口に含んだ飴を転がし、トレーナーはパドックを眺めていた。
場内のざわめきはいまだ衰えず、しかし、出走するウマ娘たちのそんなハプニングに物怖じせず集中するものが大半だった。
ゴールドシップが、仕事は終わった、と言わんばかりの背中で医務室へと帰っていき。スペシャルウィークはスタッフに背中を押されて控室行きだ。
「おいおい、さすがにスペシャルウィークじゃ挑むの早いって、何考えてるんだゴールドシップ」
「お、いた。おーい飴っち。こんなところにおったんかいな」
タマモクロスが手を振ってかけてきた。
「飴っちってなんだよ。タマ姐さん」
「トレーナーのことやで、いっつも飴なめているトレーナーは他におらんからな。って、あんたの姐さんちゃうわっ」
流れるように右手にためを作ると、鞭を打つように突っ込みを入れた。本日もこのタマモクロス、キレッキレである。
それにしても、と続けている。
「大変なことになったな。ゴールドシップは下剋上を決める下馬評1位やったのに、棄権て」
「本人も悔しいだろうな。あんな表情初めて見た。それでも、代理にスペシャルウィークを指名した」
「ウチ、そのスペシャルウィークの走り知らんねんけど。どうなん?」
「育てがいはある。が、まだ届かない」
「そうなんや。いやな、うちのツインターボが、ターボもでる、と暴れおってな。ウチのトレーナーはなだめるのに大忙しや」
それはご愁傷様と、心で思ったがトレーナーは口には出さなかった。
その眼は、自身と契約しているウマ娘メジロマックイーンと、そこから5m程離れたところに居るトウカイテイオーに注がれていた。
「今日は、ずいぶんと静かなもんだな。あいつ」
そのトレーナーの言に、いやいや、と手を横に振ってタマモクロスが答える。
「あれは静かちゃうよ。研ぎ澄ましているんや。降りてみたら飴っちでもわかる。けど触れたらあかんよ、絶対。あの猛獣。あれは虎やな。小さな虎。あの後どうなったかちぃっとばかし不安て思うとったんやけど、まさかあそこまで牙を研いでいたとは」
「そうなのか、他の連中はあまり気にしていない様子だが」
「それでも届かんのが200階の壁や。まぁ、メジロマックイーンとナイスネイチャあたりは真面目に勝負する気でいそうやけど。他の100階連中はまだ本格化しきってないな。たぶん。だから牙に気づけへん」
スペシャルウィークが出てきた。体操着にゼッケン1番をつけている。そのまま、研ぎ澄ましているトウカイテイオーに一直線に向かっていった。
その後、スペシャルウィークはサイレンススズカに近づこうとしている、が無視されているのか、遠目からは反応が芳しくないように見える。
なるほどと、トレーナーは飴を一度、がりっと噛んだ。
「けど、200階から出たのが比較的大人しめの奴らで良かったな。ブライアンは我関せずやろうし。あんなん近くに居たらマルゼンスキーやスーパークリークあたりやと絶対ちょっかい出してたで」
「タマ姐さんはどうなんだ」
「・・・ウチも抑えきれんかもしれん」
発馬機に、一人ずつ、入っていく。
レース開始までまもなく、だ。
「誰が勝つ?」
トレーナーが聞いた。
「100%、メジロマックイーン。2着はナリタブライアンかマヤノトップガン。ナイスネイチャが次でサイレンススズカが5着やな。6着にトウカイテイオー。そのあとはしらん」
間髪いれずにタマモクロスが答えていた。
特別レースではなく、しかも気勢のノリ方で読みやすい、あらかたわかる。とタマモクロスは言った。
「トウカイテイオーでは掲示板に届かないか」
「届かへんやろな~。サイレンススズカが調子崩してそうやけど。それでも100階連中もおる中で6着は中々のもんやと思うけどな」
「・・・」
「さぁ、始まるで」
各ウマ娘、一斉にスタートを切った。
出遅れたウマ娘は、いない、綺麗なスタートだった。
サイレンススズカが大外から飛び出し先頭に立った。2番アストンマーチャンとミホノブルボンが続く。
4番手にメジロマックイーンがいる。
メジロマックイーンが肩越しに後方を向いた。一団が壁と迫る。
その光景を見て、メジロマックイーンの口元が緩む。どこまでも真っすぐな勝ち気の意識を背中に受け止めて、すぅっと目を細めて笑っていた。
「ふふっ。久しぶりですわ。こんな心躍るレースは。皆さんの気迫が心地よいです。・・・ゴールドシップさんのことは残念でしたが、スペシャルウィークさん。貴方の走り、期待してますわ。それと」
中盤に位置するトウカイテイオーと眼が合う。この集団の中で、確かに、はっきりと。
「すぐに噛みついてくるとおもったのですが、後ろに下がってますわね。何か仕掛ける気でしょうか」
レース開始前の状態を思うとこのまま何もしないわけがない。とはいえ、このレースは200階クラスも数人でている。誰かが行く手を遮る可能性は非常に高い。
自分の元までは来ないかもしれない。それでも、何かをしてくれるという期待があった。
前方を向いた。独特なピッチ走法でサイレンススズカに迫るアストンマーチャンがいる。一番は譲らないとさらにサイレンススズカは速度を上げていく。この2人が序盤のペースを作っていく。
5番手にはエルコンドルパサー、キングヘイロー、グラスワンダーが駆けていた。
トウカイテイオーが現在9番手、スペシャルウィークがそのすぐ後に着ける。
先頭からしんがりまでやや縦長になって進んでいく。
最後方付近に18番ナリタブライアン、14番ナイスネイチャと15番マヤノトップガンがいた。
1000m地点を過ぎたときタイムはまだ58秒台。かなりのハイペースだ。
「うわぁ。みんな気合入っているね。キラキラしてる」
と後方から見ているマヤノトップガンが楽しそうだ。
「とはいえ、まだ青い連中ばかり。全然乾きが癒えん。先頭集団が落ちるのが目に見えてる。残り400mになったら言ってくれ。そのあたりで仕掛ければ勝てるだろう」
「ハイハイ、あんたが手抜いている間に、先いかせてもらうわよ」
ナリタブライアンは少し気だるそうだ。
その隣からナイスネイチャがペースを上げて離れていった。一緒に、マヤノトップガンもポジションを上げていく。
大外からナイスネイチャとマヤノトップガンが上がっていった。アイネスフウジン、マチカネタンホイザ、スペシャルウィークを超えて、トウカイテイオーを追い越した。
「・・・っ!」
ナイスネイチャの走りに釣られるように他のウマ娘たちも、脚を速めている。
トウカイテイオーとスペシャルウィークに動きはない。順位を3つ落としている。
自分についてくるウマ娘の気配を感じて、ネイチャが瞬きを二回した。
「うっわ、この大外での煽りでもない走りに乗っちゃダメでしょ」
その様子にマヤノトップガンが、うなずき、
「皆ほんと正直だね。フェイントとか陽動したら全部ひっかかっちゃうんじゃないかな」
「100階序位の連中はそれでよしとしても、それじゃあサイレンススズカとメジロマックイーンが捉えられない。だから」
ナイスネイチャの雰囲気が変わった。
「ネェちゃん。どうするの?」
「ネイチャ、だ。アタシは。勝つつもりでいるよ。最近1番遠いし。だから、ここから本気モードで行かせてもらう」
ナイスネイチャの瞳に、オーラが宿った。
1200m地点を経過した。未だ、勝負の行方は、わからない。
スタンドから観戦していたタマモクロスのウマ耳が反応した。ナイスネイチャの気配の変化に、だ。
「うっわ。マジかぁ。そりゃあ、えげつないってネイチャ」
その声を吐いたのと同じくして、レース場を黒い霧が包み込む。その光景はこの場にいる中層以上のトレーナーと一部のウマ娘にしか見えていない。
隣にいるトレーナーも冷や汗をかいている。
「あれがナイスネイチャの『馮(ひょう)』」
「本格化している子少ないのに、狙いはサイレンススズカやな。ここで追い落とす気や。巻き込まれた子は堪ったもんやない」
本格化したウマ娘が目覚める特殊能力『馮』の一つ。それをスキルというウマ娘もいる。ナイスネイチャの馮は、場を支配する力の応用だ。空気の抵抗を増やし、まるでコールタールの中にいるかのような息苦しさと重さを与え、スタミナと速度を大きく消耗させる。
本格化していないウマ娘のなかで、この馮に抵抗する力を持つ者はほとんどいない。抗えない。それは200階クラスの使い手でさえ状態によっては簡単にはできないことだから。
2番アストンマーチャンが最初に脱落した。すでに体力を使い切っている状態で、ナイスネイチャの馮を堪えられる力がない。
ミホノブルボンも歩幅が狭くなり、一歩ごとに目に見えて遅れていく。
エルコンドルパサー、キングヘイロー、グラスワンダーの腕の振りが鈍い。その他のウマ娘たちも足が上がっていない。
走りに苦戦するウマ娘たちを横に、ナイスネイチャとマヤノトップガンが外から先頭へと詰めていく。
サイレンススズカは抗う、が、それでもややペースを落としていった。
「しっかし、スキルの範囲がひろがってるやないか。ネイチャ。0.8いや1ハロンは届いとる。ありゃ、レース中に効果範囲外には逃げられへんな」
「サイレンススズカはペースが落ちているが、それでもまだ1番。マックイーンは2番手か。これはもう200階クラスの独擅場か」
「ブライアンも最後に追い込む気やろうし。まだレースの半分も過ぎとらんが、しゃーないわな・・・・いや、まだ生きのいいのが残っとるみたいや」
「・・・トウカイテイオー」
外から能力を使用し、遅くなった集団を一気に捲くし立てるナイスネイチャ。その馬群の切れ目を縫うように、トウカイテイオーが中から姿を現した。
トウカイテイオーも、もちろん霧の影響は受けている。
しかし、この約1か月、この日のためだけに鍛えた特訓が、驚異的な集中力となって肉体を超えた走りを維持している。
小柄な体をしていることも霧の影響を少なくしていることにつながり、速度が落ちない要因だった。
ナイスネイチャの霧を突き進んでいく。そして、ナイスネイチャに追いついた。
「ついに噛みつきおったな。あの虎っ子」
本格化をしていないウマ娘が一矢報いる姿に、タマモクロスのしっぽが無意識に、ぱたぱたと、振れていた。