術の訓練を積み、魔王軍による襲撃被害を最小限に抑えられるようにすること————そして領民たちは、隣国テランに一時的に移民させるという方法があります。フォルケン王は慈悲深いお方で、戦争難民を過去何度も受け入れていますから」

 

 テランは歴史的に侵略を受けた経験の少ない国であり、その事実は遥か古代の遺跡や建造物などの文化財が多く残っていることからも窺うことができる。それを可能にした主な要因は、軍事的に攻略価値のない貧しい国とみなされているゆえであるが————ともかく、一般民衆を避難させる場所として最適であるのは間違いなかった。

 

「そもそも、大砲部隊がどれほど魔王軍に対して有効なのやら————仮に我が軍が劣勢になったときにアルキードやカールに援軍を要請したとして、彼らがここに到着するまでに2日はかかるだろう。それまでいかに持ちこたえるかだ。幸い、我々魔術師団には防御魔法の心得があるが、もし魔王軍側に沈黙魔法(マホトーン)の使い手がいたら終わりだぞ」

 

 魔術師団員による不安の声に、シェーラは冷静さをもって答えた。

 

「そのために、私の考案した【象形(シンボル)を手で描く】ことによる魔法の発動を、皆さんにも習得していただきたいと思っています。声が封じられても、指一本さえ動けば発動できますから。明日からの魔法訓練で伝授しますので、ご予定ください……魔術師団にギネのご加護があらんことを————」

 

 

 いまひとつ最善の策を見いだせないままに、この日の魔術師団会議は終了した。出席した多くの魔術師たちが「魔法のさらなる修練」をとりあえず各々の課題にして大広間を退室していくなか、シェーラは議長のイザムに話しかけた。

 

「イザム、大したお力になれず申し訳ありません」

 

「こんな状況だ、仕方ない。君が先日宮廷会議の場で指摘したように、軍が白兵戦部隊を7割も削減したりしなければ、我々魔術師団がこんな重責を負う事態にはならなかった。しかもうちは実戦経験の少ない若い団員ばかりだ。まったく…もし魔王軍が我が城に攻め入ってきたら、軍務大臣の首根っこを掴んで人質に差し出してやりたいところだな」

 

 イザムが吐き捨てるように愚痴をこぼすと、シェーラはその毒を含んだ言葉に少し苦笑いをしたのちに、うつむき加減に言った。

 

「イザム、もしかしたら私は今後————上位魔法の探求のために、少しのあいだ旅に出ることになるかもしれません。正直申し上げて、今の私の破邪魔法(マホカトール)でこの国を守りきれるかどうか…魔王軍がどれほどの勢力で来るかも、現時点では何も予測できないのですから」

 

「上位魔法…もしかして、マホカトールよりも強力と言われているあの古代魔法【ミナカトール】のことか?」

 

 イザムは軽い驚きで目を見張った。カール地方にある破邪の洞窟でのみ習得可能とされている破邪魔法【マホカトール】ですら、今のところこの国で扱える術者といえばシェーラしかいない。ミナカトールは書物の中でしか見たことがない伝説の古代魔法だ。

 

「…そうだな、国防のためとなれば、西塔の連中も旅の資金を出してくれるかもしれん。私からも陛下に推薦しておこう。少なくともクルテマッカ陛下は国のためなら出費は惜しまないお方だ」

 

 西塔とは、ベンガーナ城の「西の塔」————主に財政面に携わる職種の集まる塔————を指す、宮仕えの官吏達による一種の隠語だった。

 

「感謝します、イザム。でも、おそらくそれは難しいでしょう。私は先日の宮廷会議で、軍務大臣の顔に泥を塗る発言をしたのですから…」

 

「私はあの時の君の発言には、溜飲が下がる思いがしたのだがな。ここ数十年と戦争が起きてないからか、軍務大臣もすっかり判断力が耄碌してしまっている。やれやれ、使えない年寄り達には早く引退してもらいたいものだ」

 

 耄碌、と表現するにはまだ年若い軍務大臣ではあるが、世襲制を基本とするベンガーナ王朝では、親の政治方針をそのまま従順に踏襲する保守的な子孫が多く、世界情勢に適した臨機応変な対策を取ることが難しい傾向にあった。それゆえ、今回の「魔王軍襲来」という非常事態の可能性に直面したことで、大臣たちが混乱しているのは事実だった。

 そのようなときに限って、役人が己の自尊心を傷つけた者に対しささやかな「嫌がらせ」をしてみせる傾向にあることも、シェーラにはわかっていた。

 

「古代魔法ミナカトールを習得できるかどうかで、この国の命運は分かれるかもしれません。資金がなくとも、準備と状況が整い次第、旅に出るつもりです。イザム、後のことはよろしくお願いします」

 

 シェーラは、自分が修行時代に習得したマホカトールだけでは、いつか限界が訪れるであろうことを厳冬期が始まる前から予感していた。魔法そのものの改良を常に続けてはいるものの、土台となっているマホカトールそのものの効果範囲というのは限られている。地表面に魔法陣を描くことで発動するこの魔法は、地上から襲来する魔物には効果があっても、地下からの邪気には対応できないという欠点があったのだ。

 

 もしかしたら、この地上の野生の魔物(モンスター)たちは、大陸に点在する地表の割れ目から、地磁気と共に放出された魔界の強力な邪気に当てられている可能性がある。彼らが凶暴化しているのはそれが原因だろう。

 かつて魔界にいた魔族のロンなら、何かその辺りの事情を詳しく知っているかも知れない————そんなことを思いながら会議の間を出ようとしたところ、シェーラは背後から一人の魔術師の青年に声をかけられた。彼は、今しがた終わったばかりの会議で書記係を務めていた。

 

「シェーラ先生、私のことを覚えておいでか分かりませんが————2年前に魔法学校を卒業した53期生のカシムです。回復魔法の科目で先生のご指導に感銘を受けて…いったいどうしたら、先生のようになれますか。自分も、魔術師団の一員としてこの国のお役に立ちたいのです」

 

 ベンガーナ首都には魔術師を養成するための魔法学校が設置されているが、シェーラはそこの教官を非常勤で務めていた。少し緊張気味に質問してきた自分のかつての生徒に対し、シェーラは答えた。

 

「あなたのことは憶えていますよ、カシム。いつも一番前の席に座って熱心に私の講義を聞いていましたから————魔法において大切な3つの要素を覚えていますか?」

 

「はい。【集中力】、【無心力】、そして【想像力】————そう先生から教わりました」

 

「その通り。そして実践の場ではそこに【俯瞰力】と【判断力】が求められるということは、授業でお話したとおりです。しかし最近、教本を改訂しなくてはいけないと思っているのです。この5つの力以上に大事な要素があるということに、気がつきましたので」

 

 それは一体、とカシムが問うと、シェーラは教師としての厳格な表情がふと緩み、母性を含んだ笑みを浮かべた。

 

「あなたも結婚して家庭をもつようになったら、きっと分かるようになるでしょう。自分にとって大切な、守るべき存在がいると思うだけで、どこからこんな力が生まれるのかと思うほどに、勇気と向上心が湧いてくるものですよ」

 

 カシムは、自分の予想外の答えを返されたことで一瞬ぽかんとした表情になったが、すぐに我に帰ると「わかりました、ご教示ありがとうございます」と感謝を深々述べ、自らの職務遂行のため師の元を去っていった。

 

 シェーラは、辺境の一神官でしかなかった自分が宮廷役職に赴任するほどの立場になったのは、バランの存在によるものと思っていた。聖母竜から竜の騎士の赤子を授かったあの日以来、自分は育ての親として、バランの身に何かあれば自らを盾にして守り、彼の成長に必要な知識を常に授け、そして彼にとっていつでも頼りになる存在でありたい————そう願う気持ちが、自分をここまで成長させたのだ。

 

 そのバランも、竜の騎士として覚醒するときが近づいている。成人を迎えた彼が竜の神殿でその誓いを立てた瞬間に、長年務めてきた養育者としての役割は終わる。そのあと、自分はいったいどうするのか………

 

 東塔の通路を一人歩きながら考えていたシェーラは、ふと窓の外を見た。緩やかに上昇角度を上げていく太陽がギルドメイン山脈の彼方から姿を現し、城内の彼女の姿を眩しく照らした。それは、まるで天が彼女に一つの覚悟を促すような、いつになく鋭い光を放つ朝日であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その頃、ランカークス村のはずれの森小屋では、鍛治作業場の内装建築が着々と進んでいた。

 

 ロンが協力的に作業に加わってくれたため、バランの予想以上に早く完成しそうである。壁の防火用煉瓦の設置が終わり、二人は通気口の設置と火炉の土台を作る過程に入っていた。

 

「…ロン、昨日のように俺を試すようなことは————今後やめてほしい」

 

 ふと、バランがぽつりと呟くように言った。

 

 バランの力量を試すために仕掛けた徒手格闘において、少年の怒りをいたずらに引き出す挑発をしたことで自尊心が傷ついたのかとロンは思ったが、理由はそうではなかった。昨日の格闘で収納棚から床に落ちて割れた瓶や壺の中身のほとんどは、村人たちから貰った薬草だったという。

 

「半分くらいはこの森で採取した薬草を俺が自分で仕込んだものだが————特別な器具がないと作れない薬草蒸留水や、熟練した職人でないと調合できない秘伝の軟膏とか、この村の人たちから分けてもらった貴重なものもあった。同じものを再び入手するには、この厳冬期を過ぎて1年以上は待たなければならないだろう」

 

 ロンはその言葉を聞いて、シェーラが持ってきた書物の中に、人間は植物と長く親しんできた歴史があると書かれていたのを思い出した。まさにその具体的な事例を見るような話だが、植物の育たない魔界で生きてきたロンには、植物というものが想像以上に人間の生活の中に浸透していることが新鮮な驚きだった。

 

「薬草というのは、怪我や病気をしたとき、とても助けになるものだ。回復魔法はあくまで応急処置で、日常的には使わない。基本的に人間はこうやって植物の力を借りて治す」

 

 バランの説明に、ロンは手元の煉瓦を設置しながら無機質な口調で呟いた。

 

「弱い生き物なのだな、人間というものは」

 

 そもそも魔族には植物を利用するという発想そのものがなかった。魔界では植物が育たないという環境的な要因もあるが、組織再生力の高い魔族は、大抵の怪我や病気はしばらく放っておけば勝手に完治してしまうためだ。

 実際には、バランは人間ではなく、魔族と遜色ないほどの回復力を持つ竜の騎士であり、薬草など不要であろうが————ロンはその事を言及すべきかどうか迷ったが、何となく今はそのことに触れない方が良いように感じた。

 

 弱い生き物だと指摘されたことに対し、バランは特に腹をたてる様子もなく言葉を続けた。

 

「だからこそ、俺たち人間はささやかな恵みに感謝できる。弱いことは、別に悪いことだとは思わない。シェーラがよく言っていた…自分の弱さを認めることで、人は周囲に対して優しくなり、そして強くなれるのだと————」

 

 魔界とは真逆の社会性をもつこの人間界というものには到底馴染めそうにないと日々感じているロンではあるが、バランの言葉を聞いて、そうした精神を人間たちが重要視する理由については理解した。

 

「俺はこのランカークスの村が好きだ。ベンガーナ国の中では一番お金がない村だと言われているが、みんな大地の恵みを大切に毎日生きていて————なにより、こんな俺でも受け入れてくれる優しい人たちが多い。だから、この村に危害を与えるような輩を俺は絶対に許さない。たとえ、ロンでもだ」

 

 バランに鋭い眼差しで睨まれたロンは、目の前の少年の言葉を聞きながら思った。

 

 この少年は、自分を人間だと思っている————しかし、実際は竜の騎士だ。その使命に目覚めた時、いやがおうにも戦いに駆り出され、この村での生活などできなくなるだろう。もし自分がバランの代わりに竜の騎士になることができたなら、何のためらいもなくこの生涯を戦闘に捧げるのだが…竜の騎士としての宿命は、この少年にとってあまりに残酷な現実かもしれない————

 

「しかしバランよ…その感情的な部分こそが、お前の致命的な欠点だ。それを克服しない限り、いくら修行したところで剣士として使い物にならんぞ」

 

 その言葉に、バランは作業の手が止まった。

 

「…ロンのいうとおりだ。俺は、怒りが湧いてくると自分を抑えられなくなる」

 

 バランはロンの方を向いて言った。困惑と憤りと悲哀とが胸の内に入り混じった少年は、14歳らしからぬ複雑な苦悶の表情を顔に刻んだ。

 

「どうしたらいいんだ…ロンは、どうしていつもそうやって冷静でいられるのか、教えてほしい…!」

 

 妙な質問をされたものだ、とロンは思った。自分が「冷静である」という自覚もなければ、なぜ今の自分の性質が出来上がったかなど考えたこともなかった。

 わからない、と一言で返すことは簡単だが、この少年のあまりにも純粋すぎる眼差しに、何かしらの答えを返さなければいけないような気がした。

 

「…そうだな、魔界において我を失えば、すなわち死に直結する。生まれた瞬間から常に生死を分ける瞬間と隣り合わせだと思えば、心を乱す余裕などなくなる。いわば、自衛本能とでもいうべきか————250年以上もそうした環境で生きていれば、嫌でも冷静になるのかも知れんな」

 

 いつでも死と隣り合わせ…一瞬の油断をも許さないほどに生命の危機を感じる魔界とは一体どんな世界なのか、とバランは思った。この男が強い理由は、そうした極限の状態で長年生きてきたからだということか————

 

「あとは、経験を積むしかあるまい。どんな奴でも経験を重ねれば余裕と落ち着きが出てくる。手っ取り早いのは旅に出る方法だ。慣れ親しんだ場所から出て、想定外の出来事に何度もぶち当たることで度胸がつく。そうすれば、感情がぶれることもなくなるだろう」

 

「旅————か」

 

 バランは、村の一員として農作業や大工作業などの仕事を日常的に手伝っており、村の年間行事が彼の人生そのものだった。実際に、ランカークスでは村の中だけで一生を終える人間も少なくなかったため、そこから出て旅をするなど考えたこともなかった。

 

 ロンは魔界にいた頃、神魔剛竜剣を探す旅に出ていた時期があったというが————自分は今のところ、旅に出るだけの明確な目的というものは何もない………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 小屋の中でそんなやりとりがなされている頃、ベンガーナ城での魔術師会議を終えたシェーラが、瞬間移動魔法【ルーラ】によって二人の住む小屋の外に降り立った。

 積雪を踏みしめつつ小屋の扉へ向かって歩く彼女の視界の隅に映ったものは、本来小屋の中にあるはずの物置棚が大きく破損した状態で、屋外に廃棄されている様子だった。

 

 何があったのだろう、とシェーラは思った。バランには幼少期より「物を大事に長く使うように」と教えてきており、よほどのことがなければ彼が自ら家具を取り壊すことなどありえないが…。

 あるいは、ロンと喧嘩でもしたのだろうか。種族の異なる者同士が同じ屋根の下に暮らせば、 互いの価値観の相違から衝突することもあるだろう。多少のことは目をつぶってあげなければ————それにしても随分と派手に壊されたものだ……そう思いつつ廃棄された棚に近寄った瞬間、彼女はその棚板の背面に「あるもの」を見つけ————シェーラは思わず眉をひそめた。

 

 

「確かに、ロンの言う通りかもしれない。だが俺は…旅に出る理由がない」

 

 バランがそう答えたところで、小屋の扉を軽く叩く音が聞こえた。バランが作業を中断して入り口の扉を開けると、そこには彼の養育者であるシェーラが立っていたが、彼女はいつになく固い表情で少年に言った。

 

「バラン、この外に置いてある物置棚のことですが…」

 

 バランは、昨日ロンと挌闘して壊してしまった棚について追及されていると思い、小屋の外に出た。

 

「シェーラ、わざと壊したわけじゃないんだ、これは————」

 

 バランが事情を説明しようとすると、彼の保護者は首を振った。

 

「そうではありません。あの棚の裏板にあるものをよくご覧なさい」

 

 そういって、シェーラは屋外に放置された棚を指差した。バランが棚に近づいて見ると、そこには————廃棄した本人である彼の記憶にない痕跡がそこに付いていた。

 

 棚の背面に、血で書かれた文字が数行に渡り綴られている。それはバランの見たことのない形象の文字だった。

 

「…これは魔族文字ですね。おそらく、どこからかの通信呪文によって刻まれたものでしょう」

 

 二人が会話をしていると、その背後から人の気配がした。青肌の魔族の男が小屋から出てきたのに気づいたシェーラは、彼に尋ねた。

 

「ロン、ここに書いてある内容が分かりますか」

 

 ロンは棚板に書かれた血文字を一通り眺めると、わずかに眉を上げ、押し黙った。そして不意に身を翻すと、二人に背を向けたまま無言で森の中へ歩き去っていった。

 

 バランは遠ざかっていくロンの背中に向かって叫んだ。

 

「どこへ行くんだ、ロン!」

 

「…散策だ。日が暮れる頃には戻る」

 

 足を止めて肩越しに返事したロンは、そのまま二人の視界から姿を消した。

 

「ロンはいったいどうしたんだ…」

 

 同居人の行動が理解できないバランだったが、シェーラの方を見ると、彼女は依然として冷静だった。

 

「おそらく、ここに書かれた内容は…私たちには知られたくないものだったのでしょう」

 

「聞かなくていいのか!?もし、魔界からの通信呪文だったとしたら…ロンは…!」

 

 胸の内に沸き起こる疑惑を止められないままロンの後を追いかけようとしたバランを、シェーラは呼び止めた。

 

「およしなさい、バラン。誰でも他人には話したくない事情というものがあります。一緒に住んでいる以上、彼の権利も尊重してあげなくてはならないでしょう」

 

「だけど…!」

 

「よく覚えておきなさい。他人との信頼関係は、こつこつ長い年月をかけて築き上げていくものですが————失なうのは一瞬です。これからあなたは、彼から剣を教わる立場になるのですよ。今ここで関係を悪くしてはいけません」

 

 シェーラの言うことは正しいと思ったバランだが、やはり一抹の不安が残る。その様子を察したのか、シェーラは少年の肩に手を置いた。

 

「大丈夫、もし何か起きた時には、私がなんとかします。ですから、今は彼を信じてあげましょう」

 

「…わかった」

 

 シェーラに絶対的な信頼を置いているバランは、気持ち的には納得していないものの、彼女の言葉に従うことにした。今まで彼女が下した判断に間違いがあったことは一度としてなかったのだ。

 少し落ち着いた様子の少年に安心したシェーラは、自らの脇に下げていた荷物袋から何かを取り出した。

 

「それよりバラン、今日私は、これをあなたに渡す為にここへ来たのです」

 

 そう言うと、シェーラはバランの頭から首飾りのようなものを首元にかけた。

 

「この先、ランカークス村に魔族狩りを目的とした冒険者たちが集まってくる可能性があります。それで先程、この森の入り口一帯に幻影魔法(マヌーサ)をかけました。おそらく、これでしばらくはこの小屋まで辿り着ける者はいなくなるはずですが————この護符(アミュレット)は、そうした魔法を無効化します」

 

 つまり、バランだけは幻影魔法の影響を受けずに、村と森小屋とを行き来できるということだった。

 

「この護符(アミュレット)は幻影以外にも、様々な魔法や災いから持ち主を守護します。本当はあなたが成人の儀を終えてから渡す予定でしたが、今から持っておくに越したことはないでしょう」

 

 このギルドメイン大陸では、子供が成人を迎える際、親から装身具を受け継ぐ習慣がある。名前に名字がないこの世界においては、その装身具こそが家系の出自を証明するものであったためだ。それは指輪や腕輪、首飾りであることが多いが————この護符(アミュレット)も、まだ赤子だったシェーラが教会の前で捨てられていた時に一緒に添えられていたという。おそらく生き別れた産みの親が自分に授けたのだろう、と彼女は語った。

 

 バランは自分の首にかけられた護符(アミュレット)を手に取ってみた。その飾り部分には、何かの紋章のような図形が描かれている。彼女の信仰するギネ神の[[rb:象徴 > シンボル]]とも異なり、バランの見たことのない形だった。

 バランはふと俯いて目を閉じた。

 

「シェーラは…いつもこうして俺のために気遣ってくれて…なのに俺は、シェーラに何も恩返しができていない…」

 

 申し訳なさそうに僅かにうなだれる少年を慈しむように、シェーラは優しく笑みを浮かべた。

 

「そんなことを気にしていたのですか?成人まできちんと面倒をみるのが保護者の役目です。あなたが負い目に感じることなど何もないのですよ」

 

「でも俺は、今までいろいろ問題ばかり起こしている…この間だって…!」

 

 先日の傭兵との一件をバランが思い切って打ち明けようとしたとき、シェーラはその言葉を遮るように言った。

 

「実は私も————孤児院時代は結構な問題児だったのですよ、バラン。森の中で怪我をした魔物(モンスター)を拾っては教会によく持ち込んでいたので、当時の神父や村の大人たちをいつも困らせていました。ジャンクに聞いてごらんなさい、その辺りの騒動話をきっと沢山してくれますよ」

 

 少しばかり冗談めかした彼女の口調が、バランにはかえって切なく感じた。自分が今までどんな騒動を起こしても、彼女は決して自分を責めることなく、常に味方になってくれた————そのことが、どれだけありがたかったか。

 

 孤児院にいた頃、バランはいじめられていた村の子供を助けようとして、勢い余っていじめっ子の腕を骨折させたことがあった。そのいじめの加害者である少年は、村の領主の息子だった。子供が骨折させられたと知って怒り心頭の領主に対し、シェーラはその息子を回復魔法【ベホイミ】で完治させたのち、ベンガーナで最も人気が高い赤毛の名馬を市場で買い取って、領主の牧場に贈った。金で解決したというよりは、良馬に目がないランカークス領主の嗜好性を熟知しており、それが最も後腐れなく騒動を早く終わらせる最善の方法だというベンガーナ流の処世術を心得た判断だった。

 

 そしてバランに対しては、いじめられていた子供を助けたことについての感謝を伝え、今度からはいじめを止める時には村の大人たちを呼ぶように、と軽く注意したのみに終わった。

 あとから知ったことだが、シェーラが領主に贈った名馬は、ベンガーナの富裕層でもなかなか入手できないほどの高価な希少馬だったという。彼女が一体どうやってその馬を手に入れることができたのか————バランが本人に尋ねると、彼女はどこか誇らしげな笑みを湛えてこう言った。

 

 ————私はあなたと血は繋がっていませんが、実の親以上に親であるつもりです。親というのは子どものために奇跡を起こせる生き物なのですよ……

 

 

 

「それにしてもバラン、また少し背が伸びましたね。ちょっと前まで私の肩より低いくらいだと思っていたのに…この分だと、成人後はロンと並ぶほどに大きくなるかも知れませんね」

 

 シェーラはそう言ってバランの肩にぽんと軽く手を置くと、築炉の作業進捗を確認するために小屋の中に入っていった。そして前回訪問した時よりもかなり小屋の内装が変化しているのをみて、シェーラは感嘆した。

 

「予想以上に作業が進んでいるようですね。それに、火炉を設置した後のことを考えた工夫もされていて————やはりあなたに設計を任せたのは正解でした。これならきっとロンも、満足してくれるはずです」

 

 自分の仕事を褒められて少しばかり気恥ずかしくなったバランは、照れ隠しをするように言った。

 

「ロンも一緒に手伝ってくれているおかげだ。ロンは魔界で鍛治職をしていたらしいから、細かい部分は彼に聞きながら作業している。————それと、ロンは俺の感覚では理解できないところもあるけど…とても強い男だ。この俺の拳を片手で受け止めたし、この大陸の武人とはまるで格が違う。シェーラが俺の剣術の師にロンを選んだのは、正しかったと思う」

 

 シェーラはそのバランの言葉を聞くと、にっこりと微笑んだ。

 

「なるほど————外に廃棄されたあの棚は、やっぱりあなた方が一問着起こした痕跡だったのですね。でもこんなご時世ですから、喧嘩もほどほどにしてください。ロンを村に内緒で匿っているということを忘れてはなりませんよ」

 

 自分と同居人が起こした不始末を養育者に見破られた少年は、少し気まずそうに顔を赤らめて右手で頭をかいた。そんなバランをよそに、シェーラは一人思った。

 

 ロンがあの棚板に書かれた魔族文字による通信文を見て急に去っていったということは、あの文章はおそらく魔界から彼に向けて発せられた内容に違いない。

 城の魔術師たちは、逃走中の魔族は魔王軍による偵察ではないかと疑いをかけているが————ただ、それが目的であればもっと低級の魔物を地上に派遣するはずである。ロンほどの技量をもつ武人なら、魔王軍の中でも将軍かそれ以上の重役に登用されるに違いなかった。

 おそらくロンは、魔王軍とは関係のない、彼自身の目的によって、この人間界にやってきたのだろう————

 

 バランへの用件を済ませ、少年に別れの挨拶を告げて小屋の外に出たシェーラは、廃棄された棚板に書かれた魔族文字を再び眺めた。

 ロンが、この内容について自ら語るときが来るのだろうか————それには時間はかかりそうだが、やはり彼との信頼関係を築いていくしか方法はない。

 ロンが姿を消していった森を遠く眺めながら、シェーラは瞬間移動魔法で再び宮廷へと帰還していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その頃ロンは、小屋から遠く離れて森の奥深くへと歩き続けていた。

 厳冬期の間に長く降り続いた雪が、ここ数日の極寒で溶けることなく凍結したために、足を進めるごとに氷の亀裂音が木立に響き渡っていく。

 森の中に漂う空気は澄み渡っているが、息を吸うたびに肺に鋭い冷気がしみた。

 

 <生きていたというのか————あの連中が………>

 

 そう思った瞬間、吐き気を催すほどの嫌悪感がロンを襲った。

 

 250年以上前の記憶が蘇る。忘れもしない。幼い自分が生贄として儀式に捧げられたあの日のことを。

 この色どり豊かな自然に満ちた人間界にやってきて、このランカークスの森を包む純白の積雪を眺めながら日々を過ごしているうちに、束の間ではあるが、自分は呪わしい運命から逃れられたような気がしていた。しかし、あの通信文を見た瞬間、その幻想は脆く打ち砕かれた————

 

 しばらく歩いていると、せせらぐ小川がロンの目の前に現れた。そこは山脈の湧水が溜まる場所であり、おそらくバランは毎日ここへ生活用の飲み水を汲みに来るのだろうと思われた。ところどころ凍結しているが、太陽の差し込む場所には水が流れており、精霊たちが戯れているかのように光の粒子が踊っている。ロンはそこに吸い込まれるように川辺へと歩み寄った。

 川面の氷によって映しだされた自分の顔を視たロンは、この無垢で美しい世界にふさわしくない存在だと思った。自分が異世界から来た魔族であることを、こうした形で思い知らされるのはいささか皮肉に感じた。

 

 湧き水の通り道を形作っている大きい岩場に腰掛けると、ロンはふと川の中に手を入れた。その水は、自分を拒まんばかりに驚くほど冷たかった。

 

「そうだな————こんな呪われた魔族の俺をこの世界に受け入れてもらおうなんぞ、甘い考えだった…」

 

 ふっと自嘲気味に笑ったロンは、岩場に背中を預けた。

 

 自分の居場所など、どこにもない。そんなことは魔界にいた頃からとうに知っていた。しかしなぜ今、その事実がこんなにも自分を追い詰めるのだろうか————

 

 そう思った瞬間、胸の痣が大きく疼くのを感じた。心の内に迷いや不安が生じるたびに感じる現象だ。激しくなっていく胸の動悸をおさえるために、ロンは強く心をもち、己の中にうごめく闇を無理矢理に小さく押し込めて封印した。自分の肉体にこの痣がある限り、弱気な心など微塵も生じさせてはいけないのだ。

 先ほど小屋でバランに「なぜそんなに冷静でいられるのか」と問われたが、おそらく、自分に刻まれたこの呪いの刻印に乗っ取られたくないという危機感こそが、自分を冷静たらしめるのかもしれない————

 

 

 一体どれほどの時間が過ぎただろう。気がつけば日が暮れはじめ、吸血蝙蝠(ドラキー)の甲高い鳴き声が山脈の遠くでこだまするのが聞こえた。あの声がするときは、夜行性の魔物(モンスター)たちが活動を始めることを示す自然界の合図で、それにあわせて村人たちも夕食の準備をするのだと、バランが教えてくれた。

 

 ————小屋に戻ろう。

 

 単なる居候先ではあるものの、この異世界の地で「帰る場所がある」ということがありがたいと感じたのは、ロンにとってこの日が初めてであった………

 

 

 

 シェーラの去った後、ロンの不在のまま築炉作業を進めていたバランだったが、吸血蝙蝠(ドラキー)の鳴き声が外で響き始めたのを聞いて、夕食の準備に取り掛かった。暖炉の火力を上げるために追加する薪を取りに小屋の外へ出たとき、ロンが森の奥からこちらへ戻ってくる姿が見えた。

 

 シェーラの言う通りに、バランは何事もなかったふりをして同居人の魔族に接した。

 

 この日の食卓に並んだ、扁豆(レンティル)と野菜を煮込んだ汁物、そして大麦と小麦を合わせて練って伸ばした生地を暖炉で焼いた薄焼きパンを夕食として摂っている間————

 バランは何も聞かなかった。そしてロンも、何も言わなかった。ただ沈黙だけが二人を包み、食後はごく事務的に明日の築炉の作業内容だけを打ち合わせた。

 

 

 就寝までの間、バランは暖炉の前に石臼を設置して、小麦挽きの作業を始めた。一方、ロンは「星を見てくる」と少年に告げて、小屋の外に出た。

 空を見上げると、無数の星々が細かな光の粒となって天に振りまかれているのが鮮明に見えた。人間界には、この星々の動きから未来や運命を予測する学問があるらしいが————魔族である自分には縁のないことだ。魔族は己の力量が全てであり、強さこそが自分の未来を切り拓くための唯一の手段なのだ。

 

 ふとロンは、小屋の外に廃棄された棚を————改めてそこに刻まれた魔族文字を眺めた。森の散策から小屋に戻ったとき、この内容についてバランに問い詰められることを予想していたが、意外にも少年は何も聞いてはこなかった。

 

 星明かりが棚板にも降り注がれ、そこに書かれた魔族文字を神秘的に浮かび上がらせていた。ロンは火打ち石を使って火口(ほくち)に着火させると、それを棚板に向けて放り投げた。一晩放置されたことで雪の湿度を含んでしまった木製の棚にはなかなか炎が回らず、燃えつくすまではいかなかったが、そこに書かれた魔族文字の羅列を消すだけの勢いにはなった。

 

 

貴き生贄よ 沈黙は今解かれた

破壊神の姿は今こそ取り戻され

理想と称して野心を貪る者に無限の虚無を

繁栄と称して歴史を顧みぬ者に永遠の混沌を

人及ばぬ次元の果てに還元される流れとなるべく

万物は導かれるだろう

 

神の御手を乗せられた者よ

我らが滅びの盟約を再び契りし刻まで

その魂に安らぎを与えるがよかろう

 

 

「………俺は誰の指図も受けん。相手がたとえ神であろうとな。追えるものなら追ってくるがいい…俺の剣で全てを断ち切り、どこまでも生き抜いてみせる————」

 

 そう独りごちたロンは、近くの木にもたれかかると、腕組みをして目を閉じた。そして自ら放った炎の揺らめきが棚板の全ての文字を灰に変えるまで、月夜の中に身を委ねた。

 

 

 

(続)

 

 

 

 

 

 




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